ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

三位一体の舞…『杜若』(その12)

2024-06-08 12:31:03 | 能楽
さてこれまで長々と能「杜若」を読み解いて参りましたけれども、やはり業平が菩薩の分身であり、「伊勢物語」はその菩薩が衆生済度のため仏縁を結ぶ物語であり、この能はその菩薩がいまや成仏を遂げた杜若の精となり高子ともなり、この三者が再び舞台の上に降臨して観客=衆生に寿福を授ける能だ、という解釈は、この能が作られた中世では成り立つけれども現代においてはこれを観客に訴えかけるのは少々難しいのではないかと思います。いわばこのブログでの考察は作者の意図や当時の享受について考えてきたに留まるわけで、業平が菩薩だ、という主張が率直には受け入れがたい現代人の感覚からすればこれは荒唐無稽と感じられることでしょう。

そのうえ我々舞台人というものは主張があってもそれはすべて舞台で完結していなければいけないのです。舞台を離れてこのような作者の意図やこの能が作られた時代背景を説明してしまうことは、「そのように私の舞台を見てほしい」と観客に鑑賞の方法を強要することであり、それは舞台人として決してあってはならないことです。

とすればこのブログは矛盾に満ちているわけですが、ぬえの思いは別のところにあります。ぬえは能「杜若」限らずに能を演じるにあたり、演者の責任として作者の意図や時代背景を調査しておく必要があると考えていまして、いわばこのブログは自分のための作品の読み込みの手段です。これらを行ったうえで、さて、それでは今回はどのように演じるべきか、を考えることになります。

ですからこのブログの読者の方々にも、こういう背景がこの能にあるんだ、とご理解頂く程度にとどめて頂き、さてそれではこのブログを読んでいない(おそらく大多数の)観客に納得させるように、どのように ぬえ君は舞うつもりなのかな? とご期待頂きたいと思います。

結論を先に言えば、何度も言いますように作者の意図はどうであれ、この能を菩薩の衆生済度の物語、とお客さまが感じるのは現代では不可能でしょう。だとすれば別の切り口でこの能に対峙するべきで、今回 ぬえは、この哲学的な能は、現代においてはメルヘンに帰するべきだと考えています。

。。ずいぶん安っぽくなったように感じられるかもしれませんが、やはりこの能は、哲学的な命題が根底にあるとはいえ、現代では歌に詠まれたことで業平に恋をしたお花の精の物語である方が受け入れやすいのだと思います。能の最後で杜若の精は成仏を果たすと謡われ、シテもユウケンの型でこれを表現しています。花の精の純粋な恋の心が昇華してついに悟りの境地に至ったのだ、と考えれば、純白の世界に生まれ変わるシテの神々しい姿も納得できると思われますし、「業平は極楽の歌舞の菩薩の化現なれば」というシテの文句に疑問を持ってしまったお客さまも、この最後の場面でのシテが昇華する姿と重ね合わせるとき、中世的な空気を感じながらひとつの解決を見ることができるかもしれません。

じつは ぬえには同じように作者の意図が現代ではなかなか理解できない能に遭遇したことがありまして、今回の「杜若」ではその経験が大変役に立ちました。その能とは「源氏供養」でして、いま大河ドラマで放映している紫式部がシテなのです。ところが「源氏供養」ではその主人公の紫式部は死後地獄に落ちていまして。。それでワキの僧に救いを求めて現れる、というのがその物語です。なぜ紫式部が地獄に堕ちているのか、も問題ですが、それより大きな問題は、後シテ。。すなわち紫式部の霊が烏帽子をかぶって登場することなのです。

これには ぬえも大いに悩みまして、当時いろいろ調べてみたところ、やはり今回の「杜若」と同様に末法思想が大きくこの能に影を落とし、また一方、そんな地獄で苦しむ紫式部に能「源氏供養」の作者は大きな共感を持っているのだと考え至りました。この能は紫式部へのオマージュとして作られ、おそらく彼女に捧げる気持ちも作者にあったのではないかと ぬえは考えています。長くなるので詳細は割愛しますが、「源氏供養」のシテが烏帽子をかぶる理由はこのような作者の思いからだと考え至りました。が。。これをお客さまに理解頂くのは長い説明を必要とする。。それは前述のようにお客さまに能の見方を強要することになる。。このときも こう考えて、作者の意図はどうあれ、烏帽子を着たシテを見たお客さまの違和感をどうやって払拭できるか、と考えたのでした。

「源氏供養」はメルヘンにはならないけれども、「杜若」はお花の精の恋物語であって、純粋な恋の心が彼女を純白の清浄な世界に生まれ変わらせる、という見方ができそうです。

(この項 了)

三位一体の舞…『杜若』(その11)

2024-06-07 01:26:09 | 能楽
序之舞が終わるとシテが「ワカ」と呼ばれる小段を謡います。地謡がこれに続けて謡うのですが、この地謡と合わせると言葉通り和歌と同じ文字数になりますね。

シテ「植ゑ置きし。昔の宿のかきつばた。
地謡「色ばかりこそ昔なりけれ。色ばかりこそ昔なりけれ。色ばかりこそ。


物着のあとのシテの言葉の中に見える「玉雲集」の歌がここに現れます。そのときは「女の杜若になりし謂れの言葉」だとして引かれた歌ですが、このワカではそれを踏まえつつ、別の意味で謡われていると思います。もとの歌は昔の恋人に贈った歌ですが、ここでは昔を懐かしむ思いで、シテが藤原高子の立場と考えれば恋人の業平との逢瀬を懐かしむのであろうし、杜若の精の立場とすれば業平の歌に詠まれた思い出、ということになるでしょうか。いずれにせよこれらは女性の立場(杜若の精も女性と考えれば、ですが)から業平への思慕なのですが、すでにこの能では業平は菩薩の分身であって恋も衆生を仏の道へ導く方便だった、と語られているわけですから、これは単純に恋人との楽しい時間を思い返した、と読むわけにはいきません。

「昔なりけれ」と言うように、いまワキ僧に物語をしている「伊勢物語」の恋のお話はすべて過去のもの。藤原高子も、歌に詠まれた杜若もすでにこの世にはいないはずで、そうなれば業平菩薩の功徳によって彼女たちは極楽世界に再誕したと思われます。つまり衆生である高子や杜若の精は業平との邂逅によって仏果を得たのであって、その端緒となる業平との出会いを仏縁のはじめとして思い返しているのでしょう。

ここでようやく能「杜若」のシテが一体誰なのか、ということが明白になってくるように ぬえには思えます。これはすでに前述したのですが、ぬえは「杜若」のシテは業平を中心に、高子、杜若の精の三者がひとつの身体に共存している姿と捉えています。すでに他界し極楽浄土に再誕した女性たちは業平菩薩の脇侍のように彼に付き従って、菩薩がいま再び衆生を救済しようとして舞台に登場したのに一心同体のように従っているのであって、身にまとっている冠や唐衣をシテは「形見」とはっきりと述べているにも関わらず、それは三人が共存している姿なのだ、と ぬえは読んでいます。

この舞台での衆生救済、ということについても、戯曲上はワキ僧を救おうとしているようにも見えるけれども、実際にはワキを代表としながらそれを通して衆生全体が救済の目標であろうし、作者はこの能を見ている観客を想定してこの能を書いていて、むしろこの能を見に来た観客を救済。。というか観客に寿福を与えるのがこの能が作られた目的なのだと ぬえは確信しています。

シテ「むかし男の名を留めて。花橘の。匂ひうつる。菖蒲の鬘の。
地謡「色はいづれ。似たりや似たり。杜若花菖蒲。梢に鳴くは。
シテ「蝉の唐衣の。


もうひとつこの能で思うことは、三人の物語であるはずなのに藤原高子の影がどうも薄いように思えますね。でもまあ、歌を通して業平が心を通わせた高子も業平菩薩から見れば杜若の精と同じ衆生の立場であるし、それが極楽往生したのであれば身分の違いも人間や植物という違いもすでに消滅していて同じ仏弟子であるはず。この能の舞台は都ではなく三河国なのだし、いまや一心同体のような存在となった二人を杜若の精が代表している、と考えるほかないかも。

「蝉の唐衣の」というところで珍しい型があります。扇を持ったまま右手で長絹の左袖を引っ張る型。。似た型は「高砂」にもありますが、かなり珍しい型です。袖を見る型なのですが、「蝉の抜け殻」と自分が着ている唐衣を同一視する、というような意味で、ちょっとわかりにくいかもしれませんが、じつはここは重要な型だと ぬえは考えています。唐衣はいわば高子の人間界での衣裳なのであって、東下りをして遠く隔たっている業平との接点でもあります。しかしながらこれを「抜け殻」と見るとき、人間界からの決別を意味するのであって、今や業平との思い出さえ昔の話となり、菩薩に従う自分の身には必要のないものなのです。

そう読めば、次に来る能「杜若」の最後の詞章は意味が深くなります。

地謡「袖白妙の卯の花の雪の。夜も白々と明くる東雲の。浅紫の杜若の花も悟りの心開けて。すはや今こそ草木国土。すはや今こそ草木国土。悉皆成仏の御法を得てこそ。失せにけれ。

高子と同じように今や杜若も「悟りの心開けて」極楽世界の住人となり、シテもこのとき扇を胸の前から頭上にまでゆっくりと引き上げる「ユウケン」という型をします。「心が晴れやかになる」という意味を込めるのですが、扇を上げるときにシテの顔が短時間隠れるとき、シテは往生を遂げた純粋無垢な存在へと変身した、と ぬえは考えています。

仕舞でもよく演じられるこの部分なので「ユウケン」の意味は以前からこのように ぬえは捉えていましたが、今回「杜若」の本文をよく読むと意外な発見がありました。。この部分でシテの色が変わっているのですよね。

「袖白妙」「卯の花」「雪」。。すべて白一色で、純白のイメージといってよいでしょう。さらには「夜も白々」。これも白。。そして極めつけが「浅紫の杜若の花も悟りの心開けて」です。

何気なく本文を読み、またこれまで何十年も自然に謡っていましたが、考えてみるとシテは最初の登場の場面でこう言っているのです。

さすがにこの杜若は。名におふ花の名所なれば。色も一しほ濃紫の。。

紫色の杜若が、この八橋ではさらに「濃紫」なのだ、と誇らしげに言うシテ。それは名所の杜若だから、とうだけではなくて業平に歌に詠まれた、という自負でもあろうし、あとで明かされるように仏縁によって成仏できた花だから、という意味もあるでしょう。

ところが能の終盤に至ってその杜若の色は「濃紫」から「薄紫」に色が変わっているのです。

「薄紫」は「薄い紫色」ではなくて、「白妙」「卯の花」「雪」、そして夜明けと溶け込んだ、つまり純白、と読むべきでしょう。今や舞台全体が白一色になってしまった。それは清浄な仏の世界が舞台に現出した象徴なのでしょう。ぬえはこれに気づいて今回の上演での装束の色の取り合わせを決定することができました。いや、白にしたのではありません。むしろ ぬえ自身が所蔵し、また「業平菱」という業平にゆかりの文様が織り出された白い長絹を使うつもりだったのをあえて封印したのです。✌

矛盾に聞こえる、と思われるでしょうが、それには ぬえがこの難解な仏教世界が投影された能「杜若」をどうやったら現代人の前で違和感なく上演できるか、について、この半年ばかりずっと悩んできた経緯があるのです。結局その方法についてひとつの結論には至ったのですが、この発見はその結論を強く補強するものだったのです。    (続く)

三位一体の舞…『杜若』(その10)

