ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

今年の総括(その5)

2007-12-31 03:57:55 | 能楽
「ぬえの会」が終わったあと、ぬえにとってもっとも印象深かった出来事は このブログが契機になって手作りの和婚式のお手伝いをさせて頂いたことでしょう。ある日突然 ぬえはメールを頂戴しまして、それは結婚式のコーディネーターさんからのメールでした。「結婚式で謡をお願いできる方を探しているのですが、近隣にお願いできる方がおられず、ブログを拝見させていただきメールさせていただきました。…昔ながらの古式ゆかしい祝言挙式を行います。三々九度に合わせて謡をお願いしたいと思っています」というメールには、ぬえもビックリしましたが、どうやらこういう事らしい。

結婚式場のお仕着せのプランには飽き足らず、手作りの、自分たちだけですべてを作り上げる人前式を実現したい、と考えているカップルが、さすがに調度やら道具は取り揃えることはできないので、最低限度はプロのコーディネートを頼むことにした。→どうやら会場となった温泉旅館も彼らが探し当てたらしい→そこで小さなプランナーさんを探し当てて、彼らの夢の実現に助力を願った→彼らが目指す結婚式は、古風な、昔ながらの「祝言」→祝言には「高砂」の謡がぜひ欲しいところ。その演者の調達をプランナーにお願いした→さあ、プランナーさんも能楽師の知り合いはおらず困ってネットを探し、ぬえのブログにたどり着いた。。ぬえが大体把握したのはこんな状況ではないかと思います(違っていたらご指摘ください>ご当人)。

やるなあ。。新郎新婦も、頼まれたプランナーさんも。なんという行動力だ。。このお話を頂いた ぬえは、その結婚式の会場が中伊豆(!)だったこともあって、即答してお受け致しました。

このメールを ぬえが頂いたのが9月21日。それから2ヶ月後に迫った結婚式に向けて演出の打合せを進めて行きました。ぬえも結婚式に出演する事はときどきあるけれども、それはすべて披露宴での仕舞の披露で、今回もてっきりそのつもりでいた ぬえは、やがて新郎新婦が望んでいるのは挙式への出演だという事に気づいて、またまたビックリ。つまり三々九度に合わせて謡を謡うのです。披露宴と違って一生の思い出となる儀式だ。。それも ぬえを見込まれてのお仕事。。やはり絶対に失敗できない状況で。。この挙式の経緯はブログでもご紹介しましたが、結果的に失敗などはなく、当日は新郎新婦はもとより、ご親族にも大変喜んで頂けました。

でも、ぬえはまた思ったのです。能楽師は舞台人であるばかりではないはず。能楽堂で芸を見せているばかりではなく、本来能楽はもっともっと日々の生活に密着していた芸能であるはずで、それがまた日本の文化の中の芸能全般の特色でもあったはず。結婚式に限って言えば、現代の披露宴で余興に交じって仕舞を舞って喜んでいるのではダメで、新郎新婦の契りの儀式に出演する事で神を言寄せる役割をも担っていた時代があった事を忘れてはなるまい。いまや結婚式と言えば細部まで破綻なくマニュアル化された結婚式場のプランがあって、そこからは能楽は排除されてしまっていますが、これというのもこういう場に積極的に関わろうとせずに舞台を重視し過ぎたわれわれ能楽師も怠慢の非がまったくないとは言えないでしょう。今回のお招きは ぬえの目を開かせてくれました。ありがとうございます>新郎新婦の高松夫妻、八千代ウェディングの内田さん。ちょっと営業的ではありますが、ぬえもサイトでお手伝いの広告みたいなページを作ってみました。

また一方、自分たちなりの挙式を手作りで行おうとするカップルは これほどの努力をしなければ実現にはこぎ着けないのが現状なのかも。「和婚」という言葉が市民権を持ち始めたいま、こういう ささやかな望みを持つ新郎新婦にもきめ細かく対応できる挙式プランナーが必要とされているのかもしれません。ぬえのブログでは、高松さんの挙式のご紹介をしたところ、読者の みささんから「これが私の求めていた挙式の姿!」というコメントを頂き、今 来年3月の みささんのお式に ぬえも再びお手伝いさせて頂く運びとなりました。ぬえもまたこれを望外の喜びと受け止めて、誠心誠意お手伝いをさせて頂こうと思っております。

さてその後12月には研能会の月例公演で『山姥』を勤めさせて頂きました。こちらの経緯は先日までブログで連載していたので割愛させて頂きますが、考えてみれば今年は5番の能を舞う、という近来にない経験をさせて頂きました。なかんづく、そのうち2番までが ぬえが出演の依頼を受けてシテを舞わせて頂いた、という、これは一代目の能楽師としては 考えられない栄誉だったと思います。どのお舞台もなんとか破綻だけはしなかったと思いますが、また ぬえの許には「まだまだだね」とご叱正の声も頂いて、これは大変ありがたく思っています。

ネット世界の中の「ぬえ」こそが私の分身で、この分身に対して頂く教導がそれこそパソコン通信時代からあったからこそ、私は親からも教えを受けられない一代目でありながら、なんとか道を踏み外さないで進んで来れました。顔も ぬえは知らず、ぬえに対して利害関係もない、それこそ真の「能楽愛好家」というべき方々から頂く励ましと叱正があってこそ、今の ぬえがここにおります。さてこそ私は感謝の意味をこめて自分の主宰会を「ぬえの会」と名付けました。この決意はもう今から6年も以前のことで、今では本名のほかに「自分は ぬえ」という思いをいつも持って舞台に上がっているのです。

来年は いつも通りに戻って、年間3番程度のシテを勤めるチャンスがあります。どうぞ変わらぬご支援・ご鞭撻を賜りますよう、伏してお願い申し上げます。

来年が皆々様にとって良き年でありますように。

今年の総括(その4)

2007-12-30 14:33:49 | 能楽

同じ6月、ぬえの師家主催の梅若研能会の月例会にて 能『春日龍神』を勤めることになっていました。ぬえのような立場ではひと月に2番の能のシテを勤める、というのは本当に稀で、ええと、これ以前ですと ぬえが内弟子から独立したときに催した独立披露能の同じ月にたまたま研能会でシテのお役がついていたとき以来でしょうか。このときは『船弁慶』と『雷電』をひと月のうちに勤めましたが、今回は『隅田川』と『春日龍神』。習物の能があることと、それが出演依頼を受けて勤める、という重責があったことが違いでしょうか。また研能会も6月公演は今年の上半期の最終公演にあたり、毎度普段よりもお客さまが多く見える公演でしたので、どちらも失敗は許されない公演でした。いや、いつも失敗は許されないですけれども。。

7月からは伊豆での子どもたちへの稽古がいよいよ本格化しました。毎年夏に恒例の「狩野川薪能」のためのお稽古で、稽古自体は2月中旬から始めていたのですが、翌月に迫った薪能に向けてそろそろ形が出来上がらなくてはいけません。

この薪能は、おそらく全国で開かれる薪能の中でもここだけの大きな特徴があります。地元に伝わる民話をもとにして ぬえらが新作の「子ども創作能」を作り、これに出演するシテ?もワキ?も、すべて地元の小学生。地謡だって小学生と中学生だけで謡います。薪能の当日は ぬえが地謡の後ろに座りますけれども、それは地謡が囃子と合わなかった場合にサッと修正するために待機しているだけ。シテ役やワキ役などの立ち方の指導だけではなくて、地謡が地拍子に合わせて謡うところまで稽古するのですから稽古は大変ですが。

そのうえ今年は、中学生になっても参加してくれている子どもたちには古典の曲を演じさせよう、と考えて、4人の相舞、という変則ではありましたが、仕舞『東方朔』を演じさせました。さらにはこの薪能で上演される玄人能(ぬえがシテを勤めています)も、毎回子方が登場する曲を選んで、その子方も地元の小学生に勤めさせています。今年の上演曲は『一角仙人』。ちょっと素人の子方が挑戦する曲ではないけれども、もう何年も伊豆で稽古を続けている ぬえとしては、上演は可能であろうと確信できたので、この曲を舞うことを決めました。

東京から伊豆に稽古に通うのはなかなかスケジュールの上では大変でしたが、7月からは子どもたちも夏休みに入り、やや稽古の予定に余裕も生まれました。でもその間にも ぬえは東京での別会で面白い仕舞『舎利』のツレを勤めたり、自分のお弟子さんのおさらい会があったり、はたまた ぬえが能楽と出会った原点である日本大学能楽研究会のOB会創立60周年(!)パーティーで司会をしたり、と、なんだか忙しい夏でしたね。

8月にいよいよ「狩野川薪能」が催され、まあこれは大変で、ぬえは「子ども創作能」の地謡の後見、仕舞『東方朔』の地頭、さらに能『一角仙人』のシテ、と飛び回るようにして舞台を勤めました。後日先輩からも「ちょっと他の催しでは見ないような仕事量だねえ。。」と言われましたが。。でも、ぬえは伊豆での子どもたちへの稽古を本当に楽しんでいます。あ、そうそう。今年の伊豆での稽古のある日、たまたま伊豆長岡の花火大会の日に当たっていたので、稽古が終わってから花火大会を見物して帰りました。その花火大会は手作り感覚があふれたもので、ぬえは驚いてしまいました。押し合いへし合いしながら大がかりに打ち上げられる花火を見上げる東京の花火大会とはまったく違っていて、のんびりと河原の土手に寝そべって見る花火大会。ああ、ぬえは伊豆に住みたい。

