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梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

「死に損ない」と言う中学生に

2014-06-12 08:43:47 | 雑記
「死に損ない」と言うのは「死ぬべき時に死ねなかった」人と言う意味だ、彼等の廻りで亡くなったのは「死んだ」のではなく「殺された」のである、突残、理不尽に虐殺されたと言える、虐殺に会いながら生き延びられたのは「死に損ない」で有る訳はない、生き延びるだけでも苦しい時間を経てやっと生き延びたのである、
その虐殺は若しかしたら君達の親が被らなかったという保証は無い、彼らにその知識が無いと言うのは教育の怠慢であるのは間違いないがそれ以上にあまりに幼い行動理念が問題だろう、詳細記事を見ると説明して居る時にふざけたり騒いだりしている事を咎められたのが気に入らないと言うのがきっかけらしい、自分が面白くないから集団行動を無視すると言う事自体幼稚園児の様な行動だがそれを咎められたから更に邪魔をする、その為には相手が一番傷つくだろうと言う言葉を使う、こんな事だけには異常に頭が廻るらしい、
自分が嫌な事は他人も嫌だろう言う事だけでなく自分は平気でも相手は傷つくだろうと言う事まを考えて行動するのが社会生活だと言う事が大人から子供に引き継がれていない、人間社会を支えているのはこの思いやりと相互扶助の精神であり社会全体の力を維持する為には絶対に必要な要件でありそのおかげで人間と言う弱い猿の一種が地球の支配者になった、この感覚が無いのは社会人としての資格を欠いていると言える、その責任は当然その親も含めた社会全体の責任である事は間違いないが子供達に「だから子供に責任は無い」と言う様な愚かな発言はしてはなるまい、現実に彼等「社会的欠格者」は修正しなければこれからの社会構成を脅かす、
しかし今の日本社会、と言うより世界中でこの基本原理が崩れ始めている、このまま一部の強者のみが社会の財産をかき集めてしまえば生産者が徐々に減少しいずれ社会構造はリセットされるだろう、
安倍政権はそういう意味では政治家としては非常に近視眼的で恐らく自分の子供か孫の時代までしか見えていないだろう、「孫の時代には日本の富を牛耳る位置に座らせたい」と言う程度の事だろう、或いはそれすら考えていない可能性もある、彼は「親より偉くなりたい」だけの様な気もする、外交に関する考え方、憲法に関するスタンス、国民と政治の対立的な考え方は彼の考えだからどう言おうとそれは彼の政治信条だろう、問題は議席の数をたのんで少数意見(議席としてのだが)を全くかんがみないその手法にある、
もう少し相手の意見の真摯にこたえなければならないだろう、「感情的な意見で対応する価値が無い」と言うスタイルはとても国政とは言えまい


軍歌の思い

2014-06-10 18:00:56 | 雑記
戦場からの絵手紙と言う記事を見かけた、満州から沖縄前線に移動し終戦直前に戦死した着物の絵付け師だったそうだ、戦場の悲惨さを避けて現地の風景や日々の様子を綴って送られている、
そこには現地の人たちとの交流も垣間見られる、沖縄戦線に移動してからは僅か3通で最期を迎える、そのお孫さんが絵手紙を追いかけてまとめられていた、
この記事を読んでいると当時の軍歌を思い出した、日本の軍歌は哀愁がある、正確に軍歌ではなく戦争に臨んだ、或いは引き出された庶民の愛唱歌だからその分勇ましさより心の襞がにじんでいたのだろう、
「さらばラバウルよ」と言う歌詞の歌、「愛馬行進曲」「勝ってくぞと勇ましく」でもその歌詞が持つ思いは何時も故郷であり父母や妻子である、「私のラバさん酋長の娘、色は黒いが南洋じゃ美人」「波の響きで眠れぬ夜は語りあかそうデッキの上で」、この歌をどう言う気持ちでどういう場面で彼らは歌ったのだろうか、
家族を置いて遥か彼方の異国で恐らく涙を流しながら歌ったのではないか、
「なぜここに居るのか」と言う疑問と悲しみは彼ら以上に現地の人々は強かったのではないか「なぜ、この連中は此処に居るのだ」と言う気持ちは今の沖縄県民の気持ちを数倍にすれば想像がつく、絵手紙を書いた人も、「こんな処に居たくない」と思い現地の人たちの苦しみを見れば「我々は何をしに此処に居るのか」とも思ったのではないか
そこに居る人も、居られる人達もだれも望まず、悲しみと怒りだけが交錯する状況を作り上げたのは一体誰だったのだろう、多くの犠牲者をだし、他国の領土と人々に傷を負わせ日本はぼろぼろになった、一部の軍事政権責任者は戦勝国による軍事裁判で裁かれた、しかし他の国の領土に土足で踏み込んで他の国の人達を支配する事は人間裁判で裁くべきだ、その行為その物を目的にする組織こそが軍隊である限りそれは矛盾している。
本来それは赤紙一枚で殺人者に仕立てられた国民が裁くべきものだったのではないか、それでなければ裁かれた側に(軍事裁判は違法だ、我々は正しかった)と言う意識がずっと残ってしまう、その意識が今の安陪政権を当時の「強い日本」という幻想に走らせているのではないか、どの国の人間も他国の領土に軍靴で踏み込んではいけない、それをするのはそれをしたくない人間でそれをやらせたい人間は決して軍靴を履かないし銃を撃たない、そんな事は意図して居ないと言っても何時でもそうできる法律を作ると言うのは必ずそう言う方向にはする危険が有ると言う事だろう、アメリカで「自らを守るのには拳銃の所持は必要だ」と言う法律の為に一般人が突然乱射する事件を起こす事を見ればその危険性は明らかだろう、集団的自衛権の問題は確か脅威に米軍を頼る日本のポジションは矛盾していると言われても仕方有るまい、しかし国民どころか野党、連立与党、さらに自民党内にまで慎重論が有るにもかかわらず強行採決するのはまさに暴走老人に刃物と言う感が否めない、
国民の意見をもう少し聞いたうえで進めるべきではないか

