ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

扇の話(その3)

2008-01-31 01:50:31 | 能楽
なんだか怒濤のように舞台が立て込んでいた先週からうって変わって今週はヒマにしている ぬえです。こういう時ってのはたまった事務作業がはかどってありがたい事ですが、まさにこういう時期に ぬえは資料を整理したり、書き付けを作ったりするせいなのか、舞台が多くて忙しい時期よりもなんだかブログの更新が滞りがちになりますね。。そういう傾向にある事にやっと気がついた。

考えてみれば、舞台に出ているときは 要するにライブへ出演している(ほとんど ちょい役ですけれども。。)ワケで、見所のお客さまの反応やら、楽屋で友人と話したことなど、常に新鮮な体験や情報を得ているから話題にも事欠かないのかなあ。舞台がヒマな時は、それこそ「ぬえはこう考えています」とこのブログでも書いているような事を練っていることが多いので、いま語れることが少なくなっちゃうのでしょうか。まあ、ヒマな時は事務作業に没頭してブログを書く時間が取れないのが最も大きな原因ではありましょうが。。いずれにしてもご愛読頂いておられる方々には申し訳ないことですけれども。。

で、扇の話の続きですが、いや、それでも ぬえ、扇の話題には事欠かないです。ふだんもっとも身近にあって、常に手にしている物ですし、能の中では象徴性をもっとも強くもつ要素でしょう。作物やら型が持つそれとは比べようもないほどで、扇そのものが持っている神秘性というか呪術性が象徴性を幾倍にも増幅しているような印象は、ぬえ、常に持っています。さて、今日は何をお話しようかしらん。。

おお、それ。では今日は「近衛引き」のお話を致しましょう。



これが「近衛引き」です。要するに幅広い縞模様を横にズッと引きずっただけの文様。草花も吉祥の文様も、なあんにも描かれない、ただの縞模様です。金地に極彩色で描かれた扇に比べれば地味で鑑賞に耐えないように見えますでしょう? ところがこの文様には重大な秘密があるのですよね~。

さて近衛引文様の扇は、観世流では『鉢木』のシテが、専用にこの文様が描かれた鎮メ扇を持つ約束になっています。もっとも『鉢木』で使う近衛引はこの画像とはちょっと違って 白地にくすんだ金の縞模様、という感じですけれども。この画像の扇は ぬえの手元に近衛引の見本としてご紹介するのに適当な扇が見つからなくて、仕方なく ぬえが流儀で準職分に認定された際にご宗家から頂戴した扇の一部を撮影しました。『鉢木』とは全く色合いが違うけれども、これも立派な近衛引文様です。

まあ『鉢木』のシテは落ちぶれた武士ですから、しゃれた草花の文様が描かれた扇よりは地味な印象の近衛引文様が似つかわしいとは思いますが、だからといって近衛引はこのような零落した場面に専用の文様とは言いにくいのです。たとえばお狂言の和泉宗家では近衛引文様の扇が決マリ文様なのだそうで、また京舞井上流の流儀の決マリ文様は金地の扇の下半分が近衛引文様になっていますね(井上流ではお稽古の段階によって近衛引の段の数が増えてゆく、と ぬえは仄聞しましたが。。真偽についてはよく存じません。。)。

「流扇=りゅうせん」とも言いますが、ある流儀の決マリ文様ということは、その流儀に属する者の身分証に匹敵する文様なのです。なぜこの地味な文様が流儀を代表するほどの格式を持っているのか。。それは、まずは「近衛」に由来するものなのかもしれません。

(でも ぬえがここで近衛引文様について語りたいのは、もっと別の視点からなのではありますが。。)

扇の話(その2)

2008-01-28 22:49:38 | 能楽
あ~、そうだそうだ、扇のお話をしていたのでした~。前回、シテ方各流が使う扇の話から、とくに観世流の「尺一扇」のお話をしました。観世流の扇は一尺一寸という、五流の中ではもっとも大きい扇を使い、そこに観世水の文様を描いたものを流儀の扇としています。尺一扇には、その親骨に ほかのお流儀の扇にはない三箇所の透かし彫りが入れられているのも大きな特徴ですが、尺一という寸法も、三箇所の透かし彫りも、じつは能の役が持つ扇「中啓」が持っている特徴です。ですから観世流の扇は中啓を元にして、それを鎮メ扇に作り替えたもので、ほかのお流儀で使う扇は中啓とは別に、はじめからそれぞれのお流儀の独自の鎮メ扇を定めたのかもしれませんね。ちなみに鎮メ扇にはこのようにシテ方各流によって長さも親骨の形も様々なのですが、中啓には流儀による仕立ての区別はありません。ですから、能のシテやワキ、ツレなどが持つ中啓は、すべて観世流の鎮メ扇と同じ三箇所の透かし彫りがなされている、同じ仕立てのものを使うのです(そこに描かれる文様は、曲目により流儀により、様々な違いがあります)

で、観世流の尺一扇に話を戻して、さきに ぬえは観世流の鎮メ扇には中啓と同じ三箇所の彫り物がある、と書きましたが、厳密にはそうばかりではありません。梅若の扇は仕立てこそ観世流と同じで、寸法も尺一なのですが、三箇所の透かし彫りは「松葉」の形になっています。ちょっと画像でご紹介できればよかったんですが。。じつは ぬえの師家は梅若家ですけれども、この「松葉」の鎮メ扇は使っておりません。「松葉」の扇をもっぱら使っておられるのは六郎先生のお家で、ぬえの師家である梅若万三郎家では観世流の扇を使うのです。これは、戦前から戦後の一時期まで続いた、いわゆる「観梅問題」。。観世流から梅若家が独立しようとした問題が複雑な経緯をたどって、今にまで影響を残しているのです。もちろん今では梅若家も観世流の中にあって、三家あるそれぞれの梅若家はお互いに親密に交流しております。先日も六郎先生がおシテを勤められ、ぬえの師匠が地頭を勤めた能が二度もあって、そのどちらにも ぬえもお手伝いに参上させて頂きました。

面白いのは、梅若六郎先生のお家では、扇の透かし彫りの違いだけではなくて、能のときに地謡が扇を構える、その扇の持ち方が、ちょっと独特ですね。ご存じの通り、能では(シテ方のどのお流儀の場合も)地謡は膝の前に扇を立てて、要を床につけて構えて謡います。このとき、扇の地紙の面を自分の正面の方に向けて、扇を立てて構えています。わかります? ちょうど、脇正面のお客さまの方に向けて、そちらの方面から見れば扇の親骨の透かし彫りも、地紙も見えるように構えるわけです。

ところが六郎先生のお家ではこれとは逆に、扇の親骨を舞台の正面の方に向けて持っておられますね。つまり正面のお席から親骨が見えるように扇を構えるのです。ですから、先日のように混成部隊の地謡の場合は、扇をどちらのお家のやり方に合わせて構えるのか、と地謡があらかじめ話し合わないと、扇の持ち方がバラバラになってしまいます。まあ、普通は地頭の方のやり方に合わせるのが自然で、先日テレビ収録があった『安宅』でも、地謡8名のうち六郎先生のご門下が5名までを占めていて、ぬえの師家からは師匠を含めて3名しか参加していなかったのですが、地謡の中から自然に「今日は万三郎先生が地頭だから、そちらのやり方に合わせて扇を構えましょう」と打合せがまとまりました。

