ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

能の拍手について(付録)

2006-01-31 00:12:06 | 能楽
ところで、能の上演中に拍手が起きる場合があります。(・o・)

それは『道成寺』の「鐘入り」で、前シテが長大な「乱拍子」を踏んで、その後怒濤のような「急之舞」を舞い、さらにそのあとに舞台の天井から吊された作物の鐘の真下に入り込んで跳び上がり、同時に鐘後見が鐘を吊っている綱を放して落とす、という、場合によってはおシテの生命を賭けることにもなる危険な場面です。おシテは轟音とともに落ちる鐘の作物の中に吸い込まれるように飛び込む事が要求されていて、能楽師として修行を進めてきた若手の能楽師の「卒業試験」と言われる『道成寺』のクライマックスです。

それだけにお客さまにもおシテの能楽師としての「生き様」や覚悟のようなものを見せるような曲で、とくに披キ(初演)の場合はとんでもない緊張感が漂うことも。。 ぬえは忘れもしない2001年の6月2日に国立能楽堂で催した「第一回 ぬえの会」で『道成寺』を披かせて頂きましたが、文字通り命を賭けてしまった。。この話題は、サイトできちんと書いておこうと思っています。

。。で。この『道成寺』の「鐘入り」がうまくきまると、見所から拍手が起こる事があるのです。ぬえは何度となく地謡で参加した『道成寺』で、おシテ本人がこの日までがんばってこられたのを知っているから、鐘入りがうまくいって見所から拍手が起きるとジーンと感動してしまったりしましたが、いざ自分の時はそれどころではなく、鐘入りで跳び込んで、鐘の中でようやく正気を戻したときに「。。あれ? 拍手が出てる。。」と気づいて「成功した。。の。。かな?」なんて思いました。すぐに後シテの装束に改めなければならないので、それはそのまま、また鐘の中で大忙しになってしまいましたが。。

拍手ひとつを取ってみてもいろんな事がありますね。まだまだ書き忘れている事もあると思うので、折を見てまたこの話題にちては書き継ぐことになるかもしれません。

能の拍手について(その2)

2006-01-30 23:26:06 | 能楽
時折 見所(客席)にお見かけするのですが。。なぜか、「オレが拍手を一番にするのだ!」と身構えておられるお客さまがおられますね (^◇^;) これはこれで応援してくださっている気持ちのあらわれなのですからありがたい事ではありますが、とても余韻の深い能が終わったとき、会場に集まっておられるお客さま全員が、静寂な余韻にひたっておられるその瞬間。。 なんというか「この雰囲気を壊しちゃいけない。。」という空気が能楽堂中を支配しているその中で、二時間の能を舞い終えたシテが しずしずと幕に入るその時! それでも拍手をされる方が。。 (((((゜゜;)

ぬえは見所で能を拝見している時に、こういう拍手をしちゃいけない雰囲気の中で拍手をされた方があった場面に遭遇しましたが。。その瞬間見所じゅうが凍りつきました。。能楽堂全体に「。。ん。。む。。」とうめき声ともつかない、雰囲気を壊された事への怒りの声を呑み込むような音が。。ぬえはその時「殺気」を感じました。。いやホント(あと、静かな場面で携帯が鳴った事も。。この時は舌打ちの音がここかしこで。。)。くわばら くわばら。。

。。結局、拍手はした方がいいのか、しない方がいいのか?

上記のような静謐な雰囲気で終わる能では拍手はしない方が良いのですが、「能に拍手は要? 不要?」と一般的に能全体について言うのならば、これは結論が出ないでしょう。誰だったか、「拍手はやめようではないか」とサイトで呼び掛けている方もあったと思いますが、飛んだり跳ねたり、斬組があるような派手な曲では「面白かった!」と演者に声援を送る意味で拍手をしたくなる気持ちは当然の事でしょう。白状しますが ぬえ個人の気持ちとしては、ほかの能楽師に怒られちゃうかも知れないが。こういう荒々しい曲をこちらも気持ちよく全力で舞ったのに、退場する時に拍手が起きないと、ちょっと淋しいのです。。「あれ? 出来が悪かったかな。。」なんて心配になってきたり。。ね。

「静謐な雰囲気で終わる曲」にしたって、曲名をここで挙げる事はできません。と言うのも、ぬえ、同じ曲で拍手が出た場面も何度も目撃しているのです。。つまり演じられる曲目そのものが何であるか、という事以上に、それを演じる演者の力量によって、拍手もはばかられるほどの感動をお客様に与え得た場合だけ、拍手が自然に消滅する、それでいいのでしょう。

ですから「拍手の是非」が論争の焦点になるべきではなくて、演者に感謝とエールを送る意味で自然に拍手したくなる気持ちを抑える必要はないと ぬえは思いますし、静かな感動を与えられた時には、自分を含めたお客様の余韻を壊さないためにも、心の中で演者に拍手を送ればよいのではないでしょうか。

拍手についての決まりを固定して ぬえが押しつけてしまう事を最も恐れますが、もしもお能をはじめてご覧になる方がこの記事をお読みになっておられて、やはり「拍手のやり方」を知っておいて、ほかのお客さまとご一緒に演者を応援してくださりたい、と思われるのでしたら。。この記事の最初に書きましたように、三度の拍手が事実上標準的に行われていると思います。これに加わって演者を応援して頂ければ演者にとってもありがたい事だと思います。でももしもご覧になった能がたまたま静寂の中で終わったならば、周囲のお客様の動向を観察してみて、拍手が起きなければ心の中で拍手を送るにとどめて頂いて、ほかのお客さまが余韻を味わっておられるお気持ちを大切にして差し上げて頂ければ、と思います。

ご意見もある問題だと思いますので、とりあえず一般論として書き込んでみましたー

能の拍手について

2006-01-28 09:21:24 | 能楽
最近ミクシイでこのブログと同じ「ぬえの能楽通信」という名前でコミュニティを立ち上げました。

http://mixi.jp/view_community.pl?id=573607

すると能の拍手について質問の書き込みとメールを頂きました。なるほどー、やっぱりお客様としては悩まれる問題でしょうから、この場でもちょっとまとめてみよう、と思います。

