ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第8回狩野川薪能(その6~伊豆の国市で「古典芸能教室」)

2007-06-30 09:22:14 | 能楽

6月28日(金)、伊豆の国市の大仁小学校で「古典芸能教室」が開かれ、ぬえも参加して参りました。

これは8月の「狩野川薪能」に向けて実行委員会の方々の努力によって毎年行われている催しで、薪能で上演する曲目を、小学校で披露するのです。と言っても、「狩野川薪能」はもともと地元の小学生が中心的な役割で出演する全国でも珍しい薪能でして、「子ども創作能」と言って、地元の民話を能楽師が能の形式で再構成し、出演者はすべて地元の小学生ばかり、という創作舞台があったり、小中学生による連管(笛の合奏)があったり、中学生の仕舞があったり。見ている子どもたちにとっては「古典芸能教室」なのですが、出演する子にとっては「中間発表会」という位置づけになります。同じ小学生が観客とはいえ、はじめて人の前で舞台に立つのですから、薪能の前によい経験になったことでしょう。

薪能では「子ども創作能」や仕舞など子どもだけによる演目だけではなく、プロの能楽師による能と狂言の上演もあって、今年は ぬえは『一角仙人』のシテを勤めます。しかし、この能の上演曲目には毎年必ず子方が出演する曲を選び、そしてやはりその子方は地元の小学生に出演してもらっています。もちろん玄人に互して子方を勤める小学生には相応の特別な稽古を課し、東京での申合にも参加させます。ほかの演目と違って、玄人能では失敗は許されませんから。。

さて「古典芸能教室」の出来映えですが、「子ども創作能『江間の小四郎』」は、主役級の子どもたちは大変良い出来だったと思います。大勢の武士の役(立衆といった役割)と地謡は、あまり声が出ていなかったなあ。人前で演じる事の大変さでちょっと萎縮したかな?



  開演前の装束?の着付。こらこら少しは緊張せんか



  子ども創作能『江間の小四郎』

そして笛の連管では「破之舞」を取り上げて稽古していて、稽古が進んできた先日、笛だけが居並んで吹くのではなく大小鼓と太鼓も入れて合奏をする事に決まりました。この日はじめて囃子方と対面したというのに、講師の寺井宏明先生に後見について頂いて、立派に「破之舞」が吹けました。いやすごい、すごい。だって、笛というのはメンタルな面に左右されてしまう楽器で、稽古では良く吹けるのに、人前に出たとたんにまったく音が出なくなってしまう人もあるのですから。

そして『一角仙人』。今回はキリだけの、ほんの15分間の上演で、作物はとても用意できないので、囃子方の後方に金屏風を立てて、龍神二人はその後ろから登場してもらうようにしました。うん。声はよく響いている。型も間違いない。それほど緊張もしていないようです。しかし、型がやや速い。地謡や囃子と比べて、どうしても型が先へ先へ行ってしまう。ははあ、やはりこれは緊張が原因です。型に余裕がなくなって、動きに「ため」がなくなってしまっている。もう少し、地謡と合わせて舞う精緻な稽古が必要かな。おそらく自分でも型が速くなってしまっている事は気づいているだろうから、そうなった場合には「どの箇所でなら動きを一瞬止めて、型の時間調整をするか」という事を教えれば良いのです。これは次回からの稽古の目標にしましょう。



  能『一角仙人』。こちらは装束ナシで。

あ~思い出すなあ。。ぬえも『船弁慶』の後シテで緊張のあまり足が止まらなくなっちゃた事があったっけ。



  みんな がんばれ~(*^。^*)


タイトル画像は『江間の小四郎』の主要な役を勤めるみんな。
(左から小四郎=ひかり、安千代=夢知、大蛇=彩花)

【第三回 ぬえの会】いよいよ始動

2007-06-28 00:43:15 | 能楽

前回の「第二回 ぬえの会」は2003年だったから。。もう4年も経ってしまったのですね~。なかなか機が熟さずにいましたが、このたび満を持して「第三回 ぬえの会」を開催させて頂く事となりました。

今回 ぬえが挑戦させて頂く曲は世阿弥作であり、本三番目物の代表曲である『井筒』。前回の「ぬえの会」での上演曲『松風』に引き続いて鬘能の上演です。『松風』に描かれる運命に呪縛される女性像に対して、あまりに美しすぎる夢のような『井筒』の世界。初恋の永遠性がテーマのようにも思われる能ですが、でも、本当はそんなに美しいばかりじゃなかったりもするんですよね…

シテの紀有常の娘の内面のドラマはどこまでもオブラートに包まれて、ひたすら沈着な能ではありますが、井戸をのぞき込むクライマックスに向けて戯曲のすべてが集約されていく、じつは技巧的な曲でもあるように思います。能楽師として避けては通れない能、でもあるでしょう。

どうぞお誘い合わせの上ご来場賜りますよう、お願い申し上げます~ m(__)m



【とき】 2007年9月9日(日)
【ところ】喜多六平太記念能楽堂(東京・目黒)
【番組】
      仕舞  老  松   八田 光弥
          春日龍神   八田 和弥

      仕舞  高  砂   梅若 紀長
          山  姥キリ 梅若 晋矢
          弱 法 師   深野新次郎
          難  波   梅若万佐晴

   舞囃子  邯 鄲  梅若万三郎
          笛 一噌仙幸 小鼓 久田舜一郎 大鼓 大倉正之助 太鼓 観世 元伯

   狂言   縄 綯  シテ  高澤 祐介
             アド  三宅 右矩/河路 雅義

  能  井 筒  シテ ぬえ
           ワキ 森 常好  間 三宅 右近
           笛 一噌仙幸 小鼓 久田舜一郎 大鼓 安福建雄
           後見 梅若万三郎  地頭 梅若 晋矢

【入場料】 指定席A(正面)8,000円/指定席B(脇正面)7,000円/
      自由席(中正面・二階席)5,000円/学生2,500円
【お問合・お申込】
   ぬえの会   メール QYJ13065@nifty.com
   梅若研能会  TEL 03-3466-3041



師家蔵・古いSP盤のデジタル化作戦(その7)

2007-06-26 02:49:24 | 能楽
さて、覚えておいででしょうか? ぬえの師家所蔵の古いSP盤レコードが、ぬえの友人である名古屋の研究者・鮒さんによってデジタル化されて復活される努力がずっと続いていたことを。

その努力がこの度 結実し、ウェブ上で公開されました。このサイトではご自由に音源をDLして頂くことができる、という画期的な企画で、公開・配布につきましては師家の承諾も頂いてあります。(詳細はこの記事の末尾に)

再度この事業の経緯を簡単に記しておきますと、能楽研究の一環として、すでに主に戦前の古い謡のSP盤を入手してはデジタル化する作業をしておられた ぬえの友人の研究者・鮒さんから「梅若万三郎家に所蔵されているであろう古いSP盤音源を一括してデジタル化できないだろうか?」と ぬえに相談があったのは、もう今から1年ほど前になろうかと思います。

それまで家庭に保存されていたSP盤を収集されていた鮒さんは、SP盤が聴き込まれたことによる摩耗に弱い事を身を以て実感されて、演奏者である能楽師の家に残されている音源は保存状態が良く、また、まとまった量の音源が保存されているのではないか、と着目されたのでしょう。また一方、昨年末には関西で能楽学会のフォーラムが開かれて、そのテーマでこの時代の古い謡曲の録音を扱ったのだそうで、そこでの発表を予定されていた鮒さんは「戦前・戦中の新作能として有名な『忠霊』や『皇軍艦』の録音をその会場で流してみたい。わけても『皇軍艦』は梅若万三郎家がシテを勤めたり、中心的になって新作した能だから、著作権の問題も含めて梅若万三郎家から直接許可を頂きたい」と、かねて知己だった ぬえを通じて師家に相談がありました。

