ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

三位一体の舞…『杜若』(その13)

2024-06-28 14:45:13 | 能楽の心と癒しプロジェクト
今月はじめに研能会で「杜若」のシテを舞わせて頂きましたか、なんと同じ月の間に公演で三河に行くことになり、空き時間もあったので「三河の国八橋」にある「かきつばた園」に行って参りました!



さすがに杜若の盛りの時期は過ぎてしまったので、まあ、花の名残の茎や葉だけでも眺めてくるか、と思い、また先輩からも「現地に行った、ということが大切なんだよ」と勧められて、せっかくの機会だから行ってみたわけですが、案の定、タイトル画像のように一面の草ばかり。。と思ったのですが。。



よく見るとなんと! まだ遅咲きの杜若が咲き残っているではありませんか!!!

これは驚いた。じつはこの「かきつばた園」に到着してすぐ、現地の観光ボランティアガイドさんに声を掛けられ、東京から来ました、先日能の「杜若」を舞わせて頂いたのでひと目現地に行って見ようと思い立ったのです、とお答えしたところ、「まだ咲いていますよ」と教えて頂き、その後1時間に渡って園内をご案内して頂きました。





本当に咲いていた! それに「これが杜若」と意識してこの花を見たのは初めてでした。無事に能を舞えた事を感謝して、手の届くところに咲いていた1輪をそっと撫でてきました〜






最近作られたという業平像。

ここは知立市の無量寿寺というお寺の境内にあたり、境内に16もの池を持って、そこで杜若を育てているそうです。「伊勢物語」の業平の「東下り」史実ではないと思われますし、「杜若」に「水行く川の蜘蛛手なれば橋を八つ渡せるなり」とあるように古来増水などあって時代により地形も変わりやすかったとのことですが、やはり「伊勢物語」の世界に想いを馳せるのにこういう場所が整備されているのは素晴らしいことです。

ボランティアガイドさんは戸田勝士さんとおっしゃる方で、興味深いお話をたくさん伺いました。

いわく
・杜若の群生地は珍しく、愛知県刈谷市、京都府北区、鳥取県岩美町などにあり国の天然記念物に指定されているとのこと。

・尾形光琳の国宝「燕子花図屏風」はこの八橋の無量寿寺のもので、尾形光琳は何度か都と江戸を往復しているが、そのうち2度は5月・6月の杜若の季節に知立市を通ったということが記録から確認されているのでここに立ち寄った可能性は高い。

・杜若はどちらかというと弱く、ここでも一時は絶滅する寸前にまでなったことがあるが、保存会の努力によってまた勢いを取り戻しつつある。

戸田さんに「いまの五千円札の裏側に描かれている杜若はもちろん尾形光琳の絵で、すなわちこの八橋の杜若なんですよ。」と言われてはじめて、ぬえは五千円札に杜若が描いてあることを思い出しました。




戸田さんいわく、この五千円札も7月のはじめには新しいデザインのものと切り替えになってしまうのです。

そうだたのか。。たまたま今年の杜若の季節にシテを舞わせて頂き、また偶然にも同じ月に八橋を訪れるとができたのも驚きででしたが、まさか咲いている杜若を見ることができ、さらには杜若が描かれている五千円札の流通が終わる、その最後のタイミングだったとは。。



当日ご案内頂いた知立市ガイドボランティアの会の戸田勝士さん。感謝です!

三位一体の舞…『杜若』(その12)

2024-06-08 12:31:03 | 能楽
さてこれまで長々と能「杜若」を読み解いて参りましたけれども、やはり業平が菩薩の分身であり、「伊勢物語」はその菩薩が衆生済度のため仏縁を結ぶ物語であり、この能はその菩薩がいまや成仏を遂げた杜若の精となり高子ともなり、この三者が再び舞台の上に降臨して観客=衆生に寿福を授ける能だ、という解釈は、この能が作られた中世では成り立つけれども現代においてはこれを観客に訴えかけるのは少々難しいのではないかと思います。いわばこのブログでの考察は作者の意図や当時の享受について考えてきたに留まるわけで、業平が菩薩だ、という主張が率直には受け入れがたい現代人の感覚からすればこれは荒唐無稽と感じられることでしょう。

そのうえ我々舞台人というものは主張があってもそれはすべて舞台で完結していなければいけないのです。舞台を離れてこのような作者の意図やこの能が作られた時代背景を説明してしまうことは、「そのように私の舞台を見てほしい」と観客に鑑賞の方法を強要することであり、それは舞台人として決してあってはならないことです。

