ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

能の番組づくりの難しさ

2007-10-31 16:18:18 | 能楽
せっかく提出した梅若研能会の来年の番組のための解説ですが。。昨日、印刷所より「ちょっと分量が多すぎて番組の解説欄に納まりきれません」と言われてしまいました。ああ。

まあ、それでも短くするだけですから、パッパッとあちこちを切り落として、英文の方はまた米国人の友人に廻して、これまた手早く添削してくれたので1日で体裁は整いました。印刷所から送られた番組のデザインを元にして、この解説欄に納まる大体の字数はわかったので、それに合わせたつもりですが、これがまた字数が合わなかったらどーしよー。。

ところで研能会の来年の番組ですが、印刷所から送られてきたデザイン原稿を見てびっくり。なんと毎月の番組までフルカラーになるんですかあ。。しばらく前から、師家で発行している月刊の機関誌『橘香』も全ページフルカラーになってびっくりしましたが、どうやらこの印刷所が研能会にとても好意的にして下さって、そのおかげでこのような豪華な番組が作れるようになったようです。ありがたい事ですね。そのために来年からの番組のデザインも一新され、解説欄のスペースも少し以前とは変わったのですね。ぬえ、よく把握していませんでした。

こういう番組づくりや、師家の場合 毎月発行される『橘香』誌も、ぬえが内弟子をしていた時代には内弟子がデザインやレイアウトを作っていたのです。考えてみれば大学を卒業したばかりの素人の若造がいきなり慣れない仕事をするわけで、しかも先輩も専門職ではないから、技術的な事はさっぱりわからないままで作っていたのです。よくまあ。。読者やお客さまから文句が出なかったもんだ。。

でも、同じときに他家で内弟子をしていた友人に聞いても、その頃はどこの家でも似たり寄ったりの状況だったようです。最近こそデザイナーにチケットのデザインを頼んだりするようになりましたけれど、そう言えば結構「手作り感」が伝わってくる番組もたくさんありました。

それでもまあ、デザインの巧拙はともかく、番組を作る主催者としては間違ってはイケナイこともありまして、こちらの失敗の方がよほど深刻です。甚だしいのは出演者の名前を間違ったり、書き出す順番を間違ったり、で、新米のうちは どうしても一度や二度はやってしまう事ですけれども。。ぬえも新米の頃に囃子方の大先生のお名前の字を間違って平謝りした事もあります。。

でも、ホントは笑えないんだけれども、もっと不思議な、そして驚くべき間違いもありますね。ぬえは実見はした事がありませんが、ぬえが小鼓を習った故・穂高光晴先生に伺った話は衝撃的でした。先生いわく「番組の間違いで、曲名を間違えたまま番組を発行してしまった会もあるんだよ。中には。。

        弾丸

ってのもあるんだ」

ええええぇぇぇぇぇっっ????? 曲名に「ダンガン」!? .。ooO(゜ペ/)/ひゃ

よ~~く考えて。。正体がわかりました。

。。ああ。。番組を作った方がお気の毒。。

師家の物置に。。

2007-10-29 22:43:12 | 能楽
このところ書き込みの回数が減っておりますが。。すみません、特に催しなどで忙しいわけでは、必ずしもない ぬえなのですが、いま 師家の来年の番組を作る追い込みの時期でして~。ぬえは毎月の番組の解説文を書く事を担当しております。やっぱり解説書から丸写なんてするわけにもいかないし、限られた紙幅の中で解説をまとめるのは難しい場合もあります。『海士』とか『歌占』などは、能の舞台の背景となっている物語が膨大だったりするので説明が難しいですね。

それと、和文の解説は自分で書けても、英文の解説は自分で書くだけでは やはり不備が大きいので、ネイティブスピーカーに添削してもらわないといけません。これまでは米国の友人にメールで原稿を送って添削してもらっていたのですが、相手が最近ちょっと忙しくなってしまって。今回は代わりに日本在住の友人に添削をお願いしました。彼にとっては初めて携わる作業で、以前の友人と比べるとあまり能に精通しているとも言えなかったのですが、幸い ぬえが書いた原稿の行間までよく読める人で、何度か説明を補ったり、疑問に答えたりはしましたが、比較的スムーズに作業は進行したのではないかと思います。昨日ようやく番組のデザインもしてくださっている印刷会社に、来年の上半期の番組のための半年分の解説文を送信することができました~。あ~やっと終わった~

さてそんな昨日は師家のお弟子さんの おさらい会のお手伝いで地謡を勤めていました。師家のお弟子さんは能楽堂を借り切って行う大きな発表会が年に何度かあるほかに、師家の稽古舞台で おさらい会を毎月開いておられます。ぬえは。。今回はんぜか『花筐』と『船橋』と、2番の素謡の地頭を勤めさせて頂きました~。あんまり地頭をする機会もない ぬえとしては緊張致しましたですが。。

で、まあ大過なく勤めることができて、ホッとしたとき、何気なく師家の内玄関から外へ出て、前日の台風の暴風とはうって変わった秋空を眺めていました。内玄関の外だから、勝手口と繋がる師家の裏側にあたるところで、我々門下は普通、来客用の本玄関ではなくこの内玄関から出入りしています。師家の事務所の窓の下を通って勝手口の方へ廻ると。。そこには今となってはちょっと崩れかけた。。というかだいぶ老朽化した物置が建てられてあります。ぬえの内弟子時代はここが事務所として使われていて、ぬえは昼間はここで師家の演能に関わるあらゆる事務作業をしていました。

