ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

あれれ~~??

2009-05-30 01:28:46 | 能楽
。。と書いたばかりの薪能が明日に迫りましたが、好天に恵まれるはずの薪能なのに、天気予報を見るとなんとも心細いかぎり。。なんとか晴れになりますように~~

ところで、この増上寺に出勤するとき、毎年欠かさずに行っていることがあります。それは墓参り。

小鼓・幸流の故・穂高光晴先生のお墓が、この増上寺のすぐそばのお寺にあるのです。浄土宗のお寺でこの立地だから、増上寺に深い関係があるのでしょうね。ぬえはこの増上寺の催しに出勤する前に、毎年1回だけなのですが、先生のお墓にお参りするようにしております。

穂高先生は ぬえがシテ方のいまの師匠に内弟子入門を決めた大学在学中からお世話になり、小鼓を教えて頂きました。能楽師はご存じの通りシテ方・ワキ方・囃子方・狂言方と分業制になっていて、それぞれの役目だけを専業で修行するのですが、ほかのお役が舞台で行っていることを知らないと一つの舞台は勤められませんから、内弟子修行中に必要な知識を身につけるために、ほかのお役の稽古も専門家につけて頂くのです。

シテ方を例にすれば、おワキ方や狂言の稽古はしませんが、お囃子の稽古は必須で、これを習わなければ舞台でお役として、また地謡として声を出すのは不可能です。同じようにお囃子方も書生時代にシテ方の家に通って謡の稽古をしたりしていて、こういった稽古はお互い様なので、しばしば謝礼もなしでお稽古をつけて頂いたりもしますね。

そして、能楽師にとってはそれぞれの専門のお役の稽古がもちろん最優先ですので、このようなほかのお役の稽古は短期間で修了します。教える側も速修授業で、エッセンスだけを教える、ということが多いようです。こういうわけで、シテ方が囃子を習うのは内弟子時代の、そう、ほんの2~3年という感じでしょうか。

ところが ぬえは穂高先生とは妙に気が合ったというか。小鼓が性に合っていたというか。ともあれ ぬえは内弟子から独立してもなお、都合17年間も穂高先生に親炙しておりました。もう最後は習う曲もなくなってきて。。一調もすべて習ったし、番囃子の稽古では『姨捨』『檜垣』『関寺小町』の三老女も、その小書まで稽古して頂きました。それだけではない、先生が保管されていた伝書、あまりにも長い年月 舞台を勤められてきたその上演記録もすべて書写させて頂きました。稽古に伺うたびに、稽古後にも居残って数ページずつ書写した、これだけで10年以上は掛かっているでしょう。でも能楽師としては一代目の新参者の ぬえに、はじめて形のある「財産」を持たせてくださったのが穂高先生でした。

そんな稽古が突然断ち切られて終わってしまったのは、穂高先生が逝去されたためでした。ご家族から急報を聞いて病院に駆けつけて。。ご家族の中で一介の弟子にすぎない ぬえは邪魔者だったかもしれません。。が、先生が鼓を打たれた、その右手に触らせて頂きたいです。。とお願いをして、それはすぐに許されました。ご家族も先生と ぬえとの間柄をよくご存じでしたから。。

その右手を握った瞬間、ぬえは涙を抑えることが出来ませんでした。。「先生。。頂いたご恩は一生忘れません!」と。。それしか言えなかった。ご葬儀も四十九日法要も ぬえはお手伝いに参上し、とくに法要で、同じく穂高先生に薫陶を受けた幸流の小鼓方と二人で『江口』を謡えたことは心に残っています。そのときにご遺族から「ぬえくんの事は先生、ほめていらしたよ。こんなに長く付きあって、今までイヤな思いをした事が一度もない」と伝えられました。。そんな事はないでしょう。。長いお付き合いで何度も先生とは衝突している。。え。。? それが「イヤな思い」ではなかったのかしら??

先生は能楽界の中では異端児というべき人でしたが、一生子どものようなピュアな心を持った方で、そのため不正や不見識、能楽界の因習の負の側面に、ほとんど寛容になることができず、いろいろ損もなさったことだろうと思います。それでも能楽師のほかに学者としても素晴らしい業績を挙げられ、没後に贈られた法政大学の「催花賞」の受賞式(ぬえもご遺族のはからいで特別に招いて頂いた)では、その業績について「前人未踏」と形容されていました。穂高先生は法政大学能楽研究所の創設に尽力され永年所員としても活躍されました。国文学から能の世界に飛び込んだ ぬえでしたから、生前の先生にはいろんな質問を投げかけ、勉強になったことも、先生に長く師事した理由でもありましょう。人間同士としては 時にはぶつかりもし、励まされもし、憐れみもかけられ。。人生の師。まさに先生は ぬえにはそう言える尊敬すべき方でしたし、ぬえの結婚に際しては仲人も穂高先生にお願いしました。

今でも ぬえは催しに出勤する際には穂高先生の遺影にご挨拶をしてから出かけるようにしていますし、強制はしていませんが チビぬえもそれに倣っているようです。それでも ぬえ自身がお墓にお参りするのは年に1回になってしまいました。。

明日の薪能の公演の前にも ぬえは先生のお墓にお参りするつもりです。ぬえを取り巻く情勢や、能楽界もあの頃とはずいぶん変わってきたようにも思います。先生は今の ぬえをどうご覧になっておられるかなあ。。

めずらしく

2009-05-27 23:53:04 | 能楽
話題がない。

いえ、休暇があったほどで『殺生石』のあとは十分に休養していたのですが、それがマズかった。
ネットもつながらない状況にいたので、その間に しなければならない事務的な仕事が山積してしまって。。

そのうえ休暇があった分、そのあとに公演やらお弟子さんのお稽古やら、どさっとまとめて降りかかってきました~ (хх,) それでも伊豆にも行ったし~ (*^。^*)、茨城県にも行ったし~ (^o^)、横浜能楽堂にも行ったし~ (^。^)、明日はまた芝・増上寺の薪能の申合です。

この増上寺の薪能、ぬえは大好きなんですよね。東京タワーの真下のような立地で広大な敷地で催される薪能。だんだんと夕暮れが迫ってきて、東京タワーもライトアップされて。。ああ、なんてキレイなんでしょ。(#^.^#) そのうえ季節もちょうど心地よい頃で、夕風が涼しい薪能。出演している方も気持ちがよい催しです。

この増上寺薪能、ほとんど雨にたたられた事さえないんです。もう20年以上続いている催しですが、雨天会場(本堂)に変更になったのは1~2回だけなのではないかしら。

。。とは言え、一度 雨では大変な目にも遭ったこともあります。曲目が『賀茂』と『鉄輪』で。。その選曲じゃ雨乞いも同然なわけですが。。その時は気がつかなかった。初番の『賀茂』で、すでに雲行きはあやしくなっていたのですが、事件は『鉄輪』の後シテの登場の場面で起こりました。ぬえは地謡を謡っていたのですが、いや、謡えば謡うほどに空模様が暗くなってきて。。

「九曜八宿を驚かし奉り」(^。^)
「祈れば不思議や。。」(¨;)??
「雨降り風落ち。。」(゜_゜;)
「雷稲妻しきりに充ち満ち。。」(◎-◎)
「御幣もざざめき鳴動して。。」(×_×;)
「身の毛よだちて。。」.。ooO(゜ペ/)/ひゃ
「恐ろしや~~~」。。゛(ノ><)ノ ヒィ

考えてみれば『鉄輪』は阿倍晴明の祈祷が始まると突然雨が降り出し神鳴りが起こり。。そうしてその中に不気味に後シテが現れる、という設定なのでした。。が、このときはその通りになってしまって、おシテは幕から姿を見せたと思ったら後見によって幕の中に逆戻りさせられておりました。(-.-)???

