俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

独善

2016-09-10 09:55:29 | Weblog
 世の中には厚かましい人がいてたった1%の妥当性しか無くてもその権利を主張する。彼らにとって妥当性とは大切な指標ではない。丁半賭博と同様にイチかバチかであり当たる確率は主観的には50%だ。文字通りに「万一」に過ぎない可能性であっても伸るか反るかの乗りで挑む。彼らはそんなやり方を恥ずかしいことだとは考えない。
 国内でこんな非常識な人と出会うことは滅多に無い。遺産相続時のトラブルかクレーマーの相手をする時以外こんな人々と対決することは無いが、なぜか近隣国にはこんな図々しい非文明人が多い。
 彼らは取り敢えず権利を主張する。認められれば丸儲けであり認められなくても元々それが当然なのだから何も損をしない。だからいつまでも戦争絡みの賠償金を要求し続ける。彼らにとって客観的な妥当性などどうでも良い。要求が一部でも通れば得をするし要求が完全に否定されても何1つ損をしない。だから要求をする権利が少しでもあると考えれば要求し続ける。
 北朝鮮による恫喝外交は日本人には理解不可能だが彼らにとっては意味のある行動だ。他国を恐れさせる可能性が1%でもあればやったほうが得と考える。やることによる損と得を秤に掛けるような面倒なことはしない。
 南北朝鮮人をこんな野蛮人に仕立て上げたのはあの中華文明だ。中国思想は極めて現実的だ。社会思想の根底には、善悪よりも損得が重要な尺度となり勝ちな政治的打算が潜んでいる。だから善悪や正誤よりも勝敗こそ重要だ。勝てる主張が正しい主張よりも優先される。
 南シナ海諸島の領有権について中国は摩訶不思議な論法を使う。領有権は当事国間の問題であり第三者による調停など内政干渉だと言う。しかし当事者間で話し合いが可能なのは双方が客観的な判断力を持つ場合に限られる。中国のように「理」よりも「利」を優先する国との話し合いなど殆んど無意味だ。誰がドラえもんのジャイアンのような「人の物は俺の物、俺の物は俺の物」と考える人と話し合いで解決しようとするだろうか。
 「熟議」などといった美辞麗句を使う人は大半が最初から議論の価値を否定している。結論を最初から変える気の無い馬耳東風が彼らの本領だ。核問題を6か国協議で解決しようと主張する北朝鮮や、南シナ海諸島の領有権は当事者間での協議で決めるべきだと言って第三国による調停を内政干渉として否定する中国は、話し合いの価値など全く認めていない。自国の主張のみが正しくそれ以外は寝言にも等しいものとして聞く耳を持たない。
 これと似た考え方をする人が国内にもいることに最近気付いた。かつての進歩的文化人で近頃は「リベラル」と自称する人々だ。彼らは民主主義者を装うが徹頭徹尾独善的だ。彼らが現行憲法を不磨の大典にしようとするのは議論を回避するために過ぎない。議論をすれば彼らが少数派であり、都合の悪い多数意見を平気で無視するダブルスタンダードの卑怯者であることが露呈してしまう。憲法問題をアンタッチャブルにするのは議論を封殺するためだ。
 公正な人でも自分の利害が絡むと中立性を失いかねない。増してや中立性など考えない野蛮人に話し合いによる解決など期待できない。幾ら中国が内政干渉だとゴネようとも、こと国際問題に関しては、彼らの戯言など無視して国際常識に従うよう促すべきだろう。

