俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

見栄え

2016-09-20 09:57:38 | Weblog
 柔道にせよ総合格闘技にせよ、立ち技と比べて寝技は見栄えがしない。寝技が多ければショーとして成立しにくくなる。
 政治にも立ち技と寝技があり、有能な政治家は寝技に長けていた。ところがマスコミ受けが問われるようになると寝業師よりも小泉純一郎氏のような立ち技師が高く評価されるようになった。
 女性政治家が注目され易いのは立ち技で勝負をしようとするからだろう。地味な根回しよりもマスコミを味方に付けた大立ち回りを彼女らは好む。それは、彼女らが子供の頃から外見に気を配るように躾けられていたからだろう。
 しかし女性政治家の取り組み姿勢は薄っぺらと思えてならない。厚化粧によって外見を取り繕うばかりで内面的な深みは感じられない。ふと子供の頃のことを思い出した。小学生であっても問題を自分達だけで解決しようとするものだ。ところが「告げ口女」がいて自分一人だけ良い子になろうとして先生に告げ口をしてそれをぶち壊す。良い子ぶるとは実に卑劣な行為だと子供心に感じたものだ。
 政治家は男女を問わず見栄っ張りな人種だ。人気商売だから世間に注目されなければ票を集めることができない。そのためには冷徹なほどの打算が必要だ。堅実に仕事をこなしつつ注目を集めることはかなり難しい。多くの政治家はこんな社会で立ち技も寝技も磨いている。
 一方、今注目されている二人の女性政治家はどちらも芸能界出身者だ。芸能人として注目されるためのテクニックを充分に身に付けている。しかし女性芸能人は男性以上に外見によって評価され勝ちだ。そんな社会にした責任の大半は男性にあるのだろうが、二人共に口先だけの薄っぺらい人と思えてならない。これは全くの偶然だが二人の名前には「百合」や「蓮」といった花が含まれている。芸能界出身という経歴こそ最大の弱点だろう。確かに若くして有名人になる道は芸能かスポーツしか無いだろうが、芸能界はあらゆるビジネスの中で最も常識が通用しない社会でもある。そんな社会での経験は余り役に立たない。
 特に小池百合子知事には大いに不安を感じる。就任早々にちゃぶ台返しをして喝采を浴びたがどうオトシマエを付けるつもりなのだろうか。良識ある人であれば初めから落としどころを考えて騒動を起こすものだが、彼女にそんな深慮遠謀があったようには思えない。今後を問われると「指示をした」と繰り返すが「解決せよ」と指示をしても解決できる訳ではない。全くの世間知らずなのではないだろうか。幾ら幹部を補強しようとしても具体的なビジョンが欠けていれば患部ばかりが補強される。「良きに計らえ」に近い指示しか出せなければ殿様にならなれても首長の職務は勤まらない。
 攻撃力と守備力は一致しない。寝技の得意な老練な政治家であればまず身辺の守りを固めるが、攻撃に頼る人は守りを軽視して墓穴を掘り勝ちだ。小池知事は空に向かって唾を吐いた。それはいずれ自分の頭上に落ちて来る。どう対処するつもりなのだろうか。私は大いに不安を感じる。
 ここまで問題が拡大してしまえば最早豊洲への移転は不可能であり築地での存続が唯一の選択肢になってしまった。こんな強引なやり方が都民ファーストの名に値するのだろうか?
 私は男女には違った能力があると考えている。だからこそ女性政治家の活躍には期待したい。しかし全女性を代表すべきなのは、男性に媚びることによってその地位を得た芸能人崩れではなく、能力によって男性を凌いだ学者・研究者であるべきだろう。ドイツのメルケル首相もアメリカのクリントン候補も芸能界とは無縁だ。政治家にとって最も重要なのは泥臭い実務能力であって、見栄えに頼っていれば問題解決には繋がらない。最初の内こそ犯行を暴く探偵役が許されようが、知事に求められるのは解決力だ。そうでなければ行政の責任者は勤まらない。