電話番から番組作り、チケットの印刷、発行、それから師家では月刊の機関誌『橘香』(きっこう)を発行していますが、その掲載記事を研究家にお願いしたり、校正などの編集作業をしたり。。内弟子時代には、このほかに師匠のお弟子さんの稽古日にはいらっしゃったお弟子さんにお茶を出したり、もちろん舞台や家の中の掃除もして。自分の稽古は朝と夕方が中心になりますが、それでも師匠にはよくお稽古をつけて頂くことができました。ああ懐かしい。でもよくまあ自分でもあの忙しい作業をこなしていたものだと思います。若かったのねぇぇ。

何となくいまは物置となったその「小屋」?に近寄ってみると。。 ミャ~ミャ~。。

ええ? 小屋の外側に取り付けられた、これまた物置となっている納戸の中からニャンコの声が。。えええっ?? と顔を近づけてみると、真っ黒なニャンコが勢いよく飛び出して来ました。

ああ~~、こりゃ いつの間にか誰も近づかない納戸の中でニャンコが子育てしていたのね。。ゴメンゴメン。少し離れた塀の上でまん丸な眼でこちらを窺うママニャンコにお詫びを言って、早々にその場を離れました。

いまの書生さんに「あの納戸の中で。。ニャンコが子育て真っ最中」と知らせると「ええ~っ? 数日前に見たときは何もいませんでしたが。。」というお返事で、彼と「春になるまでそっとしておいてあげようね」と申し合わせました。

これからだんだんと寒くなるけれど、あそこなら ちょっとは雨風をしのげるかも知れないですね~。ん~、大切に使ってくれたまえよ~ (^.^)

橘香会『卒都婆小町』。。ICレコーダー初出動(続々)

2007-10-24 01:10:59 | 能楽
先日の師匠の『卒都婆小町』について、ぬえは自分の師匠だからひいき目で見るのではなしに、本当に名演だったと思っていたら、あちこちから評判は聞こえてきました。普段辛口の批評をする見巧者の ぬえのお弟子さんまで今日会ったらあの舞台を誉めていましたし。。ぬえとしてはこの舞台成果はシテももちろんでしょうが、何といっても地頭の浅井文義さんの力に負うところが大きかったのではないかと思います。

この『卒都婆小町』の申合のときに、じつはすでに ぬえは「これは良い舞台になるだろう。。」と予感があったので、そこで当日の舞台の録音をするために、思い切ってICレコーダーを買ったのでした。後輩の書生さんからずっとICレコーダーの便利さを聞いてはいたのですが、いざ買い求めるとなると なかなかキッカケがなくて。。この申合で「これは。。当日の模様を録音しなければ。。」と思ったのですが、いや、買い求めて正解でしたね~。

それにしても、能楽師は、というか舞台人にとっては自分の稽古を録音したりビデオ撮影をするのは とっても大切です。世阿弥は「離見の見」と言いましたが、ぬえのような凡人には客観的に自分の芸のレベルを察知するのは至難。そこで稽古の模様をビデオに撮ってそれを見るのですが、ま~~見たとたんに赤面してしまいます。それを修正し、また撮影して修正し。。そうやって ようやく自分の舞台に近づけてゆくのです。ビデオがなかった時代の名人は、どうやって自分の欠点を察知して直したのかなあ。。もちろん師匠に稽古を受けることで欠点は指摘されるでしょうが、それを自分の身体の扱い方として理解して修正するのは自分にしかできない事ですし。

同じ事は自分の謡についても言えることで、ぬえは書生時代に師匠から受けた謡の稽古はすべてカセットテープに録音してあります。難しい節扱いや特殊な節、そしてその曲の「位」というようなものは、録音機材がなかった時代には どうやって覚えたのか。。これまた普段 地謡に座って師匠や先輩の舞台を注意して聞いて身につけたのでしょうが、いまのように頻繁に舞台があるのはこの数十年の最近の事で、それ以前はそれほど舞台に接する機会も現代のようには多くはなく、さらにその中で なかなか上演されない珍しい曲、というものもあるわけですから。。

それだからか、能楽師は録音機器や撮影機材などが初めて発売されたときには、喜んで飛びつかれたようです。ある年の大掃除の際に処分してしまったけれど、ぬえの師家にもいろんな歴史的な録音・録画機器が残されていました。オープンリール・デッキ、文机のように巨大なベータのビデオデッキ、8mmカメラと映写機。。

東京の観世能楽堂にも、ぬえが書生として師家に入門した頃にビデオデッキが導入されました。こちらもやっぱり巨大なデッキで、しかもベータ。若い方はご存じないかも知れませんが、ビデオテープの規格では、新発売された当初にはVHSよりもベータ方式が優勢だったのです。能楽堂では高価だったこのビデオデッキをいち早く導入して、演者がその日の舞台の記録ができるように楽屋にこれを設置したのでした。ところが世間ではベータはだんだんとVHSに押されて人気を失い。。能楽堂のデッキに合わせて内弟子時代にベータのビデオデッキを買った ぬえは、数年後にはVHSに乗り換えざるを得なくなり(能楽堂も意地を張って(?)楽屋設置のデッキはずっとベータのままでしたが、やはりある年、VHSに変更されました。。)、自分が撮りためたベータのビデオを、泣く泣く すべてVHSにダビングしたものです。

今やビデオはDVDに取って代わられ、ぬえはまたしてもDVDレコーダーを買い求め、VHSに録画した能のビデオを、これまたDVDにダビングする羽目になってしましました。録音された音声に至ってはもっと悲惨で、MDが登場した時には数百本に及ぶカセットテープをMDにダビングする、という気の遠くなるような作業を進めました。ところがそうしているうちにMDの人気にかげりが見え始め。。

あ~、いつになったら録音された音源が納められる決定的な記録機器が登場するのでしょうか。。

橘香会『卒都婆小町』。。ICレコーダー初出動(続)

