ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

三位一体の舞…『杜若』(その13)

2024-06-28 14:45:13 | 能楽の心と癒しプロジェクト
今月はじめに研能会で「杜若」のシテを舞わせて頂きましたか、なんと同じ月の間に公演で三河に行くことになり、空き時間もあったので「三河の国八橋」にある「かきつばた園」に行って参りました!



さすがに杜若の盛りの時期は過ぎてしまったので、まあ、花の名残の茎や葉だけでも眺めてくるか、と思い、また先輩からも「現地に行った、ということが大切なんだよ」と勧められて、せっかくの機会だから行ってみたわけですが、案の定、タイトル画像のように一面の草ばかり。。と思ったのですが。。



よく見るとなんと! まだ遅咲きの杜若が咲き残っているではありませんか!!!

これは驚いた。じつはこの「かきつばた園」に到着してすぐ、現地の観光ボランティアガイドさんに声を掛けられ、東京から来ました、先日能の「杜若」を舞わせて頂いたのでひと目現地に行って見ようと思い立ったのです、とお答えしたところ、「まだ咲いていますよ」と教えて頂き、その後1時間に渡って園内をご案内して頂きました。





本当に咲いていた! それに「これが杜若」と意識してこの花を見たのは初めてでした。無事に能を舞えた事を感謝して、手の届くところに咲いていた1輪をそっと撫でてきました〜






最近作られたという業平像。

ここは知立市の無量寿寺というお寺の境内にあたり、境内に16もの池を持って、そこで杜若を育てているそうです。「伊勢物語」の業平の「東下り」史実ではないと思われますし、「杜若」に「水行く川の蜘蛛手なれば橋を八つ渡せるなり」とあるように古来増水などあって時代により地形も変わりやすかったとのことですが、やはり「伊勢物語」の世界に想いを馳せるのにこういう場所が整備されているのは素晴らしいことです。

ボランティアガイドさんは戸田勝士さんとおっしゃる方で、興味深いお話をたくさん伺いました。

いわく
・杜若の群生地は珍しく、愛知県刈谷市、京都府北区、鳥取県岩美町などにあり国の天然記念物に指定されているとのこと。

・尾形光琳の国宝「燕子花図屏風」はこの八橋の無量寿寺のもので、尾形光琳は何度か都と江戸を往復しているが、そのうち2度は5月・6月の杜若の季節に知立市を通ったということが記録から確認されているのでここに立ち寄った可能性は高い。

・杜若はどちらかというと弱く、ここでも一時は絶滅する寸前にまでなったことがあるが、保存会の努力によってまた勢いを取り戻しつつある。

戸田さんに「いまの五千円札の裏側に描かれている杜若はもちろん尾形光琳の絵で、すなわちこの八橋の杜若なんですよ。」と言われてはじめて、ぬえは五千円札に杜若が描いてあることを思い出しました。




戸田さんいわく、この五千円札も7月のはじめには新しいデザインのものと切り替えになってしまうのです。

そうだたのか。。たまたま今年の杜若の季節にシテを舞わせて頂き、また偶然にも同じ月に八橋を訪れるとができたのも驚きででしたが、まさか咲いている杜若を見ることができ、さらには杜若が描かれている五千円札の流通が終わる、その最後のタイミングだったとは。。



当日ご案内頂いた知立市ガイドボランティアの会の戸田勝士さん。感謝です!

震災13年・石巻

2024-03-10 21:05:24 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ご無沙汰しております、ぬえです。

今年も東日本大震災の起こった日、3月11日が近づいてきました。去年が犠牲になった方の13回忌となる12年目で今年が13年目になります。

ぬえたち「能楽の心と癒やしプロジェクト」は震災3か月後から避難所や仮設住宅、仮設商店街、復興住宅などで能楽の慰問上演を続けて参り、上演回数は140回を超えておりますが、い仮設住宅も仮設商店街も解消された現在ではもっぱら3.11の日に奉納上演をさせて頂いております。

思えば3.11の日は追悼のためにある日で、追悼式以外のイベントには向いていない日と思いますが、幸いに現地の皆様には能楽に対して理解を頂くことができ、これまでの12年間では必ず3.11の追悼行事に参加を許して頂くことができました。

今年は宮城県石巻市にある「がんばろう!石巻」の大看板の前で初めて奉納上演をさせて頂きます。

「がんばろう!石巻」大看板は津波が襲った地区に震災直後に住民さんの手によって建てられたもので、ぬえたちは震災直後からずっとこの看板を見守り続けてきました。これまで各地の震災遺構の前で奉納上演をしてきたプロジェクトにとってもこの大看板の前での奉納は以前から考えていたのですが、報道などで広く知られていわば石巻の被災地を象徴するような物になってしまい、とくに3.11の日にはこの前では多くの行事が行われるので難しい様子でした。

実際、今回も石巻市民の友人に伺ったところ、やはりスケジュールがタイトで難しいのではないか、というご意見もあったのですが、以前この大看板と同じ地区の門脇町内会の追悼行事に参加させて頂いた関係からお願いしたところ、ご親切にも関係者の方から快く受け入れをお許し頂きました。

我々プロジェクトにとってもこの場所での奉納上演は「悲願」でしたので、関係者のご厚志に大変感謝しており、明日は心を込めて勤めさせて頂きます。

下の画像はプロジェクトの活動の原点となった石巻市立湊小学校。当時避難所だったこの場所で震災3か月後から活動をはじめ、何度となく泊まり込んで石巻市内の仮設住宅での慰問活動の拠点とさせて頂きました。もう13年も前のことになるのか。。





今回は発災時刻の14:46の直後、15:00頃に「かわまち交流センター」で、また16:30に「がんばろう!石巻」大看板前で奉納上演させて頂きます。

大看板の前での行事は以下の「がんばろう!石巻の会」様のサイトにて14:00からオンライン配信されるそうです。よろしければご覧戴ければありがたく存じます。

https://gannbarouishinomaki.jimdofree.com/

東日本大震災3.11 追悼の集い 気仙沼(その3)

2023-03-18 20:09:47 | 能楽の心と癒しプロジェクト
去年の3.11から1年ぶりの気仙沼再訪でしたが、今回は東京から車で行くのではなく列車で仙台に入り、そこからレンタカーを借りて、途中12年間ずっと見続けてきた震災被災地の定点観測を続けながら気仙沼に向かいました。

震災当初は笛の寺井宏明や臨時に活動を手伝ってくれる能楽師の友人と東京で待ち合わせて、運転を交代しながら東北に向かったものでしたが、今は現地集合・解散が普通になってきていて、気仙沼となると片道6時間を一人で運転するのが そろそろしんどくなってきまして。。

いや、正解だったかも。新幹線を使わず特急電車とレンタカーの費用を合わせても、東京からの高速道路の通行料やガソリン代とほとんど変わらないかもしれません。レンタカーを借りるまでは徒歩での移動があるので荷物をひとつにまとめる必要があり、また運ぶことができない物もあるのがネックですが、長距離運転のリスクを考えれば体力的にもこの方法がベストかなあ。年を取ったのね~