もちろん地謡もすぐさま退場になり、見所は阿鼻叫喚状態でした。。(×_×;)

が、すごかったのはそのあとの楽屋。その頃は小学校の運動会のときに使うような大きなテントをいくつも並べて楽屋に使っていたのですが、楽屋に戻った ぬえは、ちょうどおシテが面を顔から外されたところだったので、お後見から面を受け取ったのですが。そのとき突然雨の勢いが強くなって、もう、それぞれのテントの間から落ちる雨がまるで水のカーテンのようになって、それぞれのテントを分断してしまいました。

わ~~、どうしよう。。と面を手に持ったまま躊躇していると、先輩から厳しい声が飛びました「ぬえくん!!その場を動くな!!」(O.O;)

。。そうなんです。面カバンがあるテントまで不用意に移動しては面が雨に当たって傷んでしまう。。まだ内弟子だった ぬえの行動を心配した先輩から声が飛んだのでした。不用意といえば、このとき内弟子の身の分際だった ぬえが、こういう特殊な状況でお後見から面を受け取ったのが、そもそも不用意でした。

それから ぬえは楽屋での動き方が少しわかった気もしますし、また師家でも薪能の選曲には、まあ、縁起を担ぐ、というほどでもないのでしょうが、気を遣われているようです。

今年の薪能は、やはり雨には関係のない曲ばかり。もともと晴天に恵まれる薪能だから、今年もあの気持ちの良い舞台に出ることができるでしょう。

殺生石/白頭 ~小書「白頭」と「女体」について

2009-05-23 11:48:49 | 能楽
いま久しぶりの休暇で茨城県の鹿嶋市に来ていま~す。うう。。でもここは半年前にマリカ姫がいなくなった場所。。ああ、あれから半年も経ってしまったんか。。なんだか忙しくて、ここに来るのもそれ以来。そして今回は、その後お迎えしたマリモちゃんと一緒に来ています。あ~、まったり~~(*^。^*)

さて今回『殺生石』の「白頭」を勤めるにあたって、この曲について調査をしたご報告を申し上げましたが、また一方、調べている過程で、この曲の上演の実情について気がついた事がいくつかありました。

『殺生石』の小書ですが、「白頭」よりもむしろ有名な小書に「女体」があります。金剛流のそれが つとに有名で、この小書では後シテの野干も女性? の姿になります。お流儀の細かい定めはわかりませんが、ぬえが実見した公演での演出では、作物は常の通りに出されていました。そして前シテでとくに注目されるのが、クセを最初から舞われることでしょう。地謡に緩急もあり、印象的な型付けがなされています。中入はもちろん作物の中で、問題の後シテは白頭に泥眼?のような女面。このときは頭上には九尾の狐の尾だけの建物が載せられていました。装束は鱗箔?・舞衣・長袴という、あくまでも女性の役を意識した扮装。型としては後場のほぼ全体を大小前の一畳台の上で、最初は床几に掛かったまま、ついで立ち上がってで舞い、それから最後の方。。ワキに向かって辞儀をするあたりでようやく舞台に下りられたように記憶しています。

観世流にはこの「女体」の小書はないのですが、近来 演者の工夫として上演されることがあるようです。また「女体」ではなく「白頭」の小書の際に、「女体」のように後シテを女性の姿の野干として上演することもしばしば行われているようで、これは演じ方もだいぶ定着してきたように思います。すなわち作物は舞台に出し、前シテはクセの、主に後半から立ち上がって舞い、後シテは女性の姿で登場する、という、おおまかなには金剛流の「女体」の型を参考に、それと同じ発想で組み立てられた型だと思います。ぬえも、今回の「白頭」では師匠のお勧めがあったため、クセの後半を舞わせて頂きましたが、型については先輩に伺ったところ、やはりすでにクセを舞う型を勤められた先輩があって、そのご指導を受けました。

流儀に本来ない小書、型を演じることについては否定的なご意見もあるかと思います。もちろん正式に他流の小書を演じる場合は流儀として正式に取り決めがなければなりませんが、演者の個人的な工夫として、良いものを取り入れて演じることにはある程度 寛容であってもいいのではないかな、とも思います。

時代、ということもありますね。近世ならばそれぞれの流儀は「座」というまとまりをもって行動していましたから、今ほど流儀間の交流もなかったでしょうしその必要もあまりなかったはずで、流儀の決マリというものも固定化されていたと思います。これと比べると現在の能役者は同じ能楽を演じる、ある種の仲間同士という間柄になりました。交流も自然に生まれるし、他流の役者であっても手本として尊敬される方も多くおられます。流儀が違っても先輩・後輩であり、ときには師匠であり、友だちでもあり、ライバルであり、そして何よりも仲間。そういう関係なのです。ご宗家の追善能や継承能では各流のご宗家が軒並み出演されるのも近代になってからの事ですし、現代では異流共演という試みさえ生まれるようになりました。『殺生石』の「女体」については、もうずいぶん前になりますが、故・梅若恭行先生が日比谷シティ能で この小書をお客さまに見せて差し上げたい、ということで廣田陛一師をお招きして上演して頂いた、ということもありましたね。こうした役者の交流の中からはお互いに自然に触発され、ヒントを頂くことも当然あるわけで、ぬえはそれを工夫に活かす事は演者としては健康的な姿なのではないかな~、とも思います。

やはり必要なのは節度でしょうか。今回の ぬえの『殺生石』でも、じつは朽木倒レの直前の型を少し替えました。本来の師家の型では橋掛りで弓をつがえて幕際まで追い行き、そこですぐに扇を腹に突き立てる型をして、そのまま朽木倒レをすることになっていました。しかし、これではお客さまから見てシテの姿はずっと幕に向かった横向きのままで、それで朽木倒レをしても、ちょっと意味が分かりづらいのではないか、と思い、ちょっと型は忙しかったですが、幕際で正面を向いて矢を射る型をして、扇を腹に突き立て、それから再度幕に向いて朽木倒レをしました。この型は創作ではなく常の『殺生石』の同じ場面の型を取り入れたのです。他の演者の型を取り入れる場合でも、わかりやすさとか、お客さまの立場での視点で考えるべきで、派手な型だからという理由だけでむやみに取り入れたり、独りよがりの演技になってしまってはならないでしょう。

ところで、ぬえが観世流で『殺生石・白頭』を拝見する場合、本来は省略されるはずの石の作物が出されることも多いように思います。お家によって伝承の違いがあるのかもしれませんが、おそらく多くの場合、これは演者の工夫によるものだと ぬえは思っています。前述したように、『殺生石・白頭』で作物が略される理由は、ひとつにはこの曲の前シテが常の『殺生石』とくらべて極端に違った演出ができにくいため、作物を省略することで常の場合との舞台面の変化を持たせようとしたこと、もう一つには「白頭」の型が常の能よりも激しいものであるため、舞台を広く使い、また事故を防ぐためにも作物は省略された、と考えることが可能だと思います。がしかし、やはり石の作物が左右に割れて後シテが登場する、この曲の独特の演出(『一角仙人』にも類例はありますが)、舞台演出として非常に効果的なのは否めないでしょう。そして何より「石の中から野干が現れる」という舞台設定に沿った演出で非常にわかりやすい。。ぬえは今回は「白頭」が初演でしたので師家の決マリ通りに作物を省略しましたが、次にこの曲を演じる機会があれば、そのときはやはり作物は出してやってみたいな、と思います。(^_^)b

殺生石/白頭 ~生還致しました~(続々)

2009-05-17 02:38:57 | 能楽
結局 写しの新面を使った ぬえでしたが、そのおかげか、ほぼ稽古通りに動くことができたのではないかと思います。少しく型に工夫を加えた点もあるのですが、それもまあ、思う通りには出来たようには、自分では思いますのですが。。果たしてそのように見所から見えたかなあ。