2007-10-21 21:41:00 | 能楽
さて今回の ぬえはいつもと違う。

先日ICレコーダーを手に入れまして、これを持って楽屋入りしたのです。以前から後輩の書生さんが使っているし、他家の能楽師でも申合などをこれで録音している方は何度か見かけたのだけれど、なんだか ぬえは手が出なくて、ずっとMDで申合や当日の舞台を録音して、自分の勉強の糧にしていたのですが。。

MDってのは、どうしても録音時間の関係で、申合はともかく、当日の舞台というのは全体は録れないないのですよね~。地謡に出る直前までギリギリねばって録音ボタンを押して。でも後で聞いてみるとキリが途中でバッサリ切れていたり。。こんな時は本当にアタマに来ますっ。(--#)

ところが今回手に入れたICレコーダーは1Gの容量があって、へ~~~っ、これなら開演前に録音を始めてしまっても終演までずうっと録音できまする。実際、ぬえの後輩の書生さんは、楽屋では師匠のお世話から事務作業のお手伝いまでこなし、そして地謡やらツレやら。。ぬえも経験した事ではありますが、ともかく書生さんは楽屋で大忙しなので、彼はICレコーダーを早々に買い求めて、実際に開演前から終演までずうっと録音しておいて、あとでパソコンで編集しているのだそうです。技術の進歩は留まるところを知りませんですね~~。だいたい書生さんがパソコン操る時代だもんなあ。ぬえもこの書生さんから教えてもらってICレコーダーの購入に踏み切ったわけですが、考えてみれば書生さんにキカイの事を教えてもらうなんて。。ぬえも おっさんの仲間入りですじゃね~~。。あ~お茶がおいしい。

さてMDの録音時間の問題が理由なんだか、能楽師の中にはIT時代のいまどきに、カセットテープレコーダーの愛用者もいまだに多い、という状態です。ああ、そういえば ぬえも以前はカセットテープで録音していました。これとても90分テープとか、120分テープでないと能は録音しきれないので、そんなのばかり使っていました。今どき家電量販店で120分テープを買い占めているアナログな人を見かけたら、それは能楽師だと思って間違いありませぬ(と思う)。

でも、カセットテープというものは巻き戻しやら頭出しやら、本当に手間が大変なので、MDが登場したときは ぬえは喜びました。なんせ不要な部分をカットしたり、つないだり。今じゃ当たり前ですが、カセットテープ時代を過ごしてきた ぬえにとってそんな芸当ができるのは本当に画期的でした。そういえば ぬえが一人で海外に講義や公演をしに出かけるときも、MDが使えるようになってからデモンストレーション公演の際に流す囃子の録音を精緻に編集して持参できるようになって、大変上演の成果が上がりました。シテ謡だけを消去して空白を作り、その前後の地謡と自然に繋げる、なんていう音源は、カセットテープではとても作れませんでしたから。。

そんなわけでカセットテープからMDに乗り換えた ぬえではありましたが、前述のような録音時間の制約は如何ともしがたく、なんとなく舞台の録音記録も怠るようになってきてしまいました。

今回のICレコーダーの導入はまた ぬえにとっては画期的で、今日は「橘香会」の録音を編集して曲ごとの音声ファイルに分割、それにタイトルや演者の情報を埋め込んで、あまつさえCDに焼くところまで到達しました。やれば出来るじゃないかっ、ぬえくん。

橘香会『卒都婆小町』。。ICレコーダー初出動

2007-10-20 23:56:36 | 能楽
今日は師家の別会『橘香会』(きっこうかい)でした。ぬえは梅若万佐晴先生の舞囃子『鷺』の地謡と、万三郎先生の能『卒都婆小町』の地謡に出演しておりました。まあ、演目のうちの一つは能ではなく舞囃子だったとはいえ、重習2曲の地謡は大変でした。

それでも『卒都婆小町』は昨今ではよく上演されるようになったので、ぬえも地謡は何度も経験があります。それにしても今日の『卒都婆小町』は歴史的な名演だったんではないかしら。「浄衣の袴かいとって」からの地謡は、謡っている ぬえも感激してしまいました。

おシテは古い萌黄の水衣から一転して明るい茶地の長絹となり、これまた大変に古い長絹で、それに対して腰巻にした無色段縫箔は、師家所蔵の古い装束を写して、数年前頃に新しく作ったもの。「これは。。合うかなあ。。?」とお装束の取り合わせを楽屋で見た ぬえは思ったのですが。。装束というものは普通、古いものと新しいものとを混ぜて着用することはないのです。新しい装束と古い装束は、なぜかとっても ぶつかってしまうのですよね。ちぐはぐに見える。だから、老女物などを演じる場合には古い装束を着ますが(師家の『卒都婆小町』の型附には装束付の記載にしっかり「だみた装束を着る」と書いてありますね)、そのときのために師家では古い装束も大切に保存してあるのです。

今回はそういうわけで縫箔だけがぴかぴかの新品だったのですが、地謡座から拝見している限りでは不思議と違和感がありませんでした。お装束の取り合わせにも適不適があって、それによるものか。。今さらかもしれませんが、お装束の取り合わせというものはなかなか奥が深いものだと思いました。この装束が、これまた おっそろしく古い、無銘の「痩女」の面と不思議な調和を持っていた舞台だったと思います。

それと、今日はおシテの杖の突き方がとっても印象的で心に残りました。以前 師匠が『関寺小町』を勤められた際、師家発行の機関誌『橘香』に記録記事を掲載するために、後日 ぬえが相手役となって対談のような形でインタビューをさせて頂いた事があったのですが、このとき ぬえは師匠が使われた杖がかなり太い事に注目していたので、思い切って伺ってみました。このときのお答えは「いや、老女物では太めの杖を使うんだよ。他の人も老女は太い杖を使っているよ? 本当に杖にすがって歩く、という気持ちで。。藤戸や弱法師などとはまったく別なんだよ」と、おっしゃって、これも印象的なお答えでしたが、今日の『卒都婆小町』は、なるほど、杖の突き方が『藤戸』などの杖とはずいぶん違います。本当に杖を頼りにしているような突き方で。。

