ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

参観日に行ってきました~

2013-06-30 02:17:41 | 能楽
え~、今回の記事はあまり大きな声では言えないことかもしれませんが~

先日の運動会に引き続いて、今度は伊豆の「子ども創作能」の教え子たちの参観日にお邪魔してきました~。「○○っ子まつり」という名称の学芸会も見に行ったことがあるし、運動会は先日を含め2回も見に行ったし。。「あとは『土曜参観日』に出席すれば保護者に公開される行事の制覇ですね~」と以前保護者に言われた言葉を思い出して、ついにそれにも参加してしまった~

11人も教え子がいる小学校。いろいろ、ぬえの時代との違いとか、思うところはありました。が、まずはメンバー紹介だ~!

最初は2年生のサキちゃんのクラスから。授業の最初に挨拶をするのですが、昔は「日直」さんが号令をかけて無言で「起立」「礼」「着席」。。となるだけでしたが、この学校では担当の児童が「起立」と号令をかけ、それから「これから2時間目の算数を始めましょう」と呼び掛けると、クラスのみんなが一斉に「始めましょう!」と合唱して着席。授業の中ではクラスの学級委員でもあるサキちゃんも指名されて計算を板書。簡単な問題に当たって本領発揮ではなかったけど。



このあと先生は計算の方法を説明させましたが、面白かったのは、説明し終えたサキちゃんは「。。となります。どうですか?」とクラスメートに問いかけ、みんなは「いいで~す」と応えていました。このあと先生がクラスに意見を求め、計算方法を討論させていました。

いろいろ新しい発見がある授業参観ですが、45分しかない授業が数回行われる中で11人の教え子を全部見るためにここで退席。。同じ学年のケイゴのクラスに行ってみると。。なんとケイゴ本人が一人で黒板の前に立って発表している!! 「をを~~っ!」とすぐに教室にもぐり込んでみると、じぇじぇっ!。。もとい、ばばばっ!? なんとケイゴ、「子ども能」の話をしているのでした。



黒板をよく見ると「ぼく、わたしの『すきなこと』『とくいわざ』」と書いてあります。授業は国語で、「しょうかいしたいことを話そう」というテーマらしい。ケイゴは「今度の公演ではボクは地謡ですが、次は舞う役をやりたいです」「歴史を知るためには能はとっても良いです。みなさんも見てください」なんて発表してる。発表の途中で現れた ぬえにも気づいたみたい。ほどなくケイゴの発表は終わり、同じグループの女の子が発表することに。グループは同じなのでまだ黒板のそばに立つケイゴに親指を立ててガッツポーズを見せると、ケイゴも返してくれました。授業が終わって教室から出てくるケイゴとハイタッチして健闘を讃えました~。

これにて2時間目の授業はおわり、長めの「20分休み」になりました。真夏ほどはないとはいえ、暑い日だったのでこの時間を利用して校外に出て近所のコンビニでフローズンのジュースをゲット!



こんなところ、教え子の子どもたちに見られたら容赦ない罵声が浴びせられるのですが、子どもたちは校外には出ないので安心して冷たい飲み物を味わいました。ん~おいちい~~

3時間目から参観に復帰して、今度は6年生の授業へ。先日の運動会で人間タワーの頂上に立ったコオは家庭科の授業~。先日の勇姿とは正反対の姿で、布地にアップリケを縫いつけていました。器用だったけど。



となりの、イチイとリサがいるクラスは社会科の授業中でしたが、内容はなんと彼らが先日まで 子ども能『伊豆の頼朝』で主役を勤めたばかりの頼朝と鎌倉幕府について、でした。

その内容も深いもので、たとえば頼朝が幕府を開いた土地がなぜ鎌倉であったのか、という先生の問いの答え。自然の要害である地形だったから、という常識ばかりでなく、鎌倉が義朝のゆかりの地だったとか、頼朝の味方となる豪族や武士が多かった、朝廷から遠くて自由に政策を進められたとか。。『平治物語』の内容にまで言及。。じゃないね、この場合は日本史の割と深いところまで、6年生ともなると勉強しているんですね。もちろん最近の常識である「いい国作ろう」ではなく「いいハコ作ろう」にも先生は言及されていました。





クラスの学級文庫には能の解説書もありました~



5年のゆっきーなは社会科の、これは地理の授業でした。机に都道府県のカードを置いて、先生が読み上げる特徴から百人一首やカルタのように友達とカードを奪い合う授業。小学校は体を動かすように授業が進められているようです。



そのあと着席しての授業になりましたが、ゆっきーなは指名されて堂々と答えておりましたよ。



おっと忘れちゃいけない、校庭では常にどこかの学年が体育の授業をしています。よっちがいる4年生はリレーと8の字縄跳びをしていました。よっちは背が高いので縄跳びを廻す役。



これにて給食と昼休み~お掃除タイム。午前中に保護者から情報を得た ぬえはここで校外に出て、昼食を兼ねて子ども能の稽古日の変更の作業をしました。

午後。11人の教え子の授業をまだ全部は見てな~い。
急ぎ足でご紹介。2年のきっぺは音楽の授業でした。いまはピアニカの演奏を習うのか~。ぬえの時代は低学年はハーモニカ、高学年がソプラノ・リコーダーでした。でもピアニカは着眼点が良いね! 鍵盤楽器は楽典が目で見て理解できる楽器なので、初心には良い楽器だと思います。





ママも心配そうに。。



こうして子ども能参加者の参観日を満喫させて頂きました。関係各位のご協力に感謝申し上げます!

第14次支援活動<気仙沼>(その7)~第十八共徳丸

2013-06-28 07:15:51 | 能楽の心と癒しプロジェクト
東新城オレンジで出会った起業家の方々に車に便乗させて頂き、3日後にプロジェクトで訪問予定の「鹿折復幸マルシェ」さんへ。まずはポスターをもう少し増刷するために、マルシェさんの少し先の仮設のコンビニへ行きました。ここであらかじめ笛のTさんが製作して送信しておいてくれたポスターをネットプリントで出力。便利な時代になりました~

このコンビニ、例の 津波で押し流された巨大漁船「第十八共徳丸」のすぐ前にあって、もう観光地となってしまった漁船を見る人でいつも賑わっています。

この日、ポスターを出力した ぬえには目的がありました。この漁船の下に取り残された車の残骸を見ておこうと。。





「第十八共徳丸」の下に車の残骸があることを知ったのは、今年の1月にこちらのブログ記事を見てから。
ありふれた風景

。。恥ずかしながら、この記事を見るまで ぬえはこの車の残骸が船の下に取り残されていることを知りませんでした。もう2年も通っている場所なのに、いったい ぬえ、どこを見ていたんだろう。。

この日はじめて注意して見た ぬえは、確かにそれがそこにあるのを確認しました。ドライバーがいなかったことを祈るばかりの惨状で、船があるため捜索もされていないはず。。

ちなみにこちらが過去に ぬえが撮影した「第十八共徳丸」です。

2011年7月2日



当時はほかにも多くの船が陸地に打ち上げられたままになっていました。



2011年12月27日



2012年8月14日



2013年3月9日



5月末に見た漁船は、取り壊しが決定され、船の前に置かれていた祭壇も撤去、立ち入り禁止のロープが周囲に張られていました。船体には車の上だけ焦げています。車が炎上したのでしょうか。

すでに漁船の撤去は決定されたそうですが、その是非については、ずっと賛否両論の意見が戦わされてきました。ぬえが会った気仙沼市民のみなさんの大方の意見はいわゆる「震災遺構」として保存すべき、というものでした。どちらかというと ぬえはこのような負の遺物は残さない方がよい、という考え方だったのですが、早く被災建物を撤去した名取市の閖上で「何もなくなったけれど、人も来なくなった」という感想を聞いて、複雑な思いを持っています。

また、人的被害を起こした「遺構」については特別な感情を持つ方も多いでしょう。この漁船も間違いなくそのひとつで、ぬえもこの船を「凶器」と言った方も知っています。また福島県いわきの船主さんの元には「早く撤去してくれ」という苦情がたくさん寄せられているそうです(ぬえも以前、このコンビニの駐車場で、船を撮影している人々を苦々しげに見つめながら「チッ。。そんなもの撮っても面白くもないだろうよ。。」と舌打ちした人を見かけました。関係者かも。。)。そういえば「第十八共徳丸」はすでに廃船となり、この船主さんのもとで同じ名前の新造船が造られて、すでに就航しているそうです。船主さんにとっても、痛々しい船の姿をいつまでも晒しておくのは忍びないことでもありましょう。

でもまた一方、「この船も被害者」と言った方も ぬえは知っております。そうしてこの日「鹿折復幸マルシェ」さんで、またもうひとつの意見を伺うことができました。

第14次支援活動<気仙沼>(その6)~東新城オレンジ…会食~出会った人々

2013-06-27 06:46:48 | 能楽の心と癒しプロジェクト
東新城オレンジの落成式は無事におひらきになり、引き続いて会食となりました。

いまだ紋付のままで式典の写真を撮りまくっていた ぬえもここで着替え。菅原気仙沼市長さんが わざわざ ぬえの控室にご挨拶に見え、名刺を交換させて頂きました。

さて会食にお邪魔させて頂きましたが、いろんな話を伺えて楽しい食事でしたね~。「じぇじぇ」とは聞いたことがない、こちらでは「ばばばっ」って言うんですよ、とか。。「ネットワークオレンジ」に在籍する「エッグ」の子より抹茶のサービスも。彼らはここでお茶や絵画なども先生について習っているんですって!