障害者のスポーツ

2016-09-19 09:53:05 | Weblog
 パラリンピックの走り幅跳びを見ていてこんなことを思い出した。
 オリンピックの参加資格が「アマチュアであること」だった時代にこんなエッセイを読んだ。「20xx年からオリンピックの参加資格が大幅に緩和されて『人間であること』とされた。100m走の決勝に残ったのはいすれ劣らぬ超人ばかりになった。流石にジェット噴射までは認められないが、サイボーグや、薬によって徹底的に培養して作られた人、遺伝子操作による新人類、スポーツエリートを厳選してその人工交配によって生まれた超スポーツエリート、あるいはチーターと共に育てられて走ること以外何一つ学ばなかった野生人等、実に様々な顔ぶれとなり、3mを越える巨人もいた。レースは4本足で走るチーター男がスタート直後は先行したが最新のメカによって強化され尽くしたサイボーグ選手が圧勝した。優勝タイムは3.0秒だった。」
 こんな粗筋の寓話から始まって当時のステート・アマ制度を皮肉っていたが、今こんな話を聞けばパラリンピックに対する皮肉のように思える。アマチュアであることを障害者であることに置き換えればパラリンピックは非常に奇妙な見世物と感じられる。
 障害者であるということだけが条件であれば技術競争の場になる。選手ではなく補助器具の優劣が勝敗を決めるからだ。F1が自動車の性能競争であるようにパラリンピックは補助器具の競争の場になる。
 そんな競争になれば、時間を掛けて個人の能力を高めるよりも、その器具さえあれば誰でも超人になれる着脱自在な強化スーツが注目されるようになるだろう。その時点では参加者を障害者に絞る必要性など失せてしまう。最早スポーツでさえなくなって工業製品の品評会になってしまう。
 パラリンピックは既に工業技術を競争するたの場になっている。1台1500万円と言われる競技用車椅子はあらゆるスポーツ大会で使われる補助器具の中で最も高価だろうし、走力やジャンプ競技に使われるオーダーメイドの義足は勝敗の鍵を握る。何とも贅沢な競技だから、補助器具の市場が巨大な先進国でスポンサーを見付け出さない限り勝ち目は無い。
 パラリンピックの選手は2種類あり、先天的障害者と後天的障害者だ。後天的障害者は更に2種類に分けられ、交通事故の犠牲者と戦争での被災者だ。戦争での被災者は被災した市民と負傷した兵士に2分できる。常に戦争を続けているアメリカの場合、負傷を負った兵士の社会復帰が大きな社会問題になっており、障害者スポーツは重要な就職先になっているようだ。重い傷を負った兵士のための第二の人生の場まで提供するとは何と凄い「福祉大国」なのだろうか。ここまで配慮されているからこそアメリカ人は遠い異国まで出掛けて障害者になることさえ厭わずに「死の商人のために」戦うのだろう。