さてこうして訪ねた石巻と志津川のご報告を致しましたが、本日はその補遺です。

石巻では ぬえの活動の原点となった湊小学校をのぞいてみました。



当時は避難所となった湊小学校もいまは学校本来の役割を果たしています。住民さんの減少に伴って、より海に近いところにあってやはり被災した湊第二小学校はすでに閉校となり、この湊小学校に統合されました。



よく見るといつの頃からか屋上への避難階段が増設されていました。石巻では旧北上川の河口に位置する日和大橋の少し上流に新しい橋も架けられていましたし、少しづつ変わっていきますね。





こちらは児童の被害が甚大だった石巻市の大川小学校。こちらも震災遺構となってビジターセンターが新しく建てられ、案内板や柵が整備されて以前より校舎にも近づくことができたようです。

じつは今回気仙沼でご一緒した「えほん楽団」のみなさんは大川小学校で演奏した経験がおあり、と聞いて驚きました。ぬえたちプロジェクトとしてもここでの奉納上演を希望していた事があって、遺族会の方々とも交流を持ってはいるのですが。。これまで3回奉納をお願いしてその都度お断りになっております。

「えほん楽団」さんの場合はかなり複雑で特別な事情と、ぬえたちより長く濃密に関係者の方々と交流を深めておられたために実現したようですが、それもたまたま様々なタイミングがうまく合って実現したようで、その後別の音楽家の演奏に遺族の方々から異論が出されたりした事情もあって、受け入れは停止されたようです。

ぬえが聞いたところでは大川小学校では清掃のボランティアさんが唯一の受け入れ団体ですが、それも関西方面からずっと継続して支援を続ける方々だそうで、そういった努力と誠意によって信頼を得られたのですね。

さて気仙沼に戻って、もう少し前になってしまいましたがNHKの朝の連続テレビ小説「おかえりモネ」の舞台ということで、それを示す看板があちこちにありました!





「橋を渡って来ましたぁ」



最後に気仙沼大島の「浦の浜」。以前は気仙沼本土から唯一の交通手段のフェリーが到着する場所で、このフェリー乗り場でも「羽衣」を上演したことがあります。上演当時お世話になった商店「グリーンアイランドおおしま」さんもすぐそばの高台の上に新築されていました!



大島大橋が架かってフェリーは廃止されたはずですが、気仙沼本土にもこの大島の浦の浜にもフェリーが停泊していました。あとで聞いたところによれば土日だけ営業する気仙沼湾内をめぐる遊覧船として就航しているのだそうです。

フェリーで大島に渡るときは船上でウミネコにエサをあげたりしましたが、あれ、今でもできるんですねっ!

東日本大震災3.11 追悼の集い 気仙沼(その2)

2023-03-15 15:11:32 | 能楽の心と癒しプロジェクト
気仙沼から帰って参りました!

去年の3.11の日に久しぶりに訪れて、その変貌ぶりに目を見張った気仙沼ですが、今回は前泊したこともあって時間をかけて見て回ることができました。

まずは気仙沼大橋、通称「鶴亀大橋」。本土と気仙沼大島を結ぶ2019年に開通したのですが、2021年のNHKの朝の連続テレビ小説「おかえりモネ」でも「橋を渡ってきた」という主人公のセリフにあるように、気仙沼大島の住民さんにとって悲願の橋だったのです。この橋は建設している段階から ぬえも見ていまして、陸上での組み立て工事が住民に公開された時期にはその見学にも行きました。



上の画像は ぬえが大島の亀山の頂上から撮影したのですけれども、左下に小さく見えるのが本当は巨大な気仙沼大橋。その向こうの正面に平らに見えるのが南気仙沼とか内ノ脇と呼ばれる地区をを抱える地域で、気仙沼の漁業や水産加工の中心地でもありますが、近世からの埋め立て地で、周囲の高台には限られた橋を渡って行くより方法がなく、震災時には大きな被害を出してしまいました。震災後は災害危険区域として住宅などの建設には制限を加えながら、それでも魚市場をはじめ水産加工場の建物が復興されて昔と変わらぬ気仙沼の経済の中心地となりました。

この右奥が「内湾」と呼ばれるエリアで、もとの大島へのフェリー埠頭を中心に次々と新しい建物が立ち並ぶ先進的な場所となりました。



半島状の埋立地の上を、これは去年はじめて見て驚いたのですが、三陸道の大きな橋がまたいで通りました。気仙沼もまるで近未来都市のようになりましたねー! 今回ようやくこの橋も渡ってみることができました!

さて ぬえは午前中に今回の会場の「すがとよ酒店」さんに楽屋入り、ついで昨晩ちょっと挨拶できた「えほん楽団」のクラリネットアンサンブルのみなさん、いつもお世話になっていて今回のコーディネートをしてくださった住民ボランティアの村上充さんも到着していろいろ情報交換を兼ねて、ご近所の仮設商店街時代からお世話になっている「団平」さんで昼食。
寺井さんも到着して音響機器の設置があり、やがて14:46の発災時のサイレン、黙祷のあとに上演となりました。



黙祷に先だって地元・気仙沼鹿折の浄念寺さんによる十三回忌の法要があり、黙祷のあと「えほん楽団」さんのクラリネットアンサンブルの奉納演奏。


撮影:米倉三喜子さん

「えほん楽団」さんはなんと九州・福岡を本拠地として被災地の復興へ音楽を通じて貢献する団体で、石巻や気仙沼で何度も支援活動をされているとか。思えばその間に九州では災害が相次ぎ、ぬえも地震被害が起こった前後に熊本を訪れて様子は見ておりましたから、九州と東北と、両方に対応されるのは大変なことでしょう。

ぬえたちプロジェクトは前述の通り能「松風」のダイジェスト版を奉納上演させて頂きました。13回忌を迎えて、ようやくこの曲も普通に演じることができるようになったと思います。思えば当地で140回以上も上演させて頂いておりますが、能ではよく出てくる泣く演技。。「シオリ」の型を被災地でしたのはこれでやっと数回目。


撮影:米倉三喜子さん

よく能は「鎮魂の芸能」などとも言われたりしますが、ぬえ自身にはそんな大それた役割が果たせる自信もなく、この12年、もっぱら震災のあともこの世に残された住民さんの幸せを祈って舞うことにしておりますから、選ぶ曲も当然のように希望に満ちた曲ばかりを選んできました。

が、これまた前述のように「愛する人を待ち続ける」その姿もまた純粋で美しい、と賛美するつもりで「松風」を選びましたが、この曲が違和感なく受け入れられたことがまた、復興のひとつの証しなのかもしれません。

3.11追悼の集い 気仙沼(その1)

2023-03-11 08:48:17 | 能楽の心と癒しプロジェクト
3.11追悼の集いのために気仙沼に向かう途中、被災地の定点観測に。

去年3.11の日に立ち寄りながら開館には間に合わなかった石巻の震災遺構・旧門脇小学校をようやく見学できました!