9月には数年ぶりに開催した自分の主宰会「ぬえの会」の第三回目の公演がありました。今回 ぬえが挑戦したのは能『井筒』。誰にしも思い入れのある、それゆえに難しい能だと思います。自分の主宰会ですから準備万端、スケジュールの上でもあまり忙しくない頃を狙って開催したのですが。。ところが。。開催日を決めたあとでわかったのですが、この前日には国立能楽堂の定例公演があり、師匠が『三井寺』のお役を承っておられ、その子方に チビぬえがお役を頂いていました。さらに同じ日、横浜能楽堂で大倉正之助氏主催の催しで、やはり師匠が新作能のシテを勤めることになり。。師匠も1日に2番のシテ、しかもそのうちの一つは新作能、とは大変なスケジュールでしたが、ぬえも自分の主宰会の前日だけは ゆっくり準備をしておきたかったのですが、1年の中でも最も忙しいスケジュールとなってしまいました。。(;.;)

そのうえ。。「ぬえの会」の6日前に設定した申合の、まさにその日に師匠の奥様が急逝されました。近年身体を壊されてはおられましたが、あまりに突然のことで。。ご冥福をお祈り申し上げます。。

それにしても ぬえはあたふたと ぬえもお通夜や葬儀のお手伝いに走り回り、「ぬえの会」のための自分の稽古のスケジュールは崩壊して、実際のところ条件としてはもっとも悪いところで「ぬえの会」の当日を迎えてしまいました。もうこれは。。恥をかいて終わりだな。。と半分諦めながら装束を着けましたが、意外や。。足がよく動く。。まあ ぬえの実力の程度ですから知れてはいるでしょうが、だいたい稽古で作り上げた通りには出来たと思います。こんな事もあるのですね。。予測できない忙しさのために成果を諦めかけたその時。。ふと肩から力が抜けたのでしょう。もちろんこの日までに積み重ねた稽古には自信があったので、身体から力みが抜けたとたん、冷静に舞台に出ることができた。。なんとも舞台は奥が深い。。そんな感慨を持った舞台でした。

今年の総括(その3)

2007-12-29 03:17:11 | 能楽

時期は少しあとになって5月。ぬえは はじめて鎌倉を訪れました。う~~ん、これほど日本文化について熱く語る ぬえは、生まれも育ちも東京っ子のはずの ぬえは。。じつはこれまで一度も鎌倉という土地を訪れた事がありません。よ~~く思い返してみても、学生時代に江ノ島あたりまでドライブした事があるだけで、やはり鎌倉大仏も、鶴岡八幡宮も、長谷寺もあじさい寺も。。ぜ~~んぜん見たことがないのでした。やっぱり ぬえ、どこかアタマのネジが抜けているらしい。。GWの翌週末、ぬえは思い切って鎌倉を訪れることにしました。目的は建長寺のご本尊にご挨拶をし、ご祈祷を受けるためです。

というのも、この翌月には ぬえ、建長寺で『隅田川』を勤める予定になっていたからで、それはここでの催し「巨福能」をプロデュースしておられる金春流の師範格の方から ぬえに出演の依頼を頂いたからなのでした。このお話を頂いた ぬえは本当にびっくり。二十歳を過ぎてからこの道に飛び込んだ ぬえごときが、まさか他流の方から出演依頼を頂けるとは。。それも会場は鎌倉を代表する古刹・建長寺で、そのうえ指定された上演曲目も大曲の『隅田川』とは。。

ともあれ、「巨福能」の会場となる「龍王殿」では仏壇を背にして舞うことになるので、ご本尊にあらかじめ非礼をお詫びし、併せて無事の上演を祈願するために、催しの約一月前に、会場の下見を兼ねて建長寺へ参詣したのでした。

はじめて訪れた鎌倉は、山もあり海もあり、東京から交通は便利な割には どこか鄙びた風情もあるし、それに似合った人情もある。ああ、これは良いところですね。もっとも建長寺のほかに訪れた社寺では ぬえはいずれも鎌倉時代から続くような古式とか格式はほとんど感じられなかった。これは京都・奈良とは決定的に違うところです。おそらく。。鎌倉は一時は日本の事実上の首都であったわけだけれども、その後首都機能が再び京都に戻り、さらに江戸に移り。。この間に鎌倉は、残念ながら相当長い期間うち捨てられ、省みられなかった時代が続いたのだと思います。発掘すれば夥しい遺物や遺構が発見されるでしょうけれども、この地の空気は頼朝や北条の時代の息吹を今に伝えている、というわけではない。。

でもね。現代の鎌倉という土地は、京都や奈良のように重厚な伝統文化の重層を見るのではなくて、山や海を含めた「鄙」の風情を楽しむところなのではないかな、とも感じた ぬえではありました。古い由緒を持つ社寺は、省みられなかった時期があるため、それ自体が醸す雰囲気は中世のものではなくて、多分に近世のそれ。でも鎌倉では建築の重厚な美を愛でる、というよりは、むしろその屋根のうえで日向ぼっこするニャンコを まったりと眺めながら縁側でお茶を頂くべき場所なんだと思いますね。

さてその建長寺での「巨福能」は6月3日に催されました。ぬえにとって『隅田川』を手がけるのはこれで2度目。子方は前回と同じく チビぬえが勤めることになりました。実際のところ、会場は蒸し暑くて非情に苦しい舞台ではありましたが、やはり一度勤めたことのある能には新たな発見がたくさんありました。成果については批判も含めていろいろな方から ぬえにアドバイスを頂きました。見所も満員で、頂いたお仕事としては非礼がなかったのだけが救いでしょうか。

なおこの催しに毎回いらしている能楽写真家の渡辺国茂さんと ぬえはこの日はじめてお会いしたのですが、その後親交を深めて、渡辺さんはそれ以後 ぬえの舞台をたびたび撮影して下さっておられます。これまたありがたい出会いでありました。

平成19年に ぬえが最初にシテを勤めた舞台はこの建長寺の「巨福能」になります。その後は秋にかけてたくさんのシテを舞う機会があった年でした。

今年の総括(その2)

2007-12-28 01:53:34 | 能楽

今年の2月には、ぬえの近所の小学校で能楽のデモンストレーションを行いました。去年から、ぬえはちょっとご近所の小学校や保育園で子どもたちにお話しさせて頂ける機会が増えたのですが、この「都立光が丘第八小学校」でのデモンストレーションもそういった機会から発展した催しでした。去年 ぬえが同小学校で行ったデモンストレーションは、PTAが主催して子どもたちのために催される「音楽会」の一環として招かれたものだったのですが、そこに参加された校長先生に気に入って頂けたようで、今度は授業の一部として採り上げてくださったのです。

子どもたちに教えることは、すでに伊豆で長い経験もある ぬえではありますが、この催しでは ちょっと思い切って囃子のプチ体験をさせてみたり、また小学生に面を掛けさせてみたりもしました。もちろん道具や面の扱いについては厳格に指導はしたうえでの事ですが。能面を見せて日本の神様の姿のお話をしたり、できるだけ子どもたちが体験できるように工夫したり。。能面についての印象を尋ねると、中には思いも寄らぬ斬新な発想をする子がいたりして、こういう機会はじつに発見が尽きない。同小学校では来年も引き続いて1日授業をする予定になっていまして、今からとっても楽しみです。またこの2月には東京都下の中学校で、やや障害を持つ子どもたちへの体験授業の機会も持たせて頂きました。

3月には ぬえが仕舞を教えている外国人の発表会がありました。この催しはボランティアで外国人に長唄の三味線を教えておられる西村真琴さんが催す「インターナショナル邦楽の集い」で、主に西村さんから三味線を習った外国人が長唄を発表する会です。西村さんの姿勢に共鳴した ぬえは、その生徒さんの中でさらに仕舞を習いたい、という希望者にやはりボランティアで教えているのですが、そういった形での西村さんとのお付き合いも もうすでに6年に及びます。ぬえ自身も何度も海外で教えているし、英語はうまくないけれどもコミュニケーションは得意なので、爆笑させたり感心させたり、舞だけではなく日本文化を教える事に心を砕いてお稽古しています。



今年は米国、香港、そしてニュージーランドの若者に仕舞を教えましたが、彼らもこの日、立派に舞台を勤めることができましたし、ぬえも番外仕舞『橋弁慶』を上演しました。毎年、この催しのあとには打ち上げがあって、いや~パーティーはやっぱり外国人のパワーには驚かされます~。出演者に加えてその友人たちも参加させなけらばならないのが外国人のパーティーの「掟」なので、毎度100名ほどの打ち上げになってしまいますが、もう大騒ぎもいいところで、これは毎度会場選びには細心の注意がいることであろう。。ぬえはさらに数人の外国人の生徒さんたちと一緒に飲みますが、この結果、毎回終電を逃しちゃいますな。。惜しむらくは彼ら、どうしても日本に滞在するのは1年程度の短期間であることが多くて、なかなか何年間も稽古を続けられる人が育たないことかな。それと苦学生が多いから仕事と稽古の両立が難しかったりもします。

彼らの「職業」は多くの場合「英語教師」であることが多いのですが、純粋に日本文化に興味を持って来日する若い外国人にとって、滞在費を捻出するためのアルバイトとして、この仕事は手頃であるようです。高い求人の需要があるために採用もされやすく、日本語が話せなくても授業することは可能。。でも、今年の ぬえの生徒の中にも、やっぱり「NOVA」の教師がいて、倒産の影響をもろに受けて収入のメドがつかず、先日聞いた近況では。。とうとう帰国せざるを得ない状況になったようです。。

このほかにも 外国人に教えていると、日本の入国ビザを取得する事がいかに難しいか、とか、入国管理の仕事がいかに意地悪で非情なのか、という実情も知ったりします。これらの問題に直面するとき、ぬえはもう、日本人として恥ずかしく思うこともあります。日本文化を愛してくれる彼らが受けた仕打ちに対して、ぬえが謝りたく思うことさえ。。