さてこの会食で会った方の中でも印象的だったのは、ご主人が遠洋漁業の船乗りさんという奥さまがおられて。

遠洋漁業というと、一度出航するともう1年間も帰ってこないお仕事。奥さまはその間ずっと一人でおうちを守るのです。奥さまは「何でも自分で決めなければならないんですよ」とおっしゃっておられました。そりゃご主人と連絡を取る手段はあって、それは「衛星電話」を使うのだそうですが、そうそう毎日のように電話を掛けられるわけでもなく、時差もあるし。。「ご主人からは『お前に任せる』と言われているんですが。。一人で決断しなきゃならない場面もあって、いつもこれで正しかったのか、と心配になるんですよ」とおっしゃっていました。

で、お話しでスゴかったのは震災のとき。気仙沼では停電もあったし、混乱していたので、ご主人と衛星電話でお話をしたのは数日も経ってからのことだったのだそうです。ご主人も航海中であっても当然震災の情報は入っていたでしょうから、気が気でなかったでしょうね~。。

そしてもちろん震災があったからといってご主人だけ船から下りて日本に帰るということはできず。。そうしてご主人が気仙沼に帰ってきたのは、震災から半年後のことだったのだそうです(!)。半年。。その頃 ぬえは石巻で活動していましたが、その上演の日に ぬえらがはじめて当地にやって来たと誤解された住民さんから「今ごろ来ても何もわからんじゃろう。。」と言われたのを思い出します。それぐらい急ピッチでガレキの撤去などが進められていたわけですが。。いや、今から考えれば震災から半年後では、まだまだ復興は進んでいるとはいえない状況だったとは思いますが、いずれにせよ半年間も郷土の被害を心配しながら船に乗り続け、ようやく気仙沼に帰ったときのお気持ちはいかばかりのものだったでしょう。。

さて、三々五々お帰りになる方もあったので、ぬえも東新城オレンジを失礼することに致しました。この日は3日後に活動させて頂くことになっている仮設商店街「鹿折復幸マルシェ」にお邪魔してご挨拶し、公演の宣伝のためにポスターを貼らせて頂いく予定になっていたのです。

東新城オレンジの外に出たところで、それでも何人の方とお話し。まずはこの日の ぬえの上演に感想を話しかけてくださった若い男性。お名前を聞いて、それが気仙沼大島に多い苗字だったもので、その旨を伺うと、やはり大島の方でした。この人のお話もスゴかった。。

震災当時は本土の方の気仙沼市街におられたのですが、大島に帰れたのは4日後のことだったそうです。当時大島に渡る定期航路のフェリーはまだ動いておらず、フェリーが運航しない夜などに本土と大島を結ぶ臨時船の「ひまわり」がようやく運行を再開したばかりの頃だと思いますが、この方が乗ったのは小さな動力がついたボートだったそうです。「ひまわり、いいな~」と思いながら、ボートがはね上げる波しぶきにずぶ濡れになりながら大島に渡ったのだそう。

で、大島に着いてみると消防団の方から家族の無事を聞いたのですが、すぐさま「山へ行け」と指示を受けたのだそう。それは当時、大島に漂着したガレキの炎が島に燃え移って、島の北側の3分の1にもあたる大きな山。。亀山が大規模な山火事を起こしていたからでした。一時は「全島避難」まで取りざたされたほど事態は深刻だった山火事に、この方も対決されていたのでした。。

続いて先日ご紹介した、「ネットワークオレンジ」さんの手助けもあって起業された何人かの方とお話しして、こちらは それぞれに技能を持った方々です。ぬえらプロジェクトの活動の話になって、今後仮設住宅でなどでご一緒に活動できるのではないか? という話題になりました。ぬえたちも、能の上演や装束の着付け体験だけではなく、もっと活動に付加価値をつけたいかな。。と漠然と考えていたところだったので、これは今後面白い展開が期待できるかも、です。

で、こちらの起業家さんたちのお車に便乗させて頂いて、「鹿折復幸マルシェ」さんにお邪魔させて頂くことになりました。気仙沼の反対側にあるのだとばっかり思っていた東新城と鹿折は、じつは安波山を貫くトンネルを通るバイパスがあって、これを使うとあっという間に鹿折に到着します。この安波山、震災当時気仙沼でロケをしていたサンドウィッチマンのお二人が避難したところなんですって。仙台出身のお二人はその後も被災地のために精力的に活動されています。

茨城県~鹿嶋市・潮来市・神栖市のいま

2013-06-24 15:59:24 | 能楽の心と癒しプロジェクト
終末はオフだったのでマリカ姫と一緒に旅行に行っておりました。父が家を持っている茨城県の鹿嶋市。



震災以来、もう何度か訪れていますが、津波の被害があった、と聞いた割には鹿島港に行ったのは震災のあとではこれが初めて。近くの霞ヶ浦周辺にある「鹿行(ろっこう)大橋」が地震で崩落し、たまたま通りかかって巻き込まれた車があって死者が出たとの話も聞いてはいましたが。。橋は現在架け替えられ、旧橋は崩落の原因調査が進められているとか。

鹿嶋港ではかつて釣りもよくやりましたが、有料の「魚釣園」にまずは行ってみて、真っ白な真新しいコンクリートで漁港が覆われていることにまずは驚きました。その漁港の堤防の一部に作られていた「魚釣園」は跡形もなく。。それでも堤防は大きな被害を受けなかったようで、「立入禁止」の柵の向こうでは大勢の釣り客がいました。





さらに進むと、橋の向こうに水先案内人の事務所とか海上保安署の信号所‎などがある小島があるのですが、ここは落橋の恐れがあるとのことで車両通行止めになっていました。付近には、震災で壊れたのかどうかわかりませんが、航路に浮かべるブイの標識が放置されていたり。。











次に鹿島港の最奥にある「港公園」で展望台のチケット売り場のお姉さんに話を聞きました。すると、震災の時はこのあたりも大きな被害があって、午後3時15分に茨城県沖を震源とする震度6弱の地震によって付近一帯に拡がる工業地帯のうち住友金属の鹿島製鉄所ではガスタンクの火災が発生。津波の被害も深刻で、前述の魚釣園周辺のほか道路上まで来た津波によって港のコンテナや車が多数流されたり、「港公園」でも芝生がえぐり取られたそう。直後に停電になったため情報もなく、津波の犠牲者も1名出たそうです。



こちら「港公園」管理棟に展示されていた震災当日の鹿島港の写真。











展望台から見た鹿島港。





火災のあった製鉄所はこのあたりです。



「港公園」のお姉さんに教えて頂き、震災の被害が大きかったという神栖市の「堀割地区」と潮来市の「日の出地区」にも行ってみました。ここいらは「水郷」といって、昔から水路の多い、風光明媚なところですが。。



こちらは「堀割地区」ですが、液状化現象によって大きな被害が出たところで、震災から2年経ってもこの有様でした。





こちら「日の出地区」ではかなり広い範囲で道路が隆起したり陥没したり。さらに状況は悪いようです。家がすべて真っ直ぐに建っているのに塀や門はことごとく傾いていて、なんだか見ているうちに平衡感覚を失ってきます。







ガレージと道路に段差ができてしまった。(表札と車のナンバーは消してあります)



これほど土地が動いたのだから、家だけがそのままで建っているということはあり得ず、おそらく公的な助成などを受けて、被害程度の低い家は修繕をしたのでしょうね。

画像ではよくわからないかも、ですが、道路の片側だけ50cmほど隆起しています。



ぬえはずっと東北地方に目を向けていましたが、東京から近い関東の太平洋沿岸でも、ここまでの被害が出ていることを、はじめて知ったのでした。

不思議なことに、銚子市の方ではあまり大きな被害は出なかった模様。たまたまですが、最近神栖市の震災の様子を記録した写真集が出版されたと「港公園」のお姉さんに聞いたので、これを求めに神栖市の本屋さんを廻りました。ところが被害があった鹿島港の周辺とか堀割地区のあたりでは、この本はどこに行っても売り切れ状態でした。困って、神栖市内でもちょっと遠方の本屋さんにまで電話して在庫を確かめると、「ああ、ありますよ」」と言ってくれた本屋さんをようやく発見。すぐに車で向かったのですが、これが遠い遠い。。

たどり着いた本屋さんは、銚子市のすぐそばにありました。そしてそこではこの本がどっさり置かれてありました。なるほど、実際に周囲で受けた被害の有無によって、こういう本。。すなわち震災そのものに関心を示す度合いも変わってくる、ということもあるのかもしれない。「風化」、ということが ふと頭をよぎった ぬえでした。



あ、この神栖の震災を記録した写真集『未来への伝言』、Tさんの分も買っておきましたよ~

第14次支援活動<気仙沼>(その5)~東新城オレンジ落成式典

2013-06-23 00:10:00 | 能楽の心と癒しプロジェクト
そうこうしているうちに式典の開始が近づいています。ぬえには式典会場とは反対側。。入口を入って右奥の部屋を控室にご用意頂きました。今日は装束がないので紋付と裃を着るだけなので、ま、10分もかかりません。とはいえ出演は開式宣言よりも前、式典の冒頭ということでしたので、何か不都合が起こるかもわからないし、30分前には着替えを完了。。そこでハッと気づきました。この日の上演の曲目『高砂』くらいは伝えていたと思うけれども、ぬえ自身やプロジェクトについて、はたまた上演曲目の『高砂』の内容は誰もお客さまに説明できないではないか。そこで急遽控室で司会の方に読んで頂く原稿を準備し始めました。

。。本当のことを言うと、『高砂』という曲はめでたいけれど、新築の建物のお祝いの場面では ふさわしくないんですよね。ここで舞われる「神舞」の調子。。「黄鐘調」は五行説になぞらえて「火」の調子、ということになっているのです。これに対して「水」の調子である「盤渉調」の方がこういう場面ではよろしいのですけれども、「盤渉調」は他面、陰の調子で、生命よりは「死」をイメージする調子で、「黄鐘調」はその逆。こういうわけで『融』や『海士』が追善の場合に演じられるのは、まずはこれらの曲が亡き人の追福や追悼の気持ちをストーリーの中や詞章に持っていることと、それから「盤渉調」の「早舞」を舞うことが理由になっています。

「めでたさ」が本質である『高砂』をはじめ神能では、こうしたわけで「盤渉調」の舞を舞うことはないのですが、これは「黄鐘調」の舞そのものが、ある種生命力を表しているから。「火」もその意味では燃えさかる生命の象徴のようなものなのかもしれませんが、一方、新築のおうちに対しては火災のイメージもあります。要するに東洋の音楽理論で考える「めでたい場面」での上演に、新築のお祝いは矛盾を生じてしまうのです。

もちろんこうした齟齬を解消する手段もないわけではなくて、『高砂』などの神能のシテが舞う「神舞」を、あえて「盤渉調」で演奏する「盤渉神舞」というものがあるのだそうです。江戸期など将軍さまやお殿様の御殿や城が新築されたときなど、なるほど「火」の調子で能を演じることはできないでしょう。とはいえ、これはそのような特殊な事情がある場合のことで、ぬえは現代において「盤渉神舞」の実演には一度も接したことがありません。舞い方も ぬえは存じませんが、実際には「盤渉神舞」は重い習いであったり、常にはない約束事もあるのでしょう。

こういう問題もないわけではないのですが、まあ音楽理論としての意味づけをよくよく考えれば気になる、ということで、実演上は このようなめでたい式典には『高砂』はよく似合います。解説では若い男神が颯爽と祝福の舞を舞う、という『高砂』の本質的な意味と見どころを書いておきました。

裃を着て、午前11時に式典の開始。ぬえは本当にその冒頭、開式宣言の前に舞うことになっていました。まず邪気を払い、場を清めてから、というお考えは、能の上演の意味をよく理解しておられると思います。ぬえも滞りなく勤めさせて頂き、さて控室に戻るとすぐにカメラを持ってこの記念すべき式典を撮影。



気仙沼市や宮城県の来賓の方のご挨拶が続き。。こちらは気仙沼市長の菅原さん。



次は「東新城オレンジ」建設の支援者、施工業者さんなどにオレンジに在籍する児童「キッズ」や「エッグ」(年齢や進歩に応じて分けられています)から感謝状が手渡されました。





そうしてついに! くす玉が割られました。
「キッズ」や「エッグ」たちみんなで歌を歌い。。



最後は美厚さんのご挨拶で、無事に落成式がお開きになりました~~





第14次支援活動<気仙沼>(その4)~小野寺美厚さんのこと(2)