お節介

2016-09-18 10:12:57 | Weblog
 食道癌を患って以来、多くの人から色々な勧奨をされるようになった。民間療法であったり、健康法であったり、健康食品であったり様々だ。中には私が大学時代に好んだパスカルによる神の存在証を持ち持ち出す人もいるが、医療関係者からの真面目で科学的な推奨以外は総て門前払いにしている。
 最近では割と広く知られるようになったパスカルによる確率論に基づく神の存在証明とは次のようなものだ。キリスト教の信者には永遠の至福が約束されており、この教義が真実である可能性がたとえ一万分の1%であったとしてもその期待値は無限大になる(∞×1/1,000,000=∞)。こんな有利な賭けは他には無いのだから、どんな事情があろうともキリスト教徒になったほうが得だ、というものだ。同じ論法を使えるから癌を克服するためなら何にでもチャレンジするべきだと彼らは言う。
 40年以上前の時点ではパスカルによるこの証明は余り広く知られていなかったので私は頻繁にあちこちでい言い触らしたものだが、その後は様々な形で悪用されるようになってしまった。インチキ宗教や健康食品、あるいは「買わなきゃ当たらぬ宝くじ」などの「当たって砕けろ」式の所謂ポジティブ・シンキングの類いとしても乱用されている。バタフライ効果まで考えれば、私がこんな迷惑な勧誘方法の拡散に貢献してしまった可能性もあるだけに、私としては不愉快な記憶だ。
 この理屈が迷惑であるのは非科学の敷居を低くするからだ。否定されていないという理由だけで軽い気持ちで受け入れてキリスト教徒になってしまってから次々に試練が与えられてその内どっぷりと漬かってしまうことにもなりかねない。相手の敷居を下げさせて入り込む手口は今やFoot in the doorと呼ばれてセールスマンにとって必須のテクニックにまでなっている。宗教やイデオロギーにカブれている人の大半がそんな経験をしている。「お試し」のつもりで参加して酷い目に遭っている人は決して少なくない。こんな現状から断言できることは「とりあえずやってみることが大きな不幸を招く可能性もまたゼロではない」ということだ。その典型例がオウム真理教の信者だろう。
 誰でも1つや2つの迷信を持っている。もし100人からのそんな忠告を一々受け入れていれば身動きが取れなくなる。毎日ニンジンとキノコと納豆を食べ、7時には起床してジョギングをして腹式呼吸に励み、酒や煙草などは厳禁だ。取り敢えず受け入れていればこんな最大公約数的でくだらない漫画的な健康生活を強いられる。肉や酒の有益性と有害性についてはお互いに相容れない矛盾した提案を受けることになり、結局のところ自分の恣意的な判断に頼ることになる。
 アドバイスの中には有害なものも混じっている。無農薬・無添加食品や絶食療法などは有害である可能性のほうが高い。買わなければ当たらないと信じて宝くじを買い続けていればほぼ確実に貧乏になるだろう。
 他者依存によるこんな惨めな生活を避けるためには、信頼できる専門家以外からの無責任・無根拠な提案など一切無視するべきだろう。彼らの多くに悪意は無いだけに不本意なことかも知れないが、残り少ない余命を下手な鉄砲の試射場にしてしまう義務などあるまい。
 アドバイスする側も無責任な勧誘は慎んで、尋ねられたら答える、嫌がる素振りが少しでも感じられたら自重する、というぐらいの節度を持つべきだ。無知に基づく善意は個人的趣味の押し付けに過ぎないだけに迷惑この上無く、これを「余計なお節介」と言う。