話は飛ぶけれど、この『安宅』の収録の楽屋で、ぬえも久しぶりに六郎先生の門下の友人と旧交を温めましたし、他門のお舞台にご一緒させて頂けるのは勉強の良い機会にもなりました。お囃子方のお手伝いに来ていた友人からも「ぬえくん、こういう他流試合みたいな機会に呼ばれて嬉しいんだろう?」と聞かれて「うん。。うれしい」と答えたら「ぬえくん、こういうの好きそうだもんなあ」だって。それと可笑しかったのは、だいいたいみんなの装束の着付が終わったところでNHKの担当者の方が「着付ができた方から あちらの別室に行ってメイクしてもらってくださ~い」と言われていたこと。メイク!? やっぱり登場人物が直面ばかりだと修正されちゃうんでしょか。。メイクされた山伏が顔を見合わせて、もう開演前だというのに楽屋は大爆笑でした。。

太鼓入りの『梅枝・越天楽』(その6)

2008-01-25 00:35:05 | 能楽
昨日は横浜能楽堂で催されたNHK能楽鑑賞会で梅若六郎師の『安宅 勧進帳・滝流』の地謡を勤めて参りました。変幻自在の六郎師。先日の『梅枝』とはまったく次元が異なったような能を、まったく自然に勤めておられるお姿を拝見できて ぬえは幸せでした。力強く、でも力みなく。。ぬえ、尊敬しちゃうなあ。

それでも公演当日は演者にとって必ずしも条件が良いわけではなかったと思います。開演前にカメラリハーサルがあって、部分的にではありましたが上演があって、それから『安宅』の本番の上演までは3時間以上の待ち時間があって。そのうえ上演時には舞台の上はものすごく乾燥していましたね~。地謡の ぬえも喉がカラカラで苦しかったし、おシテもやや苦しそうでした。当日収録された『安宅』も良かったけれど、申合はもっと良かった、と思います。テレビ収録ということで普段の公演とは勝手が違うところもあり、こういうところはベストコンディションで本番の上演を迎えられるように自分のクオリティを持っていくのは難しいですね。

さて『梅枝』。

そういえば『富士太鼓』で妻が太鼓を打つその曲は、はじめは曲にならない「攻め鼓」。持ちたる撥をば剣と定めて打つのです。ところが内裏の中という公的な場で修羅の太鼓を打って心を晴らした彼女がそのあとに打ったのは天下国家を鎮静する「五常楽」「千秋楽」。一方『梅枝』で彼女が住吉の小さな庵で懺悔のために奏す曲は、昔物語をはじめる時刻の「夜半楽」、住吉の景物の海の「青海波」、梅に宿る鶯が奏でる「越天楽」「梅枝(催馬楽の曲)」。。そして最後に演奏されたのが「想夫恋」。。『富士太鼓』と比べるとずっと彼女の心情を反映した曲ばかりが登場するのですね。そして彼女はこう付け加えます。「思へば古を語るはなほも執心」。。どこまでも彼女個人の心情の動きに、演奏された曲がハーモニーを奏でているというか。。よく練られ考えられて作られている曲だと思います。

さて、この「富士この役を賜るに依って」文句に話を戻して、これをおシテが謡わなかった事を疑問に思った ぬえは、終演後に後見に聞いてみました。その答えは。。「ああ。その一句はね、うちには無いんだよ」

。。そうだったのか。。六郎家にはこの句がない。。そう言われて気がついて、当日の公演パンフに別紙で挟み込まれている上演詞章を見てみました。なるほど。。ここにもこの一句が載っていない。。この上演詞章は、シテやワキなどの流儀の組み合わせによって、それぞれの流儀の謡本を機械的に組み合わせて作るのではなく、公演のたびに国立能楽堂から演者に校正の依頼があって、当日の上演の通りの詞章を掲載する事に注意が払われているものです。

先人がどう考えてこの句を削ったのか。。その理由は今となっては判明するにたどり着くのは容易ではないでしょう。しかし、もしも『富士太鼓』との内容の食い違いや、まして ぬえが気づいたように間狂言の語る物語との齟齬にまで思いを巡らして削除に踏み切ったとしたならば。。それは演者としての先人の卓見として、敬服して認めなければならないでしょう。う~ん勉強のタネは尽きないねえ。。

こんなワケで ぬえが今回の『梅枝・越天楽』について考えたことのご報告を終わらせて頂きます。

ぬえは、この上演に参加させて頂いて、いろいろ勉強させて頂きましたし、六郎師の実演を間近に拝見させて頂く貴重な機会に恵まれて感謝の気持ちも持っております。それにしても。。今回もっとも印象的だったのは、後シテが萌黄色の長袴を穿いて登場された事だったでしょうか。上演前の楽屋でこのお装束が並べられているのを見た ぬえは本当にビックリ! そして実演を拝見して、長袴の裾を見事にさばきながらクセを演じ、楽を舞うおシテの姿には またまたビックリ。『葵上』とか『道成寺』のような動きの激しい曲ならば、裾にさえ気を付けていれば長袴も苦にはならないでしょうが、一歩一歩と静かに歩みを進めるクセや舞で長袴を苦もなく使いこなしておられる。。う~ん、とても ぬえには到達できそうもない技術だなあ。。(あとで楽屋で聞いた話では六郎師、「やっぱり長袴だとラクだった」とおっしゃったらしい。。驚愕。。)

考えてみれば『草紙洗小町』の小書「替装束」ではシテは長袴で中之舞を舞う例があるし、ちょっと意味は違いますが男の役では『望月』に小書がついた場合や『木曽』ではやはり長袴で舞を舞います。でもクセを長袴で舞う、という曲は。。ぬえがど忘れしているだけかもしれませんが、ちょっと考えつかないです。。

太鼓入りの『梅枝・越天楽』(その5)

2008-01-23 01:28:42 | 能楽
今回の『梅枝』が、その背景となる事件をめぐって前シテが語る物語と、間狂言が語るそれとが食い違わなかった理由。。それはひとえに前述の通り、おシテが「富士この役を賜るに依って」の一句を謡わなかった、という点に尽きます。聞いているお客さまにとっては 些細な事なのかもしれませんが、能一番の物語世界が成立するのか、あるいは瓦解するのか、大げさに言ってしまえばそれほどの重みを脚本に与える言葉なのだと思います。

催し本番のお舞台でも。。やはりおシテはこの一句を謡われませんでした。それどころか、地謡に座っていた ぬえは、その日のお舞台が進行してゆくにつれて、そこで初めて間狂言が『富士太鼓』の物語を語られるのを知って驚いたのでした。。なぜって、申合ではシテに関係するところだけを演じてみる、という約束が昔からあって、間狂言はもちろんのこと、おワキの登場場面から道行、そして待謡なども申合ではまったく演じられないのです。シテ方やお囃子方などの出演者も催しの当日に能が上演されて初めて、それらの場面を目にすることになるからです。

今回、前シテが「富士この役を賜るに依って」の一句を謡わなかった事によって、その後の間狂言の物語と矛盾が生じることもなく、間狂言は前シテの物語をもっと詳細に、深く掘り下げて説明することになります。そしてその語リが、自然な流れとしておワキが前シテのことを「富士の妻の幽霊であろう」と考える事に繋がってゆき、さらにはおワキは脇座を立って作物の前に着座し、ワキツレもその左右に従えた重厚な待謡。。(これまた普段の能とは違って読経の文句をおワキではなく地謡が担当する、という壮麗な回向の場面)にも無理なく接続してゆけるのでしょう。