能では普通は上演中ではなくて、曲目が終わったときに拍手が起こっていますね。細かく言えば、シテが橋掛りを歩んで幕に入るところ(三之松を越すあたり)で拍手をするのがなんとなく決まりのようになっています。

曲目や演出にもよりますが、多くの場合この時にはまだワキはようやく舞台から橋掛りに掛かった頃のはずなので、このワキが同じく三之松あたりに差し掛かった時に二度目の拍手がワキに向けて送られます。さらにワキが幕に引いて、作物があれば後見によってそれも引かれると(後見には拍手はしません)、囃子方と地謡が立ち上がって退場します。この時に三度目の拍手が起こるのですが、囃子方は橋掛りを通って幕へ引くのですが、地謡は座着いている位置のすぐそばの切戸口に引くので、この三度目の拍手は囃子方・地謡が立ち上がって歩み出す頃にすぐに拍手が起こるようです。

というわけで拍手が起きるとしたらこのタイミングですので、もしも演者に拍手を送りたいっ、と思われる方がありましたら、(ありがたや~)これをご参考にされて、ほかのお客様の動向を見ながら(←ここがポイント=詳しくは後述)拍手を頂ければありがたく存じまする。

ところが、曲目や演出によってはシテは曲の最後に、まだ地謡が謡っているうちに幕に退場してしまう場合があるのです。この時はさすがに上演中ですからシテへの拍手は出ずに、ワキと、囃子方・地謡への二度の拍手が起こります。またワキが先に引いてしまう曲もありますので、この場合もワキへの拍手はナシになります。

(余談ながら、時折 地方都市でのホール能などで、前シテの中入で拍手を頂いたりしますが。。これもまだ上演中なので、拍手は後シテの退場の際にお願いしたいです)


。。ところが、拍手がどうしても一回しかできない曲があるのです。(^^;)

これは『夜討曽我』で、この曲はシテ(曽我五郎)の仇討ちのお話しなのですが、それが成功したあとの、曲の最後の部分では、シテは警護の武士に捕縛されて連行されてしまうのです。地謡が謡っているうちにシテは縄を掛けられてビューーーン! と引っ立てられてしまうので、能が終わった時には舞台の上には誰もいないという。。(!)そこで、曲が終わるとあとは囃子方・地謡が粛々と退場するだけで、ここにだけ拍手が送られるのです。シテが捕縛される曲はほかにもあるけれど、舞台に誰も残っていない、という演出の曲はほかにないですね。

。。で、ここからが【重要】なのですが。

能の中にはとっても寂しく、静寂な雰囲気で終わる曲があるのです。こういう曲の場合は拍手は一切起きません。シテやワキだけでなく囃子方・地謡へも拍手は一切なし。これは決して約束事のように決められているのではありませんで、自然発生的に拍手が起きないのです。拍手が静謐な余韻をぶち壊しにしてしまうから、お客様ご自身でその雰囲気を大切にされておられるのでしょう。           (続く)

まばたき。(その2)

2006-01-27 02:46:01 | 能楽
ぬえは海外の大学などで教える機会も割と多いのですが、生徒には まばたきの事も最初にシッカリと教えます。自分が動かない場面でも演技に気を抜かない、という事を理解させるためですが、ところが生徒は仕舞の実技の稽古を進めている間にこれはすっかり忘れてしまっています。ま、これは仕方がない。見も知らぬ東洋の舞の動作を覚えるのに彼らは精一杯でしょうから。

数日間 生徒に仕舞など実技の稽古を進めてから、最終日には彼らの発表会をして締めくくりになります。まあ、多くの生徒は一緒に舞ってあげている ぬえを盗み見しながらなんとか舞う、というのが多いのですが、それまでの稽古の日程の中で熱心な学生を見つけては「君、最終日に一人で舞ってみない?」と勧誘してみると、中には「はいっ!ぜひやらせてください」と発奮してくる子もいます。そして最終日。発表会の最後にこの生徒に仕舞を舞わせてみると。。さすがに一生懸命覚えてきて、仕舞の出来もよろしいのですが、あら不思議、この生徒は まばたきをしないのです。

じつは ぬえは仕舞の出来なんよりも、この生徒が無意識に まばたきを止めるだろう、という事をはじめから期待していたのです。舞い終えたところで みんなで拍手で賞賛してあげてから、さてすべての学生に「彼(彼女)が まばたきを止めていた事に気がついた?」と聞いてみる。やはりほとんどの生徒は気がついていますね。で、気づいていないのは舞った本人だけだったりする。。(^^)v

ぬえは生徒にはここに気がついて欲しかったのだし、これでいいのだと思っています。ぬえ自身は能の中では 場面によって まばたきさえも演技に大きな影響を与えてしまうことを恐れるから気を遣うのだけれども、西洋演劇の世界で生きていく事を目標にしている彼らには、能の実技を短期間習ったからと言って、それが彼らがめざす演劇にどれほど役に立つか、は疑問でしょう。むしろこの講座によって、集中によって身体が無意識に制御される事を学んでもらえればよいのではないか、と思っているから毎度やってみるのですが、彼らにとっても斬新な経験に感じてもらえるらしく ぬえはよろこばしい。(^◇^;)

まばたき、ってのは改めて考え始めると難しいものですね。ぬえは書生時代からよく稽古の際に師匠から「舞台を後ろの方へ廻るときに。。おいっ、背中がスキだらけじゃないか!」と叱られたものです(今でも叱られますけども。。)。まばたきについては師匠から注意を受けた事はないけれど、このような師伝を自分でかみしめて稽古を続ける中で、いつの頃からか気をつけるようになったのです。