2013-06-22 18:12:02 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ぬえ、ただいまマリモ姫と一緒に旅行中です~。こないだ気仙沼から帰る夜行バスのチケットかじったあの方。

震災以来はじめて茨城県の鹿島港を見て来ました。思ったより被害が大きくてビックリ。海釣り公園だった「魚釣園」は壊滅、それがあった小さな漁港は岸壁が真新しいコンクリートで作り直されていましたが、使用できるのはまだ先のようです。「港公園」は元のままでしたが、展望台のチケット売り場で聞けば、震災の日の群発地震では茨城県沖が震源の地震もあって、すさまじい揺れがあったそうです。津波の前に海の底が見えるほど潮が引き、芝生の庭は海から数メートルは津波の引き波でえぐり取られてしまったのを復旧したのだそう。近所には液状化現象で傷ついた道路がまだ工事中で、ここより南の千葉県では死者もあったそう。。

。。。

さてご報告の続きです。

美厚さんの話題で面白いのはバンドの「TUBE」とのつながりでしょうか。双子のお子さんに障害があることが解ってつらい思いをされていた頃、「TUBE」の音楽に勇気づけられたのが、どうも美厚さんの出発点らしいです。その後ずっと時間が経って、「ネットワークオレンジ」さんの活動がだんだんと大きくなってきた頃、ふとしたキッカケで「TUBE」の事務所の社長さんと知り合いになり、美厚さんが活動の契機となったのが「TUBE」の音楽であることをうち明けたのだそうです。

社長さんもこれに応えて、「TUBE」のメンバーや関係者といろいろと調整を重ねて、曲を「ネットワークオレンジ」さんが活動の中で使うことが許されるようになったとのこと(これが実は大変な作業であるらしい事は東北地方での活動の中で ぬえも耳にしたことです)。

そのうえ「TUBE」のメンバーも粋な計らいを。前回ご紹介させて頂いた「東北マルシェ」のイベント当日に、「TUBE」がサプライズで登場したこともあるんだそう。そういえばこの日の「東新城オレンジ」落成式にも「TUBE」から届けられた大きな花が飾ってありました。坂本龍一さん、中井正広さん、庄野真代さん。。ぬえが見てきただけでも、いろいろな有名人さんも復興支援に携わっておられるんですね~

それからもうひとつ美厚さんら「ネットワークオレンジ」さんの活動で特筆しておかなければならないのは、起業支援の活動ですね。この日の落成式で。。正確にはそれが終わって ぬえが「東新城オレンジ」を失礼して次の活動場所に移動する際に、ぬえは落成式に出席された気仙沼の女性3人さんとなんとなくお話していたのですが、この方々は「ネットワークオレンジ」さんの支援活動の成果として起業された方々だったのでした。お仕事は足つぼマッサージとか、ちょっとした、趣味から高じたような印象のものでしたが、こういう地元に密着するような小規模の事業が地域を活性化させる、と「ネットワークオレンジ」さんでは考えておられるのでしょう。

こうして起業に必要な知識やノウハウ、必要書類の書き方などを指導することで、単なる特技から経営に結びつけ、前述のような地域産業の振興や、ひいては「東北マルシェ」のように、それらを結集するような大きな活動に結びつける意味があるのだと思いますが、これら起業家の方から聞いて印象的だったのは、行政からの補助?を受けるまでにこれらの方々が成長したことで、「ネットワークオレンジ」さんで指導を受けた起業家の方には、こういった補助の審査の合格率が高いのだ、とのこと。

美厚さんには「ああ、それで税金がそちらに廻りすぎだ、と国会に呼び出されて怒られたんですね?」なんて軽口をたたいて笑わせた ぬえですが、ご自分たちも被災されたにもかかわらず(家や実家が震災で流されたメンバーもある模様)、気仙沼全体の活性化から、次の災害にまで視野を広げられ、さらにそれを実践している美厚さんらの活動は、ちょっと ぬえには驚きを通り越した感銘を与えました。

ついでながら。。余計なことではありましたが、ぬえにはどうしても美厚さんに聞いておきたいことが。。それは、これほどの活動を展開している中で、バッシングは受けなかったですか? というもの。答えは案の定「大変な非難もありました~」と。笑っておられたが、。お察し致します。。

これは震災には関係なく、あまねく人々が共同で生きている社会の中で避けて通れない事なのかもしれませんが。。ぬえには東北で支援活動をする団体や個人が、誹謗中傷を受けたり、ときにはそれが暴力にまで拡大したり、ということを何度となく目にしてしまいました。そのために活動そのものを断念してしまったり、ちょっとこれは。。と思いますが、社会を逆恨みしてしまった人も。。

混乱と復興のための強い情熱と。人が集まれば当然いさかいも起きるもので、今回の震災の支援活動の負の側面というものも同じようにあったし、それは混乱と情熱が大きかった分だけ増幅されていたようにも ぬえには思えました。ありきたりの言葉で結ぶのもどうかと思いますが、これらの困難をも克服して次々と活動を展開されている美厚さんや「ネットワークオレンジ」さんの活動に敬服した ぬえなのでありました。

ぬえの方も、プロジェクトの目標のひとつとして昨年から展開している「文化の復興」(あいかわらず、ナマイキかなあ、とも思っておりますが)という事について美厚さんにご説明させて頂きました。美厚さんは「それは素敵ですね~」と。美厚さんに褒められると、なんか嬉しい(笑)。

第14次支援活動<気仙沼>(その3)~小野寺美厚さんのこと(1)

2013-06-20 02:48:52 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さて「かもめ通り商店街」や「東新城オレンジ」の写真を撮って会場に戻ると、ちょうど「ネットワークオレンジ」の代表・小野寺美厚(みこ)さんと目が合いました。いろいろと準備がお忙しいところですが、ぬえが話しかけると美厚さんも気軽に応じてくださって。。ここから、そうだな、20分くらいも二人でいろいろと話し合うことになりました。

じつはこの日の少し前、ぬえは美厚さんが国会に参考人として招致され、意見を述べておられていたことを知ったのでした(!)。まずはそんな話題から始まって、もう1年のお付き合いになるというのに「ネットワークオレンジ」について知らない事が多すぎて、いろいろとお伺いさせて頂きました。そうしたら。。

まず団体の活動の原点は、美厚さんがお子さんを出産されたところから始まります。。双子の男の子は不幸なことに障害を持って生まれたのでした。そこから母親としての戦いが始まります。行政を相手に保育園や小学校に健常者と差別なく入れてもらうこと。。なるほど、ここまでなら どの母親でも行うことでしょう。ただ、美厚さんの場合はこれは20年前のお話しで、まだ障害者を保護したり自立の支援になるような法律もない時代の話でした。

次に美厚さんの活動は、後に続く母親のために、そして育ってゆく我が子のために団体を立ち上げて、知的障害児童の自立支援を行うようになり、児童が作った作品を販売するなどの活動も始められました。まあ、ここまでも地域活動としては各地でたまに耳にするようなことだと思います。問題はこのあと。

。。ここからは美厚さんから ぬえが直接伺った内容をかいつまんでお話ししようと思います(記憶違いなど間違いがあればご指摘ください→関係者各位)が、美厚さんは障害を持った児童が技能を身につけて社会に巣立つとして、それを受け入れる側の社会が疲弊していることに気づきました。まだ大企業が雇用者の一定の割合で障害者を採用しなければならない法律(障害者雇用促進法)もない時代の話ですが、現実に地域で働く場としての中小企業などにとっては経済的にとても障害者を受け入れるような余裕がないことに気づいたのでした。

そこで美厚さん。。というか、ここからは「ネットワークオレンジ」のみなさんが、と言った方が良いでしょうね。それが主導して地域の産業の活性化にまで視野を広げていかれたのでした。

現在「ネットワークオレンジ」さんが展開しておられる事業は多岐に渡っていますが、障害児童対象の作業訓練、生活訓練はもちろんのこと、地域の事業者などを対象に、講師を呼んでビジネス講座を開いたり、NPO団体の運営相談に乗ったり。地域が活性するために「学ぶ」機会や講座を次々に提案していること。

こうして育っていく地域の活性のアイデアを集成して発現する場として、次に登場するのが「東北マルシェ」という構想。すでに、どちらかというとイベントとして2回行われているようですが、目標としては恒常的な施設として運営することで、そこでは商業地域としての役割だけではなく、障害児童の就労の受け皿として活用もし、イベントステージもあり(ぬえさんもそのときは是非、とご招待頂きました~)。。そうして。

この「東北マルシェ」を、次の災害が起こったときの避難所とも位置づけ、また他所での災害の支援拠点にもしよう、というのが美厚さんの口から聞いた理想の姿なのでした。

ううむ、ここまで考えておられたのか。。じつは東北地方の沿岸地域では次の震災。。つまり2年前の震災の余震として、前回と同じような地震と津波がもう一度同じ地域を襲うであろう、ということは確信のように囁かれていました。。結局それはいまだに起こっていないわけですが、万が一の際のその備えや協力関係は、意外にも確立されていないように思っています。それは単純に前の震災から立ち直るのにまだ多くの時間が割かれている、というだけではなく、ときにドロドロとした人間関係が足かせとなって、みんなが心を共有して目標に進むのを困難にしている、という事情さえあるのです。問題は複雑。ぬえ自身、2年間被災地で活動を続けているわけですが、このブログにも書けないこともたくさんあります。。

その一方、ぬえが見た石巻の湊小学校避難所の校庭に建てられた、まるでサーカス小屋のような巨大なテント。これは中越地震のときに被害を受けた人々からの支援の浴場だったのです。ぬえがそれと知ったのは、そのテントに大きな横断幕が掲げられてあったからですが、そこ書かれた石巻の人々へのメッセージは「がんばってください」でも「応援してます」でもありませんでした。ぬえがそこに見た文字は「ありがとう」だったのです。

「チーム神戸」のリーダーの金田さんも、同じく17年前の阪神淡路大震災の被災者。今回の震災では直後から石巻市に入って、以来2年以上を石巻に常駐して支援活動に携わっておられます(現在は神戸と半々に行き来しておられるようです)。。これは東京に住んでいる ぬえには衝撃的でした。神戸や新潟。。震災で痛手を受けた人々は、次に同じような災害を受けた土地があれば、自分たちの経験を元にして支援活動を展開する準備をずっと整えていたのでした。東京だって10万人の死者・行方不明者を出しているのに、現状では ほとんど風化してしまっているのが実情でしょう。

これら神戸や新潟の人々を見て、ぬえは、いつか同じように災害が起こったとき、石巻とか気仙沼から「ありがとう」と書いた横断幕がついた支援物資が届けられる日が来るのを夢見てきました。

