ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

翁の異式~父尉延命冠者(その17)

2009-02-26 20:42:20 | 能楽
えと、「延命冠者」の面についての話題から『鷺』の上演に関する「決マリ」についてこれまで考えてきたわけですが、ぬえの所蔵資料を念のため当たったところ、ほかにもいくつか、公開された「決マリ」があるようです。なんだか能『鷺』の研究のページと化してきました。。すんません、簡単に書き込みます。。

※ まず、先日話題に出た、「鷺乱」の譜を笛方は老い鷺と若鷺とで吹き分けている、ということについて、『森田流奥義緑』に次のような記載があります。
「トメは打上げであるが、笛の打上の譜をヒシギで留めるときは若鷺であり、呂(低音)で留めるときは老鷺とする」

同書には ほかにも「もし中年の者が勤める場合は邯鄲男か延命冠者の神格化された面をつけ写実をさけたものである」「また往時は老人が舞うときは増の面をかけたという。「鷺」の能を一名増鷺とも称し、鷺には雄がいなくて雌ばかりだといい伝えられた俗説によるものである。」と、興味深い記事が載せられています。今日では老人が直面で勤めるのを本義とするかのような常識を根底から覆すような記事で、『鷺』を老人が勤める場合は女面である「増」で素顔を隠すのだそう!。。どのシテ方の流儀の伝承なのかについて言及がなく、限定的な演出である可能性もあるにしろ、寂昭さんのご指摘の通りかつてはそういう「決マリ」も存在したということが裏付けられた格好です。

また ぬえ所蔵の資料の中に金剛巌師の「延命冠者をつけるきまり」という文章がありました。ここに記された『鷺』に関する記述がまた、興味を引きます。いわく「結婚披露能(昭和二十五年十月)先代の発意に因り この度限りの試みとしまして童子をつけてみました」とのこと。。「童子」とは。。これはどうやらこれは廃絶した坂戸金剛家に伝わっていた伝承であるらしいのですが、これは「鷺には雌しかいない」という理由で女面を使うのとは対極的な扱いです。またその点を無視して考えてみても、「増」を掛けるのであれば鷺の神性を考慮しての選択とも考えられるのですが、「童子」であれば、ちょっとそれとは意味合いが違うように感じられます。

「増」は能ではあくまでも人間ではなく神仙の女性の面と考えられているのに対して、「童子」面には神性がもう一つ希薄であるようにも感じられます。すなわち『菊慈童』で「童子」面が使われる場合は、これは明らかに神仙の者であるわけなのですが、一方 童子は『田村』などの前シテにも、また亡霊である『天鼓』の後シテにも、そればかりか鬼神の化身である『大江山』の前シテにさえ使うわけで、ようするに少年の役に幅広く使われているからなのです。

もっとも、これは能面の種類に鑑みて気づく、ある種の「偏り」が原因であるかもしれません。実際のところ、女面というのは非常に種類が多く、その役の年齢、性格、彼女をめぐる事件の内容によって、面を慎重に選んで上演することになります。ところが男面には、女面ほどのバリエーションがなく、たとえば少年の役のための面としては わずかに「童子」「慈童」の二面がある程度で、この二面で「聖」も「俗」も、その役割を演じ分けているのです。

いずれにせよ『鷺』に使う面にはこれほどのバリエーションがあるとは考えてもみませんでした。それほど流儀による解釈の幅を大きく許す曲なのでしょう。現代では(と、一応限定しておきます)直面で演じるのが当たり前の曲の『鷺』であるから気づきにくいのですが、いざその代用としてどの面を使うのか、その選択には流儀によってこれほど差があり、それはすなわち流儀それぞれの『鷺』という曲の解釈を反映しているのでしょう。

翁の異式~父尉延命冠者(その16)

2009-02-24 01:17:52 | 能楽
「父尉延命冠者」の上演史の話題の前に、脱線ついでに『鷺』の話題をもう一つだけ。

この曲って、ぬえ、ずっと不思議に思っているんですけれども、なんで白式の装束にするのでしょうね。。じつは「ともになさるる五位の鷺」と詞章にあり、『平家物語』に延喜帝の勅命に従ってかしこまった鷺に対して五位の位を授けられたのがこの鷺ならば、それは。。いまの「ゴイサギ」ではあるまいか?

ところが能『鷺』のシテが頭上に頂く鷺の建物は、あきらかにゴイサギではなく白鷺ですよね。細かいことを言えば、シラサギという種類の鳥は存在せず、体色が白い鷺をシラサギと総称するのですが、少なくとも ぬえの師家の鷺戴の建物は、後頭部に冠羽をつけた夏の「コサギ」さんです。これに対して「ゴイサギ」というのは羽がグレー、背中と頭が黒、そして腹部が白い鷺なのです。能の『鷺』のシテが白式の装束に身を包むのも、あきらかに白鷺を意識してのことだと思いますが、現代はともかく、往時には白鷺とゴイサギの区別は常識的についたと思うし、まして『平家物語』に出てくるこのお話がさす鳥がゴイサギのことであるのは自明だったと思うのですが、なぜ能は白鷺の姿になるのだろう。

これは ぬえがずっと抱いている疑問なのでした。やっぱり黒とグレーのゴイサギじゃ幽玄にならないから、本説には頓着せずにあえて白鷺の姿にしたのかなあ。こういう例は『遊行柳』のクセに「手飼にの虎の引き綱も、長き思ひに楢の葉の、その柏木の及びなき。。」とあるのが同じような感じではないかと思います。この場面は『源氏物語』の「若菜上」にある、柏木が女三の宮の姿を見初めたシーンが下敷きになっていますが、『源氏』ではここは虎、ではなくて猫ニャンなんですよね。『遊行柳』のクセに虎が出てくる必然性もないわけで、ましてやこの場面では後シテが柳の徳を述べる、その例証として蹴鞠のコートを区切る四本の木の中に柳が含まれていること→『古今集』春上の素性法師の歌で都の美しさを柳の緑と桜の薄紅色を混ぜたようだと形容されたこと→その都の公達が六条院で蹴鞠を楽しみ、そして柏木が女三の宮を見初めたこと、と話題が発展してゆく中での話なので、本説『源氏』の通りの猫ニャンを登場させても何の不都合もないはずなのですが。。これはやはり猫ニャンでは幽玄にならない、と作者。。観世小次郎信光が判断したのだと思うのです。