不快と苦痛

2016-09-17 09:58:11 | Weblog
 意識が無ければ痛みを感じない。最も極端な例は麻酔を使った手術であり、麻酔によって意識を失った患者は手術中も手術後も痛みを感じない。意識を失ったまま術死する患者は何の痛みも感じないまま死ぬ。泥酔している人も痛覚が鈍る。酔っ払いは怪我を余り気にしない。プラシーボ効果もノーシーボ効果も先入観が意識に影響を与えるから起こる。
 殆んどの子供は注射を怖がるが、彼らが本当に怖がっているのは注射の痛みではなく針を刺すという行為だろう。だから彼らは注射の痛みとは不釣合いなほど泣き叫ぶ。事故による同等の傷であればあれほど騒がない。
 激痛だけではなく人々が鈍痛まで怖がるのは本能の指示に基づく。本来、鈍痛は耐えられないほどの痛みではない。鈍痛が本能を刺激するから軽度な痛みまで恐れさせる。
 痛みは本来警鐘だ。ここが傷んでいる、ここを保護せねばならない、という情報だ。だから痛みがあれば人は必要以上に警戒する。それは痛みそのものではなく、痛みが本能に働き掛けることによって作られた恐怖があるからだ。鈍痛そのものは大した苦痛ではない。鈍痛は本能を刺激し刺激された本能が感情を動かすから大きな苦痛であるかのように錯覚する。
 不快感は必ずしも苦痛と感じられる訳ではない。ステントを装着する前であれば、私は多少の鈍痛があっても泳ぎに行ったものだ。しかしステント装着後はそれまでは不快感に過ぎなかった鈍痛が苦痛に変質して泳ぐ意欲を失わせた。もう治らないという意識が、鈍痛に対する評価を不快感から苦痛に変えた。
 子供の頃から私はずっと下痢体質だった。ところが抗癌剤治療をきっかけにして便秘体質に変わった。初めの内はこれを喜んでいた。トイレのために使われる無駄な時間が減ると思ったからだ。しかし2週間以上便秘が続くようになると評価を変えざるを得なくなった。下腹部の膨満感や排便時の痛みを経験することによって便秘を警戒するようになり当初のように無邪気に肯定できなくなった。
 初めての飲酒は決して快適なものではなかろう。体温が上昇して思考力が低下するのだから風邪の初期症状のようなものだ。これは決して快適ではない。これを心地良く感じるためには価値評価を逆転させる必要がある。飲酒時の軽い脳機能の低下を快適と感じるようになって初めて飲酒が楽しくなる。
 鈍痛などの軽度の不快感の大半は決して耐え難いレベルではない。鈍痛の位置付けが変わることによって不快から苦痛へと変質する。マゾヒストになる必要は無いが不快を受け入れることができれば苦痛が減少する。不快を恐れず毛嫌いさえしなければ不快との共存は可能だ。最早回復不可能な慢性的な不快に対して神経質であることは近所の騒音に過敏であるようなものだ。不快を許容できるようになれば苦痛が減少し、不快に対する不寛容は苦痛を増幅させる。
 

核兵器

2016-09-16 09:46:35 | Weblog
 犯罪者は武器を所持することが多い。刀剣類や金属バット、あるいは銃などを持つ。アメリカ人であれば、善良な市民も同等以上に武装する権利があると考えるだろうが、日本人はどう考えるだろうか。銃刀類どころか木製バットで自衛をする人さえ殆んどいないだろう。これは日本が世界でも稀なほど治安が良い国だからだ。アメリカでこんなことをすれば自殺行為かも知れないが、日本人なら生涯一度も強盗に出会わない人が大半を占めるだろう。
 北朝鮮が核兵器とミサイルの実験を繰り返して日本に核攻撃を仕掛けることも可能なレベルにまで達したようだ。日本はどう備えるべきだろうか。自衛が必要だろう。少なくとも攻撃されれば反撃をするという威嚇は必要だ。日本国内とは違って東アジアの治安は決して万全ではない。国内事情と国際情勢を混同すべきではない。安全なのは国内だけであり、一歩外に出れば忽ち危険地帯に踏み入れることになる。
 日本国内のように治安の良い社会であれば武装は最小限で充分だ。治安維持を担う組織だけが武装をすれば良い。しかし治安が悪い社会においては、自分の身はある程度自分で守らねばならない。国際社会も同等であり治安維持を担う国際的な組織など無いのだから、自力に頼らざるを得ない。
 核兵器はどうだろうか。核兵器は実質的に使用不可能な兵器だ。核による先制攻撃を行えば必ず核による報復攻撃を受ける。核兵器は単に敵国に対する攻撃では収まらず自国に対する攻撃にもなってしまう。それでも核兵器を持たない国は、日本や韓国のようにアメリカなどの核の傘の下に入ろうとする。
 核兵器のような使い勝手の悪い兵器など持たないほうが良かろう。既に持ってしまった核保有国にとっても、こんな使い勝手の悪い兵器よりも通常兵器のほうがずっと役に立つ。どうせ使えない兵器であれば「張子の虎」でも充分だろう。
 国家にとって核兵器は使い物にならない役立たずの兵器だがテロリストにとってはそうではない。国民という基盤を持たないテロリストは土地や人に縛られない。攻撃されそうになれば幹部と軍部だけが逃げ出してどこかの国民を人質に取ることができる。ゲリラ戦法によって日本の一部を占領することは決して難しいことではない。平和ボケしている日本人は特にゲリラ戦に弱い。
 ISなどのテロリストの手に渡すまいとすれば核兵器は一層高コストになる。こんな金ばかり掛かって役に立たないお荷物の保有は、一部の国に押し付けたほうが合理的だろう。たとえ核兵器の廃絶が無理でも拡散を防止するだけで人類の安全のために随分役立つだろう。