師家にとってみても、SP盤は死蔵されている状態で、しかも今となっては再生する手段さえありません。デジタル化についてはすぐに快諾を頂くことができました。まず ぬえが師家の装束蔵などに所蔵されていたSP盤を発掘してその種類・数量・保存状態を記したリストを作り、鮒さんがその中からデジタル化する盤を選ぶ。実際にSP盤に針を落としてCDに収録する作業は名古屋で行われることとなり、さてそうなると今度は輸送手段に問題が起こりました。音源であるSP盤の移動は輸送業者に委託すると貴重品・美術品扱いとなってしまって、とんでもない高額の輸送費が掛かってしまうのです。それ以外の方法は輸送の安全の責任の所在の問題があって、なかなか良い手段が見つからない。

ついに ぬえ自身がSP盤を名古屋まで運ぶことにしました。SP盤を厳重に梱包してクッションを大量に詰め込んで旅行トランクに詰めて。輸送は新幹線と自動車を利用しましたが、トランクにショックを与えるのを避けるために、すべての行程では階段を使わずエスカレーターかエレベーターだけを利用するように綿密に計画を立てて。なんせ鮒さんの経験では、SP盤というのは保存の状態などの要因によって、プレイヤーのターンテーブルに乗せただけで割れたものまであったそうで。。

こんな苦労がありましたが、SP盤は破損被害もなく無事にデジタル化されて10枚のCDとなって現代に甦りました。CDは師家にも納められ、門下にも配布されました。また鮒さんのサイトでは前述のように一般に公開・配布されています。ただしサイトでの配布は著作に配慮して、デジタル化された音源のうち一部の公開となっています。それでも初世・梅若万三郎の声などは今日では ほとんど聴く機会がないので、なかなか興味深いと思います。初世の先生の謡は、ぬえの感想では「やっぱり今とはずいぶん印象が違うんだなあ。。」と思ってみたり、また「あ!この節は“師家だけにある節”として ぬえが習った通りだ。。」と発見したり、という感じでしょうか。

デジタル化作戦の経緯

師家蔵・古いSP盤のデジタル化作戦(その1)
師家蔵・古いSP盤のデジタル化作戦(その2)
名古屋より。。ただいま帰還致しました~
師家蔵・古いSP盤のデジタル化作戦(その3)
師家蔵・古いSP盤のデジタル化作戦(その4)
師家蔵・古いSP盤のデジタル化作戦(その5)
師家蔵・古いSP盤のデジタル化作戦(その6)

鮒さんのサイト 恵理人の小屋

(本人の努力に敬意を表して、トップページから見てあげてください。「梅若万三郎家所蔵SPレコード」というところが公開・配布ページです。ちと見づらいけど (^_^; )


なりたい職業ガイド~能楽師・狂言師~『ポプラディア情報館』

2007-06-24 09:32:36 | 能楽

『春日龍神』について考えている事を書いているうちにも、ぬえの周囲ではいろいろな事がありました。
今日はその中から『ポプラディア情報館』という名の本のご紹介。ぬえが小さな記事のお手伝いを致しました。

この本はポプラ社から刊行中の子ども向けの百科事典で、本に記載されている紹介文をそのまま転載すると「小中学生の調べ学習に必要な情報を満載した、テーマ別の学習資料集。写真などさまざまな資料を集め、1冊でひとつのテーマについて、くわしく調べられます。「総合百科事典ポプラディア」とあわせて使えば、調べ学習がよりスムーズになります。」とのこと。百科事典『ポプラディア』の姉妹版ということですね。高額な本なので、学校や図書館で揃えるタイプの本。

このたび ぬえにお話があったのは、その内の1冊『仕事・職業』のお手伝いです。この本では約400種類のさまざまな仕事・職業がいくつかのジャンル別に分けられ、基本的な情報や内容、その職業の やりがいや、その仕事に就くための進路の解説が簡単にまとめられて紹介されています。

ぬえが担当したのは、「伝統工芸と伝統芸能にかかわる仕事」というジャンルの中の「能楽師・狂言師」の記事。ぬえは だいたいの仕事の内容と写真を提供した程度でしたが、さすが編集者はプロで、小さな記事の中でうまく能楽師の仕事を書き表していますね~。ポプラディア編集部の方々、写真を提供頂いた前島写真店、このお手伝いのお話のご紹介を頂いた米原まゆみさんには、この場を借りて心より感謝致します。



この本で面白かったのは、職業によって記事の大きさが違うこと。ファッションデザイナーや美容師、飼育係、消防官、国会議員、プロ野球選手、ゲームディレクター、気象予報士など、2ページ見開きで紹介されている一方、小さな記事だけで紹介されている職業もあり。これは無論仕事の貴賤を表しているわけではなくて、子どもが興味を抱くような職業や、社会生活には欠くことのできない仕事は大きく紹介されるのは仕方のないことでしょう。

ところが、面白いことには、やはり2ページに渡って大きく取り上げられている職業の中には米作農家、漁師、友禅染職人、陶磁器職人なども含まれているのです。ははあ。。伝統工芸や第一次産業など、やや先行きが不透明ながら、日本の文化そのものに関わる仕事について、子どもに興味を持ってもらおう、という意図もあるのだな。

これはありがたい事で、能楽師にとっても、職人さんがどんどん減っている昨今、道具類を新調する場合などは年々調達が難しくなってきているのです。あるいは道具の質がどんどん低下していたり、まがい物に取って代わられたりしています。それも状況は年々ひどくなる一方。。このままじゃ大変なことになる。。能楽師は誰もがそういう危機感を持っていると思いますが、だからと言って能楽師が何かをできるワケじゃない。。

先日 能装束屋さんから聞いたお話では、紋付に家紋を描き入れる「紋屋」さんは、すでに最年少の職人さんが60歳なのだそうです。。「このままでは家紋はすべて印刷に取って代わられる。特殊な家紋は印刷不可能になり、最後には着物に入れる家紋は「違い鷹の羽」に統一されちゃうかも。。」という恐ろしいお話でした。そりゃ、自分の家の家紋さえ知らない人が増えている昨今。致し方ないことなのでしょうか。

また、今回のお手伝いでは、刀鍛冶さんなどは「もうこれからは食べていける職業ではない。土地持ちか財産家でないと。。」とおっしゃっておられるとか。。

一方、あまり知られていないかも知れませんが、能楽師にも「食うや食わず」の人がたくさんいます。何年か前の某能楽師の結婚式では、テーブルで同席した人から新郎について「彼もなかなか収入がなくて大変だ。。夜は地下鉄工事の手伝いのアルバイトをしているんだって。。」と聞いて愕然とした事も。

このままじゃ日本の文化は質実ともに、本当になくなってしまう。。「美しい国」を標榜するならば、国はもうひとつ、何かできるんじゃないでしょうか。手をさしのべるならば。。手遅れになる前に。


『ポプラディア情報館 仕事・職業』ポプラ社 2007年3月刊 ¥6,800

研能会『春日龍神』無事終わりました。

2007-06-22 21:52:46 | 能楽

昨日、梅若研能会6月例会で ぬえは無事『春日龍神』を勤めることができました。自分では「まあまあ」だと思いますが、後シテはバテる直前まで行って、あ~、歳かいなあ。ただ、前シテはとても気持ちよく勤める事ができたのではないかと思っています。それは、すべて使わせて頂いた面のおかげだったと思っています。

この日使った前シテの面は、これはとっても不思議な面でした。ぬえも「小尉」は持っているのですが、この日は師家から拝借させて頂きました。師匠は稽古の際に ぬえが使っていた「小尉」を見ておられたので、「あれでいいんじゃない?」とおっしゃったのですが、ぬえ、じつは『春日龍神』の前シテに「小尉」はあまり似合わないのではないか、と思っていたのです。

