ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

ワキ方の流儀について

2006-07-31 11:54:10 | 能楽
『藤』という能と囃子方。承前。

一昨日は新潟薪能に出勤してきました。まだそのときは東京はじめじめした陽気でしたが新潟は快晴で、しかも涼しい風が吹き渡り爽やかなこと!今年の薪能はみ~んな雨にたたられて雨天会場に変更されてきたので、なんと今年はじめての野外能となりました。上演したのは『屋島・弓流』と『葵上』の二番と野村萬斎さんの狂言『附子』。白山神社のご祭神は女神さまだったはず。喜んでくださったでしょうか。

さてこの薪能に出勤されたワキは福王流の方でした。先日師家の月例会で『藤』の地謡に出ていて、そのときには宝生流のおワキが勤められていて、おワキの流儀による「決まり事」の違いのような事を漠然と考えました。

現存するおワキの流儀は福王流・宝生流・高安流の三つです。福王流はシテ方観世流と近しい関係にあって、詞章もほとんど観世流と同一。同じく高安流はシテ方の金剛流に近く、詞章も似ているとのこと(ぬえが確認したわけではないですが。。)、宝生流は現在は廃絶した春藤流(しゅんどうりゅう=金春座付きの流儀)から分かれた流儀で、かつて宝生座付きであったために宝生を名乗っておられますが芸系は下掛リで、シテ方宝生流と区別するために「下掛宝生流」と呼んだりしています。面白いのはこのお流儀は独自性が強く、詞章もシテ方のどの流儀とも違う独自本文を持っていて(シテ方金春流とやや近い、という指摘もあり)、謡の技法も独特のニュアンスがあります。なお、やはり明治期に廃絶した流儀として春藤流のほかに観世座付きの進藤流がありました。

さて現在、お客さまが舞台で能をご覧になる場合、おワキの流儀の違いを比較してご覧になる機会は地域によってかなり限られています。東京では福王・宝生・高安の三流とも役者がおられたのですが、先年 高安流の和泉昭太朗氏が亡くなって、それ以来東京では高安流のおワキを見る機会はめっきり少なくなってしまいました。それでも東京では福王流と宝生流の二流の役者がおられるのですが、役者の人数では圧倒的に宝生流の方が多く、どちらかといえば優勢であるように思います。逆に名古屋では宗家もご在住の高安流の役者しかおられず、京都は高安流、大阪と神戸は福王流、北陸は宝生流、というように、地域によって役者の数に偏りがあります。もっとも京阪神では比較的自由に役者が行き来しておられるようですし、交通機関が発達した現代では東京の役者と関西の役者の共演、などという事も珍しくなくなってきましたが。

実際の能の上演ではシテとワキとの流儀が異なっているため(正確に言えば、現代では昔のシテ方の「座付き」の関係にこだわらずに自由にシテ方の流儀とおワキ方・囃子方の流儀が共演しているため)、シテとワキのやりとりの問答が微妙に言い回しが食い違う事もあって、それは事前の申合でよくお互いの詞章を確認しています。たまに見所で謡本を見ながらご覧になっておられるお客さまから「ワキが言葉を間違えている」という感想が出たりしますが、それは多くの場合、お客さまがシテ方の謡本をご覧になっておられるからで、おワキはそれぞれの役者が属するお流儀の詞章に従って謡っておられるのです。それどころか上演にやや具合が悪い詞章の違いがあった場合はおワキがシテの文句に合うように謡い変えてつき合ってくださっていて、シテ方の各流儀の公演にその都度おつき合いをするおワキは公演の事前に毎度大変な作業をしておられるのです。

老女能四番の競演! 古希記念幸清会

2006-07-29 00:00:22 | 能楽
ずっと前から ぬえは存じていた催しですが。。このたび『能楽タイムズ』に番組と出演者の対談が掲載されたので、ようやく宣伝が解禁となりました。(~~;)

能の最奥と称される「老女能」。それが四番も連続して上演される、という前代未聞の試みの催しが、この秋に開催されます。小鼓・幸清流の宗家、幸清次郎師の「古希記念幸清会」がそれ。朝10時に『卒都婆小町』が上演されるのも能楽の世界で初めてだろうし、『檜垣』には観世流に伝わる「蘭拍子」を入れての上演となります。

