「はやぶさ」の手作り模型を手に講演される的川泰宣先生(許可を得て撮影・掲載しています)
平成22年11月21日、長崎大学の『未来の科学者養成講座』として、
元・JAXA対外協力室長、宇宙教育センター長として広報と教育活動に尽力され、現在もNPO法人「子ども・宇宙・未来の会(KU-MA)」会長として宇宙を通じて「いのちを大切にする」ということを語り続けておられる
「宇宙教育の父」、
的川泰宣先生の特別講演会が開催されました。
九州で的川先生にお会いできるチャンスです、これは是非とも参加聴講せねば!
という訳で熊本県の自宅から愛車を飛ばして、長崎市へ行ってきました。
特別講演会の会場は、
長崎市科学館。講演会開始の1時間前に到着。
受け付けの方もスタッフの皆さんも、とても親切で気持よく対応して頂けました。
エントランスには、
小惑星探査機「はやぶさ」の紹介コーナーが作られていましたよ。
と、ここで講演会関係者の方々と歓談されながら展示を見ておられる的川先生にばったり遭遇!
ちょっと緊張しながら
「先生こんにちは。いつも熊本から寝台特急『はやぶさ』に乗って相模原まで『はやぶさ』に会いに来てた者です」
と御挨拶すると、すぐに「ああ、お久しぶりです!」と気付いて下さったので感激!!
的川先生に「では後程、講演会でお世話になります、聴講させて頂きます」と挨拶してから、講演会会場の講堂へ早めに入ります。
最前列中央の席を確保、やっぱり“アリーナ席”で的川先生のお話を聴きたいですよね(笑)
講堂の後方では、ちょうど
巡回展「日本の宇宙科学の歴史」が開催中でした。
やがて聴講者が集まり始め、200席ほど用意されていた席がほぼ埋まりました。
やはり子どもを連れた家族連れのお客さんが多いですね。
演台脇に、地元の中学校の校長先生が手作りされたという「はやぶさ」とイトカワの模型が運び込まれ、午後1時半に講演開始です。
さて、今日の講演会は
「日本の宇宙科学の歴史」-ペンシルロケットからはやぶさの帰還まで-という仮題がついていたのですが、
冒頭で的川先生がいきなり
「今日は、急遽資料を作ってきました。予定を変えて、はやぶさの話をしたいと思います。いいですか?」
と切り出されたので、会場はビックリ!そして満場の拍手で、講演タイトル変更決定!
かくして
的川先生特別講演会「『はやぶさ』帰る!」、開演!
「昨日は長崎大学で講演してきたんだけど、昨日聴きに来られてた方はおられますか?
昨日は講演の内容が難し過ぎると言われちゃったんで、今日は子どもが多いからやさしい話で分り易くします。
…ホントに子どもたちが多いなぁ、あ!赤ちゃんもいるけど、日本語わかるかな?」(場内笑)
「まず、皆さん『はやぶさ』って知ってますか?『はやぶさ』と聞いてわからない人、全然知らなかった今日はじめて聞いたって人いる?」
(流石に知らない人はいなかったようだけど、ここで「はやぶさ」の基礎的な説明)
「『はやぶさ』の7年間について、本気で話せば7年かかっちゃうけど今日は1時間でやります。」
(以下、的川先生の講演内容を記載します)
(星の誕生から死までの説明)
…このように太陽の生まれ方は、何となく解るんですが、惑星のでき方はよく解らない。
その解明に『はやぶさ』は役立つのではないか。
現在、40数万個の小惑星が太陽系内で見つかっている。これらは、重力が小さいのでその組成が誕生当時から変わっていない。
「はやぶさ」は史上初めて、月以外の天体からのサンプルリターンを行う。
世界で初めてのことを行う実験機である。
でも正直、
打ち上げ前は帰ってくるとは思っていなかった。
打ち上げ前に仲間内で(「はやぶさ」の成果について賭けた)トトカルチョをしたが…あ、お金は賭けていませんよ、チョコレートか何かを賭けました。
帰ってくると賭けた人はいなかった。
打ち上げ当時は日本にも元気な人がいて、だから実験機として実現した。
「はやぶさ」の旅は、私たちのルーツを探るもの。
私たちはどこから来たのか?