サイレント・マイノリティ

2016-09-09 09:50:23 | Weblog
 私は多数決を毛嫌いしているが、それに劣らず嫌いなのが一部の少数者の特権意識だ。「社会的弱者」と称する人々が要求する特権は全く不当なものだ。多数者の横暴も少数者の傲慢も許し難い。60%を占める多数者であればその権利は基本的には60%であり、10%の少数者の権利は10%が妥当だ。それ以上でもそれ以下でも不合理だ。
 私が多数決に批判的であるのは51%に過ぎない多数者が100%を奪おうとするからだ。49%を占める少数者の権利を奪っての独断専行は許し難い。51%に過ぎないのだからせいぜい51%+α程度の権力に甘んじるべきだろう。
 私は多数者の権利を尊重する。多数者はそのシェアに相応しい権利を認められるべきだ。しかしそのシェアを大きく超えて100%を要求することが余りにも多い。だから私は多数決制度そのものに反対する。
 私は少数者の権利を尊重する。少数者はそのシェアに相応しい権利を認められるべきだ。しかし一部の少数者は傲慢にもそのシェアを遥かに超える権利を要求する。彼らは余りにも厚かましい。
 私のスタンスは多数者も少数者もそれ相応の権利が認められるべきだということだ。しかし両者共にシェア以上の権利を要求する。その煽りを食らって極端に損をしているのが従順な少数者だ。私はこの人々を「サイレント・マイノリティ」と名付ける。この人々は余りにも大人しいから無視され続けている。声高な多数者と一部の声高な少数者の権利ばかりが優遇されている。
 現代社会はサイレント・マイノリティを犠牲にすることによって成立している。不思議なことにこのことをこれまで誰も指摘しなかったが、今後サイレント・マイノリティの権利が正当に認められるべきだろう。
 算術的に表現すればこうなる。60%を占める多数者が70%の権利を要求し、40%を占める少数者が50%を要求すればその合計は120%になってしまう。ここで犠牲にされるのがサイレント・マイノリティだ。40%を占める少数者の内20%に過ぎない「我儘な少数者」は30%の権利を求め、20%のサイレント・マイノリティは権利を失う。投票における死に票のようなものだ。
 我儘な少数者には2種類ある。権力や財力を握った勝ち組と開き直った弱者だ。自らの怠慢による貧困の責任を社会に押し付けようとする厚かましい人々は少しでも多く社会に寄生して特権を拡大しようとする。彼らは勝ち組と同様社会からの搾取を自らの権利と信じている。勝ち組や障害者や少数民族などの過剰な要求のせいでサイレント・マイノリティは発言権さえ封じられている。
 税制もまたサイレント・マイノリティを犠牲にして成立している。優遇された多数者である農家や自営業者はまともに税金を納めない。富裕層は節税に励むし、貧しい人々は税金に寄生する。正直な納税者がサイレント・マイノリティであり彼らを犠牲にすることによって国家財政が成り立つ。
 基本的には、権利はシェアに比例すべきであり、多数者による総取りも一部の少数者による横取りも全く不当だ。
 

障害者

2016-09-08 09:54:18 | Weblog
 豚小屋で起こった事件は豚小屋の中で解決すべきであり、社会全体の問題として捕えるべきではない。クズのような悪ガキが群がっていれば豚小屋に閉じ込めれば良い。人間のクズが集まって暴力集団を作れば社会から排除すれば良い。豚は自活力を持っていないから社会に寄生して生きようとするが、外にさえ出させなければ種族内で殺し合ったりして自滅する。彼らが豚小屋の中で共倒れをすることは彼らの勝手であり、豚小屋の外の住民が関与すべきことではない。治安維持組織の最も重要な仕事は豚を豚小屋から出させないようにすることだ。
 知的障害者大量殺害事件の植松容疑者は「障害者はいなくなれば良い」と考えた。いなくなる必要は無かろうが、彼らが自分の分を守ることは必要だろう。
 終末期の癌患者はホスピスへ、身体の自由を失った老人はホームへ、精神異常者は病棟へと収容される。自立することが困難な人は自らの意思で自らの行動範囲を制限する。自立できない人が無理に自立しようとすれば周囲に多大な迷惑を掛ける。視覚障害者が自動車を運転すれば多くの人が危険に晒される。たった一人の、週に1回も駅を利用しない盲人の転落防止のためにホームドアを設置するよりも、毎日多くの人で混雑する駅の安全性を高めるべきだろう。経済的合理性を無視してまで障害者の権利を優先すべきとは思えない。
 私はパラリンピックが嫌いだ。それはパラリンピックが不平等を容認しているからだ。車椅子での競技はほぼ平等な条件で競うから容認できる。しかし生身に近い競技の大半は許容し難い。前回の大会で競泳を見て怒りを抑えることができなかった。両腕を失った人が片腕の人と「平等に」競争させられていたからだ。両腕の無い人は頭でターンをしていた。これは不当だ。これでは泳ぐ距離に差が生じる。こんな不平等を許すべきではない。健常者はお互いに似ているが障害者は人様々であり障害の質も量も大いに異なる。腕の障害だけに絞っても、麻痺も欠損もある。しかも欠損の度合いは一人ずつ異なる。もし障害レベルごとにグループ分けをすれば参加者の数とほぼ等しいほどのグループが必要になり競争は不可能になる。競争させるべきではない人々を同じ土俵に乗せて競わせることは公正な競争ではなくただの見世物だ。これでは「障害者のためのスポーツ大会」とは言えない。いっそのこと原点に戻って「車椅子スポーツ大会」とすべきではないだろうか。
 視覚障害者を対象とする競技では全員がアイマスクを着用することによって障害のレベルを合わせることもある。条件を平等にできないままで競争させることはフェアではない。障害者を「障害者」として一括りにして個別性を無視することこそ障害者に対する差別なのではないだろうか。