 古希記念幸清会     平成18年11月23日(祝)午前10時始
                   於・国立能楽堂

能 卒都婆小町  シテ 梅若 紀長  ワキ 森  常好
    一度之次第  笛・藤田大五郎/小鼓・森澤勇司/大鼓・安福建雄
           後見 観世栄夫 地頭 観世銕之丞

舞囃子 高 砂 八段之舞 観世銕之丞

能 鸚鵡小町   シテ 金剛 永謹  ワキ 宝生 欣哉
           笛 一噌隆之/小鼓・後藤嘉津幸/大鼓・柿原崇志
           後見 松野恭憲 地頭 豊島三千春

素囃子 延年之舞

能 姨 捨    シテ 観世 清和
  ワキ 宝生 閑 アイ 野村 萬
   笛 一噌仙幸/小鼓・幸正昭/大鼓・亀井忠雄/太鼓・金春惣右衛門
           後見 関根祥六 地頭 梅若六郎

独調  駒之段   宝生 和英  後藤孝一郎
一調  難 波   粟谷 明生  福井四郎兵衛
一調  笠之段   桜間 金記  福井 良治
一調  歌 占   観世 喜之  野中 正和

能 檜 垣    シテ 梅若万三郎
      蘭拍子    ワキ 森  常好 アイ 山本東次郎
           笛・松田弘之/小鼓・幸清次郎/大鼓・亀井広忠
           後見 観世喜之 地頭 野村四郎

【入場券】 特別席…二万円 正面…一万五千円 脇正面…一万三千円 中正面…一万円
【主 催】 幸清会 幸清次郎 TEL/FAX 03-3337-5672

ぬえ師匠が『檜垣』を勤められ、ぬえもその地謡に出勤します。
しかし思い切った番組です。おシテは装束の取り合わせに苦労されるだろうけれど。。

【緊急特集】 @Niftyがフォーラムを閉鎖予告(その3)

2006-07-27 23:04:22 | 能楽
そんなこんなで ぬえとしてネットの世界で発信する場を見つけて、ぬえには損得のない関係の、純粋な能楽ファンとしての友人も出来ました。そしてそのように本当に能を愛している人の中には、じつに数多くの能を見ていて、批評眼もかなり確かな人もありました。じつによいところを見ている。そういう方は ぬえの能を見て評価も助言も、そしてある時は批判もして下さいました。ぬえにとっては励ましにもなり、奮起するキッカケも頂いたものです。

内弟子時代に小鼓の穂高光晴先生という人生の師を得、その稽古場で同じく修行中の身だった能楽師の親友もできた ぬえは、本当に幸せな修行時代を送れたと思います。そして内弟子から卒業したところで、ネット上で信頼できる友人たちと知り合う事ができました。役者というものは、自分が今どのような位置にいるのか~能楽師として進歩を続けているのか、停滞しているのか、それとも。。~を知るのは本当に難しい。現在はともかく(泣)、少なくとも若い時期に、いつも自分を批判してくれる友人たちが能楽界の内外にいつも居てくれた事は ぬえにとって幸運だったと思います。

前述のように ぬえは何気なくこのハンドルを選んだわけですが、その後「ぬえ」というハンドルが、いかに自分自身をよく表しているかに思い至るようになりました。よその世界から飛び込んできた ぬえは、能楽界の中ではまさしく得体の知れない「鵺」のような存在でしょう。舞台の上でも、そして見所からも、いつまでも「誰だ?コイツ」と言われ続ける宿命であったりする ぬえ。子方の経験がない ぬえには、能楽師の子弟が生まれながらに舞台と密着した生活を歩んできた、その経験値の差に愕然とした時期もあり、ずっと彼らに追いつこうともがいていた時期もあります。。でもその後にいろいろな経験を経て、今の ぬえは、楽屋から舞台に上がった彼らと違って「見所から舞台に上がった役者」という自負も持っていたりします。いつか、「ぬえ」が「鵺」でなくなる日が来ることを信じて。。(でも、もしそうなっても「ぬえ」と名乗る事は止めないだろうな。。)