そして、
いのちを大事にするということ。
いのちの意味を、ルーツを探ることで考えたい。
(ターゲットマーカに88万人の名前を刻んだ「星の王子さまミリオンキャンペーン」についての説明)
会場に来ている子どもたち、
「星の王子さま」読んだことある?
まだなければ、ぜひ読んでみて。私は小学校の終わり頃に読んだんだけど…
「星の王子さまミリオンキャンペーン」には、大阪の人から事務局に電話があって「ミリオンというからには100万円くれるのか」と聞かれた。それはないと答えると「何だ」と切られて(笑)
応募の中には名前だけでなく、メッセージが添えられたものもあった。
末期がんの方の生きたいというメッセージ、
最近子どもを亡くしたお母さんから、本当の星にしてあげたいというメッセージ…
それらは、「はやぶさ」が
共感を呼んだということ。
(「はやぶさ」を打ち上げたM-Vロケットの説明)
このロケットは総重量が140トンもある。
私の総重量は0.1トンなので、私が1400人集まるとこのロケットと同じ重さになる。
しかし「はやぶさ」本体にはこんな巨大なロケットとは別に、もっと小さいエンジンが搭載してある。それがイオンエンジンとヒドラジン・ガスジェット。
(イオンエンジンと化学スラスタ、そしてリアクションホイールによる姿勢制御の説明)
ガスジェットをちょっと吹くと「はやぶさ」の機体が回転するので、姿勢制御出来る。
でもガスジェットだと回転だけでなく本体がちょっと動いてしまうので、精密な姿勢制御を行うためにリアクションホイールを使う。
このリアクションホイールは途中で1個壊れてしまったが、最初から「まぁ1個くらいは壊れるよね」と想定していたので、すぐガスジェットを用いて代用することが出来た。
しかしその後、もう1個壊れてしまったが、これもガスジェットを用いて代用。
イオンエンジンには4つのスラスタがあるが、打ち上げ直後にAスラスタが壊れた。
おかげで皆から「Aの野郎め」とか悪口を散々言われたが、結果的にこのAスラスタが「はやぶさ」の危機を救い地球帰還に導くことになる。わからないものだ。
(「はやぶさ」イトカワタッチダウン時のミッション説明)
イトカワにいる「はやぶさ」は、ちょうど家出した息子みたいに時々連絡をくれる。
タッチダウン時は、運用室の若い人が高度を叫ぶのだが、「現在高度7m」までいって、もうじき着陸だなと思ったら、着陸している筈なのに地球からの距離が延びていく。
「これはおかしい!」と、川口プロマネが緊急で離陸命令を出した。
結果、不時着していたことが判ったのだが、川口くんに「記者会見やりなよ」と言っても「みっともないからいやだ」という。
仕方がなく、直陸の記者会見を私一人で寂しく行った。
新聞には「『はやぶさ』小惑星に着陸」の見出しの横に「思いもかけず」と書かれていた(笑)
第2回目のタッチダウン。
サンプラーホーンが弾丸を発射すればモニタに
WCTと表示が出ることになっている。
普段はボソボソとしゃべる橋本樹明サブプロマネが大声で
「出たー!!!」と叫んだ。
だから皆、弾丸が発射されたことより、橋本さんのその声にびっくりした(大笑)
川口プロマネだけは冷静で「本当に弾丸が発射されたのか、これからゆっくり調べましょう」と言っていたが満面の笑みだった。
(結果として、プログラムのバグで弾丸は発射されていなかったことが分かった)
(タッチダウン後、「はやぶさ」帰還についての説明)
ガスジェットが推進剤漏れを起こし、リアクションホイールが1個しか残っていないので「はやぶさ」を回転させる方法がない。
そこで川口プロマネがとんでもないことを言い出した。
「イオンエンジンでキセノンガスを使え!」
二子玉川の団地の役員会に出席中だったイオンエンジン担当の國中先生が呼び出された。
「今、役員会中なんですけど」
「いや、役員会より大事な事だ!」
というやりとりの後、宇宙研にやって来た國中くんと「はやぶさ」機体回転のためにキセノンを使う方法を協議、若い人がイオンエンジンの中和器からキセノン生ガスを吹けばノズルが長いので姿勢制御に使えるという案を出して、採用された。