でもまあ。。来年もすでに「インターナショナル邦楽の集い」は6月1日(日)に梅若能楽学院で開催される事が決定しました。ぬえもすでにカナダ、ニュージーランド、オーストラリアの生徒さんに稽古を開始しています。このうちの何人が半年後の舞台で仕舞を勤めるところまでこぎ着けるかは まだわからないけれど、また深夜まで祝杯をあげるような良い催しになればいいな、と思っています。

今年の総括(その1)

2007-12-27 02:06:06 | 能楽
は~、いよいよ来週には新年を迎えるのですね~。この年始は ぬえ、とってもヒマ。師家恒例の、丹波篠山で元旦深夜に上演される「翁神事」も今年は ぬえは出演はしませんで、これまた師家恒例の正月2日の謡初めも、昨年師匠の奥様が亡くなった関係で中止となりました。お弟子さんのお稽古を除けば、次のスケジュールは研能会の初会の申合。。まあ、それから先は1月は舞台も多いので忙しくはなるのですが、年末年始と、これほど舞台から遠ざかると「舞台カン」みたいなものが失われてしまいそう。

ま、そうはいっても ほとんどの能楽師にとって年末年始は1年のうちで最もヒマな時期でしょう。当たり前ですが。それでも ぬえの師家などのように元旦に寺社などで「翁」を上演する事を恒例にしておられる家はいくつかあって、それに出演するシテ方や囃子方は元旦から舞台に立っているわけではありますが、これまた やっぱりその「翁」が終わったあとには謡初めやら、囃子方では「打ち初め」と言うらしい流儀やお家の儀式を除いてはしばらく催しもなく、舞台が本格的に始動するのは どの能楽師にとっても1月中旬頃からではないかしら。

不思議なもので、年末年始のこの空白の期間というものは。。舞台カンを失わせますね。いや ぬえが未熟なのもあるでしょうが、ほかの能楽師の友人やら、ぬえよりずっと先輩からも同じ事をよく聞くから、あながち未熟なゆえばかりが原因でもないかもしれませんが。だから、なぜか1月の舞台には小さなミスがよく現れます。いや、絶句するとか、囃子方が手を打ち間違える、というような大きな「失敗」ではなくて、お客さまにとっては注意してご覧にならなければわからないような小さな「ミス」。。間合いがどうも合わない、とか、もう一つ謡に生彩が欠けている、とか、そういう類のものは、なぜか正月によく見かけるように思います。12月の中旬からクリスマス頃までに大体みなさん舞台の予定を終えて、次に本格的に舞台活動が始動するのが1月中旬だとすると、多くの能楽師にとって2~3週間の「舞台ブランク」が生まれるのですが、その程度でさえ「狂い」が生じるとは、やはり芸というものは精緻なのでしょうし、舞台から離れるのは怖いものなのですね。。

そんな ぬえも今年は正月から忙しい年でありました。やはり今年の正月も元旦の丹波篠山での「翁神事」に出演するメンバーには入っていなかったものの、翌2日には師家で謡初め、8日にはすでに研能会初会があって、なんとその公演で ぬえは『翁』『楊貴妃』『恋重荷』と3番の能の地謡に出演する、という正月からハードなスタートを切りました。その週末には名古屋近郊の豊田市能楽堂の「新春能」公演に参加。さらに舞台はあっちやらこっちやら。。まあ、これほど舞台が多いと、さきほどの「舞台カン」もすぐに取り戻せました。

あ、そうそう、この豊田市能楽堂の催しの終演後に ぬえは名古屋在住の研究者の「鮒さん」(←ハンドルです)と会って、そのまま名古屋に宿泊したのでした。鮒さんは ぬえとはパソコン通信時代からの旧知の仲なのですが、彼はSP盤として残された能や謡の実演の記録を通して明治以後の近代の能の姿に迫ってみる、という画期的なアイデアを考えた研究者です。骨董屋などでSP盤を自身で収集したり、その音源をデジタル化して保存する作業も地道に行っておられましたが、一昨年のあるとき ぬえに相談があって、いわく「ぬえの師匠の家に先代や先々代が吹き込まれたようなSP盤が残っていないだろうか。もしもあるならば、ぜひデジタル化保存をさせてほしいと ぬえから頼んでもらえないだろうか」というものでした。どうしても巷間に出回っているような「聴き込まれた」SP盤は保存状態も悪いものが多いそうで、その点 実演者のもとに保存されているものならば、能楽愛好家の手元にあった盤よりは はるかに保存状態がよいはずで、デジタル化して後世に残す基本資料として有効なのではないか。。?と考えられたのですね。まさに卓見。

そんなわけで ぬえもこの計画には大賛成で、すぐに師家に相談してお許しを得。所蔵SP盤のリストを作って鮒さんに渡し、検討のうえ鮒さんがデジタル化するべき蔵品を選び。つぎには ぬえ自身が輸送責任者となって師家所蔵のSP盤を名古屋のNHKに運び。。その結果、ぬえの師家所蔵の 梅若万三郎(初世・二世)の録音はデジタル化されて半永久的な保存が可能になりました。さらには師家の許しを得てこれらの音源は鮒さんのサイトで広く公開されて、どなたでも無料でダウンロードして頂けるところまで成果をあげました(詳細はぬえのサイトをご覧ください)。

今年の正月の豊田市での催しでは久しぶりに鮒さんと再会して、とうとう結実した鮒さんのプロジェクトの成功を祝して祝杯をあげるために、終演後は名古屋に泊まったのでした。もうあれから1年が経とうとしているのかあ。何がともあれ、そのままにしておけばいずれは朽ちていく運命だったSP盤(それは ぬえの師家でもまさに「死蔵」されているものでした)を、この時期に永久保存する方策を打ち立てた鮒さんの行為は、ぬえはまさに鮒さんの「業績」と呼ぶべきものだと思いますね。もう10年、20年、こういう事を考える研究者が現れなかったならば、おそらく多くの資料は散逸したり破壊されたり(←ぬえも今回はじめて知りましたが、SP盤は本当にもろい)したことでしょう。すでに戦後塩化ビニールでLPレコードが作られるようになってSP盤が省みられなくなって今日までに幾多の古い音源資料が人知れず損壊して失われていったであろうことか。鮒さんは、後世の人のために、もちろん研究の基礎資料として、また能楽愛好家の興味や鑑賞のためにも時代の証言である往時の実演を、まさに現代に甦らせる功績を残したのです。鮒さん、あなたに本当に感謝する人が、いまも、将来も、たくさんおられると ぬえは思いますよ。

メリークリスマス~っ (*^_^*)

2007-12-24 23:10:45 | 雑談

あ~~今年ももういつの間にか年末なんですね~。

一昨日の土曜日に師匠のお弟子さまの発表会のお手伝いに出演して参りましたが、早いものでこれが今年最後の舞台となりました。まだ今週中は ぬえも自分のお弟子さんのお稽古がいくつか残っているんですけれども、能舞台に登場するのは一昨日で仕事納め。

お舞台の予定は終わったけれども、12月には自分のシテの舞台もあり、なかなか忙しくしていまして、いまだに年賀状を書いていない。。あ~~年賀状という習慣には毎年悩まされます。今日はクリスマスイブなんですね~。ぬえはやっぱりお弟子さんのお稽古に参りましたが、そんなわけで自宅でも仕事がたまっていて、なんだか朝から忙しいクリスマスイブでした。

お昼ごはんを食べなくちゃ。。でも忙しいので簡単に。。

で決まった「お好み焼き」。なんだそりゃ。しかも具に凝らなかったので ほとんど小麦粉パイ状態でした。こりゃ安上がりだ。「お好み焼き」というよりは「エコノミ焼き」でしたな。(←誰がうまいこと言えと。。)

で、お稽古に出かけましたが、なんだか舞台が終わったからか大笑いしながらの稽古でした。話題がお弟子さんがいまお稽古している曲の物語の背景となる歴史についてだったので、不真面目な内容で談笑したわけではないですが、今日は謡の指導から話題が飛躍して、ホワイトボード(お稽古場の会場にもよりますが、ぬえはよくお稽古を板書しながら行うので。。)に変体仮名を書き並べるところまで脱線しちゃいました。不謹慎かしらん、とも思いましたが、まあ一年は楽しく終わりたいものです。

そう言えば今朝は、先日の ぬえの『山姥』に急病で出演できなくなったお囃子方の先生からもお電話を頂いて、無事退院されて元気を取り戻されたそうです。ぬえからは大先輩に当たる方なのに、ご丁寧にお詫びまで言ってくださって。。恐縮もしましたが、やっぱり ぬえは安心しました。また次の機会にお舞台で共演することもあるでしょう。ともあれ大事でなくて ああ、よかった。

そんなこんなで忙しくもあり、安心もし、楽しく過ごした1日でした。うん、すべからく日々はこうでありたい。お稽古の帰りにはケーキを買って、それも ぬえにしては珍しく いわゆる「デパ地下」のケーキ屋さんで。ちょっと高かったけれど、やっぱり「デパ地下」ってのは厳選されたお店が入っているのか、ケーキも、それからチキンもおいしく頂きました~。

お弟子さんのお稽古のスケジュールは もう少しだけ続いて、今年の ぬえはだいたい世間の「仕事納め」と同じ頃に今年の予定を終わります。思えば いろんな事があった1年でした。このブログもあと2~3回を使って ぬえのことし1年を総括して、そうしてお正月休みにしようかな、なんて考えております。

どうぞ今しばらく、おつきあい下さいまし~ m(__)m

『山姥』、なんとか終わりました(続々)

