goo blog サービス終了のお知らせ 

ART COMMUNICATION IN SHIMANE みるみるの会の活動報告

島根の美術教育関係者が集まって立ち上げた対話型鑑賞の普及に努める「みるみるの会」の活動情報をお知らせするブログです。

グラントワでの最終実践のレポートです!!

2015-03-15 23:15:38 | 対話型鑑賞


3月8日(日)島根県立石見美術館
あなたはどう見る? ~よく見て話そう、美術について~ みるみると見てみる?
最終回
作品 森村泰昌「女優になった私シリーズ」8作品:写真モノクロ
参加者 一般成人男性2名 女性3名 みるみる会員6名
ナビゲーター:春日美由紀

 この作品は画像でも分かるように、8枚が一列に並べられて展示してあるので、1枚1枚を詳しくみて話すことは困難であると判断した。対話の中で、細かくみる必要のある場面が出たときに、その作品を参加者でよくみていけばよいと考えていた。
 この作家の作品はこの美術館に多数収蔵されており、何度も展示されているので、作家の名前や作風については、成人であれば、多少の知識はあると捉えていた。
 参加者が何名で、どのような年齢層なのかも未確定な時に、どのようにナビしていくのかをあまり深く考えすぎるのはよくないと、私は考えている。参加者の発言を聴きながら、どんな対話を参加者でつなげていけばよいのかは、その場の空気を読むのが自然であると思う。
 作品は、森村泰昌が外国人女優、いわゆる銀幕の女王と呼ばれた頃の映画女優に扮したセルフポートレイトである。今回並べられている作品はどれもモノクロで、作品の大きさも額装も統一された8枚である。ちょっと映画に詳しい人なら、モリムラが誰に扮装しているのか分かると思う。扮装した女優たち総ての映画を私は観たことはないが、有名女優であったこと、トレードマークのコスチュームや仕草は私も一部を除いて見知っていた。
 この作品で対話することになると「どうして、こんなこと(女優に扮装すること)をするのだろう?」という疑問がわくことになるだろうと想定されるし、そこについて考えることが、この作品を深く味わうことになるだろうと思っていたが、参加者の自発的な問いかけなしには、そこへもっていく(誘導する)のはまずいのではないかと考えていた。
 さて、参加者は3名の女性が初参加。単独の1名と2名の知人同士の組み合わせで、「参加されませんか?」と声をかけると、固辞する様子もなくベンチに腰掛けられたので、最初から参加しようと思っていた様子だった。1名の男性は何度か参加してくださったことのある方で、中学生の子どものいるお父さんである。もう1名は石見美術館のボランティアガイドの方である。
 さて、実践開始。作品が小さいし、モノクロなので、近づいてよくみてもらうように促し、対話が始まった。

