ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

大嘗宮の一般参観に行ってきました!

2019-11-29 23:15:16 | 日本文化
ご無沙汰しております、ぬえです~

いろいろと進行中のプロジェクトもありますが、今回は舞台とは離れた話題です。
いつの間にか時代も平成から令和に代わり(あ! この投稿も令和初だw)、天皇一世一代の重要行事。。というか秘儀である「大嘗祭」も滞りなく終わり、名実ともに新・天皇陛下の御代が始まりました。

そしてこの度、その大嘗祭の舞台となった「大嘗宮」が一般公開されている、というので見学に行って参りました。

新天皇陛下の即位パレードのときは、沿道の狭い歩道に人が押し寄せて。。どうもあまりの混雑に、待ち時間には参列者の間に殺伐とした空気も流れたようにも聞いていますが。。



こちらも入口になる坂下門からこの行列ではありますが、宮内庁のサイトでも連日「待ち時間ゼロ」と告知されていますし、長く続いた雨が上がったこの日、偶然にもスケジュールが一部キャンセルされたので、訪れてみました。



江戸城時代の面影を残す冨士見櫓。そういえば皇居に入ったのは宮内庁楽部の演奏会に行った程度で、かなり久しぶりになります。

こんなに長い行列に見えますが、実際には人の流れはスムーズです。手荷物検査委があり、バッグなどの手荷物はすべて口やすべてのポケットを開いて係官に改めてもらいます。なお、飛行機と同じように飲み物の持ち込みは禁止でした。



本丸跡に入ると、ををっ! お目当ての大嘗宮が見えてきました。さすがにここだけは人だかり。

それでも人の流れは順調で、係官の「お写真は1~2枚にしてくださ~い!」「お写真をお撮りになったら後ろの方に交代してあげてくださ~い」という金切り声に、みなさんクスクスと笑い声が起きるくらい。和やかな雰囲気でしたね~。

ちなみに大嘗宮が見えてから、そこに近づく途中の右側に、ちょっと木立に隠れて見えにくいですがトイレと皇居グッズ(?)を売る売店があります。おなじみ皇室カレンダーのほかにもクリアファイルとか栞や絵葉書なんかもありますが、ここ以外に売店はなかったので、お土産が欲しい方は見逃さないようにしましょう。



流れはスムーズですが、それでも大嘗宮の真正面だけはみなさん写真を撮ろうとこの人だかり! これ以上は近づけませんでしたw

いや、それでもカメラを両手で持ち上げて撮影を試みたら。。ちゃんと撮れていました!



意外に質素な白木の建物群。。しかしそれは古代の信仰の形をそのまま留めおいて現代にまで伝えているのですね。私たちの世界にも似たようなものはたくさんありますけれども、それよりもずっと長い歴史を経て伝えられたもの。やっぱりこの国の文化は凄まじいくらいの「深さ」を湛えています。これを再発見しただけでも今日の大きな収穫。



大嘗宮は外側をぐるっと廻って見ることができるだけですが、後ろに回ればまた秋空に映えて。。古代の世界にいるみたい。そう言いながら後ろに見えるビル群は、妙に違和感がないですね。

さてこれで大嘗宮の見学を終えて、すぐそこには江戸城の天守台と、宮内庁楽部の演奏会が開かれる桃華楽堂。





このあと書陵部の前を通って平川門に出て、地下鉄東西線の「竹橋駅」から帰路につきました(入口の坂下門方面に行くこともできます)。

坂下門の入口からここまで、1時間も掛からなかったのではないかしら。
混雑を懸念して迷っておられる方には見学をぜひお勧めします。

<大嘗宮一般参観について>

11月21日(木)から12月8日(日)の18日間
午前9時から午後4時(入場は午後3時まで)

詳しくは宮内庁のホームページにて

能楽の世界は皇室との関りも古くからありますが、現代でも ぬえの体験でも昭和の頃には香淳皇后(昭和天皇の奥さん)はしばしば師家の別会にお見えになっていましたし、紀子さんが幼い眞子さんを連れて楽屋にお出でになったりしていました。新天皇陛下も皇太子時代に観世会にお出ましになっていたところに遭遇したこともあります。

でも、ぬえにとっては東北の被災地で聞くにつけても現・上皇陛下のお人柄が素晴らしくて。。まさに「名君」。。いまは君主ではないのでしょうからその言い方は間違っているとは思いますが、やはり「名君」という言葉が相応しいと思っていまして。。
上皇陛下のお姿はまだ一度も拝見したことがありません。退位された今、お姿を拝見する機会はご在位の頃から比べるとずっと減ってしまったでしょうが。いつか幸運に恵まれればいいな、と思っております。

伊豆の国市・願成就院さまの運慶仏が国宝指定に!

2013-02-28 10:55:53 | 日本文化
ぬえがもう長年指導を続けています静岡県・伊豆の国市の「子ども創作能」の出演小学生のママさんから1通のメールが。なんでも静岡県のテレビニュースで、伊豆の国市にある名刹・願成就院さまにおわす仏像が国宝に指定されることになった、と報道されている、とのこと!