ジェネリック

2016-09-07 09:58:52 | Weblog
 先日、鎮痛剤が突然効かなくなった。食道癌が悪化したものと思いこんだ私は悶々として痛みに耐えた。1週間ほどしてから薬の名称を見て驚いた。同じ成分名ではあったがメーカー名が違っていたからだ。薬局が間違えたのか意図的に変更したのかは分からないが医師が指示したのとは違う薬が処方されていた。
 ジェネリックとは特許期限が切れた薬の後発薬だ。しかし特許期限が切れたからと言ってどのメーカーでも同じ薬が作れるという訳ではない。製法までは公開されていないから主成分以外の副成分や不純物はそれぞれ異なる。更に悪いことには原産国表示が義務付けられていないから、ジェネリックの多くが韓国や中国などの技術レベルの低い零細企業によって作られている。こんな粗悪な輸入品が国内メーカー名を騙って販売されている。
 私は国際分業を否定しない。食料品は勿論のこと工業製品も人件費の安い発展途上国に委託しても構わないと考える。しかしこんな産地偽装まで許容して良いとは考えられない。薬は国民の生命・健康に直結する商品だけに厳しく規制される必要がある。輸入食品の危険性についてなら大騒ぎをするマスコミが輸入薬品について沈黙を守っているのは全く不可解だ。
 以前にも書いたことだがパソコンに「効かないジェネリック」と入力すれば検索キーを叩かない内から「ロキソニン」という固有名詞が表示される(8月24日付け「ゾロ薬」)。なぜロキソニンのジェネリックはこれほど酷評されているのだろうか。鎮痛剤だからだろう。人は鎮痛効果に対しては特に敏感だ。
 解熱剤に対してなら人は寛大だ。熱が下がらなくても「もし飲んでいなければもっと高熱になっていただろう」と勝手に好意的に解釈する。自覚症状の無い高血圧症のために服用する降圧剤に至っては更に寛容であり「服用しているから効いているに違いないし今後も有効だろう」と無条件に信じる。
 人が鎮痛剤に対してシビアであるのは痛みに対する恐怖があるからだ。痛覚は損傷についての警鐘であり人は本能的に痛みを恐れる。痛みがあればたとえ多くのことを犠牲にしてでもそれを緩和しようとムキになる。痛みは四六時中知覚され続けるから忘れることができない。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」類いの一過性の不快であればすぐに忘れて気にしなくなる。
 食事において味の良し悪しは食べてすぐに分かるが栄養価の優劣は何年も食べ続けて初めてその差が現れる。鎮痛剤であれば飲んで1時間以内に痛みが緩和されれば効く薬、そうでなければ効かない薬と判定されるだろう。その一方で、自覚症状の無い病気に対する薬を誰も判定しない。本来病気ではない生活習慣病の大勢の偽患者に、有効性がかなり疑わしい輸入ジェネリックが大量に投与されて大きな市場が作られている。偽患者にまともな薬など必要無いのかも知れないが、余りにも馬鹿馬鹿しい前近代的な非文明現象だ。偽患者と偽薬が主役になって最低の物語が作られている。

