ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

絢爛豪華な脇能『嵐山』(その4)

2008-07-31 23:37:54 | 能楽
尉の出で立ちは
面=小尉、襟=浅黄、尉髪、着付=小格子厚板、白大口(ナシにも)、水衣、緞子腰帯、尉扇(ナシにも)、萩箒または杉箒(ナシにも)…替エとして杖をついて出る型もあり。
また姥の出で立ちは
面=姥、姥鬘、無紅鬘帯、襟=朽葉、着付=姥着箔、無紅唐織、水衣、杉箒(ナシにも)

。。面や着付は脇能の尉の役の典型で、出で立ちによって一見してすぐに『嵐山』と、他の曲と区別してわかる程の特徴はありません。ところが持ち物については不思議で、これほど多岐に渡って持ち物の選択肢がある能は珍しいと思います。

萩箒、または杉箒、あるいはナシにもとは。。萩箒は、現代でも普通に見かける竹箒と同じ姿をしていて、ただし柴を束ねて作ってあります。能『田村』の前シテが携えて出る姿が有名ですね。一方の杉箒は、これは萩箒とはまったく違った形をしていまして、身長ほどの長い竹の柄の先に、杉の葉を集めて団子状にまとめたものを取り付けた箒です。『高砂』の前ツレの姥がかついで登場するのが有名でしょう。こうして見ると、同じ箒でも萩箒と杉箒ではまったく長さが違いますし、もちろんシテがそれぞれの箒を携える方法も変わってきます。」いわく萩箒は右手に提げ、杉箒ならば右の肩に担いで登場するのです。

これほど、持ち物によって登場するシテの姿がガラッと変わって見えてしまうというのに、その他の選択肢にナシにも、というのがあるのがスゴイ。。その時は尉扇を持って出るのでしょうが、ここまで出で立ちが違うと、もはやもう別人のように印象が違って見えるはずです。桜の木を掃き清める老人、という設定ならば萩箒か杉箒か、どちらかに扮装が固定されている方が混乱を防げたのではないかな、とも思います。

ところが、あまつさえ ぬえの師家の型附では「杖をついて出る型」も記載されていました。もうここまで来ると何が何やら。。 良く言えばシテを勤める役者に対して、演じるシテの役柄のイメージに幅を持たせて任せてある、とも言えるでしょうが、作者のビジョンとしての前シテの姿とはいったいどれだったのでしょうかね。。?

また姥も装束は典型的なものなのに、持ち物が杉箒か、またはナシにも、ということになっていますね。シテが杉箒を持てばツレと同じ持ち物にして統一感を作り上げることもできるでしょうが、それにしても登場したシテとツレの姿だけで、持ち物の相違によってじつに8通りの出で立ちがあるのです(シテ4種×ツレ2種の持ち物のバラエティがある)。これはちょっと他の能では見たことがありません。

ともあれ、前回ご紹介した句を謡うと、シテとツレの二人はスルスルと舞台に入り、ツレは正中、シテは常座に止まります。

シテ「これはこの嵐山の花を守る。夫婦の者にて候なり。
シテ、ツレ「それ圓満十里の外なれば。花見の御幸なきまゝに。名におふ吉野の山桜。千本の花の種とりて。この嵐山に植ゑおかれ。後の世までの例とかや。これとても君の恵みかな。
シテ、ツレ「げに頼もしや御影山治まる御代の春の空。
シテ、ツレ「さも妙なれや九重の。さも妙なれや九重の。内外に通ふ花車。轅も西にめぐる日の影ゆく雲の嵐山。戸無瀬に落つる白波も。散るかと見ゆる花の瀧。盛り久しき景色かな 盛り久しき景色かな。

シテとツレは向き合って上記の長い謡を謡い、その最後に位置を入れ替わってシテは正中へ行き、ツレは常座より角へ出ます。このときツレは後見に持ち物(杉箒)を渡すことになっており、以下ツレは手ぶらになります。

絢爛豪華な脇能『嵐山』(その3)

2008-07-30 03:31:13 | 能楽
笛の鋭いヒシギの音のあと大小鼓が厳かに打ち出して、颯爽としたワキの登場から一転、厳粛な雰囲気の「真之一声」が演奏されます。「真之一声」は「真之次第」と同様、脇能に専用の前シテの登場のための囃子です。脇能以外では唯一の例外として『松風』のシテ・ツレの登場にも演奏されますが、少しく手組は変化をつけられていて、やはり脇能が本義の囃子であることは間違いありません。

「真之一声」は「真之次第」と同様に五段構成ですが、少し複雑になります。まず初段・二段が演奏されたあとに「越之段」と呼ばれる小段があり、さらにシテ方観世流の場合のみそのあとに「空段(そらだん)」と呼ばれる、小段としてはノーカウントの“準小段”のようなものがあります。ここまでがすべてプロローグで、役者はまだ登場しません。それから三段目、いわゆる「出の段」とも呼ばれますが、シテとツレが登場する小段となり、シテ・ツレの二人が橋掛りの一之松と三之松にそれぞれ止まって向き合ったところで「静メ頭」と呼ばれる最後の段があって、この中でシテとツレは囃子の手組に合わせて一足だけ足遣いをするところがあります。これが終わってようやく謡い出し。

なんとも儀式的で長大な登場音楽ですが、これも現在では省略されて「初段(打出し)」「出の段」「静メ頭」の三段構成で上演されるのが普通です。

シテ、ツレ「花守の。住むや嵐の山桜。雲も上なき梢かな。
ツレ「千本に咲ける種なれや。
シテ、ツレ「春も久しき景色かな。

シテとツレが謡い出してからも定型の文字数による儀式的な謡が謡われます。すなわちシテとツレの同吟で五・七・五・七・五の三句を謡い、そのあとツレが囃子の手組のキッカケを聞いて七・五の文字数の一句を謡い、さらに再びシテとツレの同吟で七・五の一句。これらはすべて「真之一声」のあと役者が必ず謡う文句で、ここに打たれる囃子の手組も固定されています。言い換えれば、この儀式性ゆえに演出も規定されてくる、という事もあります。たとえば「真之一声」で登場するシテは必ずツレを伴わなければならないのです。それは上記の通りツレが謡う箇所も想定されたうえで囃子の手組が定められているからで、面白い例としては、本来脇能でない曲が「略脇能」として番組の初番に据えてもよい、とされている曲がいくつかあって、そのうち『右近』は「略脇能」として上演して前シテの登場が「真之一声」になる場合は非常に演出が替わります。すなわち常はシテのほかに2~4人のツレが登場して、あらかじめ舞台に出された車の作物にシテが乗り、ツレはその周囲に立つのに対して、脇能扱いとして上演して前シテが「真之一声」で登場する場合は、脇能に準じてシテはツレ一人だけを伴って登場して、橋掛りで二人向き合って謡い出すのです。

このように万事儀式性を重んじるのが脇能の一つの特徴で、そのために節々で、ほかの曲では行われない“小さな儀式”が頻繁に演じられ、演奏されるゆえに、簡潔なストーリーと比べて上演時間が長大化する、という事もあります。もっとも能楽師の中には「そこがいい」と思っている人は意外に多いんですよ。一見無駄な“儀式”が積み上げられて、それが故に荘重であるからこそ脇能、という思いなのでしょう。

ともあれ。『嵐山』の前シテは「尉(じょう)」即ち老人で、ツレに姥(うば)と呼ばれる老婦人を従えています。

絢爛豪華な脇能『嵐山』(その2)

2008-07-29 09:22:44 | 能楽
舞台の中に向き合ったワキとワキツレは「次第」という三句からなる定型の謡を謡います。

ワキ、ワキツレ「吉野の花の種とりし。吉野の花の種とりし。嵐の山に急がん。

「次第」は「次第」または「真之次第」で登場した役者が必ず冒頭に謡う七・五文字の三句(曲により多少の字数の増減あり)の定型の謡です。このあとにすぐ地謡が同じ文句を低吟する「地トリ」が続きますが、「真之次第」で登場したワキの「次第」を受ける場合は、さらに「地トリ」のあとにワキが再び同じ文句を繰り返して謡います。これを「三遍返シ」と呼び、脇能では必ず演奏される演式であるほか、『道成寺』や『三輪』などの、シテが次第で登場する重い曲にさらに小書が付けられた場合にはシテの「次第」謡が三遍返シにされる事もあります。