YOMIURI ONLINE/ 願成就院・運慶作仏像5体 国宝指定へ

ん~、そうでしょうね~。あんなにスゴイ み仏たちですもん。

願成就院さま、子ども創作能には ゆかりの深いお寺です。伊豆きっての名刹ですが、毎年みんなで参詣して舞台の成功祈願をしますし、そのおり小崎祥道ご住職さまには子どもたちのために法要を営んでくださり、また当地の歴史について子どもたちに易しくお話しを頂いておりまして、子どもたちには身近な存在でしょう。









それどころか~~。子ども能の保護者の中に願成就院さまの檀家の方がおられて、そのご縁から小崎住職さまに「能」の字をご揮毫願うことになりまして、ご住職もこれを快諾、それが現在の子ども能の「制服」みたいになっている「子ども能Tシャツ」略して「能T」の背中に鮮やかに映えていますのでした~



考えてみると ぬえもずいぶん無茶なお願いをしたものだと思いますが、このご縁で小崎住職さまとは以後懇意におつきあいさせて頂いておりまして、昨年お嬢さまが結婚された折にはお祝いの舞を所望頂きました(その日はあいにく ぬえは公演の都合で出席できず、代役の能楽師を立てさせて頂く失礼になってしまいましたが。。)。

それにしても願成就院さまの み仏たちは素晴らしい作です。み仏なんだから作の優劣を論じちゃいけないですけれども、ぬえが心酔する運慶の真作で、阿弥陀如来、毘沙門天、不動明王、その眷属の矜羯羅童子制多迦童子の両脇侍の、なんと5体もの、いずれも見る者の心を奪うほどの見事な尊像。子どもたちの稽古に通っている ぬえが初めてこの尊像を拝見したときは驚愕でしたね~。正直言って、なんで関東の片田舎(失礼!)にこれほどのスゴイものがあるのかと思いましたが、頼朝の、また北条の力が当時いかに大きいものだったかを初めて肌で感じた瞬間でもありました。

もうひとつには、この尊像が重文の指定を受けていることに違和感も。。これほどのものであれば国宝であってもおかしくないでしょう。そう思った ぬえはその後も当地ではずっと「いずれは必ず国宝になりますね」と広言していましたが、まさかこんなに早くそれが現実になるとは思いませんでした。やはりちゃんと見る目を持った人はいるんですね~。いや、ぬえがこの尊像を見てからこんなに早く、とは思いますが、戦後の新制度で旧国宝が新国宝と重文に分けられた際になぜか重文にされてしまった尊像の歴史から考えれば、今回の国宝指定は遅かったのかもしれませんが。

さてその後、前述のように毎年子どもたちを連れて参詣に訪れて、小崎ご住職さまに親しく子どもたちに声を掛けて頂いたり。。またあつかましくも本堂を楽屋に使わせて頂いて、お隣りの守山八幡宮さまで奉納上演をさせて頂いたりしております。ご住職さまにも子ども能を温かい眼でご覧になって頂いて、みんな幸せだと思います。

ともあれ、願成就院さまは北条時政の願による建立で、その成就を祈念した願とは、自分の娘婿である頼朝が異母弟の義経を攻める奥州討伐の成功でした。頼朝は同じく異母弟の範頼も当地のすぐそばの伊豆・修禅寺に幽閉して謀殺しているといわれていて、いわゆる歴史の暗部なのですが、それらを引っくるめて子どもたちには伝えるようにしていますし、子ども能の経験から子どもたちも自分で歴史を調べて、ショックを受けたりしていますね(笑)。

こんなわけで ぬえが通う伊豆の国市に吉報がもたらされたわけですが、考えてみると伊豆にある国宝はMOAの紅白梅図屏風などや佐野美術館にある薙刀で、いずれも美術館が収集したものなので、800年前から当地にある願成就院さまの尊像は特別な意味を持つと思います。。あ、もう一つあった。三島大社に梅の蒔絵の手箱がありますね。三島大社は伊豆国の一宮なので宝物があるのは当然ですが、じつはこれ、北条政子の奉納、と伝えられているもので、内容物の鏡や櫛などが揃った最も古い品なのだそうです。ここにも頼朝と北条の影響が。長い歴史の間にこうした素晴らしい文化をちゃんと保存してきた先人に敬意を表します!

「どんど焼き」つくりました

2013-01-12 23:06:13 | 日本文化
…と、こんな事を書いていると不思議がられるかもしれませんね~。どうも日本全国で行われている風習のようですから。。しかし ぬえは見たことがないのでした。いや、実際には今年も見れないのでまだ「見てない記録」は更新中です。。今回はその準備の作業をお手伝いして参りました。ぬえの初体験~。

今日は伊豆の子ども能の稽古日でして、いつものように渋滞を避けて早朝に東京を出発、朝6時には伊豆に到着していました。さすがに早すぎるので、狩野川の河畔にある公園に「レイちゃん2」を停めてしばし仮眠。。ところが周囲の喧噪に気がついて目を覚ましてみると、「レイちゃん2」の隣りにはブルーシートが敷かれていて、大勢の子どもたちや大人が集まって作業しています。切り出された竹、集められた正月飾り。。時期から考えても話にだけは聞いていた「どんど焼き」の準備だと、すぐにわかりました。車を下りてお邪魔していた旨お詫びして移動、しばし作業の様子を拝見させて頂いたのですが、よく見るとブルーシートに「寺家区子供会」の文字が。子ども能でお世話になっている伊豆の国市の寺家区のみなさんでした! 区長さんもおられたので作業の内容など少し伺って失礼しました。



その間にも、竹を満載した軽トラックが到着したり、やはり竹を抱えて会場に急ぐ寺家区の方々が次々に集まってきます。面白いなあ。





走り出すと、狩野川の河畔にはあちこちに、すでに完成したそれぞれの地区の「どんど焼き」の。。「櫓」と呼ばれているのだと後で知りましたが。。それが建っていました。いや、地区によって形が違うものなんですね。こちらは「中條区」の「櫓」。



こっちは ぬえが一番お近づきになっている「古奈区」の櫓です。遠くに富士山!