なんと言うかな、『春日龍神』の前シテには、威厳と神々しさがある。それも『高砂』などの、衆生を祝福する脇能の神とは違った、荒ぶる神の姿を感じるのです。誤解を恐れずに言えば、ぬえは『春日龍神』の前シテの稽古を重ねているうちに、どうも自分が掛けている面のイメージとして「大童子」を思い描いていました。あの赤々と燃えるような眼が、強い意志を持つ『春日龍神』の前シテには似つかわしい。。もちろん子どもの姿で前シテを勤めるわけにはいかないから、あくまで ぬえが持つ前シテのイメージ、という話です。

だから ぬえには『春日龍神』には「小尉」は、どうも違うんじゃないか? という気持ちが押さえられなかったのです。師匠に前シテの面を拝借させて頂きたい旨をお願いしたところ、師匠は「ふうむ。。」と少しお考えになって、そしてお装束蔵から大変不思議な面を出してきて下さいました。

これはとても変わった面で、「小尉」でもなければ「阿古父」でもない。伺ってみましたが、師匠も「これは何だろうね。おそらく舞尉の一種ではないかと思うんだが。僕もまだ一度も使ったことがないんだよ」というお返事でした。どの尉面の範疇にも入らない面で、あえて言えば「木賊尉」に雰囲気は一番近いのではないかと思いますが。。

ところがこの面、手にとって見ると、なんだか垂れ目に見えるのです。「ん~~?これも少し違うかなあ」とは思いましたが、自分の「小尉」よりはずっとハッキリした表情があるので、半分「仕方なく」(師匠には失礼千万!)拝借させて頂いたのです。

しかし当日、楽屋で『春日龍神』の前シテの装束を着けて、いざこの面を掛けると。。あら不思議、突然この面は怒りを含んで見えるのです!それも相当の威厳と品格を持って。これには驚きました。まさに燃える眼を持った「大童子」が老人となった姿そのものなのです。これには参った。もうおワキは舞台にお出になったとのなのに、ぬえはこの面からものすごいパワーを頂きました。

この面だからこそ出せる声がある、そんな感じで前シテを勤めたことを覚えています。終演後、師家にてお装束をしまうのをお手伝いするとき、師匠に「もう一度、あの尉面を拝見させて頂けませんか?」とお願いして、見せて頂きました。この舞尉?は。。また元の、ちょっと垂れ目の平和な表情に戻っておられました。神。。なのでしょう。ああいうのが。。

ちなみに真っ白になってしまうのではないか、と困っていた前シテの縷狩衣ですが、ぬえの所蔵品の中に、神主さんから譲って頂いた本物の狩衣があることを思い出して、当日はこれを着ました。なんと、この狩衣。。もうずっと以前ではありますが、譲って頂いたときの値段は。。1まんえんだったのですよ(!)。ちょっと小ぶりではありますが、でも色合いも風合いも、この姿にはよく合っていたと思います。



後シテでは、先日このブログでご紹介した「能面作家」の新作の「黒髭」を使いました。稽古の段階から先輩からも好評だったのですが、目線がとってもハッキリしているので、型に注意しなさい、と先輩からアドバイスを頂きました。まあ『春日龍神』の後シテは動きが激しいし、また囃子の手組も拍子あたりもよくよく熟知していないと囃子方に迷惑を掛ける恐れがあるので、うまく気を回せるのは至難ではありましたが。

また飛び安座で面が少し下がったので、最後の方は床を見ながら舞うような事になりました。ただ、終演後に録画を見ても面が下がった事は分からない程度だったようでしたが。先輩から「あ、下がった?僕の時も下がったんだよ。あの人の『春日龍神』でも面が下がった、って言っていたな。この曲ではそういう危険があるんだね。あらかじめ言っておいてあげればよかったね」と言われました。1年前の『鵜飼』での飛び安座ではそういう事故? は起こらなかったので、「黒髭」という面の造作から来るものなのかも知れませんね。



まあ。。万全ではなかったけれど。。やっぱり ぬえは切能が好き。

主人公がいない能~『春日龍神』について(その9)

2007-06-20 23:53:54 | 能楽
ところで能『春日龍神』にはナゾがいっぱいあります。

たとえば前シテ神主が後シテ龍神の化身ではないこと。中入で「我は時風秀行ぞとてかき消すやうに失せにけり」と言っていますが、時風秀行とは中臣時風、おなじく中臣秀行の事で、春日大社の一の社の祭神である武甕槌神が常陸国・鹿島神宮から春日山に遷ったときに供奉した二人のことです。能ではシテは一人で登場するのですが、「時風秀行」を一人の人物と作者が誤解したか、もしくはすでに神格化した二人を登場させるのに、あえて具体性を排除しようとしたのか、のどちらかでしょう。ちなみに「龍女之舞」の小書がついたときは、前シテと同装ながら直面の前ツレが登場します。

武甕槌神がはるばる鹿島から奈良にやってきたときには、空中を飛び翔ったのではなく、白鹿に乗って遷られたのだそうで、さてこそ人間である時風・秀行も随行する事ができたのでしょう。白鹿はすでに春日の野山に繁栄していた鹿の群れの中に交じって子孫を増やし、時風・秀行は春日大社を守ったようで、代々春日大社の神主は中臣氏で、この二人の子孫なのだそうです。

そして後シテは春日明神が明恵に見せた釈迦の法会に参会し、または守護した八部衆の代表としての龍王です。なぜ前シテと後シテが別な人格なのでしょうか? そして前場で龍神の出現にまったく触れられていないのはなぜ?

この能で明恵の前で奇跡を起こすのは、じつは前シテの時風・秀行ではなく、後シテの龍神でもなく、春日明神なのです。ここはどうしても忘れがちなのですが、じつはこの能では重要なポイント。この能は明恵と春日明神との対話で進行している能なのであって、時風・秀行も、八大龍王も、明神のメッセンジャーであり、明神が示した釈迦の説法の場の再現の場面では、どちらも明恵と並んでその享受者だといえるでしょう。この能の主人公は春日明神その人(?)であり、その神威を舞台の上で示すことが切能としての『春日龍神』のテーマだと考えられます。さてこそ『春日龍神』は「主人公が登場しない能」だと言えると思うのです。

このへん、文殊菩薩が登場しないでその乗り物である獅子が登場する『石橋』と構想がよく似ていますね。『石橋』では後シテの獅子が舞台狭しと大暴れして、お客さまも激しい舞を堪能されるのですが、作者の意図は別にあると考えられて、獅子が退場し、地謡も囃子も退場したそのとき、舞台に文殊の浄土の静謐な世界が立ち現れるのです。これは ぬえの発見ではなく、以前に研究者の方が語っておられたのですが、もしそれが本当に作者の意図だったとするならば、『石橋』という能は、演者にも観客にも無関係に、「終演した後にはじめて物語が完結する」という、おそろしく哲学的な能で、おそらく世界に例を見ない演劇だと考えられるのです。

『春日龍神』は、そこまで思索的な能とまでは言えず、むしろ「主人公」である春日明神も、その主人公の手によって現世に立ち現れた釈迦の世界も、あえて観客に見せない事によって、かえってその大きさを観客に想像させる事を狙った能だと思います。前シテも後シテも、あえて別人格のメッセンジャーを起用する事で、作者は神の多様性のようなものを見せたかったのではないでしょうか。