2007-12-20 01:25:01 | 能楽

今日は東京能楽囃子科協議会の定式能の催しで国立能楽堂に出勤して参りました。ぬえの出番は催しの初番に師匠が勤められた舞囃子『富士太鼓』の地謡だけでしたが、こういう催しでは ふだんご一緒にならない他流のシテ方の芸を見ることができたり、若い囃子方の活躍を見ることができる貴重な機会です。他流の友人と久しぶりに旧交を温めたり、またお囃子方のご子息が舞台に出ているのを初めて見て感心したり、とても発見の多い1日でした。

さて今日の巻頭のお題は「鹿背杖」です。『山姥』の後シテが突いて出るこの撞木杖を今回 ぬえは自作したのですが、あとで聞いてみればそれぞれの体格に合わせて自作するシテも少なくないらしいので、決して威張れたものではありませんのですが。。

今回 ぬえが作った鹿背杖の素材は竹で、これは「東急ハンズ」で買いました。内弟子時代にも ぬえは師家の公演で必要な小道具や作物、また自分が使う盲目杖などの小道具を自作した事も何度かありますが、当時は竹材は竹屋さんに出かけて買ってきたものだよなあ。膨大な竹材の在庫の中から必要な太さや色、また曲がり具合の材を選ぶと、サービスで竹を割いてくれたり、節を取ってくれたり、親切なお店では曲げるところまでやってくれる場合もありました。最近はこういう竹屋さんというのも めっきり少なくなってきたように思います。。ともあれこうして手に入れた竹材は、表皮に飛び出た節をカンナでそぎ落として表面を滑らかにして杖の柱の部分にします。

握りは今回は竹材は避けて木材とし、手頃な太さの丸材をホームセンターで買ってきました。これまた単純に適当な長さに切るだけなので苦もないのですが、柱と握りとのジョイントに多少神経を使った程度でしょうか。持ったときにグラつかないように、握り材とピッタリ合うように竹の柱をうまく削り、二つの部品の接着には今回はエポキシを使いました。本当は竹の柱の空洞の中に詰め物をして接着した方が強度が稼げるのでしょうけれど、割とジョイント部分がうまく削れてピッタリと接合できるようだったので、詰め物を入れるのは省略してしまいました。。が、接着したあとで不安になって。。補強のために ごく小さな釘、それも錆びないように真鍮の釘を接着部分に打ち込んでおきました。

鹿背杖には本当は無紅紅緞を巻き付けるのですが、それは能装束屋さんで誂えるもので、1本だけ買うことはないものだし、それにまた紅緞はとっても高価。そこで無紅紅緞に見える代用品の布を探すことにしたのですが。。やはりちょうど良い品はなかなか見つからず、結局 ユザワヤで絣調の綿布を見つけて、これを細く裂いて鹿背杖に巻き付けました。

最後に、『山姥』の鹿背杖は自然のままの木の枝、という意味なので、木葉を取り付けます。本物の榊の小枝をつける事も多いですが、今回は ぬえは造花の木葉を使う事にしました。こういう時に頼りになるのが四谷にある有名な造花の専門店の「東京堂」さんで、今回もここで手頃な枝ぶりの榊の枝。。ではなくて、大きさが手頃だったので ぬえが選んだのは、じつは椿の枝なんですが。。を買い求めて、剪定してみたり、ライターで炙って枝ぶりを微調整したりして取り付けました。これにて鹿背杖の完成です。

ところが。これを見てくださいな。



これはまだ製作を開始したばかりですが。。試みに作ってみようと思っている白樺の鹿背杖!

『山姥』は小書がついた時には、無紅紅緞を巻いた鹿背杖ではなく、その代わりに自然の木の枝で作ったリアルな杖~「自然木」(じねんぼく)と呼んでいますが~を突いて出るのです。通常、「自然木」としては木の種類はあまり厳密には定めはありませんが、柱がまっすぐではなくて、グニャリと曲がった枝を選んで作ります。やはりまっすぐな枝よりも野性味が出るからでしょうね。

で、今回の ぬえは小書のない通常の『山姥』を勤めるので、わざわざこの自然木の杖を作る必要はないのですが。。ところが、この時期たまたま師家では職人が入ってかなり大がかりに庭木の手入れや伐採が行われたのです。ある日たまたま稽古で師家に伺ったとき、門の脇にうずたかく伐採された庭木の枝が積まれていました。その中に。。この白樺があったのです。そう言えば師家の舞台の前に植えられていた白樺。。あれ、伐っちゃったのか。で、このまま職人さんが持ち去っても廃棄される運命の白樺。ぬえは程良い枝を何本か頂いて、自宅に持ち帰り、これで自然木の杖を作ってみようと思い立ちました。まあ、完成はいつになるかわかりませんが。。「白頭」の小書がついた『山姥』で白樺の杖を突いて出る、なんて、ちょっと面白いかも。

『山姥』、なんとか終わりました(続)

2007-12-19 01:09:32 | 能楽

研能会のあと、休む間もなく連日舞台に出演している ぬえです~。

ことに今週末には師匠のお弟子さんの発表会が迫っていまして、出演されるお弟子さまのお稽古のお付き合いや申合なども頻繁に重なる1週間なのでした。これがまた、ぬえはこの発表会で師匠のお弟子さまの一人が出演される素謡の『当麻』でツレのお役を頂いておりまして、研能会の翌日はこのお弟子さんのお稽古にお付き合い申し上げておりました。

『当麻』のツレというのは。。謡う箇所が膨大で、しかも難解。研能会で『山姥』を勤めたその翌日に、はてさて1箇所も間違わずに謡うことができるのかっ!? と恐れをなしていましたが、終演後に猛勉強して(正確に言えば終演後は終電過ぎまで飲んでいたので、タクシーで帰宅してから、ですが。。)、翌日のお稽古では何とか間違えることなく、師匠のお弟子さまのお相手を勤めることができました。あ~よかった。。って、これで気を抜くと本番で間違えるから用心、用心。そんで、今日はその発表会の申合、明日は東京囃子科協議会の催しで師匠が勤められる舞囃子『富士太鼓』の地謡を勤めて参ります。

囃子、といえば、ぬえの『山姥』でもアクシデントがありました。お囃子方のお一人が、本番の2日前に行われた『山姥』の申合のあとに急に体調を崩されて出演不能になり、本番では別の囃子方が代役してくれたのです。公演前日にご本人から出演不能というお知らせのお電話を頂いて ぬえはびっくりしたけれども、その丁重なお詫びのお言葉にこちらが恐縮してしまいました。体調不良であれば不可抗力なのに、ご本人は病身をおしてご宗家に代役を立てる相談をされ、それが決まるや、申合でシテ(つまり→ぬえ)がどのように演じていたか(=それに対してどのように囃すべきか)を代役の人に自分の口から伝えるべく努力しておられました。

結局代役に立ったのは若手の人だったのですが、彼はぬえも大変信頼しているし気心も知れている方で、これを知って ぬえも安心することができました。ところがそのうえ、当日の楽屋には代役の本人だけでなくお流儀の若宗家までもがほかの舞台への出演の合間を縫って同伴され(ぬえはもう装束を着けて出演準備が整う頃だったのでお目には掛かりませんでしたが)、ぬえの師匠に代役を立てた事のお詫びをされたのだそうです。ぬえふぜいのお相手なのに、お流儀をあげてこんなに気を遣って下さって。。お舞台を勤める、お役を頂く、ということに対して、本当に強い責任感を持って臨まれているのですね。。ぬえも頭が下がりましたし、信頼して舞台を勤める事ができました。

さて話は変わって、巻頭の画像は ぬえ所蔵の「山姥」の面です。稽古や申合でもこの面を掛けて勤めたのですが、先輩からも好評を頂きました。殊にこの面は眼の金具の金が光っていて、それは瞳の部分の内径が小さいからで、それはつまりシテの視界がやや狭くなってしまう事を意味するのですが、その輝きは効果的だったようです。ただ。。ちょっとまとまり過ぎ。。整いすぎているかなあ、とも ぬえは思って、今回はこれは使わずに師家の友閑作の面を拝借しました。こちらはなんと眼が金具ではなく金泥彩色で、また表情もややおだやかですが、少し彩色にも剥落もあって、それがまた何とも言えない迫力がある面でしたね。

またお装束も ぬえ、ずっと以前から狙っていた師家所蔵のものを、ことごとく拝借する事ができました。前シテの唐織は「黒船文様」と言い習わしているものです。深い紺地に緞子風の細かい横縞の文様が織り出された唐織で、こういうキツイ性格の無紅のシテに良く似合う装束です。なぜこの文様を「黒船」と言うのか。。不勉強な ぬえは知りませんが。。

後シテはかなり細かい山道の地紋の上に火焔太鼓を散らした段の厚板。ぬえの師家ではこの厚板を『山姥』に用いたことはなかったので、師匠もちょっと意外そうな顔をされていましたが、ぬえは金茶の糸が多用されているこの厚板が金地に近いように見えるのを狙ったのですが、意外に舞台では白っぽく見えたのだそうです。半切は紺地で、風になびく大竹の文様。これは山姥にはもってこいでしょう。。と言っても、これは師匠がずいぶん以前に国立能楽堂の定例公演で『山姥』を勤められた際に使われて、その時の印象が ぬえに色濃く残っていたから拝借をお願いしたのですが。。

ぬえの師家では申合が終わった段階で装束を合わせるのが慣例です。この申合の日は研能会の理事会が開かれる日でもあったので、あまり装束合わせの時間がありませんで、殊に師匠が勤められた『松風』の装束が すでにこの日以前にすべて決められてあったのを発見して、ぬえは ひょっとしたら。。すでに師匠は ぬえの『山姥』の装束も、すべて決めておられるのかな。。? と思いました。。 でも師匠は「お前は装束はどうしたいんだ?」と聞いて下さった。「はい、前シテの唐織はこれで、後シテの厚板はこれ、半切はこれを拝借させて頂いてもよろしいでしょうか。。」と、即答できた ぬえも ぬえだが、「コイツはどうせ自分のビジョンをぶつけてくるに違いないヤツだし。。」と思われたのか、師匠も ぬえの考えを聞くまで判断を待っていて下さったのは、まことにありがたい事でした。。

