ちび庭日記

借り家住まいのちいさな庭の植物達を中心に、身近に感じたことを載せてゆければいいな~と思っています…(^_^)。

ダリア復活

2010年10月13日 | 読書録

うわ~い~っ!ふっかつしてきた~!すご~い~っ!


夏にじりじり焼かれながらも気怠げにぽつぽつ咲いておりましたダリア達でしたが。


ここ数日、見違えるように大輪の花が。しかも、こぼれそうに大きな蕾がた~くさん。





ようやく下がった気温とたっぷりの雨のおかげで,ここ数ヶ月の強烈な直射日光で蓄えられてきたパワーが一気に全開した感じ。本当,植物って発電機みたいだわ~。


同じくして,日照りと虫害で見る影もなかったケイトウも別物のような美しい姿に。


長い水涸れを絶えてきた,雑草に消え入りそうな菊もここに来て急に背を倍に伸ばし,蕾をたくさん始めました。


おりしもむせ返るほどの満開のキンモクセイの香りに包まれ。一夏の苦労が報われる思いでございます~。


さて。気がつけば10月も半ば。秋の夜長でございます。といえば読書の季節。図書館で,またまた庭的におもしろい本をみつけました。


上田篤「庭と日本人」新潮新書 2008年。


ネタバレすると申し訳ないのであまりかけませんが,庭に使われるのが「なぜ白砂か」というところでは、予想に反して,というか私の単純な推測をはるかに超えて,衝撃的なものでした。


おお、なんと日本のオリジンにまでさかのぼる話だったとは。ま~じですか。いや~,この方はどちらかといえば建築系の方なので,随分大層な説だなあ~,と半信半疑で読み始めたけど,お~お。しらんかった~。いや~,はるか古代にもご先祖様達は大スペクタクルを繰り広げていらっしゃったのですね~。


そして、「神泉」の意味。「前栽」の考え方。なかなか。時折,そお?と思うところもなくもないですが,全体的には,根っからの庭系の人でないだけに、分析する視線が新鮮です。いや~。ちょっと庭の見方が変わったかも。いずれにせよ、日本の庭というのは日本人の感覚のふか~い根源にあるものなんだな~,といたく感心したのでございました。





もうひとつ,以外だった本。


本多静六 「成功するために必要なシンプルな話をしよう」知的生き方文庫 三笠書房 2010年。


さて,このお名前を見て,ぴん!と来た方はいらっしゃいます?分かったあなたはかなりの庭マニア。そうです。日比谷公園を設計した方ですね。それは知っていたけれど。


私も本屋の平台で見た時は思わず「??? なに?」と思わず本の後ろのプロフィールを確かめてしまいました。


「東大教授,日本初の林学博士,国立公園の設置にも尽力」ふんふん。「山林、土地,株の売買等で巨万の富を築いた蓄財家としても有名」(同プロフィールより引用)ふ、え、ええ~っ!!!そ~なの~?!!!


か、かう。なにそれ。よむ。よむよむ。ふ~ん、しらんかった~。


いや~、こ~いう本書く人だったんだ~。ふ~ん。


おもしろいです。いや、まあ、ハウツー本であることは間違いないんだけれど,う~ん。人物が、やはりただ者ではなかったんだな~。単に誠実、努力家なだけではない。昔の良き日本人というのでしょうか。久しぶりに矜持という言葉を思い出しました。ああ、でも、そんなストイックな生活,わたしにはできないな…。こんど日比谷公園を歩く時は,そんな時代の面影に思いを馳せることでしょう。





さて。そして日々の生活。日光に行ってきてご機嫌な庭主。なかなか見応えがありました。なかなか京都みたいな感動するお庭って、見られないんだよな~,と思っていましたが、久々に良いお庭を堪能しました。


しかし、京都京都って,庭主はなぜ京都がいいと思うのか?単にブランドだからか…?とはたと考えてみましたが。ようやく分かった気がします。なぜ,他の地の庭がいつもくすんで思えるのか。


京都だから,ではないのです。庭を清め,建物を清めることも毎日の仕事としてカウントしているから。京都の庭が、家屋が美しいのは,毎日毎日,水を打ち,花を活けなおし、あがりはなを拭き清めているから。


活け花は単なる飾りや趣味ではないのです。生活よりももっとポジティブな,来客を向かえるための必然の礼儀でありしつらえなのです。だから、しおれた花が入っていることはないし,まして花瓶が埃をかぶっていることはない。


