「トリエステ、今と昔 ~外国の統治下にあったトリエステ~」に行ってきました(2018.9.11)@高円寺ピアッツアイタリア
ずっと南イタリアについてばかりやってきたので 久々に行ってきました北イタリアのトリエステのセミナー!!
中央ヨーロッパと バルカン半島の影響を受けた 今日のトリエステ
方言や料理 建築や文化の違いを トリエステ出身のマッテオ先生と学びました
トリエステに行ったことのある方もいらしていて 私は行ったことはないのですが
「未回収のイタリア」の話が聞けそうなので いつものように予習してから行きました
世界遺産検定終了直後だったので ひさびさにイタリア語に触れて新鮮でした(笑)
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まずは トリエステの歴史から
Antichitàa e Medioevo 古代から中世:
50a.C.まで トリエステはTergesteと呼ばれていました
ローマ帝国(Impero Romano) ビザンチン帝国(Impero Bizantino) フランク王国(Franchi)を経て 11世紀にTergestum(タルゲストゥム/ラテン語)の管轄区(Diocesi)となり 12世紀にトリエステの自由コムーネ(Comune di Trieste)となりましたが 13~14世紀には ヴェネツィア共和国(Repubblica di Venezia/697年-1797年)が 事実上トリエステを支配しました
ちなみに中世(Medioevo)とは 476年(ローマ帝国の滅亡)から 1492年(コロンブスのアメリカ大陸発見)までを指します
Dal Medio Evo ai Giorni Nostri そして中世から現在までの歴史:
1382年~1918年 はオーストリア支配 つまりオーストリア・ハンガリー帝国(Impero Austro-Ungarico/1867~1918)に支配されます
マリア・テレジアの時代はトリエステの繁栄時代でした
Wikipedia:
ヴェネツィアの脅威に対抗できなかったトリエステの自治都市市民たちは、オーストリア公レオポルト3世に、トリエステを彼の封土に加えてくれるよう懇願した。
1382年10月停戦合意締結が行われた。しかし市民らは17世紀まで自治権の一定部分を保持した。
そして 1748年 1815年 1918年の それぞれのヨーロッパ地図を見てゆきました
それぞれヴェネツィア共和国 オーストリア・ハンガリー帝国が拡大していました 1918年の地図にはユーゴスラヴィアがありましたね
第一次世界大戦(1914~1918)では イタリア王国(1861~1946)は ドイツ オーストリア=ハンガリーと三国同盟を締結していましたが オーストリア=ハンガリーが同盟の規定に違反してセルビアに対して宣戦したのは攻撃に当たるからイタリアには参戦の義務はないと イタリアは中央同盟国に加入しなかったのですが 実はイタリアはイギリスなどと極秘に交渉し 1915年4月に秘密条約を締結しました
イタリアには連合国(協商国)側に参戦することを約束する代わりに オーストリアに支配されている「未回収のイタリア(Italia irredenta)」といわれたイタリア人居住地と それ以外の新たな領土を割譲される保証を得て これによりイタリアは1915年5月連合国(協商側)に参戦したのですね (「イタリア戦線」) ← セミナーは初級レベルのイタリア語でしたので あとから色々調べました
そしてまた トリエステはトレントと共に 歴史的にイタリア人が暮らしてきたとする全ての土地をイタリアへ併合するという「未回収のイタリア」回復運動の中心地でもありました
第一次世界大戦後 オーストリア=ハンガリー帝国は瓦解し トリエステは1920年にヴェネツィア・ジュリア全体と一緒に イタリアへ併合されました(1918~1943)
続く第二次世界大戦では トリエスと北イタリアは ドイツに占領されてしまいます
ナチス政権下で イタリア領内唯一の強制収容所が作られました
1945年5月1日のメーデーに チトー率いるユーゴスラヴィア・パルチザン軍が到着し トリエステは解放されます (トリエステの40日←実際は38日とのこと)
1945年~1954年は 連合軍による統治(Governo Militare Alleato)でした
この頃 トリエステ自由地域(Territorio libero di Trieste/1947~1954)として国連管理下に置かれました
Zone Aと Zone Bに 分割されていたのですね
そして 1954年10月25日 トリエステ(この頃Zone Aに含まれていた)はイタリアに返還され 「トリエステ県」として 今に至ります(フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の州都)
たいへんな歴史があったのですね... 今まであまり知らなかったのですが 今回のセミナーでようやく知ることができました Matteo先生に感謝いたします
* * *
そして次は方言(dialetto)です
1800年までは tergestinoが トリエステの方言だったそうです
フリウリ方言(friulano)と似ているとのこと
そして1800年から現在までは dialetto triestino(トリエステ方言)で ヴェネト方言(veneto)と似ているそうです
若者は 家庭の中では家族と また友達とも方言で話していますが だんだんとトリエステ方言はすたれてゆき 時代とともにやがてなくなってゆくのではないかとのこと
そのトリエステ方言を みんなで少しだけ習いました!(^^)!