南條区では大勢の子どもたちがお手伝いしていました~



そうこうしているうちに子ども能のママさんからメールが来ました。なんでも参加者の子どもが「どんど焼き」の準備の手伝いをするため遅刻します、とのこと。うん、これは「江間」地区の「珍野区」の子だな。さっそくそちらに行ってみました。(^^ゞ

をを~、準備している場所はすぐにわかりました。遅刻予定の2年生のたけちゃんも、メールをくれたママさんもお手伝いしている姿が見えます。「レイちゃん2」を停めてそばに寄ると、すぐに たけちゃんが気づいて駆け寄ってきました。「どんど焼き」を知らない ぬえはママさんにいろいろと取材。翌日の早朝に櫓に火がかけられ、正月飾りを燃やすこと、炊き出しも行われて子どもたちの楽しみになっていること、子どもたちは書き初めを持ち寄ってこれを燃やし、字の上達を願うこと。。



いや勉強になりました、と失礼しようとしたところに、準備作業をするお兄さん方が「先生、櫓を建てる体験はしていかないの?」と声を掛けてくれました。まあ、手伝っていけば~という冗談のおつもりだったのでしょうが ぬえは大喜びで参加させて頂きました。いや~だってやった事も、そもそも見たこともないんだもん。大体、ママさんから説明を聞きながら作業の様子を写真に納めようと「写真を撮ってもいいですか?」と作業中のみなさんに伺ったら、とっても怪訝な顔をされました。「何が珍しいの?」ってなもんなんでしょう。。

さて ぬえも作業に加わって、最初に長い長い竹の先に、なぜか団子状に連ねたダルマをつけたものを建てて、3方向から縄で引っ張って固定します。そのまわりに次々に太い竹、細い竹の束を集めていって。。





最後に縄でぐるぐる巻きにして完成~。



たけちゃんのパパは櫓の上で仕上げの作業を行います。



完成した櫓を見上げる たけちゃん。なんだか「ちまき」を連想してしまいます。



この櫓の目立つところに正月飾りを飾り付けたい男の子。ずうっとこの正月飾りを持って完成を待っていました。時々櫓に近寄っては「飾り付けはまだまだ!」と大人にたしなめられたり。(^_^;)



さあ、完成した櫓に、子どもたちが正月飾りを取りつけて行きます。高いところに取りつけたい子。ぬえも脚立を押さえて手伝ってあげました。うん、物怖じしないね、みんな。脚立の最上段に両足とも上っちゃって取りつけています。落ちるんじゃないか、と、ぬえの方がビクビクしました~

先ほどの男の子も無事大きな正月飾りを取りつけることが出来ました。



。。が、それもつかの間、次に脚立に上った女の子が、男の子の正月飾りのさらに上に自分の飾りを取りつけていました。。(^◇^;)



たけちゃんも自分の身長より長い注連縄を、高いところを怖がる気色もなく取りつけます。



いや~楽しかった~。でもこの櫓に火が掛けられる明日は ぬえはここにはいないのでした。。来年こそは「どんど焼き」、見に来ようっと。

国宝 阿修羅展に行って来ました

2009-06-03 09:56:05 | 日本文化
え?? 今ごろ?? と言わないで~~(・_・、)

いや、ホンに今ごろでして、なんせ展示開始前には ずいぶん長く展示しているんだなあ、と思っていた展覧会も今週末で終了なんですね~。ぬえのお弟子さんの中には「3回行きました~」という強者もおりました。。

さて ぬえが国立博物館に到着したのは午後4時過ぎ。それでも長蛇の列があって、ぬえは列に並んでから建物の中に入るまで、ちょうど1時間かかりました。これでも短い方らしい。

さて展示の全体の印象としては、こんなに展示品が少ないの? という感じかなあ。眼目の「阿修羅像」はほかの八部衆とは別格に展示されていましたが、まさしくここは芋洗い状態。今回の展示の特徴は「阿修羅像」を360°ぐるりと歩き回って見れる、ということでしたが、ああ、この押し合いへし合い状態の混雑に、
さぞ阿修羅くんも目の前で「おしくらまんじゅう押されて泣くな~~」。。と、はじめて見る異様な光景にとまどったことでしょう。阿修羅くん、いつの間にか おしくらまんじゅうに加わっていたりして。まだ子どもですから。。

で、展示品は少ないのですが、今回は八部衆のすべてが展示されているということで、それを楽しみにしていました。うう~~ん、これは迫力だ。ぬえは「カルラくん」がとっても気に入りました。

