戦中派の私から若い方達への申し送りです。どのような事でも世論に流されずに自分の頭で考えましょう。
・情報モラル教育の不徹底
11月の読売で「学習端末トラブル続発」、「小中校、14自治体、いじめや中傷」、「アダルト動画閲覧も」のおどろおどろしい表題が並んでいます。
・学習端末使用の問題点の対策無視?
武雄市のタブレット配布は、本当に怖い政策だと思います。長い目で見ると、字を書けない子供、本を読めない子供、作ることができない子供を量産してしまうのではないのでしょうか。という一般の人の投稿。
その一般の方の意見に対する教育の専門家(大学教授の3人の内一人)の意見のそのまた概略です。
科学の進歩を肯定する人たちは、必ずその科学によってもたらされる利点を説きます。そして、欠点は隠そうとします。でも、どんなことにも利点と欠点はあるものです。それを理解した上で、そのものを使いこなすならそのことがもたらす問題を最小限に抑えることが出来るでしょうが、欠点に目を向けず、利点ばかりを強調してそれを推し進めていると、気付いたときには取り返しのつかないことになってしまっている可能性もあります。
長所だけを見て、そのような欠点に目を向けない社会はやがて自滅していくのです。
でも、欠点だけを見て、何もせず、そこで止まっていては、進歩がなくなり、その場合も自滅していきます。
最近のタブレット端末は非常に使いやすく出来ているので、乳幼児でも、猿でも、それなりにそれを使って遊ぶことが出来るようになっています。
文字を学んだり、様々な知識を得ることや、絵を描いたり、音楽を演奏することも可能です。
確かにそれは利点です。
タブレットでのお絵描きには、アイデアやインスピレーションを形にする喜びはあるのかも知れませんが、「創造の喜び」や「達成感」といったようなものはないような気がするからです。
それは、山の頂上まで車や、ケーブルカーで乗せてきてもらったようなものです。確かに、頂上までは行けるのですが、「自分の力でここまで登ってきた」という喜びがないのです。
でも、ここで誤解をしてはいけないのは、そのように何でも簡単にできてしまうのは、私たちの能力がアップしたからではなく、機械が手助けをしてくれているからだということです。
それはつまり、機械がなければ何も出来なくなってしまうということです。
「そんなバカな」と思うかも知れませんが、子どもの能力は子どもの時の環境に合わせて特殊化され、発達するので、大きくなってからいきなり子どもの頃の環境になかったものを与えられても対処できないのです。
学習においても、学習が効率的に行えるのは、子ども達の学習能力がアップしたからではなく、機械の方が子ども一人一人の学習方法に合わせてくれるからです。
ですから、確かに学力は上がると思いますが、それだけに依存していたら逆に学習能力は低下するでしょう。
そのため、タブレットがない状況では逆に学習が困難になるでしょう。
最初から学習に障害のある子が、タブレットのような道具を使って学習するのはいいと思います。
でも、そうではない子の場合は、「学力」は上がっても「学習能力」は低下するからやめておいた方がいいと思います。
本来は、「学力」と「学習能力」は別のものなのです。それは「栄養」と「咀嚼力・消化吸収能力」の違いのようなものです。
「学習能力」(粗食力・消化吸収能力)の結果として「学力」(栄養)が取り込まれたのですが、簡単・便利に学習をサポートする道具が生まれたため、学習能力が低くても、学力だけは上げることが出来るようになったのです。
でも、「学力」は学校でしか役に立ちませんが、「学習能力」は学校以外の場でも、自分の人生を生きる場でも役に立ちます。子育てでも役に立ちます。
自分の口で食べることで「食べる喜び」を感じることが出来ますが、点滴には「点滴の喜び」がありません。ただ、栄養が入ってくるだけです。
また、人間は人間と関わりながらでないと生きて行くことが出来ませんが、現実世界で出会う人間はタブレットのようにその人の個性や能力に合わせてはくれないのです。
そのため、タブレットのような機械とのコミュニケーションにばかり依存して育った人は、人間を相手にするより機械を相手にすることを選ぶようになるでしょう。
実際、そのような人が増えてきているような気がします。
大人は子どもの学力にしか関心がないから、タブレットでも何でも使えるものは何でも使って学力をアップさせようとするのでしょうが、「学習能力」が低下してしまったら、生活の場や人間関係の場や、自分の人生を生きるという場で困ったことになってしまうのです。
だからといって、タブレットなど使っていない今の学校教育の方が優れているということではありません。
日本の学校教育は今の状態でもかなり狂ってしまっているからです。だから、「学力のアップにつながるなら」と、簡単にタブレットや塾に飛びついてしまうのです。
そして、学習能力を育てようとしないまま、学力だけを上げようとしているから、簡単にタブレットに飛びついてしまうのです。
その子どもの「学習能力」の育ちには多様な体験が必要になります。
役に立つこと、意味があることだけでなく、失敗や無駄なことも含め、あれやこれや雑多な体験が必要なのです。
また、見る、聞く、感じる、やってみる、喜ぶ、泣くという体験も必要です。
「子ども」という丸ごとが育つためには、「心とからだ丸ごとに響くような雑多な体験」が必要なのです。
子どもは本能的にそのことを知っていますから、大人の期待を裏切り無駄なことをいっぱいやるのです。
そして、この学びは効率化できないのです。
それは「簡単便利」になれてしまった大人には「無駄なこと」ですが、子どもが一人の人間として成長するためには必要なことなのです。
タブレットでの学習は、この対極にあります。
たしかに、学力はアップするかも知れませんが、その一方で子どもの自己肯定感や、人と人とのコミュニケーション能力や、状況に合わせた問題解決能力や、精神的自立の成長は阻害されるような気がします。
・英語教育の導入に伴う問題点の対策不徹底
文部科学省の教育方針に対して『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』の著者の国立情報学研究所・教育のための科学研究所の所長教授の新井紀子さんが反対しています。
その他文科省が小学校で英語教育の導入に対して「本を読ませろ」と反対した藤原正彦さん。そうしない為に新井紀子さんの言うように教科書の読めない生徒ができるのです。
・私の経験
私は子供の時から本を読むのが好きで小学校に入る前から本にすべてふりがなが付いていた本を乱読しました。当時流行っていた講談本、少年クラブ、婦人クラブからまで手当たり次第。結果は學校から帰っての自習ゼロ。それでも旧制高等小学校の卒業間近になったころ担任の先生の推薦で、旧制工業学校に殆ど受験勉強しないまま約9倍の競争率の中を合格。調子が良かったのはここまで。英語や機械装置の説明も不勉強が祟って中位に低迷。
不勉強でここまでできたのは本をよむための集中力、理解力が高等小学校のすべての学科、国語はもちろん算数、理科などにたいる理解力だったのでしょう。
・今は小学校からの英語、ブログミンク教育など教員の負担増加、それに伴って発生した教員のわいせつ行為。私のいた当時の教師は皆から尊敬されていたし、その負担は今の教師に比べるとはるかに楽。当然に教師で猥褻行為など考えられないこと。
問題は今の末松信介さんが文部科学大臣になりましたが、同省に就いての発言なし。また今のピンボケの文部科学省がつづくのでしょうね。
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