 最初の発言者はボランティアガイドの方で、裸婦の画像だけが背景があると指摘し、その背景から仏像を連想すると話された。
 次は、同じく男性の参加者で、裸婦の乳房(おっぱいと発言)が目についた。フィギュアのようで作られたものという感じがして、見るのに恥ずかしくないと言われたので、「どこからそう感じるのか?」と突っ込んで訊ねた。「写真?のようなので、しかもモノクロなので、リアルでない。モノクロのあいまいさのなせる業?」と写真の技法から感じられることを話された。「もし、カラーなら色の違いで、本物と偽物の違いが分かる。左端の画像を見ると、肌が荒れているみたいなので、そこからも、おっぱいは本物じゃない気がする。」と他の作品とも比較して、「どこからそう思うか?」について語ってくださった。
 複数の作品が並べてあり、「どこからそう思う?」について、2作品を比較した発言が出たことによって、8枚の作品を連作として捉える発言が起きる。
 「同じカメラマンの作品ではないか?時系列はどうなっているのか?新しい物と古い物は?」という発言があり、「新しい、古いとは、写した時のことですか?写り込んでいるものの時代のことですか?」と訊き返し、「写りこんでいるもの。」と答えられたので、「どう思いますか?」と訊き返したところ「新しい(時代)のものは左端で、古い(時代)のいものは右端。」と答えられた。ここで、「どうしてそう思うか?」と訊き返すと、この方ばかりとのやり取りになってしまうので、参加者に、「並んでいることにも意味があるのかもしれない。異なる時代のものが一緒に並んでるのかも?」という疑問を投げかけて、次の発言を促した。
 一人の女性の方が、話したそうにしていたので、指名した。「多分、同じ方が写っている。」と言われたので、「どこからそう思うのか?」と訊いたところ「多分、モリムラさんで、この作品が今回並べられた時から、ずっと気になっていて、どんな魅力があるのか、みなさんの意見をききたくて、今日は来た。」とおっしゃられた。
この作品にまつわる情報が発言者から提示されたので、参加者に確認をした。「同じ方が扮しているという意見が出ましたが、みなさんいかがですか?異論のある方おられますか?」「シ~~~ン」どうやら、参加者は、みなさんこの作品が「モリムラ」であることをご存知。ということで、「この作品は、みなさんもご存知のように、森村泰昌氏の作品です。」と情報の確認を行い、そして「森村氏がどうしてこんなことをしているのか知りたい。ということを話してくださったので、そこのところを皆さんで、この後、話し合っていけるといいと思います。」とつないだ。
この女性の発言が、今回の鑑賞の方向を決めたといってもいい。もちろん、ナビの望む発言であったことも言うまでもない。そして、モリムラの作品をみる人ならおそらく誰しもが抱く疑問だろうと思われる。「どうして、こんな(人に扮する)ことをモリムラはするのか?」参加者が成人だけだったので、会話はかなり深いところまで進んでいく・・・。
しかし、まだ、「どうしてこんなことをするのか?」について語り合うには、作品に関する読み取りが足りないと思っていたし、参加しているすべての方に1度は発言してほしいと考えているので、「他に、話したいことのある方はおられませんか?」と発言を促した。そうすると、知っていることを話してもよいということに安心した方が、
「24番の作品は誰に扮しているのか分からないのですが、右から順に、ライザ・ミネリ、オードリー・ヘップバーン、・・・・。」と扮装している女優の名前を挙げた。扮装している女優の名前は分からないが、裸婦像は「エマニュエル婦人」という映画である。ということも話してくださった。そこで、参加者のみなさんに、扮している女優を知りたいか尋ねたところ、みなさん、うなずかれたので、学芸員でみるみる会員で、今回の作品展の企画者である廣田会員に情報の提供を求めた。そして、すべての扮装している女優の名前が分かったところで、今回の対話の核心である「どうして、こんなことをモリムラはするのか?」について語り合っていくことにした。