三遍返シが終わったところでワキは正面に向き、自己紹介である「名宣リ」を謡います。

ワキ「そもそもこれは当今に仕へ奉る臣下なり。さても和州吉野の千本の桜は。聞しめし及ばれたる名花なれども。遠満十里の外なれば。花見の御幸かなひ給はず。さるにより千本の桜を嵐山に移しおかれて候間。此春の花を見て参れとの宣旨を蒙り。唯今嵐山へと急ぎ候。

名にし負う桜の名所の大和国・吉野の千本(ちもと)は遠方で、天皇が花見に出かけるわけには行かず、そのため千本の桜を京都の嵐山に植え移し、今は桜の季節なので、花の咲き具合を確かめに勅使を派遣した、ということですね。いや何とも泰平の時代をそのまま表したような平和な光景です。しかもその時代とは「当今」(とうぎん)つまり過去の時代を特定せず「現在」と言っているのです。

このへん、すでに『嵐山』という曲を読み解くキーワードかもしれません。『嵐山』の作者は金春禅鳳(1454-1532?)で、彼は禅竹の孫にあたります。彼の残した作品は『嵐山』のほか『一角仙人』『東方朔』(あ、これはどちらも昨年の狩野川薪能で上演した曲だ!)『生田敦盛』などで、同時代の役者としては彼の少し先輩で『玉井』『船弁慶』『紅葉狩』『羅生門』『張良』などを作った観世小次郎信光(1435-1516)がいます。作物を多用したり派手な演出の能を生み出した両巨頭がこの二人で、時代はまさに応仁の乱がようやく収まった頃、日本史の中でとらえれば織田信長が誕生する直前で、まさに戦国乱世に突入する前夜の不安定な時代だったのです。

すでに朝廷や貴族階級、そして足利幕府の権威は失墜、ロマンチックな複式夢幻能の世界に夢心地に身をゆだねるような時代ではありませんでした。能も芸の大衆化を図ったのかこの二人に代表されるショー的な能が生み出された時代で、天皇が花見の準備に嵐山に勅使を差し向けるような、そんな悠長な「当今」ではありませんでした。

そんな中で書かれた能『嵐山』でワキが言及する“泰平の御代”。現代でこそ長閑なワキの登場場面ですが、そこにはこの能にこめられた作者の祈りのような気持ちがあるのではないかと思います。「名宣リ」を謡い終えるとき、ワキは両手を胸の前で合わせる「立拝」とか「掻キ合セ」と呼ばれる定型の型をし、ワキとワキツレは再び向かい合って「道行」と呼ばれる小段を謡います。

ワキ、ワキツレ「都には。げにも嵐の山桜。げにも嵐の山桜。千本の種はこれぞとて。尋ねて今ぞ三吉野の。花は雲かと眺めける。その歌人の名残ぞと。よそ目になれば猶しもの。眺め妙なる景色かな。眺め妙なる景色かな。

「道行」は紀行文で、都、わけても御所を出発する勅使一行が嵐山に到着するまでが描かれます。現代でも京都駅から嵐山に至るのはやや距離を感じますが、当時は嵐山は都のそと。すぐそばにある嵯峨野は『平家物語』などでも人目を避けた人が隠遁生活を送るような片田舎でした。それでも、ほかの曲ではいろいろな歌枕となっている名所を過ぎながらワキ一行が次第に目的地に近づいてゆく様子が描かれるのに対して、さすがに『嵐山』の道行には都と嵐山との距離が比較的短いためか景物はほとんど描かれていませんね。

なお「花は雲かと。。」の文言について、桜の花 ~当時は背の低い山桜~が小山を埋めつくして群生している様子を遠山にかかる雲や春霞に見立てるのは、和歌世界では伝統的な手法で、古くは『古今集』の「仮名序」に「秋のゆふべ、龍田川に流るる紅葉をば、帝の御目には錦と見たまひ、春のあした、吉野の山の桜は、人麻呂が心には雲かとのみなむおぼえける」と見えます。もっとも実際には柿本人麻呂に吉野の山の桜を詠んだ歌は存在せず、『万葉集』には桜の歌はほとんど見出せません。桜は日本人とは切っても切り離せず、古典文学でも「花」という場合は基本的には「桜」を指しているのですが、それは『古今集』時代からの事だったりするんですね。和歌からはとくに多大な影響を受けている能の詞章の中には 花を雲に見立てる表現はかなり多く登場しておりますけれども。

「道行」の終わりの方でワキは正面に向き、3~4足出てくるりと後ろに向き、また数歩歩んで元の位置に戻ります。この型で彼が旅をしたことを意味し、舞台は都から嵐山へと移ったことになります。

ワキ「急ぎ候程に。これははや嵐山に着きて候。心静かに花を眺めうずるにて候。

正面に向いたワキは嵐山に到着した事を宣言し、しばらく花を眺めることにします。ワキツレも同意し、一同は脇座に着座し、いよいよ前シテの登場となります。

絢爛豪華な脇能『嵐山』(その1)

2008-07-28 13:14:09 | 能楽
来る8月23日(土)、静岡県・伊豆の国市で開催される『狩野川薪能』において、ぬえは能『嵐山』を勤めさせて頂きます。例によってこの能の見どころや、考えたことなどを書き綴ってみようかと思います。どうぞしばらくおつきあいくださいまし~

まずは舞台の進行について、順次ご紹介して参りましょう。

橋掛りからお囃子方が登場し、同時に切戸口から地謡が登場してそれぞれ所定の座に着くと、後見が幕から桜の立木の作物を持ち出し、正先に据えます。桜の作物は丸台に大きな桜の造花をくくりつけたもの。どうも観世流以外では一畳台に二本の桜の立木を立てたものを出すようですね。『石橋』と同じ感じになるので、これはさらに絢爛ですが、舞台が狭くなるので演者は大変でしょう。

また、観世流も『嵐山』には丸台に付けた桜の立木を出すわけですが、正先に立木の作物を出す場合、観世流では どちらかといえば角台である場合が多いように思います。もちろん舞台上での演技との関係で、たとえばシテが作物の向こう側を廻る『松風』や『胡蝶』、それから立木の作物のほかに井筒を出すため舞台が狭くなってしまう『玉井』には、必要のために丸台が使われたり、反対に装束とか小道具を作物に載せる『羽衣』や『九世戸』に角台を使うのは当然なのですが。。じつはその他の曲に出される立木の台の形が角であるのか丸であるのかを決める決定的な理由が、ぬえにはよく見出せていません。どちらかといえば角台が多いようには思うのですが、なぜ『嵐山』は丸台なんでしょう。。

もっとも、『嵐山』では後に子方が作物の左右から立木に向かって袖を掛ける型があるので、丸台の方が都合がよろしいですけれども。それだからといって、この型があるから丸台が選ばれているとはちょっと考えにくいですね。不勉強で申し訳ありませんが、これは宿題にさせてくださいまし~

さて舞台に作物が据えられて後見が退くと、大小鼓は床几に掛けて、すぐに「真之次第」と呼ばれる脇能専用のワキの登場音楽が演奏されます。

「真之次第」は別名「五段次第」と呼ばれて、大小鼓と笛によって演奏される勇壮・爽快な囃子です。「五段」と呼ばれるように五つの小段に分けることが出来て、その四段目でワキは登場するのが本来ですが、現在では省略されて、全体を三段構成にして、その二段目で幕を上げるのが通例です。ワキの登場の仕方も独特で、幕から姿を見せたワキは正面に向かって大きく伸び上がって袖を拡げ、それから橋掛りを歩み行きます。ワキツレもワキに従って登場し、さてワキが舞台常座に入ったところで囃子は段を取ります。舞台にて最後の小段を演じ、奏するわけですね。この小段をとくに「速メ頭(はやめがしら)」と呼んでいて、囃子はさらに急調になり、ワキはするすると脇座まで出て再び伸び上がり、そのときにワキツレも舞台に入り、常の次第のように一同向き合って「次第」謡を謡い出します。