。。でも、現実にはまだまだそういう余裕は今の東北地方にはありません。仮設住宅での孤立や孤独死の問題、その仮設住宅自体の解消もいずれは訪れます。仮設商店街も、場所によっては採算の問題もあるらしい。これらの「仮設」がなくなった時に、本当に住民さんが自立できているのか。今は見えない将来のために不安が覆っている段階であるように ぬえには見えます。もちろん、ぬえの管見には入って来ない、もっともっと前進している人々もあるのでしょうが。。

ですから、ぬえにとって「次の災害」が起こった際の避難はもとより、支援にまで話を進めた美厚さんのお言葉は、この2年間の活動で最も胸を打った、と言ってよい言葉でした。こういう人もいるんだねえ。感激。

第14次支援活動<気仙沼>(その2)~東新城オレンジ

2013-06-19 08:25:00 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【5月25日(土)】
朝6時、夜行バスが気仙沼市役所に到着、すぐに「ネットワークオレンジ」さんの事務所(兼・児童の作業所)「三日町オレンジ」へ。徒歩1分で到着~。すでにスタッフの白幡さんは到着、仮眠させて頂く予定になっていたので事務所のカギを頂く。「三日町オレンジ」には畳敷きの部屋もあるのですが、なんとちゃ~んと布団が敷かれていましたよ~。ま、ちょっとゴロゴロして、近所のコンビニで来週気仙沼・鹿折復幸マルシェで催させて頂くプロジェクトの上演チラシをネットプリントしたり、朝食を買い込んで食べたり。





やがて8時30分には「ネットワークオレンジ」のスタッフさんが次々と事務所に集まって来られました。FBでお友だちになっている方も続々と~。リーダーの美厚(みこ)さんも到着され、挨拶を交わしているうちに、落成式の会場「東新城オレンジ」に移動することになりました。

東新城という地名は知りませんでしたが、気仙沼駅から少し内陸に入った閑静な場所にありました。見た目は四角四面でやや無機質な印象を受けますが、内部はご覧の通り。



あちらこちらに児童が描いたアート作品が飾られています。

中でも ぬえが感心したのはこちらの恐竜の絵。障害を持っている児童が描いた、と信じられます??





こちらの小さな棚の中に置かれた小型のイーゼルも、すべて子どもたちの作品です。



入口を入って左側、式典会場控えの間では会食の準備も始まりました。テーブルに置かれた席札が「鮫」「秋刀魚」「鮪」。。と、みんな魚の名前なのが気仙沼っぽい。



で、こちらが式典会場。本来は児童の作業に使うのであろう、この建物の心臓部ですね。



くす玉もちゃ~んと用意されています。手作りのくす玉なので、スタッフさんに恐る恐る聞いてみたところ。。やっぱり。出来上がってから、やっぱりちゃんと開くかテストしてみようという事になって。。やってみた、は良いものの、バラけた くす玉の片づけ、再セットが大変でした、とのこと(笑)。



ところで「ネットワークオレンジ」さんのブログで上棟式の画像など見ていて、どうも新拠点の向かいに仮設商店街があるようだな。。とは思っていたのですが、やはりそれは「かもめ通り商店街」という仮設商店街でした。





この日聞いてみると、こちらは鹿折にあった商店街さんが引っ越してきたものなのだそうです。鹿折??

ぬえらプロジェクトは、この3日後にはじめて鹿折の仮設商店街で活動をする予定になっていたので、これは意外なお答えでした。鹿折地区は気仙沼市内ではここ東新城とはまるで逆側と思える内湾の反対側に思えたからです。。(現実には気仙沼のシンボル的な安波山を貫く新しいトンネルで結ばれたバイパスがあって、意外にすぐに行けることがわかりました。震災前であれば気仙沼駅から鹿折唐桑駅はほんのひと駅だし)

鹿折に残った「復幸マルシェ」仮設商店街と、内陸に移転した「かもめ通り商店街」。二つに分かれた仮設商店街は、被災地域の低地であっても住み慣れた土地に残るか、余震など次の災害に備えて高台に移転するか、の重い決断であっただろうと思います。。その仮設商店街も、開設には期限があって、やがてどちらも取り壊される運命にあるわけですが。。

第14次支援活動<気仙沼05/25~05/29>(その1)~はじめての夜行バス

2013-06-17 13:46:20 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ようやくご報告することができます、先月の東北地方での活動。

去る5月25日(土)と28日(火)~29日(水)、「能楽の心と癒やしプロジェクト」では気仙沼市で第14次となる活動を行って参りました。今回は気仙沼で震災よりずっと以前から活動を続けておられる障害児童の支援NPO団体「ネットワークオレンジ」さんが新拠点となる建物を新築されまして、その落成式にお呼ばれしての訪問となり、併せて鹿折の仮設商店街でも活動させて頂きました。

「ネットワークオレンジ」さんは、以前に 気仙沼の児童劇団「うを座」さんの関係者がこちらの団体のメンバーである関係からご紹介を頂き、昨年のGWの頃に活動させて頂きまして、それ以来のおつきあいということになります。このときも若手スタッフの白幡さんが労を厭わず準備にご協力頂き、そのうえ上演時間が近づくと会場の前の道路で通行人の呼び込みさえしてくださるご厚意で。。このときも印象が深かったのですが、その後この会場に音楽家からグランドピアノが寄贈されたそうで、それでは会場ではもうイベントを開けるスペースはないかな。。? とも思い、その後は時折、気仙沼で活動をする際に連絡を差し上げる程度のおつきあいになっていました。

ところがこの春に白幡さんから連絡を頂きまして、それが今回の活動となりました。その内容というのが、気仙沼市の中心部にある三日町の事務所(兼・児童の作業所)のほかに、もう1箇所の活動拠点の建物を新築されることが決まったそうで、その落成式で能を上演してほしい、というものでした。しかも、この新拠点「東新城オレンジ」の建物は日本の協力者の募金もあたものの、ドイツの協力者から寄贈されたものなのだそうです(!)

どうも「ネットワークオレンジ」さんが展開されている事業の規模を見誤っていたようです。実際、障害児童の支援団体、という情報しか それまでの ぬえは持っておらず、まあ、そういうNPO団体は割と多いと思うので、正直に言って ぬえにはその程度の認識しかありませんでした。

この度「ネットワークオレンジ」さんのリーダー、小野寺美厚さんと じっくり話し合う機会があり、それは ぬえにとって大変な衝撃でした。こんな事を考えている人がいるのか。。被災地で出会ったスゴい人。それは石巻で会った「チーム神戸」のリーダー、金田真須美さん以来の衝撃かもしれないです。そのどちらもが女性だ、というのも感慨深いものがありますが、しかも小野寺さんはボランティアさんではなく、震災前から気仙沼で活動を展開していた市民。震災によって「ネットワークオレンジ」さん自体も新たな方針を立てられたそうですが、「次の災害が起こったとき。。それがこの東北地方であれ、よその土地であれ、避難したり支援する拠点」。。について考えておられました。いや、 ぬえの管見では、ただ単純にそう言う方に巡り会うことがなかっただけなのかも知れないのですが、実際のところ、ぬえが2年間東北地方で活動を続けている中で、被災地の方で「次の災害」に対する大規模な備えを計画されておられる方に出会ったのは、これが初めてです。

さてそれは追々ご紹介するとして、まずは「ネットワークオレンジ」さんから落成式への出演のご招待を頂きましたが、あいにく 笛のTさんがその日は都合が悪く、能の上演は落成式当日ではなく、「落成記念週間」というか、関連イベントとして別の日に行うことになりました。。が、ぬえ自身は落成式当日のスケジュールが空いていたので、せっかくの機会ですので ぬえ一人で出席させて頂くことになりました。

一人では装束を着ることはできないので、この落成式は裃で舞囃子を勤めることにしましたが、それならば荷物も少なくて済みますし、なにより東京でのスケジュールを考えると、落成式その日だけしか気仙沼にいられない予定でしたので、交通費の節約と体力温存のために初めて往復とも夜行バスを利用して訪問することにしました。

東北支援をしている友人からは「え?夜行バス、はじめてなんですか?」と驚かれますが、ぬえは装束やら支援物資を持参するので公共の交通機関は使いづらいのです。これまでに2度、新幹線を利用して気仙沼と松島町、女川町に行ったことがありますが、装束のトランクを引きずりながら歩いた最初の気仙沼の1回目でギブアップ。。2度と電車では来ない! と誓ったのです。。が、昨年秋に家族で松島町と女川町で活動した際は一人ではなかったし、現地では友人の車に乗せてもらったり、レンタカーを借りたりと条件が恵まれていたので、まあ、苦もなく移動できました。。ので、場合によっては公共交通機関の利用もありかなあ、とも。

そういうワケで、今回ははじめて夜行バスを利用したのですが、ネットで調べるといろいろあるんですね~。発着時間の違い。4列シート、3列シート、2+1列シート。休憩のあり、なし。こんなにたくさんの運行会社や運賃の差があるのかとまずビックリ。あとで夜行バスのエキスパートの笛のTさんに聞いたところでは、やはり運賃によって設備。。だけでなく車内の雰囲気にも微妙な違いがあるそうですが、さすがに初の夜行バスということで隣りのお客さんと肘が触れ合わない3列シートに絞って探すことに。。って、東京から気仙沼に行く高速バスは岩手県交通が運行する「けせんライナー」だけであった。。

深夜23時に池袋を出発し、翌早朝6時に気仙沼市役所前に到着する「けせんライナー」。3列シートなのがまずは安心でしたが、さて当日バスの発着所に着いたときは初めての夜行バスにドキドキでした~。だいたいいつも ぬえ、寝ないのに。。いいのか?