2024-06-04 00:39:22 | 能楽
一方、動かなければよいという訳でもなくて、それが「杜若」のような例なのです。

本性の化身である前シテであるならばワキに問われるままに昔の物語をするために着座して居グセにすることができますが、後シテや「杜若」のように本性を現わしてワキの前に立った場合、それは僧ワキに懺悔なりの物語をするのであって、そこで改めて着座してじっくり語るのは舞台の進行上は不自然でもあり、また戯曲の後半に至ってまで動作を伴わないのは不利であるなどの理由もあって、いわゆる仕方語りのように動作を交えて物語をすることになろうかと思います。

情緒的な曲でシテの心理や感情などを描く能。。「杜若」のクセではそれらからは少し離れて「伊勢物語」の展開や、そこには菩薩の衆生済度の目的があるのだ、という哲学的な内容なわけですが、こうした能では具体的なシテの動作が伴いにくく、抽象的な型でそれを補うことに傾きます。

それに加えてクセは前述のように曲舞という能とは別の芸能を取り込んだ章段であるためか、独特の「約束事」に則って型が組み立てられているのです。いわく最初は扇を閉じて舞い出し、地謡も前半部では主に低音で謡い、クセの途中では「上羽」と呼ばれる部分があって、ここではシテがうって変わって高音で短く1句か2句を謡い、続く地謡もこれをきっかけに煌びやかな高音を中心にして謡う、その「上羽」の直前にシテは左右打込というこれも定型の型を行って扇を広げそれを前に立て、さて「上羽」を謡いながら上扇という扇を頭上に上げる型をする、さらにはその後には必ず大左右と型を続けて正先まで出ながら打込の型をする。。ここまでシテが行うべき型が決められているとなると、クセは物語のストーリーに即して演じているとは言えない部分もあると思います。

考えてみれば能はそれ自体、いわゆる演劇の一種ではあろうと思いますが、同時にある種の儀式のような一面も持っていると言えると思います。能の終曲部分では必ずシテはシテ柱の前で右ウケして二足詰め、広袖の装束を着ていれば左袖を返して「留め拍子」を踏んで終わるのです(若干の例外はあり)。「羽衣」であれば地謡は「霞に紛れて失せにけり」と、シテ天女が富士山の上空の春霞の向こうに姿を消した、と言っているのにシテはやはり音を立てて拍子を踏んで終曲するのです。能の終わりにはシテは戯曲を離れて儀式として曲を終わらせると考えられるわけで、能の特長と言えると思います。

こうした、演劇と儀式が同時に共存する能の様式のためか、能の動作もあえて抽象的に作られているように思います。ひとつの動作に意味を込めることもできるし抽象的な身体動作にすることもできる、とも言えるし、逆に抽象的な動作にシテの工夫で意味を込める(あるいは込めない)のでもあり、そこがシテの工夫のしどころであり責任でもある、という。。

ですので、お客さまとしても能の演技ひとつひとつに意味を求めるのはあまり意味がないことがあります。シテとしても抽象的に舞うところと具体的な意味を込める動作は明確に意識していて、前者ではできるだけ突出した動作として印象づけないように舞い、後者ではその逆でお客さまに印象的に見えるように気を付けています。自分でここまで書いてきて、やはり能は特殊な芸能だと思います。

然るにこの物語。その品多き事ながら。とりわきこの八橋や。三河の水の底ひなく。契りし人々の数々に。名をかへ品をかへて。人待つ女物病み玉簾の。光も乱れて飛ぶ蛍の。雲の上までいぬべくは。秋風吹くと。仮にあらはれ衆生済度の我ぞとは知るや否や世の人の。

さて本文に戻って、この辺りからクセの後半になります。意味は「伊勢物語」に描かれた挿話は多いけれども八橋の水のように深く果てがなく、業平が契った女性というのも名前も身分も様々である。「人待つ女」(「伊勢物語」十七段もしくは二十三段)、「物病み(の女)」(四十五段)、「玉簾(の女)」(六十四段)などが登場しているが「ゆく蛍 雲の上までいぬべくは 秋風吹くと雁に告げ越せ」(四十五段)の歌のように雲の上からかえって仮の姿として衆生済度を目的としてこの世に現れた私とは世の人は知っているか知らないであろうか。ここでは「光も乱れて飛ぶ蛍」と正先まで出て上を見回し、さらに「雲の上までいぬべくは」と左袖を返して扇を右に広げて空を見上げる「雲ノ扇」という、割と派手な型が連続するところです。

シテ「暗きに行かぬ有明の。
地謡「光普き月やあらぬ。春や昔の春ならぬ我が身ひとつは。もとの身にして。本覚真如の身を分け陰陽の神といはれしも。たゞ業平の事ぞかし。かやうに申す物語疑はせ給ふな旅人遥々来ぬる唐衣。着つゝや舞をかなづらん。


二度目の上羽からクセの終わりまで。意味は「知るや君 我に馴れぬる世の人の 暗きに行かぬ 便りありとは」(注釈書に見える歌)と詠んだように衆生が暗黒世界に迷い行かないように有明の月のように照らすのだ。「月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして」(四段)とも詠んだが、かえって私は悟りや真実を体現する菩薩の身の分身として人間の姿となり、男女の仲の神と言われたのもこの業平なのだ。このように申すことをお疑いなさるな旅人よ。そうやって極楽世界から遥々とやって来た身で唐衣を着てこのように舞を奏するのである。という感じ。こうやって読むとクセの前半では「伊勢物語」の「東下り」の行程を並べ、後半部分ではそうした旅や都での女性との恋の物語もすべて菩薩の分身としての業平が衆生を救済するためのことなのだ、と説き聞かせる、とはっきりと書き分けられていますね。

二つ目の上羽のあとは「本覚真如の身を分け」と扇を左手に取って両腕を左右に広げて分身となったことを表し、「かやうに申す物語疑はせ給ふな旅人」とシテ柱からワキに向かってハネ扇、さらに右に小さく廻りながら扇を右手に逆手に持ち替えてワキに念をおすように決める、と意味のある型が続きます。

クセの終わりに太鼓が打ち出して位がぐっと静まり「序之舞」の位に変わってゆきます。

シテ「花前に蝶舞ふ。紛々なる雪。
地謡「柳上に鶯飛ぶ片々たる金。 【序之舞】


「花の前に飛び交う白い小さな蝶の一群が雪のように散り乱れる」「柳の上に飛ぶ鶯が陽を浴びて金色に輝く」。。出典は未調査ですが蝶も鶯も一匹・一羽ではないように思えますね。ぬえはここからシテは業平から杜若に立場が変わったと考えていて、そこにはひと本の杜若だけでなく群生したイメージが微妙に盛り込まれているのかもしれません。なお「鶯」は「蛍」の書き写し間違いの可能性があるんじゃないか、とも思っていますが。。これはあまり自信なし。

「序之舞」は草木の精がシテの場合には太鼓が入るのが原則で、大小序之舞より少々軽やかになります。ほかに「六浦」「藤」などに例がありますが、「芭蕉」は曲柄が渋い能なので太鼓は入らず大小序之舞、「半蔀」はシテが夕顔の花の精のようでもあり夕顔上の霊のようでもあってやはり大小序之舞です。

太鼓序之舞がやや軽やか、といってもやはり7~8分はかかる舞なので、お客さまにはやはり集中し続けるのは難しいかもしれませんね。

今回は初めて能をご覧になるお客さまもいらっしゃいますので簡単に鑑賞のコツをお知らせしますと。。

①序之舞は最初に短い足遣いがあって、舞が始まると全体は四部構成。
②扇を閉じて最初の小段【掛リ】を舞いはじめ、その扇を広げたところで二番目の小段【初段】になる。
③今度は角でその扇を左手に持ったところで三番目の小段【二段】になる。
④【二段】が一番長い小段。正先で扇を右手に逆手に持ったところで最後の小段【三段】になる。
⑤【三段】は短く、最後はシテ柱で扇を広げて前に立てたところでシテが「ワカ」を謡い出して序之舞が終わる。    (続く)

三位一体の舞…『杜若』(その9)

2024-06-01 12:30:28 | 能楽
地謡「然れども世の中の。一度は栄え。一度は。衰ふる理の誠なりける身のゆくへ。住み所求むとて。東の方に行く雲の。伊勢や尾張の海面に立つ波を見て。いとどしく過ぎにし方の恋しきに。羨ましくも。かへる浪かなとうち詠めゆけば信濃なる。浅間の嶽なれや。くゆる煙の夕景色。
シテ「さてこそ信濃なる。浅間の嶽に立つ煙。
地謡「遠近人の。見やはとがめぬと口ずさみなほ遙々の旅衣三河の国に着きしかば。


クセは長大でシテが謡う「上羽」が二カ所ある二段グセ。序破急の原則により最初は静かに謡い出す地謡も次第に速度を上げ、最後はかなり急調になります。そのあとに序之舞になるのはほかに「二人静」「千手」に例がありますが、急調の謡からグッと位を静めて序之舞の位に持ち込むのは難しいところです。もっともこの三曲のうち太鼓が入るのは「杜若」だけで、太鼓序之舞に特有のコイ合一クサリを聞いてからシテが謡い出す一種の場面転換のような間があるし、そもそも太鼓序之舞は大小のそれよりやや位が軽くなるので、いくぶんやりやすいかも。

この「クセ」の最初の方の文言は、「伊勢物語」の中のいわゆる「東下り」と呼ばれる第七段~十五段にまで連なる一群の章段が語られ、三河国八橋の杜若の物語がある九段も当然そこに含まれ、都を離れた「昔男」が三河に到着するまでの足跡を綴ったものです。

「伊勢物語」で「昔男」がなぜ「東下り」をしたのかは古来議論があるところで、「東下り」の直前の第六段が「鬼一口」で有名な、業平が藤原高子を盗み出して芥川を渡り、雷や雨を避けてあばら屋の蔵に女を隠し置いたところ女が鬼に食われた、という章段であるために、恋人を失った男が失意のあまりに都を去った、と一般には読まれています。

しかしながらこの第六段では盗み出した女を隠したところ鬼に食われたという本文に続けて、あたかもその注釈のように「これは二条の后の。。」と女が高子であり、鬼に食い殺されたというのは高子の兄、藤原国経・基経の二人が逃避行の後を追って高子を取り返したのだ、と書かれているのですが、これは現在ではこの部分は後補であろうと考えられています。このことはは「伊勢物語」についての根源的な謎。。作者は誰なのか、「昔男」とは本当に業平のことなのか、という疑問への回答と密接に結び付いていますね。

能「杜若」は九段の主人公が業平である(そしてその本性は菩薩である)ことを前提に書かれているから、このブログで「伊勢物語」の作者論や主人公の同定などはあまり意味をなさないのですけれども、ちょっと気になる論考を見たので少々そのご紹介をさせて頂きます。

古来「伊勢物語」の作者については、業平自身にそれを見る説や三十六歌仙の伊勢が作者でありその名前が作品名になったという説などがあります(一方 六十九段に描かれる伊勢斎宮との逢瀬が原拠となっているという説もあり)。

また一方、業平が主人公とした場合も官職を持った人物が政務を放棄して「東下り」をするということがあり得るのか、いや、高子を盗み出したために官職を止められたためにそうなったのだろう、とも議論されてきました。

さらに別の意見では、業平は一般的な見方による醜聞により出世コースからはみでた人物像とは違って、実際には官職についてはそれほど不遇ではなかった、とも言われ、それは能「松風」に描かれる兄・行平ともまた同様である、とのこと。

混迷を極める問題ですが、ぬえは、ここで国文学研究者の片桐洋一氏の説に注目しました。いわく「伊勢物語の作者は業平自身で、そこに書かれた話は事実ではないが、自身の女性との経験を脚色し、殿上人との会話の中で育っていったものであろう(大意)」。