能楽師は、修行の初期には師匠から稽古で教えて頂いた事に忠実に従いながら普段の舞台や楽屋で実際の動き方を学んでいきますが(そしてそれは一生続く事になるのですが)、あるところから自分の芸について深く考え始めることになります。いま自分が進んでいる道は正しいのか? 自分は、少しずつであっても進歩しているのか? これは能楽師であればみんなが悩む事でしょうね。それがやっぱり一生続くのでしょうが、そこから能楽師の個性が育まれ始めて、それぞれが自分なりの稽古法とか日課の鍛錬などを持ち始めるのかなあ、なんて思っています。まばたきは前に書いたように稽古で身につくのではないのだけれど、気構えによって自然に身につく事を知った時は驚きました。んー勉強のタネは尽きないねえ。。

まばたき。

2006-01-26 01:27:54 | 能楽
今日は朝からお弟子のお稽古に出かけていて、夜は2月11日の研能会のための『鵜飼』の稽古をしていました。

ところでお弟子さんから1月の研能会初会の「千歳」の話題が出て、「よくまあ、あれだけ微動だにせずに。。」と言われました。「微動だにしない」というのは「千歳之舞」が終わってからの話で、あとはおシテが舞うので、その間は千歳は脇座でずっと平伏している、その間の事です。「翁之舞」が済んでおシテが面をはずし、正先に出て、登場した時と同じく正面に拝礼するまで千歳はずっとそのままで、拝礼のあとおシテと一緒に立ち上がって幕へ引きます(「翁返り」と呼ばれています)。

お弟子さんからは「微動だにせずに」と言って頂きましたが、実際には微動だに、どころか「まだたき」さえしていないのです。。いや、それはちょっとオーバーか。。2度、「あ、やっちゃった。。」と思いながら まばたきをしてしまいました(白状)。でもまあ、30分間で2度、だから、まあまあ成績は良かった方かなあ。

去年はある野外能で『熊坂』の前シテを勤めさせて頂きました(はいそうです。前シテだけ。。後シテは先輩が勤めました。なんだか不完全燃焼だった ぬえは秋に別の会で舞囃子で『熊坂』を舞いましたー。あーやっとスッキリしたー)が、その時は一度も まばたきをせずに勤める事ができました。クセを抜いたから、実際の上演時間は20分程度だと思うけれど、気力が充実していたのでしょうね。

「まばたき」ってのは本能の一部でしょうから、長い時間それを止める、なんて言うとなんだか難しい事のように聞こえるかもしれませんが、じつは集中さえできれば、案外簡単に止められるものなのです。少なくとも稽古や修行によって得られるものとはまったく関係がありませんね。その証拠に ぬえも「今日は一度もまばたきをしないで勤めてやる!」なんて意気込むと、これはムチャクチャな結果に終わります。(-。-;)

能は「動かない」事の方が、むしろ舞う事よりも難しい場合が多いし、繊細な型をする場合などは、呼吸にまで気をつけないといけない事もあるのです。「息をしている」という事がお客様に分かってしまうと、それだけで幻滅、という場合もあるので。。ですから面を掛けていても、そういう場面では まばたきはしません。ましてや『熊坂』の前シテなど直面のものは まばたきさえも「演技」になってしまう事があるのでかなり神経を使いますし、「千歳」に到ってはお客様のすぐ目の前で、しかも大切な『翁』のおシテが舞うそばに控えている間は、呼吸も低く低く抑えています。こんなに気を遣うからなのかなあ、シテ方には「直面の曲はキライ」と言う人も多いですね(「直面で舞うのは。。恥ずかしい」という理由で直面を嫌うシテ方も。んー、それはそれで気持ちはわかる。。)

同じ理由で、仕舞や舞囃子など直面で勤める「略式」の演式では まばたきは厳禁です。もっとも こういう場合は能とは違って 登場している間はほとんど立ち上がって舞っているので、後ろに廻る時などには まばたきをしてもお客様には分からないでしょう。まあ、仕舞程度の短時間で まばたきをするシテ方はいないと思いますけれど。。

翁付き『賀茂』素働(おまけ) 別火について

2006-01-25 02:27:54 | 能楽
新年の大きな催しを無事に終えて、昨夜は若手能楽師を中心として新年会を催しました。もちろん幹事は騒ぐ事が好きな ぬえ! シテ方3人、囃子方4人、狂言方4人。。というなんだか珍しいメンバーになりましたが、国立能楽堂の近所で終電まで騒いでおりましたー。

かつては能楽師の恒例の忘年会、というものが○祥寺で毎年行われていまして(参加者はその近在の方が中心)、ぬえも何度か参加させて頂いていましたが、いつのまにかその忘年会もなくなってしまって。。まあ、メンバーは大先輩ばかりで、某流宗家もおられたし、メンバーの中から人間国宝も生まれたので、多忙のためになくなっちゃったのかなあ。。 それで、このたび「そろそろ我々の年代で恒例の忘年会を企画しようじゃないか」という声があがって、仲良しの能楽師に声を掛けたところ、忘年会は都合が合わなかったが新年会なら、と話がまとまりました。ぬえも新年に千歳のお役を控えていたので、ちょっと忘年会ではね。。

さて新年会という話題からこの話題に移るのは不謹慎ではありますが。(--;)

『翁』では「別火(べっか)」という事があります。『翁』を勤める前には食事や風呂などのための火を家人とは別に熾して、一定期間 精進潔斎をする、というものです。現今ではあまり守られていないように思いますし、これは本来シテひとりが行うのでしょうが、気持ちとしては出演者全員が行うべきものでしょう。ぬえは初めて千歳のお役を頂いた時は書生でしたが、その時は1週間「別火」をしてみました。これが意外に難しい。。というか、現代では本当の意味の「別火」はほぼ不可能だと思い知りました。

もちろん総菜なんかを買ってきて食べるのは論外としても、米を買ってきたその時点で、すでにアウト。現代では精米にも電気を使った機械で行う事を考えると、火力発電。。なんて細かいことを考える以前に、すでに他の人と同じ火の下を通ってきた事は明らかなのです。そう考えると、家の中で電灯を点けただけで、もうすでに別火の意味は失われているのです。