そしてまた、そうであるならば後シテは釈迦の法会に参会する八部衆のうちであれば、とくに龍神ではなくとも、どの神であってもこの能の目的は達成されるはずなのです。作者があえて龍神を取り上げたのは、明恵の前に突然繰り広げられるスペクタクルの興奮や、釈迦の一生をまるで早送りのように見せるスピード感を表現するために、きびきびと動く龍神は最も適した配役だったのでしょう。

もう明日に公演は迫ってしまいました。『春日龍神』を考察するのにちょっと時間が足りず、中途半端な考察になってしまった事をお詫びします。

個人的には、昨年勤めさせて頂いた『海士』について調べていたときに、その典拠とされている『讃州志度寺縁起』に、シテの海人によって宝珠を奪い返された龍王が猿沢の池に移り住んで興福寺に収まった玉の守護神となることを誓ったことが記されている事が、『春日龍神』の後シテとどうリンクするのか、とっても気になっているのですが。。これは今後の課題とさせて頂きます。

また、明恵について調べていて、この人は本当に魅力的な人だと思いました。これについてもご紹介したかったのですが。。

「今は はや十三になりぬ。すでに年老いたり。死なんこと近づきぬらん。老少不定の習ひに、今まで生きたるこそ不思議なれ」という言葉を残したり、草庵での修行中に「形をやつして人間を辞し、志を堅くして如来のあとを踏まんことを思ふ」と言って右耳を切り落とし、その翌日に文殊菩薩を感得したり。『大唐天竺里程書』を記してインドまでの旅行計画を立てたり(これが替間『町積』の原拠)、19歳から40年間に見た夢を正確に書き続けた世界で唯一の夢の日記である『夢記』を残したり。34歳の時に後鳥羽上皇より高山寺をたまわり再興していることから、国宝『鳥獣戯画』と関係があるかも知れない、とも考えられているようです。

これらもまた、日を改めて考えてみたいと思います。

あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月(『明恵上人集』)

主人公がいない能~『春日龍神』について(その8)

2007-06-19 23:48:46 | 能楽
今日、『春日龍神』の申合が済みました。だいたい思うようには出来たと思いますし、おワキやお囃子方とも打ち合わせが出来上がったのですが。。左足を痛めてしまいました。まあ、切能を舞うときは稽古の最中にどこかしら負傷はするものですが。。当日までに痛みは引くと思うのですが、問題はこの痛みから、思わず型を怖がることがないように気を付けなければなりません。怖がって型をすると。。必ず失敗するか、もしくはさらに大きな負傷をするものなのですよねえ。。

さて八大龍王にひき続いて名前が上げられる「妙法緊那羅王」「持法緊那羅王」「婆稚阿修羅王」「羅喉阿修羅王」は、仏教を守護する八部衆そ龍王とともに構成する神々です。それらが「恒沙」=「恒河沙」=ガンジス河の砂の数、つまり無数の眷属を引き連れて登場している、と詞章は語ります。舞台は本当は通勤の満員電車もかなわないほどの大混雑。

さらに詞章は続けます。「龍女が立ち舞ふ波瀾の袖」。。まだ出てくるか。(;^_^A

龍女が舞う その袖は白く、海原。。と言っても本当は猿沢の池ですが、その波も白く波立ち、またその水面には夜空が映り、その上を月が舟のように渡ってゆきます。恐ろしげな八部衆だけでなく、釈迦の法座が再現されることを愛でて龍女も舞い、あたりの景色も美しく輝きます。シテの龍神はここでは脇役。型としては扇を打杖に持ち替えて座り直し、左袖を頭に返して(こういう切能の場合は、正確には左肩に返すのですが)「空色も映る」と上を大きく見廻し、「海原や」と今度は下を見込み、「沖行くばかり」と立ち上がって右へ廻り、角より常座に至り、ここにて小廻り、「浮かみ出づれば」とヒラキ。これより太鼓の打込の手に合わせて「八大龍王」と謡いながら七つ拍子を踏み、舞働になります。

ところで、この後シテは最初に扇を持って登場しますね。龍神役で扇で舞うのは珍しい。この舞働の前に扇を腰に差して打杖に持ち替えるのですが、どうしてこの役が最初から打杖を持たずに扇なのだろうか? とずいぶん疑問を持っていました。今回稽古をしてみて、はじめて理由がわかったのですが、それは至極 単純な理由からでした。。すわわち、飛び安座をして下に座っている姿が、長い打杖では似合わないのです。そりゃ、打杖では不可能、というわけではないのですが、どっかりと座した姿では右手に持った長い打杖はどうにもやり場に困るから、という感じでしょう。もちろん早笛で登場する時には打杖の方が写りがよいので、最初から打杖を持って出るやり方もあります。

「舞働」は短い舞ですが、舞というよりは強い性格を持った鬼神などの役が威力を見せる示威行動といった感じです。これにも数種あって、囃子の方にもいくつかの種類がありますが、型の方でも「龍神の舞働」といって、龍神役は舞働の中でも最も激しい型で舞います。

「舞働」は常座で終わり、最後はキリを残すのみ。ここは仕舞にもなっているところですが、最後の最後にきて体力勝負の型の連続です。面白いのは、後場の眼目たるべき釈迦の生涯の大スペクタクル、というのが詞章としては「摩耶の誕生鷲峯の説法。双林の入滅悉く終はりて」と至極あっさりと触れられているだけだ、ということでしょうか(後述)。そして龍神は明恵の前にどっかりと座って尋ねます。

地謡「明恵上人さて入唐は。ワキ「止まるべし。地謡「渡天は如何に。ワキ「渡るまじ。地謡「さて仏跡は。ワキ「尋ぬまじや。

さっき「入唐渡天の事思ひ止まり候べし」とワキが言ったのに、この念の入れよう。ただ、シテはこのところだけちょっと休む事ができます。(^◇^;) 面白いことに、どんなに激しい能でも(『石橋』は例外でしょうが。。)、動きっぱなし、という事はありません。どこかで息を少し休める箇所があり、また動き、またちょっと静止するところがあり。能の型というのはよく出来ています。面を掛けていますし、動きっぱなしの型ではシテは舞うことはできないでしょうし、またこの動→静の連続が型にメリハリを与えることにもひと役買っているとも思います。

最後はシテは正先から常座まで一気に下がって、そこで飛返り、猿沢の池水を返してその底に姿を消した体で左袖をかづき、立ち上がってトメ拍子を踏んで引きます。

主人公がいない能~『春日龍神』について(その7)

2007-06-18 23:53:01 | 能楽
前シテが中入すると間狂言が登場してワキの所望により語リをします。通常はこの間狂言は社人で、春日大社の縁起を語ります。先日お狂言方と話していたところによると、普通の間狂言と比べても『春日龍神』の間語リは少し長いそうですね。ところがこの曲には「町積」(ちょうづもり)という「替間」があって、この場合は長大な詞章に替わります。間狂言としてはかなり重い習だそうで、狂言大蔵流だけに伝わっています。「町積」については時間が許せば後述したいと思います。

間狂言が舞台から退くと、ワキ・ワキツレ一同が待謡を謡い始めます。「神託まさにあらたなる。神託まさにあらたなる。声のうちより光さし。春日の野山金色の。世界となりて草も木も仏体となるぞ不思議なる。仏体となるぞ不思議なる」そうこうしているうちに虚空に声が響き天空より光が射し込み、春日の野山は金色に輝き出します。眼前の草も木も姿を変じて様々の仏となる。。釈迦の生涯をめぐる壮大なスペクタクルが繰り広げられる、と謡うワキ一同。しかし。。

その待謡に付けて太鼓の打ち出しによって演奏が始まるのは、颯爽として躍動感に溢れた「早笛」です。そして走り出てくる後シテは。。龍神なのでした。『春日龍神』はよく上演される能ですし、また曲名を見てから舞台を見るお客さまにとっては、ここで龍神が登場する事には違和感はないと思いますが、よく考えてみると、前シテの言動や、ワキの待謡からはどこにも龍神が登場する必然性はないのです。この曲はナゾが多い能だと思いますが、わけてもなぜ後シテが龍神である必要があるのか? というのが最大のナゾでしょう。たとえば『大会』のように、荘重な出端で釈迦が後シテとして登場してもおかしくないはずなのに、なぜ龍神?

