戦前・戦中派の私から若い方達への申し送りです。どのような事でも世論に流されずに自分の頭で考えましょう。
5月29日、NHKのクローズアップ現代+で「客の悪質ハラスメント、暴言で従業員の心が--」と言う番組が有りました
・ケアホームで老人の暴言、ホームから外出するのに老人の娘から、ホームのサービスの範囲外の、車で送り迎えしろと要求など、ただでさえ不足の従業員が辞める。
・客からは法外の暴言に悩まされるタクシー運転手。一番酷いのは客が行き先を告げないのでどこにに行くかと訊くのに腹を立てて、スマホで運転手の名前を入ったカードを写したものSNSに投稿、運転手は会社を辞めたが、他のタクシー会社から採用拒否で遂に廃業の憂き目。
・遂にどの会社もお客優先で客の無理を聴いていた方針を転換し、如何に従業員を確保するのを優先の政策の転換に向かっているとの解説。
「モンスター・ペアレンツの発生」
私は「客の悪質ハラスメント」のテレビを見ながらモンスター・ペアレンツ関連で何度も私の意見を書いたことを思い出しました。
昭和40年代に本屋で見た教師用の公民の指導書を見て驚きました。
日本憲法では「国民に権利はあるが、義務はない」のだと言うのです。そしてその推薦者に当時教科書裁判で名あげた家永さんの名を見つけ、左翼の人が書いたものと判りました。確かに実際に憲法を見ても権利の文字は多く出ますが、義務の文字は数カ所しかありません。
これを米国の謀略だと言う人もいますが、私は善意に取って考えて見ますと、米国で何時も問題になるように、「個人の責任」重視の文化があるので、権利に伴って当然に付随する義務や責任の記述を忘れたのかも知れません。
問題は先の指導書のように日教組などが純真な生徒に、権利重視、義務・責任軽視の教育をしてきたのだと思います。
戦後の私は子ども達に権利より、他への思いやりや、権利に伴う義務や責任もあると教えていたのですが、敗戦のショックで首を捻りながらの意見なので力がなかったことを思い出します。
学校ではかなりの教師が権利ばかり教え、いくらかの父兄がそれをそのまま黙認、その子が大きくなり子どもを持つと言う負の連鎖で、「荒れる子供」や所謂モンスター***が産まれました。
これに関連して私とほぼ同年代の佐藤愛子さんの「九十歳何がめでたい」の一文を紹介します。
「我ながら不気味な話」
私は子供が叫んだり泣いたり歌ったり力一杯騒ぐ声が好きだ。だがその天使の合唱を煩いと言って怒る人がいるのだ。保育園の隣りに住んでいる人が煩いと同園に文句。保育園の反対運動が報じられている。私は空襲警報がなり響き町は死んだように静まり返った恐ろしい静寂を知っている。町の音は交じり合い煩いうるさいくらいの方が良い。我々の生活に活気がある証拠だ。それに文句を言う人が増えているのは、この国が衰弱に迎え前兆のような気がする。
「子供の気持ちを考えない裁判所」
某小学校で六年生の男性がサッカーボールを蹴っていたとき、ボールが校門を越えて、オートバイで走ってきた老人に当たりそうになり、それを避けようとして転倒、足を骨折し入院、それから一年四カ月後に肺炎で死亡。老人の遺族は少年の両親が監督義務を怠ったと提訴。それに対する判決は両親の監督責任を認め、二審で千八百万円の賠償を命じ
た。なんともおかしな話だ。校庭でボールを蹴っていただけ、それが何故親の監督不届きになるのか。老人は転倒して骨折したがそれの原因で死亡したのではなく肺炎だ。
わが国は昔から運が悪かったという言葉があり、諦めて耐えるとと言う智恵を持っていた。耐えがたきを耐えて相手を許すことは最高の美徳だった。悪意の無い事故までモトをとろうとするガリガリ亡者は居なかった。そしてその彼らの味方を司法がしている。そして誰も運の悪かった子供の気持ちを考えない。(以下の記述は長くなるので省略しますが最高裁で少年側が勝訴。)
サービス産業従業員へ心ない利用者の暴言。日教組の権利ばかりの教育が産んだンスターペアレンツ。佐藤愛子さんを怒らせた話。
三つとも「戦後教育が産んだ自分中心」というキーワードで皆繋がっていると思えるような気がするのですが。皆さんどう思わます?
