当時の清洲橋
18歳になった頃小岩の借り上げアパートから食堂付きの寮に引っ越した
新京成線の高根木戸と言う所で二人部屋が15室の2階建て渡り廊下でつながった食堂のある新築の寮にである。
これで休日以外は寝るところと3食が保障されることとなったのでいよいよ貯金は残らなくなった、
北川さんと言う夫妻が管理人で10代の女の子が4名で朝食と夕食を提供してくれる、
亀戸の工場までは1時間弱だったが当時のラッシュは想像を絶する状況でピークに乗ると亀戸で降りることが出来ず両国まで行って戻ったこともあったくらいだった
朝食は7時からだったが大急ぎで取って出勤する、
工場の正門が開くのは8時だったので開くまで待つこともあるがラッシュよりましだ、
自分は田舎育ちで繁華街に出るより野原山谷が好きの方だがどっかお調子者の所が有って人に煽てられるといい気分になって色んなことをやらされた
組合に「レクレーションリーダー」と言うのが有って通称「レクリーダー」と言うのだが組合委員から「お前に向いているから」と言われて引き受けることになった、
亀戸工場は基本的には男性工が多い、と言うより殆どが男である
しかし錦糸町と亀戸の中間位に精工舎の工場が有ってこちらは殆どが女工さんである
組合付き合いからそこのリーダーと連絡を取り合って合同で色んなことをやった、
今でいう「合コン」の様なものである、いつの世も需要と供給はマッチする
合同で「クリスマスパーティイーをしよう」と言う話になって高根木戸の駅前の食堂の様な所を借りて計画をした、
この当時は「スナック」と言う形態の店は無かったので今考えるとよくわからない店だったが一階は八百屋や魚屋肉屋が入っている「何とかマーケット」と言うやつで2階が食堂兼飲み屋である
古い記憶なのではっきりはしないが男女合わせて50~60人位が入ってもそれほど狭く感じなかったので結構広かったと思う、
組合からスポットライトと音響装置を借りてきて気分を出そうとミラーボールを取り付けることにする
何しろ電機工場である、部品も技術屋も十分にある、部品のモーターにギヤを取り付けてその先に昼休みに使っているドッジボールをセットし、機械加工の連中がステンレスの切れ端を丁寧に貼り付けて即席のミラーボールを作ってしまった、
これは成功し絶賛されたのだが企画した自分たちは準備に1ヵ月、パーティーがはねてから撤去、清算と殆どパーティー自体は楽しまなかったのだが達成感で充分におつりが来た、
通いの若者達には冷たい眼で見られていた気もするが少し優越感も味わえたものだった