『鷺』も、帝の勅命に従った鳥類の姿に、ある種の神性を感じ取った作者が、その鳥が舞を見せる、という独特の趣向の能に仕立て上げたもので、その神性の表現には純白の白鷺の姿がふさわしかったのでしょう。とすればシテ方の流儀により「老い鷺」の表現として尉面を使う場合、そのために選ばれるのが「石王尉」や、そしてこれはまた寂昭さんから ぬえに寄せられた情報なのですが、「小尉」という選択肢もあるらしいことも納得できます。これらはどちらも老神または神の化身としての尉の面ですね。女面を使う場合も「増」を使うのは、これまた女神としての性格を意識してのことに他なりません。そしてまた「延命冠者」を使う場合も、この面は『翁』のツレとしての若い神仏の姿。すべて鷺の神性の表現と考えれば辻褄が合うのですね。これらは当然、「元服前および還暦後の役者のみが直面で勤める」という『鷺』本来の上演の決マリが存在する理由にも投影されているのでしょう。

さて次回こそ~「父尉延命冠者」に戻りまして、この『翁』の異式がどのように上演されてきたかを見てみましょう。今度こそ~

翁の異式~父尉延命冠者(その15)

2009-02-20 01:03:12 | 能楽
こういった能楽の中の、主に流儀による「決マリ」は多岐に渡りますから、ぬえはある時からそれを知るたびにメモを取ることにしました。それは自分が勤める能の中に、たとえ ぬえ自身にはそれを知らないでも影響のない「決マリ」であっても、やはりおシテを勤める以上、心構えとして知っておいて舞台に臨みたいと思うからなのですが、それでも ぬえが知った情報を勝手に開陳することは控えています。

上記の『小鍛冶』『鉄輪』のおワキの演技の違いは「目に見える差異」で、注意深く観察すればその違いも発見できるでしょう。しかし「決マリ」の中には「呼吸」とか「タイミング」といった「目に見えない決マリ」もあって、こういう事は得てして口伝に属するものですので、ぬえがそれを知ったからといって勝手にブログに書き込むわけにもいきません。

ところが現代では、能楽雑誌などに掲載される寄稿や対談などで、時折 重要な事。。ときには かつて秘伝とされてきた「決マリ」事が能楽師自身によって公開される事も増えてきました。一噌流のお笛では『道成寺』の「乱拍子」のところで「翁之舞」の譜を吹いておられる。。などはその1例で、これは ぬえは以前から知っていて、最初にそれを聞いたときは本当に驚きました。最も邪悪な魂が現れる能の中に、お笛方は最も聖なる曲の譜を吹いておられたとは。。この「決マリ」はお客さまにとっても印象的だと思うけれど、『道成寺』という重い習いの曲の伝承を、ぬえは勝手に公開するわけにはいきません。。ところが数年前だと思いますが、能楽雑誌の中でお笛方ご自身からこの「決マリ」について言及があって、ぬえもようやく、このようにブログに書き込みをすることができるようになりました。

申し訳ありませんが、重要な流儀の「決マリ」などについての ぬえの書き込みは、このブログを含めて、すでにどこかで情報が開陳された事を ぬえが確認したうえで書き込みをしている事をご了承ください~

さて「延命冠者」が「増」の面を掛けることがある、という事に戻りまして。ぬえも確かにその情報に接した記憶はあるのですが、それは まだまだ ぬえが未熟だった頃のようで、詳しいメモも、その出典も、残念ながら記録されていません。

この情報に接したときも、「ええっ『鷺』に「増」。。女面!!??」と驚いた記憶だけはがあるんですが。。さて今となってよく考えると。。「増」を掛けて『鷺』を舞うのは無理。。とは言わないまでも大変に難しいでしょうね。考えてみれば『鷺』は、なんとなく直面を前提として舞台面を想像してしまうので、「増」と言われると、なんというか予期せぬところから伏兵が現れた。。という感じです。

でもしかし、この鷺は能『鷺』には「ともになさるる五位の鷺」と帝から官職を受けたと記され、能の本説たる『平家物語』巻五の中の「朝敵揃」では延喜帝によって「鷺の中の王たるべし」と位置づけられた点から見ても、どうも当時の常識としてはオスの鷺と見るのが自然ではないかと思います。いや神泉苑に行幸した一行が、羽を垂れて宣旨に従った鷺の性別まで確認したかどうかは知りませんが。。

鳥類である鷺に女面を使うのは、『鶴亀』のツレが鶴は女性、亀は男性として描かれることと通底しているのか、もしくは『鶴亀』の影響を受けているのかもしれません。

話はますます脱線しましたが、次回は「父尉延命冠者」の上演史について述べたいと思います。

翁の異式~父尉延命冠者(その14)

2009-02-19 23:33:30 | 能楽
延命冠者が掛ける面について「増」が使われる、とする記述があることを寂昭さんからご指摘頂きました。ありがとうございました。そう言われれば、ぬえもそのような記述を目にした記憶があることを思い出しました。寂昭さんは下掛り系の流儀の記述ではないか? とされましたが、たしか ぬえもそのような記憶があります。ただ、ぬえがこの記述を見たのは相当以前で、まだ新しい発見があるとすぐ出典を含めてメモを取る習慣が ぬえになかった頃のようで、やはり ぬえの記憶も曖昧なままです。。

話は脱線しますが、能にはいろいろな「決マリ」が、大小さまざまに数え切れないほどあります。それを知らなければ実演に支障をきたすようなものはみんなが心得ていているのですが、それを知らなくてもほかのお役の演技や演奏にほとんど影響のない流儀の細かな主張などは なかなかすべての演者が知っているとは限りません。いや、ほとんど知られていない「決マリ」だってたくさんあるのです。