『嵐山』のワキは「勅使」の役で、ワキツレはその随行員です。ワキは紺地の狩衣に白大口を穿き、大臣烏帽子をかぶり、その烏帽子には赤の上頭掛(じょうずがけ)と呼ばれる装飾の紐飾りが付けられています。ワキツレは俗に「赤大臣」と呼ばれるように赤地の狩衣に白大口、大臣烏帽子に付けられる上頭掛は萌黄色とされているようですが、流儀により違いがあるかもしれません。。

このワキとワキツレの姿は脇能の場合のワキ方の制服のようなもので、勅使でなくても、たとえば『高砂』のように神主の役でも同じです。もっともどうしてもそれでは不都合な役もあって、前記の『玉井』や『道明寺』のような例外もありますが。。

PR/【第9回 狩野川薪能】

2008-07-27 14:41:03 | 能楽

もう みなさまにはとっくにご存じと思われますが。(^◇^;)

来る8月23日(土)に静岡県・伊豆の国市で『狩野川薪能』が開催されます。

もう9年にもなるのですね~。ぬえは第1回目からお手伝いさせて頂いておりますが、囃子方・大倉流大鼓の大倉正之助さんの発案で始まったこの薪能、なんといっても最も注目すべきなのは、地元に伝わる民話をもとにした新作の「子ども創作能」が上演されることで、題材も地元民話なら、登場する役者もみんな地元の小学生。なんと囃子に合わせた地拍子謡をする地謡まで全員地元の小中学生です。

今年は、もうこれで4回目の上演となる『江間の小四郎』を上演しますが、この曲自体も毎年少しずつバージョンアップを図っておりまして、さらにこの薪能では以前に上演していた『城山の大蛇』に引き続いて第2作目の「子ども創作能」となります。

毎年、能なんてもちろん見たこともない小学生に演技指導をつけるのですが、冬から指導を始めてもう初夏になる頃にはみ~んな立派に役を勤められるようになっています。もう、その記憶力を ぬえにくれ~~!って毎年思いますね。今年はどちらかというと みんな恥ずかしがり屋なのか、ちょっと声が出ていない状況がずっと続いていますが、先日市内の小学校で行われた「古典芸能教室」という名の中間発表会ではじめて小学生のお客さんの前で演じてみて、それから少しずつみんなの意識も変わってきたように思います。当日の検討に期待。

また、今回子どもたちは大小鼓の連調(小2~4年)、笛の連管(小4~中2)、そして仕舞『吉野天人』(中学生)でも出演し、古典の曲目にも挑めるようになってきました。まあ、「子ども創作能」はどうしても小学生が飽きないようにチャンバラの場面を入れるのは鉄則で (^◇^;)、それだけに、そこだけを楽しんで伝統芸能のエッセンスに気づいてくれないのは困ります。薪能もだんだんと数を重ねるうちに、ぬえも古典の曲目にも挑戦してほしいと願っていましたが、ようやくここまでたどり着くことができました。もっとも ぬえは自身はおかげで連調・仕舞・子ども創作能と、舞台に出ずっぱりなんですけども。

さて子ども能のあと、第二部として、玄人の狂言と能も演じられます。ことに玄人能は ぬえがシテを勤めさせて頂いておりますが、毎年必ず子方が登場する曲目を選んでおりまして、これまた伊豆の国市の小学6年生の中から一人を抜擢して勤めさせています。今年の上演曲『嵐山』は。。じつは子方を見せるために選んだ曲でしたね。シテよりも子方の方がずっと目立つし。(;^_^A

毎年、このプロの能に交じって出演する子方の稽古では様々な人間ドラマが生まれます。当日までに必ず涙にくれる日が一度はある。。そして東京に来て真剣な目をしたおっかない大人(←能楽師 (^◇^;)に交じって臆せずに申合(リハーサル)を勤め、ついに当日は立派に役をこなすのです。ぬえはこの薪能で「人生」を学んでいます。小学生相手に? と笑うなかれ。だから ぬえはどうしても子方の出演する能を選ぶことだけは外せませんですね。

で、今年の『嵐山』。もうすでに これもみなさんお馴染みの(笑)綸子(りんず)ちゃんが子方の「勝手明神」を勤めます。彼女のことはもう何度もブログで紹介しているし、意外な反響も頂いております。薪能出演者の中でこのブログを読んでくださっている方の中には、ぬえが綸子ちゃんの事ばっかり書いてる! と思う向きもあるかも知れませんが、やはり今年の綸子ちゃんも大変な苦労をしました。何度も ぬえは厳しい事も言ったし。。「悪いけど、今日は0点だよ」まで言い放ちましたね。それを克服した綸子ちゃんは賞賛されてしかるべきと ぬえは思います。

ぬえが綸子ちゃんに課した課題は「子ども創作能」に出演する子の比ではなかったし、「一度お役を引き受けたら、もう後戻りはできないよ」という事を納得してもらってから稽古を始めたので、もう覚えるしかなかった。こんなに難しいの!?と思っても、もう「辞めたい」とは言えない。。「子ども創作能」のみんなが楽しんでいるときに、綸子ちゃんだけは一時はだいぶつらい顔つきをしている、という場面が続きました。でもその次の稽古にはまた笑顔で登場した綸子ちゃん。いまは、早く師匠にこの成果を見て頂きたい、と思うほど上達しました。正直に言って能楽師の子弟の芸と遜色がないレベルにまで到達した。これは薪能で地元の子どもを抜擢して以来、最高の仕上がりと思います。

あとは、安心してしまってその稽古の成果としてのレベルを下げないこと、ですね。もちろん、これからも ぬえは指導しますし、それは薪能の当日が近づいてきたらかえって厳しくなってゆくでしょう。でもまあ、彼女なら、やってくれるんではないかな、と思います。

どうぞ子どもたちの稽古の成果を温かい目で見守ってやってくださいまし~~

『第9回 狩野川薪能』
      平成20年8月23日(土)午後6時~8時半
      於・伊豆の国市 狩野川 城山河川敷特設会場
              (雨天時はオクシスかつらぎ=長岡総合会館)
【第一部】
 大小鼓連調『高砂』 … 地元小学生  謡= ぬえ、桑田貴志
 子ども創作能『江間の小四郎 ~波頭の出~』 大 蛇= 渡辺隆貴
                       小四郎= 安井千早
                       安千代= 川口真澄
                       従 者= 千賀朱夏・野口百夏
 仕舞『吉野天人』  … 地元中学生
 連管『中之舞』   … 地元小中学生

【第二部】
 狂言『蚊相撲』 シテ(大名) 三宅 右矩
         アド(太郎冠者) 大塚 出/小アド(蚊ノ精)三宅 近成

 能 『嵐 山』 前シテ(尉)/後シテ(蔵王権現) ぬえ
         ツレ(姥) 桑田 貴志
         子方(勝手明神/子守明神)増田綸子・八田和弥
         ワキ(勅使) 森 常好
         笛 寺井宏明/小鼓 久田舜一郎/大鼓 大倉正之助/太鼓 三島卓
         後見 梅若紀長ほか /地謡 中森貫太ほか

主催/NPO法人伊豆の国ルネサンス 狩野川薪能実行委員会
共催/伊豆の国市能友の会
後援/伊豆の国市 伊豆の国市教育委員会 伊豆の国市文化協会
   国土交通省中部地方整備局沼津河川国道事務所 静岡新聞社 静岡放送
   K-MIX ボイス・キュー 伊豆日々新聞 伊豆の国観光協会
舞台協力/茨城県明野薪能実行委員会
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◇全席指定 3,000円
◇チケット販売所 伊豆の国観光協会 TEL 055-948-0304
         大仁観光案内センター 0558-76-1630
  ※ ぬえ宛メールにてもお申込を受け付けます。良席が確保できるかも!

笑ってやがる!!