話題が飛びましたが。。(~~;)

ぬえがこのハンドルを今でも使っている理由は、彼らニフティで知り合った友人たち~本名ではなく、「ぬえ」としての自分の舞台を応援してくれた友人たちへの恩を忘れないためであったりします。

というのも、いまから数年前に ぬえが初めて自分の主宰会を持ち、そこで『道成寺』を披いたとき。。この友人たちみんなが応援してくれたのです。あれは驚くべき事だった。なんせ、「ぬえが『道成寺』をやるそうだ」となったとたん、みなさんがいろいろな形で ぬえの公演への協力を申し出てくださったのです。それまで知らなかったアクティブの才能が一気に開花した、という感じでした。公演チラシのデザインは山口県の方が作ってくれ、印刷は滋賀県の友人が引き受けて下さいました。その他宣伝やら稽古場や小道具の提供やら。。これらすべてが ぬえの『道成寺』の披キのお祝いとしてプレゼントされたのです。

ぬえもよく考えて、考えて、そしてついに自分の主宰会の名前を「ぬえの会」としました。この珍妙な会名には能楽師の仲間はみんな首を傾げるし、彼らネットの友人たちも驚いたようでしたが。。ぬえが恩義を感じている「しるし」なのです。

かくして『道成寺』は無事に終えることができました。文字通り生命を賭けちゃったけど。。そしてその後、1週間を掛けて、この山口や滋賀、京都、福岡の友人たちに直接会ってお礼を申し上げるために各地を旅行しました。ぬえの役者としての節目にあたって、本当によい思い出です。

その後ニフティサーブのパソコン通信のサービスが終了して「ウェブ会議室」というものにサービスが移行したのですが、まだブロードバンド環境が現在のように整っていない時代で、ぬえを含めてアクティブは通信環境が追いつかず、ほとんどの会員は「ウェブ会議室」へは移行できない状態になりました。ぬえもあれからネットでの発言はまったくしていませんで、今年の正月にようやくこのブログから発信を再開した、というような経緯になります。

このたび@ニフティから「ウェブ会議室」を閉鎖する、とアナウンスがあって、いろいろな事を思い出しました。楽しかったなあ。パソコン通信という場を ぬえに与えてくれたニフティには感謝はしているし、あの「会議室」というサービスは一種のサロンとして、大げさに言えばある程度文化の牽引をしてきたと言えるとも思うけれど。。その後のサービスの改変で、パソコン通信で得た友人たちとは引き離されてしまう結果になったし。。愛憎相半ばする、というのがニフティに対する偽らざる ぬえの感情と言うべきかな。。

あ、そうそう、この当時のアクティブ同士がこの秋にめでたくゴールインする事になりました。ぬえも結婚式にご招待を受けて、広島まで『高砂』を舞いに行きまする!

【緊急特集】 @Niftyがフォーラムを閉鎖予告(その2)

2006-07-25 23:10:14 | 能楽
かくして ぬえのネット生活(。。なんて言葉さえありませんでしたけれども)が始まりました。そして ぬえという現在のハンドル(いまはHNと表記した方が一般的なのかな?)もそのときに同時に生まれたのです。

みなさんも一度は経験があるでしょうが、会員制のサイトなどにオンラインで入会するとき、そのサイトやサービスに入会する、というところまでは心に決めていて接続するのですが、いざ入会手続きを進めていくと「IDを決めてください」「パスワードを設定してください」と突然言われて焦ったって事。。一度はありますよね?ネット初心者には避けて通れない厚い壁だと思います。ようやくそういうシステムにも慣れてきて、「ここに入会するには、またIDやパスワードを決めなければならないだろうな」と予想も立てられるようになってくると、今度は「そのIDはすでに他の人によって使われています。ほかのIDを設定してください」と言われてまたまた焦る、とか、自分が決めるパスワードのパターンがようやく出来上がったと思ったら「あなたのパスワードは◎△■×○です」と、サービスのシステムからあてがわれちゃったり。。

