『万葉集』にはホトトギスは153首も登場します。杜鵑、時鳥、子規、不如帰、杜宇、蜀魂、田鵑などなど日本の古典文学でも表記はさまざま。それだけ愛されてきたのでしょう。ホトトギスはカッコウに似たホトトギス目ホトトギス科の鳥で、その「キョッ、キョッ」という鳴き声が「ホ、ト、ト、ギ、ス」と聞こえたところからの名だとも言われています。現代では鳴き声が「テッペンカケタカ」とか「特許許可局」とか聞こえると言われていますが。
そんで、何と言っても有名なのは、ホトトギスはウグイスの巣に卵を生みつけて、卵を孵すことから育児まで、み~んなウグイスに押しつけてしまう習性~托卵なんですよね。
ホトトギスは巣を作らずウグイス(やミソサザイ)の巣に卵を生みつけて、雛の育児はすべてその仮親に任せてしまいます。そして仮親の巣の中でホトトギスの雛は誰よりも先に孵化して、仮親の本当の卵をみんな巣の外に押しやってしまいます。自分の巣の中で、なぜか自分よりも大きく育ってくるホトトギスの雛に親鳥は一生懸命餌を与え続けるという。。なんだかそら恐ろしい話です。
『歌占』の中で子方が引く歌「鴬のかひこの中の子規。しゃが父に似てしゃが父に似ず」とは、仮親の巣の中で孵ったホトトギスの雛は、その姿は本当の父親であるホトトギスに似ているけれども仮親のウグイスには似ていない。。という意味で、不確実な親との関係を詠んでいます。
シテはすぐさま、子方がやはり父親の事を占いで知ろうとしている事を看破し、その旨を確認すると、はたして子方は離ればなれになった父親を探している、との答え。そうであれば、この歌はすでに親子が出会っている事を意味する、とシテは答えます。だんだんと、シテ自身も歌占いに振り回されていくストーリーが、なんとも不思議で面白い趣向だと思います。つまりシテは占い師という、ある種超能力者のような存在ではあっても、あくまで「運命」や「未来」というものを予言するのは短冊に書かれた歌であり、彼はそれを読み解いて質問者に解説するのに過ぎず、いわば目に見えず耳に聞こえない神慮を人々に伝えるメッセンジャーだという事を表しています。彼がそれをする事ができるのは、彼が神に仕える神子であるからにほかなりません。ここで親子が再会できるのも、神の咎めを受けて頓死した身であっても、いまだ神の信頼は失っていない、ということを意味するでしょうか。
シテ「これも父の事を御尋ね候な。
子方「さん候父を失ひて尋ね申し候。
シテ「是ははや逢ひたる占にて候物を。
子方「いや逢はねばこそ尋ね申し候へ。
シテ「さりとては占に偽よもあらじ。鴬に遇う言葉の縁あり。又卵の中の子規とも云へり。時も卯月程時も合ひに合ひたり。や。今啼くはほととぎすにて候か。
子方「さん候ほととぎすにて候。
シテ「面白し面白し。当面黄舌の囀。鴬の子は子なりけり子は子なりけり。不思議や御身はいづくの人ぞ。
子方「伊勢の国の者。
シテ「在所は。
子方「二見の浦。
シテ「父の名字は。
子方「二見の太夫渡會の何某。
シテ「さて其の父は。
子方「別れて今年八箇年。
シテ「さておことの幼名は。
子方「幸菊丸と申すなり。
シテ「こはそも神の引き合はせか。これこそ父のなにがしよ。
子方「不思議や父にてましますかと。云はんとすれば白髪の。
シテ「身は白雪の面忘れ。
子方「されども見れば我が父の。
シテ「子は子なりけり。
子方「ほととぎすの。
そんで、何と言っても有名なのは、ホトトギスはウグイスの巣に卵を生みつけて、卵を孵すことから育児まで、み~んなウグイスに押しつけてしまう習性~托卵なんですよね。
ホトトギスは巣を作らずウグイス(やミソサザイ)の巣に卵を生みつけて、雛の育児はすべてその仮親に任せてしまいます。そして仮親の巣の中でホトトギスの雛は誰よりも先に孵化して、仮親の本当の卵をみんな巣の外に押しやってしまいます。自分の巣の中で、なぜか自分よりも大きく育ってくるホトトギスの雛に親鳥は一生懸命餌を与え続けるという。。なんだかそら恐ろしい話です。
『歌占』の中で子方が引く歌「鴬のかひこの中の子規。しゃが父に似てしゃが父に似ず」とは、仮親の巣の中で孵ったホトトギスの雛は、その姿は本当の父親であるホトトギスに似ているけれども仮親のウグイスには似ていない。。という意味で、不確実な親との関係を詠んでいます。
シテはすぐさま、子方がやはり父親の事を占いで知ろうとしている事を看破し、その旨を確認すると、はたして子方は離ればなれになった父親を探している、との答え。そうであれば、この歌はすでに親子が出会っている事を意味する、とシテは答えます。だんだんと、シテ自身も歌占いに振り回されていくストーリーが、なんとも不思議で面白い趣向だと思います。つまりシテは占い師という、ある種超能力者のような存在ではあっても、あくまで「運命」や「未来」というものを予言するのは短冊に書かれた歌であり、彼はそれを読み解いて質問者に解説するのに過ぎず、いわば目に見えず耳に聞こえない神慮を人々に伝えるメッセンジャーだという事を表しています。彼がそれをする事ができるのは、彼が神に仕える神子であるからにほかなりません。ここで親子が再会できるのも、神の咎めを受けて頓死した身であっても、いまだ神の信頼は失っていない、ということを意味するでしょうか。
シテ「これも父の事を御尋ね候な。
子方「さん候父を失ひて尋ね申し候。
シテ「是ははや逢ひたる占にて候物を。
子方「いや逢はねばこそ尋ね申し候へ。
シテ「さりとては占に偽よもあらじ。鴬に遇う言葉の縁あり。又卵の中の子規とも云へり。時も卯月程時も合ひに合ひたり。や。今啼くはほととぎすにて候か。
子方「さん候ほととぎすにて候。
シテ「面白し面白し。当面黄舌の囀。鴬の子は子なりけり子は子なりけり。不思議や御身はいづくの人ぞ。
子方「伊勢の国の者。
シテ「在所は。
子方「二見の浦。
シテ「父の名字は。
子方「二見の太夫渡會の何某。
シテ「さて其の父は。
子方「別れて今年八箇年。
シテ「さておことの幼名は。
子方「幸菊丸と申すなり。
シテ「こはそも神の引き合はせか。これこそ父のなにがしよ。
子方「不思議や父にてましますかと。云はんとすれば白髪の。
シテ「身は白雪の面忘れ。
子方「されども見れば我が父の。
シテ「子は子なりけり。
子方「ほととぎすの。