ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

扇の話(その27)

2008-03-30 23:25:59 | 能楽
なんだか忙しい3月で、ブログの更新もままなりません~。来週になればちょっとひと息つけますけれど。

さて扇の話の続きです。

無紅鬘扇の図柄は、秋草とだいたい相場が決まっている感があります。無紅ですから紅い花は描けない。。それで桔梗や薄、女郎花、菊、撫子などの秋草が選ばれて描かれるのでしょう。なるほど、春と違って秋にはあまり紅い花は咲きませんね。萩と彼岸花。。撫子にも紅はありましたっけ。彼岸花は毒草ですしあまり扇などの図柄には似合わないと思いますが、ともあれ、こういう淋しい寒色の花が秋には多いから、褄紺の無紅鬘扇には秋草が描かれるのでしょう。

ところが、無紅鬘扇を持つシテが登場する能が、必ずしも秋の季節を舞台とする曲ばかりではないのです。たとえば『桜川』。狂女能であるこの曲は、本来狂女扇を持つはずでもありましょうが、どうも無紅狂女扇の厳しい図柄があまりこの能に映えないからか、無紅鬘扇を使う事も多いと思います。もっともこの曲の前シテではまだ我が子を失う前の場面ですので、狂女扇ではなく無紅鬘扇を使うことに最初から決められています。

しかし、『桜川』は曲名からもわかるように、桜の盛りの春の季節が舞台の背景なのです。う~ん、これは困った。この矛盾をどう解決するべきか。。

おそらく、能楽師はそれぞれのお家ごとに工夫をされておられるのでしょう。季節違いは承知の上で、それに代わる適当な扇がないために秋草を描いた無紅鬘扇をそのままに使っている場合もあるでしょうし(実際のところ、見所からの遠目ではそれほど扇の図柄までは見分けられないですし。。)、あるいは桔梗などの濃い紫色の花を避けて白い秋草を集めた図の扇を作る場合もあるでしょう。

ぬえの師家にも、淡い褄紺に、秋草もそれほど目立たぬように、小さく細かく描かれた扇があります。子どもを失って狂乱しながら諸国を巡る、という深刻な内容(しかも『桜川』のシテは我が子を求めて筑紫国から常陸国にまで至る、という、現行曲中でも最も長距離の旅をする人物なのです)に似合わず『桜川』という曲には春爛漫の明るさがあります。この淡い無紅の扇はこの『桜川』や『弱法師』によく似合うと思いますね~。

ところで扇屋さんの十松屋さんのパンフレットを見てみたら。。ははあ、無紅鬘扇でありながら、吉野山の桜を描いた扇などもあるのですね。桜を白く描くことによって、紅入にならないように工夫してある。また、ぬえの師家にはありませんが、扇の面を紺で上下に区切って二段として、その上下の段にそれぞれ細かく秋草を描いた扇もあるようです。これなんか、ちょっとキツイ印象もあるので、狂女扇として使うこともできるでしょうね。

さて扇について長くお話して参りましたが、まだまだ語り尽くせない事も多いです。『善知鳥扇』や『阿漕扇』、『融扇』『山姥扇』のように、定められた1曲だけにしか使われない扇がある一方、『海士』の後シテはなぜ「童扇」を使うのか。。などなど、ぬえもまだ未調査で、理由がわからないことも多いように思います。装束や面と比べると、扇についての考察にはまだまだ目が向けられていないのが現状でもあるでしょう。

ぬえも今後も調べていきたいと考えていますが、今回のところはこれにて扇のお話を一段落させて頂きたいと思います~ m(__)m

扇の話(その26)

2008-03-26 23:57:59 | 能楽
鬘扇と修羅扇から話題がそれたので、いまさらですが副題を取りやめました。(;^_^A

神扇について、ぬえがもう一つ面白いなあ、と思うのは、その図柄です。前述のように神扇には表面に「商山四皓図」を、そして裏面には「桐鳳凰図」を描くのですが、どうもその通りには使われていないように思うのです。

たとえば『高砂』。若い男神が後シテのこの曲は、颯爽とした神舞を舞います。そしてその一方『老松』では老神がゆったりとしたテンポの真之序之舞を舞うのです。ここまで印象の違うシテが同じ扇を持つのも なんだか不思議ですが、実際のところ、演者の工夫によって「違う扇」が使われることがあるのです。

それは神扇ではない他の扇を使う、ということではありませんで、つまり『高砂』などの若い神の役の場合には扇を裏返しに持つ場合があるのです。まあ考えてみれば現代人のセンスのゆえでしょうか、ぬえも同感なのですが、どうも『高砂』の後シテの急調の神舞に、神扇の本来の表面であるところの「商山四皓図」は そぐわないんですよね~。

山奥に隠遁生活を送る四人の老人たち。その傍らには彼らのために酒を湛えたヒョウタンを携えた童子が一人。どう考えても平和そのものの風景で、そりゃ『高砂』も天下泰平を言祝ぐ曲ではあるんですが、どうもその後シテが舞う神舞の急迫した印象と比べると、このやや「平和ぼけ」したような、そんな四人の姿が ちぐはぐに映るというか。

そこで、現代では演者にもよりましょうが、わざと扇を裏表さかさまにして、「桐鳳凰図」を表面に見えるように持つ場合があるのです。なるほど桐に鳳凰ならば人物の図よりも非現実的な世界が舞台に投影されるし、また虚空に舞い遊ぶ鳳凰の図柄は、「商山四皓」よりも活動的な印象を与えて、神舞にも合いやすいでしょう。それに商山四皓の四人がすでに神仙の領域にいる方々だとしても、仙境に住む瑞鳥である鳳凰の威厳の方が上位で、まさに脇能によく似合うと思います。ぬえもこのように神扇の表裏を替えて持つおシテの舞台を何度も見たことがありますし、あまつさえ演者の中には扇屋さんに特注して、表裏ともに「桐鳳凰図」だけを描いた神扇をわざわざ作る人もあります。

もちろん、『老松』や『白楽天』のような老神の役の場合は、みなさん定め通りに「商山四皓図」を表側にして持って出ておられます。あいかわらず、というか やっぱり、というか、老体の役が褄紅の扇を持っていることに変わりはないんですが。

そういえば神扇以外にも、それを持つ役とちょっと ぬえはちぐはぐな印象を感じている扇もあります。

たとえば「無紅鬘扇」。褄紺のこの扇は、無紅ですから図柄にも紅色は入りません。やっぱり全体に淋しい印象がある扇ですから、そうなると必然的に、というべきか、秋草図が描かれているものが標準的な無紅鬘扇とされています。しかし。。

このような秋草が描かれた無紅鬘扇を使う能が、必ずしも秋の季節が舞台となった曲ばかりとは限らないんですよねえ。。

扇の話(その25) ~どの鬘扇? なぜ修羅扇?<14>

2008-03-24 00:04:58 | 能楽
さてこの神扇、前回も書きましたように、いろいろな曲目、役柄に用いられるのです。単純に類型化してしまえば神と武士、という事になろうかと思いますが、『芦刈』など、武士とはどうも断定できない役柄まで含まれていて、どうも神以外に神扇を使う役柄としては、階級よりも むしろ「誉れ」を得た男性、という面に焦点が当てられているのかな? と思ったりもしています。