2008-07-26 11:25:35 | 能楽

東伊豆での結婚式のあと数日して、今度は先日催した千葉県・野田市での能楽講座の続編を行いました。

先日の能楽講座では、主に能面を見せたり装束を見せたり、はたまたビデオを使って1番の能がどのように進行するのか、楽屋話も交えながら、どちらかといえば舞台芸術としての能を見て頂くための講座で、これは年に1~2回のペースで行っていこうかと思っています。

それに対してこの時に行ったのは「和のおけいこ講座」と題しまして、謡曲や仕舞を実際に体験してみる講座です。まあ和のカルチャースクールといった趣でしょうか。こちらは毎月1回のペースで気長に続けて行こうと思っております。さて第一回目の今回は「高砂を謡ってみよう」として、謡曲『高砂』の待謡を学んで頂きました。

もちろん結婚式でなぜ『高砂』の「待謡」が謡われるのか、について ぬえが考えた強力な考察についてもお話してきましたよ~。これについてはブログに書きましたが、まず ぬえの考察で正解であろう、と自負しております。

「待謡」は節付けがとっても素直で、こういうときに割と気安く教えられる、というか、はじめて謡に触れる方にとってなじみがある、そして2~30分もあれば謡えるようになる小謡はとってもありがたい。そこから話を拡げていって、ツヨ吟とヨワ吟の違い。。ことに「メロディがない歌」としてのツヨ吟の存在理由みたいな話はまた参加者も喜んでくださったと思います。手軽に習える。でも奥は深そうだ。お稽古のはじめとしては理想的な形なのではないかな、と思います。

さらに話は広がって、『高砂』の作者・世阿弥の事や、『高砂』が古来 大切に扱われてきた曲である割に、脇能としてはかなり異質な曲であることなどもお話してきました。そして『高砂』といえば伝統的な祝言の結婚式。ぬえが聞いた各地での独特な『高砂』の謡われ方とか、能楽師の結婚式の様子なども少し紹介してみました。

なかなか面白い話題が『高砂』にはありますね~。あらためてこの曲について考えた1日でありました。次回は8月27日(水)の午前10時に「和のおけいこ講座」を開催します。次回のお題は「羽衣を謡ってみよう」。この曲にも、もう私たちが忘れ去ってしまった伝説が織り込まれています。白の天女と黒の天女とか。。面白い話題にご期待ください~ m(__)m

ところで先週 伊豆の国市で行われた「古典芸能教室」の写真が送られてきまして、それを見た ぬえは驚いた。「子ども創作能 江間の小四郎」の地謡の補助に座っている ぬえ。。

。。笑っていやがる!

地謡座で笑うなんて考えられない事だけれど。。まあ、子ども創作能ですから、普段の稽古とは違って緊張して登場してきた子どもたちを見てつい。。顔が崩れてしまったのね。。

会場も小学校の体育館で、お客さんもみ~んな小学生だったけれど。。ううむ、でもやっぱり舞台上のことだから気を付けよう。。でもやっぱり次回の稽古でも笑っちゃうんだろうなあ。。

ちなみにこの日はお囃子方も笑ってました~ (^◇^;)

能を舞った。海水浴もしました。(^◇^;)

2008-07-25 00:27:26 | 能楽
もう何日ぶりの書き込みだろう。。

このところ、なんとも殺人的な忙しさでして、あっちへ行ったりこっちへ来たり~。この2日間はなんとか時間が取れますが、週末はまた先輩の主催の薪能で新潟へ参ります。

この数日にもいろいろな事があったのですが、とくに印象深いのは東伊豆で結婚式に出演したことと、千葉県野田市で2度目の能楽講座を開催したことですかね~

東伊豆の結婚式は海に面した旅館が会場となりました。やはり海に面した露天風呂があって、ひゃ~こんなところでゆっくりしたいですね~。そういえば今年は夏休みはないけれども、伊豆の稽古には チビぬえも同行させる必要があるので、稽古のついでに伊豆ですこし遊ぶこともできるかも。なんせ ぬえ、伊豆には9年間も稽古に通っているのに、ほとんど観光というものをしたことがありません。信心は持っているので三島大社にはさすがに早い時期に行ったけれど、韮山の反射炉に行ったのは一昨年が初めて。頼朝が流された蛭が小島を訪れたのは去年。今年はようやく沼津市の柿田川湧水を尋ね、長岡の葛城山のロープウェイにも乗りました~。でも いまだに三島の佐野美術館にも、韮山の江川邸にも行ったことがありません。。自称=準・伊豆の国市民の ぬえとしては詰めが甘いな。。

ともあれ、東伊豆の結婚式では、チビぬえも三々九度のお酌役「雄蝶」のお役を賜り、また ぬえもちょっと考えるところがあって、今回は装束を着けて『羽衣』の一部を舞いました。いえ、略式の上演で、装束付「仕舞」という感じではありましたが。。いろんな意味で条件が厳しい状況で勤める事になりましたが、こういう場面でお役を勤める、その新しい局面を経験できたのはよかったかな~、と思っています。能楽師も舞台人である以上、能楽堂だけに縛られているのでは視野が狭くなる、ということもあるでしょう。昨今は多くの能楽師がいろいろな場所で能を啓蒙しようと活動しています。お客さまの手が届くような場所で身近に感じて頂けるような方法で上演することで、お客さまに喜んで頂けることをありがたいと思わなければいけませんですね。

しかしこの日の結婚式に参加したことで ぬえがもっとも印象的だったのは。。おひらきのあと海水浴をしたこと。。

連日の猛暑の中の結婚式だったのですが、事前にまあ「会場の旅館は海に面している」「お時間があったら海を一望できる温泉にど~ぞ~」ぐらいは知らされていたんですが、まあ ぬえが舞うことには直接は関係ない情報だったので、あまり気にも留めていませんでした。

がしかし。この結婚式の前日には伊豆の国市で「狩野川薪能」の稽古をしていた ぬえ。もうあまりの猛暑に汗まみれで。。そこに最後に届いた情報では「会場の旅館の前はすぐビーチなので、海水浴もしてお帰りになれますよ~」。。ううむ、ここに心が動いてしまいました。

この結婚式の翌日にも2箇所で稽古をする予定があった ぬえは披露宴のおひらきのあと、早々に東京に帰るつもりでいたのですが、ええと、ええと、新幹線を遅らせまして。。

ぬえ、さすがに略式とはいえ、装束を着て能を舞ったあとに海水浴をしたのは生まれて初めて。。(;^_^A

それから、海水を洗い流して旅館の温泉に浸かって。。ああ、ぬえ、何屋さんなんだらう。。(・_・、)

能楽協会東京支部主催「納涼能」

2008-07-19 08:37:38 | 能楽
昨日は、一昨日に引き続いて観世能楽堂で催された「納涼能」に出勤して参りました。

「納涼能」は能楽協会東京支部主催の催しで、今年でもう31回を数えるんですね。ずっと以前は日比谷公会堂が会場となっていましたが、現在は東京の能楽堂を持ち回りで巡回して会場としています。

そういえば学生時代も能楽師になってからも、ぬえも時々は日比谷公会堂で行われた「納涼能」を拝見に伺ったことがありますな~。と思ったら、楽屋でもやはり日比谷公会堂時代の思い出話に花が咲きました。現・能楽協会東京支部長の武田宗和さんは「その頃は楽屋のゴザ敷きから舞台設営、撤去までみんなで手伝ってね~。もう汗まみれで大変だったよ~」とおっしゃり、この日「ミニ能楽講座」の講師を勤められた観世喜正さんは「あ、私も中学生の頃は日比谷公会堂の催しにお客さんで行った事もありますよ~」なんておっしゃって。

能楽協会にはいくつもの支部がありますが、シテ方五流の宗家が全員揃って出演されるのは東京支部の「納涼能」だけなのだそうで、楽屋の中はたいへんな賑わいでした。あ、もちろん見所も満員御礼でございました~。

こういう催しは良いですよね。能楽師の友人、わけてもシテ方他流の友人とは、能楽師の結婚式とかお葬式、はたまた能楽協会の新年会ぐらいでしか、なかなか会う機会がありません。この日も、とくに金春流と喜多流の友達と久しぶりに会って談笑することができました。

それだけにとどまらず、他流の方の芸を揃って拝見できるのも、なかなかない機会です。仕舞ひとつを取ってみても、流儀によって作法が全然違っていたり、装束着けの方法も各流に独特の決マリや工夫があったり。今回は能は観世御宗家の『熊野』と、喜多流の『小鍛冶』が上演され、狂言には大がかりな作物が出される『花盗人』、そして宝生・金剛・金春の各御宗家のお仕舞が上演されました。装束着けといえば、喜多流の水衣の着付け方は独特で、この日も『小鍛冶』の前シテの童子役でその着付を見ることができました。

そして何といっても今回上演された能の興味は小書でしたですね。『熊野』には「読次之伝・村雨留・墨次之伝・膝行留」の四つの小書すべてが付けられました。これを楽屋言葉で「一式之習」などと呼んでいますが、たいそう豪華な演出になりました。ことに ぬえが思ったのは、「墨次之伝」の墨のつぎ方が、今回は2度だったことでしょうか。ぬえの師家では3度、とされていて、こんなところにも微妙な違いがあるのだな、と思ってみたり、このちょっとした演出が舞台上には割と大きな効果となって現れることにも驚かされました。それにしてもご宗家の掛けられた「若女」の美しかったこと!