「伊勢物語」の作者が業平自身、という説があるのは知っていましたが、文学的には素人である業平が物語を書く、という考え方自体に ぬえは疑問を持っていました。が、貫之が「土佐日記」を著した例もあるのだし、平安初期の人物像は 私たちの常識では計り知れないものです。もう証拠も見つかる可能性が低い現在では、なるほど、こういう考え方も可能性としてはあるかも。

さて能に戻って、「東下り」の原因は能の作者にとっても難しかったのか、「杜若」では業平の栄光に満ちた元服に続けて「然れども世の中の。一度は栄え。一度は。衰ふる理の誠なりける身のゆくへ。住み所求むとて。東の方に行く。。」と、理由は示さないものの生死流転の仏教的な無常観によって主人公は都をさ迷い出たように描かれます。

「いとどしく。。」は「伊勢物語」七段で伊勢と尾張の境で都を懐かしんだ歌、「信濃なる 浅間の嶽なれや」は八段の歌。「伊勢物語」では続く九段が八橋の唐衣の歌なのだから、「伊勢物語」に沿って業平が都落ちをするその経緯を順に紹介して、さて三河に到着した、となるわけです。

こゝぞ名にある八橋の。沢辺に匂ふ杜若。花紫のゆかりなれば。妻しあるやと思ひぞ出づる都人。

ここまでの所、型としてはクリからサシにかけて不動で、サシの終わりにユウケン扇をし、「衰ふる理の」と足拍子をひとつ踏んでからようやく動き出しますが、型はサシ込ヒラキ、角トリ、中に戻って再びサシ込ヒラキ、打込、上扇、大左右。。と定型の型が続きます。サシの終わりのユウケンは「羽衣」にもありますがここでこの型をするのはどちらかといえば珍しい型で、「羽衣」と「杜若」を比べてみれば続くクセの内容がめでたい曲で行われる傾向があるようです。

また「伊勢や尾張の海面に立つ波を見て」とサシ廻シをして海の波を見るのと「浅間の嶽なれや」とヒラキながら正面の上を見上げるのが具体的に意味を持った型といえるでしょう。

ぬえは思うのですが、「杜若」を含む詩的で情緒的な能。。鬘能の多くは、このように意味を持たない型が連続して、ところどころに意味がある型が散りばめられている程度という印象があります。これはある意味もっともなことで、喜びや悲しみ、また懐かしい思い出の追憶などシテの感情が地謡によって語られるとき、シテは具体的な型をすることは難しいと思います。むしろそこから能の作者が生み出した究極の演技が「動かない」ことなのであって、その意味ではシテが座ったきり動かない居グセは最大の効果を狙って成功した偉大な発明と ぬえは考えます。

たとえばシテが生前に受けた苦しみを八人の男性の地謡が力を込めて表現する場合、その一方シテは動かない。。これはただ座っているのではなくて、地謡の謡う内容を表現しているのであって、地謡と心を合わせて「力を込めて」座っているのです。そうすると木彫の能面が表情を変えることはないはずなのに、地謡が謡うシテのつらい経験を反芻して、心は後悔や憎しみに燃え上がりながらもじっと耐えているように見えるのですよね。こうすることによって観客がシテ自身の気持ちに同調してまるでシテ本人になりきって同じ苦しみを共有することができる。。動かない演技、心の中での演技がお客さまに伝わることは ぬえも何度も経験しているところです。現代のスピード社会の中ではなかなかそこまでお客さまの理解は得られにくいとは思いますが。。                         (続く)

三位一体の舞…『杜若』(その8)

2024-05-29 17:13:36 | 能楽
イロエが終わって大小前にて正面を向いたシテは「クリ」「サシ」の間は動かずに、もっぱら地謡がそのシテのが語る物語を代弁する場面です。

【クリ】シテ「そもそもこの物語はいかなる人の何事によつて。
地謡「思ひの露の信夫山。忍びて通ふ道芝の。始めもなく終りもなし。

【サシ】シテ「昔男初冠して奈良の京。春日の里に知るよしして狩に往にけり。
地謡「仁明天皇の御宇かとよ。いともかしこき勅をうけて。大内山の春霞。立つや弥生の初めつかた。春日の祭の勅使として透額の冠を許さる。
シテ「君の恵みの深き故。
地謡「殿上にての元服の事。当時その例稀なる故に。初冠とは申すとかや。


総じて能では「クリ」でかなり大きな、それこそ神話とか社会、世相といったより大きな世界観のようなものを描き、「サシ」でその世界の中でシテ個人がかかわるべき事情とか前提条件のようなことが語られ、さらにその後に続く「クセ」で、さてシテがどう考えたか、とかどんな行動をした、とか、より個人的な話に繋げる、という手法がよく使われます。

たとえば能「羽衣」でも「クリ」では大空について語られ、中でも和歌で空という語を導く枕詞「久方の」についてイザナギ・イザナミの神話世界にまで言及します。ついで「サシ」ではすこし範囲が狭まって、シテ天女が住むという月世界の「月宮殿」での彼女の役割。。月の満ち欠けを司っている、という魅惑的なお話。。になり、さて「クセ」になってシテ天女は「この三保松原の素晴らしい景色はその月世界にも劣ることがない」と言って舞い出す。。ぬえはこの「羽衣」の「クリ」「サシ」「クセ」の構成を読むと、いつも作者は上手だなあ、と思います。単純にシテが三保松原の景観を愛でて舞うのではなく、その前にこれほど言葉を費やすことによってシテの神性が印象づけられますし、大きな世界観からだんだんシテという一個人にまでクローズアップし、そのシテに焦点が当たった瞬間にシテがようやく舞い出すことによって、それまで高められた観客の期待感がシテに集中されることを助ける。そしてこのクセの中ではやがて空からは花が降り下りくだる奇跡が語られ、それを見たシテが勢至菩薩に静かに合掌して、やがて静かに序之舞を舞い始める。。

「杜若」のクリは「羽衣」ほど壮大な物語ではないけれども、やはり「伊勢物語」全体を語るところから始まります。ここに出てくる「信夫山」は福島市にある低山ですが、むしろその音の響きが「恋」を連想させることから古来歌枕として盛んに和歌に取り込まれてきました。ここでも「伊勢物語」が多くの恋の物語が雑然と並べられ、誰が何の目的で書いたのかも、始めも終わりもわからないような謎多き書物、と言います。が、もちろんこれはその後のサシ~クセで、そういった一般的な「伊勢物語」理解が正しくないことが語られる伏線ですね。

サシの冒頭「昔男初冠して奈良の京。。」は言わずと知れた「伊勢物語」の第1段の書き出しです。業平が元服してはじめて冠をかぶったお話なのですが、ご存じの通りこの第1段では狩に行った旧都・奈良でさっそく「いとなまめきたる女はらから(=姉妹)」を見染めて歌を贈りました、というお話。

ところが「杜若」ではその「女はらから」に話題が及ぶことはなく、初冠の経緯が語られます。もちろん「杜若」では業平の恋の相手として藤原高子に焦点を当てているため、他の女性を登場させることによって物語が混乱するのを避けたのでしょう。

さらに特筆すべきはこの「仁明天皇の御宇かとよ。いともかしこき勅をうけて。大内山の春霞。立つや弥生の初めつかた。春日の祭の勅使として透額の冠を許さる。君の恵みの深き故。殿上にての元服の事。当時その例稀なる故に。初冠とは申すとかや。」というサシの後半の文章が「伊勢物語」には見えない、という点です。

じつはこの部分は、前述の「伊勢物語」の注釈書に描かれるお話なのです。このことからも能「杜若」が「伊勢物語」そのものを戯曲化した能ではなく、中世の人々の視点によって書かれた能だということがわかります。

少々長いですが注釈書の当該の部分をご紹介すると。。

「業平は十一より東寺の真雅僧正の弟子にて有けるを十六の年承和十四年三月二日に仁明天皇の内裏にて元服する也。わらは名曼荼羅也。秘事也。此時業平は五位無官にて唯左近太夫といふ也。奈良の京春日の里に知よししてかりにゐにけりとは承和十四年二月三日の祭の勅使に行也。此使は必五位の検非違使の見目よく代にきら有人のする也。其頃此可然人なかりければ、俄に二日業平元服をさせて、三日勅使に立つる也。是は親王の子にてましませば、五位検非違使使すべきにあらね共、容顔に付てかりにし給ふ職なるがゆへに、知よししてかりにゐにけりといふ也。」(伊勢物語抄より要約)

ここに書かれた初冠の由緒が史実かどうかは調べられませんでしたが、先に挙げたような「伊勢物語」を仏説と結び付けた注釈書もあるのですが、案外このように時代考証や人物の系譜などの知識を読者に与えて、理解の便宜の目的で作られた注釈書も多く存在します。「伊勢物語」の注釈書はおびただしい種類があり、同じ系統でも異本がこれまた数多くあるので、大体このようなことが書かれている、とご紹介程度にお考え頂ければと思います。

これによれば「杜若」に「弥生の初めつ方」とあるのと季節は若干の違いはありますが、見目よい五位検非違使から選ばれる春日祭の勅使に適当な人物がいなかったので、美しかった業平に検非違使の白羽の矢が立ち、急遽元服させて勅使とした、とのこと。「殿上にての元服の事。当時その例稀」という文言は見えませんが、天皇の目前で元服した、というのではなくて内裏で勅使の使命を与えられてそのまま元服の儀式に臨んだ、というような意味でしょう。

三位一体の舞…『杜若』(その7)

2024-05-27 03:21:07 | 能楽
その曲舞の上演の形式というものの正格とされるのが
・「次第」「一セイ」「イロエ」「クリ」「サシ」「クセ」をすべて備えていること。
・「クセ」は「二段グセ」であること。
・「次第」の文句と「クセ」の終わりの文句が一致していること。

。。なのだそうですが、意外や能の中にこれらすべてを備えている曲は少なく、この「杜若」のほかは「百万」と「源氏供養」のわずか合計3曲のみで、このうち「源氏供養」は「次第」と「クセ」の終わりの文句が一致していませんから、厳密に正格を備えるのは「杜若」と「百万」のただ2曲だけ、ということになります。これに準ずるものとしては「山姥」「歌占」が「一セイ」と「イロエ」を欠いた形、「千手」が「次第」を欠いた形、「花筐」は「次第」「クリ」を欠いた形です。

とはいえこれらの曲の中で「杜若」と「百万」が特に難易度が高かったり重く扱われている曲というわけではなく、作者が厳密に曲舞の様式を取り込んだのには何らかの意図があるのは確かでしょうが、このことだけを取り上げて能の上演曲の中での位置づけを考えるのはあまり意味がないかもしれません。むしろ脚本を構成するうえで別の芸能である曲舞の様式を厳密に取り入れることには意味はないばかりか場合によっては劇の進行を阻害する恐れさえあるわけで、そのエッセンスだけを場面の進行に応じて適宜に取り入れ、不要な部分をカットする方が能の作者としては洗練されているという考え方もあると思います。

さて「杜若」の次第~「一セイ」ですが、ぬえはちょっとこの文句に注目しています。

地謡「遥々来ぬる唐衣。/\。着つゝや舞を奏づらん。
シテ「別れ来し。跡の恨みの唐衣。
地謡「袖を都に。返さばや。 【イロエ】


「遥々来ぬる唐衣」は「伊勢物語」の和歌をあらためて取り上げながら、同時に「本地寂光の都」から衆生を救済するためにやって来た業平菩薩のことを言っているのでしょうし、「着つゝや舞を奏づらん」も「来つゝ」と掛詞になっているので「歌舞の菩薩」が本来の職掌として舞を舞う。。それがそのまま衆生済度の意味を持つのだ、と解して良いと思います。