これで姿勢制御は上手くいくようになったが、しかし、その後「はやぶさ」は通信途絶してしまう。
運用チームの女性が
「家出息子から連絡が来なくなった」とつぶやくと、皆が
「お前、子供いないだろう」と突っ込んでいた。
そんな中で、川口プロマネは毎日、運用室の隅に毎日魔法瓶を置いていた。
毎日、新しいお湯に替えてある。
「俺は諦めないぞ」 と言いたかったのだろう。
おかげで元気が出ます、と若いスタッフが言っていた。
(最後の危機、イオンエンジン全停止とクロス接続による復活)
(イオンエンジン クロス接続の説明に引き続いて)
國中くんは
「正直、『はやぶさ』そのものよりイオンエンジンのほうが可愛い」と言っていた。
ダイオードによるイオンエンジン回路のクロス接続は、
「はやぶさ」の打ち上げ直前になってNECの堀内さんと國中くんが
男と男の約束をしてこっそりつけたもの。
でもこれは、明らかなルール違反です(笑)
(「はやぶさ」の地球帰還)
プラネタリウムの全天周映像作品
「HAYABUSA -BACK TO THE EARTH-」という作品が作られた。
これは「はやぶさ」の地球帰還前に作られたものだが、全部事実と同じ、完璧な作品でした。
たった一つ違っていたのは、カプセルが地上に降りた後、実際は地面でバウンドしてひっくり返っていたんだけどそれがひっくり返ってない(笑)
「はやぶさ」の地球帰還は、完全なるフィナーレでした。
(NASAのDC-8が撮影した地球帰還画像を見ながら)
2回、爆発しています。
青い光は、残っていたキセノンが爆発したもの。オレンジ色の光は、ガスジェットの酸化剤の爆発です。
地球帰還3日前に、川口プロマネが「はやぶさ君に、地球を見せてあげたい」と急に言い出して、あのラストショットが撮られた。
何枚も撮って上手くいかず、最後の一枚に地球が写っていた。
画像提供:JAXA
画像が滲んでいるので「はやぶさの涙」と呼ばれている。「はやぶさ」が泣く筈はないんだけどね…
(漫画家の里中満智子さんから届いた「はやぶさ」の応援イラストの紹介)
このイラストを紹介したいと、海外の新聞社などから問い合せメールが何故か里中さんではなくて私のところに来る。
里中さんの事務所に「メールが来てますので転送しましょうか?」と聞くと「英文だからイヤだ」と(笑)
中には「うちの新聞に載せたいんで、掲載料を送りたい。規定で200ドルということになっているが、200ドルでいいか?」と聞かれたことも。里中さんに確認したら「すべてお任せします」って(苦笑)
最後に、「幻のあすかちゃん」からの手紙を紹介して、的川先生の講演は終了。
引き続き質疑応答。
早速、僕が質問させて頂きました。
mitsuto1976のQ:的川先生は「はやぶさ」には当初、
「あとむ」という名前をつけたいと考えておられたと伺っております。
現在、「はやぶさ」のあとに続く「はやぶさ2」の計画があり、正式に予算が出るまであと一歩というところまで来ていますが、
先生は「はやぶさ2」の正式な名前は何とつけたいと思われますか?
的川先生のA:え~っと、何てつけようかね(笑)
(ここで、「はやぶさ2」計画についての説明)
「はやぶさ」命名の際には、私は以前打ち上げた衛星に「ひのとり」という名前をつけたときに手塚治虫先生に挨拶に行ったら
「次は、アトムなんてどうです」と言われて、
しかも「はやぶさ」の打ち上げられた2003年は「鉄腕アトム」が産まれた年という設定になってるんですよ。
それで、これはピッタリだと思っていたら宇宙研の上杉邦憲先生と川口プロマネの工作で「はやぶさ」と決まってしまった。
「はやぶさ」は鳥のハヤブサのようにさっと舞い降りて獲物を掴んで舞い上がるイメージがあっていると言うんだけど、
糸川英夫先生の設計した飛行機の「隼」や、
昔、内之浦でロケット実験をやっていたときに、糸川先生は飛行機でさっさと行ってしまうんだけど、我々は飛行機代が出ないんで
特急寝台の「はやぶさ」号で29時間かけて行くんですよ。これがとにかく、きつくてね。(笑)そのイメージです。
「はやぶさ2」の名前ですが、
「はやぶさ」がこれだけ有名になったので、「はやぶさ2」にせざるを得ないかも?