鎮痛効果

2016-09-15 09:58:43 | Weblog
 たった50日ほどでこれまで使っていた鎮痛剤が効きにくくなってしまった。薬に対する耐性が高まったからなのか病状が悪化したからなのかは分からない。しかし余り長くない余命を痛みに耐えるために使いたくない。急遽、病院を訪れてもっと効く薬を所望した。
 新たに処方された薬には麻薬に近い成分が含まれているらしい。薬の取扱説明書にもご丁寧に「他人にあげるようなことは絶対にしないで下さい」とか「アルコールの摂取には注意して下さい」とか書かれている。多分脳に異常反応を起こさせて痛みを感じにくくさせる薬なのだろう。こんな、人を廃人にしそうな薬など本来なら絶対に使わないが、廃人になるよりも先に死ぬだろうと思えば気兼ね無く使える。
 まだ数回しか試していないが確かに効く。飲んでから6・7時間ぐらいは久しぶりに痛みから解放される。しかしこれで目出度し目出度しとはならないから困る。副作用で猛烈に眠くなり、そのために昼寝をしてしまう。痛みのせいで夜に何度も目覚めて睡眠不足になっているからこれで良いのかも知れないが、このことで思考時間も読書時間も減る。
 痛みから解放されるために思索を放棄するよりは痛みに耐えて思索を続けたい。しかし往々にして痛みに耐えていれば思考力を失う。痛みにどう対応するかはなかなか難しい問題だ。健康を損なって初めて痛みの無い生活の有難味が分かる。痛まないということがどれほど素晴らしいことなのかは健康な間は分からない。健康や平和や安全は失われてから初めてその価値が理解される。
 夢か現(うつつ)か分からない状態で生涯を終えるのも1つの生き方だ。一酔千日という言葉もある。しかし私としてはできるだけ確かな意識を持って生きたい。あと1年程度の命であっても、あるいはあと1年程度しか無いからこそ時間に流されないよう心掛けたい。
 痛みは必ずしも肉体的な問題ではない。プラシーボ効果やノーシーボ効果があるように心理的な問題でもあり得る。激痛ならともかく鈍痛においては心理効果は決して小さくないだけにその効果を上手く利用したいものだ。
 鎮痛剤の薬効は少なからず心理に依存する。効くと思っていれば良く効くし薬効に不安を持つと途端に効きにくくなる。私の場合、故意か過失か分からないが、医師の指示とは違う薬が薬局で処方されたことによってどの薬も効きにくくなってしまった。プラシーボ効果が薄れるだけで薬効は激減するものだ。強い薬を使うことによって脳と体を危険に晒すよりも、意識的にプラシーボ効果を補強して薬効を高めたほうが利巧だろう。
 知恵の本来の役割は事実を知ることだが、嘘を巧妙に利用することも知恵に許されるテクニックと言えるだろう。実際、恋愛感情などの共同幻想によって社会は成立している。プラシーボ効果が存在するという事実に基づいて、意識による無意識の制御に成功すれば、自力で薬効を高めるということが可能になる。自らの意思による自己暗示は自己欺瞞ではなくセルフコントロールとさえ言えるだろう。知恵によって生活を豊かにできるのであればそんなことにこそ知恵は優先的に使われるべきだろう。