ともあれ後シテは幕から走り出て橋掛り一之松に止まり、正面に向いてヒラキをするところで「早笛」は止まり、ここで太鼓は大小鼓「刻返」の手を打って地謡が「時に大地震動するは、下界の龍神の参会か」と謡い出します。本来ならば太鼓打上のあと大小鼓は「謡頭」という手を打つべき所なのですが、それだと少々地謡の謡い出しまでに時間が掛かりすぎて空白になってしまうので、「刻返」を打つことに定められているのでしょう。これ以後、龍神の名前の列挙になります。型もまじえて詞章をご紹介すると。。

シテ「すは八大竜王よ。地謡「難陀竜王。シテ「跋難陀竜王(とサシ込)地謡「娑伽羅竜王(とヒラキ)シテ「和修吉竜王(と拍子二つと七つ踏みながら正へノリ)地謡「徳叉迦竜王。シテ「阿那婆達多竜王(とヒラキ)地謡「百千眷属引き連れ引き連れ(と右へ廻り二之松にて幕の方へ振り返り見)平地に波潤を立てて(と左トリ舞台の方へ向き行き)仏の会座に出来して(と舞台常座へ正向き入りヒラキながら下居)御法を聴聞する(面を少し伏せる)シテ「そのほか妙法緊那羅王(と面を上げ正を見)地謡「また持法緊那羅王(と立ち上がり)シテ「楽乾闥婆王(とサシ込)地謡「楽音乾闥婆王(とヒラキ)シテ「婆稚阿修羅王(と七つ拍子踏みながら正へノリ)地謡「羅喉阿修羅王の(とヒラキ)恒沙の眷属引き連れ引き連れ(と横より正へ二つ打ちながら出、先にてヒラキ)これも同じく座列せり(と飛び安座)

あ、また飛び安座だ。(^◇^;)

はじめの方の六人(匹?)は八大龍王の名で、それぞれ難陀(ナンダ)竜王、跋難陀(バツナンダ)竜王、娑伽羅(シャカラ)竜王、和修吉(ワシュキツ)竜王、徳叉迦(トクシャカ)竜王、阿那婆達多(アナバダッタ)竜王と読みます。ここには出てこないあと二匹は「摩那斯(マナシ)竜王」「優鉢羅(ウハツラ)竜王」。釈迦の法華経の会座に列した護法の龍神たちです。じつは後シテは一人で登場したのではなく、これら八大龍王が大勢登場しているのです。後シテはその象徴として一人だけが舞台に現れています。しかも「百千眷属引き連れ引き連れ」となっているから、実際には千匹の龍がここに登場しているのです。そのため後シテの演技には大きさが常に求められ、たとえば前述の「早笛」でも、『玄象』や『張良』などのようなツレ龍神の登場とはもちろん雰囲気が異なりますし、後シテが同じく龍神である『竹生島』などよりも重く、大きく、ゆったり目に演奏する事になっています。

余談になりますが、八大龍王のうち最初に登場する「難陀竜王」と「跋難陀竜王」は兄弟だったりします。(;^_^A

第8回狩野川薪能(その5~番組ができました)

2007-06-17 22:57:27 | 能楽

ををっ、ついに出来上がりました!狩野川薪能のチラシとポスター!

昨日は「子ども創作能」の稽古のために、久しぶりに伊豆の国市を訪れてきました。月に二回の稽古は ぬえはコンスタントに伊豆に通ってはいるのですが、建長寺の催しがあったり『春日龍神』の稽古をしたり、でなかなか日が取れず今回は3週間ぶりの訪問になりました。

いやいや~。やっぱり子どもたちはやっぱり覚えが早いや。そんで、声は小さいや。。(^◇^;)
これまでの稽古で子どもたちも だいたい型は固まってきたので、昨日の稽古ではともかく声を出させることを ぬえは目標にしていました。どうも型の稽古と本末転倒なような気もするが、これまではまず型を覚えてもらうこと、謡の節を覚えてもらう事で精一杯だったものですから。。声の調子を高く取ること、囃子のかけ声や楽器の音に負けない声を出すこと。案外ここらへんの稽古が一番難しかったりします。

今月末には地元の小学校で、薪能前の唯一の発表会が行われます。これは薪能の実行委員会の方々が毎年企画してくださるもので、地元の小学生を対象に「古典芸能教室」というものを開催して、能楽師が能のワークショップを行うのに併せて、そこでこの「子ども創作能」も上演されるのです。稽古の始めの頃は良くできていた子が、安心してしまって段々と稽古に身が入らなくなってこの日に大失敗をしたり、度胸のなかった子が初めて人前で演じる事の楽しさを知ったり。。こうして彼らは夏休みの薪能出演という大舞台に向かって進んでゆくのです。薪能では有料の催しに出演するのですから、舞台人としての責任、というものも それなりには生じてきます。その覚悟が「古典芸能教室」で培われるといいな、と思っています。

今回の狩野川薪能では、子ども創作能『江間の小四郎 ~安千代と大蛇~』のほかに、中学生による仕舞『東方朔』、中学生と小学生合同で演奏する連管『破之舞』が上演されます。これら地元の子どもたちによる番組が薪能の【第一部】で、続いての【第二部】が ぬえら能楽師による演能となっています。

今年の上演曲目は 三宅右矩さんの狂言『雷』と、そのあとに ぬえが能『一角仙人』を勤めさせて頂きます。狩野川薪能で上演される玄人の能には 毎年子方が出演する曲を選んでいまして、その子方もやはり地元の子どもたちの中から選抜するのです。今年の『一角仙人』では子方の役として龍神が二人登場します。観世流ではこの役はツレとして大人が勤める場合の方が多いのですが、それほど動きが激しくて、子方の役としては格別に難しいのですが。。ところが今年、ぬえは伊豆の国市で「出来すぎ子方」2名を発掘してしまった!

う~ん、そこまで舞えるのかあ。それじゃ、ってんで、もう一つ型を変えて難しくしてみました。(^^ゞ
昨日彼女たちに「あのね、型を変えるから」と言ったら「えええぇぇ~~っ、今さら。。」と言っていましたが、大丈夫、キミたちなら出来るよ。もちろん今月の「古典芸能教室」には稽古が間に合わないから、それが終わってから薪能に向けて改めて稽古を積み重ねていきます。ああ、薪能が楽しみだ!