免疫

2016-09-06 09:50:13 | Weblog
 外国の教育関係者を交えて小学校の授業参観が行われている最中に地震が起こった。子供達は即座に机の下に隠れたが、分別ある大人である筈の外国人は騒ぎ立てるばかりで何もできず、そのに場に座り込んで泣き喚く人までいたそうだ。
 地震を全く経験したことの無い外国人は少なくない。日本は非常に地震の多い国だ。幕末に日本を訪れたアメリカ人もロシア人も地震の多さに驚いたということが歴史書にも残されている。
 地震を知らない人が恐怖に駆られるのは無理も無い。驚天動地という言葉があるぐらいで、地面が揺れ動くということは最も驚くべきことだろう。
 災害は好ましくないが小さな被害に何度も見舞われることは決して悪いことではあるまい。毎年のように台風に遭遇する西日本の各地では台風に対する免疫が育まれている。人が台風に対処する方法をよく心得ているだけではなく、土地そのものが台風に強くなる。小さな台風で起こった不具合に対処していればそれは同時に大きな台風に対する備えにもなる。
 先日の台風10号に伴う岩手県や北海道の大水害において流木の多さに驚いた。それもずっと以前に倒れたと思える朽ち木が大量に流されていることに驚かされた。これは普段、水害が少ないから一旦水害が起こればずっと前から溜まっていたものまで一挙に流されるからこんなことになるのだろう。小さな水害が毎年起こっているればこんなことにはならない。汚い喩えだが、便秘を長期間放置すれば一挙に大量の大便が排泄されるようなものだろう。
 アメリカでは乾季になると殆んど毎日のように山火事が起こる。嘘か本当か知らないが、アメリカでわわざと防火対策を手抜きしていると言う。徹底的に防火をしてしまうと枯葉などが溜まってしまうから、いざ山火事になれば未曾有の大惨事にもなりかねない。それを防ぐために時々小さな山火事が起こる程度の緩い管理しかしていないそうだ。
 人は全く知らないことに遭遇すると咄嗟にどうすべきか分からなくなり易い。パニックを起こす人もいるだろう。それを防ぐ一番良い方法は大事に至らない程度の経験をしておくことだろう。いきなり重傷を負えば混乱を起こすことが避けられないが、それまでに軽い切り傷や打ち傷を経験していればその延長として対応できる。いきなり大地震に遭遇すれば何もできないが小規模な地震の経験があればある程度冷静に対応できる。麻疹も子供の内に罹ったほうが軽症で済むと言う。
 精神的な問題も同様だろう。過保護に育てられた人はピンチに弱い。子供の内に何度か酷い目に会っていれば打たれ強くなれる。
 必ずしも子供をわざと酷い目に会わせる必要はあるまい。シミュレーションでも充分だろう。球技などの集団スポーツは社会生活のシミュレーションとして役立つ。味方と協力すること、敵を欺くこと、こんなことがゲームを通じて経験される。スポーツは肉体的にも精神的にも疑似体験として有効なだけではなく、フェアプレーの精神を学ぶ絶好の機会ともなる。もっと奨励されても良かろう。