で、休憩もない長距離移動なので一応、文庫本と胸ポケットに入れようと小さなペンライトを用意したのですが。。まずは3列シートの窓際の席のうえ、隣りが2席とも空席でひと安心。でも出発してすぐに車内は消灯。。そしたら話し声ひとつ聞こえない静寂。。み~んな熟睡モードです。厚いカーテンでほとんど外光も入らず。。ん~なんか不気味な。とても文庫本を読める雰囲気でないので音楽を聴きながらおとなしくしてをりました~。

。。それでもなんとか眠ったようで、夜明け頃に目を覚まし、カーテンをちょっとめくって(隣人がいたら迷惑がられる。。)いつのまにか一関から気仙沼に到る、通い慣れた道を通っているようでした。やがて朝6時、気仙沼市役所前に無事到着。はじめての夜行バス旅は退屈ではありましたが、苦痛ではなかったのでまあ、こんなもんか。

決算報告書(03/07~12)

2013-06-15 00:10:00 | 能楽の心と癒しプロジェクト
能楽の心と癒しプロジェクト
第13次被災地支援活動(2013年03月07日~12日)


 〔決算報告〕

 【収入の部】
     前回活動繰越金(ボラ扱い) 88,501円
     前回活動繰越金(ギエ扱い) 32,500円
     銀行口座募金(ボラ扱い)     244,000円
     JIN'S PROJECTイベント出演料   25,000円
     預金利息(ボラ扱い)        12円        収入計  390,013円
                           内訳:ボラ 357,513円 ギエ 32,500円

 【支出の部】
  〈活動費〉
    ◎交通費   42,589円
     (新幹線1名分          13,310円)
     (夜行バス3名分         19,300円)
     (ガソリン代            5,679円)
     (有料道路通行料         4,300円)
    ◎宿泊費   24,300円
     (チーム神戸ほか2人×4泊    24,300円)
    ◎事務費    6,180円
     (チラシ印刷費           4,300円)
     (ビデオテープ           1,880円)       支出計   73,069円

 【収支差引残額】                         残額    316,944円
                          内訳:ボラ 284,444円 ギエ 32,500円

※注※
・プロジェクトの活動にかかる資金は主に募金によって賄われている。「ボラ」とはプロジェクトの活動費用に 充てる事ができる資金。「ギエ」は募金者希望により被災地への直接的支援のために使途を限定する資金。
・ただし「ギエ」についてはすでに一定の役目を終えた段階と考え、現在はプロジェクトからとくに「ギエ」の呼びかけはせず、チャリティ公演等の際は使途を「ボラ」と明言して募金をつのっている。なお「ギエ」については、被災地で継続的に活動を続ける信頼すべき支援団体に寄付する予定である。
・今回の活動はJIN'S PROJECTとの共催である。それにより同団体のご厚意の仲介を頂き、企業「THE BODY SHOP」さまよりプロジェクトメンバー2人についてのみ、使途は交通費に限って補助金のご支援を頂いた。プロジェクトとして初めての企業スポンサーからのご支援であり、関係各位に深謝申し上げる。
・本決算報告書は活動資金を募金として提供頂いた方へのご報告であるため、「THE BODY SHOP」さまからのご支援にかかる費用は上掲しなかったが、内容は次の通りである。交通費 49,873円(内訳:高速道路通行料金 13,000円、ガソリン代 23,748円、スタッドレスタイヤレンタル 料金 13,125円)
・また今回は東京での公演の宣伝と併せてプロジェクトの活動を宣伝する機会に恵まれた。活動を広範に知って頂いた結果、かつてないほどの活動資金の募金を頂戴できたことも特筆すべきであろう。
・このように今回は企業のご支援を頂き、また多額の募金を頂戴したため、共演者(ピアニスト:御子柴聖子さん、星と能楽の融和実行委員会:小林わかばさん)の交通費をプロジェクトの負担とさせて頂くことができた。ボランティア活動とはいえ、共演者にかかる費用をすべて自己負担して頂くのは長期に渡って活動を継続させていくためには無理もあろう。これを少額ながらプロジェクトとして補助することができたのは望外の幸である。
・しかしながら、同じく活動のご協力を頂いたスタッフさん(機材担当2名、受付係2名、カメラマン2名)の交通費については支出は難しく、自己負担を求める事となってしまった。活動の成功はこれらスタッフさんのお力に拠るところが大きく、これに報いることができなかったのは遺憾であり、今後の課題であろう。
・プロジェクトの活動にかかる支出については節約を旨とし、おおよそ次のような基準を設けている。①高速道路の利用については体力や公演スケジュールも鑑みるが、深夜割引を利用するなど工夫する。②宿泊はボランティア団体や個人宅に泊めて頂くなど節約し、やむを得ず旅館に泊まる場合は素泊まりとし、5,000円程度までに収める。③食費については旅行がなくても掛かる費用であること、酒食の区別がつきにくいため自費負担とする。
・収支差額は今後の活動費用として活用し、支出明細を明らかにする。
・今回はJIN'S PROJECTさまおよび「THE BODY SHOP」さまのご支援によりプロジェクトの活動資金を賄うことができた。しかし今後も息長い支援活動を続けてゆくために、引き続き変わらぬご助力をお願い申し上げる次第である。

 【振込先】三菱東京UFJ銀行 練馬光が丘支店(店番622)普通預金 口座番号 0056264
名義 ノウガクプロジエクト ハツタタツヤ

                                           以上

  平成25年06月14日
                           「能楽の心と癒しプロジェクト」
                               代表   八田 達弥
                             (住所)
                             (電話)
                              E-mail: QYJ13065@nifty.com








活動報告書(03/07~12)

2013-06-14 22:07:13 | 能楽の心と癒しプロジェクト
能楽の心と癒しプロジェクト
第13次被災地支援活動(2013年03月07日~12日)


 〔活動報告書〕

【趣旨と活動の概要】

 東日本大震災被災地支援を目指す在京能楽師有志「能楽の心と癒しプロジェクト」の4名(※注1)は、能楽の持つ邪気退散、寿福招来の精神を被災地に伝えるべく、2011年6月よりすでに12度に渡り岩手県釜石市、宮城県石巻市、気仙沼市、南三陸町、女川町、東松島市、仙台市、大崎市、および福島県双葉町の住民が避難している旧埼玉県立騎西高校避難所にて能楽を上演することによって被災者を支援する活動を行って参りましたが、このたびメンバーの八田、寺井は、去る03月07日から12日までの5日間に渡り宮城県・気仙沼市および石巻市の計5カ所にて能楽の上演を行いました(※注2)。

今回の活動はJIN'S PROJECTさまとの共催という形をとっております。これにより同団体のご厚意により「THE BODY SHOP」さまとの仲介を頂き、活動資金の一部について補助頂くことができました。これまですべて募金に頼ってきたプロジェクトの活動は経済的には苦難の連続でしたが、今回は初めて企業さまのご支援を頂いての活動となります。さらに今回は東京での能楽公演の宣伝に併せてプロジェクトの活動を宣伝する機会に恵まれ、過去最大の募金を頂戴することができました。これにより「星と能楽の夕べ」公演の共演者の方々の交通費をプロジェクトから支出することができたのは大変喜ばしいことです。関係各位に深謝申し上げます。

今回特筆すべき活動は、言うまでもなく震災2年目の3月11日を中心として行われた追悼集会への出演です。プロジェクトとしましては3月10日に気仙沼市階上地区の地福寺さまのご厚意により「明日に向って」と題された集会のうち追悼法要にて、また3月11日には昨年と同様、チーム神戸が事務局を勤め、元避難所の石巻市立湊小学校で行われた「石巻3.11市民追悼の会」にてそれぞれ能楽を奉納させて頂きました。またプロジェクトとしては2回目になる「星と能楽の夕べ」公演を気仙沼市で開催することができました。このほか気仙沼市の「復興屋台村 気仙沼横丁」および石巻市の「立町復興ふれあい商店街」の2箇所の仮設商店街で商業振興のお手伝いとしての公演を持つことができました。

今回の活動の最初の公演である「星と能楽の夕べ」公演は、プロジェクトの目標のひとつである「文化の復興」の理念に基づいて、昨年6月に石巻栄光教会で行った同催しの気仙沼市での再演を試みたものです。今回は現地協力者の方々の尽力により、同市にあるすばらしい会場。。リアス・アーク美術館を拝借することができ、また石巻での公演と同じくピアニストの御子柴聖子さん、および「星と能楽の融和実行委員会」の小林わかばさんの出演を得ることができ、ロマンチックで大変素晴らしい成果を挙げたと自負しております。同美術館では京都の富永成風画伯の作品展が開かれており、その主催者である実行委員会のお計らいにより「星と能楽の夕べ」は同作品展の協賛公演とさせて頂けることとなりました。また特筆すべきは宮城県登米市出身者や東京在住で気仙沼の支援活動をされている4名の方々が応募によってボランティア上演スタッフとしてお手伝いくださり、驚くべき手際の良さによって公演の進行を円滑に進めてくださったことで、公演の成功はこれらスタッフさんの力量に負うところが大きいと思います。そのほか公演の冒頭で「祈りの言葉」および震災の犠牲者への黙祷を行って頂いた地福寺の片山秀光さま、会場拝借の交渉から宣伝活動、また公演では司会を務めてくださった高橋和江さま、作品展実行委員会の熊谷光良さま、プロジェクトの活動に多大な便宜を図ってくださったリアス・アーク美術館のみなさま、活動記録を撮影してくださったボランティアのカメラマン。これらの方々のご協力なしに公演の成功は望めませんでした。改めまして関係各位に深謝申し上げます。

気仙沼の仮設商店街「復興屋台村 気仙沼横丁」さんは、今回飛び込みで電話をして出演のお願いを致しましたが、ご快諾を頂くことができました。ところが本年1月に上演の予定であったところ、大雪のために交通が麻痺して公演は中止となり、今回は満を持しての上演となりました。もとより気仙沼大島へ渡るフェリー乗り場のそばという立地もあってお客さまは盛況な商店街で、上演時刻が昼であったため、公演には「ランチのあとはお能をどうぞ」と副題をつけ、上演前には各商店を廻ってご挨拶をしたり、終演後はお客さまと記念撮影をしたり、と楽しい趣向で臨み、お客さまにも大変喜んで頂くことができました。
気仙沼・階上地区の地福寺さまはみずからも被災されながら震災直後より地元の精神的支柱となって復興のためのイベントなどを広く行っておられます。プロジェクトは昨年2月にこちらで活動をさせて頂きましたが、ご住職の片山秀光さんとは深く意見を交わして大変強く印象を受けました。ご住職の弟さんがプロのジャズ・ドラマーのバイソン片山氏ということもあって震災2年目の節目に「明日に向って」と題された追悼コンサートを催され、これへの能楽の出演のお願いをしておりましたが、コンサートのあと追悼の法要の場での上演を勧められる厚遇を頂きました。法要は各地のお寺より多数のお坊さまが参列され、厳かな雰囲気の中で能楽『羽衣』を上演させて頂きましたことは望外の幸です。

片山ご住職とは、ぜひ一度公演での共演をしたく考えていましたが、今回はリアス・アーク美術館での「星と能楽の夕べ」公演と、地福寺さまの「明日に向って」で、2回の共演を果たすことができ、その成果を含め大変満足しております。

また「明日に向って」の模様は翌日の「河北新報」紙に『羽衣』の上演のカラー写真入りで報道されました。

震災2年目の3月11日には石巻市の市立湊小学校(元避難所)の体育館を会場に、昨年と同様に「石巻3.11市民追悼の会」が行われ、能楽の奉納をさせて頂きました。住民さんが実行委員となり、ボラ団体「チーム神戸」が事務局を勤める体制で挙行され、山形県の曹洞宗のお坊さまの炊き出しと法要、避難所時代に活動していたカメラマンの展示などが行われたほか、今年は南浜町の「がんばろう!石巻」の大看板や渡波の住民ボラ団体「チームわたほい」とも連携し、それぞれの場所で石巻の小学生が描いた絵が展示されました。午前11時から14時までの長い集会は、周辺の住民さんが避難所の同窓会のように旧交を温め合う機会として配慮されたもので、能はその会場の中心で2度奉納させて頂きました。