ぬえの会サイトの方にも情報をアップしておきました。
※建長寺巨福能の写真多数もサイトにアップしてあります。よろしければご覧になってくださいまし~

主人公がいない能~『春日龍神』について(その6)

2007-06-16 23:56:21 | 能楽
クセの中でワキは入唐渡天の計画を思いとどまる事に決心を固め、クセが終わるとワキはそれをシテに伝えます。このところ、ワキのお流儀により言い回しが異なるところですが、かなりその意味に違いが出てくるのが面白いところです。

ワキ福王流では「げにありがたき御事かな。即ちこれを御神託と思ひ定めて、この度の入唐をば思ひ止るべし」となり、一方ワキ宝生流では「あまりに御留め候ほどに。入唐渡天の事思ひ止まり候べし」となります。そのあとはどちらのお流儀でも同じ文句で、「さてさて御身は如何なる人ぞ。御名を名のり給ふべし」となります。

福王流のおワキでは、シテの物語の中で神託を感じ取り、かつは春日明神の神威にひれ伏して、その御許に留まることを決意した、という内容ですが、宝生流ではしごくあっさりと、シテがそれほど止めるなら。。というニュアンスですね。クセで詳細に語られた春日明神と釈迦の威光についての物語の意義は霧散してしまうことになってしまい、ちょっと地謡が気の毒かなあ、とも思いますが。。

さて、名を問われたシテは、ワキに向きながら新たな提案をします。「入唐渡天を止まり給はば。三笠の山に五天竺を移し。摩耶の誕生伽耶の成道、鷲峯の説法、双林の入減まで悉く見せ奉るべし。暫く此処に待ち給へ」という事なのですが、ワキとしてはすでに入唐渡天を思いとどまったのだから、もうこれでシテの目的は達成されたはずなのですが。。おそらくこれはワキへのご褒美なのでしょうか。

いやいや、まじめに考えれば、先に考察したように、春日明神はワキの明恵に、自分の身体の内に秘めた神性を悟って欲しいと考えているのだと ぬえは思っています。仏教の宗派を超えて、釈迦という人間に強い憧れを持っていた明恵(後述)が、釈迦が生きていた土地を訪れて、その息吹を肌で感じ取りたいと願ったのは、ごく自然な要求でした。春日明神が明恵の入唐を止めたのは、自分の片腕としていつまでも彼を手許に置いておきたかったでしょうが、それが入唐を止めた最も大きな理由ではありません。日本に留まって衆生の教下という現実的な仕事をさせたかったのも一義的なな理由ではなく、渡海する事で明恵が時間を浪費する事を惜しんだのも本義ではない。彼自身がすでに仏性を持ち、神性を携えている事実に、明神は目を開かせてやりたかったのではないでしょうか。

ここでシテは「摩耶の誕生伽耶の成道、鷲峯の説法」と身を起こしてワキに決める型をします。超人的な役の後シテの化身としての前シテの中入りの場面では割とよくある型で、役者は下居の格好から次第に身を起こして、伸ばしていた右足の爪先を自然に立てなければならないので、少々きつい型でもありますが。。ともあれ、このようにワキに決める型をする事によって、ワキに向けた新たな提案~「三笠の山に五天竺を移し。摩耶の誕生伽耶の成道、鷲峯の説法、双林の入減まで悉く見せ奉るべし」という壮大な奇跡がこれから現前に展開される、という事が現実味を帯びてワキに伝えられるのであり、ここでようやくシテが人間ではないのだ、という事も暗示されます。そしてさらに言えば、そこまでして行われる奇瑞が、単なるワキへの「ご褒美」ではないことも読みとるべきでしょう。

そして「しばらくここに待て」と念を押したシテは「我は時風秀行ぞとてかき消すやうに失せにけり。かき消すやうに失せにけり」と名を明かして姿を消します。実演上では静かに立ち上がったシテはワキへ向き、「暫く此処に待ち給へ」と二足ツメ、それより静かに右へ廻り、角の方へ行き、「かきけすやうに」から地謡が突然位を速めて謡うときにシテも歩速を速め、角から常座へ行き、ここで小廻り、正面に向いたところで地謡は位を緩めて謡い、シテは正面へヒラキ、静かに右に取って幕へ引きます。地謡が位を進めるところではシテはそのタイミングを計って、角に到着するほんの二~三足だけ前からイキナリ歩速を速めるので、神経を遣って型をしなければなりません。

主人公がいない能~『春日龍神』について(その5)

2007-06-15 01:16:20 | 能楽
シテが「しかるに入唐渡天と言つぱ。仏法流布の名を留めし」と謡い出すところから始まるサシ~くせにかけては、仏法の故郷インドの霊地がいまこの春日野の地に遷された謂われが語られます。シテの型としてはサシのトメ、上羽の前、クセドメの三箇所でワキと向き合うのみ。居グセの定型です。型がないので今回は語釈を中心に。

シテ「しかるに入唐渡天と言つぱ。仏法流布の名を留めし。地謡「古跡を尋ねんためぞかし。天台山を拝むべくは。比叡山に参るべし。五台山の望みあらば。吉野筑波を拝すべし。シテ「昔は霊鷲山。地謡「今は衆生を度せんとて。大明神と示現しこの山に宮居し給へば。シテ「すなはち鷲の御山とも。地謡「春日の御山を拝むべし
 「我を知れ。釈迦牟尼仏世に出でて。さやけき月の。世を照らすとはの。ご神詠もあらたなり。しかれば誓ひある。慈悲万行の神徳の。迷ひを照らす故なれや。小機の衆生の益なきを。悲しみ給ふ御姿。瓔珞細なんの衣を脱ぎ。麁弊の散衣を着しつつ。四諦の御法を説き給ひし。鹿野苑も此処なれや。春日野に起き臥すは鹿の苑ならずや
シテ「そのほか当社の有様の
地謡「山は三笠に影さすや。春日そなたに現はれて。誓ひを四方に春日野の。宮路も末あるや曇りなき。西の大寺月澄みて。光ぞまさる七大寺。御法の花も八重桜の。都とて春日野の。春こそのどけかりけれ

ん~~、天竺から日本へ霊地が遷った、と信じるには、ちょっと論拠が甘いかな~、という気もしますが。。(;^_^A

サシでは天台山(中国・浙江省。天台宗の根本道場。最澄、円珍もここで修行。別名=華頂山)が比叡山に遷り、五台山(中国・山西省。文殊菩薩の住地の清涼山に見立てられる霊地。巡礼者多数)は吉野山・筑波山に遷り、さらに霊鷲山(中インド、マガダ国。釈迦が法華経を説いたという山)はここ春日山に遷った、と説かれます。注目すべきは「昔は霊鷲山。今は衆生を度せんとて。大明神と示現しこの山に宮居し給へば」という文言でしょう。先にシテとワキの問答の中でシテが「これまた仰せとも覚えぬものかな。仏在世の時ならばこそ。見聞の益もあるべけれ。今は春日の御山こそ。すなはち霊鷲山なるべけれ」と言っているのも、このサシで語られるこの文言が前提となっているからです。

クセの冒頭で引かれる「我を知れ。釈迦牟尼仏世に出でて。さやけき月の。世を照らすとは」という和歌は、『続古今和歌集』に「春日御神詠」という詞書で見え、また『沙石集』では解脱上人に与えられた歌とされています。このあとに見られる「しかれば誓ひある~迷ひを照らす故なれや」という言葉は、春日明神が衆生の迷いを救う誓いを立てた事を語り、それが釈迦の誓いと同じであることを語ります。あれあれ? 日本の神様ってそんなに優しかったかなあ? 続く詞章は釈迦が教えを説いた有様の事で、美しい装飾のついた服を脱ぎ捨ててボロをまとい、鹿野苑ではじめて四諦(四つの真理=原始仏教の中心的な思想)を説いたこと(初転法輪)を指します。

「鹿野苑」(ろくやおん)とはインド北東部サールナートのことで、本当に鹿に関係して名付けられた地名で、「鹿の王」という言葉の転訛なのだそうですね(「鹿の王」の物語のご紹介は割愛しますが。。)。春日神社に群れ居る鹿が、この聖地がここに遷された証左だ、とシテは説くのです。

このあと、クセの後半部は春日の里に花開いた仏法の果実~七大寺も光り輝き、春ののどかな陽光がそれをさらに飾り立てる、と、明恵が信奉すべき日本の霊地の賞賛が謳われます。あ、この能の季節は春だったのか。。

主人公がいない能~『春日龍神』について(その4)

2007-06-13 21:48:51 | 能楽
初同のトメにワキへ向いて出、正中に着座したシテに、ワキは「なほなほ当社の御事詳しく御物語り候へ」と言葉を掛けます。さらに詳しく話を聞こうとするワキ。ただ神慮を頼めと言うシテの態度に、何か感じるところがあったのでしょう。