本来 別火とは、自分用にガスレンジで調理して、出来上がったら火を止めて、またすぐに別のお鍋でガスレンジをカチン! でよい、という事ではないでしょう。竈の火を落として、あらためて家人のためにもう一度、火打ち石から火を熾すから意味があるので、それに気づいた ぬえは、別火は「潔斎する、という気持ちの問題だ」と割り切って、できる範囲内で行う事にしました。。

今年は思わずも千歳のお役を久しぶりに頂きましたが、初役ではないので別火はどうしようかなあ。。と考えて、結局1日だけ別火をする事にしました。この日だけは自分の稽古もお休みです。じっと安静にしていて、本を読んで過ごしていました。まあ。。「なんちゃって別火」と古人には笑われるでしょうが、要は潔斎する、という気持ちで一日を過ごすので、それでいいんじゃないか、と自分を納得させて。。

もう電気のない不便な暮らしには戻れないよなあ。それを手放す事も ぬえにはできない。便利さの陰で失われてしまっているものも多い、と、改めて考えた一日でした。

翁付き『賀茂』素働(その5)

2006-01-24 02:25:04 | 能楽
これにて地謡と後見が切戸に退場しますが、囃子方はさらに居残って狂言のお相手をなさいます。ぬえが楽屋に戻って時計を見ると、『翁』が始まってからここまでで2時間50分を要していました。その後はお装束の片づけに追われていたので狂言『福の神』の終了時刻は注意していなかったのですが、全体で3時間15分程度掛かったのではないかと思います。舞台に出ている方々も大変ですが、お客様にとっても大変な催しでした。それでも正月の改まった催し(初会)として、清浄な空気の中で催しが無事に終わったことはとても喜ばしいと思います。今年が平安な年になりますように。。

余談ですが、『翁』~脇能と連続して上演する事は現在でもかなり希なため、思わぬ勘違いが起きてしまいます。。

たとえば、三番叟が幕に引いて『翁』が終わった時に、脇鼓も幕に引き、地謡も座を改めると、なんとなく「さて、続いて脇能だ!」と気が勇みすぎるのでしょうね、すぐにお囃子方が「礼脇」を打ち始めてしまう事がある。。「礼脇」を打つほかは普通の能の始まり方と同じなのだから、ここは「作物がある曲では後見が作物を持ち出すのを待って床几に掛けて礼脇を打ち出す」というのが正解です。これは今年の年始にすでに某会で実際に起こってしまったそう。仕方なく後見は、前シテが出る直前に作物を出したのだそうです。同じような例ですが逆に後見が作物を出し忘れて、いつまでたっても脇能が始まらない、という事もありそう。。『翁』の後見が引き続いて脇能の後見を勤めるので、作物まで気が回らなかった、という場合です。これも可能性はないとは言えない。今回の『賀茂』は矢立台の作物を出すので、出演者みんなで声を掛け合って、そのミスをふせぎました。

その2。脇能が終わっても地謡が切戸に引かない。これは去年、『翁』付き『高砂』で地謡を勤めた ぬえがもう少しのところでやってしまうところでした。長い長い時間 地謡座に座っていて、さて『高砂』が終わって、囃子方が床几から下りて。さて地謡が切戸に引こうかな。。と思ったのに、なぜか囃子方が着座したまま動かない。。「??。。。!!」とすぐに気がついて、先頭の ぬえが立ち上がって地謡一同が切戸に引き、脇狂言が始まりました。。これは、能が終わった時には、地謡は囃子方の先頭(=笛方)が立ち上がるのを見て、それから立ち上がって引く約束になっているのです。最近は囃子方も地謡も、あまり気を遣っていないような場合も見かけるけれど、ぬえは書生時代にはそう習いました。なんでも昔は、それを知らない地謡が偉い笛方の先生より先に立ち上がると、笛方のその先生に引き倒されたりしたそうです(舞台上で。。お客様の目の前で、ということです。。くわばら くわばら)

その3。脇狂言が終わるまでに、能のシテやツレが紋付き袴に着替えていない。これはなぜかといぶかる方もおられるかも知れませんね。。能が終わっていつもはすぐにする、「ありがとうございました」と囃子方と挨拶を交わすためです。これもいつもならば能が終わってすぐに、シテやツレに引き続いて幕に引くワキと挨拶を交わし、つぎに作物があれば後見がそれを引いて、それから幕に引いてくるお囃子方を待ち受けて鏡の間で挨拶を交わすのです。「翁付き脇能」の場合、おワキはいつも通りシテに続いて幕に引いて来られるので、すぐにいつも通り挨拶ができますが、お囃子方はそこでは引かずに、さらに脇狂言のおつきあいをされますので、能のシテやツレがお囃子方と挨拶を交わすのは、この脇狂言が終わってから、という事になります。ところが能が終わってひと通りの挨拶が済むと、シテ方は装束を片づけたり、作物を解体したりしなければならないので、非常に忙しくなるのです。ぬえも装束を脱いで、あとは胴着のままで装束の片づけに追われていましたが、脇狂言が終わる直前に、急いで服装を紋付き袴に改めて、お囃子方とのご挨拶にはなんとか遅れずにすみました。(くわばら くわばら)

東京でも大雪!

2006-01-23 00:39:58 | 雑談
昨日はお弟子さんの謡初めがありましたが、まさかの大雪になりました。

今年は寒波と大雪の被害が全国に広がっているようですが、東京ではあいかわらず ずうっと雪が降らにゃい。毎年豪雪に悩まされる地方の方には申し訳ないですが、太平洋側の地方では、毎年冬はずうっと乾燥して晴天の日ばかりが続きます。催しをするにはもちろん晴天の方がよろしいので、それが続くのは助かるのですがそれでも東京でも毎年1~2回は申し訳程度に雪が降りますし、さらに数年に一度は大雪になって交通は大混乱、けが人続出、という非常事態になります(と言っても数センチだから雪の多い地方の方には笑われちゃいますわね。。)

昨日の雪は数センチだから、東京にとってはまさに豪雪! (^^;)
幸いなことに車があまり通らない道路を除けばそれほど雪が降り積もるほどにはならず、一夜明けた今朝はまた雲一つない晴天になりましたー。

今日はちょっと時間があったので、自宅のマンションのまわりの雪かきをしたり、近くの公園(ぬえ、都内有数の巨大公園の近くに住んでおります)を散歩しましたが、ありゃりゃ 芝の陸上グラウンドは一面の銀世界でありました。

東京ではついぞ見たことのないパウダースノーで、ををー、ついつい雪うさぎを作ってみましたが。。そう見えるかしらん?