とすればこのブログは矛盾に満ちているわけですが、ぬえの思いは別のところにあります。ぬえは能「杜若」限らずに能を演じるにあたり、演者の責任として作者の意図や時代背景を調査しておく必要があると考えていまして、いわばこのブログは自分のための作品の読み込みの手段です。これらを行ったうえで、さて、それでは今回はどのように演じるべきか、を考えることになります。

ですからこのブログの読者の方々にも、こういう背景がこの能にあるんだ、とご理解頂く程度にとどめて頂き、さてそれではこのブログを読んでいない(おそらく大多数の)観客に納得させるように、どのように ぬえ君は舞うつもりなのかな? とご期待頂きたいと思います。

結論を先に言えば、何度も言いますように作者の意図はどうであれ、この能を菩薩の衆生済度の物語、とお客さまが感じるのは現代では不可能でしょう。だとすれば別の切り口でこの能に対峙するべきで、今回 ぬえは、この哲学的な能は、現代においてはメルヘンに帰するべきだと考えています。

。。ずいぶん安っぽくなったように感じられるかもしれませんが、やはりこの能は、哲学的な命題が根底にあるとはいえ、現代では歌に詠まれたことで業平に恋をしたお花の精の物語である方が受け入れやすいのだと思います。能の最後で杜若の精は成仏を果たすと謡われ、シテもユウケンの型でこれを表現しています。花の精の純粋な恋の心が昇華してついに悟りの境地に至ったのだ、と考えれば、純白の世界に生まれ変わるシテの神々しい姿も納得できると思われますし、「業平は極楽の歌舞の菩薩の化現なれば」というシテの文句に疑問を持ってしまったお客さまも、この最後の場面でのシテが昇華する姿と重ね合わせるとき、中世的な空気を感じながらひとつの解決を見ることができるかもしれません。

じつは ぬえには同じように作者の意図が現代ではなかなか理解できない能に遭遇したことがありまして、今回の「杜若」ではその経験が大変役に立ちました。その能とは「源氏供養」でして、いま大河ドラマで放映している紫式部がシテなのです。ところが「源氏供養」ではその主人公の紫式部は死後地獄に落ちていまして。。それでワキの僧に救いを求めて現れる、というのがその物語です。なぜ紫式部が地獄に堕ちているのか、も問題ですが、それより大きな問題は、後シテ。。すなわち紫式部の霊が烏帽子をかぶって登場することなのです。

これには ぬえも大いに悩みまして、当時いろいろ調べてみたところ、やはり今回の「杜若」と同様に末法思想が大きくこの能に影を落とし、また一方、そんな地獄で苦しむ紫式部に能「源氏供養」の作者は大きな共感を持っているのだと考え至りました。この能は紫式部へのオマージュとして作られ、おそらく彼女に捧げる気持ちも作者にあったのではないかと ぬえは考えています。長くなるので詳細は割愛しますが、「源氏供養」のシテが烏帽子をかぶる理由はこのような作者の思いからだと考え至りました。が。。これをお客さまに理解頂くのは長い説明を必要とする。。それは前述のようにお客さまに能の見方を強要することになる。。このときも こう考えて、作者の意図はどうあれ、烏帽子を着たシテを見たお客さまの違和感をどうやって払拭できるか、と考えたのでした。

「源氏供養」はメルヘンにはならないけれども、「杜若」はお花の精の恋物語であって、純粋な恋の心が彼女を純白の清浄な世界に生まれ変わらせる、という見方ができそうです。

(この項 了)

三位一体の舞…『杜若』(その11)

2024-06-07 01:26:09 | 能楽
序之舞が終わるとシテが「ワカ」と呼ばれる小段を謡います。地謡がこれに続けて謡うのですが、この地謡と合わせると言葉通り和歌と同じ文字数になりますね。