そういえば後シテは夫の形見の鳥兜を頭に戴き、同じく形見の装束を着ていますが、この男装の姿も『井筒』や『松風』『杜若』などなど、能の中では類型的な姿とはいえ、後シテはみずからの事を「妙なる法の受持に遇はば、変成男子の姿とはなどやご覧じ給はぬぞ」と言っていますね。あとでクセの中で「執心を済け給へや」という文言は登場するものの、どうもこの後シテは救われない自分の魂の救済を渇望してワキ僧の前に現れる、というよりは、どちらかと言えばワキの回向によってすでに成仏に近づく光明を見いだしつつある、というように ぬえには感じられます。それほどこの能の中でおワキの回向は重い意味を持っているのでしょう(ああ、そういえば開演前におワキはワキツレを呼び寄せて、かなり念入りに同吟の謡について注文を出している姿を楽屋で見ましたっけ。。「もっと静かに」「もっとシッカリ」と。やはりおワキもこの回向の場面を大切にしておられるのでしょう)。こういう場面にまで前シテの演技から無理なく繋げていけた事を思えば、やはりあの一句の有無は大きな違いと言うべきだと思いますね。

そして、こう考えているうちに ぬえは『梅枝』という曲が『富士太鼓』となぜこうまで印象が違うのか、に思い至った気がしました。現在能である『富士太鼓』のシテの富士の妻は、夫の死を知らされて驚愕し、失望し、しかしその現実を受け入れざるを得ない。。さりとて太鼓の役を得ようと浅間に横槍を入れたために招いた死は自業自得であり、そのうえ夫の仇を討つ見込みもない彼女は思いあまって狂乱する。。夫の形見である太鼓を「あかで別れし我が夫の失せにし事も太鼓ゆゑ」と仇に見立てて打ち、しかし一方では「また立ち帰り太鼓こそ憂き人の形見なりけりと見置きて」帰ってゆく終曲。こんな、何ともやりきれない気分の残る『富士太鼓』に対して、その妻さえ世を去った後世に、救われない彼女が幽霊となって再び現れる『梅枝』の方が、なぜか見終わったところで後味が良い(と言うのか。。)ように思えるのは。。最初からシテが諦念のようなものを持って登場するから敵討ちの気持ちが彼女の中にはなく、それでも残る夫との不慮の死別に対する執心が、次第に晴れていく構造に作られているのですね。

太鼓入りの『梅枝・越天楽』(その4)

2008-01-22 01:21:14 | 能楽
昨日は、またしても梅若六郎先生の能の地謡に参加させて頂いておりました。明日(23日)に横浜能楽堂で催されるNHK能楽鑑賞会で上演される六郎師の『安宅 勧進帳・滝流』の申合だったのです。は~~眼福でした~。また注目すべきはツレの「同山」で、東京・大阪。。そして遠く福岡からも参加している混成軍でありながら、あれだけのクオリティで連吟を揃えて謡い、かつダイナミズムまで揃えられるのは ちょっと驚異的。ぬえの同世代の友人が中心になっているだけに、羨ましくもありました。この『安宅』、公演は公開されて明日に上演され、放映はBSハイビジョンでは2月23日午後1時~、教育テレビでは3月8日の午後3時~ となっているようです。ぜひご覧くださいまし~

さて『梅枝』ですが。。前述の通り『梅枝』では『富士太鼓』とは少し背景となる事件の経緯が違っていて、富士は太鼓の役を無理に望んだのではなく、その役を浅間と争った末に正当な判定を受けるために都に上ったのです。しかも富士は見事にその技量によって太鼓の役を射止め、ところが浅間はこの事を恨んで富士を討ってしまった、というのです。このへんの事情はシテの語リの本文に「浅間安からずに思ひ、富士をあやまつて討たせぬ」と説明されています。「あやまって」とは人の命が掛かっているにしては ずいぶん曖昧な表現だとは思いますが、ここだけを読めば、前掲の公演パンフの「浅間を完全な悪者に仕立て、富士の妻の悲劇を強調しています」という解説は当を得ているでしょう。

ところが、今回の上演ではまた少し違う方向に舞台は進んでいったのです。

地謡に座っていた ぬえは、申合からすぐに気づきました。今回おシテは「富士この役を賜るに依って」の一句を謡わなかったのです。最初は「??」と思った ぬえですが、あるいは申合では ふとおシテがその文句を忘れて飛ばしてしまったのかな? とも思いました。ところが本番の舞台で。。やはりおシテはその文句を謡わなかったのです。。しかもその前後の文句は自然に繋げて謡われていました。ぬえの疑問はふくらむばかり。

ところが、その ぬえの疑問が解ける前に、もっと大きな問題が舞台上で起こったのです。いえ、誰かが失敗したとか事故が起こったというワケではありません。それは前シテが中入してからのことで、ワキに問われて間狂言が語り出した富士の物語を聞いていて、ぬえはその内容に驚いたのです。この時のお狂言方のお家に伝わる「語リ」の内容は。。それこそほとんど『富士太鼓』でシテが語る事情とほぼ変わらないものでした。

いわく「萩原院の御時の管弦の催しに浅間が召された。ところが富士は召しもないのに押して都に上り太鼓の役を望んだ。帝は古歌を引き重ねて浅間を太鼓の役に指名したが、浅間は富士の振るまいに怒り、宿所に押し寄せてこれを討ち取った。一方富士の妻子は夫の帰りが遅いことを怪しんで都に上り、はじめて富士の死を知り、都へ上らせたことを嘆いた。そして『せんなき富士の形見の太鼓・鳥烏帽子などを申し受け、それを弄ぶ』などしたが、ついに妻も故人となってしまった。これこそがその妻の旧跡である」

ううう。。この語リには『梅枝』には登場しないながら『富士太鼓』では重要な役の「富士の子」までが登場していて、お狂言はしっかり「浅間が召され、太鼓の役も浅間が賜った」と言っている。。ここまで来ると「あやまって」という『梅枝』の前シテの言葉が空虚に響いてきます。

前シテが語る物語と、間狂言が説明される物語との齟齬。。これは『梅枝』に限ったことではありませんで、ときどき ぬえも気になる事があります。ところが能の中には『鵺』や『船橋』のように、前シテが語る物語だけでは もう一つ事情が飲み込めず、間狂言の語リによってはじめてその事件の全貌が明らかにされる曲もあるのです。だから一概には言いにくいですが、能の成立と間狂言の「語リ」が、まったく一体として構築された能もあれば、なんらかの事情によって間狂言が能とは別途に成立した能もあるのではないか、と想像されるのです。それぞれのお家に伝えられた本文をしっかりと守られて演じられるお狂言方に対して ぬえが異を唱えるつもりは毛頭ありませんが、シテ方やワキ、そして囃子方も含めて、演者同士がもう一度、そのときに演じられる能全体について、戯曲として破綻がないか検討する余地は残されているのではないでしょうか。

そこまで考えた ぬえですが、今回の『梅枝』は。。破綻していなかったのです。。なぜ?

