爺婆の正月休み(20日から22日)の話です。
「お伊勢さん」(伊勢神宮・内宮)へ行きました。ここ数年、正月休みはお伊勢さんからです。数年前、町内会の役員をさせて戴いた縁で、昨年「特別参宮章」を戴きましたので、今回生まれて初めて特別参拝「御垣内(みかきうち)参拝」をさせていただきました。
内宮正殿
いつもは、階段を上がったところで参拝して帰ってきますが、白い布の向こう側、外垣の内へ入り、白い玉砂利が敷き詰められている場所「御正殿の真正面」で参拝させて戴きました。
神主さんの先導で、大きな玉砂利の上を歩く時は、少しばかり気の高ぶりを感じながら、また、少しばかりの優越感をも感じていました。・・・参拝後に婆にそのことを話したら「あんたは不謹慎者やね」と一喝されてしまいました。
その後、「荒祭宮」を参拝し、今回初めて、元寇の役の時神風を吹かせたという「風日祈宮(かざひのみのみや)」を参拝して帰ってきました。
宇治山田の駅に着きました。
突然ですが何故「宇治山田」なんでしょう。宇治=京都と思っていましたから、本来「伊勢山田」が正しいのではないんだろうか?と。
帰ってから調べました。・・・「伊勢市」は以前「宇治山田市」であったとのこと、そして内宮のある地域を宇治地区と言い、外宮のある地域を山田地区といったそうで、どうやらそれが名前の由来のようです。60年近く何も疑問に思わなかった地名が何故今年疑問に思ったのか分かりません。
そういえば、内宮参拝の時に、五十鈴川にかかる橋を渡りますがその橋の名は「宇治橋」でした。式年遷宮を前に、間もなく取り壊しが始まるそうです。
次に「椿大神社」に参拝しました。「猿田彦さん」と言った方が皆さんには馴染みがあるかも知れませんね。天孫降臨の際、猿田彦大神が御先導申し上げたことによって、一般には「地鎮祭」の神様とされています。、爺の母が今から50年近く前から信仰していた神様で、今は婆が引き継いでお参りしているのです。
松下幸之助さんも篤く信仰され、寄付された鈴松庵もあります
爺だけの外伝・・・大海人皇子(天武天皇)が吉野を出立し伊賀・伊勢を経由して美濃に逃れ、これらの地方豪族の力を借りて挙兵したのが壬申の乱であった。徳川家康が本能寺の変の後本国三河に戻る際も伊賀越えをしたように、昔からこの地(伊賀)の人々は「忍者的素養」がありいずれも道案内をしたと思われます。猿のように身のこなしが軽快であったのでしょうか、そんなところから「猿田彦」という名ができたのではないでしょうか。・・・・・また、婆に「不謹慎者!」と一喝されそうだ。
その日は湯の山温泉の「蔵の助」という宿に泊まりました。菰野町に住む従姉妹の紹介でした。忠臣蔵の大石内蔵助とどういう関係?、こじつけだろうと思っていたら、ちゃんとした関係がありました。浅野内匠頭長矩の弟・浅野大学の妻がここ菰野藩の御姫様であったそうで、大石内蔵助は江戸への行き帰りに湯の山温泉に逗留したそうです。
少し強行軍であったのと、寒かったこともあって、婆は風を引いたらしく、夕食が終わったらバタンキューと寝てしまいました。爺は夜中の2時に目が覚め、TVを点けて「オバマ大統領の就任式」を見ました。日本人にはないエネルギーみたいなものを感じながら再びふとんの中に潜りました。
こうして、爺婆正月休みの一日目は終わりました。
2日目は西川リビングの本社で仕事。正月休み中断。 3日目の珍道中はまた明日。