考えるのですが、ぬえは鎌倉時代の仏師の仕事が素晴らしいのは、島国である日本にとって西からやってきた仏教がこの地で行き場をなくして円熟していった結果だと思っていました。聖徳太子はがんばって仏教を国教にしましたが東漸はここで尽きて あとはドン詰まりの海が広がっているだけ。。そういう位置関係にある日本人の仏教に対しての感情が、ほかに行き場をなくしてギリギリの緊張状態を生み出したのではないか。さらに仏教は平安時代に熟成が進み、そのあとの平安末期からの末法の世の中に向かって必死に仏の救済を願うことになって。。だから鎌倉期の仏師の仕事は素晴らしいことが多いのかなあ、と思っていました。生命かかってますから。。

でも、仏教が伝来して間もない天平時代に、すでに八部衆のイメージを勝手に解釈しなおして再構築し、独自のこういう像を造る力を、日本人は持っていたんですね~。

それと、この八部衆が不比等の娘が父に先立たれ、その後母を亡くしたときに、その母を追善供養するために造ったのだ、という成立事情をはじめて知りました。なるほど像の繊細で美しい表現はまさに女性的。仏教が女性の、つまり尼僧が中心になって発展してきたのだったら、これは現在とはまったく違って面白い展開になっていたでしょうね~

展覧会「鳥獣戯画がやってきた!」(続)

2007-11-11 04:14:56 | 日本文化
でも ぬえは、じつは今回「鳥獣戯画」のホンモノの中で心惹かれたのは、有名な甲巻よりもむしろ、リアルに獣を描いた乙巻や、人間を描く事に専念している丙巻だったりします。

乙巻に出てくる牛が、やっぱりどこか人間の顔をしている様子とか、枝にとまった鷹が、立派なはずなのに妙にひしゃげた頭をしていたり。あ~~ケンカに負けて顔をかまれた(じゃれている?)ワンコの情けないお顔と言ったら。。

それに丙巻に出てくる、賭け双六に負けて身ぐるみ剥がされながらなお平然と賭け事を続ける男と、その後ろで心配そうに見守る妻子。耳引きや首引きの場面は狂言の素材にもなっているし、あ!これは「にらめっこ」だ! 一方男と稚児の将棋の対局の場面では優しい表情で稚児に指し手の助言をする法師がひとり。へ~~~、まるで今の世に普通に見かけるような光景だ。時代が変わっても、人情はちゃあんと繋がっているのね~。むしろテレビやゲームがない時代、ほんの少し前まで当たり前だった年代を超えたご近所付き合いの、羨ましいような姿がここにはあります。

もっとも、ウサギと蛙が大活躍する甲巻では、今回は有名な相撲の場面は展示されておらず、展示された前半部分のクライマックスとしては わずかに弓競べのシーンだけでした。だからこそ甲巻以外の巻に目が行ったのかもしれません。甲巻の魅力の真髄は展示後期に期待。もっとも相撲の場面ではウサギは蛙に負けてるんですけどもね。。でも、今回はそれだからこそ、「鳥獣戯画」の中で「製作された時代が遅れているはず」「技巧としては甲巻よりは拙く」などと言われて甲巻の蔭に隠れてしまっている感がある乙・丙の各巻の魅力が存分に引き出されていると思います。

でね、ぬえが今回の展覧会についてもっとも誉めたいのは、会場がすいていたこと!平日の午後という ぬえが足を運んだ時間も幸運だったのかもしれませんが、展示物をじっくり見ることができました。主催者には申し訳ないですが、国文学科出身の ぬえとしましては、古文書類の展示ではどうしてもその読解に走ってしまうので、押すな押すなの展覧会じゃ困るのです~~。過去にも、何気なく展示されていた古文書の、偶然に開かれていたページにあった記述から発見をしたことも数多くある ぬえとしましては、これは展覧会では重要なポイントなんです。

「鳥獣戯画」には詞書がないけれども、今回同じモチーフを持つということで展示された「雀の小藤太絵巻」(室町期)や「鼠草子絵巻」(桃山期)の詞書を読んで爆笑! なんせ前者は我が子がヘビに喰われた雀の小藤太が出家して諸国を行脚する、という物語で、とくに前半部分では様々な鳥たちが小藤太を弔問に訪れて和歌を交わす、という場面が描かれています。後者は清水の霊験で人間の妻を娶ったネズミの大名・権守のお話で、臣下ともども人間に化けた権守でしたが、ついに見破られて姫君は去り、失意の権守は出家して高野山にのぼるまでが描かれます。しかし出家した権守の法名が「子ん阿弥」、高野山にのぼる途次道連れになった僧はネコで、その名も「猫の坊」。。どちらの物語も登場人物はふんだんに和歌を詠み、それがまた とっても良くできた和歌だったりするので さらにおかしい。

なんだか ぬえは能の『大会』を見ている気持ちになってきました。この曲だって「鳥獣戯画」にひけは取らないユーモア精神で作られている能です。まじめくさった顔つきで威張っているばかりと落語などで思われている江戸期の武士だって楽しんで見ていたはずで、ちょっと今では想像がつきにくくなってしまったけれども、それでも ほんの百年前までは確実に日本人のユーモアのセンスは ずう~~っと、連綿と続いているんだなあ、と、なんだか あったかい気持ちになる展覧会でした。