そして次に トリエステの歌(Canzoni triestine)も 歌詞を現代イタリア語に直してから みんなで歌いました!!
「Ancora un litro de quel bon」という酔っ払いの歌ですが 年寄りはすぐに酔っぱらうのが好きで もう一杯の酒を飲んでから家に帰る という歌詞で
un litro(1リットル升)という単位で飲んでいたのだそうで デキャンタ つまりカラフェ(caraffa)を使っていたのですね
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次に Demografia e lingue 人口統計と言語です
1910年時点では イタリア人 70% スロベニア人(sloveno) 25% ドイツ人 5%でしたが
1971年時点では イタリア人 95% スロベニア人 5%となりました
ドイツ語の言葉(parole tedesche)が トリエステ方言(dialetto triestino)に影響を与えた言葉の例もいくつか:
gucken(guardare, sbirciare/盗み見する)から cucar が
Schluck(sorso/一飲み)から slucが等...
さらにはスロベニア語の言葉(parole slovene)が トリエステ方言に影響を与えた言葉も:
cist(pulito)が cisto(senza soldi) お金がない(その日だけ持っていない)に
potok(ruscello/小川、せせらぎ)が patocに 等...
ドイツ語はわかるので なかなか興味深かったです ^^) _旦~~
関係ないのですが サルデーニャのアルゲーロ(Alghero)は昔カタルーニャに占領され入植者も多かったので 4割の住民がカタルーニャ語アルゲーロ方言 (dialetto algherese) を話すそうです そんな風にして言葉は歴史と強く結びついているのですね!
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トリエステ料理(cucina triestina)
オーストリア料理の影響を受けて グーラッシュ(gulasch)や ザッハートルテ(torta Sacher) ザウアークラウト(cragno)等もあるのですね!!
crenは西洋わさびのようなもの gnocchi di pane(パンのニョッキ) はパン(小麦粉や卵も)のニョッキで ちょうどクヌードル(Knudl)のようなもの
← gnocchi di pane (パンのニョッキ)
cevapcici/チェヴァプチチは スラブ系の肉料理
そして i(j)otaは ザウアークラウトをベースにしたようなミネストローネスープ
ドルチェでは ドイツのkrapfenから crafen というパンケーキのようなものがあるそうです
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最後は見どころ紹介:
Castello Miramare(ミラマーレ城) Canal Grande そして Piazza Unità 等を見ました
← Castello Miramare /ミラマーレ城
そしてなんとトリエステには シシィ(エリーザベト(オーストリア=ハンガリー帝国フランツ・ヨーゼフ1世の皇后)の像があるそうで 20年前に建てられたそうです
最初のころはオーストリアの像を建てることに抵抗があったものの 今やオーストリアは敵ではないので オーストリアへのノスタルジーがあるのだそうです
それを聞いて思わず ドイツ統一後の旧東ドイツで だんだんと「オスタルギーOstargie」(旧東ドイツへのノスタルジー)が生まれてきた状況と 少し似ているのかなぁ...と感じました
そして最後に トリエステの人々の特徴について聞きましたが よく働くというウディーネ人(udinesi)と あまり働かず楽しんでばかりというトリエステ人(triestini)の お互いの見方が微妙に異なる感じでした ^^) _旦~~
まだ行ったことのないトリエステ...イタリアの歴史なども知ることができた興味深い そして楽しいセミナーでした
セミナー「トリエステ、今と昔」は こちら
素晴らしいセミナーを開催してくださいましたピアッツアイタリア様に心よりお礼申し上げます
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