。。で、ちなみに、立った うさぎを作ろうとした失敗作はこちらっ!
あー、なんて ぬえってセンスない人なの。。? (>_<)
 ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓

yuki-usagi??

翁付き『賀茂』素働(その4)

2006-01-22 09:45:38 | 能楽
天女のお装束は鬱金地の長絹に薄い萌黄の大口、黒垂、彩色の入った天冠、小面(これは可愛らしい小面でした)、天女扇で、長絹と大口の鬱金・萌黄、という組み合わせがちょっと地味かな? と思いましたが、後で聞いてみると良く合っていたそうです。「大口はやっぱり緋の方が良かったと思いませんか?」と聞き返してみたけれど「いや、あれが緋では。。萌黄だから良かったのでしょう」なんて言う人もありました。装束の色の取り合わせというのは、照明の具合などによって楽屋では思いも寄らない効果が舞台で発揮されたりする事がありますが、鬱金と萌黄。。うーむ、よくわからん。。

「天女之舞」は定式通り三段で、その後角へ出て下居「水にひたして涼みとる 涼みとる」と扇で川の水を掬いあげて左袖に二度あける特徴的な型があって、立ち上がり、「山河草木動揺して」と脇座の方へサシて行き、あらためて幕へ向き直ってシテ柱の方まで行って雲ノ扇をして後シテの登場を予感させます。この雲ノ扇の型をしたところが ちょうど後シテの登場の囃子である「早笛」にならなければならないのですが、「素働」の時はこの早笛が常より静か目になるので、その前の地謡も段々にゆるまってきて、型を合わせるのにちょっと神経を使いました。

早笛となって天女は地謡前に行き そこで着座するのですが、なんと今回はそこで下居ではなく床几に腰掛けるよう、師匠から指示がありました。ツレが舞台で床几。。そんな偉そうな事をして良いのかな~と思いましたが、考えてみればこの天女は後シテ「別雷神」の母親の「御祖神」なのですよね。ならば尊重される演出も考えられないわけではないでしょう。実際、ぬえは床几に掛けると聞いて驚いたけれども、先輩の中には「そういう演出を見た事がある」という人もありました。また「素働」の場合には、ツレ天女は地謡の前ではなく、脇座に着座(この場合は下居)する事もあるのです。この時はワキとワキツレは順次 笛座の方へ着座の位置をずれて、脇座を空けて下さいます。「素働」の小書の目的の一つに「御祖神」たるツレの地位を尊重する意図も含まれているのかも知れませんね。

早笛一段にて後シテが一之松に登場します。先にも書いたように、面は師家所蔵のスケールの大きな「大飛出」でしたが、「素働」の時には「天神」の面を掛けたりするようですが、「天神」は合わないとは思いますね。やはり「大飛出」の方がしっくりするように思います。またこの小書の時には赤頭の上の唐冠のところから大きな金色の稲光を四方に垂らします。装束は袷狩衣に半切で常と同じなのですが、狩衣は衣紋着けにします(今回は衣紋ではなく常の通りの着付け方でしたが)。

地謡「或いは諸天善神となって」とシッカリ、「和光同塵結縁の姿」から急に進んでシテは舞台常座に入り、「あらありがたの御事やな」と、常は舞働になるところがシッカリした位の「イロエ」になります。総じて『山姥』の「立廻リ」に印象が近い感じのイロエですが、シテは幣を頂き、太鼓の頭に合わせた拍子があり、幣を左右に払いながら静かに角へ出、左へ廻り脇座より大小前に到って小廻リ、正へ出て段となり、再び太鼓の頭に合わせて飛び上がりながら拍子を踏み、それより角へ出て常座に到るところで太鼓が速まり、打込一拍子にてシテ「風雨随時の御空の雲井」と謡い出し、地も一拍子にて静かに「風雨随時の」とウケます。

キリの型はほぼ常の通りで、「治まる時にはこの神徳と」とツレに向く時 天女もそれに向き合い、シテが正へ外すとすぐに天女は立ち上がり、「御祖神は糺の森に飛び去り飛び去り入らせ給へば」と文句一杯に幕に入る(ツレとしては最も神経を使うところです。。)と地謡は位を急に速めて、シテは橋掛り三之松へ行き、弊を捨ててトメ拍子を踏み、幕に入ります。

翁付き『賀茂』素働(その3)

2006-01-20 00:54:08 | 能楽
前シテが中入するとすぐに作物を引いて、替えの間狂言「御田」となります。この替え間は『賀茂』に「素働」の小書がついた時には必ず上演されています(必ず上演しなければいけないものか、は存じませんが。。)ぬえ、「御田」は初めて拝見しましたが、ああ、こりゃ大変だ。まず神主(シテ)の野村萬斎氏が登場して、その後「狂言下リ端」の囃子で早乙女たち(アド)数人が登場、短い問答のあとはずっと掛け合いの謡が続きます。三番叟を勤めたあとでこの長い間狂言は体力的にもきびしいでしょう(萬斎氏は途中から気の毒なほど声を嗄らしてしました。。それでも決して気を抜かず、最後まで全力投球していたのには感心しましたが)。しかし、それ以上に囃子方も間狂言でも休む暇なく打ち続けるのですから、ここまでですでに2時間近く。。

ぬえは千歳を勤めて、三番叟の前にはすでに翁に引き続いて楽屋に退いていたので、次の登場は「御田」が終わってからの後ツレ・天女の役です。三番叟の前に「翁帰り」で退場して、『賀茂』の前場と「御田」の間は楽屋にいるわけですから、『翁』で30分間だけ登場していて、その後楽屋では1時間半以上待機していた事になります。なんだか他の役と比べるとずいぶん楽なように見えますが、実際は千歳の装束を脱いでから5分後には天女の装束を着付け始めました。つまり天女の装束を着けたまま1時間半待機していたのです。。これはこれでまた疲れるもので。。