そんな手間を手間とせず,「いうまでもない仕事」としてかけているから。


でも、現代では,店のディスプレイに「かける手間」はない。植えたら植えっ放し。活けたら活けっ放し。いくら花屋さんがやってくれるのだとしても。ふと、現代の文化と呼べるものはなんだろう,と,考えてしまいました。余裕がないから文化もないの?やっぱり,ブログとか?アニメとか?う~ん、1000年後の人をも魅了するような文化って,なんだろう………。


☆今日のちび庭気温:18~23℃ いよいよ今日ですね!チリ,がんばれ!ど~してそんなに気になるのか、世にもっと関心を持つべき悲惨な状況はゴマンとあるだろ~がとつれに不思議がられますが,落盤という未曾有の難問に人々が叡智を結集して挑むという姿にひかれるのでしょうか…ねえ???いずれにせよ皆様の無事をお祈りいたしまする。(^^;)

くっぷり。

2010年02月12日 | 読書録

お久しぶりでございます。はい、元気にしております、ちび庭庭主でございます。


外見は全く忙しいこともないのですが(いや、そーでもないな)、内面も忙しかったとかなんとかいいわけもいろいろあれど。何よりカメラが壊れてからというもの、ようやく直ったものの書こうかと思うと画像が追いつかず。


やっぱ、ブログって、なんとなく画像ありきよね~(わたしにはね)。まあ、とりあえず、山あり谷ありつつもいつもの日常でございます。


そして今日もジャストな画像もなく、いかせていただきます。


お題。「植物のお名前」。





まず、このところ必死で読んでおります本。


ガートルード・ジーキル『ジーキルの美しい庭~花の庭の色彩設計~』平凡社、2008年


http://www.amazon.co.jp/ジーキルの美しい庭―花の庭の色彩設計-ガートルード-ジーキル/dp/4582833853


例によって、図書館で借りたのですが。借りてうきうき。うっとり。ああ、なんて美しい。


ジーキルは、英国の非常に有名な女性園芸家で画家で著述家でもあったという才女。イングリッシュガーデンに色彩設計という概念を持ち込んだひと、という説明でいいのかな。初めてその訳本に触れることができて感激でございます!こんな素敵な本を置いてるなんて、市川市図書館、すばらしい!


そして。これが、読むのがた~いへん。いや、いくらでも流し読みできるのですが。とにかく、花の名前の洪水なのです。


これをね、具体的に書いてある花の一つ一つを思い浮かべながら頭の中でそれぞれの庭のシーンを再構成して読もうとすると。ああ、時間が足りない。なにせ、知らない花もいっぱい出てくる(原本は100年ほど前に書かれたのですから、今は絶えてしまった花も)。


それらの、具体的な色や質感を知りたくて検索し出すともうたいへん。あ~、進まない。あきらめました。あとで索引だけコピーしてめぼしいものだけ調べるか。てゆーか、余裕があったら買いたいなあ。余裕が…できたらね~。


「ドリフト」(同じ種類の花をかためて流れのように植え込むこと)という考え方にはなるほど、と思いました。


そうそう。学校の課題で花壇をデザインしたときに、何となく、花を種類毎の細長いかたまりにずらして列植するって、いいな~、と感じたのですよね。確かあれは、六本木でまだ泉ガーデンが作られたばかりの頃。泉屋博古館の前庭が、様々な緑の植物を短冊状に配してあり、それがとても気に入ってしまったのです。


短冊状の列植が、まるで大地に畑が果てしなく広がるような奥行きを感じさせ、なつかしい里山を見るような、そんな気分になったりして。それで、自分でもデザインに使ってみたくなった、と。


花毎の質感が強調され、隣の植物との対比も鮮明になり、しかもそれぞれのかたまりが自然な感じに混じり合う。小さな花壇だけど、自分が形を決めたにしちゃあ素晴らしい出来じゃないか!と、思わぬ効果に自画自賛。そんな、「目に喜びを感じた」ことをふと思い出しました。なんだか、ドリフトの魔法にかかったようだ…。


