日立のオリジナル「パンポン」はテニスと卓球の混合
19歳になったとき日立を辞めることにした
理由は色々あるが一番大きかったのは「他の仕事に就けばきっともっと良くなる」と言う思いだった
仕事がいやになったとか、人間関係がいやになったとかではない
基本的にその後の転職も「今の仕事が嫌になった」と言いう事では転職をしたことは無かった、
集団就職、中卒は金の卵と言われた時代、仕事は幾らでもあった
就職した企業も一流の日立製作所で世は「長大重厚」企業真っ盛りの頃、
組合の力も強くなっていって春闘、年末闘争とストライキを繰り返して毎年二桁のベアが有って将来の不安もない生活になっていったのだが、
レントゲン製作課と言う所でトランスの組み立てと言う仕事はどんなに不器用でも半年もすれば一人前になる単純作業だ、
機械工の様な技術職ではないので努力の必要もないが全く成長と言う事とは無縁の職場だ、
新聞の募集欄は三段抜きから三行、一行の募集が見開きに一杯にあった
その頃本田技研が狭山工場を増築し新社員を募集していたので応募したら面接もなく合格通知が来た、
後日談が有って退職と退寮届を出したとき管理人の北山さんから「数週間前、I君に婿養子の話が有って、と身元調査が有ったが良い話だと褒めておいたのが徒になった」と言われたが怒ってはいなかった、
本田技研の寮に入り、出勤をして職場を案内してもらった、
日立製作所とは違って明るく整然とした工場で事務所も全く仕切りのない近代的な会社だったが、(これではない)と思った、
結局翌日からまた新聞で別の仕事を見つけると1日出勤しただけで退職をしてしまった
幾ら清潔で明るくともベルトコンベアで流れてくる車の組み立てをずっと続けると言うのでは日立時代と何ら変わらない、
「何かある」と思って飛び出した世界は此処ではない、
何の根拠もない自信と将来はよく調べもしないで自転車を押して東海道を200kmも走った事で沁みついてしまったのかもしれない
余談:もしあのままホンダに居たら多分「S800M」を買っていただろうなと言う事だけが残念な事である、