今回の活動の最後の公演地となる「石巻立町復興ふれあい商店街」はこれまで何度も上演を重ねた会場で、各商店さんともすでに顔なじみ。お買い物もしましたが、かえっておみやげを頂くなど歓待を頂きました。プロジェクトでは被災地では常に神が祝福する能を上演するように心がけていますが、この日ある店主さんから「みなさんがいらっしゃってから、神様に守られているような気がするようになりました」とお褒めのお言葉を頂くことができたのは大変ありがたいことでありました。

なおこの日の上演ではNHKテレビの取材があり、同日夕方のニュース番組「てれまさむね」で放映されました。

また、今回も静岡県伊豆の国市の「子ども創作能」の参加児童のご家庭より支援物資(遊具)の提供を頂き、気仙沼市の地福寺さまにお預かり頂くことができました。これは再開予定の階上地区の保育所にて活用頂ける予定です。重ねてのご支援に感謝申し上げます。

※注1 プロジェクトメンバーは八田達弥(シテ方・観世流)、寺井宏明(笛方・森田流)、大蔵千太郎(狂言方・大蔵流)、小梶直人(同)の4名。ただし都合により今回は八田・寺井の2名での活動となった。
※注2 今回の上演場所は①気仙沼市・リアス・アーク美術館②気仙沼市・復興屋台村 気仙沼横丁③気仙沼市・地福寺④石巻市・湊小学校⑤石巻市・立町復興ふれあい商店街の5箇所。

【活動記録】
 3月7日(木)
八田達弥のみ午後東京を出発。石巻に駐在するボラ団体「チーム神戸」事務所に投宿、3月11日開催の「石巻3.11市民追悼の会」の準備を手伝う。

 3月8日(金)
朝、石巻を出発して気仙沼へ。階上地区の地福寺さんにご挨拶し、翌日の「星と能楽の夕べ」公演のタイムスケジュール表をお渡しするとともに、静岡県伊豆の国市の「子ども創作能」出演児童の保護者さまよりお預かりした支援物資をお届けする。

午後、リアス・アーク美術館に到着、関係者にご挨拶し、また寺井宏明およびボランティア参加くださったスタッフも集合して、ミーティングのあと会場の設営を開始。この日は出演者が揃わないが、機材のスイッチングなど簡単にリハーサルを行う。問題点も発見され寺井氏と打ち合わせ。気仙沼市内の簡易ホテルに宿泊。
 3月9日(土)
早朝、「星と能楽の融和実行委員会」の小林わかばさん、夜行バスにて気仙沼到着。被災地区など視察ののち宿舎にてしばし休息頂く。この間に「星と能楽の夕べ」出演者・スタッフ用の進行表を書き直し。

午前10時会場のリアス・アーク美術館到着。ピアニストの御子柴聖子さんやスタッフさんも全員顔を揃える。再度ミーティングののち本格的なリハーサル開始。技術スタッフさんの有能に公演成功の手応えを強く感じる。昼食ののち、早めに装束を着けて美術館の展望室にて写真撮影。

午後3時より「星と能楽の夕べ」公演1回目。司会:高橋和江さま、ご挨拶:熊谷光良さま(富永成風氏作品展実行委員会)、「祈りの言葉」片山秀光ご住職(地福寺)。能『羽衣』を上演。95名のお客さまにご来場頂き、大変ロマンチックで素晴らしい公演となった。午後4時より第2回目公演。前評判がよいとのことで急遽2回公演としたが、その宣伝をする機会がなくこちらの入場者は25名。しかし1回公演では入場できないお客さまが出たはずで、結果として良い判断だったと思う。

終演後御子柴さんと小林さんはすぐに帰京。会場を撤収ののちスタッフさんと「復興屋台村 気仙沼横丁」(翌日の公演会場)で打ち上げ。素晴らしい共演者とスタッフに恵まれての成功に幸せを感じる。気仙沼市内のビジネスホテルに宿泊。

 3月10日(日)
朝10時、復興屋台村 気仙沼横丁に到着。関係者ご挨拶ののち上演準備。11時より「コの字岸壁」にて行われた「出船送り」に参加。すぐに仮設商店街に戻って着付け。

13時より「能楽の心と癒やしをあなたに」公演。ランチタイムであるので副題「ランチのあとはお能をどうぞ」をつけ、また上演前に各商店を巡回して宣伝。能『羽衣』を上演。30名ほどのお客さま。終了後お客さまと記念撮影。昨日スタッフを勤めてくださった阿部さん夫婦もご来場頂いた。

15時、岩井崎を視察ののち階上の地福寺さまへ到着。追悼コンサート「明日に向って」はすでに開催中。会場の内外は出演者とお客さまでごった返す。やがて片山ご住職さまと会い、能楽師は別室の控室をご用意頂くことができた。控室にて寺井氏関係の「海をつくる会」によるこの地域の海底清掃の打ち合わせなどあり。またこの日出演された庄野真代さんが仮設住宅などを廻って活動しておられることを聞き、楽屋でご挨拶。

18時、コンサートの後に行われた法要の場で能『羽衣』を上演。犠牲者の位牌に拝をする型を入れる。同じく法要の場に出演となった韓国舞踊の金順子(キム・スンジャ)さんと楽屋でしばし懇談。この日、コンサートは本堂、法要は境内で行われるはずで、ボランティア多数によって竹灯籠やキャンドルが準備されたが、あいにくの強風のため法要も本堂で行われた。参列者はこの日1日で500名とのこと。法要は大変厳かで深く印象に残るものだった。

法要終了後、参列者やコンサートの出演者も一堂に会食の用意があったが、この日のうちに石巻に行かねばならなかったため会食は辞して出発。夜10時頃石巻に到着、「チーム神戸」事務所に投宿。

 3月11日(月)
9時「チーム神戸」のみなさんやスタッフさんとともに湊小学校入り。前日までにすでに会場の体育館の飾り付けはほぼ出来上がっており、いくつかの掲示物の飾り付けなど手伝い、また今回はPA機器とBGM音源の用意を担当していたのでその準備。それより急いで上演準備に取りかかる。能楽師控室は昨年と同様体育館のステージ上。1年間積み重なった埃と苦闘しながらの準備。

11時、実行委員長挨拶のあと開式。すぐに第1回目の上演 能『龍田』。14:46、震災の発生時刻に合わせて市内にサイレンが響き、黙祷を捧げる。直後に体育館では山形県の曹洞宗のみなさんにより法要が営まれる。昨年も感じたが、読経の声の美しさに魅せられる。曹洞宗のみなさんはこの日炊き出しにも活躍。15:30能楽上演2回目『菊慈童』。16時閉式。この頃JIN'S PROJECT代表の折尾仁さんも湊小学校に到着。

撤収のあと「チーム神戸」のみなさんと別れ折尾氏と会食しながら打ち合わせ。
この日は市内の別のボランティア団体が運営する宿舎に投宿の予定であったが、都合により「チーム神戸」事務所に再度投宿することとした。

 3月12日(火)
午前9時、今回の活動の最後の上演地「立町復興ふれあい商店街」に到着、顔なじみの店舗さんにご挨拶をして上演準備。11時より能『龍田』を上演。上演前に店舗を巡回し、上演後にお客さまと記念撮影をする方法はなんとなく確立した。明友館の千葉恵弘さん、巻.comの伊藤さん、プロジェクトに毎度協力頂く石巻市民の相澤さんもお出まし頂き、楽しい公演となった。終演後、NHKテレビの取材。戸田海産物店さんにて「お茶っこ」に呼ばれ、しばし歓談。おみやげをたくさん頂いて恐縮。

これにて今回の活動は成功裡に終了、仁さん案内にて名取市閖上、七ヶ浜町を視察。仙台駅に到着の頃NHKニュース「てれまさむね」にて立町商店街の公演の様子が放映されたのを車内ワンセグテレビにて視聴。寺井氏はこれにて高速バスを利用して会津へ出発、折尾氏は翌日の予定があるため仙台に宿泊のため、仙台駅にて解散し、八田は東京へ帰宅。

【収入・支出】

  プロジェクトの活動は基本的に募金によって行われておりますが、今回はJIN'S PROJECTさまとの共催の形を取り、同団体の斡旋により活動資金の一部を「THE BODY SHOP」さまより補助頂くことができました。また一方、今回は東京での公演の宣伝に併せてプロジェクトの活動も宣伝させて頂く機会があり、募金も過去最高の人数・金額のご支援を頂くことができました。関係各位に深謝申し上げます。

  募金は基本的にプロジェクトのボランティア活動資金(以下「ボラ」)として使わせて頂きますが、とくに被災地への直接支援を目的にプロジェクトに寄せられた義援金(以下「ギエ」)はプロジェクトとして支援するのに然るべき団体。。被災地に拠点を置き、直接被災者の支援活動に従事することを目的とした、非営利で公明正大な活動が長期に渡って期待できる、信頼すべき団体に寄付させて頂きます。

  プロジェクトの活動資金としては、前回活動繰越金として 121,001円(内訳:ボラ 88,501円 ギエ32,500円)があるほか、前回第10次支援活動の決算のあと銀行口座へのべ16名様より計244,000円を頂戴し(過去最高の募金額を頂戴致しました)、またJIN'S PROJECTさまの活動への協力によって出演料(2回分)計25,000円を頂戴致しました。12円の預金利息を含め、計390,013円(内訳:ボラ 357,513円 ギエ32,500円)が第13次活動の前に計上されております。(なお11次・12次活動については福島県双葉町の住民さん支援のため埼玉県立騎西高校避難所での活動であり、プロジェクトとしての支出がなかったため決算書はありません)

これに対して今回の活動による支出の内訳は別紙決算報告書にある通りですが、プロジェクトメンバーの八田・寺井の交通費のみは「THE BODY SHOP」さまの補助を頂くことができたため、募金頂いた方へ向けてご報告させて頂く趣旨である同決算書では、その分の支出は割愛させて頂いております。純粋にプロジェクトの資金からの支出をもとにした今回の活動終了時の残額は 316,944円(内訳:ボラ284,444円 ギエ32,500円)となっております。これらは今回の活動繰越金として計上し次回活動の資金として有効に使わせて頂きます。

  プロジェクトの訪問公演の支出につきましては節約を旨としております。交通費節約のため、できるだけ深夜割引の制度を利用して終夜運転をして早朝に現地に到着するなど工夫はしておりますが、体力や公演スケジュールによって、必ずしも深夜走行ができない場合もあります。また宿泊につきましても通常は住民ボランティアさま等のご厚意により無料、または安価での宿泊を旨としており、食費については酒食の区別がつきにくいため、すべて自己負担としております。

前述の通り今回は企業のご支援を頂き、また多くの方に活動資金の募金を頂戴することができました。しかしながら今後も長期に渡って被災地での活動が継続できますよう、みなさま方には引き続きまして活動支援をお願い申し上げる次第です。



【成果と感想・今後の展望】
プロジェクトとして第13次となる今回の支援活動では、震災2年目の追悼集会2箇所にて奉納上演をさせて頂くことができました。いずれの集会でも大変厚遇を受けましたことはありがたい限りです。また一方プロジェクトが活動の目標のひとつとして掲げる「文化の復興」を念頭に行った「星と能楽の夕べ」気仙沼公演は、すばらしい会場、共演者、そして優秀なスタッフのみなさまの協力を得て、素晴らしい公演となりました。

