病気自慢、不幸自慢、貧乏自慢など非常にマイナーな自慢をする人が居る、高齢者が集まると大抵足が痛いとか腰が、とか血糖値が、血圧がと言う話題になり同病相哀れむと言った話題から仕舞いには「彼方は良いわよ、私なんか」と病気が重いことや色々大変な事がエスカレートする、あれは一体なんなんだ、
病気の方は悲惨になってくるし不幸の方も洒落にならない様な話も有るが「貧乏自慢」の方は結構笑い話になるケースが多い、まあ不幸自慢と組合わさるとちょっと暗い話になるし此れに病気自慢までくっつくと会話が立ち直らない位に暗くなる、が「いや~昔は酷かったね」と笑って話されると(試しに俺もやってみたかったかな?)見たいな話もある。
貧乏は自慢じゃないが筋金入りだった、親が貧乏だと子供が貧乏なのは大人になるまでは当たり前である、大人になって考えると何であそこまで貧乏だったのか疑問も有るがその頃は単純に「内は貧乏なんだ」と言うのがごく普通に自己認識だった、その中には(何故?)と言う疑問は最初から最後まで無かった、
村の貧乏ランクは恐らく2番目だったんじゃ無いかと思うが若しかしたらトップだったかも知れない。
我が家は親父の手作りの家だったが一畳の土間と3畳の板の間、8畳の和室と6畳の藁敷きの部屋に土間が有った、一級下級生のその家は4畳半一間に流しの付いただけの一軒家で其処に親子4人が住んでいた、急な山肌に貼り付ける様に建っていたその家の入り口まではすれ違う事の出来ない道で四畳半に直接入る構造だった、
しかし我が家の食生活と言えば昭和29年の小学校では珍しい「欠食児童」だった、未だ給食が無い時代だから弁当が無いと昼休みに教室に居るのは居こごちが良くないので時分だけ校舎の裏に出ていた記憶がある。
定かではないが一年生は未だ藁草履だったと思う、後半か二年生になった年にゴム靴と言うのを買ってもらった、赤いゴム製で型押しで作った物で全てゴムだから蒸れる事は凄い、
冬になっても履き古した足袋だった、靴下と言う物を履いたのは4蚊等年生位だったろう、
「おしん」では大根飯だったが我が家は芋飯である、取敢えず多少でも余裕のある時は麦飯で押し麦と言う平べったい真ん中に黒い筋のある麦を入れる、此れで私は健康になったのだ、
麦が無くなると時々サツマイモのサイコロに切った物が混ざる、徐々に芋の割合が増えてきて最終的には100%芋になる、要するにふかした芋だけである。
全体産まれ育った村は質素で(と言うより貧しくて)万屋が5kmに一軒ずつ程度の所だから当然魚屋とか肉屋は無い、無論八百屋は商売にはならないから最初から無い。
私は村を離れるまでに家で食べた肉は卵を産まなくなった鶏か飼って居たウサギ、近くの鉄砲撃ち(本職は農業だから誰も猟師とは言わない)が獲って来たイノシシか山鳥だった、
魚は味噌漬けの鯖か鮪の切り身、そして秋になると取れすぎた秋刀魚をトラックに満載して売りに来た時にのみ尾頭付きが出る、雑巾バケツにスコップで山盛りに入れて50円程度で売るので大変な量になるが冷蔵庫など村の店ですら氷式である、
琺瑯引きのパレットに交互に並べ塩を撒いて重ねておく、こうなると2週間程度は朝晩と秋刀魚になる、野菜は自前だが調味料は買わなくちゃならない、お袋が「どう言うわけか無くなる時は味噌から醤油から皆無くなる」と言っていたが自分でやって見ると良く解る、全て代用するから当たり前である。そんな生活を15歳まで続けた、12歳からはお袋が居なくなったので夕飯の支度やら材料やら時分で調達するのは良い勉強になった。
考えてみても其れが大変だったと言う意識は全く無く良い思い出でしかないのは得な性格に生んでくれたお袋に感謝するべきなんだろうな
病気の方は悲惨になってくるし不幸の方も洒落にならない様な話も有るが「貧乏自慢」の方は結構笑い話になるケースが多い、まあ不幸自慢と組合わさるとちょっと暗い話になるし此れに病気自慢までくっつくと会話が立ち直らない位に暗くなる、が「いや~昔は酷かったね」と笑って話されると(試しに俺もやってみたかったかな?)見たいな話もある。
貧乏は自慢じゃないが筋金入りだった、親が貧乏だと子供が貧乏なのは大人になるまでは当たり前である、大人になって考えると何であそこまで貧乏だったのか疑問も有るがその頃は単純に「内は貧乏なんだ」と言うのがごく普通に自己認識だった、その中には(何故?)と言う疑問は最初から最後まで無かった、
村の貧乏ランクは恐らく2番目だったんじゃ無いかと思うが若しかしたらトップだったかも知れない。
我が家は親父の手作りの家だったが一畳の土間と3畳の板の間、8畳の和室と6畳の藁敷きの部屋に土間が有った、一級下級生のその家は4畳半一間に流しの付いただけの一軒家で其処に親子4人が住んでいた、急な山肌に貼り付ける様に建っていたその家の入り口まではすれ違う事の出来ない道で四畳半に直接入る構造だった、
しかし我が家の食生活と言えば昭和29年の小学校では珍しい「欠食児童」だった、未だ給食が無い時代だから弁当が無いと昼休みに教室に居るのは居こごちが良くないので時分だけ校舎の裏に出ていた記憶がある。
定かではないが一年生は未だ藁草履だったと思う、後半か二年生になった年にゴム靴と言うのを買ってもらった、赤いゴム製で型押しで作った物で全てゴムだから蒸れる事は凄い、
冬になっても履き古した足袋だった、靴下と言う物を履いたのは4蚊等年生位だったろう、
「おしん」では大根飯だったが我が家は芋飯である、取敢えず多少でも余裕のある時は麦飯で押し麦と言う平べったい真ん中に黒い筋のある麦を入れる、此れで私は健康になったのだ、
麦が無くなると時々サツマイモのサイコロに切った物が混ざる、徐々に芋の割合が増えてきて最終的には100%芋になる、要するにふかした芋だけである。
全体産まれ育った村は質素で(と言うより貧しくて)万屋が5kmに一軒ずつ程度の所だから当然魚屋とか肉屋は無い、無論八百屋は商売にはならないから最初から無い。
私は村を離れるまでに家で食べた肉は卵を産まなくなった鶏か飼って居たウサギ、近くの鉄砲撃ち(本職は農業だから誰も猟師とは言わない)が獲って来たイノシシか山鳥だった、
魚は味噌漬けの鯖か鮪の切り身、そして秋になると取れすぎた秋刀魚をトラックに満載して売りに来た時にのみ尾頭付きが出る、雑巾バケツにスコップで山盛りに入れて50円程度で売るので大変な量になるが冷蔵庫など村の店ですら氷式である、
琺瑯引きのパレットに交互に並べ塩を撒いて重ねておく、こうなると2週間程度は朝晩と秋刀魚になる、野菜は自前だが調味料は買わなくちゃならない、お袋が「どう言うわけか無くなる時は味噌から醤油から皆無くなる」と言っていたが自分でやって見ると良く解る、全て代用するから当たり前である。そんな生活を15歳まで続けた、12歳からはお袋が居なくなったので夕飯の支度やら材料やら時分で調達するのは良い勉強になった。
考えてみても其れが大変だったと言う意識は全く無く良い思い出でしかないのは得な性格に生んでくれたお袋に感謝するべきなんだろうな