なぜこんな事になってしまうのか、と言うと、それはこのような大がかりな曲を上演すると、楽屋で手が空いている人が少なくなってしまうからです。間狂言のあいだは後見もっぱら後シテの装束を着けるのに手一杯だし。だから後ツレは『賀茂』が始まる前に、三番叟のあいだに着付けてしまおう、という事になるわけです。千歳が終わって装束を脱いだとたんに、忙しすぎてかえって気合いが入っている後見から「さ!天女はもう着けようか!」と言われた時は「はい。。」と覚悟を決めました。。もっとも『賀茂』の前ツレはもっと大変で、こちらは『翁』が始まる前に着付けが出来上がっていました。楽屋に翁と千歳、そしてもうひとり、唐織を着た役がつっ立っている、という図はあまり見たことがないのでなんだかおかしな感じでしたね。

「御田」の後半にはすでに面も掛けて鏡の間にいましたが、後見は後シテに付きっきりだし、にぎやかな間狂言を聞きながら、なんだかひとりで取り残されていました。それでも「御田」が終わる頃には後見や、楽屋にいらした梅若善高先生がとても気をかけて下さって、面の「ウケ」(角度)や装束の乱れによく注意して直して頂いて舞台に出る事ができました。

さて「御田」が終わって「出端」の囃子が奏され、天女の登場となります。ツレが出端で登場する場合は、シテの登場のための出端と同じ囃子ですが、段数を減らした「一段」の出端となる事が普通なのですが、脇能の場合は格式を重んじてツレもシテに奏される「二段」の出端となります。

ところが「翁付き」の場合は後シテや後ツレの登場の囃子も変わりまして、シテの場合は「真ノ出端」という長大な出端になります。またツレの場合もそれよりは少し短い「草ノ出端」という四段構成の出端となり、観世流太鼓では幕を揚げるところも「幕放レ」という特殊な手を聞きながら幕を出ます。今回は全体の上演時間が長大なので、ツレ天女は「一段」の出端で出ました。

落語『能狂言』!?

2006-01-19 01:47:46 | 能楽
ケーブルテレビの番組表を何気なく見ていたら、落語『能狂言』というのがあってびっくり。早速見てみる事にしました。。番組は「落語特選会」。TBSのCSで、地上波でかつて放映された番組の再放送です。『能狂言』という落語の演目は ぬえの見まちがいじゃなくて。。やっぱりありました。

あらすじは「お国詰めになって江戸から戻った殿様が、江戸で見た能狂言がたいそう面白かったので、端午の節句の家臣で演じるよう申し付けた。能狂言を知らない家中の面々は断るわけにもいかず、誰か国の中で知る者がいれば教わろう、と「能狂言を知る者は申し出るように」という高札を出す。たまたま通りかかった江戸から来た旅回りの噺家が茶屋でこの高札を見て「こんなものも知らないのか」と話していると、役人に捕らえられて城内に連行されてしまう。能狂言を教えてくれ、と家臣一同に乞われた二人も、じつは一度見たきりでろくに知らない。そうこうしているうちに能舞台の普請も出来上がり、二人は困りながらも ごまかしで芝居の『忠臣蔵』の「五段目」を能狂言風に演じる事にする。囃子の笛や鼓・太鼓もない、と聞いて、家臣に音色の口まねをさせて、どうにかこうにか始めるのだが。。 というもの。

江戸で能狂言を見てきて、この日を楽しみにしていた殿様はすぐに看破したんじゃないかなあ、なんて余計な心配をしながら見ていましたが、どうやらここで言う「能狂言」とは、能ではなくて狂言の事のようです。最後はちゃんと(?)「やるまいぞ やるまいぞ」で終わりまする。

この放送で『能狂言』を演じたのは故・六代目三遊亭圓生、かの長寿番組「落語特選会」は劇作家の故・榎本滋民氏がマジ~メに落語の解説をするのが妙に面白い番組でしたが、この演目の解説では能舞台を図示していながら、シテ柱を「見付柱」と言ったり、一之松~三之松が橋掛りの上に生えていたり、と つっこみどころも少々。。惜しいっ!!


TBSのCSでは22日(日)と29日(日)の11:00~12:00にもこの演目の再放送がされるようですので、ご覧になれる環境の方は一見されてみては如何でしょう。

翁付き『賀茂』素働(その2)

2006-01-18 00:29:16 | 能楽
常のように『翁』を上演し終えると、囃子方はいったん床几を下りてクツロギます。すぐに小鼓のうち『翁』に限って登場していた「脇鼓」二人は橋掛りを通って幕へ引き、狂言方の後見は切戸へ引きます。シテ方の後見も面箱も持ってこれに続き、囃子方の後方に座っていた地謡は常の能の地謡座に座を移します。これによって囃子方と地謡は、服装は『翁』の時のまま烏帽子・素袍の姿ながら、常の能を上演する準備が整います。

やがて後見が『賀茂』の作物(矢立台)を正先に持ち出し、いよいよ『賀茂』の能が始まり、まずワキが登場するのですが、このワキの登場の演出も「翁付き」の場合は常とは異なります。脇能の場合は常は「真之次第(五段次第ともいう)」が笛・大小鼓によって奏されますが、「翁付き」の場合はまず小鼓だけが床几に掛け、笛と小鼓だけにより「礼脇」という特別の囃子が演奏されます。

まず笛が短い譜を吹き、それに続いて小鼓が短い手を打ち、これを交互に続けてから笛と小鼓が合奏するあたりにワキが幕を揚げて三之松に出、脇能に特有の袖さばきがあって、それから舞台に向かいます。ワキツレもそれに続きます。ワキは笛と鼓の譜を聞きながら、それが終わるところを見計らって舞台常座に止まり(ワキツレは橋掛りに控え)、袖をさばいて下に居、両手をついて正面に礼をします。ここで大鼓も打ち出し、常の「真之次第」の最後の部分、「早メ頭」と呼ばれる部分となり、ワキも立ち上がって、以下「真之次第」の型にて袖をさばき脇座の方へ行き、舞台に入ったワキツレと向き合って「清き水上尋ねてや」と「次第」の謡を謡い出します。地謡の「地取り」も脇能の通例の通り「三遍返シ」で謡います。