また念願であった気仙沼・地福寺の片山秀光ご住職との共演、2箇所の仮設商店街での温かいふれあい、どれをとっても印象の深い活動であったと思います。多くの出会いも生まれ、新しい活動の展望も持つことができました。まさに幸福な時間を過ごさせて頂けたと感謝しております。

一方、仮設商店街での上演の機会が増えたのに対して、仮設住宅での活動が少なくなっていることが気になっております。ひとつには漁業の復興が進んだり、仕事を見つけることが出来たり、という結果、平日の昼間には住民さんがあまり在宅しておられない、という事情もあり、これは喜ばしいことなのではありますが、まだまだ仮設住宅に引きこもる住民さんも多数おられるはずで、きめ細かい活動の方法を模索する必要があるのではないか、と考えております。なお今回は3月11日を中心とする日程での活動でしたので、時期としては仮設住宅を訪問するのにふさわしいとはいえず、追悼集会や仮設商店街での上演に絞って出演交渉を進めた実態もあります。仮設住宅への訪問は今後の活動の中で新たな展開を図ってゆきたいと考えております。

震災2年目のその日に、再び被災地での活動を行うことができ、内容としても充実したものとすることができました。これもひとえに現地関係者および住民さんや友人など多方面の献身的な協力により実現できたものです。また静岡県伊豆の国市のご父兄から頂戴した支援物資や多額の活動資金の募金など、各方面からの変わらぬご支援も頂戴することができました。プロジェクトとしては「文化の復興」というひとつの指針をもっての活動を指向しておりますが、感謝の心をもって息長い活動を続けてゆければ、と考えております。今後とも各位のご支援をお願い申し上げる次第です。


平成25年6月14日




                             「能楽の心と癒しプロジェクト」

                               代表   八田 達弥

                             (住所)
                             (電話)
                              E-mail: QYJ13065@nifty.com

伊豆のエリート集団、大活躍!~長岡南小学校の運動会を観戦!

2013-06-12 10:22:09 | 雑談
えと、遅れ遅れのご報告で申し訳ありませんが、去る6月1日に伊豆の国市の長岡南小学校の運動会を見に行きました~。

なんで伊豆の小学校? そりゃ、ぬえが指導する 伊豆の国市子ども創作能の教え子たちが登場するからです! しかも幼稚園生~中学3年生まで全部で25名いる子ども能参加者のうち じつに半数近くの11名までがここ、長岡南小学校の児童なんですから、これはもう一大勢力。。というか、ほとんど学閥ですな、こりゃ。



そんなわけで、土日など学校がない日に子ども能の稽古を行っているのですが、なにかの都合で土日に南小に行事があると、子ども能の稽古も事実上できなくなるという。。(^_^;)

今回も年間の稽古日を ぬえのスケジュールをもとに決めて会場を予約して頂いたら、早速父兄から「先生~、この日は南小の運動会ですよ~」と教えてもらって、南小か。。これは ぬえが折れるしかないな~、というワケで稽古日を翌日に変更したのでした。そしたら「運動会、見に行っちゃえば?」と、悪魔のササヤキが ぬえにもたらされまして、泊まりがけで運動会+翌日の稽古日と伊豆に行くことにしたのでした~。

朝8:30の開会式から見たのですが、まずは学校に到着すると父兄から「開会式では学級委員が暮らすの先頭に並ぶんですよ」と教えられ、見ると。。おや! 3年生のサキちゃんは学級委員だったのかっ



。。そういえばサキのお姉ちゃんのリサ(6年生)も去年だったか学級委員だったな。それとリサと同級生のイチイも。。と思ったらリサは運動会の委員として司会のアナウンスなんかやってましたが、そのほかにも低学年の子を引率してたり。



子ども能でのリサの勇姿はこちら!



開会式では校長先生の挨拶のほか、新しく就任された小野市長さんもご挨拶されていました。



さて競技が始まり、ぬえも本部席からプログラムをもらったのですが、いやいや実際、子ども能から11人もが出場していると、この春にピカピカの1年生になった子はさすがにいないが、2年生~6年生まで もれなく教え子がいるので、ほぼすべての競技を見なければなりません。

。。それにしても伊豆の国市は子どもが多いです。イベントなんかに出かけるといつもそう思う。長岡南小はその中でもダントツの児童数だと思いますが、この地域にこれだけの子どもがいるのかと思うと、少子高齢化もどこ吹く風、という感じですね~。おかげさまで、教え子が出場しても見つけるのにひと苦労です。



父兄にはそれぞれの子どもが何番目に走るのか、団体競技では校庭のどのあたりに出ているのか、の一覧表が渡されていたらしいので、折々父兄をつかまえては情報を仕入れての観戦です。

お昼をはさんで午後までしっかり観戦。いまは紅白じゃなくて赤組・青組・黄組に別れての対戦なんですね~。父兄のみなさんは我が子の属する色を応援するわけですが、ぬえは11人の応援なので、結局どの色の組が勝ったのか覚えてない~

団体競技で棒を持って走るケイゴ。



走る! サキちゃん



走る! きっぺ。





ソーランに出演する よっち。





こちらが子ども創作能に出演している時の画像。



6年のイチイはやはり運動会委員として出番を待つ児童の交通整理。



こちら、舞台の時のイチイ。



団体の体操に出演する モカちゃん。



お姉ちゃんの応援に来てたルカちゃん(幼稚園=この子も子ども能出演者!)



これが今回のハイライト! 6年生による組体操。その名も「頼朝物語」です! さすが伊豆。



組体操に出演のユカも子ども能では立派に北条政子役を全うしました。





で、その最後にみんなでタワーを作るのですが、その頂点に立ったのこそ! 我が子ども能のホープ、コオくんでした。じつは昼休みに偶然コオと出くわして、彼から「組体操のトップやるんですよ。見てね」と言われていたので、体操が始まったら写真を撮るベストポジションを狙って、走った 走った(父兄ぢゃないのに)。苦労の甲斐あって良い写真が撮れましたよ~





閉会式では5年のユッキーナが児童を代表して挨拶しました!



運動会、満喫させて頂きました。じつは ぬえ、南小の運動会を観戦したのはこれが2回目ですし、南小では学芸会も見に行ったことがあるのでした。でも、今回の運動会では、終わってからデジカメを確認したら、600枚以上撮ってた。(父兄ぢゃないのに)

それにしても、みんな学級委員だったり、運動会の委員だったり、組体操のトップだったり、リレーの選手だったり。。子ども創作能の出演児童は学校でも絵に描いたようなエリートなんだねえ。感心しました!

第13次支援活動<気仙沼・石巻>(その21)~旅のおわり

2013-06-11 09:33:23 | 能楽の心と癒しプロジェクト
今回の活動の最後の上演地、石巻の立町ふれあい商店街をあとにして、ぬえ、笛のTさん、JIN'S PROJECTのリーダー・折尾仁さん、それぞれが次の目的地に向かうためいったん車で一緒に仙台に出たのですが、このときまだ時間も早かったので仁さんの提案もあって、名取市~七ヶ浜町の様子も見に行きました。

名取市。。閖上浜の被害が大きく報道された場所ですが。。なにもありませんでした。仁さんいわく、市長さんが震災直後から復興に取り組んで、積極的にガレキの撤去を進めていったため、早いうちから今のような更地の状態になったのだそうです。なるほど、街を再建するにもまずガレキなどを片づけなければ前へは進めないわけですが。。しかし反面、これに伴って違う問題も起きてきてしまったのだそう。。すなわち被災家屋などもなくなったけれども、同時に人も来なくなってしまったのだそうです。

このへん、同じように津波の被害を受けたほかの地域がいま抱える問題にもつながる話ですね。いま気仙沼市では鹿折に残された巨大漁船「第18共徳丸」が解体されることになりましたが、これまでずっと市民の間では震災の「負」のモニュメントとしてこの船を保存するかどうか、意見がわかれていました。女川町の津波で横倒しになったビルや交番は、世界的にも例のない被害だということもあって、保存される事が決まったのだとか。石巻では焼けてしまった門脇小学校は、新たに策定された居住地域の制限によってその周囲までが居住地域となったものの、校舎を取り壊すか保存するかはまだ結論が出ていないそうで、これは大川小学校や南三陸町・志津川の防災庁舎も同じ状況です。逆に石巻の日和大橋のそばまで流された「木の屋水産」の鯨缶詰を模した巨大なタンクや、雄勝町の公民館の屋根に乗り上げた観光バスは1年ほど前に撤去され、大槌町で民宿に乗り上げた観光船「はまゆり」は、撤去はされたものの、復元・保存するために町が費用の寄付を募っているのだとか。

こうした「震災遺構」について、ぬえは当初保存すべき、という意見でしたが、次第に撤去した方が良い、と考えが変わりました。ところが「第18共徳丸」については、気仙沼の ぬえの知人の意見は、保存すべき、というものが多かったように思います。またこの船については、先日(5月末)に気仙沼を訪問した際に、また新しい意見も聞くことができました。これはその活動のご報告の際にご紹介しようと思います。

いずれにしても、遺構の保存の可否はそこに住む住民さんの意向がまずは尊重されるべきでしょう。人的被害があった遺物を保存するかどうかは感情の微妙な問題がありますし。。それでも震災の体験は、どこまでも「見た者にしかわからない」のであろうと思います。だからこそ被害を受けながら、なお後世への教訓として遺構を残そう、と考えられる地元の方の意見は重いと感じます。。こう考えると、石巻の「木の屋水産」さんの鯨缶タンクは残しておいてもよかったかなあ、と ぬえは思いますけれどね。そのものによる人的被害がなかった(推測ですが)し、なにより沈鬱な遺構ではなかったです。少々ユーモアさえ感じられたし。。



さて名取市はそんな震災遺構はもとより、ほとんどガレキもなく、ただ広大な原野のようになっていました。もともと仙台市を中心として拡がる仙台平野の最も海側の場所で、周囲には高台がまるでなく、津波は遮られることもなく内陸にまで及んだのでした。今では行政施設も仮設住宅も内陸部に移転していて、海のそばには、唯一と言ってよいかも、の「日和山」だけが残されて、このときもお坊さんなど何人かの方が訪れておられました。

この「日和山」、石巻市にもある山の名前ですが、本来「日和」を観測するための高台、という意味で、港町にはよくある地名。こちら名取市閖上の日和山は、大正時代に築かれた、ほんの7~8mの築山です。頂上には流された神社の代わりに神を祀っているらしいものと、震災の慰霊碑との木柱が立てられていました。