『山姥』、なんとか終わりました

2007-12-18 00:27:36 | 能楽

昨日12月16日、梅若研能会12月例会での『山姥』の上演が(なんとか)無事に勤め終えることができました。会場は満員御礼で、初番を勤められました師匠・梅若万三郎の『松風』の際には立ち見でご覧になるお客さままでおられて、ご来場頂きました皆々様には厚く御礼申し上げますと同時に、ご不便をお掛けしました事をお詫び申し上げます。

さて、ぬえの感想ですが、ひと口に言って、『山姥』とはこれほど体力が必要な曲なのか。。と正直驚きました。やはり稽古と本番の舞台とは違うもので、苦しさも稽古からだけでは想像がつかないのに本番で思い知る、ということも ままある事です。

結果的に舞台にキズをつけるような事はなかったのですが、後シテを舞っている途中から、このままで行けばスタミナが切れる事を予感して、少し体力を温存しながら舞ってしまいました。そのせいか、あとでビデオを見てみると、やはりクセの中の型は少しおとなしかったようです。もう少し突っ込んで演じたかったところや、型の鋭さが足りない部分もありますが、それは破綻と裏腹の賭けで、ぬえは少し無難に逃げてしまったところもあります。悔い、というほどではないものの、もっと基礎体力をつける事、なんて何とも情けない課題ができてしまいました。



前シテは、だいたい思った通り出来たと思います。じつは今回は、いかに前シテをコンパクトにまとめられるか、を稽古の時からずっと課題としていました。なんせ今回の公演では1時間30分を超える上演時間の能『松風』、同じく30分以上かかる狂言『地蔵舞』、さらに『山姥』も上演時間は1時間30分以上、といずれも大曲揃いの公演である事は事前に明白。。ここで『山姥』のシテ謡を楽しんでじっくりと謡ってしまっては、鑑賞されるお客さまの意欲も萎えてしまうでしょう。実際のところ、まあ、ぬえに対する評価、という事もあるでしょうが、師匠の『松風』だけご覧になってお帰りになったお客さまもおられましたから、やはり長大な上演時間を維持するのは、演者にとってもお客さまにとっても大変なのだと思います。そこで、今回の『山姥』の、とくに前シテはシテの雰囲気や謡のムードは壊さないままで、できるだけサラリと謡えるように稽古の重心を置いていました。謡が軽すぎたとご不満をお感じになったお客さまも、あるいはおられるかも知れませんが、ぬえとしてはこの方針は正解ではなかったか、とは思っておりますが。。

後シテは足拍子や謡と囃子との間合いが非常に難しいのが『山姥』で、申合ではここが ことごとく合わずガッカリしていました。でも、ぬえが型を堪えることができていなかったり、また謡が今度は慎重すぎてやや重かったり、と 原因はすべて ぬえにあったので、これは申合のあとに徹底的に稽古の手直しをしました。当日は どの場面でもほぼ囃子とは合ったので安心はしたのですが、でも、どちらかというと大先輩のお囃子方が ぬえに付きあってくださった、というのが真相かも。。

後シテは。。さきほども書きましたが、苦しかった。。じつは先輩から「クセの終わりのところ、本当に<山廻りするぞ、苦しき>って思うんだよねえ」と事前に言われていましたが、まさにその通り。終演後に同じ先輩に「本当に苦しかったです。。『山姥』は何度も演じる方があるけれど気持ちがよくわからない」と言ったところ、この先輩は「それは ぬえ君が今回初役だからだよ。やっぱり力の配分、っていう事もある。<金輪際>の拍子など、だいぶ気持ちを入れてやっていたようだったから、このまま最後まで突っ走れるのかなあ?と思ったけれど。。あそこの拍子は普段の舞とは違う筋肉を使うから、あまりやりすぎると身体に負荷も大きいと思う。ただ、今日は途中で疲れてきたようには見えなかったよ」と言ってくださいました。

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その22)

2007-12-15 02:35:38 | 能楽
昨日、『山姥』の申合がおわり、あとは当日を迎えるだけとなりました。ところが。。この申合の ぬえの出来は。。あまりよくなかったんですよね~。。自分としては今月初旬の稽古能の方がよくできた。稽古能より申合の方がレベルが下がったのでは本末転倒ではありますが、今日はいろんな悪条件が重なった、という事もあります。稽古で出来ていたことが今日に限って出来なかったところもあったし、いろいろと考えるところはありました。

今日は申合が終わってから研能会の理事会・評議員会があって、うう~~力を出し切ったところでの会議は眠くてしかたがなかったけれど、それが終わって帰る電車の中で爆睡して、夕方から再び『山姥』の稽古に取りかかりました。そしたら、さっき出来なかったところが。。出来た。う~~ん、そんな「水物」のような芸では困るんだけど。。まあ。。それが ぬえの実力なのでしょう。当日は万全の体調で幕を揚げられるように、その時間に自分のクライマックスを持っていく事に専念したいと思います。

しかし今日面白かったのは、申合の不出来を見かねてか、終わったところで先輩が わらわらと寄ってきて、あれやこれやとコツを教えてくださった事でした。面白い、というのは不謹慎かも知れませんが、もちろんアドバイスはありがたかったのです。でもそれと同時に、『山姥』という曲に思い入れがある能楽師が多いのだな~、と思ったからなんです。教えてくださった中には「小ワザ」みたいなものもあって、これはお客さまにはほとんど気づいて頂けないような小さな演技ですから、これはその先輩の「思い入れ」の結晶です。あ~、山姥さんって、愛されているのねえ。。能楽師に。(^◇^;)

さてクセが終わると、シテは扇を再び鹿背杖に持ち替えて山姥の山廻りのさまを見せます。ぬえはこれは懺悔なのだと捉えています。自分の妄執、自尊心、つまるところ煩悩。「まことの山姥」の姿を知らせて、「山に住む鬼女」という誤解を解き、善行を積んでいることをツレに知ってもらい、そのうえで回向を受けて「輪廻を免れ、帰性の善所に至らざらん」、と考えた山姥。しかしその「年月の望み」が叶えられたとき、それは山姥自身が持つ矛盾や煩悩を露呈することにもなったのでは? 山姥の本質たる山廻りそのものが輪廻の象徴とも受け取れるのです。。ここで山廻りを見せる山姥の懺悔は。。ツレではなく仏に向けられているんですね。。

シテ「あしびきの
地謡「山廻り。
〔立廻リ〕

能で、舞ではないけれども地謡をともなわない音楽舞踊のひとつに「立廻リ」があります。ほんの舞台を一巡する程度のものから具象的な型を伴うものまでいろいろあって、また「立廻リ」によく似た舞踊に「イロエ」(彩色とも)があります。じつは「立廻リ」と「イロエ」は区別が曖昧で、よく「太鼓が入るのが立廻リで、大小鼓だけで伴奏するのがイロエ」などと言われますが、例外はあるし、シテ方と囃子方、またその それぞれの中でもお流儀によって、同じ曲の同じ部分を「立廻リ」と称したり「イロエ」と呼んだりしているので、結局 統一された定義はない、と言うべきでしょう。敢えて言わせて頂ければ、男性の役が舞うのが「立廻リ」、女性のそれが「イロエ」と呼ばれる傾向はあると思いますが。んじゃ、山姥さんは女性とは認めてもらっていないのね。。

『山姥』の立廻リは型が独特で、大きく、ドッシリと舞うことになっています。
まず「序」というべき部分があって、ここでは太鼓が付頭を4つ打つ中で、5拍目の大鼓に合わせて音を立てて鹿背杖を突き、あとは7拍の小鼓、つぎのクサリの1拍の太鼓に合わせて左右の足で拍子を踏みます。これが3回あって、4度目は大きく1足踏み出して杖を突き、また足拍子を踏みます。これを知ラセとして太鼓は刻を打ち、シテは鹿背杖をつきながら角へ出、左へ大きく廻って大小前に到り、鹿背杖を両手に持って左に小さく廻り、正先へノリ込、拍子を二つ踏んで下居ながら鹿背杖を右の肩にかつぎ、ここで太鼓が段を取ります。つづいてシテは正へグワッシ仕、膝を立て替えて立ち上がり、常座に到ってトメ。

ここからは山姥は再びツレに語りかけます。

シテ「一樹の蔭一河の流れ、皆これ他生の縁ぞかし、ましてや我が名を夕月の(ツレへ向き)、憂き世を廻る一節も、狂言綺語の道直に(ツレの方へ出)、讃仏乗の因ぞかし、あら御名残惜しや(鹿背杖を右肩にもたせかけて下居)。

ぬえ、この言葉が好きです。いったんはツレから気持ちが離れた山姥も、冷静に考えれば「袖触れあうも多生の縁」と言われるようにツレとの深い因縁を思う。「狂言綺語の道直に讃仏乗の因ぞかし」山姥が「狂言綺語」を言っているのではないけれども、ツレ百万山姥さえ「狂言綺語の道直に讃仏乗の因」となるのであれば、自分もツレに導かれて成仏できるのではないか。。やっぱりここに ぬえは世阿弥がツレ百万山姥に父・観阿弥を仮託してオマージュを捧げたと感じるのです。