シテ「植ゑ置きし。昔の宿のかきつばた。
地謡「色ばかりこそ昔なりけれ。色ばかりこそ昔なりけれ。色ばかりこそ。


物着のあとのシテの言葉の中に見える「玉雲集」の歌がここに現れます。そのときは「女の杜若になりし謂れの言葉」だとして引かれた歌ですが、このワカではそれを踏まえつつ、別の意味で謡われていると思います。もとの歌は昔の恋人に贈った歌ですが、ここでは昔を懐かしむ思いで、シテが藤原高子の立場と考えれば恋人の業平との逢瀬を懐かしむのであろうし、杜若の精の立場とすれば業平の歌に詠まれた思い出、ということになるでしょうか。いずれにせよこれらは女性の立場(杜若の精も女性と考えれば、ですが)から業平への思慕なのですが、すでにこの能では業平は菩薩の分身であって恋も衆生を仏の道へ導く方便だった、と語られているわけですから、これは単純に恋人との楽しい時間を思い返した、と読むわけにはいきません。

「昔なりけれ」と言うように、いまワキ僧に物語をしている「伊勢物語」の恋のお話はすべて過去のもの。藤原高子も、歌に詠まれた杜若もすでにこの世にはいないはずで、そうなれば業平菩薩の功徳によって彼女たちは極楽世界に再誕したと思われます。つまり衆生である高子や杜若の精は業平との邂逅によって仏果を得たのであって、その端緒となる業平との出会いを仏縁のはじめとして思い返しているのでしょう。

ここでようやく能「杜若」のシテが一体誰なのか、ということが明白になってくるように ぬえには思えます。これはすでに前述したのですが、ぬえは「杜若」のシテは業平を中心に、高子、杜若の精の三者がひとつの身体に共存している姿と捉えています。すでに他界し極楽浄土に再誕した女性たちは業平菩薩の脇侍のように彼に付き従って、菩薩がいま再び衆生を救済しようとして舞台に登場したのに一心同体のように従っているのであって、身にまとっている冠や唐衣をシテは「形見」とはっきりと述べているにも関わらず、それは三人が共存している姿なのだ、と ぬえは読んでいます。

この舞台での衆生救済、ということについても、戯曲上はワキ僧を救おうとしているようにも見えるけれども、実際にはワキを代表としながらそれを通して衆生全体が救済の目標であろうし、作者はこの能を見ている観客を想定してこの能を書いていて、むしろこの能を見に来た観客を救済。。というか観客に寿福を与えるのがこの能が作られた目的なのだと ぬえは確信しています。

シテ「むかし男の名を留めて。花橘の。匂ひうつる。菖蒲の鬘の。
地謡「色はいづれ。似たりや似たり。杜若花菖蒲。梢に鳴くは。
シテ「蝉の唐衣の。


もうひとつこの能で思うことは、三人の物語であるはずなのに藤原高子の影がどうも薄いように思えますね。でもまあ、歌を通して業平が心を通わせた高子も業平菩薩から見れば杜若の精と同じ衆生の立場であるし、それが極楽往生したのであれば身分の違いも人間や植物という違いもすでに消滅していて同じ仏弟子であるはず。この能の舞台は都ではなく三河国なのだし、いまや一心同体のような存在となった二人を杜若の精が代表している、と考えるほかないかも。

「蝉の唐衣の」というところで珍しい型があります。扇を持ったまま右手で長絹の左袖を引っ張る型。。似た型は「高砂」にもありますが、かなり珍しい型です。袖を見る型なのですが、「蝉の抜け殻」と自分が着ている唐衣を同一視する、というような意味で、ちょっとわかりにくいかもしれませんが、じつはここは重要な型だと ぬえは考えています。唐衣はいわば高子の人間界での衣裳なのであって、東下りをして遠く隔たっている業平との接点でもあります。しかしながらこれを「抜け殻」と見るとき、人間界からの決別を意味するのであって、今や業平との思い出さえ昔の話となり、菩薩に従う自分の身には必要のないものなのです。

そう読めば、次に来る能「杜若」の最後の詞章は意味が深くなります。

地謡「袖白妙の卯の花の雪の。夜も白々と明くる東雲の。浅紫の杜若の花も悟りの心開けて。すはや今こそ草木国土。すはや今こそ草木国土。悉皆成仏の御法を得てこそ。失せにけれ。

高子と同じように今や杜若も「悟りの心開けて」極楽世界の住人となり、シテもこのとき扇を胸の前から頭上にまでゆっくりと引き上げる「ユウケン」という型をします。「心が晴れやかになる」という意味を込めるのですが、扇を上げるときにシテの顔が短時間隠れるとき、シテは往生を遂げた純粋無垢な存在へと変身した、と ぬえは考えています。