価格競争

2016-09-05 10:42:24 | Weblog
 日本では販売価格を自由に設定することができる。これは小売事業者の特権でありメーカーや卸売り事業者が決めることは禁じられている。但し2つの例外がある。書籍・CD・煙草などは独占禁止法の例外として再販売価格維持が認められており、健康保険対象薬の価格は健康保険法に基づいて厚生労働省が「薬価」を定めることができる。だから健保とは無関係の取引であれば薬の販売価格は小売店に決定権がある。
 社会主義国などでは価格が統制される商品が少なくない。食品やエネルギーなどの必需品がその対象とされることが多い。
 ここで奇妙なことに気付く。統制価格も自由価格も物価抑制効果が期待されているということだ。価格が統制されている煙草や新聞・雑誌などは日本中どこでも同じ価格でありかなり特殊な条件下であっても高値での販売は認められない。だから統制したほうが物価が安くなると思われ勝ちだが、必ずしもそうではない。統制価格制度の元では安く売ることも禁じられるから、土曜日の夕刊を発行しない地域の朝日新聞の月決め価格が、土曜日の夕刊を発行している地域と同額という奇妙なことも起こる。
 統制価格制度の元では、仮に350mlのコーラの小売価格が100円と決められればどの店でもそれ以外の価格では売ってはならない。しかもこれはコカ・コーラやペプシ・コーラといったメジャーな商品だけではなく総てのコーラが規制対象になる。価格競争が無ければ品質やブランド力に優る商品が圧倒的に勝つ。コーラの市場はコカ・コーラとペプシ・コーラによって独占されることになるだろう。
 価格競争が自由であれば違った動きが現れる。コカ・コーラやペプシ・コーラ以外の第三のコーラが値下げを仕掛けるだろう。ブランド力で劣る商品は価格差を設けることによって少しでも市場シェアを獲得しようとする。せめて価格訴求をしないことには生き残れない。味とブランド力に見合う価格まで値下げされた時点から第三のコーラが売れ始める。つまり販売価格の自由があったほうが消費者には選択の幅が広がり、メーカーとしては市場参入の余地が生まれるということだ。
 こう考えれば価格統制は必ずしも有効ではないように思える。むしろ上限価格だけを設定したほうが有効だろう。
 価格が統制されている健保対象薬では大きな問題が拡大しつつあると思える。ジェネリック医薬品の価格は先発薬の半額程度に設定されており、元々ブランド力の無さを低価格によって補おうとする価格訴求品だ。ところがジェネリック同士での価格競争は認められていない。元々品質やブランド力ではなく価格訴求力だけに頼った粗悪品を統制価格制度の元で拡販しようとすれば販売価格ではなく卸売物価での競争になる。消費者にとっては何のメリットも無い原価競争がジェネリックによって仕掛けられる。商品知識において圧倒的に優位な薬剤師が患者を意のままに操ることはたやすい。仕入れ値の安い商品、つまり海外メーカーに作らせた粗悪品を拡販することによって薬局の利益は大きく拡大する。先発薬をジェネリックに変更するためには患者の承認が必要だがジェネリックの銘柄の変更であれば薬剤師の意のままだろう。
 薬価を下げるために導入されたジェネリックではあるが、一方では統制価格制度のせいでジェネリック同士での価格競争が禁じられ、もう一方では原産国表示をさせないという誤った政策によって輸入品のシェアが歪なほどに高まってしまった。その結果として医療費が減らないままで品質低下のみが促進されるというとんでもない事態へと向かいつつある。