それで、ぬえも能の上演の際におワキやお囃子方、また狂言方などの演技・演奏に不審な点があれば、できるだけ演者に伺うことにしています。。ま、できればその当事者に伺うのが一番よろしいのですが、それが偉い先生であれば なかなか気安くお尋ねするわけにもいかず、楽屋働きを勤める若い人に聞いたりすることも多いですが。

そうするとまあ、案の定 ぬえが知らない いろんな「決マリ」があって、それに従ってその演技・演奏を勤められたのだ、ということがわかったりします。近いところでは、これは楽屋での雑談の中で知ったことなのですが、あるおワキの流儀では『小鍛冶』と『鉄輪』はすべて逆の手順で行う、という「決マリ」がある、という事を知りました。これはどういうことかと言うと、この2曲はどちらも後シテが登場する直前に「ノット」の囃子にのって、おワキが一畳台の上に乗って祈祷する場面があるのです。ところがそのときの台へ上る足、降りる足。それから幣帛を右から振るか左から振るか。こういう作業の手順がことごとくこの2曲では逆に仕るように定められているのだとか。

方や稲荷明神に祈誓するめでたい曲、方や怨霊を調伏する陰陽師のまじない。なるほど、曲の性格は正反対です。それだから型が逆につけられているのだろうということは容易に推測されますが、このような演技の差は、ほかのどのお役の方にも影響のない、言葉は悪いですがささいな違いであって、よく注意しなければ本人以外誰も気がつかない差異でしょう。ところが演じる当人にとっては「正反対の演技」となれば、これはそれぞれの役を勤める心構えに巨大な影響をふるうに違いありません。性格が違う2曲なのに、おワキは同じように台に乗り、同じように祈祷するからこそ、同じ気持ちで勤める事がないようにわざわざ「決マリ」として差異を設けてあるのでしょうね。こういうところを流儀の「定め」として細かく規定していくことの積み重ねが、「曲趣」という形に昇華してゆくことになるのでしょう。

こういう「決マリ」は数限りなくあるので、ぬえはそれを知るたびにメモを取っておくことにしています。そうしないと忘れちゃうし。でも、これは楽屋内で能楽師同士だから教えてくれた情報であって、このブログでもなかなかすべて開陳するわけには参りません。その「決マリ」を公開する権限は、その流儀の中にこそあるからです。中には秘伝に類することもあるでしょうし。

上記のおワキの例は、とくに秘し隠す重要性を持った「決マリ」の部類ではなかろう、と。。これは ぬえが勝手に推測しているだけではありますが、注意深く2つの曲でのおワキの演技を観察して頂ければ見所でも差異に気がつく方もおられる、言うなれば「目に見える差異」ですので、記してみました。が、念のためお流儀の名前までは書かないでおくことにします。

ちなみに後日、この時 ぬえにこの「決マリ」を教えてくれた友人とは違うお流儀のワキ方の友人に聞いてみたところ、そちらのお流儀では『小鍛冶』と『鉄輪』の演技の間にこのような差異はない、とのことでした。これも興味深い点だと思います。

翁の異式~父尉延命冠者(その13)

2009-02-16 02:10:40 | 能楽
『鷺』という曲は、ぬえが所属する観世流の場合ですが、古来「元服前、あるいは還暦後の年齢の者しか勤めてはならない」という定めだったのだそうです。現代ではかつてほどには厳格には守られていないと思いますが、「元服前」「還暦後」というのは、短命だった往古には「少年」「老人」を意味していて、すなわち清純な白式の鷺の役は、この役を大切にするために、役者も色気のある年齢のうちは勤めない、ということを意味します。「性」というものから役を、曲を遠ざけて尊重したい、という考え方で、こういうのは日本人に独特の感性ではないでしょうか。

『鷺』は能の習い曲の中でも「重習」に位置しておりまして、これはおいそれと誰もが勤めることを許される曲ではありません。逆に『鷺』を勤めることが許された能楽の家柄に生まれた子弟は、まだ幼い頃から父親によって『鷺』の稽古を受けて、自分ではその重要性がわからないままに親の意向によってこの曲を勤めることになります。一方、弟子であっても長老と呼ばれる年齢となり、また流儀や家に貢献した者には『鷺』を披くことが許される場合もあります。

ところが厳密に言えば、幼い役者が勤める『鷺』と老齢の者が勤めるそれとでは少し違いがあるのです。まあ。。子どもが勤める場合は着付の白練を振り袖にするとかという点も違いといえば違いですが、特徴的なのは笛の譜で、これも小さな違いではありますが、「若鷺」と「老い鷺」では微妙に譜を替えて吹きます。

極論すれば、幼少時にこの曲を勤める機会を得ず老齢になってはじめて勤める役者は、厳密に言えば「若鷺」の『鷺』を勤める機会は永久に失われてしまう、ということになります。厳密に言えば、という程度の違いではありますが。。

ところが、ここにもう一つの道があります。上記のように『鷺』は元服前、もしくは還暦後の役者だけが勤めることを許されるのですが、事情により例外的に、元服後・還暦前の役者が勤めることが余儀ない場合には、通常 直面で勤めるはずのこの曲のシテを、面を掛けて勤めることを条件に上演が許される、とされているのです。どうしても仕方がなく上演する場合には、「色気」のある年齢の素顔は面の下に隠して上演するわけですね。

この場合。。例外的な措置の場合ですが、観世流では役者は「延命冠者」の面を掛けて勤めることになっています。なぜこの場合に「延命冠者」なのか。。うがって考えれば、「延命冠者」の福相が、先人の考える『鷺』のテーマに一番近い相好なのかもしれません。現代人として考えれば、『鷺』のシテに、そしてこの能が描く内容が、必ずしも顔に満面の笑みを浮かべる福寿とは直結して考えにくいような気もします。むしろ ぬえは『鷺』には「爽やかさ」を感じますけれども。。