仕舞でもよく演じられるこの部分なので「ユウケン」の意味は以前からこのように ぬえは捉えていましたが、今回「杜若」の本文をよく読むと意外な発見がありました。。この部分でシテの色が変わっているのですよね。

「袖白妙」「卯の花」「雪」。。すべて白一色で、純白のイメージといってよいでしょう。さらには「夜も白々」。これも白。。そして極めつけが「浅紫の杜若の花も悟りの心開けて」です。

何気なく本文を読み、またこれまで何十年も自然に謡っていましたが、考えてみるとシテは最初の登場の場面でこう言っているのです。

さすがにこの杜若は。名におふ花の名所なれば。色も一しほ濃紫の。。

紫色の杜若が、この八橋ではさらに「濃紫」なのだ、と誇らしげに言うシテ。それは名所の杜若だから、とうだけではなくて業平に歌に詠まれた、という自負でもあろうし、あとで明かされるように仏縁によって成仏できた花だから、という意味もあるでしょう。

ところが能の終盤に至ってその杜若の色は「濃紫」から「薄紫」に色が変わっているのです。

「薄紫」は「薄い紫色」ではなくて、「白妙」「卯の花」「雪」、そして夜明けと溶け込んだ、つまり純白、と読むべきでしょう。今や舞台全体が白一色になってしまった。それは清浄な仏の世界が舞台に現出した象徴なのでしょう。ぬえはこれに気づいて今回の上演での装束の色の取り合わせを決定することができました。いや、白にしたのではありません。むしろ ぬえ自身が所蔵し、また「業平菱」という業平にゆかりの文様が織り出された白い長絹を使うつもりだったのをあえて封印したのです。✌

矛盾に聞こえる、と思われるでしょうが、それには ぬえがこの難解な仏教世界が投影された能「杜若」をどうやったら現代人の前で違和感なく上演できるか、について、この半年ばかりずっと悩んできた経緯があるのです。結局その方法についてひとつの結論には至ったのですが、この発見はその結論を強く補強するものだったのです。    (続く)

三位一体の舞…『杜若』(その10)

2024-06-04 00:39:22 | 能楽
一方、動かなければよいという訳でもなくて、それが「杜若」のような例なのです。

本性の化身である前シテであるならばワキに問われるままに昔の物語をするために着座して居グセにすることができますが、後シテや「杜若」のように本性を現わしてワキの前に立った場合、それは僧ワキに懺悔なりの物語をするのであって、そこで改めて着座してじっくり語るのは舞台の進行上は不自然でもあり、また戯曲の後半に至ってまで動作を伴わないのは不利であるなどの理由もあって、いわゆる仕方語りのように動作を交えて物語をすることになろうかと思います。

情緒的な曲でシテの心理や感情などを描く能。。「杜若」のクセではそれらからは少し離れて「伊勢物語」の展開や、そこには菩薩の衆生済度の目的があるのだ、という哲学的な内容なわけですが、こうした能では具体的なシテの動作が伴いにくく、抽象的な型でそれを補うことに傾きます。

それに加えてクセは前述のように曲舞という能とは別の芸能を取り込んだ章段であるためか、独特の「約束事」に則って型が組み立てられているのです。いわく最初は扇を閉じて舞い出し、地謡も前半部では主に低音で謡い、クセの途中では「上羽」と呼ばれる部分があって、ここではシテがうって変わって高音で短く1句か2句を謡い、続く地謡もこれをきっかけに煌びやかな高音を中心にして謡う、その「上羽」の直前にシテは左右打込というこれも定型の型を行って扇を広げそれを前に立て、さて「上羽」を謡いながら上扇という扇を頭上に上げる型をする、さらにはその後には必ず大左右と型を続けて正先まで出ながら打込の型をする。。ここまでシテが行うべき型が決められているとなると、クセは物語のストーリーに即して演じているとは言えない部分もあると思います。

考えてみれば能はそれ自体、いわゆる演劇の一種ではあろうと思いますが、同時にある種の儀式のような一面も持っていると言えると思います。能の終曲部分では必ずシテはシテ柱の前で右ウケして二足詰め、広袖の装束を着ていれば左袖を返して「留め拍子」を踏んで終わるのです(若干の例外はあり)。「羽衣」であれば地謡は「霞に紛れて失せにけり」と、シテ天女が富士山の上空の春霞の向こうに姿を消した、と言っているのにシテはやはり音を立てて拍子を踏んで終曲するのです。能の終わりにはシテは戯曲を離れて儀式として曲を終わらせると考えられるわけで、能の特長と言えると思います。