また喜多流の『小鍛冶』には、同流の名物の「白頭」の小書が付けられていました。観世流の『小鍛冶・白頭』では前シテが尉に替わるのですが、喜多流では童子のままだったのが目新しかったですが、前シテは徹頭徹尾ドッシリとした位で勤められるのがまた印象的。そして後シテは有名な「狐足」という足運ビで演じられました。もうずっと以前になりますが、この喜多流の『小鍛冶・白頭』はテレビで放映されたことがあったのです。まだビデオもベータ方式が主流の頃ではなかったかと思いますから、ぬえも探せば録画があるかもしれませんが、もう古い話なので。。今回はそれを初めて実見する貴重な機会となりました。

今日からまた伊豆へ稽古に出かけ、今度はそれとは違う用事で伊豆に宿泊します~。なんだか忙しい夏じゃね。。

ああ、遙か彼方の観世能楽堂(注:東京ローカルネタ)

2008-07-18 02:34:27 | 雑談
やってしまいました。

今日は師家の月例会の催しで、東京・渋谷の観世能楽堂に出勤して参りました。

渋谷に行くならっ (^_^)b
そうだ、新しく開通した営団地下鉄。。もとい、東京メトロの「副都心線」があるではないか。
ぬえが住む東京・練馬区。。そう。23区内で唯一JRが走っていない、それが故か「東京22区」と蔑まれる練馬区の近所を通り、かの「副都心線」は埼玉県にまで通じているのです。ぬえも恩恵を蒙れるのです。

思えば遠い道のりだった。東京ディズニーランドが開業したときには千葉県に向けて。横浜みなとみらい地区が様変わりしてキレイになったときには神奈川県へ。さらに最近では湘南新宿ラインも、その視線は熱く神奈川県に注がれている。それらを横目で見ながら練馬区民は苦渋をなめていた。ようやく通った都営地下鉄12号線も、石原都知事の鶴のひと声で「大江戸線」と改名されました。おうおうっ、こちとら江戸っ子でぃ。東京22区だけどなっ

そんで、そんな練馬区の方面にも、ついに池袋・新宿・渋谷を直通する「副都心線」が開通したわけです。今日 ぬえがこれを利用するのはこれで3回目。。ただし、1回目ではしっかり渋谷駅の地下で迷子になりました。。

プロは同じ轍は踏まない。ぬえは万全を期して、胸高らかに、誇らしげに地下鉄駅を目指したのでした。

ぬえの自宅から一番近い「副都心線」の駅は。。そうだ「成増駅」だ。ちょっと遠いな。。待てよ、成増は練馬区じゃなくて板橋区。。いやいやっ、そんな些事に心を砕く場合ではない。あそこは練馬区。の、ちょっと先。それでいいではないか。ええと、その成増に行くには。。そうだ、近所のバス停からのバス利用だ。幸い、ちょっと前に必要があってネットでこのバス停の時刻表は入手してある。。これだ。ここにあった。ええと、あと30分後に来るバスに乗れば成増に着くのがこの時刻か。あとは直通で渋谷だな。ふふん。この時刻に渋谷に到着なら楽屋入り前にちょっとカフェでくつろげるな。よし、出発。

で、徒歩5分のバス停に着きました。。ふふ。。まだバスが来るまで余裕だ。それにしても暑いな。。まだ来ないかな。ちょっとバス停に掲示してある時刻表をチェック。

あれ? もう行っちゃった。。? なんで? 次は20分後。。? どして? 。。あれ。。この時刻表、やけに新しいな。。え? え? 6月26日時刻改正???? え? え?

ダメじゃん。すぐに ぬえは徒歩で自宅に引き返して自転車に飛び乗り、成増駅へと向かいました。ふうふう。

いや、でもまだ渋谷到着には余裕だ。ちょっとカフェの時間を切り詰めなきゃいけないな。。よし! 着いた。すいすいと、ここは何事もなくPASMOを使って改札をクリア。よし。次に来る地下鉄は何分後かな。。かな。。かな。。? 。。ない。渋谷行きを示すホームへの表示がない。。

あ。。ここは東武東上線の成増駅だ。(←ばか)

駅員さんに謝ってPASMOの改札記録を抹消してもらって、また自転車に乗って地下鉄の成増駅へ。はずかしいぢゃないかっ。で、着きました。よかった よかった。カフェは座ったら立ち上がらなきゃならないかも。

改札をまた通りました。今度は ぬえ、正しい。。でも、なんか、なぜか、様子がおかしい。なんだろう。。しきりに構内アナウンスが。これだ。ええと、なになに?「西武線で起きた人身事故のため、副都心線は池袋~渋谷間の折り返し運転になっております」。。か。

なにっ!! (O.O;)

じゃ、ぬえ どうすれば。。? ええと、地下鉄「有楽町線」で池袋まで行って、そこで乗り換えて「副都心線」か。。(×_×;)

結局、まあ遅刻はせずに能楽堂に到着することができました。ただ、カフェは無理で、むしろ駅からダッシュ状態でしたが。。

で、楽屋で やっぱり練馬区在住の囃子方に今日の出来事を話しました。「もう、大変だったんだよ、今日。。」「こっちもあの人身事故の影響でエライ目に遭った。。あれ? ぬえ、どうして成増なんて行ったの?」「??」「練馬駅。。副都心線は通ってるのに?」「!」

。。知らなかった。。副都心線は渋谷から練馬・埼玉方面に向かう途中で分岐して、東武東上線と西武池袋線の両方に乗り入れていたんか。。ぬえが汗だくになって費やした時間の、その意味はどこに。。

囃子方には爆笑されました。ああ、楽しんで頂けて ぬえも本望ですっ(・_・、)

伊豆の国市・韮山小学校で「古典芸能教室」

2008-07-16 11:30:30 | 能楽

15日(月曜)、晴天の中、伊豆の国市立韮山小学校の体育館で「古典芸能教室」が開催されました。8月23日の「狩野川薪能」を見据えて、小学校の児童にとっては古典芸能である能を鑑賞し、また体験するワークショップであり、また薪能に出演する子どもたちにとっては、初めて人前で上演する「中間発表会」という意味合いを持ちます。もちろん大倉正之助氏をはじめとして囃子方も勢揃いで、能楽ワークショップとしてはまことに豪華な体験講座と言えるでしょう。



お囃子の先生方の挨拶に続いて素囃子の演奏があって、それから薪能で上演する子ども創作能『江間の小四郎』を上演し、それからお囃子の体験教室となりました。いつも思うんですが、こういう能の実技の体験、それも子どもたちを対象とした体験教室というのは、子どもたちの興味は面装束や舞よりも圧倒的に囃子に傾きますね~~。「やってみたい人!」「は~~~~いっっっっ!!」 シテ方として悔しいっ。(__;)

お囃子の体験教室のあと、さらにお笛の寺井宏明先生が指導する子どもたちによる連管も披露されました。これまた薪能で上演する曲目なので、はじめて人前で演奏するのです。こちらはいつもは中学生も交じっているのですが、この日は平日。中学生は自分の学校に行っているから「古典芸能教室」には参加できません。頼れる中学生がいなくて心臓バクバクもので出演したでしょうし、そのうえ今回はこれまた初めて寺井先生のアシライではなくて囃子方に演奏して頂いた中で笛を吹くのです。ん~、がんばったねえ。ぬえが聞いた限りなんとか破綻せずに吹き通したようでした。