ともあれ「父尉延命冠者」に登場する「延命冠者」の面には、このように他の曲で例外的な使われ方をする場合があることを、ご報告しておきたいと思います。

ちなみに『鷺』で面を掛けて上演する場合、シテ方の流儀によってその面の選択には特色があるようですね。ぬえが調べた範囲ですが、流儀によって以下のような異同があるようです。

観世流=延命冠者
宝生流=若男
金春流=延命冠者
金剛流=延命冠者・石王尉
喜多流=直面に限る

「父尉延命冠者」をレパートリーに持つ観世流と金春流が『鷺』に「延命冠者」を用いるのは当然としても、これに対して、「父尉延命冠者」を上演する習わしのないお流儀では、必要がないのでおそらく「延命冠者」面の所蔵もない、という可能性もあってその影響の結果なのかもしれませんが、観世・金春とはずいぶん違うようですね。ぬえが驚いたのは金剛流の「石王尉」で、これは舞を舞う老神の面です。なるほど『鷺』を神の使いか化身と解釈するのですね。

金剛流以外の流儀が「延命冠者」や「若男」という若い男の面を使うのと比べても、金剛流の「石王尉」という定めはいかにも異色ではありますが、金剛流には「延命冠者」の選択肢もあるようです。なるほどこれは、面を掛けて『鷺』を演じる場合、ほとんどのシテ方の流儀が子どもがシテを勤める『鷺』を想定して、その姿の仮託として面を用いることを定めているのに対して、金剛流では役者が「若鷺」としてこの曲を舞うのか、また「老い鷺」として勤めるのかを選ぶことができるのでしょう。こういうところ、お流儀の主張の違いがかいま見えて面白いと思います。

翁の異式~父尉延命冠者(その12)

2009-02-14 01:35:51 | 能楽
「父尉延命冠者」に使われる面はとっても独特ですね。「翁面」として知られる「白式尉」「肉式尉」と同じ切り顎の造作ながら、目尻が釣り上がって、どうも福々しい相とは言いにくい「父尉」。そしてそれとは対照的に満面の笑み。。現代の感覚からすればそれはやや不気味な印象も与えるほどに笑った相好の「延命冠者」。

「父尉」はこの『翁』の異式「父尉延命冠者」だけにしか使われない。。ということは事実上どのおシテ方の家にあっても数十年に一度しか舞台に登場しない、という、それはそれは珍しい面です。前述のように「白式尉」と同じ造作を持った、すなわち「白式尉」と出自が同じ面で、さてその出自がどこ? と尋ねられると、それはまだ謎としか言いようがないと思いますが、室町時代の能楽の大成期よりは遙かに年代を遡った、原初の『翁』の発生と「父尉」は関連を持っていた可能性があるわけです。詳しくは後述したいと思いますが、その原初の『翁』には「父尉」も「延命冠者」も「翁」「千歳」「三番叟」の役とは別の一役として舞台に登場していたことが知られています。

言うなれば「父尉」(と「延命冠者」)は、本来『翁』とは切り離せない歴史的な経緯を踏んでいるのですね。現在の観世流の「父尉延命冠者」では「翁」「千歳」の代役として「父尉」「延命冠者」が登場するわけですが、歴史的に見れば「父尉」も「延命冠者」も「翁」「千歳」とはそれぞれ立場を異にしているはずで、これは誤解に類するものなのかもしれません。このあたり、なぜ三番叟が直面で「揉之段」を舞ってから、おもむろに黒式尉の面を掛けて、「この色の黒い尉が。。」と、まるで最初から老人の役であったかのような発言をするのか、など、『翁』に付随するあまりにも多くの謎とともに体系的な解明がいつの日かなされるのを期待を持って待ちたいです。

そして「延命冠者」の面。これまた能面(?)としてはほかに類を見ない特長を持った面で、なにしろこの面、能楽に使われる面としては唯一、シテ方と狂言方のどちらもが舞台で掛ける面なのです。

普通 能楽に使われる面はシテ方が使う「能面」と、狂言方が使う「狂言面」に厳然と区別されています。ところがこの「延命冠者」の面だけはそれに当てはまらない。それはなぜかと言うとじつは単純な理由で、この面を掛ける「延命冠者」の役が現在では常の『翁』の「千歳」の役の代わりとして「父尉延命冠者」の中に配置されてあって、その「千歳」の役が、シテ方の流儀により上掛りの流儀(観世・宝生)ではシテ方が、そして下掛り(金春・金剛・喜多)では狂言方がその役を勤める習わしになっているからです。

実態が分かってみれば「なあんだ」という感じでしょうが、さらに加えて言えば『翁』の異式として「父尉延命冠者」をレパートリーとして掲げているのは観世流と金春流のみなので、「延命冠者」の面をシテ方の役者として使うのは観世流のみ、そして狂言方がこの面を所蔵しているのは、もっぱら金春流で「父尉延命冠者」が上演された場合に備えて、ということになります。こう考えてくるとやはり「延命冠者」面はやはり特殊な面だということは間違いないでしょう。

ところが、先ほどシテ方として「延命冠者」面を掛けるのが観世流のみ、と書いたのですが、それは「父尉延命冠者」の中での使われ方。。すなわち本来的な使われ方の話で、じつは「延命冠者」面には それ以外にもう一つ変わった使われ方をする場合があるのです。それは能『鷺』で、この曲のシテが「延命冠者」を掛けることがあるのです。

うさぎに芸をしこんだ能楽師(承前)

2009-02-13 00:38:19 | 能楽
いやはや、怒濤のような1週間でした。。と思ったら、あれ? 1週間ではなくてたった5日間だけだったの??