「跡の恨み」という文言に少し引っ掛かりますが、旅によって恋人と離れたことを恨む。。まあ、旅に出たことを後悔する、というか恋人と離れたこの境遇を悲しむ、という程度の意味と解釈すれば、「袖を都に返さばや」も今これより舞う舞で袖を翻すのも自分の心を恋人のもとに届けたいという思いを込めているのだ、という意思でもあり、それは遠い昔の事なので美しい恋人との時代に時を戻したい、という希求とも考えられると思います。

がしかし、すでに「杜若」ではシテは業平の恋は菩薩としての衆生救済のための行動なのだ、と言ったのであり、それに従えばここに普通の意味の恋愛感情を当て嵌めてはいけないはず。。

じつは今回 ぬえが「杜若」の本文を精読するにあたって、一番心に引っ掛かったのがこの「袖を都に返さばや」なのです。結論としてはうまく落着はしましたけれども。(^▽^)/

まず ぬえが気づいたのは、これは業平の立場に立って言っていることだということです。

シテはすでに「まことは我は杜若の精なり」と言っていますが、三河の八橋に自生した杜若の花の精が都に懐旧の念を持つはずがない。これは先に考察した通り、杜若の精は業平の恋人などではなく、たまたま、この花を通して遠く離れた都の恋人。。高子を思った業平の歌のモチーフになったに過ぎないのです。

とすれば、「袖を都に返すさばや」という言葉は、シテがはっきりと「まことは我は杜若の精なり」と言っているにも関わらず、杜若の言葉とは思えず、これは業平の言葉と解するのが合理的であろう、と ぬえには思われるのです。

こう考えてきて ぬえはようやく、シテの言葉をそのまま受け取るのではなく、もう少し掘り下げてこれらの言葉を聞くべきだ、と考え至りました。

結論を先に言えば、ぬえはこのシテは杜若の精であると同時に、業平、すなわち歌舞の菩薩でもあり、さらには高子でもある。。いわば三位一体の存在なのではないか、と考えています。そう考えれば、杜若の精がなぜ業平の冠を持ち、高子の唐衣を着ているのかが納得されると思います。

このシテは自分が身に着けている冠や唐衣を「形見」と言っているけれども、ほかの曲「井筒」や「松風」、「富士太鼓」「梅枝」が「形見」を身に着けて亡き恋人や夫と一体になろうとするのとは根本的に違うのでは、と ぬえは考えています。言うなれば「杜若」のシテの扮装は、意味の上では「井筒」「松風」よりもむしろ「春日龍神」とか「胡蝶」「小鍛冶」に近いのではないか?

能役者も人間である以上、「春日龍神」の龍や「胡蝶」の蝶、「小鍛冶」の狐に扮するのは無理があります。着ぐるみを着たら動作ができないし。そこで能では「立物」と言い慣わしますが、頭上に冠をかぶって、その上に龍や蝶、狐のミニチュアを頂いて「私はこういう姿なんです」と意思表示をするのです。「杜若」の場合はその手法をさらに発展させて、冠が業平、長絹が高子、そしてそれを着ている女性が杜若の精なのであって、一人の人物に同時に三人の人格が共存している、というのが ぬえの解釈です。

「杜若」のシテは花の精の姿を借りながら本質は業平=菩薩なのであって、その菩薩は衆生を極楽に転生させることを目的に仮に業平という人間に姿を変えて現世に現れ、女性を救済したのです(いや「伊勢物語」には友情譚もありますので女性だけを救済したとは言い切れない)が、それらも遠い昔の話。高子も杜若もとうにこの世を去っているのであり、しかしながら業平と契り、または和歌に詠まれたことをきっかけに両者とも極楽浄土に転生することができたのならば、いまは業平菩薩の脇侍のような存在となって菩薩の衆生救済の協力者のような存在となって、一心同体の姿となっているのだと ぬえは考えています。

そしてその主たる人格は杜若の精ではなくて、業平。。すなわち菩薩であろうし、そう考えれば以下の「クリ」「サシ」「クセ」で言われる文言が主に業平の立場で語られていることについても納得することができるのではないかと考えています。                     (続く)

三位一体の舞…『杜若』(その6)

2024-05-22 07:13:40 | 能楽
季節もちょうど合い、今日は催しの打合せを兼ねて茨城県潮来市の「あやめ園」に行ってきました。
今更ながら「あやめ」は現代では「アヤメ」「杜若」「花菖蒲」の類の総称で、見分け方は「花菖蒲」が花弁の付け根のところに「黄色い線」が入っているもの、「杜若」は同じところに「白い線」があり、「アヤメ」は「綾目」で網目状の模様があるものです。ここにあるのはすべて「花菖蒲」ですね。



咲きぶりは ちらほら、と言ったところ。ということは ぬえが「杜若」を舞う頃にはちょうど満開になっているでしょう。まだ時期は早かったけれどもワキ僧が「あら美しの杜若やな」とため息を漏らした気分をなんとなく思い浮かべてみました。





おっと、思いがけず「伊豆の国市」の文字が目に飛び込んできました。全国的に「あやめサミット」なるものがあるのですね。なるほど伊豆の国市は頼政の北の方の「あやめ御前」の出身地といわれ、「あやめ祭」も開かれているから、友好都市のような感じでお互いの街のあやめの株を交換したのでしょう。まだ開花は先のようでしたがこれらが咲き揃ったら圧巻でしょうね!

さて能「杜若」についてですが、ところで業平が「舞う」ということについて能の中で少々混乱があるようなのでひと言添えておきます。

「杜若」の詞章の中でも

シテ「またこの冠は業平の。豊の明の五節の舞の冠なれば。

とあり、また別に

シテ「仏事をなすや業平の。昔男の舞の姿。
ワキ「これぞ即ち歌舞の菩薩の。
シテ「仮に衆生と業平の。
ワキ「本地寂光の都を出でて。
シテ「普く済度。ワキ「利生の。シテ「道に。
地謡「遥々来ぬる唐衣。/\。着つゝや舞を奏づらん。


とあるので、これを読む限り「豊の明の五節の舞」を業平が舞い、今また杜若の精であるシテが業平の舞姿を再現する、というように読めるのですが、これには誤解があります。

「豊の明」(=とよのあかり)はそれ自体「宴会」を指す語で、宮中では古くから新嘗祭や大嘗祭のあとに行われる宴会を意味しました。能「卒都婆小町」に「豊の明の節会」と見えるように宴会とはいっても新嘗祭のあとの直会としての儀式で、能「梅」に「初春の。七日の豊の明には。舞の台の飾らひに。梅と柳を立てらるゝ」その作法が語られています。豊の明の節会には能「国栖」に描かれる国栖舞などが奉納されるわけですが、その中で奉納される五節の舞については能「関寺小町」に「むかし豊の明の五節の【舞姫】の袖をこそ五度返しゝが。」とあります。

天武天皇の御宇に吉野に天女が天下り、五度袖を翻して舞ったのが起源といわれ、能「吉野天人」はこのことを下敷きにしていますし、五節の舞姫の舞を詠んだ僧正遍照の歌「天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」は百人一首に採られ、能「吉野天人」や「羽衣」の詞章にも取り入れられています。

このように豊の明の節会で舞われた五節の舞は舞姫、つまり女性が舞う舞であって、業平がそれを舞ったというのは誤解なのです。その後豊の明の節会そのものが廃絶してしまい、近代(大正時代)に「大饗の儀」として再興されてから後も五節の舞は日本の雅楽の中で唯一女性が舞う舞とされています。

なので業平が豊の明の節会で五節の舞を舞ったのではなく、その舞を見たときに業平がかぶっていた冠、というのが正しいでしょう。実際に藤原高子は貞観元年(859)、17歳のときに後にその中宮となる清和天皇が9歳で即位した際の大嘗祭で五節の舞姫を勤めており、おそらく能「杜若」でシテが着る業平の形見の冠、というのはこの大嘗祭に参列していた業平が高子を見染めた、そのときにかぶっていた冠、という感じなのでしょう。

地謡「遥々来ぬる唐衣。/\。着つゝや舞を奏づらん。
シテ「別れ来し。跡の恨みの唐衣。
地謡「袖を都に。返さばや。 【イロエ】


「遥々来ぬる唐衣。。」は「次第」という定型の章段で、しばしばワキや前シテの登場の冒頭で謡われますが、ときに能の中盤で地謡が謡うことがあり、「羽衣」などに類例があり「地次第」と呼ばれます。直後に地謡が同じ文句を低吟する「地取り」があるのが特長で、地謡が次第を謡う場合も続けて「地取り」を謡います。

ついで「別れ来し。。」は「一セイ」と呼ばれる拍子に合わずきらびやかな高音で謡う短い章段で、これに引き続いて「イロエ」というこれまた短い舞。。とは呼べないような所作があります。「イロエ」は「彩色」で、舞台の彩り、という程度の意味。大小鼓が地と呼ばれる定型の譜を打ち続け、笛が拍子に合わない譜を吹いて彩りを添える中、シテは静かに舞台を1周する程度。しかしながら「彩色」と呼ぶにふさわしいもので、とても神秘的な雰囲気が漂い、いかにも能らしい舞(?)と思います。

ところでこの「次第」「一セイ」「イロエ」というそれぞれ特長を持った短い章段の謡と短い舞の連続は、どうやら能ではない先行芸能「曲舞」の楽式をそのまま能に取り込んだものだと言われています。これにさらに「クリ」「サシ」「クセ」と謡による章段が続き、さらに「クセ」は「二段グセ」と呼ばれる長大なものであり、最初の「次第」の文句とクセの終わりの文句が一致しているのが正当な「曲舞」の楽式なのだとか。

能「山姥」に「百万山姥」という曲舞を舞うことを職業とする女性がツレとして登場しますが、彼女が舞う曲舞についてシテの山姥の化身である前シテが「まづこの歌の次第とやらんに。。」と言うのが、今は失われた曲舞の楽式が具体的に語られる例として注目されます。どうやら曲舞という芸能は、まず「次第」という短いながらもこれから演じる物語のテーマを暗示するような文言が観客に提示され、それから「一セイ」「イロエ」「クリ」「サシ」とそれぞれ特長を変えた短い謡や所作が次々に謡われながら物語の内容に迫ってゆき、最後に据えられた長大な「クセ」を舞うのが最大の見どころとなり、その終わりに再び「次第」の文句を唱えて終了する、というものだったらしく、能のように複数の役者が登場してその二者の間で事件が起こる演劇的なもの、と言うよりは、おそらく観客がすでに知っている事件なり人物に焦点を当てる、いわゆる一人芝居のようなものだったのではないか、と ぬえは想像しています。

三位一体の舞…『杜若』(その5)

2024-05-20 00:28:14 | 能楽
「玉雲集」によればかつての恋人がじつは人間ではなく杜若の精だった、ということになるわけですが、ぬえは杜若が恋の仲立ちとなったのをきっかけにかつての恋人と同調していった姿とも考えられるのではないかと思います。能「杜若」で「女【が】杜若になる」ということも、ぬえは杜若は杜若であると同時に、業平に歌に詠まれた恋の相手、すなわち藤原高子でもある、と捉えています。

このような奇跡のようなお話は「業平は極楽の歌舞の菩薩の化現」というシテの言葉によって補強されます。仏の神通力によって人間の姿に変わり、高子とも同化する、というのは現代人の目からするとご都合主義のようにも思えますが、それだけではなくて能「杜若」に描かれるシテの姿は業平すなわち菩薩の力によって人間も草花も悉皆成仏を達成する、という高度な世界を描く、というのが作者の目的なのではないかと考えています。

ともあれ現代人の感覚とすれば「業平は極楽の歌舞の菩薩の化現」というシテの言葉が投げかけられた瞬間に、自分たちとまったく違う業平像や「伊勢物語」の理解に戸惑ってしまうのは仕方のないところですね。この齟齬をどうやって現代の観客に見せるのかが現代の舞台に立つ役者として求められるところでしょう。