こうした、演劇と儀式が同時に共存する能の様式のためか、能の動作もあえて抽象的に作られているように思います。ひとつの動作に意味を込めることもできるし抽象的な身体動作にすることもできる、とも言えるし、逆に抽象的な動作にシテの工夫で意味を込める(あるいは込めない)のでもあり、そこがシテの工夫のしどころであり責任でもある、という。。

ですので、お客さまとしても能の演技ひとつひとつに意味を求めるのはあまり意味がないことがあります。シテとしても抽象的に舞うところと具体的な意味を込める動作は明確に意識していて、前者ではできるだけ突出した動作として印象づけないように舞い、後者ではその逆でお客さまに印象的に見えるように気を付けています。自分でここまで書いてきて、やはり能は特殊な芸能だと思います。

然るにこの物語。その品多き事ながら。とりわきこの八橋や。三河の水の底ひなく。契りし人々の数々に。名をかへ品をかへて。人待つ女物病み玉簾の。光も乱れて飛ぶ蛍の。雲の上までいぬべくは。秋風吹くと。仮にあらはれ衆生済度の我ぞとは知るや否や世の人の。

さて本文に戻って、この辺りからクセの後半になります。意味は「伊勢物語」に描かれた挿話は多いけれども八橋の水のように深く果てがなく、業平が契った女性というのも名前も身分も様々である。「人待つ女」(「伊勢物語」十七段もしくは二十三段)、「物病み(の女)」(四十五段)、「玉簾(の女)」(六十四段)などが登場しているが「ゆく蛍 雲の上までいぬべくは 秋風吹くと雁に告げ越せ」(四十五段)の歌のように雲の上からかえって仮の姿として衆生済度を目的としてこの世に現れた私とは世の人は知っているか知らないであろうか。ここでは「光も乱れて飛ぶ蛍」と正先まで出て上を見回し、さらに「雲の上までいぬべくは」と左袖を返して扇を右に広げて空を見上げる「雲ノ扇」という、割と派手な型が連続するところです。

シテ「暗きに行かぬ有明の。
地謡「光普き月やあらぬ。春や昔の春ならぬ我が身ひとつは。もとの身にして。本覚真如の身を分け陰陽の神といはれしも。たゞ業平の事ぞかし。かやうに申す物語疑はせ給ふな旅人遥々来ぬる唐衣。着つゝや舞をかなづらん。


二度目の上羽からクセの終わりまで。意味は「知るや君 我に馴れぬる世の人の 暗きに行かぬ 便りありとは」(注釈書に見える歌)と詠んだように衆生が暗黒世界に迷い行かないように有明の月のように照らすのだ。「月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして」(四段)とも詠んだが、かえって私は悟りや真実を体現する菩薩の身の分身として人間の姿となり、男女の仲の神と言われたのもこの業平なのだ。このように申すことをお疑いなさるな旅人よ。そうやって極楽世界から遥々とやって来た身で唐衣を着てこのように舞を奏するのである。という感じ。こうやって読むとクセの前半では「伊勢物語」の「東下り」の行程を並べ、後半部分ではそうした旅や都での女性との恋の物語もすべて菩薩の分身としての業平が衆生を救済するためのことなのだ、と説き聞かせる、とはっきりと書き分けられていますね。

二つ目の上羽のあとは「本覚真如の身を分け」と扇を左手に取って両腕を左右に広げて分身となったことを表し、「かやうに申す物語疑はせ給ふな旅人」とシテ柱からワキに向かってハネ扇、さらに右に小さく廻りながら扇を右手に逆手に持ち替えてワキに念をおすように決める、と意味のある型が続きます。

クセの終わりに太鼓が打ち出して位がぐっと静まり「序之舞」の位に変わってゆきます。

シテ「花前に蝶舞ふ。紛々なる雪。
地謡「柳上に鶯飛ぶ片々たる金。 【序之舞】


「花の前に飛び交う白い小さな蝶の一群が雪のように散り乱れる」「柳の上に飛ぶ鶯が陽を浴びて金色に輝く」。。出典は未調査ですが蝶も鶯も一匹・一羽ではないように思えますね。ぬえはここからシテは業平から杜若に立場が変わったと考えていて、そこにはひと本の杜若だけでなく群生したイメージが微妙に盛り込まれているのかもしれません。なお「鶯」は「蛍」の書き写し間違いの可能性があるんじゃないか、とも思っていますが。。これはあまり自信なし。