。。ぬえには1ヶ月ぐらいに感じたけれども、じつは数日のことだったようです。日曜に師家の師範の勉強会として催されている素謡会があり、その前後にはそれぞれ申合があり。そして火曜日と水曜日には幸清次郎先生のお会があり、ぬえは能『野宮』『杜若』『朝長』の地謡を勤めて参りました。この『朝長』が極重い習の「懺法」の小書付きでして、上演時間はなんと2時間半に及びました。秘伝の曲の上演の場に参加させて頂けるのはこの上ない光栄ではありましたが、なんせ足の痛かったこと。。

「懺法」は観音懺法という法要の雰囲気を作り出すために、またそれは同時に、それに引かれて冥界から現世までの道を歩んでくる朝長の魂の有様をも表現しているわけですが、それにしても囃子方が呼吸を計りながら、あれほど長大な間をとって最小限度の打音だけを響かせて、その静寂の間の中に表現を求めるというのは、なんとも日本的というか。。究極の演出法でしょうね。こういう精神に軸を置いた方法論は日本にしかないでしょう。

今年の中でも最も大きな催しの一つだと思うこの2日間を終えて、すぐまた翌日の水曜。。つまり今日は師家の稽古能の日でした。曲目が『六浦』『錦木』という、どちらも珍しい曲目のうえ、ぬえは『六浦』の地頭を任されていました。『錦木』の地謡(こちらは地頭ではなく末席)も謡ったうえでのことだったのですが、この多忙のさなかではありますが、まあ『六浦』はせっかく頂いた地頭の大役ですし、またもう一番の『錦木』も、珍しい曲であるからこそ、ここで暗記がおろそかで地謡を間違えたり、間を外すようでは いかにも平凡。そういう時、こういう曲だからこそ、以前からちゃあんと準備や研究をしておいて、それを発揮できるようにがんばりました~。まあ、結果は ほぼ。。の但し書きつきでしたが、一応の成果は出せたと思います。

さてこの数日の楽屋の中で、以前お話ししました うさぎにバンザイを教え込んだ囃子方の友人に会いまして、そしたら彼、「また新しい芸を教えました」とのこと(!)。今度の芸は「輪くぐり」なんだそうです。はあ。。ぴょ~んと輪を飛び抜けるのね~。。ぬえ家のマリモちゃんにはできないなあ。。

でもいろいろ彼と話をしていて、ぬえと違う点も発見しました。まず、彼のお迎えした うさぎさんは男の子なんだそうです。そうなのか。ぬえ家では過去にお迎えした子はみ~んな女の子~ (*^。^*)。

んで、彼の うさぎさんとのお付き合いの仕方が、「舎弟」「子分」として教育しているらしい。ん~、ぬえとずいぶん違う。ええっ??うさぎさんにマウンティングして、どっちがボスかわからせてから芸を仕込む。。?? んんん~~、ぬえ家では今のマリモちゃんも寒い夜は ぬえのおフトンの中にもぐりこんできて、一緒に寝ている、という感じのおつきあいの仕方なんだが。。

そんで彼の目標が。「いつか囃子を仕込んで、自分の代わりに申合に行かせたい」


それは無理だろう。。 (・_・、)

翁の異式~父尉延命冠者(その11)

2009-02-08 00:47:24 | 能楽
「父尉延命冠者」の申合のあとに行われた装束合わせに ぬえはやや遅れてお手伝いに参加しましたが、装束蔵の前の間に行ってみると、案の定 白地の指貫がすでに出されていて、おおっ、これで数十年ぶりに上演される「父尉延命冠者」がそのまま昭和三年の高輪能楽堂の舞台披キの再現になるぞ! と喜んだのでした。

昭和三年の「父尉延命冠者」の際に大夫が着ておられる翁狩衣は現存するとは思うのですが、当時の上演写真を見る限り、師家にはこれと似ている翁狩衣が二~三あって、どうも自信を持って断言することができません。そのうえ厳密に言えば『亀堂閑話』に記されている「父尉延命冠者」の翁狩衣の定め「銀地に錦の狩衣」というのは存在しません。「銀地。。」ではなくて、正確には「地色よりも蜀江錦の銀が勝った(翁)狩衣」というニュアンスでしょう。

この意味によれば今回の「父尉延命冠者」にあたって師匠が用意された翁狩衣もまさしく、地色は茶なのですが、遠目にはそれよりも銀の蜀江文様のまぶしさがより勝っていて、まるで銀地に見える狩衣でした。ちなみに書生さんと「白地の指貫が出たね。よかったよかった」「??なぜです??」のような会話があってから銀の翁狩衣に話題が移って、そのときその書生さんが言うには「先生は“全身真っ白にしたい”とおっしゃっておられました」ということでした。

なるほど。。これはある種の「白式」であるかもしれません。「白式」というのは装束を白色に統一してまとめることなのですが、さてその意義は? と問われると、その答えは単純ではありませんが。。

本三番目物の能、あるいは『翁』でシテが白の襟を二枚重ねて着るのは有名で、その説明にはしばしば「白色は能では最も神聖・清純な色で、その色の襟を二枚掛けるのは本三番目能と『翁』に限られる」とは言われていて、まさにその通りなのではありますが。さりとて、それらの能が装束まで白式になるかと言われれば、決してそんなことはありません。

一方、「白式」という名称が付けられた小書、あるいはその小書によって装束が白式になる小書には『融・白式舞働之伝』『三輪・白式神神楽』『船弁慶・重キ前後之替』などがあろうかと思います。がしかし、これらを見ても「神聖・清純」という言葉が当てはまる曲は『三輪』ぐらいのもので、『船弁慶』に至っては、シテは平家の公達という品の良さはあっても、やっぱりこの曲では知盛は怨霊ですし。。

そういうわけで、「白式」が即ち「神聖・清純」とは言えないわけなのですが、それでも「白式」になった場合、その能は常の演出よりも重く扱われる事は暗黙の了解事項でもあります。今回の「父尉延命冠者」も、ぬえが拝見している限りでは常の『翁』よりも全体的にシッカリとした位で演じられておりました。

