その頃家には掛け時計が有った、
昭和頃のドラマや昭和民家館でよく見る奴である
8角形の文字盤廻りと振り子の見えるガラスのはまった茶色の奴でちょっとくすんだベージュの文字盤に中の抜けた長針と短針があった事は覚えているが秒針は無かった気がする、
発条は時計用と時報用の2つがあり、向かって右側が時計用、左側が時報用だったがどういう訳か右の発条は反時計廻りに、左の発条は時計廻りにまくようになっていた、
小学校に上がった頃から毎日発条をまくのが自分の仕事になっていたが嬉々としてやっていたのではないかと思う
親父は毎年一度時計を分解掃除をする、明るい縁先に新聞紙を敷いて針を外し、文字盤を取って中のユニットを出すとすべてのネジを外してバラバラになった部品をブラシを使って灯油で丹念に洗うと乾燥させて再度組み立てて機械油をさして文字盤と針を戻す、
当時油さしと言っていた物は今のプラスチックとは違いブリキ製で半球形をしていてそこの部分を押すとぽこぽっこと音のする奴だった、
今考えれば時計ユニットなんかは本当に単純な構造だからさして大した作業ではないのだが未就学児の自分には(お父さんは凄い!)と感心するには充分だった
真鍮の厚みのある振り子の下には調整ネジが着いていてそれを廻す事で時計の遅速を調整する、
「振り子の振幅時間は長さで決まっていてふり幅が変わっても一定」だと言う事を教えてくれたのも親父だった
田舎の家にはないノギスやマイクロメーターが道具箱に入っていて学校の工具より何かずっと高級な道具に見えたのも当時親父はすごかった
手先は器用で篠竹で竹笛をこさえてくれたり、破竹(当時村ではハチコウと言っていたが)で弓を作ってくれたり、樫の木で木刀を作ってくれた
しかし、声も顔も覚えていない、薄情な息子である、ただただ、生きるのに忙しかったのだと言うのは良い訳だろうな、
普通は覚えているんだろうがまるで古いフィルムを見ているように白黒の思いでしか残っていない
今になって思い起こすのは若しかしたら老人性痴呆症、逆行性健忘症か?毎日昨日喰ったものを日記に記録していると時々思い出せない事もある、
何とかしなきゃ拙いぞ!
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