さて例の「朽木倒レ」ですが。この型をした瞬間に、倒れた衝撃で面が上にズルッと上がってしまいまして。。ん~、説明が難しいですが、これもじつは想定された範囲のトラブル? でした。

朽木倒レ。。この型をするように型附には明記してあって、ぬえの師家の型附では白頭の場合はこの型以外の選択肢はないのですが。。じつは ここまでリスクを伴う型がある場合、『殺生石』に限らず上演するシテによっては型を変える場合もないではないです。それにはいろいろな理由があって、たとえばおシテが年齢やご自分の体力と相談されて、もう少しリスクの小さい型に替えるとか、稽古が不十分でお客さまにお目汚しになると判断されれば師家から型の変更を指示される場合だってあるでしょう。

そこで ぬえは事前に師匠に相談しまして、本来型附に明記されている型ながら、朽木倒レの型を勤めたいとお願い致しました。師匠からはお許しが出ましたが、その際に「面が上がらないよう十分に注意しなさい」という助言も頂戴しました。これで朽木倒レを勤めることができる事になり、さて稽古を始めたのですが、まずは倒れる型そのものを稽古して、コツがつかめてきてから ようやく面を掛けて稽古することになります。

ところが倒れる衝撃というのは凄まじいもので、なんと稽古では面がまるまる顔から外れて、素顔が丸出しの状態にまでなりました。。驚いた。師匠がおっしゃったのはこれなのか。。

驚きましたが、まずは面に謝罪して。。それから、どうやってこの事故を本番の舞台で防ぐか、方策をいろいろ考えめぐらす作業も稽古と平行して進めることに。倒れ方がいけないのか、それとも面を顔に結びつける方法が甘いのか。

その結果、型や面を顔に掛ける方法に注意をめぐらす事もさることながら、やはり最終的に舞台で失態を起こさないために、「仕掛け」を作ることも必要だな、と考えました。万が一の事故をも防ごうと ぬえは考えあぐねて、とうとう白頭に独自の細工を施すことに。

この ぬえの「仕掛け」は どうも他の演者には前例がないらしく、この方法を考えついて 何人かのシテ方に相談してみたのですが、皆さん一様に「ほお。。そんなやり方を。。」というお答え。ん~~、どうなんでしょ? でも、おそらくこの仕掛けのために当日は思い切りよく倒れることができました。

ところがこれだけ「仕掛け」を考えても、それでも当日は数センチとはいえ面が上がりましたね~。。思い切りの良さには どうしてもリスクも呼び込むことになるのでしょう。。

そこで朽木倒レから起きあがるときに、幕に向いている間に手を使って面を直し。これは仕方がないことだとは思うのですが、それで直したと思った面が、意外や立ち上がってみると、やはり前方がまるで見えない。。仕方なくここでもう一回面を掛け直したのが、まあ大きな傷ではないけれども、心残りではあります。

しかし。。勤め終わってしみじみと思うのですが、やはり切能は面白い。いや、お見所からご覧になっても切能はスカッと面白いと思われる曲が多いとは思いますけれども、やっぱり ぬえは演じる側として切能が好きなんだなあ、と、思ったことでした。

ご来場頂きました方々には、改めまして御礼申し上げます~。どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます! m(__)m

殺生石/白頭 ~生還致しました~(続)

2009-05-16 00:17:35 | 能楽

前シテでは、師家のお勧めにより勤めさせて頂きましたもう一つ大きな工夫があったのですが、まあ、それよりも問題の後シテでしょう。

後シテは ぬえの希望により白式の装束となり、着付の厚板、半切、狩衣、そして狩衣の袖から垂らす露に至るまで、すべて白地(に金の文様)の装束ばかりで取り揃えました。白式の装束は初めての経験ですが、これは面白い効果が出ますね~

で、問題の面は。。じつは このブログにも画像を掲載しました、現代の面を使いました。いえ、師家からは師家の名物面の江戸中期の「野干」の拝借をお許し頂き、現に楽屋にその面は持ち込まれたのです。そして ぬえもこの本面の「野干」を使わせて頂くつもりでおりました。ところが。。この「野干」は。。驚くほど視野が狭くて、この種の面にしてはほとんど外は見えないも同然なのです。。申合のあと、公演で使用する面装束を決める際に本面を拝見させて頂き、これを試しに顔に当てたその瞬間に、この面を使うのにはあまりにも大きなリスクを背負い込む事になるのは気づいてはいましたが。。

じつは稽古で使っていた(つまり当日も使用した)、この「野干」の写しの面も、これも本面と同じくほとんど外が見えない面だったのです。稽古を重ねている途中であまりに演技に支障を来すので、作者(現代の、ぬえが信頼する能面作家です)にお願いして、面の内側を少し彫り込んで頂いて、そうしてようやく稽古が軌道に乗るようになった経緯もあります。しかし、直して頂いた際にこの作者が ぬえにおっしゃったのには「この面は本面をできるだけ忠実に写したものですから、おそらく本面も同じように外が見えないと思いますよ」。。と。そこで今度は稽古の際に写しの面の眼や鼻の穴に内側からビニールテープを貼って視野を狭くして。。ううむ、これほど外が見えないと、『殺生石・白頭』という恐るべき演技の要求に対して、思い切った動きをすることは、やはり不可能に近い。。これは ぬえにとって大きなジレンマでありました。

当日、楽屋で本面の調整をしていて、やはり ぬえには不安ばかりが増幅してゆきます。自分の出番前に師匠のご子息ともよくよく相談して。。ご子息もやはり ぬえと同意見で、これは危険だろう。。と。ぬえ自身も写しの面を楽屋に持ち込んでいましたので、これは考えに考えを重ねて、逡巡して。。そうして本面を使うことを ついに諦めることにしました。

そりゃ、師家の名物面を使って『殺生石・白頭』を舞ってみたかったです。ぬえが持参した写しの面も師匠からお誉めを頂いたほど本面と寸分変わらぬ面ではありましたが、この曲にしか使わない「野干」を、その名物面たる師家の本面を、この機会だからこそ拝借させて頂きたい。。しかし、そのために、「見えない」ために演技が小さくなること。そして、これは極論かもしれませんが、そこにこだわったために舞台で大失態を演じてしまうこと。。これだけは避けたいという思いも強くありました。そして寸分違わぬ写しの面が同じ楽屋にある。。つらい選択でした。でも、本面を使えなかった後悔よりも、本面を使って舞台で失敗した場合の方が、おそらく後悔の度合いは甚だしく異なるでしょう。何といってもお客さまに失態だけは見せられないです。

結局 ぬえは写しの面を使ったのですが、これは正解だったと、今は思っています。型も稽古のとおり思い切り演じることができたつもりですし、それは視界が確保された写し面だったからこそでありましょう。

しかしこの曲の、この小書にしか使用しない面。。そうならば この本面でこの曲は演じられ続けてきたわけで。

どうなんだろう。。やっぱり ぬえは未熟なのか。。? 自分の実力。。とはとても言えないけれど、少なくとも自分が積んできた稽古には ぬえは自信があります。それでも今回は ぬえには無理でした。本当にこの本面で『殺生石・白頭』は軽々と舞いこなされてきたのだろうか。。

師家から面を拝借する場合、それは公演当日だけその面とお付き合いさせて頂くわけですから、その面自体に不慣れなまま、いわば ぶっつけ本番で舞う、というリスクは、弟子の立場の能楽師であれば誰しもが恒常的に持っているものです。それだからこそ どのように自分に不利な条件であっても稽古通りに動けるよう、時間を掛けてシミュレーションの稽古も必要で、それも怠ってはいないつもりですが。。今回はこの点は完敗でした。