シテ暇申して、帰る山の(立ち上がり常座にクツロギ鹿背杖を扇に持ち替え)、
地謡「春は梢に、咲くかと待ちし(角へ出)、
シテ「花を尋ねて、山廻り(見上げ、左へ廻り大小前へ行き)、
地謡「秋はさやけき、影を尋ねて(正へ出)、
シテ「月見るかたにと、山廻り(雲の扇にて正面の上を見上げ)、
地謡「冬は冴え行く、時雨の雲の(サシて角へ行き扇を上げ右上を見上げ)、
シテ「雪を誘ひて、山廻り(左へ廻り大小前に行き)、
地謡「廻り廻りて、輪廻を離れぬ(小廻りヒラキ)、妄執の雲の、塵積もつて(サシて正へ出ヒラキ)、山姥となれる(両手を大きく拡げ)、鬼女が有様、見るや見るやと(大左右正先へノリ込)、峰に翔り(飛返り雲の扇にて見上げ)、谷に響きて(扇を返して下を見回し)、今までここに、あるよと見えしが(立ち上がり角へ行き)、山また山に(脇座へ行きサシ)山廻り、山また山に、山廻りして(角より常座に到り小廻)、行方も知らず(ヒラキ)、なりにけり(右ウケトメ拍子)。

結局、山姥は自身による成仏の道を見つけられずに、ツレとの因縁に一縷の望みを抱きつつ四季折々の山廻り~輪廻の世界に戻って行きます。「廻り廻りて、輪廻を離れぬ」は「今ぞ輪廻を離れる」とも読めないでもないですが、やはりここは「離れ得ない、その妄執の雲が塵となって積もって山姥となった」と読むべきでしょう。すなわち山姥は自分がそこから離れたいと願った煩悩そのものが凝り固まって形をなした姿。。あまりにも悲しい結末です。

ここに到って、中入で間狂言が「山姥には何がなる」と言って、その組成を言い立てた事にも意味が出てくるようにも思えます。山姥はドングリやら木戸などという物質から出来上がったのではなくて、心。。煩悩から生まれ出た存在なのです。しかし「衆生あれば山姥もあり」。煩悩とはまさに人間が持つものなのであって、そう考えれば人間と山姥は表裏一体のもの、あるいは人間が生み出し、その負の側面を一身に背負った存在なのかも知れません。

山のかなたに飛び去るように姿を消す山姥。終盤の激しい舞の爽快感とは裏腹に、なんだか彼女の嗚咽が聞こえるような。。

                           【了】

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その21)

2007-12-14 00:53:01 | 能楽
「金輪際に・及べり」のところで左足で大きく踏む足拍子は『山姥』の後シテの型どころの一つで大変に有名な型です。地獄の、そのまた下の混沌とした闇の世界の奥底にまで響くように、なんて先輩は表現しておられましたが、これは足拍子の音の大きさではなくて、間合いの事を言うのでしょう。ぬえはすでに師匠の稽古も受け、先日は稽古能で『山姥』を舞いましたが、このときは大鼓が打つ頭に合わせて踏むこの拍子は。。大きく外れました。。もっともちょっと大鼓も早めに打ち過ぎたようだったから、この日は「引き分け」というところでしょうか(え? え? 勝負なの??)

さてようやく後シテは立ち上がり、舞い始めます。このあたり、最初は易しい文章で意味も通りやすいのに、だんだんと、やっぱり難解な法語が跋扈しはじめるのですよね~

地謡そもそも山姥は、生所も知らず宿もなし(左足拍子)、ただ雲水を便りにて(正へ出ヒラキ)、至らぬ山の奥もなし(打込、扇を開き)
シテ「しかれば人問にあらずとて(上扇)
地謡「隔つる雲の身を変へ(大左右)、仮に自性を変化して(左足拍子)、一念化性の鬼女となつて、目前に来れども(正先に打込ヒラキ)、邪正一如と見る時は(身ヲカヘ)、色即是空そのままに(ヒラキ)、仏法あれば世法あり(角へ行き小さく廻り正へ直し)、煩悩あれば菩提あり(左へ廻り大小前へ行き)、仏あれば衆生あり(正へサシツメ、右へ見回し)衆生あれば山姥もあり(ユウケン扇)、柳は緑(抱え込み扇)、花は紅の色々(正へヒラキ)。

このあたりからは、もう完全に山姥がツレに向かって自己主張をしている文言です。「隔つる雲の身を変へ仮に自性を変化して、一念化性の鬼女となつて目前に来れども」という山姥の言葉は意味が深く、思い返せば前シテで

シテ「さてまことの山姥をばいかなる者とか知ろしめされて候ぞ
ワキ「まことの山姥は山に住む鬼女とこそ、曲舞には見えて候へ
シテ「鬼女とは女の鬼とや、よし鬼なりとも人なりとも、山に住む女ならば、わらはが身の上にてはさむらはずや

と言っていたのが思い起こされます。ツレは山姥の事を「山に住む鬼女」と捉えていたのであって、前シテはそれに対して明確な反論をしていません。それがこの場面で山姥の定義がされるわけなのですが、これがまた。。要領を得ないと言うか。。

「仮に自性を変化して一念化性の鬼女となつて目前に来れども、邪正一如と見る時は、色即是空そのままに、仏法あれば世法あり、煩悩あれば菩提あり、仏あれば衆生あり、衆生あれば山姥もあり、柳は緑、花は紅の色々」

。。「鬼女」と見えた山姥のこの姿が、じつは「仮に自性を変化」したものに過ぎない、というのです。では山姥の本質は何なのか。ところが「邪正一如」「色即是空(空即是色)」。。ひとつの心や縁起によって物質は存在し、実体というものは存在しない。。そう考えれば万物の関係は相対的に存在を支え合っているに過ぎず、結局 輪廻の中に留まっている以上、実相というものは誰の目にも見えるものではない。。あ~~もう何が何やら。。

で、話題は変わって「仮に自性を変化して一念化性の鬼女となつ」た山姥が、それでは普段何をしているのか。これがまた、「鬼女」という定義が間違っている事を実感させる美談ばかりで、山姥の面目躍如たる場面です。

地謡「さて人間に遊ぶこと(七ツ拍子右へノリ)、ある時は山賎の(大左右)、樵路に通ふ花の蔭(角のあたりへ打込)、休む重荷に肩を貸し(ヒラキながら扇を右肩の前へ返し下居)、月もろともに山を出で(立ち上がり正へ少し出)、里まで送る折もあり(幕の方へ扇出し見)、またある時は織姫の(常座へ廻り込み)、五百機立つる窓に入つて(角へノリ込み拍子)、枝の鶯糸繰り(サシ廻シ)、紡績の宿に身を置き(左へ廻り笛座へ行き)、人を助くる業をのみ、賎の目に見えぬ(斜に出)、鬼とや人の言ふらん(左右打込)
シテ「世を空蝉の唐衣(ヒラキ、足拍子)
地謡「払はぬ袖に置く霜は(大左右)、夜寒の月に埋もれ、打ちすさむ人の絶間にも(正先に打込ヒラキ)、千声万声の(七ツ拍子正へノリ)、砧に声のしで打つは(右に外し打合)、ただ山姥が業なれや(ツレへ向き)

あるときは重い薪を背負って山路を行き疲れた賤しい山人の助けをして重荷を背負って里まで送り、またあるときは織女の部屋に窓から忍び入っては、柳の細枝を飛び回る鶯のように糸を操って手助けをし、それでも山姥の姿は人には見えない。だから不思議なこれらの助力を、人は「鬼の仕業」と言うのであろう、と。

さらに、忙しく立ち働く山姥はその袖を払おうともせず、そこには自然と霜が降りてくる。その白さも目立たないほど月が煌々と照る寒い夜にも、砧を打つ女が打ち疲れて手を休める間にも、それでも槌打つ響きが聞こえるのは、やはり山姥が彼女を手伝っているから。

地謡「都に帰りて世語りにせさせ給へと(常座よりツレへ胸ザシ、ヒラキ)、思ふはなおも妄執か(正へサシ)、ただうち捨てよ何事も(角へ行きカザシ扇)、よしあしびきの山姥が、山廻りするぞ苦しき(大小前にて左右、ツレへ向き)。

山姥の物語は終わりツレに「都に帰りて世語りにせさせ給へ」と言いながら、そこに現れたある種の自尊心のようなものに気づく山姥。前シテがツレに言っていた「今日しもここに来る事は、わが名の徳を聞かんためなり」という言葉も、「わらはが身をも弔ひ、舞歌音楽の妙音の、声仏事をもなし給はば、などかわらはも輪廻を免れ、帰性の善所に至らざらん」という善心から絞り出された言葉というばかりではなかったのかも知れません。「年頃色には出ださせ給ふ、言の葉草の露ほども、御心には掛け給はぬ、恨み申しに来りたり」。。この言葉は。。やはり妄執というほかないのかしら。

「ただうち捨てよ何事も」。。自分に向かって発せられたこの言葉こそ、自分からは抜け出す事が到底叶わない山姥の苦悩、それこそ絞り出された言葉でしょう。山姥は悩んでいた。悩みながら煩悩から抜け出せない、彼女はまさに「衆生あれば山姥もあり」という通り、「鬼女」でもあろうけれども衆生=「人間」と等しく、人間と支え合って初めて実在する存在だったのです。

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その20)

2007-12-13 00:43:15 | 能楽
この「次第」の文句、「よし足引の山姥が山廻りする」は前シテも言及していますが、ここではその末尾は「山廻りするぞ苦しき」と言っていますね。「苦しき」という表現はどうもツレが曲舞に作って評判をとった「山姥の歌」としては不似合いであるように思いますし、この言葉は「謡ひ給ひてさりとては我が妄執を晴らし給へ」とツレに言うシテの言葉によく合致します。ぬえは、ここは山姥、つまり後シテの言葉だと解しておきたいと思います。ツレが謡い始めると、すぐに山姥がその言葉を引き取って、「まことの山姥」の説明をはじめた、と思うのです。