公平な競争

2016-09-14 09:55:36 | Weblog
 健康な人はお互いによく似ているが障害者は様々だ。視覚障害者だけでも無数のレベル分けが可能だ。軽度の近視や遠視から全盲まで、全盲以外は一人ずつが違ったレベルだ。白と黒の間に無数のグレーがあるように障害はそれぞれ質も量も異なる。人を健常者と障害者に二分することは余りにも乱暴だ。「障害者」と一括りにすることは障害者に対する差別なのではないだろうか。
 障害のレベルが違う人を、その差を無視して競わせることは全く不当なことだ。もし競わせたいのなら何らかの方法で障害のレベルを合わせてから競わせるべきだろう。
 比較的公平なのは車椅子やアイマスクを使う種目だ。これらによって障害レベルが異なる障害者が対等の条件で競うことが可能になる。こうすることによって障害のレベルから離れてそれぞれの運動能力を競うことが可能になる。パラリンピックの発端が「車椅子スポーツ大会」だったのは、それが障害者スポーツとして最も公平だったからだろう。それが拡張されて総合スポーツ大会になったが、競技の幅が広がることに比例して不公平による弊害が拡張して不愉快な見世物に変質した。
 折角アイマスクのような公平化するための道具がありながら不公平が放置されている種目が沢山ある。例えば視覚障害者の柔道で勝つのは比較的障害度の低い弱視の選手ばかりであり全盲や重度の障害を持つ人が入り込む余地は殆んど無い。こんなことで「障害者のためのスポーツ大会」と言えるのだろうか。障害の差を克服できなければ公平ではない。
 妙に「公平」に拘るのは私が社会常識といしての「平等」に疑問を持っているからだ。平等を理念として掲げるならそれを尊重すべきであり、最初から軽視するつもりならそれを理念とすべきではない。平等という理念は競争とは相容れない。
 自由と平等を両立させることは難しい。自由を尊重すれば平等は犠牲にされ、平等を実現するためには自由に対する制約が必要になる。そんな矛盾を全く感じずに両立できると主張する人は大嘘つきか偽善家だ。
 平等主義者は優れた人にハンディを負わせようとする。体の大きな人や力の強い人には錘を背負わせようとする。しかしそんなことをすれば全員の力が均等になって競争など成立しない。つまり平等主義の元では競争が否定される。障害者による競争を成立させるために必要な理念は平等ではなく公平性だ。公平な条件の元で競争をすればその結果は不平等になるが、この不平等は「格差」と言い換えられて、平等が作り出す問題が曖昧にされている。
 私がイメージする理想の障害者スポーツ選手は「盲目のイチロー」だ。流石のイチロー選手でも視力を失えばアスリートたり得ない。しかし盲目であっても彼の身体能力は抜群でありその才能を発揮させる機会としてパラリンピックがあるべきだろう。多くの長所を持ちながらたった1つの障害のためにその能力を発揮できない人々が活躍する場をパラリンピックは提供すべきだろう。だからこそ軽度の障害者が重度の障害者よりも有利になるようなルールの元で競わせるべきではない。障害の差ではなく障害を取り除いた場合のそれぞれの運動能力の優劣が競われるべきだ。