太鼓入りの『梅枝・越天楽』(その3)

2008-01-21 03:38:27 | 能楽
ぬえが今回の『梅枝』で発見したのは、「越天楽」の小書に関する事ではなくて、もっと能のプロットそのものについての事なのです。

ご存じの通り『梅枝』は『富士太鼓』と同じ物語です。簡単にあらすじを記せば、「昔 摂津の天王寺に浅間という伶人があり、また住吉神社にも富士という伶人があった。その頃内裏に管弦の催しがあり、二人は都に上ってその太鼓の役を争った。浅間は富士の行状を深く恨み、ついに彼を討ってしまった。富士の妻はこれを知って嘆き悲しんだが、富士の形見の装束を身につけ、太鼓を打って狂乱した。。」というもの。『富士太鼓』はこのストーリーを、妻の視点から現に今目の前で進行している事件として脚色し、『梅枝』はそれより後世の時代に現れた妻の幽霊が いまもなお夫への未練を断ち切れずに登場して、ワキ僧の勧めに応じて懺悔の舞を見せ、太鼓を打つ、というものです。

。。ところが、この2曲の間には、じつは富士が殺された事件の経緯について、食い違いがあるのです。

『富士太鼓』によれば、内裏の管弦の催しの主催者は「萩原院」で、最初から天王寺の伶人である浅間を太鼓の役として召したのを、富士は自分の技量への自信から勝手に都へ上り太鼓の役への登用を願い出たのです。これを聞いた帝は古歌を引き合いに出して穏便に裁定し、当初の予定通り浅間を太鼓の役と定めました。ところが浅間は自分の役を脅かした富士の振る舞いに腹を立てて、ついに富士の宿所に押し寄せて富士を討ってしまいました。。これが『富士太鼓』の能の前提となる、富士が殺害されるまでのストーリーで、能『富士太鼓』の中でシテ自身も、夫が太鼓の役を望んで都に上るために自宅を出るとき、帝から召されて決められた太鼓の役に横槍を入れる罪を恐れて夫を止めた、と言っています。

ところが『梅枝』ではこのへんの事情がちょっと異なって描かれているのです。いわく、内裏の管弦の催しはどうやら太鼓の役を誰とは決められずに企画されたようで、浅間と富士は「管弦の役を争ひ、互いに都に上」った、と語られています。そして結局その役は。。ここが重要なのですが、『富士太鼓』の物語とは違って、浅間ではなく富士に与えられた、というのです。このあたり、『梅枝』の詞章をそのままご紹介すれば以下の通り。

富士この役を賜るに依って、浅間安からずに思ひ、富士をあやまつて討たせぬ

『梅枝』と『富士太鼓』とはまったく同じストーリーだと思っていたら、じつはとんでもない事実の食い違いがあるのです。

二つの能の主題は富士の死の原因にあるのではなく、夫を失って、さりながらその仇を討つ力も持たない、残された妻の悲哀と、その狂乱にある事は自明で、夫の死の原因が、浅間に決められた役を横取りしようとした富士の傲慢さによるのか、それとも平等の入札の権利を行使して適法に職を得た富士に嫉妬してこれを殺害したライバル浅間の横暴によるものなのか、は能の主題とは直接関係がありません。だからこそ見落とされがちな事件の背後関係の食い違いなのですが。。じつは能1番を演じるうえでは、演劇としての脚本がきちんと成立しているのか、あるいは齟齬が起こって破綻が生じているのか、という、見過ごすことのできない大きな問題をはらんでいるのだ、という事に ぬえは気づきました。

そして今回の上演では、意外な方法によってその破綻が回避されている事も知ることになりました。

太鼓入りの『梅枝・越天楽』(その2)

2008-01-20 02:59:57 | 能楽
楽屋での録音を頼りに、記憶の糸をたぐり寄せつつ、長い時間を掛けて『梅枝・越天楽』の演出と演奏を ぬえの上演控えに書き留めました~。いや、しんど。申合と当日と、2度拝見しているわけですから もう少し細部まで覚えているかと思いきや、地謡座にいながらおシテの動作をジロジロ見るわけにはもちろんいかないので、型の細部までは書き留めるには到っておりませんが。。 数ヶ月後、これは国立能楽堂の定例公演でしたから上演ビデオが能楽堂地下の図書室で一般に公開されるでしょう。その時に ぬえも上演ビデオを拝見して細部を確認しようと思います。この上演についてご興味のおありになる方がおられれば、同じように数ヶ月後に図書室をお訪ねください。

さて今回の『梅枝』で、ぬえにとっては「越天楽」の小書が付けられていたために常とは変わる演出の部分、そしてそこに太鼓が入るというという点が非常に大きな興味でありました。当然ではありますが。太鼓云々については前回ご紹介したように公演パンフに「今回は過去に当代梅若六郎と金春惣右衛門とが工夫を加えた改訂版」とありましたが、ぬえの友人の太鼓方に聞いたところ「その初演のとき、僕は書生だったので拝見してたよ」と意外な答えが返ってきました。ふむ、ということは今回のバージョンが作られたのは今から20年も遡らない新しい演出なのか。。と言っても梅若家には太鼓入りの「越天楽」は昔から伝えられていたワケですから、それとこの新演出とがどう違うのかは不明で、同じパンフに前掲の部分に加えて「〔盤渉楽〕の舞上げで太鼓を打ち納めず「うつつなの我が有様やな」まで打ち延べ、狂乱の趣を強調します」と記されている通り謡の部分まで太鼓を打ち続けるところが新作なのかもしれません。

もっとも、この「盤渉楽」のあとの地謡の部分を打つ、のは実は大変でして、太鼓では普通打たない平ノリの拍子当たり、そのうえ「片地」と呼ばれる6拍で終わる変拍子の句まであるのです。「〔盤渉楽〕の舞上げで太鼓を打ち納め」るのが梅若家に伝わる「越天楽」であるとするならば、それは太鼓方としては至極当然な作曲であったはずと思われます。ところが、この難しい平ノリの部分、それも たった4小節の平ノリのあとには、再びノリのよい、いかにも太鼓が乗りそうな大ノリの謡が続く。。ですから、この4小節の平ノリを克服する太鼓の手を作曲して、大ノリにまで繋げたのが、新バージョンの「越天楽」の最大の功績なのだと言えると思います。

ちなみに6拍までしかない変拍子の「片地」は、じつは狂言アシライには しばしば登場するのだそうですね。それならば「越天楽」の盤渉楽あとの「片地」もそれを応用して簡単に作曲できるのではないか、と思われがちですが、狂言方が謡う謡の音律やリズムパターンは能のそれ(大ノリとか平ノリ)よりもずっと多種で複雑であるうえ、アシライの演奏。。つまり作曲にも一定の約束事があるので、単純に能の平ノリに移植することはできなかったのかもしれません。

かくして盤渉楽が終わると同時に太鼓も打ちやめてしまうのではなく、大ノリの部分まで太鼓が続く、作曲としては むしろ自然な流れになった新「越天楽」ですが、ぬえが面白く感じたのは、その大ノリの部分に付けられていた大小鼓の手組。これは地謡を覚えているときに気がついたのですが、この部分の大小鼓の手組は太鼓が入る事を想定して作曲されていません。これは当然で、『梅枝』には太鼓が入っても不思議ではないほどノリの良い地謡の作曲がなされているのに、太鼓は入らない事が前提であるから、大小鼓だけで打つのに効果的であるように手組が作曲されているのです。ただ、このままでは、今回のように いざ太鼓が演奏に加わると、とたんにこの手組では齟齬が起こってしまうのです。実演を拝見したところ、やはりこの大ノリの部分も今回は太鼓が入ったために大小鼓の手も少し変更が加えられてありました。なるほど~