殺生石/白頭 ~生還致しました~

2009-05-15 23:09:16 | 能楽

どもです~

昨日、師家の月例公演 梅若研能会5月公演 にて無事『殺生石・白頭』を勤めてまいりました~
ん~、まずまず、考えていた通りには動けたと思いますし、大きな瑕瑾もなく、ともあれ無事でよかった、よかった。
お出まし頂きました皆々様には、改めまして深謝申し上げます~ m(__)m

さて当日の報告をいくつかさせて頂きますと。。

前シテの面は師家所蔵の品を拝借した「増」でして、「泣増」にちょっと近いけれど、かなり厳しい表情の面です。こういう曲にはピッタリ、と、師匠が選んで下さいましたが、なるほど、手に取るよりも顔に掛けた方がグッと厳しさが出る面で、『殺生石』の前シテは女性の役としては強く謡うし、ぬえはそれを しばしばやり過ぎるからちょうど良かったかも。。

唐織はやはり師家から拝借の紺浅黄段の秋草文様の唐織でしたが、前回『殺生石』を勤めた際に拝借した火焔太鼓文様の唐織と違って、風情もあり、そして強さもあり。これまた師匠のお見立てで選んで頂いたのですが、ああ、これは良い唐織を使わせて頂きました。これに合わせて、中啓も槍霞の入った、ちょっとキツイ感じの中啓を使わせて頂きました。

で、前シテですが、橋掛りでのワキとの問答では見計らいがうまくいって、ちょうど予想していた文句で一之松に着くことができ、これで一つ安心。

ところで初同の地謡で舞台に入り、そのあとクリの打掛を聞きながら舞台の中央に下居するのですが、じつは稽古でここが気になって気になって。。小書によりクリの冒頭に囃子方が打掛を打つ間 地謡は黙っていて、その手のあとに謡い出すのが定めなのですが、常の『殺生石』の場合。。つまり打掛に構わずに地謡が謡い出すのを聞きながら舞台の中央に座すのはよろしいのですが、小書の場合のこの地謡の無言の中で座るのはどうも違和感がぬぐえませんでした。

それは、初同、とくにその後半はは那須野の景色の描写に終始する文章でして、その後に続くクリは玉藻の前という人物の説明になるのです。この無関係に近い二つの文言が、常の『殺生石』では続けざまに地謡によって謡われるために、その間にシテが舞台中央に座るのにも、なんというか、この女が誰であるのか不審を抱きはじめているワキの心には無頓着に、ズカズカとその側に近寄って一方的に玉藻の前の話題を始めるシテの姿が浮き彫りになるのであって、それでこそ実は野干の化身としての傍若無人さも舞台上に表されると思うのです。ところが、ここで地謡が黙ってしまうと。。なぜシテがワキの傍らに座るのか、意味がもう一つ判然としないように感じられて仕方がない。。稽古で ぬえはずっとそこが気になっていました。

ところが稽古能でこの曲を勤めた先週に、当日も大鼓を勤めてくれた佃良太郎くんが「あ、そこはおシテの頼みがあればおワキが一句謡ってくださる、と聞いています」と、ぬえが知らない事を教えてくれました。いわく、下掛り宝生流のおワキの場合、初同のあと、クリの前に「なおなお玉藻の前の御事詳しく御物語り候へ」という文句が本来あるのだそうで、観世流のシテ方相手の場合には、シテ方流儀の台本にその文句がないため、そこは省略して謡わないのだそうです。

これには驚きました。この文句があれば、地謡は無言であっても、ワキに乞われて話をするために、シテはワキのそばに近寄って座ることができる。早速 お相手のおワキ、およびそのお師匠さまにお願いしたところ、快く引き受けてくださって、その文句を謡ってくださることになりました。いやはや、勉強のタネは尽きないです。この情報を ぬえにもたらせてくれた佃くんには何度もお礼を申しました~

殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その21)

2009-05-14 00:30:07 | 能楽
しかし派手な型だ。。橋掛りの欄干に足をかける型はあるわ、朽木倒レはあるわ。。

で、そのウワサの朽木倒レですが、申すまでもなく役者が背面からドタン!と舞台に倒れる型です。山中に生えている樹木が枯れて朽ち果てて、ついに倒れるように、真っ直ぐに後方に倒れる型であるのでその名が付けられています。地震などで仏像が倒れるときに、受け身をしないで真っ直ぐに倒れるところから、その様子に似た型ということで「仏倒レ」とも呼ばれることがあるのですが、ぬえの師家の型附には「朽木倒レ」と記述してあるので、このブログでは「朽木倒レ」という表記を用いることにします。

。。が、実際には「仏倒レ」と呼ぶ場合がほとんどで、ぬえの同門が集う楽屋でさえ「朽木倒レ」という単語を使う人はまったくおらず、みなさん「仏倒レ」ですけれども。。さて、真っ直ぐに倒れるから「朽木倒レ」なのですが、実際には役者は直立不動のまま倒れるのではありませんで、ググ~ッと背面に身体を反らしていって、いっぱいになったところで肩から落ちるように倒れるのです。

やはり恐ろしいのは後頭部を強打する失敗で、ぬえはこの失敗のために半年近く入院した人も知っているし、舞台で失神して病院に運ばれ、回復はしたけれど、その日 一日の記憶がポッカリと抜け落ちてしまった人も知っています。。

じつは ぬえは「朽木倒レ」をするのは今回が初めての経験でして。。若い頃から何度もなさる方もあるようですけれど。それで「朽木倒レ」の稽古は入念に致しました。

まずは畳の上で、さらに座布団を三重に敷いたところで後ろ向きに倒れてみます。。

よし。。これだけ厚く敷き詰めていれば。。 ヘ(^^ヘ)

せ~~~の~~~ぉぉぉぉぉっ ノ(-_-メ) ノ

。。。うをっ、ぅぉぉぉぉぉっ!!!!!!!! (◎-◎)

こわいっ! これは怖すぎます! 最初はとても倒れることはできず、何度も逡巡してようやく倒れることができました。そりゃそうだ。。自殺しに行くようなものだもん。。身体が本能的に拒絶してしまう。。

ところが一度倒れてみると、座布団を敷いていればほとんど痛みはないことが分かって、それからは気が楽になりました。で、その後座布団を減らしていって、最後に座布団ナシで倒れてみる。。この時には白頭を着けて倒れます。さすがに素のままの後頭部から倒れるのは危険。そうしたら、なんと白頭を着ていればまったく痛くないことがわかり、また畳の上でも舞台の板の上でも、衝撃には大差がないこともわかりました。

つまり、上記の「朽木倒レ」の失敗でケガをした方々は、みな『正尊』などの斬組で負傷されたのです。この場合は面や頭を着けていないどころか、鉢巻1本だけが床から頭を保護しているだけなのですから。。白頭を着ていれば、その白頭自体が座布団何枚か分ほどのクッションになるワケで、そのうえ面を顔に固定するための面紐なども、それぞれクッションとなって頭を保護してくれます。

事情が分かればあとは余裕。

よっしゃ、もうちょっと勢いよく! ヘ(^^ヘ) バターン! (ノ^^)ノ

いやいや、少し溜めを入れないとせわしないかも。 (^。^) ドターン! (^○^)

よし、もっと慣れておこう! (^_^)b ズデーン! (^o^)

何度も何度も倒れてみて。。

。。ん。。 なんかヘンな。。 (゜_゜;) あれ。。(-_-メ) 気持ちが。。(;´_`;) オエッ。。(__;)

これはいけない。。どうも座布団のクッションのおかげで痛みはないものの、頭蓋骨の中でシェイクされる脳ミソが、吐き気を催させたようで。。 これ以後、一度の稽古について「朽木倒レ」は2~3回程度でやめておくようにしました。。(^◇^;)