子供

2016-09-13 09:56:54 | Weblog
 人は、分からないことに対して試行錯誤で対応して、時には誤った対応が偶然功を奏することがある。誤った対応をして良い結果に至る筈は無いのだが意外とそんなことは多い。神頼みをしても無駄だが、たまたま宝くじが当たったり試験に合格したりすればそれをご利益だと思い込む。同じようにたまたま病気が治ってしまったばかりに有害な行為が治療方法として定着してしまう。水銀などの毒物が薬として用いられたり瀉血のような有害な行為が長く治療方法として行われたりした。
 人は全く知らないことに対しては謙虚であり得るが、中途半端に知っていることについてまるで専門家のように発言したがる。碌に知らない原子力について口出しをしたばかりに危うく日本を崩壊させかけた馬鹿な首相もいた。我流の料理しか知らない主婦がプロの料理人気取りをするし、個人事業者は一国一城の主である自分を過大評価して経営のプロだと思い込んだりする。しかし主婦も個人事業者も呆れるほど勉強をしていない人が大半であり実際にやっていることはデタラメだ。
 誰もが子供時代を経験しているから子供や学校についてすぐに口を挟もうとするが大半は的外れだ。子供時代の記憶は歪められ易いから事実にさえ基づかない。児童心理について全く学んでいない人が自分の歪んだ記憶に基づいて全く役に立たない教育論を説く。
 彼らは木を剪定(せんてい)すれば真っ直ぐに伸びるように人も脇道に逸れないようにコントロールするだけで健やかに育つと信じている。しかし脇道に逸れることは成長のためには欠かせない。大人はそんな子供時代の記憶を抑圧してしまうが誰もが失敗を通じて成長する。
 大人と比べれば子供は異常な動物だろう。感情の起伏が激しく落ち着きが無く奇妙な考えに捉われ易い。これらの性質は経験を積み重ねることによって社会に適応できる性質へと育てられるのであって決して病気や異常行動ではない。だから決して治療しようなどと考えるべきではない。これらを薬などによって矯正することは自然な成長の妨害になる。
 日本でも子供に対して抗精神病薬を使うべきでないことは医師としての常識だ。しかし藪医者は薬に頼る癖が付いているからすぐに薬を使う。抗精神病薬は一時的に症状を緩和するが本当の治療効果は無い。薬を使いたがる医師は成功体験があるから薬を使うのだがそれは神頼みのような誤った治療方法だ。
 癌の治療と精神病の治療はよく似ている。どちらも原因が分からないまま闇雲に試行錯誤に励んでいる。だからしばしば有害なことが有益とされている。
 児童の異常行動の大半は放っておいても治る。むしろ放置されることによってこそ治る。それは成長のためのプロセスでありそれを欠けば却って歪な人間に育ってしまうだろう。児童の異常行動を薬で治そうとすることはロボトミー手術のようなものだと理解すべきであり本人のためにならない。それ以前にそれが本当に異常な行動なのかどうかを疑う必要がある。社会によって飼い馴らされた大人のほうが異常であることは決して少なくない。

 

黙殺

2016-09-12 09:51:41 | Weblog
 思索は事実に基づかねばならない。こんな当たり前なことなどわざわざ文字にする必要など無い筈なのだが、守られていないから邪説や空理空論が世に蔓延っている。
 否定できないことなら肯定されねばならないし、できないことはできないと認められるべきだ。これは決して消極的な姿勢ではない。前者からは「事実に基づくべき」であること、後者からは「可能なことに全力を尽くすべき」であることが導かれる。
 しかし否定できないことに対して人はどう対応しているだろうか。恣意的な対応に終始している。つまり気に入った事実であれば尊重し、気に入らない事実なら黙殺する。事実かどうかよりもと自分にとって好都合かどうかによってそのことの主観的価値が決められている。
 人が死ぬことは確実だ。従って死ぬという事実は肯定されねばならない。しかしこの場合も一般論として肯定するに過ぎず、知人や自分の死については不条理と文句を言う。死んだという事実に対して「なぜ」と無駄に問い掛ける。所詮「人は太陽と死を直視できない(ラ・ロシュフーコー「箴言集」26)」ものだ。
 朝日新聞がまたやってしまった。吉田調書と吉田証言にも匹敵し得る恥晒しだと思える記事が7日付けの朝刊に掲載された。「朝日・東大共同調査」に関する記事で、第一面に掲載された見出しは「経済重視は自民 憲法なら民進」だった。その記事では「憲法を重視した層で民進党に投票した人は44%と、自民党の10%を圧倒した。」と書かれていた。いつもの我田引水記事かと思って読み飛ばしそうになる記事だったが、17面に掲載された具体的な調査結果を見て魂消てしまった。憲法改正に「賛成」または「どちらかと言えば賛成」が42%で、「反対」または「どちらかと言えば反対」が25%だったからだ。「護憲」という教義を長年布教して来た朝日新聞としてはこんな事実など認め難いし抹殺したいことではあろうが、調査結果と第一面の記事との落差が酷過ぎる。明らかにやり過ぎだ。たとえ不愉快な結果であろうとも自ら調査した結果をここまで歪めて報じるべきではなかろう。
 彼らの姿勢はダブルスタンダードだ。都合の悪い事実に対する彼らの本音は、一方での針小棒大の報道と、もう一方での黙殺によって露呈する。嘘をつくことだけが偽証ではなく、明らかな事実を黙殺することもマスコミとしての重大な偽証だ。
 人はできないことをできないと認めず、知らないことについて知ったかぶりをする。ソクラテスが「無知の知」について説いたのは2400年も前だ。それにも拘わらず人は知ったかぶりを続けている。カントが理性の限界を説いてから200年以上が経った。しかし人はできもしないことをできると言い続けている。地震学者や医者はできもしないことについて「できる」と言い続けている。これらの「知ったかぶり」と同様にマスコミが避けるべきことは「知らぬふり」だ。知ったかぶりには見栄があるが知らぬふりには悪意がある。
 