歴史

2016-09-04 10:47:04 | Weblog
 歴史はしばしば歪められる。豊臣秀吉の晩年は本当に耄碌爺になっていたのだろうか。徳川幕府は開国の是非も判断できないほど阿呆の集団になっていたのだろうか。日中戦争や太平洋戦争の原因は本当に軍部の暴走だったのだろうか。後世の人は敗北者の愚劣さに歴史の責任を押し付けるがその根拠は後付けであり事実に背いていることが少なくない。
 もっと些細なこと、例えば「女工哀史」はどの程度事実に基づいているのだろうか。当時の賃金労働者とは男性の丁稚、女性の女中奉公などのように住み込みでの24時間勤務が当たり前だった。それらと比べれば工場勤務はずっと恵まれた条件下での労働と思える。現代の労働と比べれば過酷だっただろうが、時代の違いを無視すべきではない。伝染病が多かったのは当時の日本の衛生環境の悪さが原因であり、大勢の人が一か所に寄宿すれば避けられなかったのではないだろうか。資本家が苛酷な労働を強いていたことが原因とは言い切れまい。かなり偏見に満ちた記述がまるで史実であったかのように独り歩きしているように思える。もしユニクロや和民を退職した人が悪意を持って書けば、極悪の労働環境の企業として描写できるだろうが、それは必ずしも正確ではなかろう。
 歴史は後世の人が記述する。だから1代で終わった権力者は酷評され易い。道鏡にせよ織田信長にせよ豊臣秀吉にせよ、後世の権力者によって悪意に満ちた虚像が作られてそれが定着してしまったのではないだろうか。
 後世の人がどれほど歴史を捏造するかは中国史を見ればよく分かる。中国の帝国興亡史は完全にワンパターンだ。徳を失った皇帝に対して農民や新興宗教団体が立ち上がりその混乱を治めた素晴らしい英雄によって易姓革命が成し遂げられる。史実は多分逆であり、異常気象によって飢饉が起こりその原因として徳を失った皇帝が咎められる。異常気象を起こすほど悪い皇帝は悪行の限りを尽くす極悪人でなければならないから様々な悪行が彼に押し付けられる。事実には基づかず結果からの辻褄合わせによって歴史は創作される。天変地異の責任を押し付けられて極悪人にされることは理不尽でありその矛先を向けられる中国皇帝は可哀想な犠牲者だろう。
 日本史を最も歪めたのは天武天皇だろう。淡々と事実を記録していたと思われる帝紀・旧辞を素材にして古事記と日本書紀が編纂されたが、明らかに特定の意図を持って史実を歪め、同時に最重要史料である帝紀・旧辞を廃棄させたものと思われる。
 日本の権力者は不思議なほど歴史を改竄しなかった。不都合な史料も割と平気で残している。これは素晴らしいことだがその例外が天武天皇とその一族による改竄と抹消だ。帝紀・旧辞が失われた以上、天武以前の正しい歴史を知ることは殆んど不可能だ。天武天皇が絡む歴史は矛盾だらけでありファンタジーに近いレベルにまで低下している。これらには魏志倭人伝の邪馬台国と同程度の信憑性しか無い。歴史の研究のためには誠に残念なことだが、逆にこのことが天武天皇が正統な天皇ではなかったことの確かな証拠ともなっている。但しこのことは最早検証不可能であり、天武天皇による歴史の改竄は見事に成功したと言えるだろう。

治療ごっこ

2016-09-03 09:52:09 | Weblog
 私の食道癌は症状が現れた時点で既に治療不可能な状態だった。転移はしていなかったが肺と動脈に浸潤しており手術や放射線治療を行えばこれらの臓器を破損してしまうため、治療を諦めてステント装着による延命策を選ばざるを得なかった。
 多くの癌は見つかった時点で既に手遅れになっている。通常の健康診断では勿論のこと癌検診でも早期発見は難しい。検査で見つかるほどの大きさにまで成長した癌細胞はその時点で既に転移か浸潤をしているからだ。手遅れになった癌患者を幾ら見付けても治療はできない。
 その一方で早期発見と早期治療によって癌を克服したとされる人が少なくない。これは転移も浸潤もしない良性腫瘍を癌扱いして治療ごっこをしているものが大半だ。だから幾ら「早期発見」をしても癌患者も癌死亡者も減らない。
 癌は人知れず増殖する。癌を早期発見・早期治療することは現在の医療技術では殆んど不可能だ。転移も浸潤もしていない時点で発見しない限り治療できないのだから、癌か癌でないかさえ区別できない腫瘍を片っ端から治療対象にするということになる。「早期発見・早期治療が可能だ」と豪語する医師は「地震は予知できる」と主張する偽科学者とよく似ている。癌も地震も発生した後になってから初めて結果論から「予兆があった」とされるだけだ。彼らは偽科学者であり人を欺くことによって金儲けをしようとする詐欺師のようなものだ。
 生活習慣病の患者とされる人々の大半が医師によって作られた偽患者だ。自覚症状の無い患者の殆んどが単に検査数値が高いだけの健常者だ。だから放っておいても発病しないし、こんな偽患者に薬は要らない。こんな人々にジェネリックと呼ばれる殆んど効かないゾロ薬を売り付けても悪化する心配は無い。注意すべきことは薬の主成分による副作用と薬に含まれる不純物による薬害だけだ。
 日本の医療の大半がこんな偽患者に対する偽医療によって占められている。医療費の大半がこんな偽医療に使われている。病気ではない偽患者のための医療ごっこのために毎年大金が浪費されている。
 その一方で癌のような治療不可能な病も健在だ。治療不可能な癌に対しても無駄な手術や効かない抗癌剤治療が行われている。日本では本当に必要な治療よりも治療ごっこのための浪費のほうが遥かに多いのではないだろうか。国家財政が医療費の激増によって破綻しそうになるのも当然だ。
 医療にできることとできないことを明確に区別する必要がある。現代の医療に可能なことは感染症と欠乏症の治療だけだろう。他については殆んど無力だ。感染症の治療も可能な範囲は限定されている。細菌などの寄生生物による感染症であれば何とか対処できるが生命体ではないウィルスに対しては殆んど無力だ。最もありふれたウィルス性疾患である風邪症候群でさえ現代医学は治療できない。様々な対症療法によって症状を緩和することしかできず、このその場凌ぎによって風邪は却って悪化する。できないことをできると言っているから医療の大半が治療ではなく治療ごっこになってしまっている。