『翁』に引き続いて上演される「翁付き」の脇能では、『翁』には登場しなかったワキが舞台に登場する際に『翁』に準じて正面に拝をする、というのが「礼脇」の意義でしょう。このように笛と小鼓だけで演奏する、能の冒頭のワキの登に対して奏される囃子を総称して「音取置鼓」(ねとりおきつづみ)と呼び、「礼脇」のほかにもいろいろな種類があります。主に重い習いの曲の時に演奏され、『三輪』の「白式」などや老女物に奏される「鬘置鼓」(と楽屋では呼び慣わしていますが、笛方は「鬘の音取」と呼びます)、『朝長』「懺法」の「修羅置鼓」、観世流小鼓の場合に『道成寺』で必ず奏される「見掛けの置鼓」などがあります。

なお、脇能の中にはワキが「真之次第」で登場しない曲があります。観世流では『道明寺』がそれで、この曲は脇能でありながらワキは大臣ではなく僧ワキ、というとても特徴的な曲で、登場も「真之次第」ではなく、普通の「次第」となります。そのため「礼脇」の囃子も型もできません。それが理由、というよりはおそらく僧ワキで仏教を根底に据える この曲独特のテーマそのものが最大の原因でしょうが、『道明寺』は「翁付き」にはしません。

さて『賀茂』に話を戻して、「次第」「名宣」「道行」と常の能の通りに進行してワキ一同が座に着くと、シテの登場音楽である「真之一声」が奏されて、前シテと前ツレが橋掛りに登場します。

。。ここまで常の『賀茂』と異なる点が多い「翁付き」で、ぬえもその解説に紙幅を費やしてきたのですが、じつは前シテの登場から中入までは常の『賀茂』と比べて異なる点はまったくないのです。(ーー;) ときに小書のついた能でも、舞のほかは一切、小書がない場合と変わらない、という事もあるのですが、この『賀茂』の場合は、「素働」の小書によっても、「翁付き」という極端に正格な演式によってさえも、まったく前シテに変化が生じない、というのは面白い事です。

しかしながら今回は前シテ・前ツレとも唐織着流しの姿のところを、二人ともに右肩を脱いだ「脱ぎ下げ」という装束の着け方で登場し、中入は橋掛り幕際で正へヒラいて地謡のうちに幕に入り、ツレは地謡前の居座から立ち上がってそこで来序を踏んで中入していました。後者の演出はたしか師匠のご先代が戦後に工夫された型を踏襲されたものだと思いますが、前者、脱ぎ下げ、というのは少なくとも ぬえは知りませんので(楽屋でそのように着付けるよう後見に指示しておられるのを見てビックリしました)、おそらく師匠の工夫なのではないか、と思いますが。。(真偽は不明。。)

能楽のVTRについて

2006-01-16 11:52:43 | 能楽
コメントに能のビデオについてのご質問とご希望があり、それに関連して最近 能楽界でも著作権や肖像権について議論がなされていますので、記事として詳しく書いてみたいと思います。コメントにてのご指摘ありがとうございました~m(__)m

たしかに能のビデオは少ないですよね。能のビデオは、かつての名人の記録とか、能楽協会などが能の普及のために入門編として作ったものとか、たしかにとても少ないと思います。また ぬえなどの出演者にとっても、各公演の記録が気軽に見られれば勉強にも役に立つと思います。いまだに能楽堂で他の演者の催しを拝見に行きますが、スケジュールが合わなくて見逃す公演も多いですから。。

能のビデオなどが少ない理由。。これは単純に採算が取れないから、でしょう。。もっとも能楽師にとっても、自分の舞台の記録を公開するのはやっぱり勇気がいると思いますけれど。。

この話題から考える事なのですが、今は著作権や肖像権の問題があって、能のビデオや画像などの扱いは非常にデリケートになっています。著作権など法律の分野にはなかなか疎い能楽の世界ではありますが、最近 能楽協会でも指針を作りまして、演者が写っている画像(動画だけでなく)の使用は、能楽協会を通じて許可を得るシステムになり、能楽協会からその使用料が演者に分配される事になりました。

その背景には、これまでサイトや広告、そして書籍などに、出演者には無断で舞台や面・装束の写真を利用されてきた長~い歴史(?)があるのです。私たちはそれを発見しても「あれ~??」と思うばかりで何の対策も出来ずにいたのです(私なぞは、なかなかメディアで取り上げてもらう事がないので、かえって単純に嬉しかったり。。ね)。

考えてみれば「能楽手帳」には能楽師がすべて実名で住所や電話番号まで載っていたのですから、昨今の世の中では物騒きわまりない。。これもたしか昨年だか? から掲載されない事になったはずです。

偶然にも昨日、楽屋でお囃子方と著作物に載せる写真の話題になりましたが、お囃子方は能楽協会からすでに「著作権使用料」を頂いたりしている(ほんとに少額ですけどね)そうです。彼は「国立能楽堂のパンフレットが大きなウェイトを占めているのではないかなあ?」と言っていました。ははあ、確かにあのパンフレットは上演曲の写真が満載されていますね。

こんなわけで、自分たちの一門だけで上演できるお狂言では著作権や肖像権の問題は簡単にクリアできるので、ビデオも多く出回っていますが、囃子方など三役をお願いして上演する能の場合は、各演者に承諾を得て、多少の謝礼を出すのは、なかなか採算にも合わないし、それぞれの能楽師の会としてそこまで考える余裕もないのでしょう。

申し添えておけば、上記の能楽協会による能の画像や映像の使用許可などは、無断使用をふせぐ事が目的なので、一般からの画像などの使用は、申請すれば安価で利用できるように配慮されているそうです。どこかメディアで能のビデオのシリーズものを作る企画をしてくれないかなあ。

