6年前の秋、旧3匹組の最後となったテツの介護に明け暮れていたとき、
家裏に住み着いたみう(当時「おかあさん」)に随分励まされた。
それからノラのことを見直すようになり、翌年にかけて店に続けて現れ
たニャー、チビ、シャッポの世話をするようになった。
そのチビが事故死。
さらにシャッポがニャーを攻撃し始め、ニャーはわが家に避難。
ひとりになったシャッポはダイフクの影に怯えながらも安全な屋内に
お泊りすることを拒絶し、その年のクリスマス、唐突に姿を消した。
4年前の今頃は、足を棒にして毎日シャッポを捜し続けていた頃でした。
さて、先日決意した公園散歩はまだ続いてます。
肉体的に少し余裕ができたのか、歩きながら物思いに耽るようになりました。
思い出すのはシャッポのこと。
あれだけ人懐こかったのに、固い絆で繋がれていると思ってたのに、
結局、何ひとつ不自由ないと思われた店の暮らしに背を向けた。
ノラにとっての幸せとは・・・それ以来の自分の命題です。
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とても人懐こかったシャッポは、家猫を拒否してノラの道を貫いた
当時の自分の心境は、ブログを始めた頃に書いたふたつの記事に代表される。
「ノラと家猫の分かれ道」「エサやりおばさん」(2016.10.21,22)
ノラたちの幸せを願ってカテゴリーの前後記事も含めて、振り返ると懐かしい。
当時は随分悩んだな、とか、まだまだ知らないことが多かったんだな、とか。
出会ったノラたちとお近づきになって、ご飯を提供し暮らしの向上を図る。
望めば保護して新しい家族と安全な家猫生活を提供する。
それでノラたちは今よりもずっと幸せになれると、疑いもなく思っていた。
しかし、ノラたちの背負っているものが見えてくるのに時間はかからなかった。
人間社会の構造的な闇。そして人間のエゴ。
彼らは人間が持つ醜い心根の落とし子だった。
拾う神あれば捨てる神あり。
どんなに救っても、ノラを生み出すのはまた人間なのだ。
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好奇心旺盛だったアスリート体型の子猫チビ(2016年事故死)
ノラを救うとはどういうことなのか。
あまりにも大きすぎる戦う相手。
それでもここまで来た以上、当時に戻ることはもうできない。
だから、当時が懐かしい。
ノラたちのために何ができるかと一直線に考え、そして夢があった。
何よりバイタリティーがあった。
それだけは、今も失わないでいようと思うのです。
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こわもてだけど紳士的で面倒見のよかったソトチビ(2018年行方不明)