原産国表示

2016-09-02 09:57:00 | Weblog
 加工食品の原産国表示をもっと厳格にすべきだという意見があり、様々なレベルで議論されている。加工食品にせよ生鮮食品にせよ原産国を表示する必要があるが、それよりも遥かに重要な原産国表示が蔑ろにされている。それは薬の原産国表示だ。
 薬の原産国は全く表示されていない。だから殆んどの消費者はどれも国産品だと思い込んでいる。これはとんでもない誤解だ。2015年の薬の輸入実績は何と2.4兆円もある。多分これは完成品だけの輸入額であり半製品や原材料まで含めればもっと巨額になるだろう。かつて薬害エイズ事件を起こした非加熱製剤は完成品だけではなく半製品としても輸入されていたのではないだろうか。
 冷凍餃子であれば日本人の殆んどが中国製よりも日本製を選ぶだろう。それなのにそれよりも遥かに危険性の高い薬品の購入において原産国を気にしないということなどあり得ない。もしかしたら、原産国を表示すれば輸入品が殆んど売れなくなってしまうからこそ、厚生労働省が原産国表示を禁止しているのではないかとさえ疑いたくなる。それほど不可解で不条理な状況だ。
 最新の薬について輸入品に依存しているという訳ではない。厚労省が推奨しているジェネリック医薬品において輸入品のシェアは顕著に高い。2011年の実績を見れば国産品のシェアはたった30.9%しか無く、逆にすぐに国内で販売できる完成品、つまり韓国や中国などの零細メーカーが日本のメーカー名や製品名を日本語で表示した輸入品のシェアは何と45.8%を占めている。残りの23.3%は半完成品や原材料としての輸入でありこちらも日本のメーカー名で販売されている。
 輸入品のシェアがこれほど高いのは価格競争が厳しいからだろう。但しこの価格競争は通常見受けられる販売価格の競争ではなく仕入れ価格の競争だ。販売価格は厚労省によって押さえられているがその原価(仕入れ価格)は100%自由競争になっている。売価が一定であれば利益は原価によって決まる。同じ1,000円の商品でも原価が800円であれば粗利益は200円だが原価が500円であればその2.5倍の500円の粗利益を稼げる。
 売価設定が自由であれば正常な価格競争になる。小売業者は低価格を消費者に訴えることによって薄利多売による増収を狙う。ところが売価が拘束されればこんな動機は働かず、消費者に見えない場所での原価競争になる。これは小売業者に対する賄賂のようなものであり消費者の利益には繋がらない。
 厚労省によって売価を指定された薬局は少しでも原価の安い薬を売って利益を拡大しようと目論む。消費者にはどのジェネリックが良いかなど全く分からないのだから、安く買い叩いた粗悪品を患者に売り付ければ薬局の利益は大きく膨らむ。こんな事情だからジェネリックでは輸入品のシェアが高くなり、国民よりも製薬会社の利益を重視する厚労省は薬の原産国表示を許さないのだろう。
 ある製薬会社のCḾは自社のジェネリック医薬品について「安くて高い薬」と評価して「飲み易くて高い品質の薬」と宣伝しているが、大半のジェネリックは「卸売物価は安くて危険性が高い薬」だろう。外国の零細メーカーによる粗悪品が大半を占めるのだから有害な副成分や不純物が混入している可能性が高い。原産国表示をさせない厚労省の愚策によってジェネリックの品質は低下させられておりこれがジェネリックの普及を阻害する最大の要因であり続けるだろう。