もう今更「あとむ」はないでしょうが。
一応、手続き上はもう一度、名前を付け直すことになるよ。
…そうですね。今や「小惑星へ行って帰ってくる船=はやぶさ」でイメージが固まってしまった感もあるし、そのまま正式な愛称も「はやぶさ2」の方がしっくりくるかも知れませんね。
でも先生、あんまり寝台特急「はやぶさ」に乗るのは大変だった、つらかったと仰らないでください!
僕は宇宙の「はやぶさ」も地上の「はやぶさ」も、どちらも同じ位に愛してるんですから!(笑)
続いて、先の大戦中に海軍のロケット兵器「桜花」の訓練をされていたという方からの質問。
Q:「日本の宇宙科学の歴史」の展示を見たが、糸川先生は兵器としてのロケットを基にペンシルロケット等を開発されたのでしょうか?
A:日本では昭和7年に、陸軍と海軍でロケットの開発を始めました。
昭和9年に神奈川県の辻堂の海岸で、後に戦艦大和の開発などもされた方が自作のロケットを上向きに打ち上げたのが日本で最初の打ち上げだと言われています。もっとも、後で憲兵に大目玉を喰らったそうですが。
その後、固体燃料の「桜花」、液体燃料の「秋水」というロケット兵器が産まれました。
この時点で、
日本はドイツに次いで世界で2位のロケット技術を持っていたが、戦後その資料はほとんどすべて失われたので、ペンシルロケットには受け継がれませんでした。
もし戦前の技術を継承できたら、日本はもっと高みからロケット開発を始めることが出来たでしょう。
続いて、子供を連れたお母さんからの質問。
Q:的川先生の子供時代について聞かせて下さい。どんな子でしたか?
A:野球が大好きで、広島カープの選手になりたいと思っていました。
中学校からはテニスを始めました。
その後、夜釣りに行った時に見た月や、ペンシルロケット、スプートニクを思い出して、大学では宇宙工学コースに進みました。
でも実は、宇宙工学は新設されたばっかりで3人しか募集がなかったので、これは少人数だからきっと大事にしてもらえるぞと(笑)
大学に入ったらテニスばかりしていましたね。
不勉強だったので、天文学は何となく受け身だと思っていまして、まぁそれは間違いなんですけど。受け身でなくこちらから出て行く宇宙工学を、と思っていました。
Q:「はやぶさ」のイオンエンジン開発者の方は、勝手にクロス接続をしたので処分はあったのですか?
もし正規の手続きを踏んでいたら、クロス接続は可能でしたか?
また、的川先生ならどうされていましたか?
A:処分などはありません。
正規の手続きだと、打ち上げ直前の衛星をいじるなんて絶対無理です。あの時はNECの人もいたので、実現できました。
國中先生の執念なので、(勝手にクロス接続は)そうせざるを得なかったと思います。
あれくらいに切羽詰ったら、私もやると思います。
でもそれは切腹覚悟です。
執念のルール違反です。
Q:「はやぶさ」地球帰還の3年延長は想定していたのですか?
A:帰還を延長しても、キセノンの消費量には大差はありません。
でも、キセノンを大量に詰め込んでいたおかげで心の余裕ができました。
結果として、川口プロマネの慧眼でした。
…以上、時間一杯まで質疑応答を受け付けて、
的川先生の特別講演会「『はやぶさ』帰る!」は無事に終了しました。
そのまま大勢の親子連れに取り囲まれて、サイン会に応じる的川先生に、「今日はありがとうございました!再来週、内之浦でまたお目にかかります」と御挨拶。
それから、僕もサインを頂いちゃいました。
先々週、佐世保で吉川先生に表紙ページにサインを入れて頂いた「星の王子さま」の本の、
最後のページ、僕が一番好きな挿し絵の中に、的川先生にサインして頂きました。
この後、僕の名前も書いて頂いたのですが、何と的川先生は僕の本名をフルネームで憶えていて下さって感激!
的川先生、ありがとうございました。
内之浦でまたお会いできるのを、楽しみにしています!
(講演会レポ終わり。次は12/4、内之浦で「おおすみ」40周年記念式典の講演会に参加予定!)