すみません気仙沼でデジカメが壊れてしまって画像がありません。閖上の様子と日和山については次のブログをご紹介しておきます。

仙台人 が仙台観光をしてる ブログ
伝えたい、残したい なとり100選

ぬえら一行はそこから北上して七ヶ浜などを見て回りました。仁さんは震災直後から名取市でも七ヶ浜でも活動をしておられたそうですが、七ヶ浜はぬえも震災3ヶ月後から訪れた場所です。当時は名取市や仙台市の若林地区はあちこちが通行止めで、支援の具体的な計画がなかった ぬえは近寄れませんでした。七ヶ浜もまったく土地勘がない状態で当時はあっけにとられたように見るだけでしたが。。今回は走っているうちに ふと、以前に見た光景だと気づきました。この日はもう夜になっていたので写真が撮れませんでしたが、こちらが今からちょうど2年前、2011年の6月に、ぬえが震災後はじめて東北に来て写した写真。これがまさにそれ以来この日2年ぶりに訪れた七ヶ浜町の海岸なのでした。





当時、海岸には船に積まれるようなコンテナがいくつも打ち上げられ、道路には「津波避難場所」の方向を示す標識がむなしく倒れていましたが、それらもすべて現在では撤去されていました。

さてようやく一行は仙台駅に向かいます。ここから ぬえは車で東京に帰り、笛のTさんは会津に向かい、仁さんは仙台に宿泊して翌日の予定に備えることになっています。

。。で、仙台駅に向かう途中で夕方6時、NHKのニュース番組「てれまさむね」が放映される時間になりました。この日石巻の立町ふれあい商店街での上演が取材されたので、ビデオを片手に楽しみに車載のカーナビの小さなワンセグテレビの画面を見つめていたのですが。。いつまで経っても能楽公演のニュースが流れない。。

やがて時刻は7時に迫り、Tさんが乗る高速バスの時間も近づくなか。。もう、一番最後のニュースでした! ようやく能楽公演の様子が放映されました。。それどころか ぬえの名前もTさんの名前もちゃんと画面に流れました。ぬえたちの活動は新聞には時々載せて頂けるけれどテレビ取材はこれでようやく2度目。ところが名前まで紹介されたのは今回が初めてで、プロジェクトとしても快挙の瞬間でありました!





終了後、大急ぎで仙台駅に向かい、Tさんも高速バスにギリギリ セーフで乗り込むことができました。仁さんをホテルにお送りして、これで解散。

あ、そうそう、解散して走り出したら気仙沼の協力者さんからお電話を頂き、「てれまさむね」見ましたよ~。と言ってくださいました。

今回の活動も成功裡に終えることができ、満足のうちに ぬえも一人で東北道を走り、深夜に東京に帰りつくことができました。

                                    【この項 了】

第13次支援活動<気仙沼・石巻>(その20)~石巻・立町ふれあい商店街

2013-06-09 02:35:53 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【3月12日(火)】

2ヶ月遅れのご報告もようやくひと段落。今回の活動の最終日です。
例によって早朝に起きた ぬえは石巻の市内をひとまわりして復興の進み具合の感触を確かめて、コンビニで朝食を買って笛のTさんのもとへ。ようやくTさんも起きあがりましたが「チーム神戸」事務所にお泊まりのスタッフさん一同はまだまだ夢の中。。朝食を済ませて午前9時、「石巻立町復興ふれあい商店街」へ楽屋入りをしました。





石巻の中心部にあるこちらの仮設商店街、もう ぬえたちプロジェクトが出演させて頂くのも これで3度目になるでしょうか。雨にたたられて会場を移したり、大雪のために出演どころか東京から出ることさえできない、という不可抗力もあったので、実際にこちらでの出演が完了していない場合もあるのですが。。

とはいえもうお店の方々ともすっかり顔なじみの商店街。会場に到着して、いつも楽屋として拝借するお部屋に装束など荷物を下ろすと、早速各商店に挨拶にまわります。おいしいパン屋さんの「パオ」さん、茶巾の佐藤さん、立町商店街の様子をブログで発信している電器屋さんの「パナックけいてい」さん、そうして忘れてならない戸田海産物店さん。ぬえは毎度ここで東京のおみやげを買います。だってとろろ昆布とかワカメとか。。とっても美味しいんだもん!

で、問題なのはこれまた毎度、買い物するより多くのおみやげを頂いちゃうのよねえ。。これじゃ支援活動なのか支援頂いてるのかわかんない。。この日も挨拶するや否や「お茶っこして行ってよねえ!」とお誘いを受けて「あ、はいはい。。ありがとうございます~ちょっとその前に上演準備をしますので~」「ああそう。じゃ終わったらすぐにおいでね~」「はい~~」…てなもんでして、しかし装束の準備には小一時間かかるのであった。やがて戸田さんは「忙しいみたいね~」と言ってお茶っこを楽屋に持参してくださるのであった。。

やがて上演時刻となり、今回は『龍田』を上演致しました。もちろんその前に各店舗をまわって開演のご挨拶をし、また終演後は記念撮影をして楽しんで頂きました。いつ来てもこの商店街はにぎやかですね。そうして、今回はパン屋さんから「何度も足を運んでくれるけど、だんだんと私たちも神様に護られているような気がしてきたのよ~」と言われたのがありがたかったです。毎度神様や仙人の能を上演するように心がけているので、普段の行いが悪い ぬえでも少しは神様もあわれんでくださったかしらん。。



トップ画像とこの画像の2枚はイシノマキタチマチブログより拝借しました



終演後はやっと約束の戸田さんのお店でお茶っこ頂きました。すると、海草を漬け込んだ おかずが次から次と並べられて。。こういう時に ぬえに遠慮はない。例によってバクバク食させて頂きました~。おみやげも買って、おみやげ頂いて。。(T.T)

ところが今回はいつもとはちょっと違う出来事がありまして。いわくNHKテレビの取材があったのです(!)。ぬえらプロジェクトの活動は、一昨年の12月に岩手県釜石市・鵜住居町の被災旅館「宝来館」のオープニング祈念イベントとして出演させて頂いたときの模様が「朝ズバッ!」で紹介されたことはありましたが、これは みのもんたさんの同番組がこちらの旅館の再建をずっと取材していたから。ぬえたちの舞台の映像にはプロジェクト名も、それどころか曲名さえも表示されませんでした。

このたびはNHKの夕方のニュース番組「てれまさむね」(宮城県では定番の番組)で流される、とのことで、まあ短く紹介されるのだろうと、このときは高をくくっていたのでしたが。



やがて立町商店街さんを辞して、一路仙台方面へ。立町でも写真撮影などしてくださった仁さんは仙台に宿泊して明日も予定があるそう、笛のTさんは仙台から高速バスで会津へ稽古に行くことになっていました。

第13次支援活動<気仙沼・石巻>(その19)~JIN'S PROJECTのリーダーが到着!

2013-06-08 02:28:03 | 能楽の心と癒しプロジェクト
夕方16:00。「石巻3.11市民追悼の会」は終了となり、急いで撤収しました。この頃、東京からざわざボラ団体 JIN'S PROJECTのリーダー・折尾仁さんが湊小学校に到着されました!

仁さんとそのプロジェクトには昨年末頃から急速にお近づきになりましたが、ぬえたちの活動とは全然規模の違う、大きな活動をされていてビックリ。ご依頼を頂いて東京での JIN'S の活動のお手伝いもさせて頂きましたが、むしろ教えられることばかりです~

震災直後からの救助活動、避難所時代に「寅さん」の映画を上映するために権利を持つ会社と交渉に奔走したこと、そして大勢の仲間が集まり、各地でほんとうに様々な支援活動を現在も続けていること。。いずれも、ぬえが最初は一人でどうする当てもなく石巻を訪れ、「明友館」や「チーム神戸」に導かれて避難所の掃除から始め、現地関係者の方々の尽力に頼ってTさんら少数の能楽師有志で貧乏な慰問活動をしているのとは規模も志も比較になりません。

それどころか、仁さんからお申し出を頂いて、貧乏な能楽師の支援活動の活動資金の援助について企業に橋渡しをして頂けるとのこと。。これまですべて「能楽の心と癒やしプロジェクト」の活動資金は募金に頼っておりましたが、それも震災から2年を経過して次第に先細りになっています。これは ほとんどすべてのボラ団体さんでも多かれ少なかれ事情は同じでしょう。ぬえは、東京などでの能の公演のチケットのお申込を頂いた際にプロジェクトの活動についても資料を入れて、常に募金を呼び掛けるなどする機会はありますが、いずれにしても活動を長く続けていくためには支出は節約しなければなりません。まさに浄財を寄付くださる厚志家の方はいまでもおられ、かれこれ ぬえたちに賛同してくださる方々のお気持ちは、ちゃんと形にして現地で実現していますし、ちょっとながら支援者の方に現地で買った海産物などのお土産をお届けしたりしておりますが、現実は厳しい財政状況なのです。

そんな ぬえたちにとって、仁さんのお申し出は大変ありがたいことでした。支援企業に提出する書類の書き方から、なんと実際の交渉まで引き受けてくださって。。

とはいえ、いろいろな問題もあって、必ずしも企業さまがプロジェクトの活動資金のすべてを支援してくださるのは難しく、また企業さまへ提出する書類のあまりの煩雑さに、デスクワークの大変さには正直閉口しましたが、これらも仁さんが懇切丁寧に教えてくださり、また訂正もしてくださる、というありがたさ。。

こうしたことから、今回の13次活動では、仁さんの努力もあって交通費の一部を「THE BODY SHOP」さまからご支援頂けることになりました。これは本当にありがたいことで、『星と能楽の夕べ』公演も、プロジェクト自体が貧乏なので毎回出演者には交通も宿泊も自弁を要求していましたのが、今回の気仙沼公演では、多少なりともプロジェクトとして補助することができました。

じつは意外に、これ、大切なことです。ぬえやTさんなどプロジェクトのメンバーの能楽師が仮設住宅などで上演するだけならともかく、『星と能楽の夕べ』のようにピアニストや星空解説の出演者もある場合、いつまでも負担ばかりを要求するわけにもいきません。。それではいずれ破綻が来る。長い活動をご一緒に続けて頂くためには、これら共演者の方々も能楽師と同じように、技術の提供を負担願って、金銭的な負担はできるだけ軽くして差し上げるシステムが必要です。

今回の気仙沼での活動では、こうして共演者への補助は仁さんの努力とTHE BODY SHOPさまのご支援によって実現しましたが、スタッフさんへは何の貢献もできず。。スタッフさんの強力なバックアップによって気仙沼では最高の活動ができただけに、心苦しくもあり、まだまだ課題も多いと痛感しております。

さて仁さんが到着して、湊小学校の撤収お手伝い頂き、仁さんは「チーム神戸」リーダーの金田さんとも懇親することができました。ぬえたちはこれにて湊小を離れて石巻駅前で夕食を摂りながら仁さんと打ち合わせ。

その後、予約してある石巻のボランティア用宿舎にチェックインに向かいました。。が、少々問題があってこちらへの投宿は断念、再びお願いして、この夜も「チーム神戸」事務所に泊めて頂くことになりました。仁さんも宿を決めて、この夜はこれで散会。明日は13次活動最後の公演です!