展覧会「鳥獣戯画がやってきた!」

2007-11-09 01:13:06 | 日本文化
今日はサントリー美術館で催されている展覧会「鳥獣戯画がやってきた!」を見に行ってきました。

へえ?サントリー美術館って、赤坂見附にあったのに、いつの間に六本木に移転したので? しかし今回の「鳥獣戯画」展は同美術館の開館記念特別展ということでした。そうだったんですか~。で、はじめて行ってみた移転・新装オープンしたばかりのサントリー美術館は、六本木にこの春開業した「東京ミッドタウン」の3階と4階の一部のスペースにありました。う~ん。。狭い。。展示スペースは ごくごく控えめで、岡山の林原美術館の方がまだいくらか広いのではなかろうか。。東京の過密状態じゃ仕方がないのかなあ。

それでも今回の「鳥獣戯画」展は じつに見応えのあるものでした。

え~じつは ぬえは「鳥獣戯画」の本物を見るのは今回が初めてでして(恥)。。たとえば「平家納経」であれば、2~3巻はしばしば展覧会で公開されたりする事もあって、ぬえもこちらならば2度かそこいらは拝見した覚えがあります。大正時代に作られた あの美麗で精緻なレプリカならばもっと多い回数で見たことがあるでしょう。でも、意外や「鳥獣戯画」が展覧会で公開されるのは、少なくとも東京では稀なことだったのではないかと思います。ぬえも「鳥獣戯画」の公開には割と気を付けてチャンスを窺っていたつもりだったので。。

今回はなんと「鳥獣戯画」甲・乙・丙・丁の全巻が一堂に展示され、しかも前期/後期の展示替えで全容が公開されるという豪華さ。しかも各地に伝わる断簡や古模本を同時に展示することで、現「鳥獣戯画」が欠落や錯簡で本来の姿を大きく変えてしまっている事を知ったり、その欠落部分に何が描かれていたのかを想像する事ができます。併せて展示されている「鳥獣戯画」と同時代や前時代の「戯画」風の作品は、「鳥獣戯画」に結実する時代の息吹を感じさせますし、また「鳥獣戯画」の一場面が断片的に挿入される後世の作品を見るとき、この絵巻がいかに大きな影響を絵師たちに与えたかを感じさせます。謎の多いこの作品に向けられる研究者の視点が展示に色濃く投影されていますね~。しかし「鳥獣戯画」に関係するこれだけの資料を全国から。。いやいや、外国からも借り出して展示するのですから、さぞや学芸員さんたちも大変な努力だった事でしょう。

さて「鳥獣戯画」そのものについて。

この絵巻は長大なものなので、展示ケースの中では全巻をすべて広げる事ができず、そのため前後期の日程で「展示替え」が行われるのでしょう。と言っても「鳥獣戯画」四巻はそのまま展示され続けるわけですから、要するに絵巻を広げる部分を替えるわけです。今回 ぬえが拝見した範囲は各巻とも全体のちょうど前半分程度ですから、後期の展示に再度訪れれば後半部分が見れ、それらを通じて全容を見る事ができるだろう、と推測できます。ちなみに今回展示されている範囲は以下の通りでした。

甲巻 巻頭~ウサギと蛙の弓矢競技、そのあとの宴会の支度の場面まで
乙巻 巻頭(群馬)~鶏・鷲・隼まで
丙巻 巻頭(囲碁)~闘犬まで
丁巻 巻頭(曲芸)~木遣りまで

それにしてもすべての日本人に愛され続けてきた「鳥獣戯画」。有名な甲巻の各場面は、あらゆる場面であまりにも我々はしばしば目にしているのですね。。正直に言えば本物を初めて見た ぬえにも、そういった場合に起きるべき感動が。。今回はやや小さかったような。彩色画であれば、印刷では絶対に表現できないニュアンスというものがありますが、「鳥獣戯画」は白描ですから。。まあ、それでも筆使いの小さな表情はわかるし、900年の昔にこれを描いた絵師の気分が感じられて、こちらまで幸せな気分になれるのは間違いないところです。

むしろ ぬえが驚いたのは作品に施された修復の、そのあまりにも高度な技術。最初目にした時にはあまりに保存状態が良いので驚いたのですが、よ~~く見ると さにあらず。描かれた料紙はかなり薄いもので、筆の跡も微妙に薄れているところもあるのですが、巻頭や、あるいは天地の部分などには墨が薄れたのではなく、あちこちに破損があるのです。ところがこれに厚い紙で裏打ちして補強してあって、その修理の跡、つまり新旧の料紙の境目は、目を凝らして見ないとわからないほど。これはすごい技術だ。

祝!禁煙31日目!