そんなわけで明日はいよいよ『殺生石・白頭』の公演当日になります。
ご来場頂けます方々には、お目汚しのないよう、張り切って舞台を勤める所存ですので、どうか暖かい目で見守ってやってくださいまし~m(__)m

当日が良き日になりますように~

殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その20)

2009-05-13 09:22:03 | 能楽
昨日『殺生石』の申合がおわり、まあ順調に稽古の成果は出せたと思います。あとは当日を迎えるのみ~。申合の数日前に稽古能もあり、いずれも汗だく~ (хх,) ん~、昔は ぬえ、能を舞っても汗なんてかかなかったものだが。。歳とともに体調ってのは変わってくるのですかね。。いや実際「能楽師は汗をかいてはいけない」と良く言われます。それは汗をかくと面や、とくに装束が傷むからで、ま、そうは言っても汗かきなシテ方もたくさんいますけれども。

ぬえの場合は、以前『殺生石』を勤めたときも、またそのほかにも『善界』や『雷電』など切能を勤めても、まず汗はかかなかったです。終わってから装束を干す必要がないくらい。ようやく『道成寺』では汗をかいたけれども、それは身体を動かしたからではなくて、鐘の作物の中で着替えをする、その蒸し暑さのためでした。

ところが数年前からかなあ。。どうも能を舞って汗をかくようになってきました。イケナイんだけどなあ。。とは思うけれども自分じゃどうしようもないですね。困った、困った~

さてキリの型の続き、終曲までの一番最後の部分です。

シテ「両介は狩装束にて。 謡いながら角へ行き正へ直し
                  同じ


地謡「両介は狩装束にて数万騎那須野を取り込めて
                   左へ廻り笛座より中へ出ながら左袖を出し

                   同じ


草を分つて狩りけるに。 脇座の方までサシ分ケにて草を分け行き、サシて右へ廻り
                同じ


身を何と那須野の原に。 笛座にて角へ向きヒラキ
                 中にて橋掛りへ向き両ユウケンしながら橋掛りへ行き


顕れ出でしを狩人の。 角へ行き右手にて弓を引く心
     一之松にて欄干に左足を掛け大きく両ユウケン仕、右へ小さく廻りながら弓を引く心


追つつまくつつさくりにつけて。 左へいくつも廻りながら笛座まで行き、角へ行き
                     上下に狐を狙いながら幕際まで行き


矢の下に。射伏せられて。 矢を射る心で扇を腹に突き立て反り返り飛び安座
                  幕に向いたまま腹に扇を突き立て朽木倒レ


即時に命を徒らに。なす野の原の。 立ち上がり右へ廻り一畳台へ上がり
                        立ち上がり左へトリ舞台へ戻り


露と消えてもなほ執心は。この野に残つて。 正へサシ込ヒラキ
                  舞台中にて両袖を頭の上へ返しそのまま下居て前へ伏し


殺生石となつて。人を取る事多年なれども 六ツ拍子、踏返シ七ツ拍子
                            立ち上がり


今逢ひがたき。御法を受けて。この後悪事をいたす事。
                 ワキへ向き下居て両手をつき辞儀

                 同じ


あるべからずと御僧に。 手を上げワキを見込み立ち上がり
                同じ


約束固き。石となつて。約束固き石となつて。 常座へノリ込、右へ飛返り
            常座または幕際へ行き右へキリリと廻り左袖を頭へ返し下居


鬼神の姿は失せにけり。 立ち上がり左袖を返し留拍子
                 同じ


殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その19)

2009-05-12 00:20:44 | 能楽
さて『殺生石』の後シテが仕方話で自分の命が失われるところを語る場面。ここからがこの能のキリ。。すなわち終曲へ向けてのクライマックスの場面で、まあ飛んだり跳ねたり、シテは舞台上で大騒ぎで暴れ回るところです。また小書「白頭」の面目もこの場面の鮮やかさに尽き、常の『殺生石』とは大きく型が替わります。ご参考までに、常の演出と小書「白頭」の型の違いを併記しておきましょう。

青字=常の型
赤字=白頭の型

地謡「やがて五体を苦しめて。 床几に掛かったまま据エ拍子
                    同じ


やがて五体を苦しめて。幣帛をおつ取り飛ぶ空の。
                    踏返シ七ツ拍子、扇を右手に持ち一畳台より飛び降り

                    扇を右手に持ち正面の上をサシ


雪居を翔り海山を越えてこの野に隠れ住む。 
                   角より常座に到り小廻、正面へヒラキ

                   右まで見廻し、床几より立ち上がり左袖を頭の上へ返して下居


シテ「その後勅使立つて。 謡い
                  正面へ向き立ち上がり謡い


地謡「その後勅使立つて。三浦の介。上総の介両人に。 
                   六ツ拍子、踏返シ七ツ拍子

                   六ツ拍子(踏返シはナシ)


綸旨をなされつゝ。那須野の化生の者を。退治せよとの勅を受けて。 
                   角へ行き正へ直し左へ廻り

                   同じ


野干は犬に似たれば犬にて稽古。 正へサシ込ヒラキ
                       同じ


あるべしとて百日犬をぞ射たりける 角より常座に到り小廻、
                       同じ


これ犬追物の始めとかや。 正面へヒラキ、左足拍子一ツ
                   正面へヒラキ、ホドに左足拍子踏み左袖を返しワキへ面切り見


殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その18)

2009-05-11 01:25:15 | 能楽
玄翁道人にコンコンとお説教をされて改心した狐は(←ムーパさんへのコメントで思いついて我ながら気に入った)、自分の往古からの悪行を懺悔して。。というか謡の感じでは得意満面に悪行を自慢しているようにも聞こえるけれども。。で、さらにこの那須野でついに矢傷を負って命を失った有様を仕方話で演じます。

おおっとその前に、後シテの面「野干」に触れておきながら、装束について書くのを忘れていました。

常の『殺生石』では後シテの面・装束は次の通り。

面=小飛出、赤頭、赤地金緞鉢巻、襟=紺、着付=段厚板、半切、法被、縫紋腰帯、修羅扇

これが「白頭」の小書がつくと次のように替わります。

面=野干または牙飛出、白頭、袷狩衣(衣紋着け)、あとは同じ。総体白式にも

面白い装束付けですね~。狩衣を「衣紋」と呼ばれる、胸を開くような特殊な着付方で着るのは、『養老・水波之伝』や『船弁慶・前後之替』『三輪・白式神神楽』など、比較的重い小書の場合に多く例があるほか、常の能でも『絵馬』の後シテが衣紋着けにすることがあります。

そして白式。。『三輪・白式神神楽』を引き合いに出すまでもなく「白式」は白ばかりの装束を取り合わせて高貴、清浄を表す手法なのですが、どうもそれだけの意味合いではないらしい。『融・白式舞働之伝』という、『融』のシテの意外な側面を見せる演出に白式が使われることもありますし、『船弁慶・重キ前後之替』には好んで白式の装束にされることが多いように思います。

それでも『三輪』は別格として、貴公子の『融』や、また『船弁慶』の後シテも化け物とはいいながら、知盛は敦盛や経正と同じく平家の公達なので白式にはまだ納得がいく。しかし『殺生石』のシテは本来的に悪業を重ねてきた「悪者」なのであって、これが白式の装束を身にまとうのは、ほかの曲とはちょっと違う意味でしょう。

だけれども、なぜか『殺生石』の「白頭」には白式は似合います。ぬえも今回は白式にするつもりで師匠と相談しようと思っています。不思議だ。。たとえば『土蜘蛛』の後シテが白頭を着て白式になるのはどうも合わないでしょう。同じく『紅葉狩』にも似合いません。