震災直後は簡単に近づけましたがほどなく立入禁止になり、保存するか解体するか長く議論された末に震災遺構となりました。ずっと立入禁止、清掃もほとんど行われなかった校舎内は当時を伝える凄まじい有様。









よそ者だから言えるのかも知れませんが、当時の状況を震災を知らない世代に伝えるのにはこれほど悲惨な状態を見てもらうのはとても重要だと思います。
それにしても。。多くが取り壊された「遺構候補」の建物は、みなそこで人的被害が出た場所だからだったのです。ここ門脇小学校は避難訓練が行き届いていて児童のほとんどは裏の日和山に避難して無事だったものの、それより遅れて学校に避難してきたご近所の住民さんは津波と火災により犠牲者が出ています。門脇小学校を震災遺構とするには大きな葛藤もあったでしょうに。。英断に感謝致します。これが防災意識の糧になりますように。



同じく遺構として残された志津川の防災庁舎は、きれいに整備されて、当時の状況をうかがい知るのは難しくなってしまいましたね。

東日本大震災3.11 追悼の集い

2023-03-09 02:26:58 | 能楽の心と癒しプロジェクト
なんとも長い間書き込みしないで申し訳ありません。

さて来る3月11日の震災の日に恒例となりましたが能楽の心と癒やしプロジェクトとして宮城県・気仙沼市で奉納上演をさせて頂きます。

世間では震災から12年目と言われていますが、じつは今年は13回忌として現地では重い日、節目の年に当たります。

会場は昨年と同じ「すがとよ酒店」さん前の駐車場です。
すがとよさんは現・当主の菅原文子さんが経営されていますが、震災で被災されて店舗とともにご主人も流されてしまいました。その後ご主人は見つかり、文子さんはその見つかった場所に現店舗を再建されました。

その後文子さんは経営の傍ら復興への様々な取り組みを行われ、店舗にも演奏ホールを設けてイベントを行うなどの活動も行っておられます。去年に引き続き、現地住民ボランティアの村上充さんのご助力を得ましてこの場で再び上演させて頂きます。

当日は14;20頃から地元の浄念寺さまによる法要が執り行われ、発災時刻の14:46に自治体による1分間のサイレンに合わせて各地で各々 犠牲者に思いを寄せて黙祷が捧げられます。その後今回は ぬえたちと同じく被災地にて活動を続けれらる「えほん楽団」のみなさんによるクラリネット・アンサンブルの演奏があり、最後に ぬえら「能楽の心と癒やしプロジェクト」により能「松風」を部分上演させて頂きます。

当日の出演者は ぬえと笛の寺井宏明さんの二人だけ。上演所要時間も10分少々というところでしょうか。しかしずっと体調不良だった寺井さんも13回忌ということで今回はあえて弟子に任せずご自身で笛を吹かれるとのこと!

被災地での上演する曲は「羽衣」や「猩々」など、いわゆるめでたい曲が多いのですが、これは ぬえらプロジェクトの活動が、犠牲者への追悼というよりは残された人々の幸せを願う活動だからです。これは震災当初から活動場所が被災した現場ではなく避難所や仮設住宅などであったからで、住民さんの幸せを願う上演の方針は、事実上ぬえとたった二人で活動を続けるプロジェクトメンバーの寺井宏明さんとの暗黙の了解があって続けてきたものだと思います。

しかるに「松風」は。。 亡くなった恋人の帰りを永遠に待ち続ける女性のお話です。

この曲の選曲はかなり微妙です。現実に、現地では流されて行方不明となった家族の帰りを今も待ち続けている人が大勢おらるのに。。

それでも ぬえは、じつはずっとこの曲を被災地で上演したいと考えておりました。ずっと、ずっと考えて、そうして、震災の数年後かな、はじめて「松風」を上演したのです。お客さま。。被災者さんの心情を考えると こちらもかなり心揺れる上演でしたが。。そして、実際にお客さまの反応も。。微妙であったことは否めません。

でも、ぬえは「松風」には、人を愛する心の純真が描かれていると思うのです。「松風」のシテは、自分の死後もなお愛する人が残した言葉を信じている。。立場は逆であっても、懸命に愛する人の、はかなく報われないけれども その美しさを、この曲は同情を込めて賛美していると ぬえは思うのです。

震災から12年。。13回忌を経て、ぬえは犠牲者に思いをはせる、そのお心の美しさを讃えたいと思い、今回あえて「松風」を選びました。

こういう美しい心を持った方に幸せが訪れないはずはない。それを信じて上演したいと思っております。

11年目の3.11 4年ぶりの気仙沼で追悼式典に参加してきました!(その3)

2022-03-31 02:07:01 | 能楽の心と癒しプロジェクト
すがとよ酒店さんでの発災時刻の奉納上演を終えて、気仙沼の鹿折地区では仮設商店街時代からお世話になっている うどん屋の「団平」さんで昼食。うどん屋さんなのに、ここでは中華そばしか食べたことがないですが、安定の美味!



一度はうどんを食べてみたいけど。。美味しいんだもん! この日はまだ開店時間前でしたが、すがとよさんのお客さんが店主の塩田賢一さんに電話してくださり、ぬえたちのためにわざわざ早めに出勤頂きました! 貸し切り団平!

団平さんは被災後、重機の免許を取って瓦礫の撤去をしたり、行政と交渉して仮設商店街の発足のため、まその運営のために尽力なさった方です。以前の滞在中には仮設商店街の入口をふさぐような かさ上げ工事の業者と対決したりも見ていましたが、その後なんとニューヨークに出かけて出店したり、東京・東日本橋に出店したり、と、気仙沼での再建のための資金調達に臨む姿勢とバイタリティーは常人の及ぶところではございませぬ。そしてついに念願の気仙沼に店舗を再建しました。東日本橋の店舗は今年3月いっぱいで閉店だそうです。本日まで!

太鼓の大川典良さんはスケジュールの都合でこれにて帰京、その後 ぬえたちは南町にある「キャンドル工房」に向かいました。

こちらは震災後に気仙沼に移住している杉浦恵一さんが代表を務める「ともしびプロジェクト」の本拠地であり、本日の2度目の上演場所でもあります。「ともしびプロジェクト」さんは震災の月命日である毎月11日にキャンドルを灯そう、という運動をSMS等で全国に呼びかけていて、気仙沼市内でも折にふれキャンドルを灯すイベントを開いています。ぬえたちも過去に何回かお盆の精霊送りの夕にお寺の枯山水庭園でクラシック音楽と能楽のイベントを企画して、その際には「ともしびプロジェクト」さんがたくさんのキャンドルを飾ってくださり、大変に幻想的で美しい舞台となりました。

杉浦さんも震災10年を経て、この災害を伝えるためにいろいろな模索をなさっていて、この日の出演を電話で相談したところ、まあ30分は語り合いました(笑)。この日のコンセプトはいろいろな形での「祈り」ということで、空と海を表現する青いキャンドルを全国で灯し、本拠地・気仙沼では宗教を超えた祈りを捧げたい、とのことでした。