もとより神聖である『翁』の「白式」。。kろえはどう捉えたらよいのでしょうか。「父尉延命冠者」の型附は見たことがない ぬえにとっては そこにどのような記述がされているのかは未知の世界で、これ以上の考察は不可能ではありますが。。それでもたとえば金春流の『翁』では、しばしば「白式」で演じられていますね。この場合は直面になる事が多いように思いますし、この例との関係も含めて観世流の「父尉延命冠者」について。。否、やはりいろいろな面で謎が多い『翁』についての考察は学究による解明を待つほかないのかもしれません。

次回は装束を離れて、「父尉延命冠者」に使われる面について考えてみたいと思います。

翁の異式~父尉延命冠者(その10)

2009-02-06 02:30:30 | 能楽
先にあげました先々代。。つまり初世・梅若万三郎の著書『亀堂閑話』には「父尉延命冠者」の際は大夫が「銀地に錦の狩衣を用ひる」ことを定めとしている事が記されていました。

ところでこの『亀堂閑話』の記事の中で「父尉延命冠者」の上演例として挙げられている「昭和三年、此処(高輪)の舞台披き」の際の写真を前回このブログで紹介致しましたが、じつはもう一つ、装束の面でこの写真を見て頂きたい点があるのです。それが大夫が下に穿いている「指貫」で、このときは白地の指貫を使っておられます。文様は指貫としてはごく一般的な八つ藤文様ですが、白地の指貫というのはあまりご覧になる機会も少ないのではないかと思います。

じつはこの白地の指貫も師家に現存しておりまして、このたびの研能会初会の「父尉延命冠者」でも師匠はこの、昭和三年の「父尉延命冠者」で使われたまったく同じ指貫を使われたのです。昭和三年の高輪能楽堂の舞台披キから数えて昨年が研能会創立八十周年になりますが、八十年を経て上演された「父尉延命冠者」に同じ装束が使われるとは、なんとも感慨深い思いがします。

ぬえがこの指貫に気づいたのは書生時代でして、師家のお装束蔵に所蔵されている装束の中に「白地八つ藤文様指貫」と畳紙に墨書されたお装束があり、さらにその名称の横に昭和三年正月にこの装束が新調されたことが記されているのを見たときでした。白地の指貫は珍しいですし、まして昭和三年という年が記されていることから、さっそく師家の古い上演記録のアルバムを探して確かめてみたところ、これが研能会の原点である高輪能楽堂の舞台披キの催しの、それも冒頭に上演された『翁・父尉延命冠者』の大夫が着用するために新調された指貫そのものであることが判明したのでした。

判明はしたのですが、とくに師匠に報告するわけでもなくその後の年月が流れまして、また師匠も最近は『翁』でこの白地指貫を二度ほど、好んでお使いになっておられました。

で、このたびの「父尉延命冠者」は研能会の原点となる曲の上演ですから、さすがに ぬえも師匠がどのお装束を選ばれるのか、関心がありまして。。で、研能会の申合のあとに行われる装束合わせのときに、いまの書生さんにそっと聞いてみました。「翁の指貫はどれが選ばれた?」。。書生さんの答えは「指貫ですか? ええと。。白地を出しておけと言われました」おお、やっぱり。そうでなくちゃ。

で、見ればたしかにあの指貫が畳紙から出されて、ほかの装束と一緒に並べられています。さすがに ぬえは嬉しくなって、師匠に申し上げました。研能会の原点の高輪能楽堂の舞台披キで「父尉延命冠者」が上演されていること。その上演のためにこの白地指貫が新調されていること。。もう一つ、近来の能楽史の研究成果から意外な発見があって、その意味からもこの指貫が今回の「父尉延命冠者」に使用されることに意味があること。。(この研究成果については後述します)

意外にも師匠はこの白地指貫の来歴をご存じなくて、驚いておられました。まあ、そんなものです。実演者として次々に押し寄せてくるご自身の上演スケジュールと格闘しながら、弟子の稽古もつけ、能楽公演の母体となる研能会を運営する当主としての責任や実務に多忙ですから、こういう歴史的な側面のバックアップは周囲の人間がするべきでしょう。それでも、ぬえの報告より以前に、すでに師匠が今回の「父尉延命冠者」のためにこの指貫を選ばれたことも、なにかの因縁のようなものかもしれません。もちろん最近の『翁』では師匠はしばしばこの白地の指貫を選ばれることが多かったのも事実ではあるのですが。。

でもまた ぬえは違う事を考えました。「父尉延命冠者」の時には初世のお言葉によれば「銀地に錦の狩衣を用ひる」のが定め。そしてそれに関する記述こそないものの、狩衣の下には白地の指貫。。これは「白式」を意味しているのではないか??

乱能、勤めてまいりました!(その2)

2009-02-05 01:14:36 | 能楽
今回の乱能では、ぬえは一調「勧進帳」(謡:野村万作師、小鼓:武田宗和師)、一調「屋島」(謡:久田舜一郎師、小鼓:足立禮子師)、仕舞「船弁慶」(シテ:吉谷潔師)それに半能の『石橋・大獅子』(シテ:山本東次郎師、ツレ:山本則重/山本則孝/山本泰太郎の各師、ワキ:山本則直師、笛:山本則秀師、小鼓:味方團師、大鼓:柴田稔師、太鼓:山本則俊師、地謡:安福建雄師ほか)が印象的でした。

これらの番組はどれも本職顔負けの見事な謡・舞・囃子で、とくにお狂言の山本さんのご一家は、こんなに身体が動いていいの~?? というほど、シテ方も嫉妬しそうな出来映えでした。ほかにも舞囃子『吉野天人』の笛の新井麻衣子さんと太鼓の墨敬子さんが光っていましたし、この日は女流能楽師も面目躍如だったのではないでしょうか。