ところでこの機会に、中世の人々が「伊勢物語」を読んでいたのか、注釈書に書かれた記事のいくつかをご紹介しましょう。

業平が「歌舞の菩薩」であるという点についてはこんな感じ。

「そもそもこの物語を大事して書き集めたる事は何の詮ずる所ぞといへば、この人は極楽世界の歌舞の菩薩馬頭観音なり。今の世の中の衆生の有様をご覧ずるに、いざなぎいざなみの尊天の浮橋の下にて女神となり給ひしより以来、生きとし生ける者いづれか男女の中らひを離れたる。しかあれば人の心花になり紅葉になりて、色にふけり匂ひに愛づといへども、道の広く分かれ遠く隔たれる程を知らざる事を悲しみて、たはれをと現れてまづ我が心を和らげて、人の心を慰むる術を以って得脱の縁を結ばしめんとて(略)その心を慰むること三千七百三十三人なり」

三千。。恋人の数ですか。そうですか。はあ。
「3733」という数には仏教的に何らかの意味があるのでしょうが今回は未調査。しかし昔も今もプレイボーイの代名詞と思われていた業平は、じつは「得脱の縁を結ばしめん」ために女性と契ったのだ、というのが当時の理解でした。もちろんすべての人の理解ではないでしょうが、「伊勢物語」を読むことができる身分階級がそもそも限られているわけですから、その中で実際に「伊勢物語」に関心を寄せる いわゆる知識階級は同時にこのような注釈書にも興味を広げた可能性は高いでしょう。

さらには和歌が「五・七・五・七・七」の五句・三十一文字であることについてこんな記述も。

「この歌を言ふに、三十一字と定めたるは如来の三十二相に象れり。如来三十二相と言へども顕れては三十一相なり。無間頂相はさらに現れず。故に顕れたる相好になぞらへて三十一字とするなるべし。」「次に歌に五句あり。(略)これ即ち地・水・火・風・空の五輪なり」

これまた現代人から見れば荒唐無稽なこじつけに見えますが、鎌倉時代~室町時代頃までの日本人にとっては「末法思想」が死生観に相当深刻な影響を与えていて、衆生を救済するという仏の教えにこれほどまでに人々が拠り所を求めたというひとつの形でありましょう。

かくして能「杜若」もこのような末法思想の下に読まれた「伊勢物語」やその注釈書に基づいて作られているわけで、そこを無視してこの能を理解することはできません。

しかしながら現代の観客としてこの「杜若」を鑑賞するためにそんな知識が必要なのかといえば、それはまったく不必要。舞台鑑賞と「杜若」という曲の理解や作者の意図を知るのはまったく別の問題でありましょう。むろん演者としてはシテを舞う以上、曲を理解しておく責任があるのだけれども、舞台で演じるのはそうした作者の意向そのものではありません。むしろこうした現代人の感覚からやや距離が隔たってしまった作品を、どうやって現代のお客さまに楽しんでご覧頂けるかを ぬえも考えながら稽古を進めております。

従ってこのブログは演者として自分が能「杜若」を理解するために謡本を読み進めている経過を記しているわけで、決して観客に「このように舞台を見てください」と言っているわけではありません。役者は舞台のみで成果を示すものなので、観客に言葉で説明を加えてはならない。このブログはこれから上演に向かう自分の備忘録のように書いていますので、もしお客さまがこのブログをお読みになって能の鑑賞に先入観を与えてしまうのを恐れます。。

さて気を取り直して。。

さらに脱線を続けてしまいますが、末法思想というのは本当に日本人の死生観を大きく変えてしまったものだと思います。釈迦は生没年さえ不明で入滅の年も紀元前3世紀から紀元前10世紀までかなり幅広い説があるのですが、日本ではその教えが廃れて世の中が乱れるとされる「末法」の時代は永承7年(1052)と具体的に信じられていて、大河ドラマに出演中の藤原道長の長男・頼通が宇治の平等院に鳳凰堂を建立したのもこの年を目指していました(完成は1年遅れた)。偶然にも平安時代末期は武士が台頭し社寺は僧兵が武装して強訴をしたり、といった世情不安の時代と重なりました。そしてとどめはその100年後に起こった源平の争乱と、それに続いて政治が貴族の手から武家に変わったこと。。まさに激動の時代だったのです。末法の世が本当に到来したのだと当時の人々は驚愕したことでしょう。人々はこぞって来世での仏の救済を志望し、それに応えて浄土宗の法然や真宗の親鸞、法華宗の日蓮、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元など、現在にまで繋がる鎌倉仏教の諸宗が生まれたのもこういう時代背景があります。本来曹洞宗であるはずの観阿弥・世阿弥が時宗の同朋衆となって「阿弥陀号」を名乗ったのも、遠因としてはこの末法思想の影響と ぬえは考えています。

まだまだ書きたいことはあるのですが脱線はこおで止めてようやく「杜若」に戻って。

ワキ「これは不思議の御事かな。正しき非情の草木に。言葉を交はす法の声。
シテ「仏事をなすや業平の。昔男の舞の姿。
ワキ「これぞ即ち歌舞の菩薩の。
シテ「仮に衆生と業平の。
ワキ「本地寂光の都を出でて。
シテ「普く済度。ワキ「利生の。シテ「道に。
地謡「遥々来ぬる唐衣。/\。着つゝや舞を奏づらん。


ワキは草花の精と言葉を交わす奇跡を喜び、シテもそれを業平、すなわち菩薩のお力なのだと語ります。「本地」は化身ではない仏本来の姿、「寂光の都」は寂光浄土で仏が住む清浄な世界。菩薩はそこから腰を上げて衆生を救済するために業平の姿となって遥々と現世にやってきた、というわけです。

三位一体の舞…『杜若』(その4)

2024-05-18 03:20:42 | 能楽
シテ「また業平は極楽の。歌舞の菩薩の化現なれば。詠みおく和歌の言の葉までも。皆法身説法の妙文なれば。草木までも露の恵みの。仏果の縁を弔ふなり。

まさに現代人から見れば荒唐無稽な文言なわけですが、これはじつは「伊勢物語」そのものではなく、その”注釈書”の中に現れる説なのです。こういった注釈書の説が当時どこまで人々に浸透していたかはわかりませんが、能「杜若」はこの注釈書を下敷きに書かれた作品であり、それは一定数の観客に受け入れられることが前提で書かれたものでしょう。能「杜若」がどういった観客層を想定して書かれたのはまた議論されるべきだとは思いますが、作者の目標となった観客には理解されるという自信が作者の中にあったのは間違いないところだと思います。

「歌舞の菩薩」とは「極楽浄土で天楽を奏し、歌舞して、如来および往生をとげた人々を讃嘆するといわれる菩薩」というもので、能には使用例が多く、シテに直接かかわるものとしてもこの「杜若」のほか「胡蝶」「誓願寺」「当麻」「東北」「遊行柳」などに現れ、直接シテのキャラクターには無関係なものの言及された例として「土車」「東岸居士」が挙げられます。ところがこの言葉は仏典には現れない用語で、むしろ日本で独自に発明されたようです。

しかも能以前の古典文学にも用例がなく、一方「伊勢物語」の古い注釈書には業平のことを「この人は極楽世界の歌舞の菩薩、馬頭観音なり」などという例があります。注釈書が「歌舞の菩薩」の初出なのかは調べられませんでしたが、少なくとも文学としての作品にこの語を導入したのは謡曲が最初であるようです。

さてその業平=歌舞の菩薩という理解のもとに能「杜若」は作られているのですが、前掲の文の直前のシテの言葉も難解ですね。

シテ「植ゑおきし昔の宿の杜若と。詠みしも女の杜若になりし謂れの言葉なり。

「女の杜若」? メス。。? あ、植物だからメシベ? それに誰が女の杜若に変身したの? とかいろいろ思っちゃいそうですが、現代語に訳すれば「女【が】杜若になったというのは(奇跡だと驚かれると思いますが)、この歌にもちゃんとその謂れが語られているんですよ」という感じか。

この「植ゑおきし昔の宿の杜若 色ばかりこそ昔なりけれ」の歌は能「杜若」では序之舞のあとに全文があらわれます。ということはこれも「伊勢物語」所収の業平の歌か? と早合点しそうですが、じつはこれはまったく別人の歌で、「後撰集」に採られた良岑義方の歌「いひそめし昔の宿の杜若 色ばかりこそ形見なりかれ」を改変した歌です(改変の理由はナゾ)。歌意は「あなたと初めて契った家も、いまはあなたはいない。咲く杜若の色だけがあなたの形見と思われる」ということで、他の男のものとなったかつての恋人に杜若の花を添えて贈った歌です。

これだけなら男女の仲を取り持つ装置として杜若が機能した、というだけで「女【が】杜若になりし謂れの言葉」の証拠にはなり得ないように思いますが、じつはこれは後日談がありまして。

かつての恋人にこの歌を遣わしたあと、この男の夢に女が現れて返歌をしました。「この杜若の色を見なければ、遠い昔のあの昔を思い出さなかったものを。。」(大意)そしてそのあとに「これは杜若の精の歌だ」と(編者によって)解説が添えられているのです。さらには「これより以後、女を杜若と言うようになった」とまで記されています。

正確にはこれは後日談ではなくて、「後撰集」の同じ歌が採られた別の本、「玉雲集」に描かれたお話なのです。なんとなく納得できそうな説ですが、そうではない。この歌が人間が杜若に変化する証拠にはなりません。これについて江戸時代の謡曲の注釈書である「謡曲拾葉抄」には「これ(「玉雲集」)は夢の中で和歌に添えられた杜若の精が女の姿になって返歌をしたのであって、能では杜若の精が詠んだように書かれているのは誤り」(大意)と書かれていますが、ぬえには違和感があって、ぬえは「玉雲集」に近い立場です。もっとも「玉雲集」の成立が能「杜若」の上演初出記録よりも少しだけ遅れているので作者に影響関係があったかは微妙ですが。。

みんなが疑問を抱くこの歌ですが問題は多すぎる。そこで ぬえは思うのですが、要するに能「杜若」の作者が言いたいのは、「後撰集」の歌のような恋の心を詠んだ歌に仲介者として介在した草花も、その歌を贈り贈られた男女の仲立ちの存在となって同化していく、という程度の意味で良いのではないかと思います。。

「女【が】杜若になる」というのも、能「江口」などで「受け難き人身を受け」という文法から考えれば劣化した転生になってしまうのですが、そうではなくて美しい恋の心が昇華して、男女の仲立ちの存在となる、という程度の意味で良いのではないかと思います。

それは ぬえが思っているこのシテの正体。。本人がはっきりそう名乗っていても、じつはこのシテは杜若の精、というだけではなくそれ以上の存在だ、と ぬえは考えているのです。それはこのブログで追々表明させて頂くことと致します。

三位一体の舞…『杜若』(その3)

2024-05-16 02:18:43 | 能楽
地謡「在原の。跡な隔てそ杜若。跡な隔てそ杜若。沢辺の水の浅からず。契りし人も八橋の蜘蛛手に物ぞ思はるゝ。今とても旅人に。昔を語る今日の暮やがて馴れぬる。心かなやがて馴れぬる心かな。

地謡の初同上歌のシテの所作は定型で、「沢辺の水の」と右ウケしてから正面に出てヒラキ。唐織の着流しの姿なので動作はごく控え目です。「今とても旅人に」とワキへ向き、それから左に小さく廻りシテ柱にて正面へヒラキ。少々型が忙しく雰囲気が壊れそうなので ぬえはこのヒラキはしないつもり。上歌のトメにすぐワキへの言葉がありますので地謡の終わりにワキに向きます。