2ヶ月後に『山姥』を勤める ぬえとしましては、ちょっと杖に敏感になってしまっているようで。。もっとも『山姥』の杖は鹿背杖ですから『卒都婆小町』と比べるわけにはいかないのですが、鹿背杖を突いて出る役を演じるのは ぬえは今回が初めてなので、いろいろと今、研究中なのです。こう考えると『弱法師』の盲目杖、『藤戸』の突き杖(これらは ぬえはすでに勤めていて、だいたい感じはつかめるのですが。。)、そして『山姥』のような鹿背杖、と、これらは すべて突き方が違いますね。それだけだと思っていたら、老女物の杖。。まさか「突き杖」とは用法が、というか心持ちが全然違うとは思っていませんでした。

こういうところ、微妙で、言われなければ分からないようなところ、あるいはよく観察しないと気づかない点が、能は本当によく吟味されて区別されているものだと思います。

千葉県匝瑳市「飯高檀林コンサート」(続)

2007-10-17 04:04:19 | 能楽

さて、この由緒ある飯高寺で催された今回の「飯高檀林コンサート」ですが、番組は次の通りでした。

舞囃子    『高 砂』    ぬえ
舞囃子    『船弁慶 後』  加藤眞悟
装束付舞囃子 『経 正』    梅若紀長
 (いずれも囃子方は小野寺竜一、森貴史、大倉慶之助、大川典良)

じつはこの催し、太鼓方の大川典良くんが主催だったのです。お囃子方が主催の催しも最近はときおり見かけるようにもなりましたが、若手の彼がこのようなしっかりした催しをする事ができたのは立派な事です。もっとも「飯高檀林コンサート」自体は今回で12回目を数える歴史のある催しで、「コンサート」という名称の通りこれまではクラシックや雅楽の演奏会などが行われてきました。能の公演は、装束付舞囃子という略式のものだったにせよ、今回が初めての上演だったそうですが、それでも これまでのコンサートの際にお客さまから頂くアンケートには「この重要文化財の講堂を使って演じるのには能楽がふさわしい。ぜひ実現してほしい」という声が多数寄せられたのだそうです。

また一方 大川典良くんは当地・匝瑳市の出身で、ぬえと同じく大学時代に能に魅せられてこの世界に飛び込んだ人です。今は故郷であるこの地のそばに住む彼は、コンサートのお客さまの要望と最も合致した人材で、歴史あるこのコンサートに結びつくのは必然的な流れであったかもしれません。

しかしながら、やはり彼は今回の催しで故郷に錦を飾ったのです。さらに、出演者へは謝礼を用意しなければならないのに、コンサート自体は入場無料 という難しい条件の中で、しっかりと支持者からの後援を得て催しを実現できたのは、やはり彼の努力の成果だと考えるべきでしょう。よくがんばりました>大川くん

それで。今回のコンサートでは大川くんも自分と同世代の「友達」の囃子方ばかりを集めて、気の合う仲間同士での上演を図ったわけですが。初番の『高砂』を舞うことになっていた ぬえは、若手ばかりのこの催しだからこそ注文をつけておきました。「神舞はできる限り速く演奏して」。

こういう事は ぬえも大先輩が出演されるような催しでは なかなかお願いしづらいところです。ただ、神舞というものは通常の舞の中では最速な舞ですし、しかも曲目が『高砂』ですから、「立て板に水を流す」と表現される脇能の中でも 最も潔い演奏であってしかるべき、とされています。こういう、血気盛んな(?)若手が集まる催しだからこそ、『高砂』を演じるにあたって最も潔い。。最高速で演じてみたい、と ぬえは考えたのでした。

結果は。。ぬえも、高速の神舞をお願いした手前、若さにまかせた超絶・神舞が実現した場合、それに身体がついていかないのでは笑い者ですので しっかり稽古はしておいたのですが、う~ん、ぬえが考えたほどには速くならなかったな。。ぬえは通常より長い五段の神舞を注文したし、『高砂』は初番の上演だったので、囃子方がその後の曲目のことを考えて『高砂』は体力を温存、という事も考えられる場面ですが、そのような様子は彼らには見えなかったけれど、「無難に速い」、という印象の『高砂』となりました。でもまあ、囃子方の誰かが高速の神舞の演奏に絶えきれずに脱落、という事も、これまた場面として考えられるのに、それは全く危惧する必要もないほど しっかり合った演奏でありました。

お客さまも超満員(どうやって会場にたどり着かれたのか。。)、ぬえも楽しみながら舞うことができました。気持ちの良い催しでしたね~~。

千葉県匝瑳市「飯高檀林コンサート」

2007-10-15 16:55:02 | 能楽

昨日、10月14日の日曜日、千葉県は匝瑳市(そうさ・し)にある飯高寺(はんこうじ)で催された「飯高檀林(いいたかだんりん)コンサート」に出演してきました。

匝瑳市は成田市の隣り、銚子の少し東京寄りにある、のんびりとした町でした。東京の ぬえの自宅からは特急を乗り継いで2時間以上かかったので、意外に関東も広いもんです。最寄り駅は総武線の「八日市場駅」で、会場となった「飯高寺」までは車で20分あまり。田園地帯の真ん中の小高い丘の上にそのお寺はありました。

この飯高寺、到着してみると交通の便が良いとはお世辞にも言えないこの地に、こんなに大きな伽藍があるのかと驚くような立派な建物です。これは寺の中心をなす講堂で、その前には茅葺き屋根の鼓楼と、檜皮葺屋根の鐘楼があります。境内はそれらの建物でほぼ一杯になってしまうのですが、この巨大な講堂。。これは本来の境内はこの規模ではあるまい。それにこの講堂が特異なのは大きさだけではなく、その造作にあります。内陣・外陣のような、本尊に対面してタテ向きに造られた一般的な寺の建築とは違って、中央に大きな広間があり、その左右に大広間に従えられたように、格子戸で隔てられた広間があります。ううむ、これは。。?