かと言って、ツレはほんの1~2句だけを謡ったに過ぎず、残りはすべて山姥の言葉か、というと、どうもそうとばかりは言い切れないようにも思えます。

(クリ)
シテ「それ山といつぱ塵泥より起こつて、天雲掛かる千丈の峰、
地謡「海は苔の露より滴りて、波濤を畳む万水たり。
(サシ)
シテ「一洞空しき谷の声、梢に響く山彦の、地謡「無声音を聞く便りとなり、声に響かぬ谷もがなと、望みしもげにかくやらん、

ここまではツレの言葉と考えることもできますし、どうやらシテとツレの二人の言葉は互いに唱和しながら、だんだんとシテの言葉の比重が重くなってくる、という構造なのではないかしらん。型としてはシテは鹿背杖を扇に持ち替えて、クリの間に舞台の正中で床几に掛けます。すでに山姥が一人語りをする、という姿で、サシのトメにはツレへ向く型があるから、ここでは完全にシテがツレに対して物語を語っています。これがどこから始まると考えれば良いのでしょうか。やはりサシの中盤の次の言葉からだと考えるのが自然でしょう。

シテ「殊にわが住む山家の景色、山高うして海近く、谷深うして水遠し 地謡「前には海水瀼々として、月真如の光を掲げ、後には嶺松巍々として、風常楽の夢を破る シテ「刑鞭蒲朽ちて蛍空しく去る 地謡「諌鼓苔深うして、鳥驚かずともいひつべし。

ちなみにクリ~サシ~クセは非常に難解な文章で、ぬえの知識では追いつかない部分も多いです。。いろいろと調べてもみたのですが、その説明はあまりに煩雑になるので、小学館の日本古典文学全集『謡曲集(2)』から、難解な部分だけ現代語訳を抜粋しておきます。

サシ「中のうつろな洞穴に似た、閑寂な谷。そこでの物音は、梢に響いて山彦となって返って来る。これは、声なき声を聞くよすがとなるのであって、かつて古人が『声を出しても響くことのない谷がほしいものだ』と望んだというが、それもきっとこのようなことなのだろう」

次の「山高うして海近く、谷深うして水遠し」は面白い表現ですね。(以下は ぬえ訳)「山が非常に高い標高であるため、遠くにあるはずの海もまるで眼下にあるように近く見える」「一方その山の稜線を切り裂く谷は断崖の装いで、その底に流れる谷川の水は、海よりはずっと近いはずなのに遙かに遠くの奥底にある」。

「前には海水瀼々として月真如の光を掲げ、後には嶺松巍々として風常楽の夢を破る」は「前に見える海には月光が照り返り、仏法の真理の普遍性を現すよう。一方後ろにある険しい峰では松を吹きすさぶ風の音が悟りの平安を願う夢を覚ますようだ」

「刑鞭蒲朽ちて蛍空しく去る。諌鼓苔深うして鳥驚かずともいひつべし」は「刑罰に使う鞭の穂も使われずに朽ちて蛍が去来し、悪政を諫める太鼓も打たれずに苔が生え、鳥がその音に驚くこともない」の意。善政・平和のたとえとして『和漢朗詠集』に載る詩ですが、ここでは閑寂なさまを表現したいのでしょう。文意としてはここは少しちぐはぐな感じは否めませんけれども。。なお「刑鞭」がなぜ「蒲」なのかは、罪人を打つ鞭の穂にやわらかい蒲を鞭に使い、それさえも使われずに朽ちた、という、後漢時代のやはり平和な世のたとえの別の言葉「刑鞭蒲朽」が混じり込んでいるから。また「諌鼓」も中国の話で、帝王が門に設置した太鼓。間違って悪政を行って人民が苦しむときは、自由にそれを打って自分に知らせるようにと気遣ったのです。もっともそのような帝王が悪政をするわけもなく鼓は苔むしたのだそうで、「鳥驚かず」というのも、使われない太鼓の中に巣を作った鳥も安心して住処とできた、という意味なのだそうです。

以下はクセの文章と型。ここも難解な語釈が主になってしまう事をお許しください。。

地謡「遠近の、たづきも知らぬ山中に、おぼつかなくも呼子鳥の、声凄き折々に、伐木丁々として、山さらに幽かなり(と上を見上げ)、法性峰聳えては(右まで見回し)、上求菩提を現はし、無明谷深きよそほひは(下を見込み)、下化衆生を表して(足拍子二つ踏み)、金輪際に・及べり(立ち上がり扇を返して下を見込み、大きく足拍子を踏む)

「伐木丁々として」は木こりが木を伐る音。「法性峰聳えては上求菩提を現はし」は「万物の実体そのもののように厳然とした様子でそびえ立っている峰々は、菩提を求めて修行する菩薩の精神を表し」、「無明谷深きよそほひは下化衆生を表し」は「深い谷は煩悩から逃れ得ない衆生の姿。同じく菩薩が教下済度の誓願を起こしたまさにその対象」。「金輪際に及べり」は「その深い谷は無限に深いといわれる地下の最下層にまで及ぶ(=菩薩の誓願も際限なく及ぼされる)」。

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その19)

2007-12-12 02:01:39 | 能楽
舞台に入ったシテはツレと問答を交わします。

ツレ「恐ろしや月も木深き山陰より、そのさま化したる顔ばせは、その山姥にてましますか
シテ「とてもはや穂に出で初めし言の葉の、気色にも知ろし召さるべし、我にな恐れ給ひそとよ(とツレへツメ)
ツレ「この上は恐ろしながらうば玉の、暗紛れより現はれ出づる、姿言葉は人なれども
シテ「髪には棘の雪を頂き(と替エに左手で頭をサシ)
ツレ「眼の光は星の如し
シテ「さて面の色は
ツレ「さ丹塗りの
シテ「軒の瓦の鬼の形を(と右へウケ上を見上げる)
ツレ「今宵初めて見ることを
シテ「何に喩へん
ツレ「古の(とツレへ向きツメ)

ツレは。。怖がっていますね~。そりゃ当たり前。「姿言葉は人なれども髪には棘の雪を頂き、眼の光は星の如し、さて面の色はさ丹塗りの軒の瓦の鬼の形」。。ははあ。。山姥のお顔は真っ赤な鬼瓦なのですか。。ショック。でも、シテの「我にな恐れ給ひそとよ」という言葉を受けたツレの返事が「この上は恐ろしながらうば玉の。。」という言葉だったりするのを聞いていると、なんだか山姥もかわいそうに思えてきます。

ところでこの問答のところ、他のシテ方のお流儀と比べて、観世流はシテに型が多いのだそうですね。本当に忙しいのはこの問答が終わって地謡が謡い、さらにそのあとに再びシテとツレが問答をする場面だと思いますけれど。。それでもこちらの問答でも、「おどろの雪」と左手で頭をサス型(もっとも ぬえの師家の型附ではこれは替エということになっていて、通常の型はツレを向くだけですが。。しかし頭をサス型をしないシテは見たことがないと思います)や、「軒の瓦の」と右上を見上げる型など、問答の中でシテが謡う一句ごとに具体的な型がつけられているのは珍しいと言えると思います。

地謡「鬼ひと口の雨の夜に(据え拍子)、鬼ひと口の雨の夜に、神鳴り騒ぎ恐ろしき(正へ出ヒラキ、または先まで出て足をトメ)、その夜を、思ひ白玉か(七ツ拍子正へノリ)なにぞと問ひし人までも(ヒラキ)。わが身の上になりぬべき(左へ廻り)、憂き世語りも恥かしや(シテ柱にてツレへ向きツメ)、憂き世語りも恥かしや。(正へ直し)

問答が済むと地謡が謡い出し、シテは一連の型をします。型附ではその終わりに「憂き世語りも恥かしや」と正へ直して“面を伏せる”ように書いてありますが。。この型は今回は致しません。なぜなら、この地謡の文句は(それと、その前のシテとツレの問答の「この上は恐ろしながら。。」以降は)シテの言葉ではないからです。これはどう考えてもツレの言葉。

「わが身の上になりぬべき」というのは、女と逃避行をした男が、雷が轟き大雨が降ってきたので「あばらなる蔵」に女を休ませたところ、その夜女が鬼に喰われてしまった、という話を載せる『伊勢物語』六段をふまえたもので、「鬼ひと口の雨の夜に神鳴り騒ぎ恐ろしき」は『伊勢物語』の情景そのもの、「その夜を思ひ白玉か、なにぞと問ひし人」という文言は、翌朝女の姿が消えた事を発見した男が詠んだ和歌「白玉かなにぞと人の問ひし時 露ぞとこたへて消えなましものを」を指しています。失せた女は上臈であったため、男に背負われて芥川を渡ったとき、草に置く露を見て「かれは何ぞ」と男に問うたのです。

この物語をふまえたものであれば「憂き世語りも恥かしや」というこの部分の文言は「憂き世に生きる自分が精霊たる山姥に身の上話をするのは恥ずかしい」というような意味ではなくて、『伊勢物語』で死んでしまった女の運命が今まさに「わが身の上になりぬべき」と直感して、その死が巷間に流布して「憂き世語り」となってしまう事を恥じたのです。この場面で面を伏せるのはシテではなくツレであるべきでしょう。

この地謡のあと、再びシテとツレは問答を交わしますが、ここは少し解釈が難解な部分でもあり、また前述のようにシテの型が忙しい場面でもあります。

シテ「春の夜のひと刻を千金に替へじとは、花に清香月に陰、これは願ひのたまさかに、行き逢ふ人の一曲の、その程もあたら夜に、はやはや謡ひ給ふべし(ツレへツメ)
ツレ「げにこの上はともかくも、言ふに及ばぬ山中に
シテ「一声の山鳥羽を叩く(右へウケ両手を打ち合わせ)
ツレ「鼓は滝波
シテ「袖は白妙(左袖を出して見)
ツレ「雪を廻らす木の花の
シテ「難波のことか
ツレ「法ならぬ(ツレへツメ)
地謡「よしあしびきの山姥が、よしあしびきの山姥が、山廻りするぞ苦しき(正へヒラキ)