シテ「いかに申すべき事の候。
ワキ「何事にて候ぞ。
シテ「見苦しく候へども。わらはが庵にて一夜を御明し候へ。
ワキ「心得申し候。


能「江口」では世捨て人である西行に遊女が宿を貸さなかったことから人の六根が作る罪のために輪廻に迷うところにまで話が及び、遊女がじつは普賢菩薩であった、と逆転的な昇華を遂げるという、哲学的で壮大な物語に展開するのに比べて、「杜若」では あっさりと若い女性が僧を宿に誘い、僧も屈託なく承知しますね。なんだか違和感が残る問答なのではありますが、シテが人間の女性ではなく草木の精だから宿を貸すこともあまり問題にならないのかもしれません。

ここでシテは後見座にクツロギ「物着」となります。唐織を脱ぎ(ヌードにしないように、先に長絹を羽織らせてその下から唐織を引き抜きます)、長絹を羽織り、初冠を着けるという手順で、普通ならばそれほど難易度は高くありませんが、小書「恋之舞」になるとさらに初冠に「日陰之糸」を着け眞之太刀を刷くので大変になります。いずれにせよ物着のあとは長絹の下に縫箔を腰巻に着るので、これは最初から唐織の下に着込んでいます。なお「物着」の間、大小鼓と笛がアシライを打って(吹いて)くださいますが、これはシテが女性の役の場合に限ります。男性の役の「物着」ではアシライがないので無音で着替えをするわけで、後見にとってはお客さまの注目を浴びやすい分だけやりにくいかも。

物着が出来上がってシテは立ち上がり再びシテ柱先まで出ると大小鼓は「ヲキ」を打ってアシライを止め、その間にシテはワキに向いて「ヲキ」を聞いて謡い出します。

シテ「なうなうこの冠唐衣御覧候へ。

二度目の「なうなう」。これが二度あるのは珍しいですが「杜若」に限ったことでもありません。もちろん二度の「なうなう」はおのずと意味合いやシテのキャラクターが異なることになり、「杜若」では豪華な衣裳を誇るように光り輝くように謡うのが似つかわしいですね。シテは謡いながら衣裳をワキに見せるように両袖をあしらう「ヨセイ」という型をします。

ワキ「不思議やな賎しき賎の臥処より。色も輝く衣を着。透額の冠を着し。これを見よと承るは。何と言ひたる事やらん。
シテ「これこそこの歌に詠まれたる唐衣。高子の后の御衣にて候へ。またこの冠は業平の。豊の明の五節の舞の冠なれば。形見の冠唐衣。身に添へ持ちて候なり。


当然のごときワキ僧の疑問に対してシテの答えは二条の后と呼ばれた藤原高子(本来の読みは たかいこ)の衣裳であり、業平の冠であり、それぞれを形見として持っているのだ、と答えます。怪しい。

能「杜若」はこの物着まではごく自然な展開で、むしろ大きな事件や伏線もなく素直な能だと言えると思いますが、物着のあとは現代人からすると『伊勢物語』の理解が根本から覆されるような不思議な世界が次から次へと展開されて目が回りそう。

まずはこの「形見の冠唐衣」に続くシテの主張を読んでみましょう。

ワキ「冠唐衣はまづまづ措きぬ。さてさて御身は如何なる人ぞ。
シテ「まことは我は杜若の精なり。植ゑおきし昔の宿の杜若と。詠みしも女の杜若になりし謂れの言葉なり。また業平は極楽の。歌舞の菩薩の化現なれば。詠みおく和歌の言の葉までも。皆法身説法の妙文なれば。草木までも露の恵みの。仏果の縁を弔ふなり。


シテは自分のことを「杜若の精」とはっきり名乗っています。それは当然『伊勢物語』の9段の「唐衣着つゝ馴れにし」の歌に詠まれた杜若であり、その花が今人間の姿を借りて現れたのは、業平その人かあるいは彼が詠んだこの歌との関係が原因なのだろうと推測はできますね。

ところが ぬえにとって疑問なのは、その業平と杜若の関係はいわば一期一会の出会いのはずであって、とても彼から「形見」として冠をもらうほどの深い関係。。恋人のようなものではないはずだ、ということです。

考えてみればこの「杜若」のシテの扮装は、能「井筒」とまったく同じ出で立ちで、それは能の愛好者としては見慣れている姿でありながら、じつは女性の役でありながら男性の衣裳を着ている、というかなり異形の扮装です。しかし「井筒」のシテは業平の妻(とされている)紀有常の娘であり、彼女が「夫」の形見を持っているのは当然であり、彼女が男の扮装をするのもまた、愛する男との生活を懐かしんで、男の形見を身に着けることで一体化しようとした、と理解することが十分に可能です。

これは類例の「松風」「富士太鼓」「梅枝」でもまったく同じで、これらの能で女性のシテが男装をするのは、すべて失った恋人や夫が残した形見なのであり、それを身に着けるのはその愛する人と一体になりたい、という強い思慕のために他なりません。

これに対して「杜若」のシテと冠の持ち主である業平との関係は、たまたまある日に業平が詠んだ和歌のモチーフとなったに過ぎず、彼女は業平の恋人ではありません。そもそも人間でさえないのだから。

その上「井筒」ほかの上掲の能と「杜若」と決定的に違う点は、冠は業平の形見でありながら衣裳はまったく別の人間。。二条の后と呼ばれた藤原高子のそれなのであり、それは業平の恋人とされ、「唐衣」の歌で彼が思慕した相手のものだ、と言うのです。杜若の精であるシテにとって高子は面識さえないはずであり、唯一の接点は「唐衣」の歌で杜若がモチーフになり、その歌が高子を思って詠まれた、という一点だけなのです。杜若の精が遠く離れた都に住んでいた高子の衣裳を「形見」として賜る理由はありません。

これら、「杜若」のシテの性格およびその扮装には大いに疑問が生じますが、その疑問を解消するために、次にシテが語る業平の「本性」について注目する必要がありそうです。         (続く)

三位一体の舞…『杜若』(その2)

2024-05-13 22:09:49 | 能楽
シテ「なうなう御僧。何しにその沢には休らひ給ひ候ぞ。

「呼び掛け」というシテの登場の場面は、長い橋掛りを備えた能舞台の特色を最大限に利用した素晴らしい演出ですね。そしてこの独特の登場はシテが幽霊や神など人間ではない役のときに最大の効果を生みます。幕内から呼び掛けるシテの姿はまだ観客からは見えておらず、シテの役者はワキに呼び掛ける謡だけで観客の想像力を掻き立てられなければなりません。神秘的に謡えれば観客にやがて現れるシテの姿に期待を持って頂くことができます。

ワキ「さん候これなる沢の杜若に。眺め入りて休らひ候。さてこゝをばいづくと申し候ぞ。
シテ「これこそ三河の国八橋とて。杜若の名所にて候へ。さすがにこの杜若は。名におふ花の名所なれば。色も一しほ濃紫のなべての花のゆかりとも。思ひなぞらへ給はずして。取りわき眺め給へかし。あら心なの旅人やな。


実際に幕内のシテとワキの距離は20mほどもあるのではないでしょうか。遠く呼びかけたシテはワキと会話を交わしながら橋掛りを歩み、だんだんとワキに近づいてきます。その間ずっとシテは観客に横顔しか見せないわけで、よりシテの神秘性を増します。一歩間違えればホラーですが(笑)。「杜若」の場合は後にシテが花の精だとわかるわけですから、可憐な感じで謡えれば良いですかね。なお橋掛りを歩むシテは重要な言葉を言うときや独白がある場合にはいったん立ち止まって正面に向きます。ここで観客ははじめてシテの面。。すなわち顔を見ることになり、文言の内容やシテのキャラクターを印象づける場面となります。

「なべての花のゆかりとも。思ひなぞらへ給はずして。取りわき眺め給へかし」のあたりは意味が通じにくいかもしれません。「この名所の杜若はその花の紫色も一層深く、すべての花のゆかりともお思いにならないのですね。特別な花と思ってご覧頂きたいのに。なんて心無い旅人でしょう」

杜若の花の色の紫は(他にもまれに白があるそうですが)、古来高貴な色で「枕草子」で絶賛されていますね。あるいは紫雲のように神秘的な色とされてきましたが、古来は「紫」という字をそのまま「ゆかり」と読むこともありました。いずれにせよ「縁」に結び付けられる色といえるのですが、能「杜若」のこの部分では ぬえはズバリ「私を女王様とお呼び!」と言っているのだと解釈しています。「取りわき眺め給へかし。あら心なの旅人やな」はまさに漫然と美しさを愛でる僧にさらに尊敬の念を持て、と言っているわけですが、これはじつは高慢から言っているのではなくて、この能のその後の展開から仏の教えによって昇華される運命を持った花なのだ、という意味だと捉えています。

ワキ「げにげにこの八橋の杜若は。古歌にも詠まれけるとなりさりながら。いづれの歌人の言の葉やらん承りたくこそ候へ。
シテ「伊勢物語にいはく。こゝを八橋といひけるは。水行く川の蜘蛛手なれば橋を八つ渡せるなり。その沢に杜若のいと面白く咲き乱れたるを。ある人かきつばたといふ五文字を句の上に置きて。旅の心を詠めと言ひければ。唐衣着つゝ馴れにし妻しあれば。はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ。これ在原の業平の。この杜若を詠みし歌なり。


いよいよ核心の「伊勢物語」の登場です。有名な9段の物語で、同じ章段には能「隅田川」に出てくる「都鳥」の歌も載っていて、同じく能「井筒」の典拠になっている23段と並んで教科書にも取り上げられてよく人口に膾炙しているお話でしょう。

ワキ「あら面白やさてはこの。東の果ての国々までも。業平は下り給ひけるか。
シテ「こと新しき問ひ事かな。この八橋のこゝのみか。猶しも心の奥深き名所々々の道すがら。
ワキ「国々ところは多けれども。とりわき心の末かけて。
シテ「思ひ渡りし八橋の。
ワキ「三河の沢の杜若。
シテ「遙々来ぬる旅をしぞ。
ワキ「思ひの色を世に残して。
シテ「主は昔になり平なれども。
ワキ「形見の花は。シテ「今こゝに。


じつはワキ僧は「伊勢物語」を読んだことがありません。これがシテが僧を呼び止めた理由かも。能「杜若」に描かれる内容はかなり難解なのですけれども、それ以上にこのシテは何の目的を持ってワキ僧の前に現れたのだろうか、とずっと考えていました。神通力を持ったシテがワキ僧が「伊勢物語」を知らないと気づいていたならば、「伊勢物語」の真実を伝えようとした、と解釈できるのです。このへんはまたこのブログでの考察の中で考えていきたいと思っています。

業平はこの八橋ばかりではなく国々の名所まで下ったのだが、とりわけ心を掛けたのがこの八橋なのだ、と語るシテ。遥々と旅をした業平だけれどもそれは遠い昔のこと。しかしその「思ひの色」は今でも残っていて、それを象徴するのが昔と変わらず咲き誇るこの杜若の花なのであり、それは今に残る業平の形見なのだ、とシテは言います。

能「杜若」では後に現代人とは到底異なる「伊勢物語」理解が語られるのですが、よく読み返してみるとこのシテの言葉がすでに伏線になっているように思えます。             (続く)

三位一体の舞…『杜若』(その1)

2024-05-06 15:34:19 | 能楽
さて毎度 ぬえが勤める能の曲について鑑賞のための見どころと、舞台進行の解説をさせて頂いております。今回の「杜若」は「鬘物」と呼ばれる女性が主人公の能ですが、その中でも草花をシテとする一群の能の中に位置しています。「井筒」「隅田川」などと同じく『伊勢物語』を典拠として、いわゆる人気曲として上演頻度も高い曲なのですが、じつはこの曲は現代人が『伊勢物語』を読んで思う印象とはずいぶんかけ離れた内容を持っています。これは鎌倉時代~室町時代あたりの中世の人々は『伊勢物語』を現代人とはまったく違う視点で捉えていたためで、能「杜若」はそういう中世の人の『伊勢物語』理解のうえに書かれた能なのです。その意味で現代人から見ると理解が難しい部分もあり、また難解な能とも言えるでしょう。これを
現代の役者が現代の舞台の上で、そして現代人の観客の前で上演するのにはどうすれば良いのか。そんなことも考えながら上演の準備を進めております。