祭囃子が聞こえる

2014-06-08 12:03:58 | 雑記
昔こんな名前のテレビドラマがあった気がする、私はこのドラマは覚えていないが「遠くから祭囃子が聞こえる」場面はいくつか覚えている、ひとつは映画で天保水滸伝の平手造酒が助っ人に行って川原で死ぬシーン、調べると鶴田浩二だったが自分の中では近衛十四朗だったような気がする、もうひとつは漫画で好きな作品が多かったがどうしても名前が思い出せない、ガロかCOMに書いていたと思うが底辺に落ちる女性のものが多かった暗いこまわりの作品で母と娘の会話で「親が水商売だと娘もそうなる」と言うと「心理学上の?」と返されると「統計学上の話だけど」と言う会話があった、どっちがどっちだったか覚えていないが祭りから少し離れた所で下からあおる様な画面の空に祭囃子がながれ「祭囃子が聴こえるね」と言うシーンを思い出す
先日からこの付近は祭りで今日が本祭り、何時もの商店街も行き付けのファミレスも祭り装束の老若男女でいっぱいである、私はあまり祭りは好きではない、特に嫌いと言うわけでもないが傍観者として見ているのは嫌いではないが参加する事は苦手である、
何故かと言う理由は恐らくと言う思いはあるがそれを言うのは謗りを避けることにする、
祭りが始まると仲間意識より疎外感のほうが先に立つ、と言うのも妙な話だが自分はそこに参加してはいけないと言う意識、あるいはまったく似合わないと言う意識が働く
もう一つはあの祭り装束と高揚した雰囲気はどうも苦手でうかつに手を触れたら火傷しそうな温度を感じてしまう、これももしかしたら映画の記憶かもしれない、富島松五郎は自分には苦手なタイプだ、だからお祭りは少し離れたところから見ているのと屋台の冷やかしが一番すきなのである、
何時頃からかと考えてみるが結局子供の頃から祭りに参加して楽しむということはなかったような気がする、子供が本当に小さな時は一緒に行くことがあってもある程度大きくなれば子供同士で行くからいよいよ疎遠になる、江戸の祭りは地方から来たもの同士が和睦の祭りだったというが私が上京した頃の祭りは「田舎もん」を冷笑する雰囲気が強くそれも嫌だった事もある、「元をたどりゃあみんな田舎もんさ」と言うが暗黙の「粋」から外れているとそれなりの冷笑を浴びる事に成る、そんなことを気にしないで入り込めばいいのだろうがどうもそれが出来ず仕舞いでこの歳になると更に難しくなるものだ