ここでシテはサシ~クセにおよぶ長大な物語を語るのですが、その前にいろいろと仕事があります。すなわち座したまま正面に向き、箒を右に置き、左腰から扇を抜くとそれを右手に持ちます。どっかりと腰を落ち着けて物語る姿勢ですが、ここで二人の後見も出てきて、シテの両肩を下ろします。それまでシテの縷狩衣の両袖は肩に上げられているのですが、これは箒を持って神域を清めるという「作業」「労働」をシテがしていたことを表します。ここでシテが肩を下ろすのは、「作業」から「物語」へと場面が変化した事を表すと同時に、長い狩衣の袖を拡げて威厳を持って物語るシテの姿は、さきほどの「作業」が、じつはシテの仮初めの姿に過ぎなかったことを示唆します。言い換えれば、シテの神性を、狩衣の袖を下ろす、という単純な演出だけで表現しようとするのです。

能で袖を肩に上げる事が、その人物が何らかの作業や労働をしている事を表すのは一つの約束事で、『松風』や『芦刈』、『安達原・白頭』『敦盛』などなど。。その例は枚挙にいとまがありません、しかし、これらの曲では労働の場面から「物語」の場面に移ってもシテが両肩を下ろすことはありません。その理由は一概に括れるものでもないとは思います(『松風』『安達原』は労働を続けている事がシテの運命で、肩を上げている姿が彼女の性格を決定づけているから、『芦刈』は労働者階級から元の身分に戻るときに肩を下ろしますが、同時に扮装を改めてしまう、『敦盛』は自分の本性を明かすとすぐに中入りになってしまうから、肩を下ろす時間的な余裕がない、など)が、もう一つ着目してよいのは、肩を上げている事が、労働をする=その役の身分(位)が低い事も同時に表現している、という点でしょう。『安宅』ではシテ方全員が同じ山伏の姿であるのに、シテと子方だけは肩を上げていません(それでもシテは動きの便宜のため一時的に肩を上げます)。

さらに『隅田川』『富士太鼓』『卒都婆小町』などでも両肩を上げていますが、これは「作業」や「労働」の姿とはちょっと意味が違っています。これらは長短の別はあっても「旅」の姿なのです。この場合は必ず笠を持っている事が約束で、『鸚鵡小町』や『鉄輪』などもこれらと意味は同じです(もっとも、これらの曲ではシテは唐織を着ているので肩を上げるわけにはいきませんが、その代わりに唐織を壺折りに着ることで外出を表現します)。なお旅については、ほとんどのワキは旅の途次にあるわけですが、ワキ方では旅を理由に肩を上げる、という事はないようですね。それから、これはシテ方でも同じですが、素袍を着ているときは旅をしていても肩は上げません。

話がそれましたが、『春日龍神』ではこのように、サシの前にシテも後見もたくさんの仕事をするのです。はじめに肩を上げているのは労働の姿ですが、もとより神職の役ですから身分が低い、とは言えません。そうなるとここで肩を上げる事によって神職=高位の人間が より高く位が上がる効果を与え、そのためこの役に神性が付与される印象が起きるのでしょう。このような例はやはり脇能やそれに準ずる曲に多くあり、『高砂』『蟻通』『玄象』などに同じ例があり、『春日龍神』はこれらの曲と同じ趣向で作られています。

ところで実際の舞台上では物語のための準備に時間が掛かってしまい、少々舞台に空白が出来てしまいますね。これは致し方のないところなのですが、最近はワキの「なほなほ当社の御事詳しく御物語り候へ」という言葉のあとにすぐ大小鼓のアシライを打って頂いて、後見の作業の間の空白を埋める、などの工夫もされているようです。

主人公がいない能~『春日龍神』について(その3)

2007-06-12 01:43:08 | 能楽
日本を去り入唐渡天する事が明恵を信頼して大切に思う春日明神の神慮に叶わないだろうと言うシテに対して、ワキはさすがに反駁を試みたのか「げにげにそれはさる事なれども。入唐渡天の志も。仏跡を拝まんためなれば。いかで神慮に背くべき」と答えます。至極 正直で率直な答えで、明恵の決意、というか、熱いハートを感じる言葉です。。が、シテはその言葉を一蹴。(;^_^A そして不思議な議論をワキに持ちかけます。「これまた仰せとも覚えぬものかな。仏在世の時ならばこそ。見聞の益もあるべけれ。 今は春日の御山こそ。すなはち霊鷲山なるべけれ」

一見、奇妙奇天烈な発想に感じられるこの主張ですが、じつは根拠がないわけではなく、またこの曲の根本的なテーマと密接に結びつき、またその前提ともなっている理論だったりします。仏教の神髄に触れたいと発願して唐土から天竺にまで渡ろうとしているワキがこの主張を聞いて納得したのか、はたまた「はあ?」と疑問符が彼の頭の中を駆けめぐったのかは知らず(これについては後述)、シテは畳みかけるようにワキに語りかけます。「そのうえ上人初参の御時。奈良坂のこの手を合はせて礼拝する。人問は申すに及ばず心なき。。」…んん? 今度は「ワキをヨイショ」作戦かしらん。

この問答を受けて地謡が謡うのは、明恵がはじめて春日大社を参詣に訪れたときに起きた奇瑞です。型も合わせて解説すれば以下の通り。

三笠の森の草木の、三笠の森の草木の。風も吹かぬに枝を垂れ。(と正面へ少し出)春日山。野辺に朝立つ鹿までも(とヒラキ)。皆悉く出で向かひ(と右ウケて鹿が集まるのを見)。膝を折り角を傾け(とワキへ向き)。上人を礼拝する(ヒラキながら心持。=鹿が行ったように明恵へ礼拝する心)。かほどの奇特を見ながらも(角へ出、正へ直し)。まことの浄土はいづくぞと。問ふは武蔵野の(左へ廻りワキの前にてトメ)。果てしなの心や(左を引いてワキへ決め)。ただ返すがへす我が頼む。神のまにまに留まりて(常座へ行き)。神慮を崇めおはしませ(ワキへ向きヒラキ)。神慮を崇めおはしませ(舞台の真ん中へ出て座る)。

明恵が春日明神へ参拝したときに、草木までも頭(枝)を垂れ、春日の鹿も申し合わせたかのように集まって前脚を折って跪き、角を傾けて明恵を礼拝した、というのです。すなわち春日明神が彼を信頼して「太郎」と呼んで慈しんだのも、本来明恵自身に仏性・神性が備わっていたためなのです。この能にはハッキリとは書かれていないけれども、春日明神が明恵の渡航を阻止しようとしたのは、自分の補佐役となることを嘱望する才能が海外に流出したり、または長大な旅行によって彼が身体を損ねたり、時間を浪費する事を惜しんだから、という理由だけではなく、自身の仏性に気づかない明恵の心眼を開かせるためだったのではないか、と ぬえは考えています。ちなみに春日明神が明恵を「太郎」、解脱上人を「次郎」と呼んでいますが、これは「太郎」=「長男」、「次郎」=「次男」という意味でしょう。二人の求道者を神は我が子のように思っていたのです。

地謡が謡うこの「上歌」は、前半がこのような明恵自身も体験した奇瑞を描き、後半からはシテの神職による明恵への説得です。当然地謡も前後で印象が変わるように謡うのですが、割と上演頻度は高い能だと思うのに、ここは謡い方、とくにその位取りにいくつかのパターンがあるように思います。緩~急と次第にテンポを上げてゆくとか、「礼拝する」を重く見てその少し前から静めてゆくとか。。ぬえは植物である草木がこうべを垂れる様と、動物である鹿との動作の違いがこの地謡に表されていると思うし、シテの型は鹿の動作に付随するように付けられているので荘重な出だしから次第に盛り上がる方が良いと考えていますが。。いずれにせよ「かほどの奇特を見ながらも」からはテンポを上げて、シテがワキを諫める、という風情となります。

