梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

核エネルギーは人類の手には負えない

2011-06-16 19:05:58 | 雑記
イタリアが脱原発の国民投票で継続する事になった、世界的に原子力発電から遠ざかって行く気配が濃厚になって来た、
自分もこの事故以前は積極的な賛成でも反対でも無かったのだがやはりこの様な状況に成ると原発から抜け出さなければ成らないのではないかと思う様になった。
日本は世界で唯一核の被害を蒙った国である、その国が「原子力の平和利用」と言う旗を振っていたのはその影響力はかなり大きいのではないだろうか、
一方で核兵器廃絶を叫びその悲惨さを発信して行くと言っているが今回の震災でやはり核は「完全に制御出来る物では無い」と言う事を思い知らされた、
原子炉は核反応を制御してゆっくりエネルギーを取り出す装置だ、しかし原理は核兵器と同じである、
核分裂は臨界状況に成った核が連鎖分裂反応を起こす時に出る熱エネルギーを使っているが兵器はそれを数万分の1秒で一気に放出する、原子炉は臨界状況になった原料に減速材と言う物を間に入れておいて反応を見ながら引き抜く事で制御している、つまり「臨界状況」が常態の物なのだ、
此れを制御しているのは電気装置なのだが今回はこの電源が喪失した、常態が臨界だから運転中に電源が落ちれば臨界方向に進む構造なのだ。
この装置が完全に機能しても熱エネルギーの副産物である放射性物質は核兵器と基本的には変らない、ゆっくり反応しているので端から処理しているだけだ、処理をしていると言うと聞こえが良いが実際は取り出して保管しているだけだから処理はされていない、
何も無い時は其れが見えてこなかったが実際は天災1つで暴走を始めてしまう。原子と言う単位はあらゆる物質の最小単位だ、無論今の所だが。
人間の把握している宇宙の根源物質は今の所此れが最小単位である、自然界の原子は一番安定している筈だが核反応に使う原子はその中でバランスの悪い物を集めて来て強制的に安定化する為の分裂をさせる、自然の理のこの部分まで人類が手を付けるのは僭越、傲慢なんだろう、
地球の営み、大地の活動に未だ予知すら出来ない人類がその根源を操作して他の物質を作成する等はやはりすべきではないと言う事だろう、
核融合は一番小さな水素原子を強制的にくっつけてヘリウムを作る、此れは18世紀頃真剣に研究された鉛を金にする「錬金術」と同じだが出来るのは金ではなく自然界には存在しない放射性同位元素である、この不安定な物質は自己崩壊を繰り返して自然界の原子にまで放射線を出し続ける、
現代科学の粋を集めるなら火山、地震、台風のエネルギーを利用する事を考える方がずっと役に立つ、台風1つのエネルギーは核爆弾の数百倍になるはずだ、

しかし心理学者でもない政治屋がイタリアの国民投票を「集団ヒステリーの様な」と言い放つのはどう言ったら良いのか、他国の国民が選択した事を「あれは病気だ」と言った訳だ、今の所イタリアのコメントは無いようだが日本人の総意がそちらに向かってもあの政治屋が居たのでは「素人が一時の感情でヒステリックに騒いでいるのは聞く必要が無い」と言いそうだ、代表制政治はその国民の代弁者だった筈だが、まああの親子はどんどん似て来る、

砂町銀座商店街

2011-06-15 10:14:44 | ぶらり
西大島で降りると駅前にバス停が3~4ヶ所ある、葛西橋行きと言うバスで良かったと思ったが念の為ドライバーに聞いたら「そうですよ」と言うので乗り込んだのだがうっかり何処で降りたらいいのか聞き忘れた、
女房が「何処で降りるの?」と口パクで聞いて来たが解らない、バスが止まったらドライバーに危機に行こうかと思ったら私の前の年配の女性が教えてくれたのでお礼を言ってバスを降りたが今度はどっちに行ったらいいのか解らない
、若しかしたらとバスの中を見たらやはりさっきの女性が笑いながら指差してくれた、
再度頭を下げて教えてくれた方向に少し歩いたら直ぐに「砂町銀座商店街」と言う看板に行き着く、
商店街の幅は2人連れが行き違うのにすこし苦労する程度の道幅で色んな店が左右に並んでいる、靴の店と惣菜の店が結構多い、それも焼き鳥やが目に付くが鳥とモツが半々位か、一串100円程度だがかなり大きい、入り口付近で何軒かあったが帰りに買って帰ろうと言う事でとりあえず商店街がなくなるまで歩く事に下のだがこの商店街はかなり長い、今日は少し歩き過ぎたか戻るのが少し億劫に成ってきた、商店を突き抜けたら大きな道路に出た、右の方を見たらバス停が有る、相談して此処から変える事にしてしまった、少しあの焼きトンに未練が有るがバスと地下鉄を乗り継いで一時間弱焼き鳥を手に持って歩くのも少しちょっとと言う事も有る、まあ「今度来たら」と言うほどでもないだろう、
今まで彼方此方歩いたが再度行ったのは余り無い、帰宅したのは5時過ぎ、ビールを飲んで新玉葱のスライスに小さめの短冊に切った油揚げをカリカリに焼いて鰹節を掛けた上から醤油を好みで掛けてつまみにする。
先日思いついて作って見たら簡単で美味しかったので又其れを作る、此れも先日作って冷凍しておいた魚のホイル焼きが有ったので何にも作らないで飲み始めた、金が無ければ無いで何とか遊べる物だがもう少し遠出がしたいもんだな