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5月29日、NHKのクローズアップ現代+で「客の悪質ハラスメント、暴言で従業員の心が--」と言う番組が有りました
・ケアホームで老人の暴言、ホームから外出するのに老人の娘から、ホームのサービスの範囲外の、車で送り迎えしろと要求など、ただでさえ不足の従業員が辞める。
・客からは法外の暴言に悩まされるタクシー運転手。一番酷いのは客が行き先を告げないのでどこにに行くかと訊くのに腹を立てて、スマホで運転手の名前を入ったカードを写したものSNSに投稿、運転手は会社を辞めたが、他のタクシー会社から採用拒否で遂に廃業の憂き目。
・遂にどの会社もお客優先で客の無理を聴いていた方針を転換し、如何に従業員を確保するのを優先の政策の転換に向かっているとの解説。
「モンスター・ペアレンツの発生」
私は「客の悪質ハラスメント」のテレビを見ながらモンスター・ペアレンツ関連で何度も私の意見を書いたことを思い出しました。
昭和40年代に本屋で見た教師用の公民の指導書を見て驚きました。
日本憲法では「国民に権利はあるが、義務はない」のだと言うのです。そしてその推薦者に当時教科書裁判で名あげた家永さんの名を見つけ、左翼の人が書いたものと判りました。確かに実際に憲法を見ても権利の文字は多く出ますが、義務の文字は数カ所しかありません。
これを米国の謀略だと言う人もいますが、私は善意に取って考えて見ますと、米国で何時も問題になるように、「個人の責任」重視の文化があるので、権利に伴って当然に付随する義務や責任の記述を忘れたのかも知れません。
問題は先の指導書のように日教組などが純真な生徒に、権利重視、義務・責任軽視の教育をしてきたのだと思います。
戦後の私は子ども達に権利より、他への思いやりや、権利に伴う義務や責任もあると教えていたのですが、敗戦のショックで首を捻りながらの意見なので力がなかったことを思い出します。
学校ではかなりの教師が権利ばかり教え、いくらかの父兄がそれをそのまま黙認、その子が大きくなり子どもを持つと言う負の連鎖で、「荒れる子供」や所謂モンスター***が産まれました。
これに関連して私とほぼ同年代の佐藤愛子さんの「九十歳何がめでたい」の一文を紹介します。
「我ながら不気味な話」
私は子供が叫んだり泣いたり歌ったり力一杯騒ぐ声が好きだ。だがその天使の合唱を煩いと言って怒る人がいるのだ。保育園の隣りに住んでいる人が煩いと同園に文句。保育園の反対運動が報じられている。私は空襲警報がなり響き町は死んだように静まり返った恐ろしい静寂を知っている。町の音は交じり合い煩いうるさいくらいの方が良い。我々の生活に活気がある証拠だ。それに文句を言う人が増えているのは、この国が衰弱に迎え前兆のような気がする。
「子供の気持ちを考えない裁判所」
某小学校で六年生の男性がサッカーボールを蹴っていたとき、ボールが校門を越えて、オートバイで走ってきた老人に当たりそうになり、それを避けようとして転倒、足を骨折し入院、それから一年四カ月後に肺炎で死亡。老人の遺族は少年の両親が監督義務を怠ったと提訴。それに対する判決は両親の監督責任を認め、二審で千八百万円の賠償を命じ
た。なんともおかしな話だ。校庭でボールを蹴っていただけ、それが何故親の監督不届きになるのか。老人は転倒して骨折したがそれの原因で死亡したのではなく肺炎だ。
わが国は昔から運が悪かったという言葉があり、諦めて耐えるとと言う智恵を持っていた。耐えがたきを耐えて相手を許すことは最高の美徳だった。悪意の無い事故までモトをとろうとするガリガリ亡者は居なかった。そしてその彼らの味方を司法がしている。そして誰も運の悪かった子供の気持ちを考えない。(以下の記述は長くなるので省略しますが最高裁で少年側が勝訴。)
サービス産業従業員へ心ない利用者の暴言。日教組の権利ばかりの教育が産んだンスターペアレンツ。佐藤愛子さんを怒らせた話。
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