ぬえもニフティサーブに入会する時にそれとは知らずにイキナリ ハンドルの設定を求められておおいに焦りました。しかも入会時はオンライン接続したままなので、電話料金の加算にビビりながら設定にも頭を悩ませて。。ところがその当時 ぬえはたまたま師家の月例会の催しで能『鵺』を舞ったばかりで、それが自分でも割とうまく舞えた希有な例の能だったので、その曲名をそのままハンドルにする事にしました。もうこのハンドルとも10年のつき合いなんだが、意外やこれに決まったのはごくごく単純な動機からだったのです。

こうして当時は歌舞伎や文楽、落語などとも同居していた古典芸能の「会議室」“にっぽん座”に入会したのですが、ぬえはあまり考えずに自分が能楽師であること、まだ内弟子から独立したての新米であることは公言して入会しました。そしてハンドルという匿名性も面白いな、と思って、それ以上の情報は書き込みませんでした。その当時と現在とでは ぬえのスタンスは少し違うけれど、いろいろな記事や ぬえの発言をよく読めば ぬえが誰かはすぐに解るのだけれど、あえて自分からは実名や師匠の名前、所属する演能団体の名前は書き込まない、という、いまと全く同じ方法です。能楽師としてネット上で実名を出さないのは不利である事は、その当時はあまり考えませんでしたね。今では承知のうえでやっているのですが。。

「会議室」で発言を始めてみると、それまで ぬえが知らなかった世界がそこには開けていました。ネット社会で発言する人は立場の違いを超えて平等な立場、という、今ではあたりまえのような事が ぬえには新鮮でしたね。「アクティブ」(同じ会議室の常連会員)は、能の演出などでわからない事があれば ぬえに気軽に聞いてくれて、ぬえもそれに答えるのを楽しんでいました。その意味ではアクティブは ぬえをプロの能楽師として尊重もしてくれたのだけれど、いったん ぬえが言葉遣いを間違って偉そうな態度をとったりすると、たちまち非難されたものです。発信してゆく、という事の可能性も、難しさもこの「会議室」での書き込みから学ぶ事ができたし、ぬえに対して損得勘定や身びいきのない、能楽ファンの本音の声にナマで接する機会も、ここでしか求むべくもないものでした。

これは古典芸能が同居していた「会議室」“にっぽん座”から能狂言が独立して、専門の「会議室」“六百年らいぶ”となってからですが、東京在住のアクティブが多かったために、彼らと一緒に何度か東京で能の講座を催したこともあります。「セミナー六百年」というタイトルでしたな。能楽堂の楽屋ツアーをしたり、実際に能楽堂を借りて「舞台に上がってみる」という企画をしたり。。オフ会も数多かったし、なんというかアクティブ会員の結束が強かったことも ぬえには幸運だったと思います。

【緊急特集】 @Niftyがフォーラムを閉鎖予告(その1)

2006-07-24 00:59:46 | 能楽
ぬえがサイトを立ち上げたのを待っていたかのように、一昨日、@niftyからメールが届いて、いよいよ「フォーラム@nifty」も来年の春には閉鎖される事に決まったそうです。はあ。。ついにそうなったのか。

ぬえは今から10年ほど以前にはじめてパソコンを買って、割合とすぐに「ニフティサーブ」のパソコン通信をはじめました。それはまったく ぬえが知らない世界で。。知らない方のために解説しておきますと、そこには「フォーラム」という、いまで言うBBSとか掲示板にあたるものがあって、そこはカテゴリー別に大きな「フォーラム」、その中に細かい区分の「会議室」というものがありました。

能について語れる場所を探した ぬえは「シアター・フォーラム」の中の「にっぽん座」という会議室に行き当たりました。当時の当該の会議室は能も歌舞伎も文楽も、そして落語までもが一緒に同居している古典芸能専門の会議室がひとつあっただけでしたが、その後会員数の増加に従って「能」「歌舞伎」「落語」などがそれぞれの会議室を持つようになりました。能の会議室は「六百年らいぶ」という名称で、さらにその後、古典芸能だけでひとつの「フォーラム」が割り当てられるようになった、と。だいたいこういう経緯だと思います。