でも ぬえが今回『梅枝』で発見したのは、もうちょっと違う点だったのです。。

太鼓入りの『梅枝・越天楽』

2008-01-18 23:49:58 | 能楽
今日は国立能楽堂の定例公演、梅若六郎師の『梅枝・越天楽』があり、ぬえも地謡に参加させて頂きました。お正月から六郎先生のお舞台に参加できて、ぬえ、今年はとても幸運です。さて ところで、じつは ぬえは『梅枝』の地謡を謡うのは初めてなのです。なかなか上演されない稀曲の部類に入る曲ではありましょうが、まあ ぬえも仕舞や舞囃子の地謡程度は謡った覚えがあるものの、前場の地謡はまったく頭に入っておらず、どうやら素謡で謡った事さえないようです。今回はじめて『梅枝』の地謡を全曲に渡って覚えました。ところが今回の『梅枝』はちょっと変わっていて、「越天楽」の小書が付いていまして、そのうえ太鼓方が出演されたのです。

『梅枝』、その類曲である『富士太鼓』、そして『天鼓』の三曲は、シテが同じ「楽」を舞う曲ながら、太鼓が入らない「大小楽」を舞う事が大きな特徴です。なぜこの三曲だけが「大小楽」なのか。。いろいろと理由は考えられているようですが、明確な説明はいまだ提出されていないのが現状でしょう。よく言われるのは この三曲には共通して「太鼓の作物」が舞台上に出されるので、囃子方の中の太鼓がその作物と重複するため、あえて太鼓を入れないで上演するのだ、という説明。しかし脇能である『難波』には同じように太鼓の作物が出される(観世流の場合は「鞨鼓出之伝」の小書の時だけ)のに太鼓が参加している、とか、『天鼓』でも下掛りでは太鼓が参加する(ただし出端だけを打ち「楽」は打たない)し、観世流の『天鼓』でも「弄鼓之舞」の小書が付けられる場合は やはり太鼓が入る とか、例外がたくさんあって、どうも もう一つ説得力には乏しいように思います。

この三曲の中で『天鼓』は「楽」を舞う後シテが童子で、とても明るい曲ですので、この後シテの場面に太鼓が入ることも、理由はともあれ効果的。ですから観世流でも「弄鼓之舞」での上演される機会が圧倒的に多いように思います。ところが『梅枝』『富士太鼓』はともに同じ人物 ~夫を殺害された妻~ で、夫の形見の装束を着て、同じく形見の太鼓を打っては思いが高じて狂乱する、という、深刻な内容の曲です。ですから この二曲には「どんな場合も太鼓が入ることは絶対にない」。。と、ぬえは思っていました。。今日までは。

今回の『梅枝・越天楽』に太鼓が入る事は、去年の秋頃に番組を見て知ったのですが、いや それを知った時は本当に驚きました。そして今日楽屋で配られた上演パンフで事情を知ったのです。村上湛氏の解説によれば「本日は珍しい小書・越天楽による上演です。これは、太鼓の入らない常の〔楽〕に替えて、太鼓入りの〔盤渉楽〕(略)を舞う演出。観世流梅若派に伝わり、二世梅若実、先代梅若六郎が演じた記録があります。今回は過去に当代梅若六郎と金春惣右衛門とが工夫を加えた改訂版。(略)」。。いや、同じ梅若家の門下なのに。。不勉強ながら ぬえはこの事情をまったく知りませんでした。お恥ずかしい。。

そういうワケで、どこを見ても初めての経験だらけの上演への参加となりましたが、地謡は絶対に間違えないようにシッカリと覚えたし、申合で能全体の構造もよくわかったので、当日はまあ安心して舞台に出ることはできました。

それにしても。。このように演出としてカッチリと仕組まれた部分は、勉強したり、実演に参加する事で仕組みを理解するのは、まあ可能でしょう。ぬえは今回の公演で「それ以外の部分」に たくさんの発見を得る事ができました。これは大きな収穫でしたね~。

次回、少しくご紹介してみたいと思いますが、まずはこの能について知った事を、忘れないように早めに ぬえの「上演控え帳」に記しておかねば。

扇の話

2008-01-17 23:01:55 | 能楽

なんだか忙しいんだかヒマなんだかよく分からない正月を過ごしている ぬえです~。
年末年始には鹿背杖を作ったり、張り扇を作ったりしていたほどヒマだったのに、今はめまぐるしく立ち働いております~。

さて張り扇のお話をしたときに、ついでながら扇の話をしようと思ったのでした。これもまた話題は多いですが、まずは扇がどのように作られているのか。今日は扇製作についてちょっとお話ししてみようかと思います。

御存じの通り扇は日本人が発明したもので、主要な生産地はいまだに京都なんだそうです。たしか全国で作られている扇のうち9割は京都で生産されるのではなかったでしょうか。で、能の扇。。今回はふだんのお稽古や仕舞、能では地謡や囃子方、後見などが多用し、またお狂言ではほとんどのお役がこれを使う「鎮メ扇」についてお話したいと思います。

シテ方のお流儀によって鎮メ扇の長さや親骨の形が違い、またそれぞれのお流儀に「決マリ文様」がある事は有名で、観世流の場合は以前にも書きましたように一尺一寸の長さを持ち、これは能の流派の中で最も長い寸法です。俗に「尺一扇」なんて呼ばれていますね。で、観世流の「決マリ文様」は「三段水巻」と呼ばれる、三段に分かれた流水文様を二つ並べたものです。ちなみに観世流では流水の文様と、これとは別に千鳥の文様を流儀のシンボルのようにしていて、前者を「観世水」後者を「観世千鳥」などと呼んでいます。厳密に言えば観世流の扇に描かれている流水文様は「観世水」とはちょっと印象が違うようで、「水」と「千鳥」は謡本の表紙と見返しの部分に描かれています。

観世流の「尺一扇」の親骨は能の流派の中で最も凝った造りになっていて、地紙にあたる部分には三箇所の透かし彫りがあって、要のある緘尻(とじり)という末端の部分がふっくらと立体的に丸みを帯びて造られています。ところがこの親骨。。じつは現在でもすべて手作業で作られているのです。



どうやら扇というものは現在でも機械化されずに手作業で作られるのが基本であるそうですが、観世流の扇のように年間の製作本数も膨大にのぼるであろう扇を、それもこんなに凝った造りの扇を、まさか手作業で作っているとは ぬえも思っていませんでした。それを初めて知ったのは。。そうだなあ。。今から10年近くも前になるかしら。たしか国立能楽堂が、こういった能楽に使われる道具を製作する職人の技をビデオに収録して記録する作業を行ったのです。

結局ビデオ化して記録に残されたのは能面や装束、扇といった、能の中では中心的に扱われる道具類に留まったと思いますが(本当は女笠とか、花籠とか。。記録して残して欲しい技術はほかにもあるんですけどね)、それが完成したときに ぬえも能楽堂で上映される機会に巡り会ったのです。正直、これには驚きました。まさに匠のワザ。

この緘尻の丸みも。。すべてカンナで削っていたのか。。それも百本単位の竹材をいっぺんに。この四角い竹材を並べたところに職人さんがガシッガシッ、とカンナを入れて大体の形を整え、今度はその百本をいっぺんに微妙に傾けさせて再び ガシッガシッ! またちょっと角度をつけてさらに ガシッガシッ! この作業を繰り返して。。ど~して1本1本が丸みを帯びた親骨になるのっ!!?