よくよく聞いてみたら、この飯高寺はかつては法華宗(日蓮宗)の檀林、つまり僧侶の学問所だったそうです。なるほど、大広間で行われた老師の説法を、学僧が位の順に同じ広間や左右の部屋で聴聞したり、はたまた先輩学僧が論争をし、若輩の僧は左右の部屋から格子戸を通してそれを見守っていたり、そういう仕組みのために造られた建物なのか。。聞けばそれ以来、檀家をまったく持たない寺、として現在にまで存続しているのだそうです。

それどころか飯高寺の来歴は、天正19年に徳川家康からの寄進を受けて最初の講堂がこの地に建てられたのがはじめだそうで、天正19年といえば豊臣秀吉が関白職を秀次に譲って太閤と称した年で、家康はいまだ将軍になる10年以上も前の話です。江戸時代には徳川の後援もあり、とくに家康の側室のお万の方の深い帰依があって、巨大な講堂はその時に建てられたとのこと。一時は450~650人の学僧が学び、彼らが寄宿生活を送った寮は180軒を超えた、というのですから、なるほど境内はこの場所にとどまらず、また巨大な講堂も必要だったわけですね。明治期の廃仏毀釈で、ご多分に漏れずこの飯高寺も檀林としての使命を終えたのですが、その精神は立正大学に引き継がれ、残された講堂・鐘楼・鼓楼、それに総門は、江戸時代の檀林の様子を今に伝える貴重な遺構として国の重要文化財に指定されているのだそうです。

じつは楽屋にはその立正大学の総長先生もご来臨しておられたのですが、立正大学はこの檀林の風を引き継ぎ、もっぱら学究や教育者を育てる、という校風であったそうで、現在のように一般の社会人として世に人を送り出すようになったのは、ここ30年ほどの事なのだそう。立正大学はこの飯高寺を前身と考えていて、日本で一番古い大学、と捉えているのだそうです。すごい歴史があるものだ。。



それにしても ぬえはこのお寺にある茅葺きの鼓楼に心惹かれました。飯高寺は最近2年ばかりを掛けて大規模な修理がなされたばかりで、鼓楼だけは鮮やかな朱塗りであるのが、白木の講堂や鐘楼とやや似合わない感じはするのですが、茅葺き、ってだけで ぬえは弱い。。先日の鎌倉・建長寺で、国宝の鐘が納められている鐘楼が、大きな三門の傍らに控えめに建てられていて、それがまた茅葺きだったのを見て、なんだか心打たれてしまったのです。ん~~、この気取らなさがイイ! でも、だからこそやっぱり白木でいて欲しかった、とも思いましたですが。。

PR/梅若研能会 12月例会

2007-10-11 03:10:07 | 能楽
【梅若研能会 12月例会】   平成19年12月16日(日)午後1時開演
                  於・観世能楽堂(東京・渋谷)

 能  松風(まつかぜ)戯之舞

     シテ(松風) 梅若万三郎

     ツレ(村雨)  梅若紀長
     ワキ(旅僧) 村瀬純/間狂言(里人) 山本則重
     笛 松田弘之/小鼓 大倉源次郎/大鼓 安福建雄
     後見 清水寛二/地謡 伊藤嘉章