2007-01-19 19:41:39 | 日本文化

じつは ぬえ、ただいま遅~~い正月休みを頂いている最中でございまして。
昨日から茨城県は鹿嶋市のはずれにある、父が所有する家に滞在しております。ここは海のそば。耳を澄ませば太平洋の潮騒が聞こえてきます。海辺に出てみれば、今日は寒かったけれど波も穏やかで なんだかようやくのんびりした正月気分です。そして夜になると、とても東京じゃ見たことがないような満天の星空!なんだかトリップしてしまいそう。

鹿嶋市といえば鹿島神宮。ぬえは今年の6月に『春日龍神』を勤める予定があるので、昨日丁重にお参り致しました。そういえばこの元旦は丹波篠山で行われた師家の新年の恒例行事『翁神事』に参加しなかったので久しぶりに自宅で過ごしましたが、やはり年が変わったところで近所の神社に初詣に行くことにしました。このときも、『春日龍神』の事を考えて、近くの春日神社に詣でて、舞台の成功を願ったのです。近所の小さな社だし深夜1時だというのに、お参りするまで30分も並んじゃった。さすが初詣。でも「初詣」なんだからお参りは一年にいっぺんだけじゃいけませんぞ~。ま、ぬえだって人のことは言えず、ホントは深夜に神社にお参りしちゃイケナイし、神様には自分の欲望の成就をお願いするものではないんだけど。。

ともあれ ぬえ演じる龍神が守護する奈良の春日大社は、じつはここ、常陸の鹿島神宮を勧請して建立された神社なのですよねえ。日本の歴史の出発点である奈良にあって、しかも1000年以上ずうっと国政に関与し続けた世界的にも希有な藤原家の氏寺が、こんな東国から勧請された社だなんて。ずっと以前から疑問に思っている事なのですが、古代の文化の伝達のスピードはハンパじゃない。かつて長野の善光寺で催しがあった時に、楽屋に宛われた寺の一室に「白鳳時代の瓦」というものが保管されてあるのを見て腰が抜けそうに驚いた。このような近畿地方から遠く離れた山あいの地にそんな時代になぜ。。

ちと話題がズレましたが、今回は鹿島神宮に参拝し、新しいお札も頂戴して、ぬえもようやく新しい年を迎えた気がしています。いろいろな意味で、今年は ぬえにとって発展したり進歩する年であってほしいな。

ところで ぬえ、今日で禁煙を始めて とうとう31日目になりました。年末の研能会の楽屋で体調を崩して、年末年始はほとんど家から出なかった ぬえでしたが、この折に、「なんとなく」禁煙を始めたのです。これまでにも風邪をひいた時などノドが痛んでタバコを吸えない日もなかったワケではありませんが、なに、中学生時代から ン十年タバコを吸い続けた ぬえにとっては 1日/ン十年 など瞬時にしか過ぎないワケでして。ところが今回は、とくにノドが痛かったワケでもなく、いやホント、「なんとなく」禁煙を始めたのです。

世の中には名言があって、ぬえが聞いたのでは「禁煙なんて簡単だ。オレは何度もした事がある」というのは秀逸だと思いますが、それほど禁煙は難しいらしい。この先入観のおかげで、ぬえの場合はこれまでの ン十年間でそもそも禁煙しようと思った事がありませんで。そんなわけで今回「なんとなく」始めた禁煙も、これを続けるとしたらどれほど苦しいだろう、いや、どうせ無理だろうからひと月禁煙を成功させたらまた喫煙を始めよう、とイイカゲンにスタートをしたのです。ところが、これがなんと! ほとんど苦しむこともなく、もうすでに ひと月という禁煙の目標をクリアしてしまいました。なんなんだろう? ぬえの体質。

あ、付言しておきますが、誘惑に勝てたのは意志の力のためじゃないです。医者をしている ぬえの友人が「ナニ!禁煙を始めた?そうかそうか、それじゃこれがプレゼントだっ」と言ってニコチン・パッド(ニコチンを含んだ使い捨てパッドで、肌に貼って禁断症状を軽減する)の処方箋をくれました。3ヶ月かけて量を減らしていく、という趣向らしいのですが、ん~~でも もうすでに ぬえ、貼るのを忘れて一日過ごしちゃったりしてるけど。

代田インターナショナル長唄会

2006-05-22 03:17:04 | 日本文化

今日は「代田インターナショナル長唄会」の主宰者・西村真琴さんからお招きを受けて、生徒さんのパーティーに出席してきました。

西村さんはアマチュアの邦楽家なのですが、日本に滞在し、日本文化を知りたいと思っている外国人のために邦楽(主に長唄の三味線)をほとんど無報酬で教授しておられる篤志家で、ぬえは西村さんを知っておつきあいを始めさせて頂いて、もう5年になりますが、ぬえが自分の主催会「ぬえの会」の第一回で『道成寺』を披かせて頂いた時に西村さんが外国人の生徒さんと一緒に舞台にお出でになったのが そもそもの始まりでした。

その後、ある日西村さんから突然お電話を頂いて、はじめて西村さんが外国人を相手にボランティアで長唄の稽古をしている事をお聞きし、この秋にコンサートを予定している旨を伺いました。この時のお電話では、よろしければその発表会を見に来ませんか? というような内容だったのですが、もとより ぬえも外国に教えに出たりしていたので、こういう活動にはとても興味があるので、もしも生徒さんの中で希望者があれば ぬえもボランティアで仕舞を教えたい、と申し出ました。