「序之舞」は草木の精がシテの場合には太鼓が入るのが原則で、大小序之舞より少々軽やかになります。ほかに「六浦」「藤」などに例がありますが、「芭蕉」は曲柄が渋い能なので太鼓は入らず大小序之舞、「半蔀」はシテが夕顔の花の精のようでもあり夕顔上の霊のようでもあってやはり大小序之舞です。

太鼓序之舞がやや軽やか、といってもやはり7~8分はかかる舞なので、お客さまにはやはり集中し続けるのは難しいかもしれませんね。

今回は初めて能をご覧になるお客さまもいらっしゃいますので簡単に鑑賞のコツをお知らせしますと。。

①序之舞は最初に短い足遣いがあって、舞が始まると全体は四部構成。
②扇を閉じて最初の小段【掛リ】を舞いはじめ、その扇を広げたところで二番目の小段【初段】になる。
③今度は角でその扇を左手に持ったところで三番目の小段【二段】になる。
④【二段】が一番長い小段。正先で扇を右手に逆手に持ったところで最後の小段【三段】になる。
⑤【三段】は短く、最後はシテ柱で扇を広げて前に立てたところでシテが「ワカ」を謡い出して序之舞が終わる。    (続く)

三位一体の舞…『杜若』(その9)

2024-06-01 12:30:28 | 能楽
地謡「然れども世の中の。一度は栄え。一度は。衰ふる理の誠なりける身のゆくへ。住み所求むとて。東の方に行く雲の。伊勢や尾張の海面に立つ波を見て。いとどしく過ぎにし方の恋しきに。羨ましくも。かへる浪かなとうち詠めゆけば信濃なる。浅間の嶽なれや。くゆる煙の夕景色。
シテ「さてこそ信濃なる。浅間の嶽に立つ煙。
地謡「遠近人の。見やはとがめぬと口ずさみなほ遙々の旅衣三河の国に着きしかば。


クセは長大でシテが謡う「上羽」が二カ所ある二段グセ。序破急の原則により最初は静かに謡い出す地謡も次第に速度を上げ、最後はかなり急調になります。そのあとに序之舞になるのはほかに「二人静」「千手」に例がありますが、急調の謡からグッと位を静めて序之舞の位に持ち込むのは難しいところです。もっともこの三曲のうち太鼓が入るのは「杜若」だけで、太鼓序之舞に特有のコイ合一クサリを聞いてからシテが謡い出す一種の場面転換のような間があるし、そもそも太鼓序之舞は大小のそれよりやや位が軽くなるので、いくぶんやりやすいかも。

この「クセ」の最初の方の文言は、「伊勢物語」の中のいわゆる「東下り」と呼ばれる第七段~十五段にまで連なる一群の章段が語られ、三河国八橋の杜若の物語がある九段も当然そこに含まれ、都を離れた「昔男」が三河に到着するまでの足跡を綴ったものです。

「伊勢物語」で「昔男」がなぜ「東下り」をしたのかは古来議論があるところで、「東下り」の直前の第六段が「鬼一口」で有名な、業平が藤原高子を盗み出して芥川を渡り、雷や雨を避けてあばら屋の蔵に女を隠し置いたところ女が鬼に食われた、という章段であるために、恋人を失った男が失意のあまりに都を去った、と一般には読まれています。

しかしながらこの第六段では盗み出した女を隠したところ鬼に食われたという本文に続けて、あたかもその注釈のように「これは二条の后の。。」と女が高子であり、鬼に食い殺されたというのは高子の兄、藤原国経・基経の二人が逃避行の後を追って高子を取り返したのだ、と書かれているのですが、これは現在ではこの部分は後補であろうと考えられています。このことはは「伊勢物語」についての根源的な謎。。作者は誰なのか、「昔男」とは本当に業平のことなのか、という疑問への回答と密接に結び付いていますね。

能「杜若」は九段の主人公が業平である(そしてその本性は菩薩である)ことを前提に書かれているから、このブログで「伊勢物語」の作者論や主人公の同定などはあまり意味をなさないのですけれども、ちょっと気になる論考を見たので少々そのご紹介をさせて頂きます。

古来「伊勢物語」の作者については、業平自身にそれを見る説や三十六歌仙の伊勢が作者でありその名前が作品名になったという説などがあります(一方 六十九段に描かれる伊勢斎宮との逢瀬が原拠となっているという説もあり)。