お客さまに笑って頂ける楽しい演目も結構ですが、ぬえはやっぱりこのように一生懸命・全力投球で最善の成果を目指す人が集まる舞台が好きです。この日は終演後に主催の中森氏によってパーティーも催されたのですが、このときに友人たちと話し合ったことには、やはり乱能と言えども、本来は専門の役目を離れてほかの役を勤めることで、より舞台に対する見識を深める。。結局は演者の勉強のためにあるのが本来の目的であり、あるべき姿であろう、ということでした。ぬえとしては、正直に言えばそこまで真摯に乱能の意義を考えたことはなかったのだけれども、やはり工まれた笑いよりは、専門以外のお役に果敢に挑戦して、それでもどうも勝手が違って。。という感じで笑える方が好きかなあ。

それから驚いたのが半能『融・十三段之舞』(シテ:一噌庸二師、ワキ:古賀裕己師、笛:鈴木啓吾師、小鼓:河村晴道師、大鼓:味方健師、太鼓:小島英明師、地謡:国川純師ほか)。開演直前に鏡之間に行ったところ、おシテは見慣れないお姿。。黒頭に初冠、白狩衣に大口、そして手には笏を持っておられます。この姿は観世流の『融』では「十三段之舞」ではなくて「白式舞働之伝」に近い姿のはず。。ここでようやく気づいたのですが、この日の上演は観世流にある小書「十三段之舞」ではなくて、これは金剛流の同じ名称の小書「十三段之舞」だったのですね。

催し自体が観世流の主催者でしたから、これは てっきり観世流の能かと思ったのですが、乱能ではおシテの注文により、他流の能が演じられることもあるそうです。まあ考えてみれば囃子を演じるシテ方も、それぞれが習ったいろいろな囃子のお流儀の組み合わせで上演されるのですから、乱能でおシテを勤められる方が観世流以外のお流儀で舞われても不思議はないのでした。実際乱能では、主催者が観世流であっても、お囃子方がシテ方のお役。。たとえば一調とか仕舞、舞囃子などを、宝生流や喜多流の謡、型で勤められることはそれほど珍しいことではないようです。

この時の『融』は、幕から出るところから観世流の「十三段之舞」とは違っていて、幕上げの段になったところでシテは幕から出て三之松(幕際)に止まり、両手に笏を構えた姿を見所に見せます。その後幕の中に一度退いて、幕は揚げたまま、再び舞台に向かって登場する、というものでした。このようにシテが一度姿を見せてから再び幕の内に戻る演出は、観世流では『船弁慶』などにもあるのですが、観世流では幕内にシテが退いたときには一旦幕を下ろし、改めて幕を揚げて登場するのが普通で、今回の『融』の登場の方法は、観世流に属する ぬえから見るととっても異質で、また新鮮でもありました。

。。さて、今回の乱能が終わってから開かれたパーティーで、主催の中森氏は、昨年父君の晶三氏が逝去されたのですが、乱能は故人も大切にされておられたので中止することなく思い切って開催された旨スピーチされました。ご心痛の中、そしてご多忙な中、演者にもお客さまにも心を込めて、あれほどの催しを開かれた事に、まずは敬服し、また滅多にないこういう経験の機会を ぬえにも与えてくださったことに、この場で失礼とは思いますが、改めて感謝申し上げます。またご来場頂きましたお客さまにもお目汚しの点があったと思いますが、ご寛恕頂きたく、また併せましてご声援に感謝申し上げます。 m(__)m

乱能、勤めてまいりました!(その1)

2009-02-04 02:13:00 | 能楽
鎌倉能舞台四十周年記念特別公演「乱能」、無事に勤めて参りました。

え~、まず ぬえ自身のお役~乱能の初番の能『邯鄲』(シテ:観世元伯氏)の小鼓~に関して言いますと、ん~、やっぱり3カ所も間違いました。。といってもほかのお役に迷惑を掛けるような失敗はないはずですが、具体的には「ツヅケ」の手を打つべきはずのところ1カ所で間違って「三地」を打ち、同じく「ウケ」を打たなければならない場所で、やはり「三地」を打ってしまいまして。。あとは「長地」1カ所で余計な掛け声をひとつ掛けてしまった。。というところ。あれだけ一生懸命覚えたのに~~(×_×) 本職の方ではほとんど見掛けない間違いですから、やはり本職のプロはすごいなあ。。

そういえば。。ぬえは幸流の小鼓を穂高光晴先生に17年間ついて学びましたが、すでに師は物故。そこで今回の乱能に向けて同じ幸流の大先輩にお稽古をつけて頂きました。で、そのお稽古の日のちょっと前に、偶然ある楽屋でその大先輩のもとで内弟子修行を続けている若手の小鼓方と会いまして、もとより ぬえは暗記のために『邯鄲』の手付(囃子の楽譜)はずっと持って歩いていましたから、彼にお願いして、ぬえが穂高先生に教えて頂いたこの手付を見せて、不備がないか確認してもらいました。

いやはや、急にそんな事を言われた彼は迷惑だったろうと思いますが、彼は「ではちょっと拝借して。。」と手付を持ち去ると、その催しの終演後に ぬえを訪れて「だいたい合っていると思います。ただ。。穂高先生と私の師匠とでは打つ手組が違うところがあるんです。それはここと。。ここで。ここは私の師匠はこう打っておられます」と、こと細かに教えてくれました。へええっ!! 急に ぬえに問われたというのに、能1番の手組の細部まで暗記しているなんて。。「すごいね君。全部覚えているの??」と、今さらながら ぬえは驚いて尋ねましたが、彼は「あ。。いえ。。たまたま最近打たせて頂く機会がありましたから。。」と謙虚に答えていました。まあ、事実関係はその通りにしても、急に記憶を問われるような場面でキチンと対応できるのは心がけの問題だと思います。感心しました。