主人公がいない能~『春日龍神』について(その2)

2007-06-11 00:15:36 | 能楽
先日、師匠に『春日龍神』のお稽古をつけて頂いたのですが、まさにその朝、ぬえが何も知らずに師家へ向かう時間に、観世栄夫先生はご逝去されていたのですね。。ぬえなりに喪に服すようなつもりでしばらく書き込みを止めていました。。これよりまた『春日龍神』についての考察を再開したいと存じます。。m(__)m


前シテの装束は前述の通り縷狩衣、小格子厚板、白大口という姿なのですが、この装束の取り合わせは神主の役に共通と言いながら、毎回困るのですよね。縷狩衣が白地なので、白大口を穿くと真っ白。そのうえ尉髪まで白いものだから、それこそ全身が白ずくめです。なにか工夫はないものか。。古い縷狩衣は茶色なのでまだ合うのですが、最近のものは真っ白で。。

さて「一声」を聞きながら舞台に入ったシテは常座にてヒラキをして大小鼓のコイ合を聞いて「一セイ」を上げます。「一セイ」は古来「謡う」とは言わず「上げる」と言い習わしています。このところ、本来の型はヒラキなのですが、右足で止まって、あらためて右足より二足ツメる型で勤めてもよいとされています。もとより右手に萩箒を持っているのでヒラキ、と言ってもあまり腕を拡げることはできないのですが、それでもヒラキよりは「ツメ」の型の方が「ふと」その場に現れた風情は出ると思いますので、今回 ぬえは「ツメ足」にて勤める事と致しました。

「一セイ」の文句は。。「晴れたる空に向かえば、和光の光あらたなり」という「一セイ」としては破格の文字数ですが、五・七・五・七・五の定型に外れる「一セイ」は割に多いのです。むしろ『春日龍神』の前シテの「一セイ」の問題はその節の少なさで、これはよほど ゆっくりと謡わないと囃子の打上に合いません。いや、囃子方もプロだから、シテがどんなに無頓着に謡っても その中で決められた手組は打ちきるでしょうが、その代わりかなりせわしくなってしまって、それ以降のアシライと齟齬をきたしてしまうのです。こういう節の少ない謡の場合は、シテの方でも心得を持って謡わねばなりません。

「一セイ」のトメ「あらたなり」で、さきほどツメた足を二足引きます。これも定型の型ですが、さきほどヒラキをした場合は、ここで再度ヒラキをします。ヒラキの方がシテの意志の積極性が表されるかもしれませんから、曲が切能であることも勘案して、シテの好みで「ヒラキ」「ツメ足」が選択されます。このあと「サシ」「下歌」から「上歌」の中盤にかけて、まったく型がありません。本来ならば「サシ」の止まりに二足下がって「下歌」でまた二足ツメるのですが、「一セイ」で下がっているのでこの型ができないのです。何もないのも良くないと思うので、今回 ぬえは「下歌」でツメ、そのトメの打切で下がることにしました。その後「上歌」の途中、「塵に交はる神ごころ」の打切より右にウケ、三足ツメて正面に直してトメます。

シテの「上歌」が終わるとワキが「いかにこれなる宮つ子に申すべき事の候」と声を掛け、このワキの謡のうちにシテはワキへ向いてその姿を認めて「や。これは栂尾の。。」と謡い出します。ワキは「宮つ子」と呼んでいるからシテの人相に覚えがなく、春日大社の社域で箒を持っているこのシテを誰とも知らぬまま明神に仕える社人と思って声を掛けたのであり、一方シテはワキが明恵であることを知っています。ワキは社人の中で自分を見知っている者は多かろう、と疑いもしないのでしょう、「只今参詣申す事余の儀にあらず。我入唐渡天の志あるにより。御暇乞ひのために参詣申して候」とすぐに自分が参詣した理由を明かします。おそらく最初に出会ったこの老社人に来訪の挨拶をかねて参拝の用意を頼もうとしたのでしょう。

ところがシテの答えはとても不思議なものです。「さすがに上人の御事は年始より四季折々の御参詣の時節の少し遅速をだに待ちかね給ふ神慮ぞかし」と、明神の意向を手に取るように自信たっぷりに伝え、さらに「されば上人をば太郎と名付け、笠置の解脱上人をば次郎と頼み、雙のまなこ 両の手の如くにて昼夜各参の擁護懇ろなるとこそ承りて候」とまで神の言葉を代弁するのです。

このところ、謡本では約11行に渡ってシテは詞だけを謡います。謡うのも苦しいけれど、むしろ節がない詞だけでこれほどの長文を謡うので、平板になってしまう事を恐れます。なんとか工夫はしたいけれど、それも内容が人の心情であればまだ工夫もしやすいけれど、神様の言葉ですから。。(;.;)

【追悼】観世栄夫師

2007-06-11 00:10:01 | 能楽
本日、観世栄夫先生のお通夜に伺って参りました。
いつかはこんな日が来るのは分かっているはずの事だけれども、まさかこんなに突然に栄夫先生がいなくなるなんて。。

1ヶ月前に高速道路での交通事故があり、我々も心を痛めていましたが、しばらくお舞台から遠ざかることはあっても、必ずや復帰されてまたあのお元気なお姿を拝見できる事を信じ、また楽しみにもしていました。他門の ぬえたちでさえ そういう思いだったのですから、栄夫先生は能楽師みんなに敬愛されておられました。おそらく能楽師で栄夫先生の事が好きでない、という人はひとりもおられないんじゃないか、と思います。

ぬえは観世寿夫先生の生前のお姿はついに知らないままで育ってしまいましたが、先代の銕之丞(静雪)先生と栄夫先生には大いに感化された者のひとりです。能楽界での宴席でもあれば、いつも若い者のテーブルを選んではその真ん中にどっかりと座り込み、熱く能楽論を語っておられた静雪先生。その静雪先生が亡くなった時には能楽界全体が。。一瞬だけれどもフリーズしたのを ぬえは目撃してしまいました。静雪師のご逝去のあと、もちろん能の催しは各会のスケジュールに従って行われ続けたわけですけれど。。ぬえがそれら他門のお会を拝見していると。。何かおかしい。。何かが止まっちゃっている。。そのあと、また別のお会を拝見に伺ってもやっぱり同じ。。そのときの出演者全員がそうだったのではないでしょうが、ぬえは恐ろしいものを見てしまったような気がしました。静雪師のご逝去は ぬえ自身にとってもショックだったけれど、これほど広い範囲に影響を与えたなんて。

静雪師が能楽師のほとんどみなさんから尊敬を集めておられたとすれば、栄夫師はまさに敬愛を一身に受けておられたように思います。あまり口数の多い方ではなかったですが、若い者にもまったく分け隔てなく接してくださる。楽屋で作物を組み立てるのに手間取っていると、最後までそばに立ってアドバイスして下さったり指示を与えたり。。偉い先生なのに、細かい点まで楽屋で注意を払ってくださるためか、いろいろな会から出演の依頼があったようで、お舞台で後見をされているお姿は頻繁に拝見しました。今日のお通夜でも、若手の弟子が涙をこらえていました。。

栄夫先生とのお別れが、こんな突然に、こんな形で訪れようとは思っても見ませんでした。まさに「かき消すように失せにけり」。。なんだか実感がわかない ぬえには、おワキの待謡を聞いて、また栄夫先生が元気なお姿を見せてくださるような気がしてなりません。。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


合掌