akikoの「活動」徒然記

活動弁士佐々木亜希子の身の周りの出来事やふと感じたこと

「声の壁~発言できない議員 」

2007-06-18 | バリアフリー映画、福祉
深夜、NNNドキュメント07「声の壁~発言できない議員 」を観た。やるせない憤りを覚え、涙が出る。

がんで声帯を手術し、声を失った中津川市議会議員小池公夫さん(67)。
教員を務めた後、1999年に初当選、2002年にガンで声帯を失うが、翌年再選。だが、声を失ってから4年間、一度も本会議で質問できないまま、この4月に任期を終えた。

彼は、議会事務局員による代読を求めてきたのだが、議会はそれを拒絶し続けた。理由は「本人の努力によって発声できるようにするべき」。市民の署名運動などもありその後小池さん以外の議員たちにより「パソコンの音声変換による質問のみ了承」という取り決めがなされたが、すぐにでも実行できる「代読」は否定され続ける。
岐阜県弁護士会の議会への勧告にも関わらず、「パソコンの機械的な音声では伝わらない。人の肉声で代読してほしい」という小池さんの願いが聞き入れられることはなく、ついに昨年12月、小池さんは岐阜地方裁判所に、議長以下、数名の議員を提訴した。

まず、思いを寄せるのは、突然声を失った人間の悲しみと心痛である。もしも自分が声を失ったらーそう考えると恐ろしい。その苦しみから希望を取り戻し、前に進むのは大変なことである。
そういう彼を支援し、一期目の彼を評価した市民がいて、再選したのだから、それは彼にとっての大きな支えであり責任だったはずである。
発声の訓練や努力をしなかったわけではない。彼の声はどんなに頑張っても、マイクを通して質問ができるほどにはならなかった。頑に「代読」を拒む議員の一人は、「選挙で『声が出ます』って言って当選したんだから、それは公約と同じ。自分でそれを守ってもらわなきゃ」という。だが、彼を支援した人々が「声が出るって言ったのに出ないじゃないの、公約違反だよ」と本人を責めた訳ではない。むしろ、彼に託した市民の声が議会に通らないことに憤りを感じたはずだし、市民の一代表である彼にも他の議員と平等の発言が保証されて然るべきではないか。「声が出ないから」と市民の一代表の発言を切り捨てるということは市民の声を尊重していないということである。
それにもしも、自分が声帯を失って同じ立場になったらどうか。「自分の意志をできるだけ思い通りに伝える」ということを、どれだけ渇望するか。
「代読をしてもらう」、これだけのことが許されない議会。「代読をしてあげる」これだけのことを許せない議会。一人を思い遣ることのできない器の小さな議会が民主主義か。

小池さんが自民党なり多数派の政党だったなら、処遇は絶対に違ったと私は思う。少数派であり、同じ議会内でも立場が軽んじられていた気がするし、大勢側の議員は仮に「代読くらい許可すべき」と思っても長いものに巻かれていたりする。

だから、個人として、確かに真っ当とは言えない議会に反発を抱き、権利を執拗に主張した小池さんの気持ちを思うと苦しい。でも彼は、議会においては市民に選ばれた一代表であり、どんな手段でも市民の声を反映させていくのが第一の使命である。自分の発言方法に関する主張よりまず、口惜しさを飲んででも「パソコンの音声変換による質疑応答」が許された(それもなぜ許されなければいけないんだという憤りはあるが)段階で、それをどんどんすべきだったはず。そうするうちに「やはりパソコンの音声では聞き取り辛い」という意見が出なかったとも限らない。
自分の想いに固執するあまり(確かに、通ってしかるべき人権だと思うが)、壁がどんどん強固で壊しにくいものになってしまった。
この4年間、議会では再三小池さんの発言方法を巡って討議がなされてきたという。そのことにたくさんの時間を費やすことは、市民のための議会ということを思えば、あまり賢いことではない。議会も小池さんもわかっているはず。
人間、意固地になればなるほど、周囲の壁は厚くなり、生きにくくなるし、分かってもらい辛くなる。お互いに。


裁判の行方がどうなるのか。障害を持つ人々の社会生活におけるハンディキャップが少しずつ埋められていくといいのだが。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「幕末渡世異聞~月太郎流れ... | トップ | 豊田直巳「戦火の子どもたち... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

バリアフリー映画、福祉」カテゴリの最新記事