そして綸子ちゃんの『嵐山』。この子方の役は笛の譜を聞き取りながら、それに合わせて舞う難しい役で、すでに寺井先生からご自身が吹く「下リ端」と「天女之舞」の録音は頂いてあって、いつも稽古ではその録音を聞きながら舞っているのですが、さすがに録音と実演とでは印象が違って聞こえる可能性もある。寺井先生には「古典芸能教室」の前夜に、東京での催しの後にわざわざ伊豆までご足労頂き、ぬえが太鼓をアシラって寺井先生に笛を吹いて頂き、実演を聞きながらの稽古も済ませておきました。



綸子ちゃんは、たまたまこの会場となった小学校に在籍していますので、当日も午前中の授業を終えたら早めに会場に入ってもらい、再度稽古をしてから「古典芸能教室」の開演となりました。装束も着けて、暑い中待機していたのは大変だったと思いますが、ところが。。開演中に地謡にミスが起きてしまいました。今回は略式のワークショップでもあり、予算の都合もあるので地謡の出演はたった一人だけお願いしてあったので、それも大変だろうと思って ぬえも『嵐山』ではシテの役があったけれど、最初の方だけは一緒に地謡を謡っていました。

さて「天女之舞」が始まったので、ぬえは舞台の裏に退場して、幕にあたる舞台下手の方へ移動。。そのときミスが起こりました。すぐに気づいたけれど上演は進行中なので如何ともしがたく。。

ところが、二人の子方は、もちろん心の中では「うっ。。」と思ったでしょうが、なんと少し型を自分たちの判断で替えて対処したのでした。そのまま上演は進行、ぬえも登場して、無事に勤め終える事ができました。

アクシデントというものは起きる。プロといっても人間である以上、ミスが起きることもあります。ただ、ミスを絶対に起こしてはならない場面というものもあるのです。そういう場面では慎重にも慎重を期して臨むべきです。。ま、それでも事故というものは予期しないで起きるから事故なのだが。。

ともあれ、綸子ちゃんにはアクシデントに冷静に対処した事を純粋に誉めてあげたけれど、同時にこうも言っておきました。「今回は偶然にうまくいったかも知れないけれど、舞台の上というのは何が起きるかわからない。何度も言うように“飽きる”ほど稽古を積んでおけば、何が起こっても対応できるんだよ。まだ1ヶ月あるから、もっともっと稽古を積んでおいてください」

まあ、チビぬえも含めて二人はよくやったと思います。普通の子どもだったらあそこで立ち往生して、どうしてよいかわからずに泣き出しちゃっても不思議じゃなかったと思う。しかも二人は型を合わせながら舞っているわけですから、型を替えて対処しても相手がついて来れない場合だって考えられたのです。そうなると型を替えた方も演技を続けられないでしょう。結果、立ち往生になる。そういう危険性は高かったのです。舞台を勤める責任感は確実に育ちつつあるでしょう。

子ども創作能の方も、主役級の子どもたちは やはり責任感が育ってきて、こちらはほとんど問題なく堂々と演技できています。ちょっと完成までにはまだ時間が必要かな~、と思うのは大勢で勤める役や地謡で、どうしても不安になるのか、もう少し声を出して欲しいと思います。ま、今回ははじめて人前で演じるので気後れもあったかもしれませんが、舞台に立つ恐ろしさがわかってもらえれば、それが否応なく8月末には自分たちの責務として立ちはだかってくる事も実感できる。まだまだ、あと1ヶ月稽古ができます。みんながんばってね~~Y(^^)ピース!

風折烏帽子を作ってみた

2008-07-12 12:50:23 | 能楽

月曜に伊豆の国市立・韮山小学校で行われる「古典芸能教室」に参加するため、明日から伊豆へ参ります。その間ちょっとブログもお休みします~ m(__)m

さて昨日、今日と、思うところあって「風折烏帽子」を作ってみました。ん~、今回は試作品の域を出ないかな。。その「古典芸能教室」では 子ども創作能『江間の小四郎』と能『嵐山』のダイジェスト版を上演するのですが、小学生対象とはいえお囃子方も見えるので「ある程度」本格的に上演することになります。

ここで問題になるのが装束。

子ども創作能は ぬえのポリシーとして「子どもが上演する能ではなく、創作舞台を能の形式を借りて上演する」という事だと定めています。「能」にしてしまうと稽古がきびしくなってしまいますからね。言葉を選ばずに言えば「お遊戯の延長」であるべきで、その中に演出の形式とか、練習と呼ばせずに稽古と呼ぶとか、稽古の始まりと終わりには必ず礼を行わせるとか、日本の伝統文化を織り込んでおいて、そしてあとはみんなが楽しめれば、それでよいのです。

だから 子ども創作能には本式の能装束はほとんど使わせません。大蛇、江間の小四郎、安千代。。そういった出演者の子どもたちが着ているのは浴衣に剣道着の袴です。また小四郎や安千代役が着る直垂のたぐいの装束は、みんな近所の大仁神社からその時だけ拝借しています。安千代大蛇役が着る法被だけはどうしても代用品がなかったのですが、これまた何年か前に器用なお母さんがいたので、手作りしてもらいました。ぬえが化繊の金襴の生地を買ってきて、能装束の法被を見せて、このお母さんが採寸して、子供用に少し小さめに縫い上げてくれました。ぬえが彼らに貸すのは大蛇が頭に着る黒頭とか打杖、それに装束を締めるための腰帯ぐらいのものです。

ところが『嵐山』は、後半部分しか上演しないとはいえ これはれっきとした能の上演なので、ある程度本式にやらないといけないです。まあ、ぬえは 子ども創作能の後見も勤めるし、また参加する能楽師も限られているので面装束は着けませんが、子方にはおおよその装束は用います。これも大体 ぬえの所蔵品で揃うのですが、今回は子方の一人、チビぬえが勤める子守明神がかぶる風折烏帽子がなかった。かといってこれだけ師匠家から拝借するのも面倒だし、予算も限られていて十分なお礼を師家にお支払いするのもままならない。。

そこで思い切って風折烏帽子を自作することにしました。ん~ ぬえは毎年何か能に使う小道具を自作しているし、去年はかなりがんばって剣まで作ったのだけれど、烏帽子を作るのははじめてだなあ。。

師家の見慣れた風折烏帽子を大体の記憶で寸法を採り設計図を起こし。。材料は和紙と革で、本当は漆を塗るのだけれど、今回はラッカーで代用しました。



試行錯誤しながら、なんとか形が整ったところ。う~ん、曲線で作られた烏帽子の型を作るのは難しい。。ヘタに作ると頭に合わなくなるし。。それに、揉み皺を付けるのは何度も挑戦したけれど、これは素人では不可能のようです。ただ くしゃくしゃになっちゃう。



大体の形ができて、あとは彩色を残すのみとなりました。でも風折烏帽子なのに折れていません。風折烏帽子というのは立烏帽子の頂が風によって折れた姿を固定したもので、その折れた頂部分(上皇は右折れ、臣下は左折れだと言われています)がピッタリと烏帽子の胴に張り付いているのです。それであの優美な姿になるんですね。でもそこまでの精密さは今回は追求しないことにしました。遠目では違いはわからないし、この「折れ」を作ることによって全体が歪んでしまう恐れもありましたし。。精密に作るのはもう少し経験を積んでからにしよう。



で、彩色を始めたのですが、しかしここで気がついたのですが、烏帽子紐を顎に結びつけると、烏帽子は左右に引かれる力を受けるわけで。漆ならばうまくいくのでしょうが、ラッカーでは塗料が乾いてもカチカチに固まる、ということがないのですよね~。何度か重ね塗りをしてみたけれど、やっぱり強度が不足しちゃう。そこで彩色を途中で止めて、烏帽子全体を補強することにしました。和紙の胴の内側に革を張って、それから紐で引かれる部分には裏側から糸で吊りを入れて。

で、ようやく完成したのがタイトルの画像です。まあ2日で作り上げたにしては額のラインなどはうまく出来たと思いますが、ちょっと今回は荒っぽい完成度ですね。。また次回、工作にチャレンジしてみよう。