カトリックの神父さん、真宗のお坊さんがそれぞれのやり方で犠牲者に祈りを捧げるので(!)、ぬえさんも何か能楽のやり方で「祈り」の形を取れないだろうか、という相変わらずアイデア満載のこの方らしく興味深いもので、ぬえはこの日は能『葛城』を舞うことにしました。『葛城』は「祈り」とはちょっとイメージが違う曲かもしれませんが、それでもシテがキリスト教と仏教の祈りに対して神道の女神であり、なんといっても純白の雪山が舞台なので、震災の日の夜の出演には好んで選んでいる曲です。震災の当日には雪が降っていました。。



この日も各地から集まったお手伝いボランティアさんが集い、生配信も行われました。会場が狭いのは仕方ないのですが(舞いながら扇で一度。。お客さんを殴った感触が。。)ん-、ただ、被災者。。というか市民の前での上演ではなかったのがちょっと残念かな。ぬえたちプロジェクトはずっと被災者や傷ついた街の市民に寄り添って活動を続けてきたので。とは言えボランティアさんが灯したキャンドルは気仙沼の夜に美しく映えていました。「ともしびプロジェクト」さんでは全国で青いキャンドルを灯してもらうために、キャンドル自体は無料で、送料のみで全国にキャンドルを届けておられるそうです。



今回昼間の追悼式典をコーディネートしてくださった村上充さんといい、移住して活動を続けている杉浦恵一さんといい、長い長い、無報酬での活動が11年目を迎えました。こういう人たちがいることを知ったのも ぬえたちプロジェクトが(これらの人々から比べたらほんの少ない回数ですけれども)活動を続けていくうちの出会いで、そう考えると 11年前のあのとき、被災地に行けて幸せだったんだな、と思います。

とりあえず今回もこれにてミッション・コンプリート♪

11年目の3.11 4年ぶりの気仙沼で追悼式典に参加してきました!(その2)

2022-03-28 10:34:36 | 能楽の心と癒しプロジェクト
久しぶりの気仙沼は、知らぬ間に大きな橋が二つも架かっていて、ちょっとした近未来都市みたいになっていました。

本当は去年の11月、石巻市観光協会さんのイベントにご招待を受けたとき、東京に帰る途中に気仙沼に立ち寄った(笑) ので橋が架かったのはすでに見ているのですが。それどころか、最初の橋。。気仙沼市民の悲願で朝ドラ『おかえりモネ』(ちゃん?)でも重要なモチーフとなっていた本土と大島とを結ぶ橋。。愛称「鶴亀大橋」は本土で組み立て作業が公開された際には見学に行ったし、いざ架橋の場面はNHKのドキュメンタリー番組として放映されて、これも息をのんで見守ったものです。

それでも変わった気仙沼の様子を見て、今回は ほっとひと安心しました。不思議なもので、活動しているときだけは、ほんの1日だけ、その場所の市民になったような気持ちになるんです。だから3年かな、プロジェクトの活動で気仙沼を訪れなかったところに去年立ち寄ったときは、この変貌ぶりを見て自分が「よそ者感」がありました。今回は同じ橋を見て、ああ、悲願がかなって良かったな、と、思ったのです。

さて311の震災の日、発災時刻の14:46には被災地一帯では防災サイレンが鳴らされ、それに合わせて1分間の黙祷を犠牲者に捧げます。私どもプロジェクトでは毎年、このサイレン~黙祷の直後に、明日の幸せを願って『羽衣』を奉納上演することにしています。

。。考えてみれば、311の日というのは追悼のための日なので本来イベントが出来にくいのですが。。これも本当に幸せなことに、プロジェクトの主旨をご理解頂いて、どこかの地元の追悼行事に受け入れて頂き、この11年間、1度も欠かさず奉納させて頂くことができました。

今回も住民ボランティアの村上充さんのご紹介によって、はじめての場所となる「すがとよ酒店」さんの店舗前の駐車場で奉納上演させて頂きました。
 
「すがとよ酒店」さんは気仙沼市の「鹿折シシオリ地区」で今年でちょうど創業100年を迎える老舗です。しかし11年前のあの日。。津波によって店舗は流され、そうして。。店主のご主人も流されてしまったそうです。



ところが震災から1年も経ってからご主人は発見され。これを見た奥さんは決意されて、ご主人の発見場所に店舗を再建を果たされたのです。なんとも凄まじいお話。
がしかし、現店主である菅原文子さんは単に店舗の再建だけでなく鹿折地区を中心に気仙沼の文化の発展の本拠地となるべく次々と活動を開始されたそうで、店舗2階には音楽家から寄贈されたグランドピアノを備えた小さなホールがあって、今でもしばしばコンサートなどのイベントを企画しておられるそうです。





菅原文子さんとは電話であらかじめご挨拶と打合せはしましたが、この日初めてお目にかかりました。この方はマスコミにもしばしば取り上げられ、この日も京都放送のラジオに生出演されるとのことでしたが。。お会いしてみると意外や控え目で、能楽師の活動にも感謝のお言葉を頂き、頭が下がる思いでした。たしかに。。震災後にマスコミに取り上げられて、いつの間にか被災者というよりタレントみたいになってしまった方を何人か見てきたのですが、この方にはそんな俗っぽいイメージはまったくなく。逆境から、むしろそれを乗り越えて地域に貢献しようという希望にあふれた方でした。

さてその2階の小ホールを楽屋に使わせて頂き、こちらとしてもかなり好待遇なスタートです。

やがてサイレンが鳴り黙祷が捧げられて、いよいよ「羽衣」を奉納上演させて頂きました。今回はプロジェクト・メンバーの寺井宏明さんは舞台監督、笛の実演はそのお弟子の寺田林太郎さん、そして何度も活動に協力してくださっている太鼓の大川典良さんが今年も参加してくださいました。サイレンの前にはご近所の女性の僧侶さんが、店舗の前に備えられたお地蔵様の前で法要をされることになっていましたので、「羽衣」も最後のトメ拍子のあとにお地蔵様に向けて合掌する型を入れることに致しました。







驚くべきは、この追悼行事に、およそ30名様ほどのお客様が参加していられたことです。すがとよ酒店様にはあらかじめプロジェクトのプロフィールやら「羽衣」の画像をお送りしていたのですが、コロナ禍の中積極的な宣伝は控えておられ、店内に控え目に小さな掲示をしておられた程度とのことだったのに。

舞いはじめた ぬえはお客さまが多いのを見てびっくり。こういう時は正面を1方向に定めず、右側のお客さんを正面に見たり、左側のお客さんを正面にとったり、こうして発災時刻の奉納上演無事に終了しました。



11年目の3.11 4年ぶりの気仙沼で追悼式典に参加してきました!(その1)

2022-03-16 18:52:35 | 能楽の心と癒しプロジェクト
すでに11年前になってしまった東日本大震災、その当日である3月11日に気仙沼市の追悼式典に出席、奉納上演させて頂くことができました。
 
1.11と言えば犠牲者を偲ぶ日で、イベントはできにくい日なわけですが、能楽の持つ追悼と、残された人々の幸せを祈る心が受け入れられて、この11年間、欠かさず追悼式典などに受け入れて頂いたことは本当に幸運だと思います。ずっとお付き合いさせて頂いた移住ボランティアさん、住民ボランティアさん、そしてもちろん住民さんの協力なくして成しえなかった事と、心より御礼申し上げます。