さてでは実際の舞台の進行を見てゆきましょう。舞台に囃子方と地謡が着座すると、すぐにワキが幕を上げて橋掛りに登場します。同時に笛が「名宣笛」というソロ演奏をはじめ、また大小鼓は床几に腰かけます。ワキは所謂「着流し僧」で一人きりでの登場。身分の高い高僧ではなく諸国をめぐりながら見識を深める修行僧といった趣です。

橋掛リから舞台に入ったワキが足を止めると笛も吹き止め、ワキは名ノリと呼ばれる自己紹介を謡います。

ワキ「これは都方より出でたる僧にて候。我いまだ東国を見ず候程に。ただ今思ひ立ち東国修行と心ざし候。

この「名ノリ」の最後に「立拝」とも「掻き合わせ」とも呼ばれる両手を胸の前で合わせる型をして、これよりワキは紀行文である「道行」を謡います。

ワキ「夕べ夕べの仮枕。夕べ夕べの仮枕。宿はあまたに変はれども。同じ憂き寝の美濃尾張。三河の国に着きにけり 三河の国に着きにけり。

「宿」とは言っていますが修行僧であれば宿屋などに泊まるわけではなく、野宿したり廃屋に泊まるような漂泊の旅という感じでしょう。そのためかこの「道行」には具体的な行路が想像できるような景物が出てきません。じつは「道行」ではかなり具体的な行路を記してあることが多くて興味深く、作者の意図がこめられていることも多いのですが、この旅の目的地は歌枕や高名な名所などがある関西や九州などではなく東国。当時はまだまだ未開の地であり、それだけワキの修行の旅はある程度の危険も伴うかもしれない未知の世界への旅だったでしょうし、そのワキの不安が具体的な地名をほとんど登場させないこの「道行」に込められているようにも思いますし、この不安定さが、彼が後に不思議な里女と邂逅する心情的な伏線にもなっていると思います。

ワキ「急ぎ候程に。これははや三河の国に着きて候。又これなる沢の杜若。今を盛りと見えて候程に。立ち寄り眺めばやと思ひ候。

とは言ったものの、ワキ僧が行きついた先は沢に咲き乱れる見事な杜若の群落でした。これにより観客は季節が初夏であることを知り、同時に「道行」の不安から解消されることになります。
ここで大小鼓が「アシライ」という伴奏を始めるとワキは舞台の真ん中あたりに行って正面を向き杜若を愛でる言葉を謡います。観客には、実際には見えないけれどもワキ僧と自分たち観客との間に杜若の群生地があり、観客はその杜若の中に座っているような印象となります。

ワキ「げにや光陰とゞまらず春過ぎ夏も来て。草木心なしとは申せども。時を忘れぬ花の色。かほよ花とも申すやらん。あら美しの杜若やな。

「かほよ花」とは「顔貌花」という字を充てるらしく、女性の美貌に擬えて花を褒めた美称でしょう。そして杜若を愛でる僧の後ろから里の女が声をかけます。             (続く)

梅若研能会 6月公演

2024-05-03 14:03:50 | 能楽
来る6月9日、師家の月例会「梅若研能会6月公演」にて ぬえは能「杜若(かきつばた)」を勤めさせて頂きます。鬘物の能の中でも草木の精がシテの一群の曲がありますが、「杜若」は独特の味わいのある曲で、いわゆる人気曲として上演頻度も高い曲だと思います。しかしながら。。この曲は ぬえがこれまで勤めて参りましたどの曲よりも難解な曲ではないかと思います。

シテは可憐な花の精であり、技術的にもそれほど至難なところはない。。強いて言えばシテが謡う分量がかあり多いという問題はありますが。。、また深い悲しみやシテが負う業のような暗さもない。。表面的に見れば素直な作りのように見えますが、それは表面的なことであって、じつはこの能の内容はかなり奥深いものがあります。今回も例によって上演の参考となるよう舞台経過をご紹介しながら、そういったこの曲の難解さについて考察をしてみようと思います。

諸国一見の僧(ワキ)が都から東国行脚に向かう途次、三河の国八橋を訪れるとちょうど沢辺に杜若が花盛りなのを愛でます。すると里女(シテ)が現れ、この杜若は特別なのだと言、『伊勢物語』によって業平がこの花を詠んだ謂れを語ります。いつしか杜若を通じて懇意になった僧を里女は自分の庵を宿に貸すことになりますが、その夜女は高子の后の御衣と業平の冠を着け、自分は杜若の精であること、業平は歌舞の菩薩の化身であり衆生を救うためにこの世に現れたのだ、と語り、さらには『伊勢物語』に描かれた業平の恋物語も菩薩としての業平の行動なのだと語ります。やがてシテは業平その人となって舞を見せ、杜若の精も純白の明け方の世界の中に成仏の相を見せて消えてゆきます。

「杜若」のほか草木の精が主人公となる曲には「藤」「六浦」「遊行柳」「西行桜」「芭蕉」などがありますが、いずれも鬘能あるいはそれに準ずる曲で、また「芭蕉」以外はすべてシテが太鼓入りの序之舞を舞う特徴があります。植物の精であれば動作も緩やかに優雅であり、また女性、または閑寂な翁の姿がふさわしいと古人の作者が考えたのは自然なことであったでしょう。

が、上記のあらすじでもわかるように能「杜若」は業平が菩薩の化身、と主張するわけで、現代人が『伊勢物語』に読む王朝貴族の恋物語、という印象とはかなり違った視点を持って作られていることがわかります。総じて能の中で上掲の草木の精が主人公である曲は、なべて「草木国土悉皆成仏」という仏教の視点に支えられてはじめてシテが舞台に登場できるわけで、おのずから仏教の世界観の中で描かれることになります。それにしても「杜若」でシテが言う業平が菩薩の化身、という主張は現代から見ればかなり異質で、違和感は免れないでしょう。

じつはこの曲は中世の人々が『伊勢物語』を読む「ある種の常識」であったようです。ぬえはずっとこれは一部の中世の知識階級だけが持つ特別な読み方なのだと思っていたのですが、まさにこの「杜若」という能の存在そのものや、この能がずっと人気曲として演じ続けられてきた事実が、一部の特権階級だけにとどまらず、ある程度広範に人々に膾炙した中世の人々の「常識」であったのではないかという疑いを持っております。

かつて能「源氏供養」を勤めたとき、同じような大きな「違和感」。。シテ紫式部が烏帽子をかぶって舞う、という設定。。にの解釈に苦しみましたが、今回の「杜若」はさらにその上を行く難解さ。
すでに稽古の中でこれは消化していまして、現代人としてこの中世の作品の感覚を違和感なく上演する方策の目途は立てているのではありますが、やはりシテを舞う以上、作者をはじめとする中世の人々がどのような思いをこの曲に込めたのかは理解しておく必要があり、舞台の実演とは別にこのブログで微力ながらも考察してみようと思います。

どうぞお誘い合わせの上ご来場賜りますよう、お願い申し上げます~

梅若研能会 6月公演

【日時】 2024年6月9日(日・午後1時開演)
【会場】 観世能楽堂 <東京・銀座>

 仕舞 氷 室     伊藤 嘉章
    巻 絹 キリ  梅若 泰志
    山 姥 キリ  中村 政裕

能  頼 政(よりまさ)
前シテ(尉)/後シテ(源頼政) 青木 一郎
ワキ(旅僧)宝生常三/間狂言(里人)小梶直人
笛 槻宅聡/小鼓 久田舜一郎/大鼓 佃良勝
後見 中村 裕ほか/地謡 加藤眞悟ほか