無責任体質

2016-09-01 09:58:09 | Weblog
 医師は標準治療(ガイドライン)に基づいて診療することが義務付けられている。逆に言えば、標準治療に従っている限り、たとえ医療事故が発生しても責任を問われない。医師にとっては困った時には頼りになるマニュアルと言える。
 しかし医師が標準治療を参照することは殆んど無い。珍しい病気の患者に出会うことなど滅多に無いから自らの経験に基づいた診療を日常的に行う。このことによって医師の技術が向上しているのであれば良いことだが、我流の増加によって医療が歪められているように思える。
 医師は大半の患者のその後を知らない。治った患者は通院しないし、悪化した患者は他の医師に切り替える。医師はどちらの患者の実態も知らない。結果の検証が無いから医師は自分勝手な診療方針を作り出す。これは独居する老人が偏屈になるようなものであり大半が誤った医療に向かう。
 私は食道癌の痛み止めのために病院だけではなく近所の医院も利用している。根本的な見直しが必要であれば半日を費やして病院へ行くが多少の不具合であれば近所の医院で済ませる。しかし両院の治療方針は随分異なる。治療の基本は同じだが薬の服用頻度や量などが違うし、ジェネリックに対する好き嫌いは全然違う。困ったことには薬局もまた自己流で独自のジェネリックを処方しようとする。こんな状況に妙な事情が絡まってしまったために、私の鎮痛剤は4度処方されて4度とも異なった物になってしまった。変更の度に良くなるのならそれでも構わないが私の場合、薬に対する信頼が失われてプラシーボ効果も薄れ、どんどん効かなくなっているように思える。
 鎮痛剤は当初は頓服だった。最初の1週間は2度しか使わなかった。その後毎日1回でも足りなくなり今では日に3度飲み続けても鈍痛が続くようになってしまった。こんなことになったのは病状が悪化したのか薬に対する耐性ができてしまったのか薬が駄目なせいなのか、その原因はさっぱり分からない。
 このように薬の処方がブレるのは情報が共有されていないからだろう。医師も薬剤師も自分で得た情報を最重視にして、巷に溢れている膨大な情報を利用していない。共有する仕組みが無いからこんなことになる。しかしこんな形での自由競争は全然良くない。国民の生命・健康に関わる重大な情報だから厚生労働省が情報を集約して再発信すべきだろう。誰も情報管理をしないから、原産国表示が義務付けられていないという制度上での欠陥に付け込んで、韓国や中国の零細メーカーに作らせた粗悪品がジェネリック医薬品として市場に放置されている。膨大な量のジェネリックを厚労省で再検査せよとは言わない。医療関係者から集約された情報をフィードバックするだけで充分だ。その程度のことを果たす義務があるだろう。薬は毒物でもあるのだから、許認可権を持つ厚労省は認可しっ放しにはせず充分な情報管理に取り組むべきだろう。これまでに何度も医療事故を起こしているにも拘わらず厚労省の無責任体質は全く改まっていない。市町村役場でも許認可したことに対して再審査・再々審査を行う。しかし厚労省は一度認可した薬に対しては、余程問題が大きくならない限り放置する。
 私は前任者の任期中に決められたことを覆すことは極力慎むべきだと考える。多くは前任者との違いを見せるためのスタンドプレイに過ぎないから関係者にとっては迷惑この上ない。しかし自らが犯した過ちであれば一刻も早く改めるべきだ。誤った許認可を見直さないことは、やりっ放しのお役所体質の現れであり、行政を無謬として崇め奉らせようとする官僚至上主義だ。