また一方、業平が主人公とした場合も官職を持った人物が政務を放棄して「東下り」をするということがあり得るのか、いや、高子を盗み出したために官職を止められたためにそうなったのだろう、とも議論されてきました。

さらに別の意見では、業平は一般的な見方による醜聞により出世コースからはみでた人物像とは違って、実際には官職についてはそれほど不遇ではなかった、とも言われ、それは能「松風」に描かれる兄・行平ともまた同様である、とのこと。

混迷を極める問題ですが、ぬえは、ここで国文学研究者の片桐洋一氏の説に注目しました。いわく「伊勢物語の作者は業平自身で、そこに書かれた話は事実ではないが、自身の女性との経験を脚色し、殿上人との会話の中で育っていったものであろう(大意)」。

「伊勢物語」の作者が業平自身、という説があるのは知っていましたが、文学的には素人である業平が物語を書く、という考え方自体に ぬえは疑問を持っていました。が、貫之が「土佐日記」を著した例もあるのだし、平安初期の人物像は 私たちの常識では計り知れないものです。もう証拠も見つかる可能性が低い現在では、なるほど、こういう考え方も可能性としてはあるかも。

さて能に戻って、「東下り」の原因は能の作者にとっても難しかったのか、「杜若」では業平の栄光に満ちた元服に続けて「然れども世の中の。一度は栄え。一度は。衰ふる理の誠なりける身のゆくへ。住み所求むとて。東の方に行く。。」と、理由は示さないものの生死流転の仏教的な無常観によって主人公は都をさ迷い出たように描かれます。

「いとどしく。。」は「伊勢物語」七段で伊勢と尾張の境で都を懐かしんだ歌、「信濃なる 浅間の嶽なれや」は八段の歌。「伊勢物語」では続く九段が八橋の唐衣の歌なのだから、「伊勢物語」に沿って業平が都落ちをするその経緯を順に紹介して、さて三河に到着した、となるわけです。

こゝぞ名にある八橋の。沢辺に匂ふ杜若。花紫のゆかりなれば。妻しあるやと思ひぞ出づる都人。

ここまでの所、型としてはクリからサシにかけて不動で、サシの終わりにユウケン扇をし、「衰ふる理の」と足拍子をひとつ踏んでからようやく動き出しますが、型はサシ込ヒラキ、角トリ、中に戻って再びサシ込ヒラキ、打込、上扇、大左右。。と定型の型が続きます。サシの終わりのユウケンは「羽衣」にもありますがここでこの型をするのはどちらかといえば珍しい型で、「羽衣」と「杜若」を比べてみれば続くクセの内容がめでたい曲で行われる傾向があるようです。

また「伊勢や尾張の海面に立つ波を見て」とサシ廻シをして海の波を見るのと「浅間の嶽なれや」とヒラキながら正面の上を見上げるのが具体的に意味を持った型といえるでしょう。

ぬえは思うのですが、「杜若」を含む詩的で情緒的な能。。鬘能の多くは、このように意味を持たない型が連続して、ところどころに意味がある型が散りばめられている程度という印象があります。これはある意味もっともなことで、喜びや悲しみ、また懐かしい思い出の追憶などシテの感情が地謡によって語られるとき、シテは具体的な型をすることは難しいと思います。むしろそこから能の作者が生み出した究極の演技が「動かない」ことなのであって、その意味ではシテが座ったきり動かない居グセは最大の効果を狙って成功した偉大な発明と ぬえは考えます。

たとえばシテが生前に受けた苦しみを八人の男性の地謡が力を込めて表現する場合、その一方シテは動かない。。これはただ座っているのではなくて、地謡の謡う内容を表現しているのであって、地謡と心を合わせて「力を込めて」座っているのです。そうすると木彫の能面が表情を変えることはないはずなのに、地謡が謡うシテのつらい経験を反芻して、心は後悔や憎しみに燃え上がりながらもじっと耐えているように見えるのですよね。こうすることによって観客がシテ自身の気持ちに同調してまるでシテ本人になりきって同じ苦しみを共有することができる。。動かない演技、心の中での演技がお客さまに伝わることは ぬえも何度も経験しているところです。現代のスピード社会の中ではなかなかそこまでお客さまの理解は得られにくいとは思いますが。。                         (続く)