「春宵一刻値千金」と言われるのは花に馥郁たる香りが、月に美しい光があるから。今はツレと会う事ができてその歌を聞けるという遇いがたい偶然によっ山姥の願いが叶う瞬間である。しかしその時間も限られている。はやく謡って聞かせてください。。「あたら」は「惜しむべき」の意。そのあとは和歌をふまえながら、ツレが謡い出すさまを表します。「袖は白妙」もツレの衣裳の事だから(=この部分だけツレが舞っているらしい表現が出てくる)、シテが自分の袖を見るのは やはりおかしいのですが、前シテが「夜すがら謡ひ給はば、その時。。移り舞を舞ふべし」と宣言しているので、なんとか辻褄は合います。実際、地謡が謡う「よしあしびきの山姥が。。」の部分は前シテの言葉にもあって、これがツレが謡い出した冒頭の歌詞だと理解できるのに、続くクリ・サシはツレが謡った文句か、それともシテ山姥がツレの歌を引き継いで「まことの山姥」について説明しているのか不分明です。

「移り舞」と言うからには、ツレの歌を遮ってシテがそれに修正を加える、というよりは、その歌にシテが共鳴して行って、「まことの山姥」を説明する事に自然に移行していった、と考えるのがよいのでしょう。

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その18)

2007-12-11 23:53:41 | 能楽
後シテは鹿背杖を右につきながら登場します。。が、面白いのはその鹿背杖を、シテが右足を踏み出すときにつくよう型附に定められていました。これは突き杖~『藤戸』の後シテや、いくつかの尉姿の前シテなどが右手に持ち垂直についている細い竹杖~のつき方とは逆で、突き杖は左足を踏み出すときに右側に突くことになっているのです。もっとも、もとより ぬえは鹿背杖をついて出る役は初めてなので、ほかの曲も同じなのかはわからないのですが。。

後シテは一之松で正面を向き、二足ツメて謡い出します。これがまあ謡曲の中でも白眉の超名文です。

シテ「(面を伏せ気味に)あら物凄の深谷やな、あら物凄の深谷やな。(面を上げ)寒林に骨を打つ、霊鬼泣く泣く前生の業を恨む、深野に花を供ずる天人、返す返すも幾生の善を喜ぶ(と二足ツメる)、いや(と右へウケ)、善悪不二、何をか恨み、何をか喜ばんや(と正面へ向く)、万箇目前の境界、懸河渺々として、巌峨々たり(と前に鹿背杖を突いて左手を添え胸杖をする)、山また山、いづれの匠か青巌の形を削り成せる(と上を左右に見渡す)、水また水(と左にトリ)、誰が家にか碧潭の色を染め出だせる(と杖を突きながら舞台常座に正面向き入る)

「寒林に骨を打つ霊鬼、泣く泣く前生の業を恨む」「深野に花を供ずる天人、返す返すも幾生の善を喜ぶ」の「寒林」「深野」はともに墓場のことで(もっとも「深野」は正確には語義未詳で、『平治物語』にほぼ同文の例が見え、それには「温野」とあるので同意の語かあるいは誤写の可能性も考えられる)、文意は「死後に地獄に堕ちた鬼は自分の墓場に立ち戻ってみずからの死骸に鞭打ち、泣く泣く前世に犯した悪業を後悔する。また死後に天上界に昇った天人はみずからの死骸に花を供え、幾たびもの前世に善業を重ねた事を喜ぶ」というもの。なんとも凄まじい文章ですね。

輪廻の輪から抜け出せないで何度も何度も生まれ変わる我々は、たった一度の前世の悪業によって死後に鬼と変じ、一方 天人となるためには幾たびも幾たびも「幾生の善」を積み重ねなければならない。。「前生」「幾生」という、たった一字の違いがこれほどの含蓄を持つとは。は~~考えさせられる文章です。

続く「いや善悪不二、何をか恨み何をか喜ばんや」は言葉通りの意味で、仏教でいう悟りの境地のうえでは「善悪一如」ということなのですが、じつはこれも世阿弥が『風姿花伝』の中で引用している経文の句「善悪不二、邪正一如」の中にもに現れ、さらに『山姥』のクセの中では「邪正一如と見るときは。。」とあって、この句は分割されて『山姥』の曲の中にどちらも登場しています。

非常に哲学的で思索的な内容から、山姥の観察は目前の景色に移ります。「万箇目前の境界、」は「万物は目前に実存する」の意、「懸河渺々として」は急流が果てしもなく流れ去る様子、「巌峨々たり」は岩山が険しくそびえ立つさま。「山また山、いづれの匠か青巌の形を削り成せる、水また水、誰が家にか碧潭の色を染め出だせる」も詩的で大変すぐれた文章ですが、じつはこれも『和漢朗詠集』からの引用です。「碧潭」は「青々と澄んだ深い淵」の意。

この後シテが登場して謡う一連の文句は、経文や先行文学作品から あちこちと引用していながら、それが見事に統一感を持って共鳴し合っているのがすばらしいと思いますね。また「霊鬼」「天人」という想像の世界から「善悪不二」という思索におよび、さらに眼前の深山幽谷の場面に自然に目を移してゆく計算。この場面に漢文調の文章をたくみに組み合わせる事によって、お客さまの想像の中に自然に水墨画が浮かぶように設計さえ施されてありますね。。 ともかく凄い文章で、ぬえは初めてこの文を読んだときは鳥肌が立ちました。。

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その17)

2007-12-10 22:35:10 | 能楽
おワキの「待謡」、それに続いて打たれる激しい「頭越一声」。そしてその「越之段」の後にシッカリと打たれる「二段目」の特定の手組を聞いて、後シテは幕を揚げて登場します。

後シテの面装束は、面=山姥、山姥鬘、無紅鬘帯、着付は無地熨斗目または無紅縫箔、半切、無紅腰帯、無紅厚板(壺折に着付ける)というもので、鹿背杖を右手に突いて出、後に山姥扇を使って舞います。

問題は山姥鬘で、これを中入の短い時間で着けなければならないことです。能で使う鬘は頭にスッポリとかぶるものではなく、上演のたびに櫛を使って頭に結い着けるものなのです。普通の能では、前シテが鬘を結って登場する役である場合は、後シテでは装束は着替えても鬘はそのまま替えずに出るか、もしくは大概は鬘よりもずっと簡単に頭に着けられる仮髪の類~たとえば白頭や赤頭などの頭(かしら)の類とか黒垂、白垂という垂(たれ)の類を着るのが普通で、それは上演前に十分な時間的な余裕をもって着付ができる前シテと比べて、後シテは中入の間の限られた時間で着替えを済ませねばならないからです。

ところが『山姥』では、前シテは深井か曲見の面を着けるので中年あたりの年齢の女性の役、後シテは文字通り山に住む姥、すなわち老女の役で、前シテで使った黒々とした鬘を使うわけにもいかず、山姥鬘という、通常の鬘と形は同じで茶色味の勝った鬘を使うのです。で、これを中入の間に後見が結い上げるのですから、これは大変なことです。それに、まことに皮肉というか。。『山姥』の中入、すなわち前シテが幕の中に退場してから後シテに扮装を改めて再登場するまでの時間は、通常の能よりも若干短いんですよねえ。。

もとより、『山姥』に限らず中入の楽屋は戦場のような忙しさで、後見の手際の良さのワザが光る場所でもありますし、また入門間もない内弟子が邪魔な行動をして怒鳴りつけられるのも、たいがいこの場面。(^◇^;)

しかし『山姥』の中入はちょっと別格に忙しいかもしれません。能の曲の中で、後シテで鬘を結い上げる曲はそうそうはありません。たとえば老女能ではほとんどの場合 中入で老女鬘を着けるので、これまた中入で鬘を結うのですが、老女能ともなると中入の間に語られる間狂言の「語リ」も、しっかりと位をとって語られるので、時間的な余裕はまだあるのです。ところが『山姥』はそうはいかない。。

ぬえは今回の『山姥』ではシテを勤めるので、着付けて頂く側なのですが、後見の腕の見せ所でもあるこの『山姥』の後見は。。ぬえ、あんまりやりたくない役だなあ。。(;.;) もっとも『山姥』の後見はそれほど大変なので、山姥鬘を制限時間内に結い上げるコツや仕掛けも、能楽師は工夫してはおります。しかし、もちろんの事ながら、後見は中入の間に後シテの鬘だけではなくて装束も着付けなければならないし、さらにその上で鏡之間にシテをお連れして、面を着ける十分な時間がなければなりません。

鏡之間では床几に掛けた後シテが面に対峙し、面を掛けるのを後見はお世話をします。この時に後見は、着付ける際に見落とした装束の乱れがないかも同時に気を配ります。さてお舞台ではおワキが待謡を謡われる頃、後シテは床几を離れて立ち上がりますが、その刹那、後見は電光の早技で装束の着付の最後の手直しをする事ができます。待謡の直後、笛が「ヒシギ」という鋭い譜を吹いて、これを合図にシテは幕に掛かりますが、もうこうなったら原則的に後見はシテに触れてはならない、とされています。

シテはお囃子方が打つ「一声」を聞きながら、すでにその演奏の中に気分を集中させているからで、まあ、それでも よほどおシテの装束の着付に見苦しい点があれば、仕方なく後見は手直ししたりする事もないわけではないですが、これでは後見の仕事としては、まあ。。成功とは言えないですね。

かくして後シテは準備万端、幕から登場します。