おそらく『殺生石』が白式にできるのは、劫を経た老狐の老獪さの強調になるからで、その上に注意しなければならないのは、『殺生石』の後シテは懺悔のためにその姿を現したのだということ。『土蜘蛛』や『紅葉狩』など、武士と闘争する役目なのではなく、『殺生石』ではシテが内に秘めた力が強大であるほど、それが懺悔の姿として登場して、ワキに両手をついて辞儀をすることで逆説的に仏法の慈悲が浮き彫りになるのではないか? と ぬえは考えています。

もっとも『善界』など、少数ではありますが「白頭」の小書を持ち、その際に装束を白式にする選択を許す曲もあります。これらの曲が『土蜘蛛』などと同じく舞台で闘争を繰り広げるのに白式が成立する理由は、おそらく『土蜘蛛』と違って闘争の相手が武士ではなく僧だからでしょう。僧は白刃を交えることはしません。そうなれば舞台上では悪者が一方的に威勢を奮うことになり、相手の僧はひたすら祈り伏せ、調伏するのみ。それでも僧が勝つことによって暴力よりも仏法が勝利することが印象づけられ、これは本質的に『殺生石』と意味合いが重なるのではないか? そんなふうに ぬえは考えています。

殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その17)

2009-05-10 04:08:22 | 能楽

もう一昨日になりますが、東京は不思議な天気でした。朝から雷鳴が轟き、大雨になったかと思えば夕方にはカラリと晴れてきて。。そして空には大きな虹が架かりました。それでも時折小雨は続き。。これってキツネの嫁入りってやつですか。。ん。。?? キツネ。。野干。。あいつのところにお嫁さんが!!?? あの眠たそうな眼の、獰猛なあいつに??

。。いや。。ひょっとすると ぬえのところに「あいつ」が嫁入りに来るのかしらん。。なんせ玉藻の前という絶世の美女に化けて上皇を虜にするくらいのヤツだから。。゛(ノ><)ノ ヒィ

さて後シテが登場したところで、常の場合は大小前の一畳台の上で、白頭の小書の際は正中で、それぞれシテは床几に掛けます。白頭の時はこのようなワケで床几が二つ必要なのです。幕内で謡っているときにシテが腰掛けている床几は、その後「二つに割るれば」と幕から走り出てくるまでに舞台には持ち出せませんので。。

後シテが姿を現すと、ワキが謡い出します。

ワキ「不思議やなこの石二つに割れ。光の内をよく見れば。野干の形はありながら。さも不思議なる仁体なり。

「野干」。。すなわち狐の姿と認められるけれども、それは人体に似ているというのですが、やはり鬼神や化け物は二足歩行の方が強そうなのかなあ。

シテ「今は何をか包むべき。天竺にては班足太子の塚の神。大唐にては幽王の后褒娰と現じ。我が朝にては鳥羽の院の。玉藻の前とはなりたるなり。我れ王法を傾けんと。仮に優女の形となり。玉体に近づき奉れば御悩となる。既に御命を取らんと悦びをなしし所に。安倍の泰成。調伏の祭を始め。壇に五色の幣帛を立て。玉藻に御幣を持たせつゝ。肝胆をくだき祈りしかば。

このあたり、御伽草子の『玉藻の草子』や、これに類する室町期の草子に取材したもので、これは当時は相当に流布した話であったのか この簡略な言葉だけでお客さまは理解できたのでしょうが、今日では解説がなければ理解不可能でしょう。

御伽草子の諸本(七系統に分類される、とされている)や、ほかにも『曽我物語』等には、この玉藻の前が鳥羽院を悩ませたときに安倍の泰成の占いの結果として、また玄翁の前に美女の姿として現れて懺悔する殺生石の話として、総合すれば次のような話が出てくるのです。

殺生石の本性は天竺に棲む九尾の狐(二尾の狐とも。金毛九尾とも)で、羅陀という班足王の相談役となり、塚の神に千人の王の首を取って塚の神に捧げれば大王になれると王をそそのかした。九百九十九人の王を捕らえて最後の一人として普明王を捕らえ、さて一度に千人の王の首を斬ろうとしたとき、普明王は手を合わせて一日の暇乞いをし、故郷に帰って宮殿で僧の講義を受けたところ道理を悟り、これを班足王に伝えると、班足王もたちまちに悟りを開いて千人の王を解放した(別の話では千年の劫を経た妖狐が美女の姿に化け、班足王に見初められて后となった。このとき人間に虐められた仕返しを思いついて悪心を起こし、妖術を使って天災を起こすと塚の神の祟りだと王に告げ、毎日十人の民の首を塚の神に捧げさせた。この殺戮が千人に至ったとき、ついに人民が蜂起して王を滅ぼし、妖狐は逃亡した)

その後妖狐は唐土に渡り、幽王の后・褒娰(ほうじ)となった。褒娰はまったく笑顔を見せず、彼女を愛した王はなんとかこれを笑わせようと試みたが果たせずにいた。あるとき敵の出現を知らせる太鼓と烽火を王が上げたところ諸侯が参集したが、敵がいないので拍子抜けして帰っていった。ところがこれを見た褒娰ははじめて声をあげて笑い、これを喜んだ王は以後、褒娰を笑わせるためにしばしば烽火を上げた。次第に諸侯は烽火を信用しなくなり、あるとき本当に外敵が襲ったときにも諸侯は烽火を見ても参集せず、幽王は滅ぼされた。(これより以前に殷の紂王の后・妲妃となり、重税や刑罰で民を苦しめさせて反感を募らせて王朝を滅ぼした、という話もあり)

さらに後世、妖狐は吉備真備をたぶらかして遣唐使船に同乗して日本に渡り、鳥羽院を誘惑する玉藻の前となった


さて型としては「玉体に近づき奉れば御悩となる」と面を切ってワキを見込み、「玉藻に御幣を持たせつゝ」と扇を幣に見立てて左手に持って左の膝の上に立て持つのですが、白頭の場合は、細かいことですが そのうえに「仮に優女の形となり」と両袖をアシラウ型が追加されます。

殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その16)

2009-05-08 01:52:06 | 能楽
おワキが幕に向かって謡うとき、「急々に去れ去れ」というところで払子を床に音を立てて突きます。おワキのお流儀によっては、作物が出されている場合にはこのとき払子を作物の石に向かって突く型をすることもあります。

。。じつは。玄翁道人が那須野の殺生石を教化したとき、その杖をもって石を打ったところ、殺生石は粉々に砕けて諸国に飛び散った、と御伽草子の『玉藻の草子』にあります。なるほど、現在 那須野の殺生石の史跡には大石はなく、ゴロゴロとした小さな岩がいくつもあるだけですが、能の作物として出される大きな石は、この能のワキである玄翁道人によって すでに砕かれてしまったのですね~。ちなみに、最近ではほとんど聞かれなくなってしまいましたが、かつてはカナヅチのことを「ゲンノオ」と呼ぶことがありました。この呼称は殺生石を砕いた玄翁道人が使った道具。。って杖なのですが、それから由来している言葉だったりします。

さてワキが教化の言葉を謡い終えて脇座に戻ると、囃子方は「出端」(では)と呼ばれる登場音楽を演奏します。この「出端」という登場音楽は後場に登場するシテ、あるいはツレ(あるいは子方)が登場するときに、広く演奏されるもので、すこぶる急調の『高砂』からシッカリ、ドッシリとした感じの『実盛』まで、その演奏のスピード(位、と呼び慣わしています)もかなり多岐に渡りますし、また曲により「越」と呼ばれる小段を挿入するかどうか、など演奏上の小異を持つバリエーションもいくつかあります。『殺生石』の場合は「一段」と呼ばれる 二部構成の「出端」となり、「出端」の中では割とシッカリ目に演奏されますが、わけても「白頭」のときは常の場合よりも もうひとつシッカリとした位になります。