ぬえは前日の10日に宮城県に入り塩釜に前泊。
。。相変わらず睡眠時間が短い ぬえは長距離運転のあとなのに やっぱり5時には起きてしまいました。明けの明星。
 
それから数年前に訪れた能『融』にも登場する歌枕「籬が島」に行ってみました。
 

 

 
籬が島は岸近くに自然のままの島で残っていますが、コンクリート岸壁やそこに繋がれたプレジャーボートとの対比があまりに痛々しい。。 以前にはなかった防潮堤によって、陸からはほとんど見えない状態で、なお かわいそうな感じでした。。
 
それでも前回に訪れた時と同様、島には架け橋が掛けられ、岸からは厳重な封印が。祭りのときだけに開かれるのでしょう、この島が神の島として崇敬されている様子は変わらずに伺い知れました。
 
塩釜神社にも参詣したかったのですけれども、時間に追われて今回は断念。震災当時は1~2週間もスケジュールを空けて何度も被災地に赴いていて、国道45号線を走りながら、復興工事によって変わっていくあちこちの被災地の有様を「定点観測」なんて言って撮影していたものですけれども、今となっては限られたスケジュール、まして三陸道が整備され現在は時間に追われて細かいところまで見る余裕がありません。ゴメンなさい塩釜神社の神様、志津川、歌津、小泉、大谷、階上のみなさん。。
 
次に訪れたのは利府町の「馬の背」と呼ばれる名勝。松島の一部で、波の浸食によって小さな岬の先まで馬の背中を歩くような狭い通路を通って行く場所です。
 

 

 
少し前に石巻で熊谷町長さんに教えて頂いたので今回初めて訪れましたが、なるほど、馬の背中みたいな路を通って。。行きついた先から見た景観は、まさに「松の島」を実感させるものでした。
 
さて急いで気仙沼へ。三陸道の開通で驚くほど近くなりましたね。先行している笛の寺井さんからはすでに到着しているとの連絡が。
 
急いで気仙沼に向かいました(ここまでの投稿じゃただの観光ですね。。)

3.11 気仙沼で追悼式典に奉納上演

2022-03-10 08:07:39 | 能楽の心と癒しプロジェクト
今年も3.11の東日本大震災発災の日に気仙沼市で追悼式にて能楽の奉納上演をさせて頂けることになりました。
 
震災から11年目。欠かさず311の日に奉納上演させて頂けることのありがたさ。関係各位にお礼申し上げます!
 
【追悼式】14:46発災時刻のサイレン・黙祷のあと
気仙沼市・鹿折地区「すがとよ酒店」前駐車場
能楽「羽衣」シテ=ぬえ、笛=寺田林太郎、太鼓=大川典良
      後見=寺井宏明
※すがとよ酒店さんの菅原文子さんは震災で店舗とご主人を流され、1年後にご主人が発見された場所に店舗を再建されました。以後イベントを主催されたりネットで発信されたりと精力的に活動を続けておられます。
※今回は コロナ禍のためあまり宣伝はなさらないそうです。
 
【3.11 Blue Candle Night】19:00頃〜配信のみ
気仙沼市・南町「ともしびプロジェクトキャンドル工房」
能楽「葛城」シテ=ぬえ、笛=寺田林太郎
      後見=寺井宏明
 
「ともしびプロジェクト」さんは全国で毎月11日にキャンドルを灯そう、という運動を続けておられ、何度かコラボの活動をさせて頂きました。
こちらでも発災時刻の14:46のサイレン・黙祷時間にも追悼の配信イベントがあり、そこではキリスト教の牧師さん(神父さんかも)と仏教のお坊さんが宗教の垣根を超えてお祈りをされるそうです。
 
ぬえら「能楽の心と癒やしプロジェクト」が参加させて頂くのは夜の部で、10年を経て311に青いキャンドルを灯す追悼イベントを行うそうです。
能楽の上演のあとトークイベントもされるとのこと。
※この時節なので無観客・facebookでの配信のみだそうです。
 
配信url https://fb.me/e/17RqU23AW

震災10年雑感(その17)~ボランティアさんのいろいろ(その1)

2022-01-19 15:17:22 | 能楽の心と癒しプロジェクト
あけましておめでとうございます(今さら。。)

このブログも震災10年を受けて、被災地での活動を通じてこの10年間で ぬえが感じたことを綴ってきたわけですけれども、なんせ更新が遅くて申し訳ないことです。そうこうしているうちに11年目の3.11が巡ってくるわけで、ぬえも今その準備を進めているところですが、それまでにこの記事も完結しておかないと。

そういうわけでこれが最後の話題になると思いますが、ぬえが被災地で出会った様々なボランティアさんについてお話ししておこうと思います。

ぬえが初めて被災地を訪れたのは2011年の6月のことで、震災からすでに3カ月が経過していました。当時も大勢の、個人や団体のボランティアさんが集っていて、大きな団体のメンバーはゼッケンをつけて、それこそ蟻がむらがるように被災家屋に取りついて作業をしていました。ぬえがお手伝いをした避難所ではインカムをつけて連絡を取り合いながら若者が忙しそうに支援物資を運んでいました。

ぬえが聞いたところではボランティアさんが集まった最初のピークはこの年のGWだったそうで、ぬえが訪れたときはすでにそのピークは終わっていました。避難所となった小学校のプールには車が突っ込んでいたそうですが、ぬえはそれは見ていません。が、それでも泥掻きやら家屋の片付け、避難所の運営など、ボランティアの仕事は長期間に渡って見ることができました。

それぞれ大変な力作業だと思います(ぬえは体力的な問題で泥掻きはしませんでした)が、泥掻きといえばこんな話も。。被災した魚市場や加工場の片付けでは、泥の中からたまに加工製品が詰められた袋が現れるのだとか。うっかりこれを乱暴に取り扱って袋が破れたら大変なことに。。 すでに中身の加工食品は腐敗していますので。。 こういう現場で作業するボランティアさんたちはその「危険物」の袋を「やさしーヤツ」とか呼んでいました。優しく取り扱わなければならないヤツ、って意味でしょうね(笑)

さて本題は、その年の夏頃でしょうか、こうしたボランティアの多くが役割を終えて撤退していく中で、その後も長く被災地に留まって活動を続けた個人や(小規模の)ボランティア団体がいたことです。ぬえたちは1~2カ月おきに被災地を訪れていましたから、こうした人たちと自然に交流ができあがっていきました。

石巻では避難所に常駐するボランティア団体の活動の手伝いをしながら自動車整備をしていた人が、その後適正な価格で被災者に中古車を販売するようになり、ついに石巻に住みついて自動車販売と整備工場を立ち上げました。ご本人に伺ったところ住民票どころか本籍地も石巻に移したとのこと。本気です。その後市民の女性と結婚されたそうです。