で、乱能前の稽古に伺ったとき。この時 当然書生である彼も同席してくれて、笛の唱歌を謡って ぬえの稽古のお手伝いをしてくれたのですが。このとき ぬえは彼に教わった通りの手組。。すなわち ぬえの師匠である故・穂高師の打つ手組ではなく、今日教えて頂く先生の手組で打ってみました。いろいろとご注意を頂いたあと、先生はひと言。「よくこの手を知っていたな。私は あなたが今打った、こちらの手を打っているんです。この手は穂高さんは知らないはずだが。。」 ぬえはニッコリと彼を指し示して「はい。彼に聞きました」。先生は苦笑しておられましたね。彼は恥ずかしそうに下を向いていましたが、なんだか3人の気持ちが通い合ったような気がしました。ああ、書生時代に貪欲に勉強していたあの時代が懐かしい。叱られながら、恥を掻きながら、ちょっとずつ、ちょっとずつ、能に近づいている実感があったあの頃。ぬえは鼓を打つと、あの頃の必死だった自分に戻れるんです。

さて『邯鄲』ですが、主催者の中森貫太氏の番組作り、配役への配慮が行き届いていたのではないかと思います。シテの観世元伯氏(太鼓方)や囃子方のメンバーも、いかにもそれぞれのお役。。本来それが本職ではないのに、そのお役が好きで、最大限の努力を傾注して本職に迫ろうとする人ばかり。この日のほかの能の番組が30分~40分なのに『邯鄲』だけ70分も時間が取ってあって、省略も「楽」の段数を除いて一切なし。これではガチ勝負になってしまうのは自明で、現にそうなったのですが、それでも本職のお役の芸にはかなうはずもなく、結果的にご覧になっておられるお客さまにとっては苦痛になってしまう可能性も。。そこで『邯鄲』は番組の初番に据えられ、子方にはわざと大柄な能楽師を配したり、舞台に楽しさを加える要素も盛り込まれていました。中森氏も多忙だと思うのに、配慮の行き届いた番組に敬服します。

『邯鄲』の囃子のメンバーはシテ方ばかりですが、どなたも腕自慢の方ばかりでした。出演の直前までもう一度「楽」のスピードを打ち合わせたり、もう開演前から本気モードで。。その上で ぬえが驚いたのは やはり大鼓を担当された関根祥人さんでしたね~。大鼓も余裕の芸で、ぬえはただそれについて行けばよかったのですが、それでも本番にだけ突然。。あれは「楽」の三段目になる直前のシカケのところで、ちょっと専門的な話で恐縮ですが、粒(打音)を半間に四つほど打ち込まれまして、これには ぬえもビックリしたけれど、今考えれば、あれはどう考えても失敗ではなく確信的なアドリブでしょう。ぬえはそれにつられて自分の間を外さないようにするのに もう一杯いっぱいだったですけれども。。

翁の異式~父尉延命冠者(その9)

2009-02-01 19:42:11 | 能楽

さて「父尉延命冠者」。

こうして見てくると、どうやら常の『翁』。。要するに「四日之式」と「父尉延命冠者」との違いは、常の場合の翁が「父尉延命冠者」の場合では「父尉」となり、常には直面の千歳が「延命冠者」の面を掛けてその役に扮すること、それから父尉と延命冠者との連吟の謡があることのほかには、取り立てて大きな違いはないことになります。細かい点では面箱持と延命冠者との着座位置が逆になる、とか、面を掛けた延命冠者が両手を下について平伏しない、などの事もあるのですが、これらの点は、むしろ上記のような大きな相違点を円滑に上演するための便宜的な舞台処理の範囲内のことでありましょう。

シテ方以外のお役についても同じで、小鼓の手組も常の『翁』と「父尉延命冠者」とではほとんど違いはないそうで、さらに先年 師家で上演された『翁』の異式「法会之式」では三番叟が「鈴之段」で鈴ではなく錫杖(の頭部)を持って舞ったのが珍しかったですが、今回の「父尉延命冠者」では三番三にも普段とは違いがありませんでした。もっとも今回の三番三は大蔵流、先年の「法会之式」の際の三番叟は和泉流でしたので、お流儀の違いによる差異はあるのかもしれません。実際のところ、今回の大蔵流の演者の友人に「法会之式」について尋ねたところ、和泉流のように錫杖を持って舞うということはなく、やはり今回の「父尉延命冠者」と同様に、三番三に変化はないのだそうです。

ところが、もう一つ「父尉延命冠者」の時には大きく変わる点があって、それは大夫の装束なのです。ぬえの師匠の先々代・家では初世と数えております梅若万三郎の芸談に『亀堂閑話』という書物がありまして、そこには次のように書かれています。

 外に珍しいのに「父尉延命冠者」といふのがございます。これは面がいつもの翁でなくて「父尉」と申しまして、一寸目の吊つた、それで笑ひを多分に含んだのをかけます。千歳も常は直面でございますのを、「延命冠者」と申す面をかけますが、舞方には別に変りはございません・その時シテの着けます狩衣が、観世家ではどうなつてをりますか存じませんが、当家では銀地に錦の狩衣を用ひる事になつてをります。私も昭和三年、此処(高輪)の舞台披きに、六十一歳で勤めまして千歳は万佐世にさせました。尚明治二十五年には亡父のシテで、私が千歳を勤めた事もございました。

じつはこの昭和三年の高輪能楽堂の舞台披キというのが、ぬえの師家の月例主宰会「梅若研能会」の原点でして、この日の催しを後日遡って「梅若研能会の初会」と位置づけております。今年2009年の1月公演で81年目となるわけですが、この時の「父尉延命冠者」の写真が師家に残されておりまして、それがタイトルの画像です。

この写真は貴重なものと思いますが、平成5年に先代の師匠の三回忌追善能が催された機会に ぬえは「高輪能楽堂」の調査を行いまして、その結果を 戦前から師家で毎月発行されている機関誌『橘香』に短期間の連載の形で発表しました。この際、この写真も同誌面に掲載しておきました。ご興味のおありになる方は『橘香』誌平成5年10月号をご参照頂けると幸いでございます。

この写真を見ますと、たしかに銀地の翁狩衣。。正確には地色は茶色なのですが、その上に織り出された銀の蜀江文様が勝っている装束。。おそらく師家に現存している翁狩衣だと思いますが、父尉はこの翁狩衣を着ておられますね。