後シテはこの出端を幕の中で聞いていますが、このときシテは幕の内側にピッタリと張り付くような位置で床几に腰を掛けています。幕のすぐ内側にいるのは、シテが囃子を聞きながらそれに合わせて謡うため、幕の内側でも囃子に少しでも近く、また謡う声が見所によく響くように、という意味でしょう。実際のところ、幕の内側では橋掛りの距離だけ離れた囃子方の演奏はかなり遠くに聞こえます。ましてやシテは面や白頭などを頭に着けていて、さらに大声を出して謡いますので、その分囃子方の演奏はよく聞こえなかったりするのです。

小書がついた能の場合、登場する前に幕の内側に立つことは 割と例が多いと思います。『養老・水波之伝』とか『小鍛冶・白頭』では幕の内側にシテが立つと幕を半分だけ巻き上げて、シテの登場の前にその下半身だけを見所に見せたりしますね。小書がない能の場合でも『石橋』や『望月』ではこれと同じ演出が採られていて、曲の位が重い場合の演出ということができると思います。また『船弁慶・前後之替』『重キ前後之替』では『殺生石・白頭』と同じくシテは幕内で床几に腰掛けて、やはり幕を半分巻き上げてシテの顔まで見せます。これは『養老』『小鍛冶』『石橋』『望月』などと違って、登場する前に幕内でシテが謡う場面があるから、下半身だけではなく顔まで見所に見せるのでしょう。

一方『殺生石・白頭』では登場の前にシテが謡うのに、幕を巻き上げて姿を見せることはありません。つまり床几に腰を掛けているシテの姿は見所からはとうとう見ることができないのです。それは、あくまで『殺生石』では石の中から声が聞こえてくる、という設定だからにほかならず、小書がつかない常の『殺生石』の場合でも、後シテは作物の石の中で最初のシテ謡を謡うのです。

後シテ「石に精あり。水に音あり。風は大虚に渡る。
地謡「形を今ぞ現す石の。二つに割るれば石魂忽ち現れ出でたり。恐ろしや。


シテも地謡もシッカリとした位で謡い、「二つに割るれば」という文句で地謡は突然急調になり、同時に幕を揚げてシテが走り出、舞台の中央で二足に飛び上がり、またまた床几に腰を掛けます。要するにこの瞬間に殺生石が二つに割れて怪物が姿を現すわけで、常の『殺生石』でも同じ文句のところで後見が石の作物を左右に押し割って、シテはその中から姿を現し、その場(一畳台の上)で床几に腰掛けます。

殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その15)

2009-05-07 23:53:49 | 能楽

ワキ「木石心なしとは申せども。草国土悉皆成仏と聞く時は。本より仏体具足せり。況んや衣鉢を授くるならば。成仏疑ひあるべからずと。花を手向け焼香し。石面に向つて仏事をなす。汝元来殺生石。問ふ石霊。何れの処より来り。今生かくの如くなる。急々に去れ去れ。自今以後汝を成仏せしめ。仏体真如の善心となさん。摂取せよ。

囃子がノットを打ち出すと、払子を手にしたワキは立ち上がり、常の場合は作物の石に向かい、小書により作物が略された場合は常座、あるいは橋掛り一之松にて幕の方へ向いて教化の言葉を謡います。

そして登場する後シテが「白頭」のときに掛ける「野干」の面がトップに掲出したこの面っ! これは怖い。。

『殺生石』の後シテが掛ける面は、通常は「小飛出」です。これが小書「白頭」のときには、型や装束も大きく替わるのですが、面も「牙飛出」とかこの「野干」を使うことになります。

で、ぬえは初演の『殺生石』(もちろん小書ナシ)の際から工夫して、「小飛出」ではなく「牙飛出」を使いました。獣性が強烈に出たこの面は効果的だったと思います。このときの写真がこれ↓



ああ、でもこの、トップ画像の「野干」を見てください。。「小飛出」「牙飛出」のように口を大きく開いて、威嚇するかのような面も凄いとは思うけれど、この「野干」の恐ろしいところは、この面の表情にある「余裕」でしょう。目もどちらかといえばトロンと眠たげにも見え、口も半開き程度。角は後方に向かって申し訳程度に生えているだけ。実際この角は白頭を着けてしまっては全く隠れて見えなくなってしまいます。それなのに、この面の持つ迫力はどうでしょう。なんだか自分の持つ強い力を前面に出していないだけに、かえってその威力の大きさを感じさせる。。言うなれば、「小飛出」が当初から闘争心をむき出しにしているのに対して、この「野干」はそれを表面には出さずに、無言のまま相手の隙を窺い、一気にその命を絶ってしまうかのような、そんな獰猛な迫力をたたえた面だと言えるでしょう。

じつはこの面は、師匠の所蔵品の「写し」です。「野干」という面はなかなか難しくて、優品はほとんど目にしたことがありませんが、師家に伝わるこの「野干」は、静かな迫力を湛えた、まさに名品と呼ぶにふさわしい面だと思います。稽古ではこの「写し」を使っているのですが、できることなら当日は師家の本物を使わせて頂きたいなあ。。と、淡い期待を抱いてはおりますが。。でも、型が激しい『殺生石・白頭』ですから、万が一の事故だって考えられなくはないので、お許しはでないかも。その際はこの「写し」を使うつもりでおります。

この「野干」を稽古で使いながら考えたのですが、どうもこの面。。西洋的な匂いがする面です。 ひょっとして。。この面は。。「デーモン」なのではないかな。。? と、あるとき ぬえは考えました。これは資料の裏付けまで調査してはいないのですが、どうも『殺生石』の小書「白頭」は、古くからある小書ではないのではないか? と ぬえは考えていて、「野干」の面は能『殺生石』そのものよりも遅れて誕生した小書と同じ頃に生まれ、想像をたくましくすれば、西洋の絵画を参考にしたのではないかな。。?? とも考えています。

なぜこの「白頭」の小書が比較的新しい演出だと思うかというと、あとでご紹介しますとおり、この小書の型は橋掛りの欄干に足をかけたり、幕ぎわで「朽木倒レ」をしたり。。これは舞台の形状が完全に現在と同じ形に定まり、なおかつ頑丈な常設舞台で上演することを前提にしなければ生まれてこない型だと思うからです。

『殺生石』は作者は判然としておらず、しかしながら世阿弥よりは後世ではあるものの室町時代の文亀三年(1503)年には観世座で上演された記録があるようなので(『能楽源流考』)、古作とは言えないまでも それなりの長い歴史を持つ曲ではあります。しかし「白頭」の小書は曲の誕生よりもずっと遅れて、近世頃なのではないかなあ、と ぬえは漠然と考えています。「野干」の面がこの『殺生石・白頭』の専用面であり、かつその名称「野干」も狐を意味して、いかにも『殺生石』を意識していることを考えるならば、この面は小書と同時期か、あるいはそれより以後に発明された可能性が高いように思います(ちなみに師家蔵のこの「野干」は江戸中期の作です)。

かれこれ推測の積み重ねでしかありませんが、戦国時代のバサラ大名の例を見るように、中世も後期になると西洋の文物はある程度 日本国内にも流入していたはずで、そういう進取の気風がこのスペクタクルの小書を生み、また「野干」の面という形で結実したのではないか?? そんな印象をこの面に持ちました。

殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その14)