で、問題はむしろ神の役の方なのです。

神扇、なのだから神の役に使われる扇、というのが本義でもあろうし、実際ほぼすべての脇能の後シテの男神の役は神扇を使います。しかし、神とひと口に言っても、その役にはやはり いろいろな個性があるわけで。

そして、ぬえが最も不思議に思うのは、老神の役でも躊躇せずに神扇を使うことが定められている点です。たとえば『老松』。いやいや、そのほかにもたくさんの老神が脇能の後シテとして登場しますよ。『白髭』『玉井』『道明寺』『難波』(観世流は常は若い神で、「鞨鼓出之伝」の小書のときだけ老神)『寝覚』『白楽天』『放生川』『大社』。。

しかし、考えてみれば、とくに女性の役ではあれほど「紅入」「無紅」にこだわる能の装束附が、こと神については「神扇を用いる」の一点張りなのは、いかにも不思議に思えます。神扇には紅色が多用されていますし、いや、それどころか「紅入」であることを明快に主張する「褄紅」まで入れられているのですから。。

そして、脇能に登場する老神は、装束の選択のうえでは、やはり「無紅」扱いで、着付も もちろん無紅厚板を使うし、上に着る狩衣も白地などが好んで用いられています。それなのに扇だけは褄紅の「紅入」の神扇なのです。これはどう考えても不思議としか言いようがないし、舞台の実演に接していても、ぬえはどうしても違和感を持ってしまうのですよね~。。

もっとも、「無紅神扇」というものが存在し得ない事もまた、容易に想像することができます。紅は「若さ」の象徴であると同時に「祝言」の色でもあるでしょう。紺色に彩色され「褄紺」の扇を持ったシテの姿を見て、そこに「めでたさ」を感じるのは難しい、と ぬえは思います。まあ『翁』の例もある(「翁扇」は褄紺で彩色にも紅色を用いない)ので一概には言えないかもしれませんが、『翁』の祝言性と脇能のそれとは、かなり印象が異なっていますから、やはりここは『翁』が非常に特殊な装置を施して呪術的な祝言性を印象づけているのだと解したい。『翁』という曲は、本当に調査しても奥が深すぎて調査しきれない曲だと思います。。

おそらく、後シテが老神である脇能の場合、面や装束でその役の年齢が高いことを表現し、また一方神扇を用いることで祝言性を強調しているのでしょう。ただ、この事実が、すべての能では ことごとく厳密に守られている「紅入」「無紅」の区別を脇能だけが破っているところがとっても不思議に思えるのです。

いや、ほかのすべての能を超越した独自の価値判断基準が持ち込まれているからこそ脇能、なのかもしれません。特殊だからこそ、神を扱うジャンルとしての脇能がそのヒエラルキーをもって能の頂上に君臨していて、神扇はその特権の象徴なのかも。

しかし、それならば演者に違和感を生じさせるワケもないはずで、能の長い歴史の中でもっと「こなれている」はずではないかな? とも、ぬえは感じるのですよね。これは ただ ぬえが未熟なだけが理由かも知れませんのですが。。

扇の話(その24) ~どの鬘扇? なぜ修羅扇?<13>

2008-03-23 01:04:11 | 能楽
昨日、久しぶりにブログに書き込みをしたのですが、その際にアクセス数を見てびっくり。。なんと「2128」ですって。。えええぇぇぇ???? いったい何が起こっているの? うう~、ぬえ、なんだか怖いです~ (T.T)

さて気を取り直して、扇の話。。(;.;)

先日 ぬえは「大きな矛盾」と書いたのですが、まあ、それは少し大げさな表現だったかもしれませんが、ぬえ、舞台を見ていていつも、少なくとも「不思議だなあ。。」と考えている扇があります。

それはズバリ「神扇」で、これほど不思議な使われ方をする扇もほかにないと思います。

神扇、ですから その名の通り神様の役に使う扇であるわけで、脇能の後シテとは切っても切れない関係にあるワケですが。しかし神扇の用途はそれだけではありません。切能でも神が後シテとなる『国栖』とか、怪異の者であるけれども善神か、それに類する性格を持っている『合浦』や『鷺』。また、直面ものの武士の役、たとえば『小袖曽我』『仲光』などのシテはみ~んな神扇を持って出ますし、装束附には「男扇」とされていながら、ツレや子方の義経の役(『木曽』『七騎落』『正尊』など)ではしばしば神扇を使います。『木曽』では僧体なのにシテまで神扇ですね。さらに神が憑依した神官の役(『歌占』)とか、零落した身の男がその境遇が一転して正装に改める場合(『芦刈』『盛久』)にも、やはり神扇が使われます。

ぬえの印象では、もっとも使用頻度の高い扇は「紅入鬘扇」であろうと思いますが、前述のように鬘扇には定まった図柄というものがない、と言ってよいと思います。その意味で、図柄が固定された扇の中では、この神扇が断然使用頻度が高いんじゃないかしら。

武家の式楽として発展した能であれば、武士の役が品位のある神扇を使うようになったのも歴史的な必然なのかもしれません。しかし、上記を見てもわかるように、それだけでは神扇を使う説明としては不分明な役も存在するのもまた事実でしょう。これまた、ぬえはこういう役それぞれにふさわしい扇が特にないから。。扇の図柄の種類が意外に少ないことが原因にあるのではないかと思います。

ちょっと話題を変えて、神扇そのものについてお話しておきましょう。

神扇は必ず素骨(しらぼね=扇の骨を黒く塗らずに竹の素材の色そのままであるもの)で、両面ともに褄紅が入れられ、表面は「商山四皓図」、裏面には「桐鳳凰図」が描かれています。

商山四皓とは中国の秦末期に国内の争乱を避けて商山に籠もった四人の隠士のことです。「皓」とは「白」を表していて、この四人の隠士(東園公・綺里季・夏黄公・甪里先生)がいずれも白い髭をたくわえた老人だったことからこう呼ばれています。彼らは漢の高祖(初代皇帝)劉邦が召しても応じませんでしたが、その夫人呂后(りょこう)が礼を厚くしてもてなして、その頃高祖から疎まれていた我が子(後の恵帝)の客人として迎える事に成功。彼らの助言によってついに恵帝は高祖の死後帝位を得たのでした。

。。で、我が子が廃嫡されるのを目前にして困惑した呂后に対して、四皓を招くこと、その方法を説いたのが、能でもおなじみの「張良」さんなのでした。意外なところで能のお話はつながっています。

商山四皓図にはいろいろな図柄がありますが、能で使う神扇の図柄は、白髪・白髭の四人の隠士が立ち寄って詩経を広げて、それについて論じている図です。その横には酒が入っているのでしょう、瓶子を持った近侍の少年が一人控えて立っています。

裏面の桐鳳凰図はおなじみだと思いますが、善政を行う帝王が出現したときのみ姿を現す霊鳥の鳳凰が、ちょうど天より天下って桐(鳳凰はこの木にしかとまらないと言われる)に向かって舞い降りてくる姿を描いたものです。

扇の話(その23) ~どの鬘扇? なぜ修羅扇?<12>

2008-03-22 02:11:16 | 能楽
山猫軒さま、コメントありがとうございました。ぬえの解説が観能の参考になったのであれば幸いです。でも~、以前から言っていますように ぬえは自分が所属する観世流をベースにしてしか語れませんので、他流ではまたちょっと違った約束事があるのかもしれません。。そのあたりはご寛恕願えれば、と存じます。

これでも ぬえも他流の演出や主張に観世流と著しく違う点があることを発見したときにはメモを取ったりはしていますが、実演を拝見して発見する以外の面、たとえば一般的な能楽関連の書物などで勉強するとなると。。実際のところ、ほとんどの曲目解説は、もっとも能楽師の人数が多く、それに従って上演頻度ももっとも高い観世流の演出についてだけ述べられているのが実情で、なかなか他流の演出について知る機会はかなり限られていると言わざるを得ません。このような解説書の中には ぬえさえ知っている「ある流儀にだけ伝わる特徴的な演出」に全く触れていなかったりすることも珍しくないのです。すべてのシテ方の流儀の演出を網羅した一覧という資料は、まだまだ実現していないのが現状ではないでしょうか。実際にはある曲の演出・詞章などについては「観世流だけが違っている」場合の方が、むしろ多いのです。本当に、調べれば調べるほどその傾向は顕著に実感しますね。

おそらく、能や曲そのものの「骨格」だけは変えずに、常に時代の変化に敏感に対応して、その時代々々の観客に共感してもらえるような順応を、柔軟に行ってきたのが観世流なのだろう、と ぬえは考えています。一方「先人が定めた古格を厳密に踏襲する」という主張も当然あり得るわけで、そのような主張を持つお流儀もあって(ぬえが他流の主張をどうこう言えるわけではないので推測でしかありませんが)、これは優劣を論じるような問題ではないでしょう。それぞれの流儀や師家の定めという「器」の中で、「個」を光り輝かせるのが「役者」として、「舞台人」としての能楽師の役割であるはずで、この点においてはどの流儀の能楽師も並列して立っているはずだ、と ぬえは思っています。

ちょっと話がズレましたが、扇の話。これも前回「さらに大きな矛盾がある」と言っておきながら、なかなか書き込みができないでおりました。「その矛盾とは。。!!??  。。続きはCMのあとで」みたいで、なんだか だまされた気分を与えてしまったかも。。(・_・、) その間にもブログへのアクセス数は上がっていまして。。ああ~困った。(;.;)

いや、でも、伊豆の子どもたちへの初稽古が先日ありまして、毎回そうなんですが、伊豆の稽古の前日は資料を作るのに ほとんど徹夜状態になってしまうのです。もっと事前に資料を作っておけばよいのですが、これが なかなか思うようにまかせず、ああでもない、こうでもない。。あ~完全主義者でありながら優柔不断な ぬえ。この性格はなんとかなりませんかね~。。(T.T)

そんなわけで、書き込みの遅れが続いておりました。。では気を取り直して。
。。いや、その前にまず山猫軒さんのご質問にありました件を。。

ぬえ、自分では書いたつもりだったのですが、いまブログを読み返してみたら書いていないこともありました。えと、まず修羅扇が男性の役専用の持ち物かというと、じつはそうではありません。。というか例外が『鉄輪』の後シテにあるのです。阿倍晴明に調伏されながらも、滅亡するのではなく「時節を待つべしや、まづこの度は帰るべし」と、不実の夫に再び災禍をもたらす事を予言するこの後シテが、なぜ「入り日図」の修羅扇を使うのか。。これも矛盾の一つかしらん。でもやはり『鉄輪』の後シテに似合う扇としては修羅扇がもっとも似合いますね。これも能のシテのキャラクターの数に対して扇の種別がもう一つ少ないのが原因なのでしょう。

それから「紅入」「無紅」の別が男性の役にもあるのか、という件ですが、やはり区別はあります。でも。。ぬえの実感では女性の役と比べると、もう一つ不分明ですね。たとえば女性の着る装束には細かい文様が、刺繍されたり織られたりで描き出されているのに対して、どうしても男性役の装束には直垂とか素袍とか、普通紅色は入れられない装束が多いからなのかもしれません。下も白大口や色大口などを着る武人の役では、これまた紅色というのは もともとあり得ないですし。それでも着付に厚板を着たり、大口ではなくて半切を穿いたりする場合は紅を入れる役と入れない役は年齢によって決められてはいます。

扇の話(その22) ~どの鬘扇? なぜ修羅扇?<11>

2008-03-19 03:03:23 | 能楽
もう明日には、伊豆の子どもたちの初稽古が始まります。今日はその資料作りで一日を使い果たしました。「子ども創作能」の稽古のために、模範とする謡を自分で録音してCDに焼き、これまた自分で作った謡本をもう一度チェックしてからプリントアウトし。。これらも20数名分を作るのは結構シンドイ作業でした~。まあ、あの伊豆の子どもたちのためならば苦ではないんですけどもね~

さて扇の話題もそろそろ終盤になってきました。

この負修羅扇について、もう一つ、ぬえは思うところがあるのです。この扇って。。年齢不詳だなあ、と。

ぬえの師家では催しの際に使うお装束をお蔵から出すのは、たいがい申合が終わってから、と決まっていて、この時に修羅扇が出されると ぬえ、いつも同じ事を思うのです。

たとえば装束では「紅入」「無紅」(いろいり、いろなし)が厳格に区別してあって、それはシテやツレの役の年齢。。つまりそれぞれの役が掛ける面の種類と厳密に連動しています。年齢が高い役には絶対に赤の入った装束は使わない。もっとも、なかには紅入か無紅かよくわからない装束、というのもたまにはあります。それはたいがい茶地の装束の場合です。古い装束であれば、もともと赤地だったものが退色して茶色に見える場合もあるわけで、こういう時はちょっと困りますが、それでも ぬえの師匠は、たとえばその装束の文様の中に。。それこそ一輪の花の花弁に朱が認められれば、即座に「これは紅入だから今回は使えない」とおっしゃいますね。

また、装束の中には紅入・無紅の区別のどちらにも属さない装束、というものも まれにはあります。たとえば白水衣がそれで、これは『松風』の若いシテ(とツレ)にも、また『葛城』の前シテ~中年女性の役~にも使います。白は基本的に年齢を選ばない色なんですかね。そういえば白練(しろねり)は『翁』の着付にも、小書がついた場合の『葵上』や『道成寺』(ともに若い女性の役)にも使いますし、一応若い役であろう『盛久』にも使えば、『大原御幸』の法皇(後白河)にも、『砧』の後シテにも使います。また紺の色大口も、男性の役に年齢を問わず使われているな。。それでも唐織や厚板、縫箔といった能装束を代表するような装束は、必ず紅入・無紅の区別がつけられています。

ところが、さて ああでもない、こうでもない、と散々試行錯誤しながら色を合わせて装束が決まって、さて中啓を出す場面になると、割とどの曲でもサッサと決まるのです。多くの場合は その曲に使われる扇は装束付けによってハッキリと決められているからで、前にも書きましたが装束と比べれば扇のバリエーションというものは無視できるほどに小さいと言えるでしょう。

そして武運尽きて敗北する武将の役を演じる修羅能の場合は、必ず負修羅扇を使うわけです。しかし。。負修羅扇を使う役には『敦盛』『経正』『清経』といった若い公達の役もあれば、『実盛』『頼政』のような老武者の役もあるわけで。。これらが み~んな同じ負修羅扇を持つのです。まあ、前にも書いたように「運命的な滅亡」をイメージさせる負修羅扇ですから、役が想定している年齢との整合性よりも、その運命を予感させる、という意味で実演上の違和感はないのですが。。でもねえ。。負修羅扇にはその中心部分にしっかり大きな夕日が描かれてあるんです。。「真っ赤」な夕日が。これって、装束ではその役によって厳密に紅入・無紅が区別されている事を思えば大きな矛盾ではないのでしょうか。。

でも、さらに大きな「矛盾」が能の扇にはあるのだった。。

扇の話(その21) ~どの鬘扇? なぜ修羅扇?<10>

2008-03-16 08:46:40 | 能楽
『鵜飼』はこのように、修羅扇を持つことにも一種の演出上の利点があるのですが、さきほど例に挙げた『昭君』『錦木』『船橋』となると。。これはどうにも似合わない、と ぬえは思っています。ことに『錦木』は修羅扇で「黄鐘早舞」を舞うことになるのですから。。

もちろん修羅扇で舞を舞う曲には『敦盛』『生田敦盛』がありますが、『錦木』はこの二曲とはまったく性質を異にしています。ご存じ『敦盛』でシテが舞う「中之舞」は、一ノ谷の戦陣で決戦の前夜に一門があい集って今様・朗詠に興じた、あまりに悲しい酒宴の再現の場面です。また『生田敦盛』の「中之舞」は自分の遺児と再会した敦盛の霊が、平家の末路の物語を我が子に語ったあと、再会を喜んで見せる舞。

一方、恋に焦がれて三年の間、女の家の門に錦木を立てて愛の証としたが、その思いを遂げられずに命を落とした男。錦木とともに埋められて「錦塚」の主となった男の亡霊が、僧の回向によって成仏するのみか、なんと会うのを拒否していたその女との邂逅さえ成し遂げる、という不思議な物語の『錦木』。「黄鐘早舞」はその喜びに舞われる舞です。

う~ん、『生田敦盛』は愛する者に会えた喜びが舞という形になった、と考えられるから、舞の意味は『錦木』と同じような性質であると言えなくはないのかも知れませんが、やっぱり『生田敦盛』はその舞の前に栄華を誇った一門が全滅に向かっていく壮大で悲惨な物語がシテによって語られている。ここが『錦木』との大きな違いです。要するに『敦盛』『生田敦盛』は、まずシテが「平敦盛」である事がとっても重要で、彼は平家という悲劇の一族の没落のひとつの象徴と、誰もが無意識に捉えるのだと思います。負修羅扇の波濤に入り日図は、まさに敦盛個人というよりは、彼がその背後に背負っている平家の悲劇の象徴でしょう。

結局、運命的に滅亡することが定められている、そういう存在に負修羅扇は似合うのではないかと思います。そういう印象がこの扇には色濃く投影されている。だから個人的な問題を扱って、その中にテーマが収まってしまうような『錦木』や『船橋』『昭君』に負修羅扇を使うことに ぬえは違和感を感じるのかもしれません。

こう考えてみると『錦木』『昭君』『船橋』の三曲のシテは、ともに男性で、しかも もとは人間であったのが、恨みなど何らかの思い残す事があって亡霊としてこの世に舞い戻った、という共通点があります。こういう曲は もちろんほかにもあって、たとえば『通小町』などが好例でしょう。しかし『通小町』のような静かな印象の曲では、やはり、というか装束附けを見ても修羅扇を使う選択肢ははじめからないようですね。すなわち上記の三曲はシテの性格のほかに「激しい所作が見どころの曲」という特徴があるわけで、このへんが負修羅能や『殺生石』『鵺』という一連の曲以外の能で負修羅扇が使われる要件だと考えることができるでしょう。

つまり。。そういう能に似合う、専用の扇というものが、能にはないのです。

実際の話、面がこれほど膨大な種類を持ち、装束もその配色や文様に心を配れるほど多岐に渡って作られていると思うのに、扇は意外なほど図柄のバリエーション少ないな、と ぬえは実感として思います。装束の場合にしたって、種類自体はそれほど多いわけではないのに色や文様が非常によく練られていて、その曲にふさわしい装束やその曲専用の装束もあるのに、それに比べれば扇は非常に選択肢が限られていて、上記のような、ちょっと そぐわないような流用が普通に行われている、というのが実情だと思います。

そういえば以前、ぬえの他門の友人が『船橋』を勤めたときに、やはり負修羅扇に違和感を持って、彼は金地に雷紋かなにかの図の扇を新調していました。えらいことに彼、終演後に その扇は彼のお師匠さんの家に寄贈したんだそう。なるほど、『船橋』は遠い曲だから自分ではもう一度勤める機会が来るかどうかわからないし、次にこの曲が上演されるときにシテを勤める同門のために、誰でも使えるようにしてあげた、というわけですね。これまた見識というべきでしょう。

扇の話(その20) ~どの鬘扇? なぜ修羅扇?<9>

2008-03-15 02:34:39 | 能楽
再び扇の話題にもどして。。

今度は修羅扇についてです。前述しましたように「修羅扇」には修羅扇と言えば2種類があって、ひとつは俗に「勝修羅扇」と呼ばれる松に旭日図の扇で、『屋島』『田村』などの「勝ち修羅能」に用い、一方の「負修羅扇」、すなわち波濤入日図の扇は源平合戦で敗者となった平家の公達などの役が持ちます。

「勝修羅扇」は『屋島』『田村』そして『箙』の三番にしか使わないと思いますが、問題は「負修羅扇」。これは はなはだ用途が広い扇です。修羅能のほとんどを占める平家の公達、つまり「負け組」の役が使う扇だから「入り日」の図で、この図が持つイメージから、平家と同じく滅ぼされる運命を持った役に流用されているのですが、どうもその役が使うのが本当にふさわしいのか、首を傾げてしまうような例もあるのです。

修羅能以外で修羅扇を使う曲。。それは最後には滅ぼされてしまう、怪物のような役が後シテである曲で、その後シテが持つのです。

なるほど、負修羅扇が似合う曲もあります。『殺生石』や『鵺』はシテが運命的に破滅を背負っている。これならば修羅扇も合うでしょう。しかし『鵜飼』や『昭君』『錦木』『船橋』となると。。どうかなあ。。『鵜飼』の後シテは謡本では「閻魔王」とされていますが、実際には「獄卒」の一介の鬼というべきでしょう。しかしこの役は化け物ではなくて、冥界で亡者の生前の善業悪業を裁く閻魔王に仕えて、悪業を働いた者に罰を与える官吏。その役に負修羅扇はちょっと似合わないのではないか、とも思います。

それでもまあ『鵜飼』では後シテが「金紙を汚す事もなく」と修羅扇を自分の前に立てて見る型があります。ここだけは修羅扇が似合いますね。このあたりの詞章「されば鉄札数を尽くし、金紙を汚す事もなく」とは、人間が生きている間に行った行為はすべて閻魔庁に記録されていて、悪業は鉄の札に書かれ、善行は金の紙に記される、という言い伝えのことで、すなわち彼が言っているのは「鵜飼という殺生を生業とするこの者の記録は、鉄札に記した悪業は限りなく、善行を書くべき金紙には一行の墨の跡さえない」と、前シテの生前の行いを責めているわけです。

しかしこの鬼は、亡者が生前になした ただ一つの善行~僧に一夜の宿を貸したこと~も ちゃあんと見ていて、その利益で亡者を極楽に送る、と宣言するために登場するのです。だから公平な彼はある意味で善神の一種と考えるべきでしょう。そこに修羅扇は似合わない、と ぬえは考えるわけですが、一方 「金紙を汚す事もなく」と扇を立てて見るこの型のとき、修羅扇は「利く」のですよね~。このとき扇は閉じたままなのですが、そうすると負修羅扇は金色の地紙が、中に描かれた文様よりもはるかに目立つのです。まるで金無地の扇に近い印象さえ受ける。。まさに「金紙」をこの場に持ってきて、それを確認しながら亡者の生前の行いを言い立てているよう。説得力がビジュアル面からも補強されて、あの小ベシ見の真摯な表情と相俟って、独特の効果をあげていると思います。

あるいは『鵜飼』は、この型のためにわざわざ修羅扇が選ばれているのかも知れませんね。。これは ぬえの推測に過ぎませぬが。

大蔵教義くんの結婚式

2008-03-14 00:41:16 | 能楽
ちょっと話が前後してしまいますが、今月のはじめには大蔵流狂言方の大蔵教義くんの結婚式に招かれて、ぬえも参列させて頂きました。

教義くんはまだ若手の狂言方ではあるけれども、ぬえもとっても信頼していて、また 何故かお付き合いもずいぶん長いな~~。思えば彼が「那須」の語りを披いた頃からのお付き合いだから。。もう何年前になるんだろう。あれは父君の大蔵吉次郎先生の主宰会で、ぬえの師匠がおシテとして招かれて能『屋島・弓流』が上演され、その能の中の間狂言として狂言方の大事である「那須語」を彼が披いたのです。その時の「那須語」は さすが若手の披キだけあって大熱演で、正直それまで彼のことを知らなかった ぬえも感心したのでした。ただ、その日は ぬえは能の地謡の一員でしかなかったし、楽屋で忙しくしていた彼ととくに言葉を交わすこともありませんで、そのまま帰宅しました。

そして同じ年、しばらく経ってからのこと。今度は ぬえの師家の月例会能で、やっぱり ぬえは地謡を謡っていて。。あれはたしか『春日龍神』ではなかったかと思いますが、やはり若手のはつらつとした間狂言に出会って、これまた印象深く思ったのですが、この時も楽屋で話をするでもなく。。

そして、これまた同じ年で、ずっと後の話。ぬえの師家の同門が催したある地方での催しで、これは『船弁慶』だったと思いますが、またまた切れ味のある若手の間狂言の上演を見ました。こういう催しでは楽屋も小さくて、演者同士も割と話す機会があります。この終演後に ぬえは狂言方の楽屋を訪ねて。。そこでようやく、教義くんという存在をよく知ることになったのでした。

「今日の間狂言は良かったね!。。あれ? ひょっとして。。今年ウチの師匠のおシテで『那須』を披いたのって。。」「あ。。僕です。。」「。。それじゃ。。今年、ウチの月例会の『春日龍神』で間を勤めてたのも。。」「。。あ。。それ、やっぱり僕です」「やっぱり!」。。いやいや『那須語』の披キの場面にまで参加していながら ぬえ、失礼極まりない。ひとの顔を覚えるのが どちらかというの苦手な ぬえが、そのうえ忙しい楽屋では なかなか出演者全員ともれなく話す、というわけにもいかず、彼のことは気になっていながら、なんとなくウヤムヤになってしまっていたのでした。ゴメンなさい~

で、この日を境に、ぬえは教義くんとは親しくお付き合いをさせて頂くようになりました。もともと東京の若手狂言方、わけても大蔵流の若手には友達が多い ぬえだったので、その年には囃子方などと行った忘年会にはじめて彼らを招いたり。今年も相変わらず正月の新年会で彼とは楽しく飲みました。。朝まで。。(^^ゞ でもこの日のご披露宴でも いつもの彼の、あの満面の笑みが始終こぼれていて、ああ、やっぱり性格のいい子なんだねえ。

ちなみにこのご披露宴、観世流の能楽師は なぜか ぬえのほかには1名しか来ておらず、ぬえは金春流の同年代の能楽師のテーブルにご一緒させて頂きました。ま、でもこちらも ぬえにとっては友人たちですので、ワイワイ騒ぎながら楽しい時間を過ごさせて頂きました。それにしてもスクエアのみんなは相変わらず仲がよいねえ。

。。で、能楽師の結婚式の恒例である例の「四海波」の連吟では。。金春流宗家の安明先生がご発声に立たれ、しかもご発声は ぬえの目の前。スクエアのみんなからは「ぬえさん、多勢に無勢ですね~」とからかわれ。。はい。。「君の恵み(。。ぞ)ありがーアたーー(。。き)」と、観世流と金春流とで詞章が違う例の部分は ぬえ。。小声になってしまいました。。 (・_・、)

しまった。。あの場面だけ観世流からのもう一人の列席者がおられたテーブルに うまく混じっちゃうべきだった。あのテーブルには福王流のおワキもおられたから、そうすれば少なくとも。。少なくとも係り結びが一致する能楽師が三人になったんだ。。

ま、そんなこんなで楽しい一日でした。教義くん、本当にお幸せに~~

今度は伊豆の国市へ。ランララン~♪

2008-03-11 21:48:28 | 能楽

日曜日には、ついについに今年も始まった狩野川薪能の結団式に出席して参りました。

薪能それ自体は夏休みのおわりに当地で催されるのですが、この薪能は毎年地元の子どもたちを大勢出演させるので、そのお稽古に冬のうちから取りかからなければならないのです。この日は、お忙しいのにこの薪能を総合プロデュースしておられる大倉正之助さんも駆けつけてくださって、たいへん盛り上がった結団式となりました。トップの画像は、おかあさん方にも参加して頂いての記念写真。はい、指をほっぺにくっつけて~~、小首を傾げて、はい「おすまし!」。。ん? まじめに撮った方の画像を載せた方がよかったかな。。

狩野川薪能は今年で9年目を迎え、ぬえはその第1回目から参加しています。この薪能が変わっていて面白い点としては、能楽師による能狂言を上演するだけではなくて、地元の子どもたちを参加させていることでしょう。それも「子ども創作能」として、地元に伝わる民話をベースにした新作の「能」。。というか、能の形式を借りた創作舞台を上演するのです。もう9年間も、こういった地元に密着した舞台を提供できて来たことは本当に有意義だと思います。実行委員会はじめ、市を挙げての協力や後援なくしては とても継続することはできなかったでしょう。

今年はすでに25名の小中学生が参加してくれて、伊豆長岡に伝わる民話に取材した「子ども創作能・江間の小四郎」では学年ごとにシテやワキに相当する役、立衆に相当するチャンバラ部隊(?)、そして地謡まで小中学生が演じます。それのみならず、毎年この薪能に賛同して協力してくださっているお囃子方の尽力によって、今年は連管(笛の合奏)、連調(鼓の合奏)も併せて上演できることになりましたし、また「中学生は子ども創作能から卒業して、古典の曲を演じてほしい」という ぬえの希望から、彼らには仕舞を舞ってもらうことにしました。盛りだくさんの上演でおなかいっぱい。(*^_^*)

で、この日は「子ども創作能」の配役を決めました。うん、去年の薪能のための稽古に取り組む様子から、だいたい順当な線で決められたのではないかな。適材適所という言葉がぴったりはまる配役になったと思います。それから、なんと言っても ぬえが力を入れているのがここなのですが、この薪能で毎度 ぬえがシテを勤めている玄人能は、必ず子方が登場する曲を選んでいて、これまた地元の小学生を起用して、半年がかりで稽古をつけて舞台に出演させているのです。

今年の上演曲は『嵐山』にしましたが、師匠に型附を頂戴してから気がついた。。この子方は。。ちょっと半年程度の稽古で出来上がるかは自信が持てないぐらい難しい役だな。。そんなわけで二人必要な子方の役のうちの一人は チビぬえに勤めさせ、もう一人だけを地元の小学生から選ぶことにしました。去年の薪能への取り組み方を見ていて一人の子を候補にはしたのですが、この子には事前に『嵐山』のDVDを送ったり、囃子の解説を吹き込んでCDに焼いて送ったりして予習をしておいてもらい、そのうえでこの結団式の日に早めに会場に来てもらって実技テストを行って、その結果を見て、子方の役を与えるかどうか判断することにしました。結果は まあまあ頂いた役を責任もって勤めるところまで到達するのではないかと思います。これから稽古が始まってからのことでしょうが、なんとか頑張ってほしいと思います。

玄人の能に出演するのは名誉なことではあっても やっぱり大変なことで、毎年大きなドラマが必ず生まれます。子方に選ばれた子は、当日を迎えるまでに1回。。1回だけ、必ず大泣きするような目に遭う。いや、ぬえが叱ったからじゃありませんよ? 「遊び」ではない、孤立無援で舞台に立たなければならない、失敗は許されない。。そういった舞台人としての責任が要求されている、と、ぬえも何度も説明はするけれども、それは「わかりました~」と頭で理解しただけじゃダメなのです。そして本当に自分に課せられた責任を自覚させられる場面が必ず訪れる。。 まあ、それを乗り越えて当日の舞台は立派にこなして。そうやってもう何年もの間、伊豆の国市の小学生は ぬえの舞台の子方を見事に全うしてきました。彼らもこの経験で ひとつ大人になったことだと思います。

。。と難しいことを言っても、やっぱり伊豆の国市の子どもたちに再会すると顔がほころぶ ぬえ。ああ~~、また会えたね~~(^o^)

今年の狩野川薪能は8月23日に開催されます。晴天であれば、狩野川の河川敷に設けられた特設会場で、中伊豆のシンボル的な存在の巨大な岩山・城山(じょうやま)の直下でこの薪能は上演されるのです。残念ながらこれまでの薪能では雨天会場で演じる事の方がむしろ多いくらいなのですが、今年こそ! あのものスゴイ偉容の城山をバックにした舞台で舞ってみたい! 伊豆の国市のみんな~、今から てるてる坊主作ろうぜ~




結婚式への出演。行って参りました

2008-03-10 21:11:44 | 能楽

忙しい週末が終わって、ようやく東京に戻って参りました~
なんだかブログの原稿書くのも久しぶり。

週末にはSさんと みささんの華燭の典のお手伝いに伺って参りました。前回の記事にも書いたのですが、昨年末に みささんからこのブログへの書き込みを頂いて、そこから話が盛り上がって ぬえが挙式にお邪魔するようなことになったのです。昨秋に伊豆・湯が島で挙式のお手伝いをさせて頂いて以来の晴れの日への出演になったのですが、う~ん、前日は珍しく雨降りだったのに、当日はホントに見事に晴れにしちまいましたな~。いや、新郎新婦の努力の甲斐あって、天も味方してくれたんでしょう。だって、ぬえって。。雨男なんです。。(←前日に雨が降ったときには本当に心配した)

さて ぬえは今回、挙式(人前式)とご披露宴の両方に出演させて頂いたのですが、いや、我ながら良くできたと思います。やはり経験というのは重ねるべきで、はじめての挙式への参加だった昨秋よりも、もっと落ち着いて、雰囲気よく出来たのではないかと思います。花嫁さんの みささんは、前の週に打合せではじめてお目に掛かったときの印象では現代的で活発な感じに思いましたが、白無垢になるとあら不思議。とっても清楚で日本的な美人さん。挙式では色打掛を着られましたが、ほほ~~、こっちはグッと華やかで、みささんにはこういう装いの方がより似合うかな。新郎さんも意外に紋付が似合う方で、うん、やっぱり我々の中には日本人のDNAがちゃあんと培われているのねえ。

挙式では新郎新婦の入場を『高砂』の待謡でお迎えし、三々九度のときには 今回も『井筒』のクセを独吟で謡ってみました。恋の物語をしっとりと。。という感じを狙って謡ってみたのですが、やはり『井筒』はこの場面に良く合うと思います。

親族が堅めの盃を取り交わして、おひらきの場面では祝言舞『羽衣キリ』の披露をさせて頂きました。ちょっと会場が狭かったのでスペースを取るのに苦労はしましたが、舞の中ではグッと新郎新婦の方に進み出る工夫もしてみて、これはこれで成功だったのではないかと思います。でも ぬえ当人は進み出たところで「ホントに元の座に戻れるのかいな。。」と不安もありましたが、まあ、親族の前に置いてある盃を蹴り飛ばすような粗相もなく。。(;^_^A 無事に勤められてよかった よかった。

ご披露宴では、これまた初めての経験でしたが、新郎新婦の入場の先導役として、『老松』のキリを謡いながら静かに歩んで会場に入りました。うう~~緊張した。でも。。謡で入場というのも良いものなんですね~。謡は俗っぽくなく、荘重な感じになるし、声量はあるのにそれでいて静謐。まあそういう雰囲気が出るように考えながら謡うわけですが、三々九度にせよ、こういう儀式の場面には謡はやっぱり似合うと思う。そして今回は助演者の功績も大きかったと思います。もうすっと以前になりますが、ぬえが初めて外国でワークショップ公演を行ったとき。。スウェーデンでのその公演に同行してもらったFくんに、今回の挙式の助演をお願いしたのですが、謡がうまい上に、さきほどの『羽衣』の地謡にしても、この『老松』での入場にしても、能舞台ではない会場で、能の公演とはまったく違う雰囲気の中で、自分がどう振る舞い、どう謡うべきか、どうすれば最上の上演になるのかを、とっても良く考えて判断しながら謡ってくれていたようで、その柔軟な出演の仕方が絶大な効果を生んだのだと思います。

ご披露宴の会場は外からのぞき見るのは難しい構造だったので、ぬえはご披露宴で舞った祝言舞『高砂』のあとは、残念ながら楽しい余興も見ることはできなかったのですが、盛り上がったご披露宴でありました。ご披露宴会場の入口に能装束を飾っていた ぬえは おひらきになるまで待機しなければならなかったので、その間、会場となった旅館の温泉につからせて頂きました~。ふ~~い。

あ、そうそう。この装束の展示なのですが、当初は唐織と縫箔を展示しようと考えていたのですが、挙式の前日にふとアイデアがひらめいて。。唐織と狩衣を飾ることにしました。なぜって。。? だっていまは3月。「お内裏様とお雛様」をイメージしたのです。うん、これはうまいところに気がついた。

その翌日、日曜日はこの夏に伊豆で行われる「狩野川薪能」のために、出演する子どもたちと初顔合わせをするべく伊豆の国市へ参りました。あ~~、久しぶりに再会したあの子たち! この話は次回に書こうと思いますが、その夜は。。今回の挙式のコーディネーターとして大活躍したUさんと、伊豆の玄関口・三島で夜中まで大騒ぎしてしまいました~。お互いの健闘を讃え合って、今後も団結して協力していこう! と誓いを新たにした、感動的で実りのあるフィナーレをもって ぬえの中で今回の結婚式は完了できたのでした。

寿なれやこの契り 天長く地久しくて尽くることもあるまじ

結婚式の出演 ふたたび!

2008-03-05 12:20:20 | 能楽
この土曜日、ぬえは再び結婚式のお手伝いに行って参ります!

先日打合せに会場に伺ったのですが、まあ。。東京からほんの1時間で到着できる場所で、こういう佇まいの旅館があるなんて。。ぬえは知りませんでした。どうやら将棋の大きな対局で使われる、その道ではとっても有名な老舗旅館さんなのだそうで、へえ~、人混みの喧噪を避けてこういうところで将棋の対局は行われるのですか。

で、なぜ今回 ぬえがふたたび結婚式のお手伝いをさせて頂く事になったのかというと。。去年の11月に縁あって伊豆で行われた結婚式に ぬえが出演させて頂いた折に、このブログにご報告を書きましたところ、今回花嫁さんとなる みささんが「これこそ私が求めていた結婚式のスタイルです!」とコメントを寄せてくださり、そこから ぬえは再び結婚式に出演させて頂く運びとなりました。

昨秋の花嫁さんの舞さんといい、今回の みささんといい、既存の挙式のスタイルにとらわれたくない、自分たちだけの挙式をしたい、と考えておられる方がこれほどある事も驚きではありましたが、いざ、そう考えたときにご自分たちの手だけで結婚式を作り上げるのは、本当に大変なのだそうで、あちこち検索してみたり、相談する相手をさがしたり。。みささんは検索によって ぬえのブログにたどり着かれたのだそうで、そこまでの道のりは大変なものだったのだそうです。ん~~頭が下がる。。

今回は昨秋に引き続いてご披露宴だけではなく、挙式からの出演となりましたが、三々九度に合わせて謡を謡う、という ぬえがこれまでやった事のない重要な儀式への出演も、ようやく やり方がのみこめてきたように思います。昨秋には本当に緊張したけれど、こういう厳粛な場面に謡はよく似合うと思います。なんだか ぬえの方が感動しちゃうもの。。

それと今回特筆すべきは、ご披露宴の花婿花嫁さんの入場の際に、ぬえが先導して、謡を謡いながら入場する演出になった事です。このご依頼を受けたときは またまた ぬえの心臓はバクハツしそうでしたが。。この挙式のコーディネートは昨秋に引き続いてUさんがなさったのですが、その説明によれば「つまり。。花嫁行列なんですよ」あ、なるほど! 演出としては「木遣り」で入場する、ああいった感じではないかと思うのですが、お二人を先導する仲人さんのような、それでいて神を導く謡で座を清めるというか。。よくまあ、そこに気がついたものです。そういうアイデアは ぬえにはなかったな。。

で、それには負けじと、ぬえからもアイデアを出して、今回の挙式では会場に装束を展示することを提案してみました。結局、挙式ではなくご披露宴の会場に展示することになったのですが、まあ、お酒の席ですから展示の方法や場所には慎重のうえにも慎重を期して。。でも、これまた旅館やコーディネーターさんがいろいろとアイデアを出して、なんと会場内ではなく、新郎新婦やご両親が会場の入口でご披露宴のゲストをお迎え・お見送りする際の、その後方に立てる金屏風の代わりとして唐織を飾ることになりました。ああ、その手があったか。。これまたアイデアの勝利ですね~

みささんも、新郎となる彼も、お会いしてみると とっても明るい方で、なんでもプロ野球ファン同士という出会いなのだそう。それに関連した演出もご披露宴では盛りだくさんのようで、どうも ぬえは「マジメ演出部門担当者」のような位置づけかなあ。楽しい企画もたくさん盛り込まれるようなので、ぬえも今から楽しみです。

それにしても、新郎である彼、Sさんは福祉関係のお仕事をされておられるそうで、その内容を聞いて、本当に大変なお仕事だと思いました。「相手の人格を尊重して、言葉遣いなども気を付けているんですよ」。。当たり前のようだけれども、お仕事の大変さを伺ったあとで聞いたこの言葉は、それを常に忘れないで人に接するプロ意識を垣間見たようでした。情熱がなければ続けられないでしょう。どの道であっても、やっぱりプロはすごい。そんな感想を持った ぬえでした。

Sさん、みささん、お幸せに。土曜日を楽しみにしております~。

扇の話(その19) ~どの鬘扇? なぜ修羅扇?<8>

2008-03-04 00:09:14 | 能楽
「花軍花車図」の鬘扇は、豪華ではあるけれども、でも使う曲目を選ぶ扇です。『井筒』や『野宮』『江口』のような長大で本格的な鬘能には良いけれども、『羽衣』のような小品の曲には似合わない。仰々しすぎるのです。そこで『羽衣』には「花の丸図」とか、すこし可憐な感じの扇を選びます。あるいは「桜立木図」の「天女扇」。これは本来は脇能などのツレ天女が使う扇ですけれども、桜が『羽衣』に合うので、この扇が選ばれることもあります。このように、三番目能であっても、その曲柄によって、いろいろな種類がある鬘扇から、演者が苦心しながら一番効果があるであろう扇を選んで舞台に使うのです。

また若い女性の役で狂女の役には、これといって決められた扇がありません。『玉鬘』などがこういう曲の例に挙げられると思いますが、装束附に書かれているのは、やっぱり「鬘扇」です。こういう曲の場合は、花などが描かれていても、どこか強い感じが欲しいので、「槍霞」(やりがすみ)と言いますが、扇の面の両方のサイドから長く尖った朱の霞を入れた扇などを用いたりします。これは面白いことだと思いますが、紅入の狂女のための扇は専用にはないのに、無紅のシテ用であれば「狂女扇」というものは立派に存在するのです。扇の面に大きく稲妻のような区切りを入れて、そこに松の枝と鉄線を描いた扇で、でもまあ、これも『柏崎』などの本格的な狂女能にはよろしいけれども、『桜川』などでは もう少しおとなしい感じの扇を選ぶことが多いように思います。

そういえば無紅狂女扇の類例として『弱法師』がそれに近い扇を使いますね。と言っても『弱法師』に選ばれる扇は無紅狂女扇というよりはむしろ無紅鬘扇かもしれませんが、曲柄としては狂女能に準ずる扱いをされる曲です。これまた面白い話かも知れませんが、ぬえが『弱法師』を勤めたとき、師家には褄紺(扇の褄の色が紺色=無紅鬘扇や無紅狂女扇の特徴で、紅入鬘扇の褄紅と対になっています)の、その紺がとっても淡い無紅鬘扇があって、これを拝借させて頂くつもりでおりました。さて催しの前に装束を師家のお蔵から出すとき、後輩がひと言。「扇は濃い紺色のものが良いですよね?」。。いや、それはないだろう。『弱法師』は盲目の乞食として人々に蔑まれる存在だけれども、心の中には彼だけに見えるひと筋の光明~仏の慈悲~が見えているのです。だから彼の言動はとっても穏やかで、心には彼以外の者には理解できない平安がある。『弱法師』の中でそれを表す、彼の心の中の光明の象徴が、彼が持つ扇なのではないか。。ぬえはそんなふうに思っています。

『弱法師』でその扇を拡げる場面はイロエの中で、しかも日想観のくだりのクライマックス。。ついに彼の心眼が開いた場面~「おう、見るぞとよ、見るぞとよ」でハタと扇を胸に当てる場面までの、ほんの3~4分だけなのです。そうであるのに『弱法師』は狂女能の一種、と単純に考えてしまって強い色の扇を選んでしまうと。。どうなんでしょう、せっかくの場面が台無しになってしまう可能性だってあるんじゃないでしょうか。演者によって考え方は当然それぞれだと思うけれども、ぬえはそんなように考えます。

ちなみに。。『弱法師』で扇を使うのは観世流だけなんですよね。たしか宝生流では小書がついた時には扇を使うのだったと思いますが、『弱法師』と言ったら常に扇を使うのは観世流だけだと思います。だからこそ、観世流では扇の扱いは舞台の成否を左右してしまう可能性もある。使うその扇を選ぶのには慎重の上にも慎重でなければならないでしょう。

紅入狂女扇に話を戻して、『班女』だけは決マリの「班女扇」というものを使います。ご存じの通り『班女』は吉田少将という分かれた恋人を思う遊女・花子が、彼が残した形見の扇が縁になって彼と再会する、という物語で、このときシテ花子とワキ少将は再会の場面で、お互いが持つ扇が同じものである事を確認して、お互いの代わらぬ愛を確かめるのです。吉田少将は自分の持つ扇を花子に残して去ったのだから、再会の場面で同じ扇が2本登場するのは、考えてみれば少しおかしいのですが、ま、それはさておき。この場面でシテとワキが同じ扇を見せ合うために、『班女』では対になった同じ図柄の扇を2本、シテ方が用意しておいて、そのうちの1本をシテが、もう1本をワキが持って登場します。また扇の図柄についても謡の本文に「夕顔の花を描きたる扇なり」という文句があるので、その通りの図柄の扇が使われます。同じ夕顔の図柄の扇が2本必要なので、この扇は「班女扇」としてシテ方のそれぞれのお家に所蔵されているわけです。

扇の話(その18) ~どの鬘扇? なぜ修羅扇?<9>

2008-03-01 02:53:00 | 能楽


ああ~、やっと鬘扇の話題にたどりつきそうです~

たとえば修羅扇と言えば2種類があって、ひとつは俗に「勝修羅扇」と呼ばれる松に旭日図の扇で、『屋島』『田村』などの「勝ち修羅能」に用い、一方の「負修羅扇」、すなわち波濤入日図の扇は源平合戦で敗者となった平家の公達などの役が持つ。あるいは神扇は素骨で表面が昭山四皓図、裏面が桐鳳凰図が描かれている。このあたりは有名で 広く知られている事と思います。

ところが これに対して本三番目能のシテの装束附に必ず書かれている「鬘扇」というものは。。じつは「これが鬘扇」と図柄を特定して定められた扇は存在しません。いろいろな種類の扇が「鬘扇」として使われる。。つまり能の催しのために装束を蔵から出すときに「鬘扇を出しておけ」「はい、わかりました」という師弟の会話は成立しないのです。

また、三番目能のシテの装束附に書かれている、と書きましたが、三番目能に限らず、またツレであっても、若い女性の役で扇を持つ役であるならば、多くの場合用いられるのは三番目能のシテと共通する扇なのです。能の役が使う装束・道具の類の中で、シテとツレとが使う物にあまり差をつけないのは扇ぐらいなものではないかしらん。

それでは強いて「鬘扇」を定義するとすれば どうなるかと言うと。。「褄紅・黒骨で草花など優雅・典雅な図を金地の上に描いた扇」ということになるでしょうか。褄紅とは拡げた扇の褄。。つまり角のあたりに雲か霞のような形に紅の文様を描いたもので、黒骨とは扇の骨を黒く塗ってある扇ですが、これ以外の点。。つまり図柄には本当にいろいろな種類があります。花ノ丸、色紙短冊、四季草花、四君子、嵐山に高尾図。。

しかし、何と言っても最も有名な鬘扇は「花軍花車図(はないくさ・はなぐるまず)」の扇でしょう。表面は中国の皇帝と皇后が向き合って玉座に座り、その前で皇帝と皇后それぞれに仕える女官たちが手に手に花束を持って やはり向き合っています。これが花軍図で、皇帝は玄宗、皇后は楊貴妃と云われています。この二人がゲームをしているのがこの図で、要するに官女たちが順番を決め、自分の番になると相手の選手と「せ~~の!」と持参した花束を見せ合い、どちらの方が美しいかを競うのです。なんとも悠長で。。緊張感のないゲームと言いますか。。裏面は牛車のような車に大きな花籠が乗せされているところを描いた図です。

この扇、なんとなく三番目能のシテ専用にはなっているように思います。演能の画像が載せられた書籍とかでシテが使っている場面を見てお馴染みの方も多いでしょう。しかし、これとても厳密に言えば「鬘扇の一種」にしか過ぎないのです。

そういえば。。花軍花車の図の古い扇は、観世宗家に伝わって大切に保管されているようですね。おそらく現在作られている同文様の扇は、この観世宗家の所蔵品を忠実に写したモノの「お下がり」なのかもしれません。