伊豆のお稽古~北條寺参詣記(その4)

2008-07-11 01:54:04 | 能楽
で、綸子ちゃん。

今回からついに チビぬえが伊豆のお稽古に参加しました。ぬえがシテを勤める能『嵐山』には子守明神・勝手明神という二人の子方が出演するのですが、二人が一緒に相舞を舞う、というのですから子方にとって至難の曲です。それで子方の一人を チビぬえに勤めさせることにしたのですが、なんせ東京と伊豆でずうっと別々に稽古していたのを、この日ははじめて一緒に舞ってみるのです。

いうなれば遠隔操作で稽古してきたようなもので、はたしてこれがシンクロして舞えるのだろうか。。ぬえにとってもドキドキもののお稽古でした。。が。



まあ、見事に型がシンクロしていますっ! もう、こんなに合っちゃっていいの? ってぐらい。ぬえも もちろん微に入り細をうがち、謡の詞章や笛の譜と型のタイミングを決めて、それぞれの稽古をしていたのですが、チビぬえはともかく、初めて本式の能に出演し、サシ込もヒラキも、左右もサシ廻しも知らないところからスタートした綸子ちゃんは、よくまあ この複雑な型附を自分の中で消化したもんだ。

8月に入ると綸子ちゃんには東京に出て来てもらって、いっぺん ぬえの師匠に稽古を受けてもらわねばなりません。でも、今の ぬえはそれが待ち遠しいくらいです。この成果をぜひ師匠に見て頂きたい。ここまで出来ると ぬえも鼻が高いですし、自分がシテを舞うのが俄然楽しみになってきました。正直言って ぬえが要求していたレベルよりも綸子ちゃんは上を越してしまったね。今まで狩野川薪能では何人か才能のある子を見てきたけれど、ちょっとこのレベルは見たことがないです。この薪能を見にお出でになるお客さまは幸せだと思います。

あ。。でも、今日はこれまでにしておきましょう。あまり誉めるのは本人のためにならない。まだ薪能まで日があるし、とりあえず来週には「古典芸能教室」という、はじめて稽古の成果を問われる機会がやってくるのです。誉められたからと言って綸子ちゃんに限って「慢心」の心は起こらないことは断言できますが、「安心」してしまう事が怖いです。「安心」は、それまで出来たはずの事を失敗させる。。

そこで、この日の稽古では微妙に二人の型のタイミングが合わなかったところを指摘して「悪いけどまだ稽古が足りないんだよ。何度も言っているけれど、“もう『嵐山』を舞うの飽きちゃった。。”と思うくらいが丁度いいんだよ。だからといって薪能の当日にはテンションが上がるしお客さんもいらっしゃるから、“もう何度も舞ってつまんない”なんて思うことは絶対にない。だからもっともっと稽古をしてください。本番は一度きりしかないんだから」と言っておきました。

彼女にとって一世一代の晴れ舞台になるであろう狩野川薪能。その成功はもはや ぬえは疑うことはありません。でも、まだまだ教えなきゃならない事もあります。当日にどうやって自分のコンディションをベストの状態に持っていくか。猛暑のうえに風も通らない悪条件が予想される薪能の楽屋で、いかに体力を消耗せずに過ごすか。万が一舞台上で間違えたときや、事故が起こったときにどう対処するのか。

型や謡を覚えるだけではダメで、このような事情を克服してはじめて「舞台を勤める」ということになるのですからね~。

伊豆のお稽古~北條寺参詣記(その3)

2008-07-10 11:42:13 | 能楽
で、いつもの市民会館に場所を移して薪能の稽古を行いました。

ん~。みんなの自覚がだんだんと芽生えてきたような。でもまだ他の子の動作に依存しながら演じている子もいる。その意識のギャップがまだもう少しあるみたいです。たとえば集団で演じる立衆のような武士の役があるのですが、先頭の子が休むと、もう残りの子は動き出すキッカケがあやふやだったり。。地謡の詞章をキッカケに決めてあるのに、先頭の子が動き出さないと動けないとか、もう少しかなあ。

一方、子ども創作能の中で大役を頂いた子が飛躍的な発展を見せるのも毎年決まってこの時期です。これまた、最初からしっかり自覚を持っていて稽古のはじめから物怖じせずに役にぶつかっていく頼もしい子もあれば、ずうっと逡巡していて、どうしても動きがぎこちないままの子もいる。これらの子はこの時期に「自分がやらないと、舞台の上では誰も助けてくれない」と思う心が一致してきて、実力のレベルに差がなくなってきます。

また、毎年4年生以下の子は地謡だけしかお役を頂けないのですが、この地謡が、今年はがんばっています。稽古の最初の方は、もうホントに声が出なくて困ったけれど、この頃は ぬえがそばについていなくても謡えるようになりました。しかも囃子に合わせて謡う地拍子謡です。彼らは来年、再来年には 薪能の子ども創作能で主役を担い、また ぬえのお相手として玄人能の子方を勤める、未来の薪能を支える子たちです。毎年狩野川薪能では小学校4~6年生に参加を呼び掛けているのですが、ところが今年はこんなやりとりが。

「あの~、お兄ちゃんが薪能に参加すると聞いて、妹も私も出たいっ、と言っているんですがまだ低学年なもので。。出演するのはダメですよね?」
「え?ああ、大歓迎ですよ。何年生?」
「それが。。まだ2年生なんです」
「。。(^◇^;)」

で、その子が最初から一番大きな声を出していたりする。ん~、こりゃ来年が楽しみ。。あれ? 来年はまだ3年生か。。それじゃ再来年。。その翌年。。ん~、6年生になって主役級を射止めるのは4年後か。。(;^_^A 気長に、楽しみにしておこう。。

ちなみにこの2~4年生の地謡の子どもたちには、今年は大倉正之助氏の好意もあって連調。。つまり小鼓と大鼓を稽古して薪能の舞台の上で発表することになりました。最初は「アシライ」と言って、短い手組を繰り返して打つことを予定していたのですが、お囃子方にも相談してアドバイスを受けたところ、やはり謡を入れて、それに合わせて打つ方が見栄えもよいし、出し物としても魅力的になるだろう、という意見を頂きました。

やはりお囃子方の助言で打つ手組はごく簡単にして、ぬえが謡を担当して薪能では『高砂』の「待謡」を上演します。これももう大体出来上がったようですが、この伊豆の国市では「シャギリ」という郷土芸能がとても盛んで、多くの子どもたちが町内の大人に習ってお祭りなどのときに笛や太鼓を披露するのです。去年 ぬえはそれも見に行きましたが、へ~~、市内でコンテストまで開かれているんだ。。そういう土地柄だからか、邦楽器は自然と鳴らせるところがすごいなあ。

そして薪能の「子ども創作能」を卒業した中学生。それでも薪能に参加を希望してくれる子が何人かいて、彼らには先輩として「子ども創作能」の地謡のサポートをしてもらうほか、やはり中学生になったら古典として伝えられてきた能の曲に触れて欲しい、という ぬえの希望があって、薪能では仕舞を舞ってもらうことになっています。今年の曲目は『吉野天人』。ちょっと難しいかなあ、とも思いましたが、これも大体形になってきましたね。

ん。。? 待てよ。。すると ぬえは薪能の時にはどれだけ出番があるんだ。。? ええと、連調『高砂』の謡でしょ? 子ども創作能『江間の小四郎』の後見でしょ? 仕舞『吉野天人』の地頭でしょ? それから『嵐山』のシテかあ。。(×_×;) ま、あの子たちのためだと思えば苦にもなりませんが。

伊豆のお稽古~北條寺参詣記(その2)

2008-07-09 08:48:36 | 能楽
北條寺は、じつは千年以上の歴史を有する古刹で、安千代を大蛇に取られた江間の小四郎が、失った我が子を弔うために大改築をし、山号も改めて現在の形になったものだそうです。ご本尊は観音菩薩で、四国の八十八カ所の霊場廻りのようなものが伊豆にもあって、このお寺の観音様も篤い信仰を受けています。また、ことに著名なのは運慶、あるいは慶派の作になる阿弥陀如来像があることで、こちらは国の重要美術品に認定されています。