このビデオでは透かし彫りも中骨も職人さんが手作業で作っておられました。あるいは現代ではこういった作業は多少機械化されているのかも知れないですが、あの親骨の成形作業は今でも手仕事だとか。能の扇として我々は普通は決まった扇屋さんで買い求めたり新調する事が多いですが、この扇屋さんで作った扇はどれもこれも、握った感触が全く一緒ですね。そして、世の中にはこのお店以外にも能で使える扇を作る扇屋さんはあるのです。そこで作った扇は、ちょっと握った感触が違う。微妙なものですけれども、やはり使い慣れた扇と比べると違和感として感じてしまいますね。良い扇を作ってくれるのならば、どのお店でも歓迎すべきなのでしょうけれども。。

ご無沙汰いたしました~~m(__)m

2008-01-16 23:56:50 | 能楽
ああ、もう1週間近くブログの更新をしていなかったんですね~~。。

先日来、師家の主催会である研能会の初会やその申合、にわかに動き出した伊豆の薪能のお話、先日ブログに書き込んでくださったところからお話が実現する事が決まった みささんのご結婚式への出演の相談、さらに小学校でのワークショップのお話をお受けしたり、ぬえ主催で毎年開いている若手能楽師の新年会に出席したり(やっぱり朝まででした~~~)、今日は国立能楽堂の定例公演の申合に出席しておりました。これだけならまだしも、さらに ぬえのスケジュール管理が甘くて、頂いたお話に不義理をお掛けしてしまいそうになって、その調整に奔走したり。。まあ忙しいことこの上ない1週間でした。

師家の初会は12月例会に引き続いて まずはお客さまもほぼ満員御礼の盛況、上演された演目も師匠の『翁』、同じく師匠の『三輪・素囃子』、野村萬斎氏の狂言『宝の槌』、師匠の弟君の能『野守・白頭・天地之声』という豪華絢爛な番組で、新年最初の舞台にふさわしくおめでたく年始を飾ることができました。ぬえは『翁』と『三輪』の地謡に参加しましたが、新年に老神と女神さまの能に出演できてうれしかったです。また『野守』は、白頭の小書で師家所蔵の「べし見悪尉」という怪異な面が登場しました。師家所蔵の面はそのクオリティの高さで有名で、今回も『三輪』の前シテの「深井」のすばらしさに地謡に座っていた ぬえも目を見張りましたが、一方でこういう「べし見悪尉」のような特異な面もあって、これは ぬえ、舞台で使われているところを初めて拝見しましたが、手に持って見るよりも装束を着けて舞台で動き回るところは はるかに迫力が増して見えましたですね~。ちょっと怖かった。。

その後に若手能楽師との新年会を致しましたが、考えてみると先日 ぬえも出席させて頂いた能楽協会主催の新年会を別にすれば、能楽師の新年会(や忘年会)ってのは親しい友人同士とか、同門会などの同人が集まってやるものがあるだけで、「能楽師ならば誰でも参加可」っていう開けた飲み会っていうのは意外にないものなので、ぬえが中心になってちょっと以前から開いているのです。なかなか楽屋で話ができない相手とゆっくり話したり、こういうところから新しい計画も生まれるかもしれません。それにしてもみんな朝までパワーが落ちずにエライわ。。

まだ ぬえが書生時代には、なかなか飲みに出たりする事も自由にはできませんでしたが、それでも囃子の先生のところへ稽古に出かけた日などは、なんとなくその後は自由にさせて頂けたので、囃子方の友人とよく飲みに行きました。自分も彼も、どちらも よく能についてわかっていなかったくせに、飲みながら能について、自分たちの夢について語り出すと 妙にお互いにアツクなっちゃって。。「表へ出ろっ!」なんて事にも何度もなりましたな~~ (^◇^;) そのクセ、翌日にはケロッとして「次回のお稽古っていつだったっけ? その日、また飲む?」なんて電話してる。ずっと後になってわかる事ですが、妙に熱い議論になった話題だって、当時は未熟な書生同士なもんで、どっちが主張している事もマチガイだったり。。そんなこんなで友情をはぐくんでいっていたのかも知れませんね~。今となって言える事だけれど、「どれだけ能についてアツク語れるか」って事を張り合っていただけだったりする。。そんなものなのかも。ああ、甘酸っぱい思い出です~~ (・_・、)

今週は国立能楽堂の定例公演の本番があり、来週にはNHKで放映されるお舞台の収録、群馬県でのホール能、師家のお弟子さんのおさらい会。。と まだまだスケジュールが詰まって、なんだか忙しい正月ではありますが、う~ん、ブログの更新もサボっちゃいけませんね。どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます~ m(__)m

張り扇の話(なお続く)

2008-01-10 21:45:15 | 能楽
今回 ぬえはちょうど傷んだ稽古扇が1本手元にあったので、これを使って張り扇を作る事にしました。

前回も書いたのですが、シテ方が使う扇はどうしても張り扇を作るには大きすぎて、まして観世流の尺一扇をそのまま使って作ると巨大張り扇ができあがってしまいます。そこで扇の骨を少し切り落として、九寸強程度のものを作ることにしました。

ところがこれが。。意外に大変な作業でした。観世流の扇の親骨には中啓と共通する三箇所の透かし彫りがあって、扇の寸法を詰める場合にはこの彫りを避けて切り落とさないと強度が落ちてしまう事は容易に想像できました。これを避けて寸法を採ると、今度は扇の柄のうち要のあたり、握りとして少しふくらんだ部分を切り落とさなければならず、そうなるとその部分の成形を別に考えなければならなくなる。。

結局はうまく扇の先端の部分から切り落として張り扇の形はできたのですが、その後も地紙をすべて骨から引きはがして位置を変えて再び接着するなど、かなり面倒な作業が続きました。ぬえの結論としては、やはり稽古扇は舞に使う扇としての役割を考慮して作られているので、張り扇に転用するのには少しく無理はどうしても出てくる、という事でした。やっぱり竹材を削りだして張り扇の芯を新たに作る方がうまくいく予感はしています。次回張り扇を作る時にはその方法を試してみることとしましょう。

さて四苦八苦しながらなんとか竹の芯と地紙を成形して、今回は地紙を少し補強して、それからようやく革でこれを包みます。この作業は意外に易しかった。包んだ革は糸でかがって綴じてゆくのですが、革には微妙な伸縮性があるのです。ですから張り扇の芯を包むよりもほんの少し小さめに革を裁断して、糸で革を緊張させながら綴じてゆくと、この性質のために全体にあまり皺もよることなく、芯をピッタリと包むことができました。「微妙な伸縮性」ここがミソでしょう。予想よりも遙かにキレイに出来上がって、満足 満足~。

張り扇が出来上がったところで、今度は何を作ろうかな~。そんなヒマなお正月も終わってすでに稽古は始動していますが、昨日は白樺の鹿背杖の製作に取りかかりました。

年末の頃に師家では庭木の手入れが大がかりに行われたようで、ある日師家に参上した ぬえは伐採された大量の枝が師家のお庭の片隅に積み上げられていたのを発見しました。ああ、お舞台の前にあった あの白樺。。伐っちゃったのかあ。ところがその中に、枝の太さといい、曲がり具合といい、これは『山姥』に小書がついた場合に使われる「自然木(じねんぼく)」に まさに打ってつけの枝を見つけたのです。