   ~~~休憩 10分~~~

狂言 地蔵舞(じぞうまい)

     シテ(出家)      山本則直
     アド(宿ノ亭主)    山本則重

能  山姥(やまんば)

     前シテ(女)
     後シテ(山姥) ぬえ

     ツレ(百万山姥)青木健一
     ワキ(従者) 野口能弘/間狂言(里人) 山本則直
     笛 栗林祐輔/小鼓 曽和正博/大鼓 国川純/太鼓 大江照夫
     後見 梅若万佐晴/地謡 中村裕


  《入場料》指定席6,000円 自由席4,700円 学生2,200円 学生団体1,500円
  《お申込》ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

  ※自由席は割引できるかも。。です


ぬえ今年最後のシテは。。『山姥』! とっても哲学的な能なんだなあ。。と、地謡を謡いながらずっと漠然と考えてはいたのですが、稽古を始めてみると、じつはこのシテは、もっと人間的で親しみやすい人間(?)像として描かれているのだと知りました。彼女(?)苦しんでいるのねえ。。上演頻度も非常に高い人気曲のひとつだと思いますが、先人の名演に負けないような舞台にしたいと思っております。例によってこのブログで作品の考察をしてみたいと考えておりますので、どうぞよろしくご愛顧くださいますようお願い申し上げます~~

師家蔵SP盤のデジタル化作戦~サイトに報告を載せました

2007-10-10 01:11:12 | 能楽
今年の正月に遡りますが、ぬえの師家が所蔵する古い謡曲や番囃子のSP盤がデジタル化して現代に甦りました。そしてその音源はこの夏、研究者のサイトに紹介され、ご自由にDLしてお聴き頂くことができるようになりました。

この経緯についてはブログで紹介させて頂きましたが、最近ようやく ぬえのサイトの更新をする中でページを新たに設け、ブログで書いた記事を再構成してご紹介させて頂くことが出来ました。今日はその自分の更新ページの宣伝まで申し上げる事と致します。

思い返してブログを読み返してみたら、このプロジェクトについては昨年の9月中旬にはじめてブログでご紹介させて頂いているのですね。スタートからもう1年かあ。。このときの記事では、すでにデジタル化プロジェクトは始動していて、ぬえが師家のお許しを得て、所蔵SP盤のリストを作り上げた、という事が書かれています。

このプロジェクトの立案者である中京の能楽研究者・池野鮒さんこと飯塚恵理人さんが古い音源を集めはじめたのは もちろんそれよりずっと以前の事で、「明治から戦前までの時代の、かつての名人、と言われても、我々の世代では その演技も、それどころか声さえも聞いたことがない。資料が失われる前に、いまの時代にきちんと保存して、また広く公開するべきだ」とお考えになったのが、今回のデジタル化・公開にまで結びついた、そもそものキッカケでした。

ところが巷間に出回っている古いSP盤というのは保存状態も悪く、また、もとより「レコード盤に針を落とす」というアナログで物理的な作業をして再生していた当時、レコード盤の再生は、そのまま盤の寿命を縮める作業に他ならず、そこで鮒さんは「いっそ録音を担当した能楽師の家にこそ保存状態の良い盤が残されているのではないか」とお考えになったようです。ぬえが書いたこのブログの記事から考えると、以前から鮒さんと懇意にしていた ぬえに、師家の所蔵する音源をデジタル化したい、というお申し出を頂いたのは昨年の春頃ということになるようです。

その画期的なアイデアに賛同した ぬえは、師家に相談して許可を頂き、9月にリストを作り上げ、11月に ぬえ自身の手によってSP盤を名古屋まで輸送し、NHKの専門部門に引き渡して、今年の正月には見本のCD盤が出来上がるところまで行き着いた、という流れになります。

今回のデジタル化プロジェクトでは、音源を一般公開する、という方針が当初から 鮒さんによって明示され、ぬえも師家にその理解とご協力をお願いしました。ありがたいことに師家からご快諾を頂けたことで、ようやく計画が軌道に乗ったのですが、音源の中には著作権が ぬえの師家だけにとどまらないものもあり、それらの中には最終的に公開できなかったものもあります。

それでも今回の音源の公開は、能楽界の歴史の中でも画期的な事業と言うべきで、鮒さんの輝く業績と呼ぶにふさわしいものでしょう。とりあえず今日は ぬえのサイトに新設されたご紹介のページについてお知らせ申し上げますが、このページには 鮒さんのサイトへのリンクを張ってございますので、そこから古い音源をお聴き頂けます。また今回のプロジェクトの詳しい経緯なども記してございますので、ご一読頂けるとありがたいと存じます。

師家蔵・古いSP盤のデジタル化作戦

う~ん、考えてみると本当に未来に続く良いお仕事をされましたね~ 鮒さん (^o^)ハ

Dくんと飲んだ(続々)

2007-10-07 23:48:01 | 能楽
まずは訂正から~。前回の記事で「小さ刀というのは能にも狂言にもよく使われる腰刀で、能ではもっぱら直面で直垂を着ている役に使います。直垂とはよく似ていながら、能では素袍を着る役にはこの小さ刀は使わない事になっていますが、」と書きましたが、これは ぬえの勘違いで、素袍の役でも小さ刀は普通に指しておりました。(^◇^;)

昨日、師家の月例会で上演された『景清』で、ぬえはトモの素袍男の装束を着付けたのですが、小さ刀を着けながら「あちゃ~~。。ブログにウソ書いちゃった。。」と気がついてガッカリ。考えてみれば ぬえの初舞台のお役、『小袖曽我』トモもしっかり小さ刀を指していたし、前回の記事で小さ刀を抜くのはこの曲ぐらいのもの。。と書いた『望月』だって、素袍上下姿の前シテからやっぱり小さ刀を指しておりました。。

素袍男が他の装束の役と決定的に違う点は。。小さ刀ではなくて。。頭に何も被らない点、そして中啓は用いず必ず鎮メ扇を使う、という点でしたね。勘違い、失礼致しました~~

さて話が横道にそれましたが、Dくんは狂言で使う道具を集めている、というよりは、むしろ こういった小さ刀を集めるのに熱中していて、これはむしろ趣味の範囲ですね~。しかしまたその収集も徹底していて、あちこちの骨董市で集めた脇差や短刀の柄や鍔、鞘を組み合わせて、自分だけのオリジナルの小さ刀を作り上げる、というほどの凝りかた。

