物心がつくころ、記憶に残っている頃の事だから恐らく4~5歳の頃からずっと貧乏だった
再三書くが「貧乏=苦しい」と言う覚えはなくそれが当たり前だった、
押し麦が半分近い黒いご飯、おかずは殆ど野菜の煮物と味噌汁、
漬物の材料も自前で家の前で作っている野菜と野草
漬物樽でつけた糠漬けは季節ごとに変わる、冬は大根、春は白菜、夏は胡瓜と茄子,おかずの材料もだいたいこの通りのものだけである
春の野草は子供たちの仕事でわらび、ゼンマイ、野蒜、セリ、三つ葉、
野蒜とタニシ(あの辺りでは“おつぼ”と言う)の酢味噌和え、ヌタだがこれは親父の抓み
麦がなくなってくると薩摩芋の入った芋飯になってそれでも次の配給迄もたないと芋だけになる、
薩摩芋とジャガイモは庭の前の畑で作ったものをもみ殻の入った穴に保存して置いて使う
薩摩芋だけだと甘いのでジャガイモと一緒に蒸かした奴塩をかけて食べる、
丸いお膳の真ん中においてそれでも一応「頂きます」と「ご馳走様」は毎回言っていた気がする
未だ学校に行っていなかった頃だと記憶するが有るとき財布の中を覗いて「20円しかないや、これじゃあおかずも買えないから飴買っちゃおう」と私に村に一軒だけある何でも屋に行かせて「みんなにゃ内緒だぞ」と言う様なお袋だったのでそのせいかノン気に貧しかった
12の時お袋が亡くなって親父と二人の生活になったら夕飯の支度と風呂の用意が自分の仕事になった
村に定期的に自転車で売りに来る行商から味噌漬けの魚の切身と缶詰、練物が主菜で後はり自前の畑で取れる野菜を使って調理をしていた
有るとき行商からなんの魚か覚えていないが味噌漬けを買ったら最後の何切かだったので油紙に入ったまま貰ったことがある
偶々家の味噌が底をついていたのでこの味噌で味噌汁を作ったらこれが本当に良い出汁が出ていて帰って来た親父が「この味噌汁はずいぶん旨いが何を使ったんだ?」と言われたが当然この味噌汁はその時だけである、
別の日、隣から買って来る卵が最後の1個になっていた、主菜を卵焼きと決めていたのでこれでは足らない
考えてジャガイモをすりおろして水気を絞り卵と混ぜて倍くらいの大きさにしてみた
見た目はふんわりと豪華だったが此れには親父が微妙な顔をして「何だ?これは」と言って来たが訳を話したら笑っていた、
中学を卒業して東京に出るまでの食糧を考えてみると魚は塩漬けか味噌漬け、肉と言えば猪か野兎、鶏肉は卵が取れなくなったやせた白色レグホンで豚肉は学校の給食で入っていたかもしれないが記憶にはない、
無論牛肉なんぞは見た事もなかった
お袋が作ってくれたカレーは饂飩粉とSBカレー粉で肉の替わりは缶詰の鮪のフレークだった
お蔭で働きだしてからの自分はずっと豊かになっていったわけであるからこの事には感謝しなければ何らない
サミーデイビスJrが「ちびであごのしゃくれた黒人だ、これ以下は無いからこれからは上がるだけさ」と言っていたがまあ似たようなもんかもしれないな、
貧乏は苦ではないがかみさんには迷惑な話だろうな