しかし。それにつけても、本を読んで舌を巻いたのは、その花の数と多様さ。


だって、100年前ですよ。日本じゃあ明治頃ですよ。


すでにジーキルは、日本の斑入りのタカノハススキを絶賛している。庭にはアジサイやアセビ、アオキもあり(日本種かはわからないけれど)、アフリカや中国、アメリカ大陸の植物も使いこなしていたりする。それも、ちゃんと植生を見極めた上で。


いくら上流階級だから世界中の変わった植物を集めるのもオチャノコとはいえ。さすがプラントハンター王国の底力。


確かに日本もいろ~んな植物があふれているけれど。果たしてそのうちのどれ位を的確に使いこなしているのだろう。ジーキルのなにがすごいって、他国の植物を自国の環境で使いこなしていること。いや~、日本の「ガーデニング」も、まだまだやね。100年後、どうなっているかしら~。


☆今日のちび庭気温:0~4℃ さ、さむいです。やばいです。腰が、足が~。ああ、そんな年ではないと思いたいのに。みなさま、突然寒い日のぎっくり腰には、厳重注意ですよ~!!!(かなり切実…(^^;))

わたくしとは現象であるらしい…よ?

2009年07月12日 | 読書録

さ~あ、いよいよ梅雨明けでしょうか???ど~しますう~?あっついですよお~~~。や~ね~。お肌は焼けるわ頭はくらくらするわ、やってられね~っす…。なんて、言ってる訳にも行かないし。

まあでも、みなさま、ほどほどに、くれぐれも、ほどほどに、お過ごしくださいませね。こんなときには、今年も作ろうシソジュース!!!赤シソの葉っぱを煮出して砂糖を入れて、最後にクエン酸を一振り!どうでしょう!あっという間に鮮やかなピンク。自然のものとは思われぬこの美しい発色!夏はやっぱりこれですね!

さて、疲れて動けない~~~といいながらも、つい手に取ってしまった本をごろ寝読み。こ~れがまたなかなか。一気読みしてしまいました。
福岡伸一「生物と無生物のあいだ」講談社現代新書、2007年。

「生命とは何か?」あるいは、何をもって生命と呼ぶのか?という問題提起から始まるこの本は、ずいぶん科学系読み物にご無沙汰していた庭主にもとても分かりやすく、刺激的なものでした。
すごくがんばって庭主なりに要約してみると…。

今ここに存在しているわたしという生命体は、どっしりとここに座っているように見えるけれど、原子レベルで言えば(細胞レベルではない)、体を形作っているありとあらゆる原子はいかなる瞬間も絶えず次々と入れ替わっており、われわれはその残像を見ているようなものである…「わたし」とは、粒子一つ一つの集積というよりは、それらの粒子が絶えず入れ替わることにより描かれる「流れ」そのもののことである…ってとこかな? 例えて言えば、おそろしい枚数のセル画で組み合わされたアニメーション???。う~、ちょっとはずしたかな。

ここに来るまでにDNAやらウイルスやら、ずいぶん本当にいろいろおもしろいお話があるのですが。いずれにせよ、今日食べたご飯は、単純に28日周期でお肌を整えまたはお腹の脂肪となって蓄積されていると思いきや、思ってた以上にすごい勢いでわたくしの体の隅々で前任者の原子さんと置き換わっているのですね。ええ、心してご飯を食べたいと思います。ああ、生物のなんと美しいことよ。→そうだ。流れだ。いらないものは溜めちゃあいけない。エントロピーの為にもさっさと片付けようっと。

と、いつもよりちょっと変わった方向への読後感を残し、家のお掃除に取りかかった庭主でございました。

さて。7月。去年はそうそう、遠野へ行ったのよね~。今年の夏休みはどおかなあ、なんて、ふっと宮沢賢治をなつかしく開いてみますと。

わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
         宮沢賢治 詩集「春と修羅」序文より

え、ええ~~~~~!?こ、これって。
もしかして、賢治、「生物と無生物のあいだ」、読んでたあ~~~???(な訳ない。)
と思ってもおかしくないほどの、この一致。だって、原子、明滅してるらしいですもん。だって有機が交流して因果応報なんだもん。(こらこら)。

ええ、ネタバレするから詳しく書きませんが。いや~、恐るべし、賢治。
じれったいな、と思った方、読んでみてください。庭主の要約はともあれ、風景がいつもとちょっと違って見えること、請け合いです。

☆今日のちび庭気温:21~29℃ 今晩は蒸し暑いですねえ。そろそろアイスノンの季節かな。(^^;)