遊 悠 素 敵

なんて事ない日々を、野の花や野菜の花とともに綴っています。

興味と負けん気(白粉草)

2020-09-03 20:08:15 | 思い出

今日は1日断続的に雨。
その合間を縫って、買い出しに行って来た以外はお籠りでした。

ブログ友のようちゃんの今朝の話題は
お孫さんが、藁を打って→縄をなって さらには、草履まで作ったって。
凄ーい。

好奇心旺盛な今、それにこたえてあげられる大人たちがいるってのは幸せですね。



対抗するわけじゃありませんが、思い出したので、
私が小学生4年生の時、夏休みの宿題に藁草履モドキを作ったことがありました。

テレビで藁草履を作ってるのを見たのです。
今のようにビデオがあるわけでも無く、、作り方の仔細を覚えるには至りませんでしたが
作りたいと思ったのです。

材料は何だったのか?
藁をなうことも出来なかったので、紐状のものを三つ編みにしました。
髪が長かったので、毎朝 三つ編みに編んで登校でしたから、これはお手の物。
その縄状にしたものを、糸で縫い付けながらグルグルと巻いて行ったのです。
そして鼻緒を付けて出来上がり、
《小さなピンクのミニチュア布草履》のようなものを作り上げました。

夏休みの作品は教室の後ろに並べられました。
一人の男子が、「お前、作ってモオタやろ。」って、わざわざ私に言いに来ました。
とっても悔しかった。
自分で工夫して、作ったのです。
本来の藁草履の作り方と明らかに違う。その違いも分からないくせに
作ってもらうどころか教えてくれる人も居ないだから、
そんな事が一度に頭の中で噴出して、言葉にならなかった。

そんな お門違いな指摘をした子の顔すら覚えていなくって、
懸命に工夫したのに、
一人で頑張ったのに、
誰かに作ってもらったものを持って行くなんてこと絶対しない。
言い返したい事があり過ぎて、立ち尽くした 教室の景色のみ残っています。
なぜ4年生と断言できるかって言うと、立ち尽くす教室の風景を今でも思い出すことが出来るから、
(教室の配置は、1・2年生は1階。3年生は別棟の2階。4~6年生は本館2階の配置が6年間変わりませんでした)

そして今も手芸、作ることが好きです。
決して器用なわけじゃなく、たぶん不器用。
でも手仕事の好奇心はあるのです。


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行商(ザクロソウ)

2020-07-18 19:59:58 | 思い出
今日は、お昼近くに ようやく青空が広がりました。
青空は良いですねぇ~~

 
今日は思い出話です。
実家は田舎町でしたが、子供の足でも行ける範囲にお店が並んでいました。
魚屋さんもあったのに、
リヤカーに魚を載せ売り歩く行商にオバサンが何人か居て、其々お得意さんが居たようです。
bouhakari-7kg魚は棒量りで量るのを不思議に思ってました。
 
我が家はガスに代えるのが遅くって、かまどや七輪で煮炊きしていました。
火つけには枯れ松葉を使っていましたが
それを秋に1年分買ってたのだと思います。
大きな塊に括ってあって、それを納戸に運び込んでくれてました。
 
嬉しかったのは鰻のかば焼き。
獲れた時だけ売りに来るようでした。必ず寄ってくれるように頼んでいたようです。

町の魚屋さんでもウナギのかば焼きを売っていましたが、
そのオバサンが持ってくる鰻は格別でした。
何時だったか、「今日はトウモロコシも持ってきた。」と、特別だよ。
と、ばかりに出してくれたオバサン。美味しかったのです。
その後、来てくれた時は無くって、取れたら、必ずって寄って欲しいと頼んでいました。
行商のおばさんが持ってくるものは、どれも美味しかった気がします。
 
少し大きくなって、電車に乗ってた時のこと。
たぶん始発電車だったのだと思います、行商のおばさんが乗り込んできました。
たぶん、柴垣という漁師町から乗り込んでこられたのだと、
大きな頭上を越す大きさの荷物は、風呂敷包みで背負っていました。
空いた席の前にしゃがんで、座席に荷物を載せ風呂敷を解いて荷物を下ろすのです。
一人のおばさんが、編み掛けの毛糸を取り出して編み始めたのです。
また重い荷物を担いで行商に回る 電車に乗ってる間の僅かな休憩時間なのに
セーターの様でした。紺色。
たぶん解いて編み直していたのだと思います。
あの当時、珍しいことじゃなかったけど、良いなぁ~~って、
そのセーターを贈られる子は幸せだなぁ~~って、眺めていました。
 
 
 
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叔父のジョーク(マツバウンラン)