この申し出は歓迎して頂くことができて、その秋のコンサート「インターナショナル邦楽の集い」には長唄の発表に交じって数名の外国人の仕舞の発表が行われました。そしてその後、生徒の増減によって一時中断する事もありながら、連綿とコンサートは行われていて、ぬえも仕舞の地謡として、また番外仕舞などで出演もしております。いや、それどころかこのコンサートがキッカケになって、外国での公演ではここで教えた生徒さんに公演のアシスタントをしてもらった事もありますね。出会いというのは本当に不思議なものです。

ところが、どうしても外国人の留学生や赴任者は短期の滞在になることが多くて、西村さんのご自宅のお稽古場もにぎわっていたり、閑散としていたりといろいろあるようで。今年は生徒さんが少なかったそうなのですが、この時期になぜか多くの生徒さんが集まって、その顔合わせも兼ねて今日パーティーが行われたのでした。

久しぶりに西村さんのご自宅にお邪魔すると、まあ相変わらず国際色豊かで、生徒さんの出身国もイギリス・アメリカ・ニュージーランド・ロシア。。と多彩。もちろんこの生徒さんの中には去年のコンサートで ぬえにしごかれながら仕舞を披露した人も何人か含まれています。彼らとは久しぶりの邂逅となりました。パーティーは昼間だったのでデモンストレーションのような様相にもなり、ぬえも扇や装束を見せてあげたし、ロシア人の生徒さんはバラライカを演奏してくれました。ちょっとした邦楽器のセッションもあって、ぬえも参加させて頂きました。

うん、とっても有意義なパーティーでしたね。
こういう国際交流はとっても意義が深いと思います。
今年はこの時期に多くの生徒さんが集まったのだけれど、いかんせん初心者が多いので、今年にコンサートが開けるかどうかはまだまだ未知数のようですが。。

もしもまたコンサートが開けるようであれば、またこのブログでお知らせしたいと存じます。


【追記】
この日のパーティーのあと三味線の稽古が行われたのですが、そこに日本テレビの取材が入っていました。どうやら水曜日の深夜番組『Gの嵐!』の取材だったらしい。放映日は未定のようですが、ありのままの姿で放送されるのであれば、こうした形で西村さんの苦労が少しでも広く知られるのは良いことだと思いますね。

国立能楽堂展示室「平家物語と能」(その2)

2006-05-13 22:27:30 | 日本文化
もう一つの注目すべき展示品「平家納経」は言わずと知れた装飾経中の白眉で、「国宝中の国宝」と呼ばれる美麗で荘厳な美しさは、見る人の目を釘付けにします。平家一門の繁栄を願って清盛が厳島神社に奉納したもので、奉納されたのは長寛二年(1164)、平治の乱の5年後で、まさに平家の全盛期。清盛はこの奉納の3年後には太政大臣の位に上り詰めました。清盛の発願による奉納に名を連ねたのは重盛・宗盛・知盛・重衡の四人の清盛の子どもたち、頼盛・教盛・経盛の三人の清盛の弟たち、そしてそのほかの親族・郎等総勢32名でした。

しかしその後経巻は長い年月のうちに少しずつ破損の度合いを高め、ついに大正時代に「副本」(複製)が作られる事となりました。副本を手がけたのは、当時すでに「紫式部日記絵巻」や「源氏物語絵巻」「本願寺本三十六人家集」の模写を務めていた田中親美とその一門。資金は実業家で茶人の高橋箒庵と益田鈍翁の呼びかけで各界から寄付が集められ、その資金をもとに発足された「厳島経副本調整会」の指揮のもと、五年の歳月と大変な労力をかけて大正十四年に完成しました。この完成後、副本はいろいろな機会に展示されているので、ご覧になった方も多いかも。今回の展示もこの副本です。



「なんだ本物じゃないのか」と思うなかれ、これはとんでもない美しさで、厳島神社の地元・広島で育った人に聞いたところ、さすがに「平家納経」はなじみ深いようで、「本物はくすんだ色で、副本の方がずうっとキレイ」との事でした。で、じつは ぬえは「平家納経」が大好きでして。。そんでもって、じつは ぬえ、さらにそのレプリカを持っているのだった。(~~;) 昭和60年に出版社の企画で、写真製版によって数巻のみ複製が作られて発売されたのですが、その売れ残りを数年前に入手しました。驚いたのは発売当時の価格。ぬえの手元にあるそれの外函を見ると「135,000円+税」と書いてあります。。う~ん、バブルだねえ。。(もちろん ぬえはそれよりずうっっっっと安く買いました。デフレの時代でしたもんねー。。)



なお国立能楽堂でのこの展示は「橘香会」の日も期間中なので、お出ましになる方はご覧になる事ができます。ただし展示品には一部入れ替えがあって、上記「竹屋町単法被」の展示は5月17日までだそうです。もうすぐ終わってしまうので、興味のある方はお早めにお出かけ下さい。

ついでながら、今日 ぬえは今回展示されている謡本や写本で、拡げてある部分を読んで来ました。内容はだいたい次の通り。鑑賞のご参考にどうぞ。

平家納経     「厳王品」、「法師品」、「序品」の見返しと本文、
           「提婆品」の紙背、「湧出品」
光悦流観世流謡本 題箋が見える本=「通盛」、拡げてある本=「忠度」
源平盛衰記    「大原御幸」の場面
元和卯月本    題箋が見える本=「千手重衡」「小原御幸」「兼平」
           拡げてある本=「通盛」「忠度」
平家正節     「敦盛最期」の場面
平家譜本     「経正都落」の場面。三面の琵琶のうち獅子丸が
           龍宮へ取られた、という能『玄象』にも見える話
八坂流 平家物語 「経正都落」の場面