会員は会費を払ってIDを入手することによって入室ができて、それぞれが求める「フォーラム」に参加する、という、そうだなー、いまの「ミクシイ」に似たシステムに似たシステムでしょうか。ただ「ミクシイ」と決定的に違うのは、「フォーラム」や「会議室」はすべてニフティサーブが開設(閉鎖も)し、運営もすべて「フォーラム・マネージャー」「シスオペ」という管理人によって行われる、というところ。「ミクシイ」と同じように発言にはすべてIDが表示されるので「荒らし」は起こりえず(そんな事したら強制退会させられたりした。もっとも「荒らし」「煽り」という言葉も当時はなかったけれど)、それどころかそれぞれの会議室のテーマから外れる発言は「シスオペ」によって強制的に同じ「フォーラム」の中の「雑談会議室」のような隔離室に移動させられたりするのでした。

たとえば、「能」の会議室で国立能楽堂での催しの話題で盛り上がる→東京在住でない会員や、その公演を見ていない会員も話題に参加してくる→おのずと話題は公演そのものから離れていく→「そういえば」と誰かが発言する→いつのまにか話題は「国立能楽堂のそばの美味しいお店」にすり替わる→シスオペが出動して「そういえば」以下の発言は「雑談会議室」に移動させられ「続きはこちらでどうぞ」と言われる。。こんな感じでした。なんて勝手な!と思う方もあるでしょうが(当時も「言論統制だ」と言った人はいた)、こういう強権的なシステム管理者が「天の声」を発動できる体制が「能の会議室」を純粋に能についてだけ語れる会議室であり続けさせたワケなので、ぬえはこれはこれでアリかな、と思っています。

なにより、ぬえはここで育てて頂きました。

当時まだ内弟子だったぬえは、若かったし、能楽界の外から飛び込んだ身として、どうやって自分のやりたい事を発信していくか、という可能性を模索もしていました。外から飛び込んだからこそ、誰もやっていない事ができるんじゃないか、と、そんなナマイキな事を考えていたんです。当時はホームページなんて個人が持つものではなかったし、そもそも「パソコン通信」というものが画期的でさえあった。みーんなダイヤルアップ接続でしたから会議室を巡回するのも時計と睨めっこ。発言はオフラインで書いておいて「巡回ソフト」を使って発言アップ・自分が所属する「会議室」の未読発言の取得は数分で終わるように工夫したものでした。だから長文の発言ばかりする人は嫌われたり(ぬえもその一人)。中には電話回線を接続したまま書き込む人もいて、そんな人は「リアル書き込み」「リアルアップ」と言われて尊敬(なぜ?)されたものです。

いずれにしても「会議室」に発言と一緒に画像をアップする、なんてのは夢のような話でした。「バイナリ・メール」程度は当時もあったのですが、ちょっと大きな容量のファイルを送ると、受信に1時間ぐらい掛かったり。。そういえばチャットもあったな(当時は「リアルタイム会議室」と呼んだ)。これは今のチャットと同じで、事前に「会議室」で「ボードリーダー」(=その「会議室」の実質的なリーダー)が予告しておいて、その時間にみんなが集まって雑談。でも今と違うのは、深夜11時を廻ると「テレホーダイ」タイムになるので、開始時刻は必ず11時でした。そんな時代の話です。

※なに?「テレホーダイ」ってナニとな?。。そんな人はご両親に聞いてみてくらさい。。(T.T)

『藤』という能と囃子方。

2006-07-23 23:10:30 | 能楽
今日は師家の月例会で、ぬえは仕舞と能『藤』の地謡のお役に出演していました。

『藤』という曲は上演が珍しい曲ですが、ぬえの師家では意外や好まれる曲でして、毎年のように上演されています。ぬえも舞った事がありますし、同門も大概は勤めた経験があって、中には「僕は二度勤めたよ」という先輩もありました。この遠い曲を二度。。実際『藤』は、ただ遠い(=上演が稀、な曲を「遠い」と表現します。一種の「楽屋言葉」のようなものでしょうか)だけではなくて、面倒な曲でもあるのです。