鎮痛策

2016-09-11 09:41:11 | Weblog
 改革は痛みを伴うものだが、食道癌の延命策が痛みを伴うものだとは全く予想していなかった。
 食道癌における代表的な延命策はステントの装着だ。これは増殖して食道を塞ごうとする癌細胞から飲食物の通路を確保するために、食道に金属製の筒を入れるという力ずくでの延命策だ。飲食物の通路さえ確保できれば患者を衰弱死から守れる。しかしこの通路は大規模災害時の仮設通路のようなものでありすぐに使い物にならなくなる。しかも金属は人体にとって異物だから免疫力による激しい攻撃に晒される。それまでは癌細胞と正常細胞との戦場だった最前線にステントという異物が加わることによって三竦みの複雑な戦いになる。免疫細胞が金属に攻撃を仕掛ける時それは痛みとして知覚されるからこの痛みは一生続く。
 このことは必然であり延命策を選んだ時点で覚悟すべきことだ。しかし生死の瀬戸際にいる患者にはそこまで考える余裕が無い。ステントを装着した後になってから初めて途絶えることの無い痛みに苦しむことを知る。
 健康時であれば痛みは警鐘であり痛みの原因に対処することは重要課題だ。しかしそれが人為的措置によるものであれば原因は分かっており、それが治療できない痛みであることも明白だ。こんな状況であれば痛みの緩和が唯一必要な課題になる。では痛みを緩和するためであれば総てが許されるのだろうか。そうではあるまい。鎮痛にも節度が求められる。
 食道は癌に冒され刻一刻劣化し続けており食い止めることはできない。しかし脳まで冒されている訳ではない。管理を誤らなければ死ぬ直前まで正常な思考力を維持できる筈だ。そのためにできることは脳の機能を損なわない鎮痛剤を選択することだ。情けない話だがそれ以上のことはできそうにない。それだけにこのことに本気で取り組む必要がある。
 痛みを緩和する方法は様々だろう。患部に直接働き掛けたり、神経に働いたり、脳に作用したり、それぞれが違った薬効を持つ。鎮痛は有害であり避けるべきと考えていたからこれまでは余り勉強していなかったが、今後は私にとって最も有効と思える鎮痛策を探し出す必要がある。
 大半の痛み止めは中枢神経の機能を麻痺させることによって痛みを抑えているが、脳機能の低下は私の望むことではない。それでは本末転倒だ。そんな方法が可能かどうかはこれから研究せねば分からないが、明晰な頭脳と鎮痛の両立を図ることが理想だ。思考力を失った状態で生き長らえても仕方が無い。