同じく石巻で避難所で自転車の整備をしていた人がいて、この人は子どもの自転車や大人でもちゃんと自転車のメンテナンスをしている人には無償で修理をしていました。面白いのはこの人はイラストを描くのが得意で、その後石巻にとどまらず被災地各地の仮設商店街などで倉庫の壁などでこの人が描いたイラストを見たこと。あ、あの人、ここまで来ていたんだー! いつか東北に自転車トレイルの道路を作るのが夢、と語っていたのが印象的です。

女川町では仮設住宅の運営をしていたボランティアさんの話を聞いて驚きました。もとよりボランティアは衣食住のすべてを自分で賄って、当時自衛隊が被災者に配布していた食料も受け取らない人が多かったのですが、この人はそれが徹底していて、災害発生直後に女川町に入って、なんとその後半年間テントで暮らしていたのだそうです。その後献身的な活動が行政の目に留まり、町の臨時職員として起用されて仮設住宅の運営に携わっているのだとか。

なぜ女川町に? とこの人に聞いたことがあるのですが、震災当時隣町の石巻市には数百人? のボランティアが集っていたのに対して女川町には数名程度しかいなかった由。「大勢がいる所に行ってもあまり意味がないと思って。。」と話されていましたが、その後この方は被災者の女性と結婚して当時その女性が住んでいた仮設住宅に住むことになったそうで、ああ、少し住環境が向上しましたね(笑)。今も女川町に住んでいて、地域振興に尽力しているお話を伝え聞いています。

石巻にやってまいりました(その2)

2021-12-03 08:05:48 | 能楽の心と癒しプロジェクト
もう仮設住宅も仮設商店街も解消されて ぬえたち「能楽の心と癒やしプロジェクト」の活動の場もほとんどなくなってきまして、このところはほとんど毎年3月11日の震災の日に活動するだけになってしまいましたが、この度は石巻観光協会様からお招きを受けて主催イベントに出演させて頂きました。

その名も「~復興10年石巻からありがとう~ フィナーレ i 感謝祭」です。観光協会がある旧北上川を望む堤防直下に建てられた「石巻市かわまち交流センター」通称「かわべい」がその会場で、ぬえたちプロジェクトは午後と夕方の2回の上演をさせて頂きました。

このイベントは令和3年11月27日(土)~28日(日)にかけて行われたもので、各地の物産品の販売、菓子やお酒の無料配布、そして よさこいや音楽などのパフォーマンスなど盛りだくさんの内容でした。
震災後に石巻の再生に携わったボランティアさん。。だけでなく市民も含めて買い物などで広く石巻の経済を回してくれた皆さんへの感謝を込めた、お祭りのような楽しいイベントと ぬえの目には映りました。

この場所でプロジェクトとして午後の部は屋内で能「龍田」、夕方の部は屋外の川を見下ろす堤防の上で能「猩々」を、それぞれ短縮版で上演させて頂きました。







とくに夕景の旧北上川の川面に赤く染まった空が映りこむさまを見ながら舞うことになった「猩々」は至福の時間でした。体調不良で監督の立場の寺井さんに代わって笛を吹いた寺田林太郎くんも、何度もプロジェクトの活動に参加してくれ、今回もなんと日帰りで参加頂いた太鼓の大川典良さんも、申し訳ないが上演しながらこの風景を見ることはなかったでしょう。これは舞を舞うシテ方の特権かな!

そうして夕方の部の上演が終わって着替えてから、観光協会が設けてくれた宴席にご招待頂きました。「かわべい」に隣接する物産館の「元気いちば」の2階で、ぬえは観光協会の後藤会長様の隣席という特上のお席に座らせて頂きまして、おいしいお酒とお鍋を頂き、あまつさえこのイベントの終幕を飾る花火の打上もテラスで堪能させて頂きました。

さてこの宴席の冒頭で、観光協会様より プロジェクトをはじめこのイベントに遠方から参加した団体に感謝状が贈られました!



こういう思いは純粋に嬉しいものですねー。 もちろん感謝して欲しくてプロジェクトの活動を始めたわけでもなく、震災当時は無我夢中で活動を始めて、その後東北の皆さんの優しいお心に触れるに惹かれるように、いつの間にか10年間に渡って活動を続けてきたわけで、むしろ石巻観光協会様には上演場所やその控室の提供を頂いたり、お世話になりっぱなしだったのです。それなのに、石巻のために働いてくれてありがとう、と思ってくださってくださったとは。

上演する ぬえたち能楽師の側からも、受け入れをしてくださる被災地の方々からも、どちらも「ありがとう」と言い合って、それでプロジェクトの活動は成り立ってきたんだなあ、と、このとき ぬえは実感しました。

この日に打ち上げられた花火も、「観光協会の予算が少ないもので短時間で恥ずかしい」なんてあらかじめ言われていましたし、いざ花火が打ち上げられてもテラスで感慨深く見ている ぬえの後ろでは「もっと盛大にできればなあ」「昔はもっと派手にやったけど」なんて関係者の謙遜のお言葉が聞こえていましたが、ぬえは大感激してこの花火を見ていたのでした。「ここまで来たのか!」

感謝状を受けたのは能楽師のプロジェクトだけではなく、東京の音楽とパフォーマンスの団体「できることをできるだけプロジェクト」「調布から!復興支援プロジェクト」などの団体も表彰されていました。いずれも ぬえは知らない団体ですが、それぞれの活動で石巻の復興に地道に貢献しておられたのでしょう。

こうした、ずっと支援をしてきた団体の皆さんは ぬえと同様にこの花火を感慨深く見上げたことは間違いないでしょう。支援する側もがんばったけど受け入れる側もがんばった。10年と言う月日を経て、そのお互いの心の触れ合いが、たとえ規模は小さくてもこの花火に結実して大輪の花を咲かせたのです。そしてまた、この花火が上げられた場所は、10年前にあの阿鼻叫喚の地獄が起こった場所でもある。。これを乗り越えて感謝の花火を打ち上げるところまで、石巻が復興を果たしてきたことに ぬえは感動を覚えます。



10年前、ここに来れた ぬえはじめボランティアは幸せだと思います。直接被災はしていなくても日本人なら誰でも あの日それぞれの心に重大な傷を負ってしまったのです。ぬえたちは、幸運にもその後の復興に微力ながらも携わり、今日またここまで進んで来れた石巻の人々の姿を見届けることができた。ぬえはまたこの日の事を、心に傷を負った多くの人々に伝えたいと思います。

(能の上演画像は気仙沼の米倉三喜子さんから提供頂きました)

石巻にやってまいりました

2021-11-28 00:07:34 | 能楽の心と癒しプロジェクト
もう避難所はもちろん、仮設住宅も仮設商店街も解消されて印象としてはかつての姿を取り戻したような震災の被災地ですが、現地の知人から得られる情報を聞けば難しい状況は依然として続いているようです。

かく言う ぬえも、被災地支援の能楽慰問上演の場所はほとんど失われてしまっていて、この2年間は3月11日の震災の日のほか わずか1~2回足を向けるだけになってしまいました。現地の状況を知るだけに、支援は続けてゆきたい希望は持っているのですが。。