2020-04-12 12:17:41 | 思い出

やっと雨が降りました。庭の花も畑のイチゴや野菜、大きく伸びをしてくかな。
そして、ニックキ雑草たちも
マツバウンランは比較的最近目にするようになった花だと思います。
スズメノエンドウと絡み合っています。


「ワシは明治生まれだけど、I君(チチ(舅))は大正生まれで若いよ。」
って、言うのが、叔父のジョークでした。

叔父は明治45年生まれ、チチ(舅)は大正2年生まれで同学年でした。
明治45年に大正に変わり、大正元年。

その翌年の大正2年月生まれのチチ(舅)は、叔父と一緒に入学したのでした。
チチ(舅)と叔父は従妹同士、家も近い幼馴染。
そのチチ(舅)が生まれて間もない頃、夫の実家が建てられたそうです。

家の中心の大黒柱は、誰もが驚く太さです。
普通の柱なら4本は取れると言います。
けっこう湿度の高いこの地方では、平屋で高床が一般的だったようです。

土間だった台所を床を上げて、最新(当時)の流し台を設置したのは、
ハハ(姑)の自慢でした。

庭を造園して、縁側を広縁にしてソファを置き、
チチ(舅)は、庭を眺めるのが日課でした。

新しい保険証と入れ替えの時、確認すると
有効年月日 令和3年3月31年 交付年月日 令和2年4月1日

古い保険証を見ると、
有効年月日 平成32年3月31日 交付年月日 平成31年4月1日
                       と、なっていました。

 

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オルゴール

2020-02-11 16:47:10 | 思い出
昨日、夫の実家の庭の草引きが終わったので、
今日は、早めに月一の家の掃除をしてきました。
断捨離中なので、少し時間をかけて見直しも、、
我が家でも見直し中。
置きっぱなしにして、開く事も無かったオルゴールを開いてみました。
動きません、手でチョッと助けてあげたら、動き出しました。
エリーゼの為に、でした。
改めて見ると傷みもあります。でも、思い出の品、処分対象ではありません。
このオルゴールをくれたおばさんに憧れていました。

祖母の葬儀の時に母の従兄弟たちが遠く関東から来てくれました。
その従兄弟たちの父母はともに地元の人たちでしたが、すでに亡くなっていて
帰省することも無かったのかもしれません。
祖母の葬儀を切っ掛けに、実家代わりに何度か休暇を過ごしに来ました。
オバサンは自分や子供の服は手作りすると言っていました。
その頃、我流で編み物をしていましたし、お人形の服を縫ったりしてた私は、憧れたわけです。
そして、普段は節約して何かあると思い切って使う。噂の名古屋人気質の様でした。
そのオバサンから、お土産だったか、送ってくれたのか、このオルゴールを貰ったのでした。
中学生だった私には、贅沢な品でした。大事な宝物を入れていました。
と言っても、その当時の木の実?のネックレス。
琥珀のネックレスは母から譲り受けたもの
若かった私には地味。と、仕舞い込んでました。
すっかり忘れていましたが、すぐ手が届くところに持ってきました。
琥珀のネックレスも使おう ♪


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2019年 

2020-01-28 12:35:41 | 思い出
 
食べなきゃ
一昨日の夜、帰宅しました。皆様の温かいコメント、心より感謝申し上げます。                     やはり、お返事が書けません。郵便物と一緒に置いてあった 折り鶴。中......
 


2019年、なんとも目まぐるしい1年でした。
穏やかに明け、初釜をした 翌日 母の異変を知らせる電話があり、
その後、入院となり駆けつけました。

そして、それまで居た施設に戻ることは出来なくなり、次の施設を探す。
引っ越し、
気の抜けない日々、、
少し落ち着いて来て、少し休めると思ってた矢先に逝ってしまいました。

介護で完璧はあり得ないと思っています。
けど最善を尽くしたい、その時一番良いと思われることを
後悔しないために
そう思って、私なりに頑張ってきました。家族の支え、協力もありました。

亡くなる数か月前、月に1度の訪問に不満を訴えていた母でした。
それに応えることをせず、自分の体調を優先させたことを後悔するかな?って、
不安が有りましたが、
お正月明けに潰れてしまって、あれが私のできる精一杯のことだったのだと知りました。

予兆はあったのです。疲れが取れない感じ。
休んでも、どこかで緊張を伴っていました。
母を無事看送ることが出来、後始末が終わって、やっと、休める。。。
と、思った途端、潰れちゃいました。でも寝込むまでには至りませんでした。
家族への迷惑も最小限で済んだと思います。
そのことを喜びたいと思います。
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