家の近くでは色んな百合が咲いているが最近は「百合園」が彼方此方に出来た、一昨年かスキー場が運営する栃木の百合園に行った事があるがリフトの上から眺める百合は中々面白い景色だった




小石川植物園

2011-06-14 10:20:31 | ぶらり
後楽園を後にして飯田橋から春日に戻り三田線で1つ先の白山に行く、ちょうど白山神社はアジサイ祭りをやっていたようだが今日は「小石川植物園」に其のまま向かう事にする、
少々足が疲れたのとトイレに近くの喫茶店に入ったのだが此処は少しがっかりした、地元の人達の憩いの店の様だが「一見様お断り」ならそう描いておいて欲しいものだ。
白山通りを通り越して其のまま坂を上りきったら右側がそうらしいが入り口は塀に沿ってかなり下った所にあった、入場券は入り口の向かい側にあるタバコ屋さんで売っていると言う少し面白い形式だ、
入り口を入ってコンクリートの坂道をだらだらと登る、周りには大きな木が多い、1つづつ札が付いているので読んで歩くが解り難い名前だ、「感じだとわかり休んだけど」と女房が言うが、外来種多いから其れは無理だろうな、
昨日までの雨のせいで少しぬかるんでいるが靴が汚れるほどではない、と言っても2人ともサンダル履きなんだが。
勝手にそう広くないだろうと思っていたが結構面積は有りそうだ、幅の割りに奥行きがある、
最初に出て来たのは藤の園でこんなに色んな種類があるのは知らなかった、それも園芸種ではなく土地による違いの様だ。
暫く行くと鈴掛けの木が何種類か其れも大木がある、紅葉葉鈴かけの木とアメリカ鈴かけの混種が今の街路樹に多いいわゆるプラタナスだと言う事は此処で知った、余談だがこの木の名前を聞くと「友と語らん、すずかけのみち・・」と言う曲とクラリネットの音を思い出す。
この景色は記憶にあると思ったら目黒の「林試の森」によく似ているのだ、両方とも大学の植物研究所だから当たり前かも知れない、
今は大学の研究施設の様だが此処は確か江戸時代に小石川養生所と言う施設だったと思う、当時の井戸跡があって其処には「市井の医者が献策し幕府が取り上げて困窮者を救う為の施設として建てられた」と有ったが今の政府より随分ましだ。
黒澤監督の「赤ひげ」も此処が舞台だったような記憶だがあっているかどうかは解らない。
どんどん奥に歩いて行くと深い森の雰囲気で自分にはわくわくする所だがどうやら女房殿は余り興味が湧かない様だ、おまけに足が痛くなったと言うので三分の一位を残して戻る事にする、
時間は2時をかなり回り少し腹も減ってきた、最初の目的地は新宿線の「西大島」からバスである、携帯で見たら神保町から乗り換えになっているので此処で昼を取ってから向かう事にした

植物園では余り写真を撮らなかった、森の中に真っ白に咲いていたのはハナミズキだが薄暗い森に一面に咲いていると遠目には空が見えるのかとも思われる



タンポポの綿毛が見事に球形になっていた



梅雨の合間に近場を

2011-06-13 13:00:59 | ぶらり
曇り空では気も晴れないが家から出ないのももっと気が滅入る、久しぶりに都電と都バスの1日パスを使ってみようと言う事になった、昨日のテレビで砂町銀座商店街が面白そうだと言う事でまず1つは此処にする、
此れだけでは時間が余るの久しぶりに小石川後楽園に行く事にした、前に行ったのは多分25年以上は前だろうな、
都営地下鉄で春日まで行って此処から歩こうとしたが近くに未だ行った事の無い「小石川植物園」が有るので行って見ようと思ったのだが春日駅の地図には乗って居無い、改札で駅員さんに聞いたら実に親切に教えてくれた、
小石川植物園は次の「白山」駅から歩いて10分位ですよ、と言い持っている切符がフリーなのを見て「後楽園は大江戸線に乗り換えて次の飯田橋からの方が近いですよ」とも教えてくれた、
礼を言って飯田橋で降りると確かに近い、ほんの数分で入り口に着くが其処に着く前生垣に綺麗な花が咲いていた、杏の花にも似ているが葉が違う気がする、