また、おっしゃる通り国立能楽堂では能楽堂の自主公演の場合は録画を残して図書室で公開していますが、あれは出演する際に、その承諾が前提となっています。。それでも、たとえば重大なミスがあった場合など、主要な出演者から「記録に残さないでくれ!」と要請があれば公開されない、と聞いた事があります。

話題はそれますが、師匠が上演した『関寺小町』がNHKで放映されましたが、この公演を知ったNHKから主催者(この場合はお囃子方でした)に事前に収録・放映の依頼がありました。主催者と師匠は出演者のみなさんと何度も相談して、また能楽界の中にも意見を聞いて、ずいぶん悩んだ末に承諾されたようです。これは著作権うんぬん、の問題ではなくて、秘曲中の秘曲とされる『関寺小町』を記録にして公開する事に対する、能楽師としての倫理的な抵抗があったからでしょう。

師匠は「引き受ける事にしたんだけれど。。これほどの大曲を、しかもお囃子方から頼まれて出演する舞台で、その上テレビで放送まで。。その責任はあまりに重大で、これは誰にも、主催者にも言わなかったんだけれど、失敗したら舞台から引退するつもりだった」とおっしゃっておられました。。

この『関寺小町』放映についての経緯について詳しくは師家で発行している月刊機関誌『橘香』(きっこう)にインタビューとして掲載されていますので、興味がおありになればご覧ください。。(インタビュアーは じつは ぬえだったりします。。)

翁付き『賀茂』素働

2006-01-15 00:51:17 | 能楽
珍しい 『翁』付き『賀茂』素働・御田という曲目が上演され、かつ ぬえもその一役を頂きましたので、せっかくの機会ですので、少し詳しく上演の流れを書き留めておきます。

どうしても概念的な説明から始まらなければならないのですが。。

まず、「翁付き」というのは、『翁』の上演にすぐさま引き続いて脇能を上演し、さらに脇狂言までも続いて上演する演式の事を言います。古来「五番立て」と言って、一日に五番の能を演じ、それぞれの能の間に狂言を挟み込む(つまり狂言は四番)のが正式の上演形態なのですが、その場合はさらに上演の冒頭に『翁』を演じ、脇能・脇狂言までを一気に上演するのが本式なのです。今では「五番立て」の演式は時間的にも無理なので上演の機会はありませんが、それでも能楽協会の主催になる式能や、時折 能楽師個人がご自分の体力の限界に挑戦するような「独演五番能」という催しが「五番立て」を意識した、これに近い上演形式で演じられていますね。それでも、どちらの場合も「翁付き」ではなく、脇能~切能までの五番(とそれに付随して狂言)が演じられています。

さらに言えば、正式の「五番立て」とは、最後に演じられる切能のあとに、もう一度脇能の半能をつけ加えるのです。これを「祝言能」と呼んでいますが、切能は『土蜘蛛』や『紅葉狩』のように、たいがい血なまぐさい結末になる能が多いので、それではせっかく めでたく『翁』から始められた一日の終わりとして如何なものか。。という配慮がされたのでしょうね。短くした脇能を最後に付け加える事で、千秋万歳、めでたく一日の催しを締めくくる事になるのです。

この「祝言能」として、『高砂』などめでたい脇能を半能として上演する場合は、本式の脇能として上演するわけではないので、少し略式な演出になります。いま『高砂』や『養老』など脇能には(少なくとも観世流では)「祝言之式」という小書がありますが、これはまさしく「祝言能」として演じる場合の演式で、もちろん半能であるばかりか、シテやワキの装束、舞の寸法にいたるまで、少し脇能として上演する場合とは違いがありますし、当然ながら現在のように二番~三番程度の能が上演される番組の中にあっても、必ずその日の最後の演目に据えられます。

また、長い歴史の中で「祝言能」として固定化されてしまった曲もあります。『猩々』は本来前場があった曲なのに古くから前場が省略されている曲で、これは「祝言能」として上演するのに都合が良かったので、いつの間にかその形で固定されたようです。最近前場を復活した催しがありましたが、現在の半能の形では意味が通じなかった戯曲構成が明らかになりました。また観世流の『金札』は常に半能ですが、他流では前場があって、むろん観世流はそれを短縮した形です。この二つの曲は今では必ず番組の最後に上演されますが、切能、と言うよりは、やはりむしろ祝言能として上演されている、と考えるべきでしょう。

。。むしろ、この「祝言能」の形式を今に伝えるのは「付祝言」でしょうね。これは正月の初会や特別な催し~別会や披露能など~で、殺伐とした切能で催しが終わる番組が組まれた場合に、その切能が終わって地謡が退場する間際に『高砂』や『猩々』などのめでたい能の一節を謡ってから退場するのです。

。。なんだか「翁付き」の解説から脱線しました。。
本当に解説するのは難しい演式についてですが、次回に続きます。。

『賀茂』素働

2006-01-12 23:36:13 | 能楽
えー本日、ようやく研能会初会当日の模様を記録したDVDが届きました。

相変わらずですけれども、やっぱり自分の記録を見るのはイヤですね~
でも見なければ次の舞台につながらないので、必ず見るようにしていますけれども。。

んでまた、録画というのは不思議なもので、真実ってのは写っていませんな。「良くなかった」と自分で思ったところは、よほどひどくなければ「まあまあ」と写る。そして「ここは良くできた」と思ったところは、やはりオブラートが掛かったように、あまり精彩なく写る。。要するに平均化されてしまう、と思いますね。

先日も書いた「天女」の少ミスは、録画ではほとんどわかりませんでしたし、逆に「千歳」は、予想に反してキビキビした舞に少しも見えない、という印象を持ちました。

実際の舞台の記録はあらためてアップしようと思います。
とりあえずDVDを入手した、というご報告まで。

連作のコメントをツリー表示にしたいのですが、ブログにはその機能はないようです。。
ちょっと読みづらいかも、ですがお許しください~