『藤』という曲は観世流のほかにも宝生流と金剛流にもレパートリーとして伝わっているのですが、それならば少しは上演の機会もありそうなものです。そして実際に宝生流では時折、という感じらしいですが上演される事もあるそう。そうなると、たとえば『吉野天人』のように、観世流だけがレパートリーとして伝えている曲よりも上演頻度は多いはずなのですが。。そこがこの曲の難しいところで、宝生流・金剛流に伝わる『藤』と、観世流の『藤』は詞章に大きな異同があるのです。

『藤』のあらすじはこんな感じ。“田祜(←この字見えてますか~?示偏に古い、という字です)の浦を訪れた僧が松の梢に掛かる山藤を見て「おのが波に同じ末葉の萎れけり、藤咲く田祜の恨めしの身ぞ」という新古今集の歌を吟じると里女が現れて藤の花にとって不名誉な歌を吟じるのを咎め、自分は藤の花の精だ明かして消える。その夜僧が読経していると藤の精が現れて仏法を礼賛し、この浦の四季の景観や春の形見としての藤の花の美しさを賛美して舞を舞うが曙の霞の中に消え失せる”

取り立てて深いテーマを持った曲ではなく、花の精が舞う、というビジュアルとしての美しさを狙った曲、風情の曲でしょうね。ところが観世・宝生・金剛ともほぼ同じストーリーのこの曲なのに、そもそも前シテの里女が現れる契機となる、僧が吟ずる歌そのものに流儀による異同があるのです。上記は観世流の詞章なのですが、宝生・金剛流ではワキ僧が吟ずる歌は「常盤なる松の名たてにあやなくも、かかれる藤の咲きて散るやと」となっています。これ以後もシテやワキの問答や地謡の文句にもおおまかには同じ文章のようでいながら微妙な長短とか言い回しの違いがあったりするのです。

この曲は江戸期に作られた比較的新しい作品で、おそらく越中のご当地ソングとして地元の大名などの周辺で作られたのだと推測されていますが(上演の史料上の初出が仙台の伊達藩だったりと、問題点はあるようですが。。)、ありていに言えば観世流の『藤』は後世の改作で、『梅』との類似点がある事から観世元章の手になる改作だろうと推測されています。

このような流儀による「微妙な違い」というのは囃子方やワキにとっては大きな苦労となるわけで、ぬえが『藤』を勤めたときも、稽古能の際に囃子方に「今日は“観世の”『藤』ですからね。宝生流じゃないですから間違わないでね」と軽口を言ってみたら「そうだったらどんなに良かったか。。」と真顔で言われてしまった。稀な上演であるはずなのに、それでも微妙に宝生流の方が上演頻度は高いのでしょう。

同じように、シテ方の流儀による「微妙な違い」がある「囃子方泣かせの曲」というのはほかにもあるそうで、『弱法師』『巴』などはその代表例なのだそうですね。ぬえは囃子オタクなので割と囃子には明るい方だと思うが、さすがにシテ方の謡は観世流しか知らないので、そういう囃子方の苦労まではわかりません。みなさんいろいろと努力されて舞台に臨まれているんですね~

画質をアップしました。。(疲)

2006-07-22 20:49:09 | 能楽
>笑芭さん ご教示ありがとうございました。

ページ容量を気にしすぎて画質を落としたのをやっぱり反省して、すべての画像を更新しました~

でもレイアウトとの関係もあるから、何気なく縮小したいまの画像に合わせて、改めて元画像を1枚ずつ縮小したら。。作業の終了まで2日間かかってしまった。。(/_;)

それでも今日はさらに、所蔵の古い謡本(桃山期~江戸初期)を撮影して(ベランダで。。装束を包んで運ぶ風呂敷をバックに。。)アップして、さらにアクセス解析をトップページだけにつけました。

今夜はこれからレンタルBBSを設置しようと思っています。もとより パソコン通信で勉強する機会が多かったから、サイトを作ったのも、じつはこれが一番やりたかった事でもあるんですよねー。