もちろん刀身は木製で、このように拵そのものを見て楽しむ場合、刀身が中に入っていないと拵はバラバラになってしまうので、「つなぎ」と呼ばれる木製の刀身、つまり竹光の刀身を中に入れて外装を鑑賞するのです。

それにしても、刀剣を作る場合は、まず先に刀身があって、それに合うように鞘師が朴の木を削って刀身にピッタリと合う鞘を作り上げるのです。それに比べてすでに鞘が先にあって、その内側にうまく納まるような刀身を木を削って作るのは技術的に難しいでしょう。Dくんは刀装具を扱う専門店に相談して「つなぎ」を作ってもらったのだそうですが、はあ~~、それほどまでしてオリジナルにこだわるか。。収集のやり方はちょっと ぬえとは方向性は違うのだけれど、家にはちゃんと道具類はそろっているのだから、そのうえで自分が舞台の上で使う道具を自分で作り上げたい、という姿勢は、やはり良いことだと思います。

まあ、狂言方という仕事柄か、ときおり彼から ぬえに送られてくるメールには「いま京都の骨董市に来ています」なんて書いてあって、全国を駆けめぐって小さ刀ばかりを探している彼の姿が見えるようだ。これはこれで羨ましい事でもありますね。どうやら関西に住んでおられるDくんのご親戚もDくんのこういった骨董市通いを応援しておられるようで、うむ、お家やお流儀のためにも、彼のような一途さは大切な財産でありましょう。

骨董市の会場から寄せられたDくんのメールは「こういう面が出ているのですが、作者はどういう人でしょうか」とか「こんな品が売りに出されているけれど、値段は妥当でしょうか」と、こと細かに、丁寧に ぬえに質問が寄せられます。ぬえもこういう質問には割と即答できる方なので、どちらかというと ぬえが教えてあげる場面が多いけれど、名家のお家のお子さんなのに、ぬえを慕ってくれるのは本当にありがたい事ですし、また そういった謙虚な姿勢であるからこそ、ああいった気持ちのよい舞台を見せてくれるのでしょう。

これからも一緒にがんばろうねっ (^。=)

Dくんと飲んだ(続)

2007-10-06 00:59:59 | 能楽
で、このたびDくんと飲む約束をしたのは、最近彼が手に入れた小さ刀をぜひ ぬえに見せたい、という希望があったからで、それと ぬえも今年の狩野川薪能の『一角仙人』のために自作した剣を以前から見せる約束をしていたので、それらの約束がようやく実現したのです。

小さ刀というのは能にも狂言にもよく使われる腰刀で、能ではもっぱら直面で直垂を着ている役に使います。直垂とはよく似ていながら、能では素袍を着る役にはこの小さ刀は使わない事になっていますが、お狂言の方ではもっと幅広く使われているようですね。

しかしこの小さ刀、じつはそれほど簡単に入手できる品物ではありません。その長さがもっとも問題で、全長として脇差よりは短く、短刀よりは長い、というあたりが理想なのです。なかなかこういう刀の拵(こしらえ=刀の外装。柄とか鞘とか)はありませんね。古美術としての刀の分類では「寸延び短刀」というものがこの小さ刀にうまく合致するようですが、これとても刀の寸法の中では異端なのです。かつては脇差を着けて舞台に出ていたのかもしれませんが、装束を着付けた上に着けるとなると、やはり脇差ではやや長すぎるのです。

また骨董には「茶差し」というものもあります。これは茶道の時に身につける刀で、やはり小型の脇差といった寸法で、長さとしては小さ刀にはちょうど良いのです。茶道の点前に臨むときに刀を身につけるのは本来許されず、刀は茶室の外にある刀掛けに置いて、丸腰で茶室に入る。帯刀していては茶室に入れないように、という意味が躙り口の大きさには込められている、と我々は知っているわけですが、現実に「茶差し」というものがあります。どうやら千利休らの「侘び茶」に対して「武家茶」というものもあったようで、現代でも伝統を継いでおられるお流儀があるようです。この「武家茶」では、さすがに現代ではそうしないまでも、かつては帯刀したままの点前という事があったとか。

ぬえも茶道については詳しくないのですが、こういう流れの中で「茶差し」というものが生まれたのでしょうか。ちなみに「茶差し」はすべて竹光で、それどころか一本の木から脇差の拵の形に削りだしただけ、要するに抜けないものも多くあります。能では小さ刀を抜くことはまずなく(『望月』ぐらいなものでしょうか。。?)、こうなると「武家茶」とはいいながら本当に武士が腰にして点前に臨んだものかは大いに疑問で、あるいは「武家茶」を嗜んだ町人がアクセサリー感覚で身につけたのかもしれませんね。

ただ、ぬえが見てきた限り、「茶差し」というものには名品がありません。なんだか貧弱なものが多い。金具も何にも使っていなくて、ただ木を削り出しただけ、というものもしばしばお目に掛かります。どうも「リッチな商人が武家茶を習うのに、帯刀は許されないけれども武家の気分でアクセサリーとして造らせた」という ぬえが持つイメージとはほど遠い。「茶差し」とは呼ばれるけれど、本当は茶道のために造られたものではないのでしょうか? それとも たまたま ぬえが見たものが貧弱なものばかりだったのかなあ。ご存じの方があればご教示願えれば幸甚です。。

また逆に、寸法こそやや長すぎるけれど、江戸末期頃の脇差の拵には美しいものが多くありますね。金象眼とか津軽塗り風の美しい梨地の鞘とか。面白いな、と思うのは、こういう品の柄頭とか鍔とかに象眼されている文様が貴族趣味なことで、『源氏物語』をモチーフにしていたり、和歌が念頭に置かれていたり。これまた武士らしい質実剛健さとはちょっと趣を異にしています。江戸時代という時代はいろんな意味で、現代の我々が考えているよりも、もっと大らかで活発、しかも爛熟していたのかなあ、なんて、小さ刀を見ながら考えたりするのでした。

Dくんと飲んだ

2007-10-05 00:57:00 | 能楽
ちょっと前になるのですが、若手狂言方のDくんと久しぶりに飲みました。

Dくんの事は以前にもこのブログでご紹介したことがあるのですが、ぬえがとっても気になっている狂言方若手の有望株。ともかく舞台に対して真摯な態度で、なにより舞台に大きな夢を持っているところが大変よいと思いますね。そして若いのによく身体が作れて仕上がっている、と ぬえは思います。