そんな中、この度石巻市の観光協会様からお招きを受けて震災10年の感謝イベントに出演させて頂くことになりました。
石巻はこの3月11日にも訪問しましたが、門脇・南浜の甚大な被害を受けた2地区が緑の広大な記念公園になっていたのに驚きました。
それでも公園の中心的な位置にある伝承施設? が未完成で、これを見れなかったのが心残りでありました。
その後施設は開場したようなので、今回はここを見るのも楽しみのひとつにしています。

さて観光協会のイベントはこんな感じ。チラシもあるようですが入手が遅れたのでサイトのスクリーンビューでご勘弁ください。



まあ。。10周年のご愛顧感謝のイベントと物産展、ぬえたちはそのお手伝いですね。
いや、これで良いと思います
ぬえも観光協会様から最初にオファーを受けた際には「10年間ご支援を受けた方にご恩返しをするイベントなんです」と聞いて「ぬえたちボランティアへの感謝の宴会」かな? と早とちりしましたが、その後 ぬえらプロジェクトの役割は出演する側と知って納得。
震災の後、むしろこの石巻の近隣の市民が復興の主役なのです。これを忘れちゃダメだ~

こちらに到着してみると、東京と比べてかなり寒いです。
明日は発災時刻頃の15時少し前と、夕方には花火を打ち上げるとのことで、その直前に能楽の上演を致します。
どちらも会場は堤防の上。。つまり野外だとの事だけど。。

ところで ぬえは前泊で本日 石巻に入りました。
たまたまこの日に石巻で仙台フィルのコンサートがあるというので、このチケットをゲット。東京から500km走ってからクラシック音楽のコンサートに臨むという大冒険をこなしてみました!

素晴らしかったけど、山形フィルとのコラボ公演だったので、一糸乱れぬ、という訳にはいかなかったかも。主席チェロ。かっこよかったです。第一バイオリンの最後列は気仙滑でご一緒しタタル・ヘンリさんかなあ??



がしかし、この会場が問題? で、最初これを聞いた時、まさか? と思いました。

会場は「まるほんマキアートテラス」という場所で、その場所は「石巻市開成」。。

そこは震災前に企業誘致を図って整備された場所で、震災後は 恐らく日本最大の仮設住宅群があった場所なのです。
ぬえも 仮設住宅時代にこちらで支援活動をしたこともあり。。

到着して見れば、たしかにかつて主に南浜地区の住民さん用に作られた巨大な仮設住宅があったところでした。
でもモダンなこの建物!



能の公演もいつかここでやってみたいです!

震災10年雑感(その16)~観世清和宗家のこと

2021-10-17 23:02:26 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さて「能楽の心と癒やしプロジェクト」は震災の3カ月後に ぬえが避難所でお手伝いをしたところから活動が始まり、翌月には笛の寺井宏明さんや、当初は狂言の大蔵千太郎(現・彌太郎)さんらとともに能楽師有志団体としての慰問活動を開始することになり、それから10年間に及んで避難所や仮設住宅、仮設商店街、地元の寺社などで能楽の上演を続け、また毎年3.11の震災の日には ありがたいことに10年間1度も欠かすことなく発災を告げるサイレンに合わせた1分間の黙祷のあとのタイミングで奉納上演を続けることができております。

能楽師有志が集まれば能楽の上演は簡単なようにも思えますが、じつは能楽界のしきたりというものもあり、難しい面もあります。震災当時、あの惨状をテレビで見た日本の国民全員が少なからず心に傷を負ったと思います。その後多くの方が義捐金を募金したり、中にはボランティアとして現地に赴いた方も多かったと思いますし、ぬえもその中の一人としていても立ってもおられず被災地に行った一人だったわけですが、今になって冷静に考えてみれば、被災地での能楽の慰問上演は能楽師としては完全にフライングだったと思います。なんせ必要な役者の人数を集めた上演ではなく笛と二人きりでの略式で部分的な上演、それも会場は能舞台ではなく津波が襲って汚れた体育館や、後には仮設商店街などの駐車場のアスファルトの上で上演するのですから。。

このように不完全な形で能楽を上演する場合には、事前に師匠や ぬえが所属する流派。。観世流の宗家の許可を得ることが必要なのです。ところが前述の通り ぬえは個人として避難所のお手伝いとして清掃をしに行き、そこではからずも能楽師として慰問上演という支援方法があると知って、東京に帰ってすぐ仲間の能楽師と相談し、みんなで慰問に行こう、と話がまとまったのです。当時舞台も自粛で師匠とお会いする機会もなく、慰問の計画は仲間の能楽師だけで興奮気味に進めてしまい。。

しかし単発のつもりでいたこの1回目の慰問上演は大変喜んで頂き、現地に常駐するボランティア団体からも次の活動を望まれて、ここでようやく師匠に報告をし、また観世流のご宗家にも不完全な形での上演をする旨の届け出を(おっかなびっくり)提出したのでした。

ところが。忘れもしない、届け出をしたひと月ほど後のことです。

ぬえの師匠家の催しで、渋谷の観世能楽堂(当時)に出勤した折、楽屋に入る前にいつものように能楽堂の事務室に気軽に挨拶に入ったところ。。そこに観世清和宗家がおられました(!!)

清和宗家は、ぬえを見るとすぐにこうおっしゃいました。

「ぬえ君、届け出ありがとう。笛の寺井君も僕に挨拶に見えてね。熱い情熱をもって被災地の事を語ってくれた。被災地の状態はどう? 胸を張って活動を続けなさい! 僕も普段の食事は(風評被害が出ている)福島県の米を取り寄せて食べているんだよ。」

。。この時は ぬえは涙が出そうでした。

寺井さんもすでに ぬえより前に清和宗家にご挨拶されていたのも知りませんでしたが、あとで聞けば寺井さんは父君を伴って、かなり真剣に被災地支援活動のお許しをご相談されたのだそうです。

それにしても。。 ぬえたちのこんな「変な」上演、しかも無許可のフライング上演をお許しになった師匠と、さらには叱られるかも、とまで思った観世清和宗家から、ここまで温かいお言葉を頂けるなんて。。こんな寛容な師匠・こんな心美しい宗家の下にいた事に気づかない ぬえは愚か者で。。幸せ者です。

観世清和宗家ご自身もその後2013年に被災地・石巻で小鼓大倉流宗家の大倉源次郎さん(現・人間国宝)とご一緒に奉納上演しておられます。それどころか、今年の3.11の震災10年目の今年3月 ぬえが被災地支援活動を行って東京に帰った直後、清和宗家が皇居外苑で「日本博」の一環として震災の復興を祈る上演をされたとの新聞記事を見ました(!) あの後清和ご宗家と震災についてお話したことはないけれど、10年を経てまだ ぬえと同じように被災地のことを思い続けてくださっていたとは。。

このような大規模な、というか本来あるべき正式な上演と比べて ぬえは言わば「草の根」の活動しか
できていないわけですが、それでも流儀や師家が被災地を思うお心を知って、そのお手伝いができれば良いな、と考えております。

ところで。。 清和宗家が ぬえに声を掛けてくださったあのとき。。考えすぎかもしれませんが、ご宗家は ぬえの届け出を読んでわざわざ観世能楽堂に ぬえにお言葉を掛けるために出向いてくださったのかも。。? と思っております。