根津美術館で―虎屋の雛人形と雛道具―展

2006-03-08 03:48:50 | 日本文化
この記事は ふゆさんがミクシイに書かれた日記を読んで、せっかくの機会だから、と思ってこのブログでもご紹介させて頂きます。情報さんくす>ふゆ

根津美術館で『雛祭り ―虎屋の雛人形と雛道具―』と題された展覧会が開催されています(4/9まで)。虎屋さんの雛人形の豪華さは有名で、画像は美術館のサイトでも一部見ることが出来ます。

根津美術館~展覧会のご案内

ここで能に関係する点と言ったら、ふゆさんも指摘されていましたが「五人囃子」についてでしょう。

もともと雛人形というのは天皇家の婚礼を模したもので、「お内裏さま」という名前がすでにそれを表しているし、その「お内裏さま」かぶっている冠の「纓(えい)」が多く垂直に立ち上がっている「立纓(りゅうえい)」である事も、これが天皇である事を意味しています。

纓をつけた冠は能でも「初冠(ういかむり)」という名で『井筒』『杜若』『融』『玄象』『須磨源氏』などのシテや『花筐』の子方にも広く使われる公家の男子を表す冠で、能では纓は後ろに垂れ下がった「垂纓(すいえい)」か、纓を丸めた形の「巻纓(けんえい)」の二種が使われます。前者は文官の用で、後者は武官の用、と有職で定められていたもので、武官が「巻纓」なのは近衛兵として警護するときに、有事の際には纓が邪魔にならないようにまとめておいたのでしょう。さらに武官は「老懸(おいかけ)」と称する馬の毛で作った扇状のものを両頬に着けます。雛人形では下段の「随身」が武官の姿ですね。在原業平は武官だったので、能の『井筒』や『杜若』で業平の形見の冠として巻纓・老懸を着用するのはこういう理由からです。

さて天皇は文官と同じ垂纓を着用していたものが、江戸期には文官とは別格にするためだったのでしょう、天皇だけは「立纓」を着用するようになりました。雛人形の「お内裏さま」はまさにこれなのですが、実際には天皇も以前の通り「垂纓」を着る場合もあって、雛人形でも「垂纓」のものも多いのです。

こうして見ると、雛人形は最上段に新郎・新婦がぼんぼりを従えて座し、すぐ下にはそれにかしずいてお酌をしたり世話をする「三人官女」がいて、その下には典礼音楽を奏する「五人囃子」、さらに嫁入り道具の数々がそれに続き、下段には婚礼の御殿の外で警備をする「随身」、部屋に運び込めない大きな嫁入り道具~箪笥とか鏡台、さらにはそれを運んだ牛車が庭前に控えている。。という図式が見えてきます。女の子が生まれた際に雛人形をあつらえて飾るのは「幸せな結婚」を祈念する両親の気持ちの表れなんでしょうね。

で、「五人囃子」なんですが、この虎屋所蔵の雛人形では雅楽を奏する伶人の姿です。笙・篳篥・龍笛の三管に鞨鼓・楽太鼓を入れて五人。上記の通り宮廷の婚礼なのだから、これが本来の形なのですが、近来 我々が普通に頭に思い描くのは打楽器を持った「五人囃子」の面々でしょう。これは能の囃子方の姿で、笛・小鼓・大鼓・太鼓の四人に、楽器を持たずに扇を構えている人がひとり。。これは謡を謡っているのです。江戸期以後、能が幕府の式楽となってから、雛人形もその影響を受けて変わっていったのでしょう(仄聞するところでは関西では雅楽の五人囃子の方がいまでもポピュラーだとか。。ホントですか?)。

虎屋さんは羊羹で有名な和菓子の老舗で、この豪華な雛人形を所蔵しているのですが、なんでも長らく一族に女の子が生まれなかった、とかで飾る機会がなくお蔵にしまわれたままの状態だったのが、それではもったいないので数年前に赤坂の本店で展示された事がありました。今回の根津美術館での展示は、それらの機運が高まって実現したのでしょうか。いずれにせよタイムリーな企画ではあるし、眼福まちがいない展示なので、ご都合のつく方はぜひ観覧をお勧めします。

ところで雛人形について、別の考察があります。これも面白いのでちょっとご紹介。

元来、人形というのは すなわち「ひとがた」で、人間の身代わりとして災難を一身に引き受けるもの、という考えがあります。「流し雛」なんてのはその好例で、「災いの神」を「神送り」する神事だった、というのです。この習慣と豪華な雛人形とは、ちょっと結びつかないよなあ、なんて ぬえは考えていたんですが、それについて ぬえに教えてくれた方がありまして。いわく「雛人形も節句が済んだらすぐに仕舞わないと嫁に行きそびれる、なんて言うでしょう?」。。つまりしまう事がすなわち川などに「流す」事に通底するんだという。。雛人形ももとは立ち雛や紙雛だったらしく、廃棄される事が前提だったらしい。なんだか恐ろしい。。