白樺で出来た「自然木」は聞いたことがないけれど、『山姥』の「白頭」に白樺の鹿背杖なんて、ちょっと面白いかも、と思って、ぬえはこの枝を自宅に持ち帰っておいたのでした。杖の部分と握りの部分とをそれぞれ切り出して接合するだけだから工作とはちょっと言えないかもしれませんが、丸木をT字形にキレイに接合するのは結構難しいですよ~。今回も彫刻刀とカンナを駆使して接合部だけきれいに樹皮を剥がし、立体的に接合するように工夫してエポキシで固めて完成。ただ、あとは樹皮に残る小枝を切り落とした痕や接合部を白い塗料で上塗りして全体の色を整える作業が残っています。樹皮の保護のためにつや消しのラッカーを吹き付けようかなあ。

なんだか工作の報告ばっかりで申し訳ありません。張り扇のお話をしていたら、ちょっと能で使われる扇についてお話してみたくなってきました。次回は扇のお話にしようかしらん。

張り扇の話(続き)

2008-01-07 23:26:09 | 能楽
ちなみに申合では大鼓方だけは道具(=楽器)を使わずに張り扇を打って参加します。道具は本番だけ。これはよく知られているように大鼓の革は消耗品で、しかも打つ前には炭火で焙じなければならないからで、申合ではここまでの手間も掛けられないし、非公開の申合で革を損傷させる必要もないので、道具は使わないのです。もちろん大鼓方は申合では右手だけに1本だけ張り扇を持って、自分のパートだけを打ちます。

この張り扇ですが、市販品もあるのですが、これはなんとも華奢で頼りない。そこで能楽師は多く自作の張り扇を使っています。とくに囃子方にとっては日々の稽古から張り扇は必需品なので、それぞれ独自のルートで張り扇を手に入れておられるようですね。

アマチュアのお弟子さんに器用な方があって、その方がもっぱら先生のために作って差し上げているとか、もちろん囃子方の先生の自作、ってのもあります。そしてまた、囃子方が使っておられる張り扇は、やっぱり出来が良い! シテ方が作るものとは大違いです。いや、そりゃまあ、シテ方でも器用な方は上手に作りますけれども。。 でも、ぬえが今まで見た範囲内では、シテ方は自分の流儀の稽古用の扇などが傷んで使えなくなった時に、それを半分に割って、そんで、そこに包地(ぼうじ=作物に巻くのが主な用途の、白い木綿を長く包帯状に切ったもの)をグルグル巻きにする程度のものが多いです(ぬえもずっとそうして作っていましたが。。)。

で、仕舞の稽古に使うようなシテ方の扇ってのは、張り扇を作るには長すぎるのですよね~。。観世流の場合はほかのお流儀よりもさらに少し長く、一尺一寸の寸法があります(俗に観世流の扇を「尺一扇」などと呼ぶのは、その長さの事を言っているのです)。これをこのまま包地でグルグル巻きにしたら。。それはそれは不格好な張り扇が出来上がります。

その点、囃子方が愛用する張り扇は、これまたおそらくは やはりお囃子方が普段お使いになる扇を割って作られたものが始まりだと推察しますが、長さも短くて拍子盤を打つにはちょうど良いのです。そしてまたシテ方が作るように包地でグルグル巻き、ではなくて、きちんと革で包んで、それを縫い上げてキレイに作ってあります。革を使うのは耐久性のためにも、包地よりもはるかに合理的でしょうし、響きもよいですね。ぬえが以前に作った「包地グルグル巻き張り扇」は、糊をふんだんに塗りたくりながら巻いたものだから、完成品はカチンカチンに固まっていて、打つと「カキーン、カキ~~~ン」と鳴ったっものです。。(T.T)

で、ぬえもある時期から お囃子方にお願いして、張り扇を譲って頂いて、それを使うようになりました。うん、やっぱりお囃子方が使う張り扇は品質がよろしい。でも、やはり使っているうちに この張り扇も傷んでくるので、そのたびにお囃子方に注文をお願いするのも面倒で。。

そこで今回、思いあまってお囃子方と同じレベルの張り扇を自作する事を思い立ちました。東急ハンズではぎれの革を探して、本体に巻くのにちょうどよい薄さの白く染めた牛革と、握りの部分に使う茶色のスウェード革を買い求めました。

さて帰宅して、ぬえは以前にお囃子方から頂いて、いまは傷んで使えなくなった張り扇を分解して構造を調べてみました。ほおっ! これは使えなくなった扇をバラして作ったのではないのですね。竹材を扇の骨のような大きさ・長さに加工して、それに和紙を幾重にも折り畳んで扇の地紙のようにしたものを貼り付けている(今回の品では、なんと「暦」を分解して地紙に作ってありました!)。まあ、よく考えてみれば、使えなくなった扇を張り扇に作り替えるのでは年間に1本か2本しか作れないでしょう。やはりここは竹と紙の材料を扇の形に作り上げればよいわけで。な~るほど~。

ヒマなお正月。。(その2=だから製作中)

2008-01-06 23:59:37 | 能楽

ようやく仕事はじめになろうかという昨今。でもじつは ぬえは初詣のあとすぐに体調を崩してしまって、ほとんど家から外に出ていません。。

そんなこんなで あまり有意義な年始でもないのですが、ただ家に閉じこもっていても仕方がないので、「張り扇」を作ってみました。これ、材料だけは年末に買っておいたのですが、作るのはなかなか手間が掛かるので、何となく放っておいたのです。これは作り上げるには良い機会だ。

「張り扇」とは、稽古の際に囃子方が打つパートの代用として「拍子盤」に打ち付ける道具です。両手に持って拍子盤をパチパチと打つのですが、シテ方では「アシライ」と言って能や舞囃子の稽古の際に師匠や先輩が地謡を謡いながらこれで囃子方の手を打つことによって、本番の舞台に近い状況を作り出して稽古をしたり、囃子方では稽古を受ける者と師匠が対面して、師匠がそのパート以外の楽器をやはり「アシラう」事によって、やはり本番さながらに、他の楽器との合い具合を確かめながら自分の楽器の打ち方の稽古を進めてゆく、というように使われます。

これも細かい事を記すと、ちょっと面白いですよ。張り扇は、基本的には「右手で大鼓、左手で小鼓」のパートを打ちます。別にそうでなければイケナイ、というものでもないだろうけれど、何となくそういう不文律があるのです。ところが、小鼓方の玄人の中には、これと逆に「右手が小鼓、左手で大鼓」という打ち方をされる方がありますね。やはり大小鼓はどちらも「右手」で革を打っているので、小鼓方にとっては自分のパートはやはり右手で打つ方が自然なのでしょう。かく言う ぬえも「右手が小鼓、左手が大鼓」です。ぬえは師家に入門する以前から小鼓の稽古を先に始めていて、その後太鼓の稽古を始め、笛と大鼓は最も遅れて稽古を始めました。そのうえ ぬえは、小鼓だけはとっても鼓の師匠と気が合ったのか、師匠が亡くなるまで17年ぐらいかな? ずっと稽古を続けました。そんなワケで、ぬえはどうしても囃子は小鼓を中心に考えてしまい、その結果 右手で小鼓のパートを打ってしまうのです。