いや、考えすぎかな。 たまたまご用事があって ぬえの師家の公演日に事務所にいらしただけかも。でも。。後にも先にも、ぬえの師家の公演の日に能楽堂の事務所にご宗家がいらしたことは、この30年間であの1日きりだったのです。少なくともご用事があっていらしたとしても、ぬえたちが楽屋入りする時間まで、もしわざわざお待ちになって下さったのだとしたら。。 ぬえ、泣いちゃいますよ。。

震災10年雑感(その15)~能楽師の支援活動

2021-09-18 13:02:55 | 能楽の心と癒しプロジェクト
コロナ禍で能楽界も未曽有の混乱がもう1年半以上も続いています。
それでもようやくワクチン接種も広がりを見せ、ぬえも2回の接種を終えました。このためか東京ではこのところ感染者が減ってきて、あと2週間で緊急事態宣言が解除される予定です。これが最後の我慢になり、公演や教室が以前の賑わいを取り戻すことを祈りつつ。。

さて、そんなこんなで ぬえも生活を続けるためにいろいろな試みをしておりまして、なかなかブログの更新ができず申し訳ありません。。それでも震災10年を振り返るこの連載は細々となりとも続けていきたいと考えております。

東日本大震災に関して、じつはぬえたち「能楽の心と癒やしプロジェクト」のほかにも多くの能楽師が被災地支援に携わりました。今回はそのような能楽師の活動についてちょっと紹介したいと思います。

まず震災の年、各地の能楽堂ではチャリティを目的とした義援能が数多く行われました。
この年の義援能を網羅した記録を見つけられなかったのですが、一部をご紹介すると、震災の翌月にはすでに義援能が行われていたようです。

「東日本大震災チャリティー狂言会」 平成23年4月12日 京都・大江能楽堂
「東北地方太平洋沖地震 義援能」 平成23年4月25日 京都観世会館 
「東日本大震災チャリティー能」 平成23年4月29日 京都・金剛能楽堂
「震災復興支援能」 平成23年5月3日 石川県立能楽堂
「東日本大震災チャリティー能」 平成23年5月4日 神戸・上田観正会能楽堂
「東日本大震災チャリティー能」 平成23年5月5日 名古屋・ミッドランドスクエア
「東日本大震災チャリティ能」 平成23年5月11日 東京・阿佐谷神明宮
「東日本大震災復興支援能」 平成23年5月23日 東京・観世能楽堂

こちらは震災の年の記録は見つからなかったけれど、翌年の平成24年に「第2回」と銘打った義捐能が行われていた事がわかった公演です。

「第2回 東日本大震災義援能」 平成24年3月10日 福岡・大濠公園能楽堂
「第2回 東日本大震災義捐能」 平成24年3月11日 大阪能楽会館

これらはそれぞれの都市の流儀や能楽師、また会場となった施設や社寺が協力して行ったもので、いわばオフィシャルな義捐公演というべき性格のものですが、これに対して ぬえらのプロジェクトと同じように有志や個人として被災地支援を行った能楽師もあります。

これについてまず特筆されるべきは「息吹の会」でしょう。
ぬえたちプロジェクトと同じく能楽師有志によって立ち上げられた団体ですが、もともと教室を開いていたなど東北に所縁のある数人が集まって、さらに数多くの、そして能楽界の主だった人々まで広く協力したことによって、被災地支援の取り組みの中で最も規模も大きく充実した成果を上げた会だと思います。

メンバーは柿原光博さん(大鼓方高安流)を代表として、小島英明さん(シテ方観世流)、小寺真佐人さん(太鼓方観世流)、佐々木多門さん(シテ方喜多流)、八反田智子さん(笛方一噌流)、水上優さん(シテ方宝生流)、山井綱雄さん(シテ方金春流)で、さらに補佐役として岡久廣氏(シテ方観世流)、國川純氏(大鼓方高安流)が名を連ねておられます。
ともかく活動が大規模で、まず震災の翌年に東京の観世能楽堂でチャリティ公演を行い、これには能楽各流儀の宗家や人間国宝の先生方をはじめとして多くの能楽師が無報酬で参加、この収益をもとに被災地各地で能楽の本格公演を行いました。公演地は福島県いわき市・南相馬市・須賀川市、岩手県大船渡市、宮城県多賀城市・名取市の各地に及び、入場無料の公演を行ったそうです。

仮設住宅などをまわって小さな活動を続けている ぬえから見ても立派な公演が行われるのは素晴らしいことですし、ぬえたちも「文化の復興」ということを活動テーマのひとつとして捉えていましたから、大勢の能楽師が協力して実現したことはまさに大きな成果だといえますし、羨ましい限りです。

「息吹の会」の活動自体は平成29年に東京で最終公演となったそうですが、先日「息吹の会」代表の柿原さんと話す機会があって、この震災10年目の機会に再び活動をする計画もあったそうです。コロナ禍の現状で実現はしなかったそうですが、いまでも東北に心を寄せている能楽師がいることに感激。

被災地での能楽公演はほかにもいくつかあったようですが、ぬえ自身も震災の翌年の3月10日、石巻の駅前に設えられた追悼式の前夜祭(?)の式典に、仲間の観世流の能楽師の山中迓晶さんが出演すると聞いて見に行きました(笑)。ぬえもこの震災1周年の日には閉鎖された旧避難所での追悼集会に出演することになっていて、その前日には会場の飾り付けをしておりましたので、ちょっと手を休めて式典に行き、山中さんとも面会。どちらも「こんな所でお会いするなんて!」と驚いていました。

このほかにも被災地での慰問公演の話はピアノと共演される津村禮次郎さんなどいくつか聞きましたが詳細がわからないので。。

でも慰問に限らず、東北に教室を持っていた能楽師の多くは率先して義捐金を送っていたそうですし、中には師匠が先導して門下で協力して大量の支援物資を送った例もあったと聞いています。

能楽師の仲間もみんな頑張ってるなー。
東日本大震災とは話題が変わりますが、楽屋で仕入れたこんな話も。

2016年に起きた熊本地震で重文の楼門などを破損した阿蘇神社に、ワキ方下掛宝生流が流儀をあげて義捐金を送ったのだそうです。

熊本地震については東北で一緒に活動するプロジェクト・メンバーの寺井宏明さんとも支援活動をするかどうか話したのですが、東京からは熊本はあまりに遠く。。交通費の負担が重すぎるので断念した経緯があるのですが、なぜワキ方の能楽師が熊本。。わけても阿蘇神社を支援したのかというと。。

それは普段の舞台で能『高砂』でワキの「阿蘇の宮の神主 友成」の役を勤める機会が多いからなのだそうです(!)。古来大切に上演されてきた『高砂』のワキ「友成」は平安時代に実在した阿蘇神社の大宮司で、その役に扮する機会が多いことから、日頃の感謝とご恩返しの意味をもって阿蘇神社の復興のお手伝いをしなければ、とお考えになったのでしょう。「誰言うということもなく」提案がなされて自然にみなさん賛同されたとも聞いていて、これを聞いた ぬえは感激しました。