田舎へ墓参に行っていた。お盆とは何の関係もなしに墓を見て、手を合わせて先祖を思い出していた。
正確に書けば僕には故郷がない。菩提寺のある町に住まったことはない。親戚にはあわないし、もちろんそんなお義理はとうの昔に断ち切ってしまっている。墓の管理者すら知らぬのがいまの僕だ。
盆中の地方都市は異常なくらいの混みようなので、朝の5時から2、3件の寺をまわって、あとは三陸道をつかって同県の港町で避暑をかねて釣りをして過ごしていた。毎年のことなのでこれを私的慣習だと密かに得心している。
志津川という町には海しかない。他にあるものといえば山と空くらいなものか。それほどの田舎である。あんまり何もないものだから、結局は釣りと酒になる。そんなところで3日も釣り糸を垂らしていれば、いつしか僕も田舎の人々に嵌りこむといった案配だ。果たして田舎は僕にありあまるほどの旅情をあたえてくれた。旅情とは思い出であり哀愁の同義語である。また一年後、生きていれば再びこのつらさ寂しさを味わうことができるのだ。
僕の慣習とはつまるところ、エトランジェを演じることにある。どこに出かけようが、だれと相擁しようが、常に寂しいものなのだ。夏のおわりは寂しいものなのだ。
正確に書けば僕には故郷がない。菩提寺のある町に住まったことはない。親戚にはあわないし、もちろんそんなお義理はとうの昔に断ち切ってしまっている。墓の管理者すら知らぬのがいまの僕だ。
盆中の地方都市は異常なくらいの混みようなので、朝の5時から2、3件の寺をまわって、あとは三陸道をつかって同県の港町で避暑をかねて釣りをして過ごしていた。毎年のことなのでこれを私的慣習だと密かに得心している。
志津川という町には海しかない。他にあるものといえば山と空くらいなものか。それほどの田舎である。あんまり何もないものだから、結局は釣りと酒になる。そんなところで3日も釣り糸を垂らしていれば、いつしか僕も田舎の人々に嵌りこむといった案配だ。果たして田舎は僕にありあまるほどの旅情をあたえてくれた。旅情とは思い出であり哀愁の同義語である。また一年後、生きていれば再びこのつらさ寂しさを味わうことができるのだ。
僕の慣習とはつまるところ、エトランジェを演じることにある。どこに出かけようが、だれと相擁しようが、常に寂しいものなのだ。夏のおわりは寂しいものなのだ。