稽古に熱心かどうかは舞台を見ていればすぐにわかるし、若いうちにしか声や舞を作り出す身体の基礎は鍛錬できないので、稽古が身体を作り上げることにちゃんとリンクしているかどうか、は稽古の大きなカギだと思います。それができるのは若いうちの ほんの短い期間で、その間の稽古が一生の芸を左右するのに、若いうちはなかなか自分では自分の稽古の行方が正しいのかどうか、なんて見極められないものです。そのために師匠の指導があるワケですが、でもその指導を肉体に取り込むのは自分自身にしかできない事なんですよね。

指導を自分の身体の動かし方に反映できるように翻訳できるかどうかは、個人のセンスも大きいし、付きあう同年代の能楽師の友人などの相互の影響も絶大だったりします。でも ぬえは、それより何より大切なのは、自分自身が舞台に夢を持てているかどうか、なんじゃないかなあ、と思います。夢を持てればそれを実現するのに自分に何が足りないか、を真剣に考えることができる。これって、これまた若いうちの特権だったりします。ぬえも内弟子の頃は、修行の合間を縫って、師家から自転車で行ける観世能楽堂に他家の催しを拝見しに行っては自分とのレベルの違いを痛感して、終演後は なにくそっ、と自転車を飛ばして師家に帰り、上演された同じ曲を舞台で一人で謡ったりしていました。ああ。。あんな気持ちでDくんもいるんだろうなあ。。

マジメな話になりすぎましたが、でも、彼と ぬえがおつきあいをしているのは、もっぱらお互いに骨董の収集品を見せ合うのが縁でして。。(^◇^;)

これまたブログに書きましたが、いつぞやの ぬえ主催の若手中心の能楽師の新年会で、たまたまDくんと話していて、彼も ぬえと同じく骨董屋めぐりの趣味がある事を知ったのです。ぬえは知る人ぞ知る骨董屋キラーでして、もう20年、骨董屋や骨董市をめぐってはいろいろな物を買い集めています。でも、もちろん ぬえが買い集めるのは茶器やらアンティーク雑貨などではなくて、もっぱら舞台に使う小道具などです。一代目の能楽師である ぬえは、内弟子修行を始めた当初は、それこそ自分の物など何にも持っていなくて、必要に迫られて骨董屋通いを始めるようになって、時には掘り出し物の面などを手に入れる事もあったのですが、ところが新年会の席で名門の子弟であるDくんから、彼が骨董市にさかんに通っている、という話を聞いて ぬえは意外にも思いながら興味を持ったのでした。

その後、彼に誘われて骨董市に行ったこともあるし、それまでの収集品を見せ合ったこともあります。ぬえも骨董の道具を見る眼は一応あるつもりなので、一緒に骨董市に行ったときには品のどこを見るか、とか、値段が妥当かどうか、をDくんに説明できました。これがまたDくんを刺激したようで、自分のこれまでの収集品を ぬえが拝見するような事にもなり、また ぬえも自分が集めた品を彼に見せて、意見を交換し合うような間柄になったのです。

それにしてもDくんは若いから、行動力が今の ぬえの比ではないですね。。ちょくちょくメールを頂いて、「明日からの◎◎骨董市には ぬえさんは行かれますか?」とか「今日は××の骨董市で、残念ながら成果はありませんでした。。」とか言ってくる。ぬえは、骨董市などは ここぞ!という時にばかり出かけるようになって、う~~ん、最近はちょっとナマってるのかなあ。

                         (続く)

夏休み

2007-10-02 23:48:09 | 雑談

週末は茨城県の海のそばでお休みを頂いておりました。や~~~っと手に入れた夏休み~。で、ちょっと手違いがあってネット環境を構築することができませんで、いまごろやっとネットの世界に戻ってまいりました~。頂いたメールにもこれからお返事させて頂きます。浦島太郎じゃね。まるで。。

考えてみれば今年は6月に『隅田川』と『春日龍神』、8月に『一角仙人』、そして9月に「ぬえの会」の『井筒』と、珍しく立て続けにシテを勤める機会があったので、忙しい事この上ありませんでした。やっぱりシテとなると2ヶ月くらい前から稽古にかかりっきりになるので、そう考えると今年は春からずうっと舞台に向き合いっぱなしの生活でした。

で、9月も終わりになって ようやく手に入れた夏休み(;.;) なので、これはもう「意地でも海に入ってやるぅぅ」と意気込んでおりました。もうクラゲも凍死している頃であろう。。 いやいや、ぬえも凍死しちゃうから、やっぱり海水浴はやめておこう。。

いや冗談じゃなく、東京ではずうっと暑い日が続いていたので、半袖のシャツしか持っていかなかったのが。。失敗でした。土曜日には茨城も暑くて、とうとうエアコンをつけたのに、日曜にはぐっと気温が下がって、もう我慢できないくらいに冷え込んでしまいました。雨が降ったので楽しみにしていた釣りもできなかったし~~。仕方なくショッピングセンターで安物のトレーナーを買って寒さをしのぎました。もう、どうなっているんでしょうね。最近の天気は。。 ちなみにタイトル画像はただ一日晴れた休暇初日の夕日。きれいでした。

ただ、この休暇にたまった事務作業をこなしてしまおうと考えて、いろんな資料を宿に持ち込んでいましたが、こちらは雨天で外に出られなかった事もあって、だいぶ捗りました。パソコンも持っては行ったのでサイトの更新も、目標の半分ぐらいはページを作り、東京に帰ってから更新を致しました。まだまだサイトには報告すべきページが必要なんですが。。これはまた追々に。。

あとは~~、マリカ姫と二人だけの旅行だったのですが、もう姫ったらずうっと ぬえにベッタリで~ (*^_^*) あ~、ずうっと撫でなでし続けた週末でした~ (^。^)



この秋の公演予定に向けて、暗記する、というか 覚え直しをする地謡の曲目もいくつかあったのですが、これは姫を撫でなでしてたら後回しになってしまいました。。でもまあ、東京に帰った昨夜に覚え直しをして、今日は休暇明けの仕事始めの稽古能でしたが、地謡を勤めた ぬえはほとんど間違えなかったのでひと安心。ただ、正座がややつらかったのと、声がもう一つ出ませんでした。やっぱり少しでも稽古を休むとナマるね。。

こうして ぬえの休暇は終わりました。考えてみれば次のシテは12月に梅若研能会で『山姥』を勤めることになっています。2ヶ月前といったらそろそろか。。また稽古に邁進する日々が始まります。

どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます~~ m(__)m