狂言 千 鳥(ちどり)
     シテ(酒屋)   大藏彌太郎
     アド(太郎冠者) 大藏 章照
     アド(主人) 高木 謙成

   ~~~休憩 20分~~~

能  杜 若(かきつばた)
シテ(里女/杜若の精) ぬ え
ワキ(旅僧)大日方寛
笛 一噌隆之/小鼓 幸正昭/大鼓 佃良太郎/太鼓 小寺真佐人
後見 加藤眞悟ほか/地謡 伊藤嘉章ほか

                     (終演予定午後4時45分頃)



【入場料】 指定席A 7,000円 指定席B 6,000円 学生各席3,000円引き
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

※【能「頼政」「杜若どころ講座】
5月25日(土) 13:00~14:30
於:梅若万三郎家能舞台(代々木上原)
受講料:1,000円(研能会入場券購入者は無料)
講師:青木一郎/ぬえ

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その11)

2023-04-19 20:07:18 | 能楽
「弓流し」のエピソードが義経の豪胆さの証明となり、「平家物語」では「つまはじき」だったものが能では見事に家来の武士一同の「感涙」と昇華したところで作者の筆も一段と勢いを得て進んでいきます。

シテ「知者は惑はず。
地謡「勇者は恐れずの。彌武心の梓弓。敵には取り伝へじと。惜しむは名のため惜まぬは。一命なれば。身を捨てゝこそ後記にも。佳名を留むべき弓筆の跡なるべけれ。


もう完全に凱旋する勇者の言葉ですね。能「屋島」の作者はまさにこの文言を書きたいためにこの曲を作ったのだと ぬえは考えています。

名誉を尊びそのためには命を惜しまない、という武人の勇ましさは、前シテが予言したように暁近くになって義経を追ってきた修羅道に対しても対決する姿勢です。

シテ「また修羅道の鬨の声。地謡「矢叫びの音。震動せり。 翔(かけり)
シテ「今日の修羅の敵は誰そ。なに能登の守教経とや。あら物々しや手並みは知りぬ。思ひぞ出づる壇の浦の。
地謡「その船軍今ははや。その船軍今ははや。閻浮に帰る生死の。海山一同に。震動して。船よりは鬨の声。
シテ「陸には波の楯。地謡「月に白むは。シテ「剣の光。
地謡「潮に映るは。シテ「兜の。星の影。
地謡「水や空空ゆくもまた雲の波の。打ち合ひ刺し違ふる。船軍の懸引。浮き沈むとせし程に。春の夜の波より明けて。敵と見えしは群れゐる鴎。鬨の声と。聞えしは。浦風なりけり高松の浦風なりけり。高松の朝嵐とぞなりにける。


かくしてシテは僧に救済を求めるでもなく、暁とともに消え失せるだけで、義経は源平合戦のライバルである平教経と死後も永久に闘争を続けているわけですが、能「屋島」はもっぱら義経が合戦で奮戦した有様を生き生きと描写し、凱歌を上げる英雄としての義経像が描かれていて、それが作者の目的なのだと思われます。

ちょっと気になるのが能の舞台は讃岐の屋島であるのに、いつの間にか長門の「壇ノ浦」に言及されていることですが、じつは讃岐の屋島の近くにも同じように「壇ノ浦」という地名があるのです。現在は本土と陸続きになっている屋島は高松港の東側に、小豆島や倉敷がある北の方角に岬のように突き出しているのですが、その東側の合引川の河口に、公園の名称にわずかに往時の名前を残しています。

だから「屋島」のこの場面でシテが「思ひぞ出づる」と回想するのは屋島の壇ノ浦なのか、とも思いますが、ぬえは、やはりここは長門の壇ノ浦の源平の決戦の場だと考えたいと思います。理由としては単純に義経が教経と「船軍さ」を行ったのは屋島ではなく壇ノ浦だからということもあります。船軍、つまり海上戦が繰り広げられたのはこの屋島ではなく壇ノ浦の合戦なのです。

そして考えるのは、じつは屋島合戦は義経が本当に光り輝いていた人生の頂点だったのか、ということです。ここでの義経の勲功はじつは皆無で、屋島合戦で高名を馳せたのは扇の的を射た那須与一や錣引きの景清、戦死した佐藤継信らなのです。

いやむしろここでの義経は、奇襲攻撃に成功して結果的に平家を駆逐することは出来たものの、まず四国への船出で梶原景時と口論して同士討ちになりかかったり、教経の矢先に率先して進んで身代わりになった佐藤継信を死に追いやったり、あげくは海に乗り入れて弓を落とすミスを犯して危険を冒しながら取り返したり。。と、軍の大将としては軽率と言われても仕方のない行動が目立ちます。

となれば、やはり能の作者が最も光り輝いていた義経を描くのであれば、それはやはり「八艘飛び」など実際に彼の活躍した「壇ノ浦」での合戦であるべきだとも思えます。

が、それは無理かもしれません。「壇ノ浦」の合戦はもちろん源平の合戦の最終地点で決戦であったわけですが、ここでの出来事は見事に戦勝を飾った源氏の姿よりも、安徳天皇や二位尼、建礼門院や知盛など、追い詰められて次々に自ら命を絶ってゆく哀れな平家の末期がどうしてもクローズアップされてしまう合戦ですから。。

こうして能の作者は義経の活躍を舞台化する題材をあえて「屋島合戦」に求め、その最後に「思ひぞ出づる」と霊魂の記憶が屋島に留まらず遠く壇ノ浦にまで飛翔することで、この能の世界に広がりを持たせたのだと ぬえは考えています。

最後に、義経は平家を滅亡させた功績にも関わらず、その後は兄・頼朝に謀反を疑われ、自分が追い落とした平家のあとをたどるように西海に逃げることになり、あげくは東北・平泉で頼った藤原氏からも攻められて悲壮な最後を遂げたのは誰もが知っていることです。

能「屋島」はあえて義経の「その後」を描かず、彼の人生の頂点だけに焦点を当てているのも、これも誰もが気づくことでしょう。この作品が義経への能の作者からの限りないオマージュであることは論を待たないと思います。

で、もう一つだけ ぬえが考えていることがありまして。

この能の前シテは老人で、修羅能や脇能では典型的な化身像なのですが、よく考えてみると、義経は「老人になれなかった」のですよね。彼の享年は31歳。ぬえは、ここまで義経を英雄に描こうとした作者なのですから、能の舞台の上でだけでも、せめて平和に釣りをしながら老後を送る彼の姿を作ってあげたのかもしれないな、と考えております。

【この項 了】

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その10)

2023-04-18 18:49:07 | 能楽
この修羅物独特の型のあとは、これまた押し並べてシテ柱に廻り、そこから小回りしてワキに向かってヒラキ、というのが恒例の型なのですが、しばしばそのヒラキと同時にワキに向かって合掌することも。しかし「屋島」ではそこで地謡が謡う文句が「夢物語申すなり 夢物語申すなり」ですし、ちょっと合掌はしにくいところですね。そういえばこのシテはワキに向かって一度も合掌しないし、「跡弔ひて賜び給へ」というような救済を求める言葉も発しませんね。

地謡クリ「忘れぬものを閻浮の故郷に。去つて久しき年波の。夜の夢路に通ひ来て。修羅道の有様あらはすなり。
シテサシ「思ひぞ出づる昔の春。月も今宵に冴えかへり。
地謡「元の渚はこゝなれや。源平互ひに矢先を揃へ。船を組み駒を並べて打ち入れ/\足並みにくつばみを浸して攻め戦ふ。


ここでシテは大小前から中へ出て床几に掛かります。前シテと同じ場所で同じく軍語りをするので、おそらく「屋島」の作者は前シテと姿が重なることを意識して作っていると ぬえは感じています。

で、ここから例の屋島合戦の「弓流し」の場面になるのですが、この場面、「屋島」はほかの修羅能とも、いやそれどころかほかの能の曲とも異なる不思議な展開を遂げるのです。

シテ「その時何とかしたりけん。判官弓を取り落し。浪に揺られて流れしに。
地謡「その折しもは引く汐にて。遥かに遠く流れ行くを。
シテ「敵に弓を取られじと。駒を波間に泳がせて。敵船近くなりし程に。
地謡「敵はこれを見しよりも。船を寄せ熊手にかけて。すでに危ふく見え給ひしに。
シテ「されども熊手を切り払ひ。つひに弓を取り返し。元の渚に打ち上れば。


何が不思議なのかと申しますと、この部分を囃子方が打ち止めることです。わかりにくいかもしれませんが、じつは地謡が謡っているときに囃子が打っていないのは本当に例が少ないのです。それほど地謡はお囃子方と仲良し、というか切っても切れない縁で結ばれているのです。

これは地謡がシテの心情や状況の説明を8名前後の大人数で迫力をこめて謡うので、その音量には囃子との共演がふさわしいですし何より効果的。いやむしろ、シテとワキなどほかの登場人物との問答の中で話題が盛り上がりを見せたときに その話題を地謡が引き取って、役者ひとりでは到底出しえない声量で心情描写を行うことによって劇としての能がより立体的に見えるので、能ではそのような方法論を取っていることが多いのだと思います。囃子方も場面の世界を構築するのに絶大な力を持っていますし、その演奏の多くの部分が登場人物の感情を表現しているので、同じ方法論によって地謡とともに強力に能のクライマックスの場面を作っていくことになります。

また囃子の演奏は異界から来た人物の神秘性をよく表現できるので、幽霊にせよ鬼神にせよ、後シテが本性を現した際にはずっと演奏が続く場合が多いのです。こういう役柄のシテの場合は、ワキの待謡から後シテの登場を経て、最後までずっと囃子が打ちっぱなし、という事もよくあって、お囃子方は大変な労力を必要とします。

ところが異界から来た後シテの演技の途中で、囃子が打ち止める場合が、ごく少数ながらあるのです。まさしく「屋島」がそのひとつなわけですが、ほかには「実盛」「杜若」「求塚」などがあります。これらで囃子が打ち止めるのはほぼシテの独白部分で、悲しい場面のシテの語りを引き立てるためだと思われます。
「実盛」がその好例で、同じくシテの語りがありながら勇壮な内容の「頼政」や「忠度」では囃子は打ち止めません。「杜若」はシテとワキの問答部分ですが、これは中入がなく物着でシテの姿が変身するので前シテとの間に間隙がなく、ある種前シテの延長のように作られているからでしょう。唯一? 後シテの激しい語りで囃子が打ち止めるのが「求塚」ですが、ぬえが書生時代に小鼓の修行に通った先生から頂いた手付には囃子の手組が書かれていて、「本来は打つのだがシテ謡を活かすために最近は打たない」と注記がされていました。「求塚」は現代の復曲なので、伝統的に演じ続けられてきた曲とはまた同一に考えられない事情もあるでしょう。

しかしながらここに挙げた曲でも地謡が謡うところは必ず囃子が入るので、「屋島」はかなり例外的な作例と言えると思います(思いつく限りでは唯一の例ですが、ぬえが気づかないだけで他にも例があるかも)。

なぜ「屋島」のこの部分に囃子が入らないのかは分かりませんが、「屋島」が小書「弓流」「素働」の演出で演じられる場合と関係するのかもしれません。いわく「弓流」の時は「その時何とかしたりけん。判官弓を取り落し」以降も囃子が打ち続けてイロエになり、シテは立ち上がって舞台の前方で囃子の特殊な手組に合わせて扇を落とし、義経が弓を取り落とした様子を再現します。

小書が「弓流」だけのときはこのあと囃子は打ち止めますが「素働」がつくとさらに打ち続けて二度目のイロエになり、大小鼓は流シになってシテが取り落とした弓を取り上げる様を演じたり、ぬえの師家では「されども熊手を切り払ひ」と太刀を抜いて敵の熊手を切り払う所作をしたり、と写実的な型もあります。

小書がつかない「屋島」を考えるとき、この小書との関係性を考慮する必要はあるでしょう。小書というものは「~之伝」とかの名称がつくなど、一見 古い伝承を伝えているように見えますが、実際には江戸期に工夫された演出を保全した小書も多いのです。「屋島」の「弓流」「素働」も後世の工夫かもしれませんが、案外こちらが本来の演出であって、難易度が高いこの演技を小書として別扱いにし、この部分を演じないでやや難易度を下げた上演の形が小書なしのスタンダードな演出とし、特殊な手組を打つ必要がなくなったためにこの部分の囃子そのものを割愛した、ということも考えられるかもしれません。

さて舞台ではこのあと囃子が再び打ちはじめてクセから翔、キリへと続いてゆきます。

地謡「その時兼房申すやう。口惜しの御振舞やな。渡辺にて景時が申しゝも。これにてこそ候へ。たとひ千金を延べたる御弓なりとも。御命には代へ給ふべきかと。涙を流し申しければ。判官これを聞しめし。いやとよ弓を惜しむにあらず。
クセ「義経源平に。弓矢を取つて私なし。然れども。佳名は未だ半ばならず。さればこの弓を。敵に取られ義経は。小兵なりと言はれんは。無念の次第なるべし。よしそれ故に討たれんは。力なし義経が。運の極めと思ふべし。さらずは敵に渡さじとて波に引かるゝ弓取の。名は末代にあらずやと。語り給へば兼房さてその外の。人までも皆感涙を流しけり。


ここも問題のところで。。
そもそも「兼房」って誰でしょう。義経の腹心の部下であるかのようにここでは描かれていますが、じつは「平家物語」に「兼房」なる人物は登場しないのです。

「平家物語」では弓流しの場面で義経を諫めたのは「おとな共」「兵ども」で、おとな共は富倉徳次郎氏の「全注釈」では「老武者たち」と解説されています。多くの部下が諫めたのであり、「平家物語」の本によっては「つまはじきをして」と明らかに不快感をあらわにして非難していますね。

つまり「平家物語」では弓流しは猪突猛進型の義経の性格の一端を見せている場面で、彼のこの性格はほかの場面でもしばしば描かれているところです。能「屋島」の作者はそれをなじる部下の言葉を義経の身を案じた忠臣の言葉にすり替えたわけで、それは「渡辺にて景時が申しゝも。これにてこそ候へ」と対比するためでしょう。梶原景時は石橋山の合戦で敗走する頼朝を救け、後にその腹心となった人物で、能「箙」のシテ源太景季の父でもあります。「渡辺にて景時が申しゝ」というのはこの屋島合戦のために暴風の中に船出しようとした義経と口論となった有名な「逆櫓」の論争のことで、このとき景時は義経を「猪武者」と罵倒してあわや同士討ちになる寸前までいったとのこと。

この事件を念頭に置いて能「屋島」では義経の身を心配する部下に慕われていた義経像を描こうとしたのでしょうが、それにしても兼房とは。。

兼房と聞けば能楽では「二人静」に出てくる「十郎権頭兼房」がすぐに連想されるわけですが、これは「義経記」だけに登場する人物で、義経の北の方の幼少時からの乳母(守り役)であり、義経が平泉で自害して果たときはこの北の方と若君・姫君を刺殺して自分も館に火を放って敵将の弟を小脇にはさんで炎に飛び入って壮絶な最後を遂げました。

ところがこの十郎権頭兼房が義経とはじめて出会ったのは平家滅亡後、兄の頼朝に追われて都を落ちる際に北の方に従ったときで、当然 屋島合戦には参加していません。能「屋島」では「義経記」に描かれた十郎権頭兼房の壮絶な最期を義経に従う忠臣の代表と見て、彼をこの場面に登場させ、梶原景時と対比させることによって家来に慕われていた義経像を作り上げようとしたのかもしれません。