2009-05-05 23:06:19 | 能楽
前シテが中入すると、一之松の狂言座に控えていた間狂言が立ち上がり、舞台に入って語り出します。

狂言「さてもさても只今の女は。物凄まじい女かな。如何なれば世間が真っ黒になったが。また明かうなった。まずあれへ参り。この事ご相談申さばやと存ずる。

これより間狂言は舞台中央に座してワキと問答となります。

狂言「如何に申し上げ候。只今の女は。何とやらん物凄まじい女で御座ったと存ずるが。何と思し召され候ぞ。
ワキ「げにげに汝が申す如く。まことに不思議なる事にて候。おことは小賢しき者にてある間。玉藻の前の謂われ 存ぜぬ事はあるまじ。語って聞かせ候へ。
狂言「これは存じもよらぬ事を御意なさるる。左様の御事は。我ら如きの存ずる子細にては御座なく候。されども某倅の時分。寺に罷りありたる時。玉藻の前の草子とやらんを。ひと目見申して候間。その草子のあらましを。片端御物語申さうずるにて候。
狂言「昔鳥羽の院の御時。玉藻の前と申して。容顔美麗にして。並びなき上臈の御座ありたると申す。さるほどにこの女を。玉藻の前と申す子細は。四角八方より見るに。例えば宝珠を見るが如く。裏表なく美しき形なればとて。玉藻の前とは名付けたるげに候。また一説には。この女知恵余りあって。和歌の道は申すに及ばず。一切の経々に至るまで心底に納め。また何事につけても。曇りなく光りある珠の如く。明らかなる知恵たるによって。玉藻の前とも申したると。二説に承りて候。さればあるとき清涼殿にて。御歌合わせありて後。御管弦のありしとき。永祚の大風吹き来たり。禁中の灯一灯も残らず消えたりしに。その時かの玉藻の前が身より。金色の光を出だし。玉殿は申すに及ばず。お庭の砂の数まで隈なく見え候程に。それよりは玉藻の前を。化生の前とは召されたるげに候。その後帝程なく御悩とならせ給ひしかば。貴僧高僧を招じ。いろいろの御祈祷ありしかども。さらにその験なし。阿倍の泰成と申す占方を召され占はせ給へば。泰成参り。懇ろに考えて申し上げけるは。かかる一大事の事は御座あるまじい。これ皆玉藻の前が仕業なり。それを如何にと申すに。玉藻の前は根本狐なるが。すでに大唐にては幽王の妃褒娰となって。七帝まで取り参らせ。今又日本に来たり。この君の御命を取り奉らんとする。かかる一大事の御事なれば。急ぎかの者を。調伏あって然るべきと申さるる。やがて紫檀をついで御壇を飾り。薬師の法を行い給へば。下野国那須野の原に落ちけるを。国内通計の者なれば。疎かにしては叶はじと。犬は狐の相を得たる物なれば。犬追物といふ事を以て御退治あるべきとて。三浦介上総介に仰せ付けらるる。両人はお請けを申し。家の子若党を引き具し。この所に下着して。百日の犬追物とぞ聞こえける。百日の犬満じければ。尾頭七尋に余る狐一つ出でたりしを。一の矢は三浦介二の矢は上総介。両人馬上にて放つ矢先に彼を居留め。そのまま馬より飛んで降り。剣を抜いて彼を害し給ふ。それより国土治まり。泰平の御代になりたると申す。然れば彼の変化の執心この所に残って。大石となって。鳥類畜類は申すに及ばず。人を取ること数知らず。かるが故に殺生石と申すと承りて候が。疑ふところもなく。この石にて御座あらうずると存じ候。
狂言「まず我らの承る通り。大方御物語申し上げて候。
ワキ「懇ろに語り候物かな。さらばひと喝し喝して参らうずるにてある間。急ぎ払子を捧げ候へ。
狂言「畏まって候。


間狂言は狂言座に戻り、そこに置いてあった払子を取り上げてワキに渡します。

狂言「さあらば払子を参らせ候

お狂言のお流儀により語られる言葉に小異はありますが、内容は同じです。ぬえ、思うのですが、狂言方はこの怪物のことをあからさまに「狐」と言っていますが、『殺生石』の謡本の中に「狐」という文句は一切出てきませんね。「鬼神」「石魂」「化生」というのがこの怪物を形容する言葉で、その他に一例だけ「野干」という名称が出てきます。「野干」は「射干」とも書き、日本ではたしかに狐の異称として用いられますが、中国では狐に似ているがそれよりは少し小さく、よく木に登り、夜啼く声が狼に似ている、とされる想像上の獣です。

で、能ではこの『殺生石・白頭』に限って使用される面に「野干」という面があるのです。

殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その13)

2009-05-03 02:40:48 | 能楽
クセが終わり、ワキに言われた言葉が、この曲のシテにとっては意外なひとことだったと思います。

だって、そもそも前シテが「なうその石の辺へな立ち寄らせ給ひそ。。かく恐ろしき殺生石とも。知ろし召されで御僧達は。求め給へる命かな。そこ立ちのき拾へ。」と、里女に化けてこの場に登場した動機は、殺生石=すでに退治されてもなおこの世に残る自身の根元的な悪心そのものでもあり、最後の牙城でもある石=に近づこうとする、法力を持った僧を戒めた。。というよりは威嚇して追い払おうとしたのであり、それに応えた玄翁がさらに問うのに任せて前シテが語るのは、この殺生石は化け物の魂だ、と言っているわけで、前シテは徹頭徹尾、玄翁を威嚇するためにこれらの文言を重ねていると言えるのです。

ところが、それに対する玄翁の答えは「実にや余りの悪念は。かへつて善心となるべし。然らば衣鉢を授くべし」なのであり、それは悪業を重ねてきた自分さえも救われることができるのだ、という、思いがけない、慈悲の教えだったのです。それだからこそ重ねての玄翁の言葉「同じくは本体を。再び現し給ふべし」に対して「あら恥かしや我が姿」と応えられたのであって、ここで初めて「化生」の者は羞恥心を覚えるに至ったのですね。

地謡「立ち帰り夜になりて。立ち帰り夜になりて。懺悔の姿現さんと。夕闇の夜の空なれど。この夜は明し燈火の。我が影なりと思し召し。恐れ給はで待ち給へと石に隠れ。失せにけりや石に隠れ失せにけり。

常の『殺生石』の場合は、シテは立ち上がりシテ柱に移動してワキに向き、「夕闇の夜の空なれど」と右の方を見上げ、左袖をワキの方へ出して「恐れ給はで待ち給へ」とワキへ決めると、地謡が「石に隠れ。失せにけりや」と突然急速になり、シテは作物の傍らで正面へヒラキ、地謡が「石に隠れ失せにけり」と静かに謡うのにつれて石の作物の後ろに姿を消します。

このたびの「白頭」の小書つきの場合は、「立ち帰り夜になりて」とシテは立ち上がって橋掛りへ行き(このとき囃子方は打切の手を入れます)、一之松にて「懺悔の姿現さんと」とワキへ向き、左袖をワキへ出して決め、「石に隠れ。失せにけりや」と幕ぎわの三之松に行って正面へヒラキ、「石に隠れ失せにけり」と幕の中へ中入します。

シテが後場で本性の「野干」の姿を現すのは「懺悔の姿現さん」ためなのだと、ここで明らかになります。悪鬼はワキの「余りの悪念は。かへつて善心となるべし」という、あまりに逆説的な言葉に感銘を覚え、そうして生涯で(。。ってすでに生身は失われているのですけれども。。)初めて「懺悔」の心を持つにいたったわけです。

言うなれば、この曲のテーマはこの前シテの中入の部分までにすでに尽くされているわけで、耳目を驚かす後シテの派手な型も、すべて「懺悔」のためであり、曲の重要な問題。。「余りの悪念は。かへつて善心となるべし」というワキの言葉を心から信じたシテが、その悪行の子細や、その悪事の応報として自分が命を落とした有様を再現したに過ぎないということになります。舞台上は派手で面白い『殺生石』の後シテの演技ですが、じつは曲のテーマはそこにあるのではなく、『嘆異抄』に見える「善人なほもて往生を遂ぐ。いはんや悪人をや」に通じるような(どうもこの言葉は慢心を戒める言葉のようではありますが。。)重いキーワードが積年の悪心をも和らげる力を持つ、というところにあるのだと思います。

こうやって考えると『殺生石』は半能では演じられないですね~。。