緑陰茶話   - みどりさんのシニアライフ -

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介護はチームワーク、介護は生前供養(3)

2016年08月18日 | 思い出
介護のこととは少し離れて、当時の母の状態を記しておきます。

母の状態は命に関わるものではありませんでしたが、早急に眼と足の両方の治療(手術)が必要で、病院にとっても悩ましいものだったようです。眼科か整形外科か、どちらの病棟に入院させるべきかも決まらないからです。

母の担当になったケアマネージャーのNさんは、話し合いの結果、今後の母の生活の質を考えれば眼の治療を優先させた方が良いという結論になったと言ってきました。
今後、歩けなくなっても車椅子で何とかなる。でも目が見えないことはダメージが大きすぎると考えたみたいです。

ただ、私の見るところ、母は眼は痛くないのですが足は相当に痛そうでした。足の方を優先させるべきでは?と思いましたが、黙っていました。
案の定、眼の手術の後、うつぶせの姿勢を取らなければならなかったらしいのですが、付き添った兄によれば、骨折した足が痛んで、うつぶせになることが難しく、大変だったらしいのです。

結局、母は2ヶ月あまりの入院生活を送りました。
最初の病院を含めば、入院した病院は3か所。転院回数は4回でした。
眼の手術は2回受けましたが、視力は退院時点では回復せず、失明したままでした。
出血して固まり、膜状になった血液を手術で取り除いても、また新たに出血してしまうのだそうでした。

眼については、私は主治医と会ったこともなく、詳しい説明を受けたこともありません。
私自身、病院に行くのは夜か土日だったからかもしれないし、母は意識も頭もしっかりしていたので、自分で話を聞いて判断していたのかもしれません。
ただ、今思い出すと、主治医は家族から逃げていたかなとも思います。
ずっと以前から眼の治療を継続的に受けていながら、結局、大規模な両目の眼底出血を引き起こしてしまったからです。

足の骨折の手術(人工股関節置換術)の方は1回だけで、とてもうまくいきました。
通常、人工股関節置換術が行われても、必ずしもうまくいかないらしいのですが、母は痛みもなく、元通りにはならなかったにしろ何とか歩けるようになりましたし、通常は無理になってしまう正座さへできるようになったのです。もちろんリハビリも行って、その成果もあったようです。

眼科の主治医と異なり、整形外科の主治医とは何度かあって面談し、詳しい説明も受けました。
ただ、整形外科の主治医からは、ちょっと忘れられないことを言われました。
曰く「1年後にお母さんが生きていると思わないように」

私が、母の様子から、とてもそんなふうには考えられないと言おうとしても、医師は私の言葉を強い調子で遮って、1年以内にもう一方の足も骨折してまた入院する、あれこれ合併症が出てきて、そして「死ぬんやー!」と断定されてしまったのです。

確かに、骨折がきっかけになって亡くなる方もいることは私も知っていました。
勤め先の80代の会長が、医師が言ったような経過を経て亡くなったのを数年前に見ていたからです。
でも会長は、亡くなる数十年前から医師の指示で毎日牛乳1本飲んでいた骨の脆い人でした。
そんな人と一緒な筈はなかったのです。

事実、母はその後7年生きていました。その間、家の中で何度か転倒しましたが骨折することはありませんでした。
医師があれほど強い調子で1年以内に死ぬと言ったのは何故だったのか。統計的にか、経験上からか。

一つ考えられるのは母が骨折した理由です。母は玄関の上り口から落ちて骨折したのです。
若い医師だったので、昔の住宅の玄関の上り口の高さを知らず、落下ではなく、転倒による骨折と勘違いしたのかもしれないということでした。

いずれにしても専門家である医師の言葉は、私には重かったです。
母は、医者から「1年後には死んでいる」というお墨付き?を貰って退院したのです。