さて今回の北條寺参詣では、ご住職の渡邉文浩氏のご好意を様々な形で頂きまして、立派な参詣となりました。

まず本堂でご住職による法要があり、出演者一同もご焼香をさせて頂きました。同寺は安千代の菩提を弔うために建立されたので、安千代の位牌があるのです。出演者の小中学生および保護者の方々も安千代に挨拶をし、薪能の成功を見守って頂くようお願いをしました。ことに薪能で安千代役を演じる子にはとくにその説明をしておきましたので、心を込めてお願いしたと思います。

ついで境内にある小山の上にある北条義時夫妻の墓に詣でて、ここでもご住職の指導により出演者一同でお線香を手向けさせて頂きました。北条政子の弟にあたり、鎌倉幕府の二代目執権となった北条義時は、その死後生まれ故郷の伊豆に戻ってきて、我が子を弔うために建てたその寺に眠っているのですね。ちなみに安千代の墓は、長い歴史の中で失われてしまったのだそうです。

さてご焼香のその後! 今回の参詣の最大の行事である、子どもたちによる「子ども創作能 江間の小四郎」の謡の奉納を致しました。創作能の最後の場面、ほんの3分間ぐらいの部分ですが、小四郎役の千早ちゃんの発声により、全員で連吟して義時のお墓に手向けることにしていたのです。稽古ではだいぶ声が出るようになってきたけれど、さてこういう場面になったらみんな声が出るかなあ~? と、ちょっと危惧していた ぬえは、まずみんなで予行練習をさせてみました。いやところが みんな大きな声で謡えます! すぐに練習は終わりになって、今度は本番で創作能の一節を手向けることができました。

この『江間の小四郎』を作って上演を始めてから、もう4年の月日が流れてしまいました。毎年、小四郎役の子には「薪能の前に北條寺のお墓に詣でて挨拶をしておきなさいよ」とは言っているのですが、これまで「行って来ました!」という報告は ぬえにもたらされたことがありません。

今年の小四郎役の子が こういうアドバイスを守って、きちんと墓参りに行ってくれたからこそ、今回のような「ではみんなで詣でて、薪能を見守って頂こう」という企画にまで発展することができたのです。いや本当に行って良かったと思います。

ちなみに、この墓参りのあとで、ふとみると、ブーンと飛んできた虫が一匹。。「あ! 玉虫だ!」誰かが叫びます。えええっっっ 玉虫!? 野生の!? ぬえは玉虫なんて図鑑か昆虫を展示している施設でしか見たことがないが。。うわ、ホントにあの七色の羽を光らせながら ぬえの目の前を飛んでいきました! へぇぇ~~、こんなのがいるんだ。。そして誰かが言いました「玉虫なんて、久しぶり~」  久しぶりっ!? 久しぶりなのか!? はじめてじゃないのか!? 聞けばこの辺じゃカブトムシやクワガタなんて自宅の庭にふつ~にいるのだそうで、ご住職もモリアオガエルのオタマジャクシを育てて増やそうとされていたり、「ほれ」と見せてくださった堆肥の中にカブトムシのサナギがいたり。。すんません、生まれ育ちが東京の田舎者の ぬえは目が点なんですけど。。

義時の墓参のあと、ご住職のおはからいで寺務所や本堂、それから境内のベンチなどを拝借してそこに別れて座り、用意してきたお弁当をみんなで頂きました。当然、お弁当をひっくり返す子が現れたり、大騒ぎだったことはご想像の通りでございます。はい。(T.T)

お弁当を食べてから、いつもの稽古会場に各自移動して、薪能の稽古を致しました。

伊豆のお稽古~北條寺参詣記(その1)

2008-07-08 02:49:22 | 能楽

日曜は伊豆の国市にお稽古に伺って参りました。8月23日の「狩野川薪能」まであと残すところ1ヶ月半。子どもたちの稽古もいよいよ佳境です。そしてその前に、来週には彼らがはじめて観客の前で稽古の成果を披露する機会が訪れます。

それは薪能実行委員会のお計らいで毎年開催される「古典芸能教室」という催しです。地元・伊豆の国市の小学校の体育館を舞台に、市内のすべての小学校の5年生を集めて能の実演を見せたり、体験をさせるワークショップで、薪能での上演曲目「子ども創作能 江間の小四郎」や、また能『嵐山』の一部が上演され、また大倉正之助氏をはじめお囃子方の先生方が子どもたちに能の楽器の体験をさせる、という趣向。でも「子ども創作能」や『嵐山』に出演する地元小学生にとっては、稽古の成果をはじめて人前で披露する、なんと言うか、薪能の前の「中間発表会」という意味合いがあるのです。過去には、ここで大失敗をして大泣きしちゃって。。そしてその失敗の経験を活かして薪能の本番では無事に大役を勤め果せた子もありました。実行委員会の英断には感謝に堪えません。この大切な「古典芸能教室」の舞台に向けて、お稽古も加速し、また今回から、『嵐山』のもう一人の子方として綸子ちゃんと共演する チビぬえも伊豆の国市に出かけてはじめて稽古に加わりました。

しかしこのお稽古の日の出来事で特筆すべきは、伊豆長岡にある北條寺というお寺に、薪能に出演する子どもたちと一緒に参詣したことでしょう。

薪能で上演する「子ども創作能 江間の小四郎」は、若い頃この伊豆で“江間の小四郎”と名乗っていた鎌倉幕府第二代目執権の北条義時の物語で、彼が伊豆の江間に住んでいた頃、嫡子・安千代が大池に棲む大蛇に襲われて命を落とした、とされる地元に伝わる民話を題材に ぬえら薪能に関わる能楽師が新作した能です。我が子を殺された小四郎は急ぎ大池に赴き、仇を討つためにほとりに潜みましたが大蛇はなかなか姿を見せず、そのとき「大蛇は鉄を嫌う」という地元の言い伝えに従って池に金物を放り込んだところ、はたして大蛇が現れました。機を逃さず小四郎が放った矢は大蛇の左目に立ち、大蛇は山を越えて逃げ、ついに来光川に飛び込んで姿を消しました。小四郎は我が子の後世を弔うために北條寺を建て、また大蛇が川に飛び込んだ場所にある橋には「蛇ヶ橋」と名が付けられました。

いまでも蛇ヶ橋も北條寺も当地に現存していて、北條寺の境内にある小山の上には北条義時夫妻の墓も残されています。ぬえは「子ども創作能」を書いたところで義時の墓に詣でて挨拶をしましたし、また毎年の上演の際には小四郎の役を勤める子には、薪能の上演の前に義時の墓にご挨拶に行くように言いつけていました。まあ、実際には「先生、お墓参りに行ってきました!」と ぬえに報告に来た小四郎役の子は今まで一人もいなかったわけですが。。

ところが今年は小四郎役の千早ちゃんから早々に墓参の報告があって。そこから ぬえもぐっと盛り上がりまして、これは小四郎役一人の問題ではない、できるならば「子ども創作能」に出演する子どもたちみんなで一度は義時の墓参に行って、ご挨拶もし、薪能の成功を見守って頂くべきだ、と考えました。千早ちゃんのお母さんも「それは面白いですね。みんなでお弁当を持って行って。。」あ、そのアイデア、頂き~~ Y(^^)ピース!

子どもたちにも自分たちが勤める舞台は おとぎ話ではなくて地元の歴史に関係している物語なのだという実感が湧くし、なにより郷土史の理解にもなるし郷土愛を育てることにもなる。。さっそく実行委員会に相談したところ、この計画は歓迎して頂きまして、またすぐに北條寺のご住職にもお会いして事情をご説明申し上げたところ、こちらもボランティアで協力してくださることになりました。

もとより予算などないので子どもたちが北條寺に集合するためにバスなど用意はできず、「希望者のみの自主参加。現地集合現地解散。お弁当代と墓前に供えるお花代として数百円の会費制」として、ぬえが子どもたちや保護者に向けたお誘いのチラシを作って呼び掛けたところ、なんとこの日の参加者は30数名。。事実上出演者の子どもたちはほとんど全員集まってくれ、その保護者も大勢集まってくださいました。