参「モリムラ作品をみたとき、わっ、おもしろい。なんで?という驚きと感動とともに、気持ち悪いなあ。とい思いも同時におきる。そこに魅力がある。」
ナ「扮している女優のことはよくわからなくても、扮していることによる気持ち悪さと好奇心を掻き立てられるのですね。」
参「シリーズと言われたので、何かを求めて制作されたのか?エマニュエル婦人の画像の作品だけは、脚まで写っていて、それがゴツくて、男性的なのに、おっぱいがある。」
参「手がきれい。」
ナ「脚が写っていなかったら、女性に扮しきれている。この作品(エマニュエル婦人)に違和感を感じる。女性を演じているのに、男性を感じさせるところがある。手や肩のあたりはきれいで女性的なのに・・・。」
ナ「シリーズではないか。そこにも意味があるのではないかと考えている。」
廣田「シリーズと捉えた先ほどの私の説明には、少し、足りないところがありました。8作品で完成された作品というわけではなく、一連の作品群の中の8枚が当館に収蔵されているので、今回それをすべて並べたということです。」と補足があった。
参「ほくろまでつけて、メイクで女優本人になりきろうとしている。」
ナ「女優を知っている方からは、よく似ていて、扮しているモリムラの作品から何を受け取るか?」
参「変身願望、新しい自分の発見」
ナ「モリムラに変身願望がある?」
参「結構、楽しんでやっているのでは?」
ナ「どこからそう思いますか?」
参「手にポーズをつけたり、仕草から、女性らしさを演出している。」
ナ「女性らしさをアピール。男性なのに?」
参「全部、映画女優。映画の時系列はどうなっているのか?銀幕の女王というのがふさわしい時代では?映画のポスターの様だと思った。カメラ目線から・・・。」
ナ「映画が特定できる扮装である。それをみられた時、モリムラはどんな気持ちでやっている?」
ナ「初めの頃の発言に却って、モリムラはなぜ、このような作品を提供している?」
参「自分がキャンバス。新しいものをつくるたびに人が驚く。それで続けている。」
ナ「同じことを繰り返しているが、人目を惹きつける新しさがある。」
参「ある意味気持ち悪い。」
ナ「珍しいものみたさ。怖いものみたさ。ということですかね。」
参「誰もやっていないこと。」
参「元の女優について自分は知らない。全部モリムラだ!!自分には前面にモリムラが出ている。」
ナ「女優を知っている人は、女優になりきっている。知らない人にはモリムラにしか見えない。このふたつの受け止めの違い。同じ作品なのに違う受け止めが起きていることがおもしろい。」
参「みられることにイキイキいている。左側を写した作品が多いのは、そちら側がキメ顔かも?モリムラが青春時代、当時の銀幕のスター。雲の上の存在。あこがれ。美しくなってみたい。それが、作品に表れているのでは?」
ナ「自分のあこがれの存在に扮することで自己表現している。」
ナ「では、何で、男なのに、女優なんでしょう?乳房まで演出して、その辺りはどうですか?」
参「なぜ、ライザ?キャバレー?自らをキャンバスにして変身?女性の造形美。女性は化粧をして美しさを作る。素の状態から作り上げていった美しさ。キャバレーやティファニーは。でも、一番左の人は自然な感じがする。」
ナ「作り上げた女性の美しさ。自分も演じることで再確認できた。そういうことでよろしいですか?」
参「はい。」
参「ガルボが2作あることについて考えたこともなかった。女性=作り上げた美。女優は時代が作る像として消費される存在。社会的役割も担っている存在。でもそれは、私たちも同じ。自分たちにも役割がある。ということも示唆しているのではないか?」
ナ「示唆深いお話をありがとうございました。」
※この発言は廣田さんで、あまりに哲学的で、ナビが言いたいことを理解しきれていない。が、時間もこの時点で40分経過しており、そろそろ切り上げ時と判断し、ざっくりパラフレーズするにとどまる。
ナ「最後にどなたか?」
参「森村さんは自分でメイクしているんですかね?」
ナ「どう思いますか?」
参「このくらいの人になったら、チームとかでやってるんじゃないかな?」
参「自分でやっていたら、作品という感じがする・・・。」
ナ「初めの頃は自分でメイクしていたと思う。NHKの特集で観たことがある。ただ、今はメジャーになったので、チームでやっているかもしれない。アトリエはガード下、高架の下の電車が通るとガタガタ揺れるような狭くてとても汚い所だったように記憶している。ただし、この作品については?なので、興味があれば、インターネットで検索されてもよいのでは?」
参「森村さんはお茶屋さんの息子さんで、自己演出していった。とてもおもしろい。」
ナ「今日は、モリムラ作品の、ざっくりまとめると、なりきり女優シリーズについて皆さんと語り合いました。女優を知っている人とそうでない人とで作品の捉え方に違いがあることが分かりました。女優を記号化した美と捉え、大量消費社会で消費されていった職業であることをモリムラが提示したのではないかというお話になったと思います。皆さんにとって今日の対話が意義のあるものになっていたら幸いです。ありがとうございました。」(45分)

締めくくり
廣田「第1回目から気になっていた作品。満を持してやっていただきました。今回出された意見が総てではありません。また、違うときにみると違った見え方をするかも知れません。今回の体験を次の機会につなげてくださればと思います。」

 実践の振り返り
 自評
 〇対話の進め方については、頭書に記したとおり。参加者の中から「この作品が伝えたいことについて語り合いたい。」という発言があったので、うまく進められると感じた。作品についての解釈をパラフレーズするのは長いので、かなりざっくりとしたものにしたが、それがどうだったか、聴いていて違和感がなかったか知りたい。
 会員の意見
 〇最後にまとめる時に「記号化」という言葉を使ったが、「記号化」という言い回しは理解できるが、対話の中で使用された言葉ではなかったので、違和感を感じた。
ナ:ご指摘の通り。自分の中では「記号化」という言葉を使いたかったが、使う場面がなく、まとめの場面でつい使ってしまった。違和感を感じたのは当然だと思う。
 〇途中で、パラフレーズが???の場面があったが・・・。
ナ:聴くことを怠ってしまっていた。どうつなぐかを思案していて、聴きそびれた場面があった。
 〇廣田さんの最後のあたりの発言を「示唆深い・・・」でまとめていた。ある意味、上手いまとめ方だが、それでよかったのか?
ナ:哲学的で、やや難解?自分がきちんと理解できているか不安だったし、時間も結構経過していた(1作品で40分は長いのではないかと焦っていたことも事実)ので、端折ってしまった。理解できないのであれば、さらに説明を求めればよかった。上記※印部分にも説明有。

 この後は、作品自体の読み取りを会員相互で行う展開となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする