ところで、ワキは「語リ」の終わりで「この船中にも。少々都の人もござ侯ごさめれ。あはれ大念仏を御申しあつて御弔ひあれかし」と言いますが、この場面で、ワキの流儀によりワキツレの設定が違う事が意味を持ってきます。前述のようにワキ福王流ではワキツレの旅人は「都人」であり、宝生流では「東国の人」です。だから、「この船中にも少々都の人も」とワキが言うとき、福王流ではワキツレとシテの両方を想定していて、宝生流では(少なくとも観客から見える乗客としては)シテの狂女ただ一人なのです。つまり福王流では船中にいる乗客の中の不特定の乗客何人かに声を掛けたのであり、宝生流では、シテ一人だけに声を掛けたのではないにしても、観客から見た印象としてはおのずとシテ一人にスポットが当たる事になります。細かいことかも知れないけれど、こういうところにお流儀の主張の違いがあって面白いと思います。
なお、今回の『隅田川』のおワキからいろいろとご教示を頂きました。この曲では様々な習いがあって、たとえばワキツレに対しては「舟に召され候へ」などと敬語を使うのに、シテにはぶっきらぼうな態度で勤めるのだそうです。ワキツレに応対するときも、まずワキツレの方に向き直ってから立ち上がって問答をするのに、シテに問いかけられると、まず立ち上がって、それからシテへ向き直り問答になったりするのだそうで、言うなればシテの問いに対しては「なんだこの狂女が。面倒くさい」とでも言わんばかりの風情です。また、ぬえが感じた印象では、前述のようにワキの「語リ」に聞き入って涙を流すシテの姿を見て「あら優しや」と言うあたりでは、まだワキはシテの「理解者」とは言えないようです。その後の「とうとう上がり候ヘ」は、まだ強い調子で謡うからです。彼が本当にシテの理解者となるのは、シテがこの地で死んだ幼子の母だという事実が明らかになってからで、つまり理解者となると同時にシテに同情する協力者ともなるようです。
さてシテは下船するようワキに言われても動こうとせず、「なう舟人。今の物語は何時の事にて候ぞ」と「語リ」の内容を確かめる問いをワキに発します。総じて『隅田川』ではシテは数回以上もワキに対して「なう」と呼びかけを発する珍しい曲なのですが、この「なう」だけは大変に重要です。ぬえの師家ではことに低く謡うのですが、自分の心の中では、ワキの「語リ」に登場し、そしてこの地で死んだ幼子が我が子である事はすでに明白なのです。しかし、それを信じたくないシテは、間違いであって欲しい、と思いながら、それでも絶望の淵に立った気持ちで問いを発するのです。
「さてその稚児の歳は」「主の名は」と次々に聞くうちに、やはり死んだのは我が子に間違いない事が明白になります。シテの謡も次第に高調して、激しくなっていきます。「父の名字は」「さてその後は親とても訪ねず」「まして母とても訪ねぬよなう」と、自分が我が子の死に間に合わなかった事を後悔するように激情をもって叫ぶ母。。そして「なう親類とても親とても、訪ねぬこそ理なれ。その幼き者こそ、この物狂ひが尋ぬる子にては候へとよ。なうこれは夢かや、あら浅ましや候」と母は笠をガックリと前へ落としてシオリをします。
ちなみにこの句の中で「この物狂いが尋ぬる子にては候へとよ」の一句だけはひと息で謡いたいところです。この句で息継ぎをすると気が抜けてしまう。。でもなかなか苦しいところなので、うまく一息で謡えない場合も多いのですが。
ワキはこれを聞いて驚き、シテに同情して幼子の墓へ案内をします。シテを立たせ、シテは力無く立ち上がって常座の方へ向かい、やがて塚の作物に向きます。能の冒頭から舞台に出されていながら、この場面まですっと無視され続けてきた作物が、ようやく物語の中心に据えられるのです。よくまあ、こんな大胆な演出を考え出したものだと思いますし、ずっと舞台にありながら、不思議と違和感のない作物というものの存在も面白いですね。
なお、今回の『隅田川』のおワキからいろいろとご教示を頂きました。この曲では様々な習いがあって、たとえばワキツレに対しては「舟に召され候へ」などと敬語を使うのに、シテにはぶっきらぼうな態度で勤めるのだそうです。ワキツレに応対するときも、まずワキツレの方に向き直ってから立ち上がって問答をするのに、シテに問いかけられると、まず立ち上がって、それからシテへ向き直り問答になったりするのだそうで、言うなればシテの問いに対しては「なんだこの狂女が。面倒くさい」とでも言わんばかりの風情です。また、ぬえが感じた印象では、前述のようにワキの「語リ」に聞き入って涙を流すシテの姿を見て「あら優しや」と言うあたりでは、まだワキはシテの「理解者」とは言えないようです。その後の「とうとう上がり候ヘ」は、まだ強い調子で謡うからです。彼が本当にシテの理解者となるのは、シテがこの地で死んだ幼子の母だという事実が明らかになってからで、つまり理解者となると同時にシテに同情する協力者ともなるようです。
さてシテは下船するようワキに言われても動こうとせず、「なう舟人。今の物語は何時の事にて候ぞ」と「語リ」の内容を確かめる問いをワキに発します。総じて『隅田川』ではシテは数回以上もワキに対して「なう」と呼びかけを発する珍しい曲なのですが、この「なう」だけは大変に重要です。ぬえの師家ではことに低く謡うのですが、自分の心の中では、ワキの「語リ」に登場し、そしてこの地で死んだ幼子が我が子である事はすでに明白なのです。しかし、それを信じたくないシテは、間違いであって欲しい、と思いながら、それでも絶望の淵に立った気持ちで問いを発するのです。
「さてその稚児の歳は」「主の名は」と次々に聞くうちに、やはり死んだのは我が子に間違いない事が明白になります。シテの謡も次第に高調して、激しくなっていきます。「父の名字は」「さてその後は親とても訪ねず」「まして母とても訪ねぬよなう」と、自分が我が子の死に間に合わなかった事を後悔するように激情をもって叫ぶ母。。そして「なう親類とても親とても、訪ねぬこそ理なれ。その幼き者こそ、この物狂ひが尋ぬる子にては候へとよ。なうこれは夢かや、あら浅ましや候」と母は笠をガックリと前へ落としてシオリをします。
ちなみにこの句の中で「この物狂いが尋ぬる子にては候へとよ」の一句だけはひと息で謡いたいところです。この句で息継ぎをすると気が抜けてしまう。。でもなかなか苦しいところなので、うまく一息で謡えない場合も多いのですが。
ワキはこれを聞いて驚き、シテに同情して幼子の墓へ案内をします。シテを立たせ、シテは力無く立ち上がって常座の方へ向かい、やがて塚の作物に向きます。能の冒頭から舞台に出されていながら、この場面まですっと無視され続けてきた作物が、ようやく物語の中心に据えられるのです。よくまあ、こんな大胆な演出を考え出したものだと思いますし、ずっと舞台にありながら、不思議と違和感のない作物というものの存在も面白いですね。