道徳教育と徳の道

2014-06-06 17:57:44 | 雑記
安陪政権が道徳教育の強化を推し進めると言う事に反対意見が持ち上がっている、戦前の教育の記憶で教育勅語等の王政教育的なイメージが強いのだろう、しかし道徳と言う物自体は決して戦争に結びつくものではない、元々は国を治めるのに如何に公平に且つ自らを律するかと言う様な処に重きを置いており儒教の教えに根源を見るものであり、西洋的にも同じような哲学に近い思想だ、無論それだけではなく世界的な宗教でも自らを捨てて、或いは捨てないまでも自分を中心に置かず多くの人間、社会を優先する事を当然とする考え方で成り立っている、
宗教では自分をと言うより人間を二次的に思う為には「神」が必要だったのだろうが仏教と儒教はそういう意味合いでは絶対神は置かず精神生活として「社会を維持発展する」為の教え、考え方として発達したのだろう、
日本はシンボルとして天皇家はずっと存在し続けているが為政者は飽くまで為政をあずかって運営すると言う立場であり、そのシステムは連綿と続いて来た、同じ為政者が長期間続くと硬直化し徐々に崩壊してくる、それでも庶民にとってはそれ自体は大した問題にはならなかった、無論交代期には多分な苦労も強いられていただろうが結局頭が代るだけで生活自体それ程変化はなかった、武士の台頭による幕藩政治であっても為政者は搾取だけを繰り返すと言う事をしなかったし底辺の人々にも暗黙の儒教的な考え方はずっとあったと思う、
儒教を系統立てた国は中華である、そして国是としていると言うのは韓国で有る、しかしこの両国は一体どうなってしまったのだろう、中国が国境を接している国で明らかに強力な軍事力を保持しているロシア以外にはほとんどの国と国境紛争を起こしている、民族も宗教も異なる隣国を明らかに武力で併吞し軍力を後ろ盾に既成事実を推し進める、国内では貧富の差はさらに大きくなり商業も工業も儲かれば他の事は関係ないと言う状況が蔓延している様だ、
あの素晴らしい「論語」の国は一体どこに行ったのだろう、古代から近世まであの国は間違いなく辺境の我が国にはお手本だった、それは技術知識の以上に宗教と哲学、そして人間として最低でかつ最高に必要な「徳」の教師だった、しかし今の中国に「徳」の影も見当たらない、
韓国もフェリー沈没事故を見る限りとても儒教の国とは言えないだろう、日本に併吞された記憶は消せない事は当然だろうが現状で日本を「恥を知らぬ卑しい国民」だと喧伝するにはあまりにお粗末だ、
しかし今の安陪政権と経済官僚の恥の無さは勝るとも劣らないとも言える、個人の所得税を挙げて代りに法人税を下げる、「世界的にも高い法人税が日本の競争力を阻害している」と言うが現在法人減税の恩恵に預かる会社がどの位あるのか日本の企業の7割以上は中小零細企業である、そしてこの殆どは赤字経営でいつ倒産してもおかしくない状況にある、
法人税が高いから輸出価格が下がらないと言うのは矛盾が有る、税金は利益にのみ掛かる仕組みだ、税金が下がれば商品価格が下がるのではなく残る利益が増えると言うだけの事で税引後収益が上がる事と輸出価格に直接関係は無い、最終利益率を下げれば良いはずである、
地方の道路、特に市町村道の橋の老朽化が問題になっている、国土強化政策ではこの予算は殆ど増えない、そして「一日に千台は通らない」高速道路がどんどん伸びる、高速道路を受注できるのは大手ゼネコンや有名工事会社である、地方道路は法律で同自治体の会社に優先的に廻る事になっている、それが地方の活性化につながると言う趣旨であろう、
都内では下町の耐震防火化が遅々として進まない、公立学校の耐震化も予算が無い、しかし東京オリンピックには兆を超える金が出資される、これも同じである、区の管轄する工事は区内の業者が第一義に携わる、大手ゼネコンにはうまみが無いのだ、しかし町場の工務店は大手ゼネコンの下請けでは働き手に金を払ったらほとんど残らない、維持する為、設立運営の為の借金を返すのすら厳しい、
しかし、政治はお題目をでっちあげて大手ゼネコンに金を落とす、それにはそれなりの見返りがあるからだろう、経済連が又政治献金部会を立ち上げたのを見れば納得出来る構図だろう、
政治家、大手経済界、それを画策し牛耳る官僚達、まったく「徳の道」とはかけ離れている、中国、韓国を未だに見習ってやっと世界に認められる国になったのだがこのままでは三流以下の国家だと言われても仕方なかろう、安陪総理以下道徳強化を標榜している政治家、官僚諸氏に言いたい、「まず自ら道徳教育を再度勉強したらどうだ」と