能の囃子の中で太鼓だけは両手で撥を打つわけですが、「アシライ」の場合も太鼓が打つ場面では もっぱら両手で太鼓のパートを打ちます。これまた面白いことですが、太鼓方の先生方は多くの場合、右手と左手と、実際に太鼓を打つ手とは逆の手を使って張り扇を打つ特技がありますね。つまり、太鼓では1拍、2拍といった「表の拍」を右手で、その「裏の間」である1・5拍、2・5拍を左手で打つのですが、これを左右逆の手で打つのです。これは特技で ぬえはとてもマネできません。

で、なぜ太鼓方の先生がこのような特殊技能を持っておられるか、というと、弟子と対面して稽古をつける場合に、太鼓方の先生は 見本として太鼓のパートを打って見せるときに、相手、すなわち技術を習っている弟子に対して鏡に映るようにお手本を見せなければならないからです。わかります? つまり師匠は「ほら、ここは こういう風に右手を上げて」と言いながら、しかしながら稽古を受けている弟子とは対面しているので、師匠はそう言いながら左手を上げて見せるのです。そうして弟子が「こうですか?」と右手を上げると、ちょうど弟子にとって師匠は自分の姿を映した鏡になるのです。これ、簡単なようでいて かなり難しい。ぬえはアシライには かなり自信があるけれども、太鼓を逆に打つのは出来ません。頭がこんがらかってしまいますね~。。

ヒマなお正月。。

2008-01-04 12:35:44 | 能楽

兵庫県の丹波地方、篠山市で毎年、年が明けたばかりの深夜に上演される「翁神事」。ぬえの師匠家の出身地である丹波地方で師匠が『翁』を上演することは、師匠にとって祖先に対して新年の挨拶をする儀式でもあります。会場となる同地の春日神社の境内に建つ能舞台は最近重要文化財の指定を受けましたが、いや本当に趣のある舞台です。

デカンショ節で有名な篠山は少し以前までは言葉は悪いけれど陸の孤島のような場所でした。ぬえが師家に入門した頃はすでに「翁神事」は行われていたけれど、その頃は公共交通としてはJR福知山線の「篠山口駅」からバスを使うほかに到達する方法がありませんでした。ぬえたちは鉄路ではなく装束を積み込んだ車で東京から交代で運転しながら篠山に向かうのですが、当時は大阪の三田までしか高速道路は使えず、そこから一般道を利用していました。ところが年に一度の訪問なので、毎度必ず一度は道に迷って。。いつも東京からは10時間ほどかかって到着したものです。

また当時は宿泊施設も国民宿舎が一軒ある程度で、ぬえらは大晦日かその前日に現地に到着して当地の「能楽資料館」の二階に宿泊して、昼間は舞台の掃除をし、夜の「翁神事」にそなえました。今では高速道路も舞鶴道が開通して篠山のすぐ近くまで直行できるようになりましたし、宿泊施設もビジネスホテルなどが建つようになって、本当に便利になりました。

交通や宿泊も便利になったけれど、「翁神事」そのものも上演する条件がよくなってきました。。というのも、大晦日の深夜の上演時刻が以前のように厳しい寒さではなくなってきたのです。ぬえがここで初めて「千歳」を勤めた時には舞台に雪が降り込んできたものでしたが、最近はそういう事もなくなってきましたね~。地球温暖化の影響かもしれないので喜んでばかりもいられませんが、上演する身としてはやはり暖かい方が条件は良い。もっとも厳しい寒さの中で上演していたからこそ、年始の催しとして身が引き締まる思いもしながら舞台に立てたようにも思います。暖かい「翁神事」じゃ ちょっと拍子抜けにも感じますけれども。。

。。こう書いていながら、今年は ぬえはこの「翁神事」には出勤しませんでした。まあ、今は ぬえも後輩がいるし、地謡は輪番制のようになって、出勤しない年もあるのです。その上 昨年の師匠の奥様の不例から、今年は正月二日の「謡初め」も中止になって、なんだか何もしない年始となりました。

元日には近所で初詣。そして二日には、毎年 師家の「謡初め」の日程と重なるので出席できなかった 能楽協会東京支部の新年会にはじめて出席してきました。う~ん、大先輩の能楽師っがたくさん見えるので若手は敬遠してしまうのか、あまり出席者は多いとは言えなかったのは残念ではありましたが、普段あまりお話をしない方とも話せて、ぬえは楽しませて頂きました。また来年からは師家の「謡初め」があるので、協会の新年会には出席できないでしょうが、こういう機会はもっと増えてもよいかな、とも感じた楽しい日ではありました。そうそう、この日は、先日 ぬえが勤めた『山姥』の際に急に体調を崩されて入院してしまわれた囃子方の先生もお元気に参加され、ぬえはお隣の席で親しくお話をさせて頂きました。よかった、よかった。

【今日のお題】

知る人ぞ知る「東京大仏」。
おさいせんを ぶつけないでください~ (×_×;)

あけましておめでとうございます

2008-01-01 12:29:49 | 能楽



2008年の元旦を迎え、皆々様に幸多からん年になりますことを祈念致します。

本年もどうぞよろしくご愛顧のほどお願い申し上げますとともに、併せましてご指導・ご鞭撻賜りますよう伏してお願いのほど申し上げます。







でも早速。。やってしまいました。。ぬえ。




元旦そうそう初夢を見ました。


場所は師家のお舞台。朝、到着して着物に着替える ぬえ。これは。。どうやら申合の日であるようです。しばらくすると ぬえ、言われました。「皆さんお揃いになったら、少し早くても もう始めなさい」「。。へ? 。。な、何を。。?」

。。なぜか当たり前のことのように思い出しました。今日は ぬえが勤めるシテの舞台の申合。

!! 。。ぜんぜん覚えてない。稽古も一度もしていない。そんあ事はあり得ないのに、でもなぜか今日が申合であることは自分でも当たり前のように納得していて、ひたすら焦っている。今さら「何もやってきていません」とも言えず、体中から冷や汗をかきながら、外見はそ知らぬふりで、必死になって謡本をめくって謡を覚えました。謡だけ覚えたって型もあるのに。。それでも謡を必死に覚えようとしましたが、ほとんど頭に入りません。ああ! どうしよう!! やがてお囃子方も地謡も座に着き、ぬえは半べそをかきながら幕の前に立ちました。。

。。ここで寝汗びっしょりで目が覚めた。。曲目は『三井寺』だったことまで、なぜかリアルに覚えている。。

ああ! 今年 ぬえの身に一体なにが降りかかるというんだぁぁぁ! (T.T)


こういうヒドイ夢、内弟子の頃はしょっちゅう見ていましたが、久しぶりに体験しました。こともあろうに元日から。どうか、どうか、幸多い年でありますように。。>ぬえ


しかし、内弟子時代にこの夢を見て、翌朝に先代の師匠の奥様に申し上げてみたら、意外なお答えが返ってきた事をよく覚えています。

「あら! 私もそういう夢。。見るのよ。。お楽屋に居て、もう、無理矢理にお装束を着けられちゃうの。。みんな、私がそのお役をする事が当たり前みたいな態度で。。それで、お幕の前に立たされて。。でも何をしていいんだかわからない。。とうとうお幕が開いてしまって。。そこで目が覚めるのよね。。」

ああ、そうなのか。。奥様まで。。気が張っておられるんだなあ。。ぬえの場合は、内弟子の間はしょっちゅう見ていたこんな悪夢を、なぜか『翁』の「千歳」のお役を勤めてから、ピタッと見なくなりましたが。。

なんで今年になってから また? (・_・、)

どうか、どうか、幸多い年でありますように~~ (×_×;)