遺跡の修復と石の太鼓橋が今修理中だったが見所は随分ある、心字池を廻っていったら随分カメラを構えた人達が居る、其れも相当長いレンズを三脚で構えているのだが「何を撮っているんだろう」と女房と話しながら更に進むとちょうど反対側に当たる道にもやはり望遠レンズを構えたアマチュアカメラマンが何人も居た、
その内の2人がディスプレイを見せ合っていたので除いてみたらどうやら翡翠のようだ、「清流の宝石」と言われているが濁った池に其れも東京のど真ん中にな、
山の中に西行堂の跡と言う場所があってここを過ぎて池の脇に出た、みずもには白い睡蓮が咲いていた、
此れは自分の小さなデジカメでは遠くて気に入った写真は取れないが、何とか数枚撮って来る。





その先は菖蒲園で今を盛りに咲いている、此処にも結構カメラマンが居る、ここでも何枚か撮って来たが此れでも結構ちゃんと取れる、





ろそろ又いいカメラが欲しいなとは思うのだが生活にいっぱいで今しばらくはこのコンデジで我慢々、
かれこれ2時間位歩いて後楽園を後にすると駅で聞いたとおり地下鉄を乗りついて小石川植物園に向かう、

それ程嫌われ者では無いと思うのだが

2011-06-11 11:31:46 | 雑記
仏教に四聖諦と言う言葉が有る、「苦・集・滅・道」と言われ、苦の元は執着だから其処から離れれば悟りの境地になると言われている、(少し違うかもしれないが)苦の大きなものに病と老衰と死が有るがそれらは人知ではどうにも出来ない事だから気を病んでも仕方ないと言う様な事だったと思うが自分は老衰と死はかなり前から「必ず来るのだから」と自然に考えていた、恐らく身近な人間をあまりに多く見送って来たからだろうと思う。両親を始め兄、義兄、と30歳に届くまでに5人、其の内喪主が2回、喪主の補助の様な事が2回である、更に40代までに友人が3人逝った、50代で義兄が1人と義母が、60代になって義兄と本当に親しい友人が逝った、まあこの年齢だと増えてくるのは致し方ないが皆40代から50代で逝ってしまった、諸行無常とは言わないが死を恐れても仕方ないと思うのに慣れた、自分の死で困る人間がいなければ左程苦にならない、
自分に何か欠けた所が有るのではないかと思うのには他にも有る、当然自分にも田舎という物はあり思い出もあるのだが「故郷の景色」であって其処には人影が無い、有るとしても其れは風景にはめ込まれた様な思い出で友人と言う物が故郷の思い出の中で動き回る事は無い、小学生の頃はまだ母親も生きていたので友達と取りいれの終えた田んぼで凧揚げをしたり模型飛行機を飛ばしたり、チャンバラごっこやかくれんぼも缶けりも竹馬もやっていたのだがその思い出にも友人の姿が無い、いや当然1人では無いのだからその影は有るが名前もイメージも出て来ないのだ、
先日同窓会の葉書が来ていた、大抵3年に1度位やっている様だ、私は中卒なので中学の同窓会だが書いた様に具体的な印象が無いので特に懐かしいという心持も無い、卒業した1年後の最初の年と20代で1度、その後いつ頃かもう一度行ったがどうも行く気がしない、特に田舎の友人に苛められたとか惨めな気持ちが有ったとかいう事で無く、昔の思い出と言うものに行き当たらないのだが、その中で唯一ずっと連絡を取り合っていた友人が「出ろよ」と言うので行ったのだがコイツガ当日ドタキャンをして来なかった事がある、其の会で実に居所がなく違和感に包まれたままお開きとなってその後は全く行く気が失せた、勤めて居た時も同僚と酒を飲みに行く事は殆どしなかった、無論会社の行事には行ったが私的に同僚と酒を飲む事は無かった、其の替わりという訳ではないが喫茶店で知り合った連中と一緒には飲んで廻った、これは「同僚と飲むとどうしても会社に対する不満や悪口になってしまう」事が嫌いだった事が大きいのだがいずれにしても人附き合いの良くない人間でその辺が欠けているのではないかと思う所以でもある