しっかしまたレンタル掲示板の会社の多いこと!広告を表示させることでレンタルを無料にして、集客もできるし、広告主も集められる、うまいシステムですね。もっともアヤシイ掲示板会社もたくさんあるようだけど。。アダルト広告が表示されるとか。。

う~んう~んどこにしようかな。。

面白いんだか、大変なんだか

2006-07-21 01:24:53 | 能楽
早速にお祝いコメント頂きましてありがとうございます>幽玄堂、両、笑芭さん

開設したまではよかったが、昨日から今日にかけて、お稽古にも行きながらヒマを見つけてはサイトのメンテに追われるという。。なんともはや。

しかも、しかもですよ。表示されない画像がある、ってトラブルの原因は、画像のファイル名に漢字を使っていたためだった、とか、リンク切れはリンク先に指定したページのファイル名をタイプミスしていたためだったとか。。我ながら情けない。でもそれぐらいのミスは指摘しろよなっ>ホームページビルダー Ver.7。←(このバージョンの低さがすでに苦闘の日々を物語っている。。)

今日はそのほかにもウェブ素材をお借りしたサイトに開設の報告やお礼のメールを出したり、ぬえのサイトはどうしても一部商用のような要素があるので、同じく素材サイトさまに使用許可のお伺いメールを出したり。。仕事はたくさんありました。

サイトのリンクについてちょっと補足を致しますが、リンクにつきましては ぬえのブログをそもそもご自分のサイトやブログで紹介してくださった方や、リンクしてくださった方へは、ぬえが気づいた範囲内でこちらからもリンクを入れさせて頂きました。ずっと有難く思っていましたので、お礼の代わりでございます。m(__)m

それとお伺いなのですが、画像が多くて楽しいとおっしゃって頂いていますが、これって表示は重くないですか? 「舞影」にいたってはページの容量が200KB超。。これでもページを作っている途中で重くなり過ぎているのに気づいて、画質を落としてようやくこの容量です。ところが今度は画質が悪すぎてピンぼけなんですよねぇ。。アクセス環境にもよるでしょうが、もうちょっと容量が増えても表示が苦痛でないなら、画質を高めたいと思っているんですが。。どうでしょ?

それにしてもブログと違って、サイトはページ一つを増やすのも大変だと思い知りました。みなさんのコメントに必ず「更新」の文字があるのにちょっとプレッシャーを感じたりもしていますが、でもまだまだ書かなければならないページはたくさんあります。ぬえに能楽師としての人生を教えてくださった穂高光晴師のページとか、マリカ姫のページとか(^◇^;)

今日はこのブログに連載した『朝長』についての考察をアップしました。楽しいんだか大変なんだか、まだ自分でもよくわからない状態ですが、やっぱりいずれ更新は面倒くさくなるんでしょうね。。(/_;)

【ついに!】ぬえの会サイト開設【苦節●年】

2006-07-20 00:18:25 | 能楽

で。。できました! ぬえのサイト!


その名も「能楽 ぬえの会」入口はこちら!


あいかわらずHNでサイトを作ることにしまして、それが能楽師として自分を宣伝するには不利な事もわかっているんだけど。。

しかしサイトを立ち上げるのに苦節。。何年だろう。。
両さんにずうっといろいろと教えてもらって、ついに開設にこぎつけるところまでたどり着きました~~さんくす>両

でも。。さっそく問題が見つかって。。

リンク切れはあるし、なぜか表示されない画像はたくさんあるし。。泣きそう。。(/_;)
少しずつ直していきます。。そしてまだまだ工事中のページも多いので、それも少しずつ、少しずつ。。

はあぁぁぁ、こりゃ道のりは長いわ。。

【報告】狩野川薪能(その6)

2006-07-18 21:04:45 | 能楽
かくて「狩野川薪能」は開演、滞りなく終演を迎えることができました。でも、それより何より ぬえが嬉しかったのは『船弁慶』が終わって楽屋に引き上げてきたときでした。

<子ども創作能>や中学生の仕舞は薪能の【第一部】として、【第二部】の能楽師による狂言と能『船弁慶』とは番組上で厳然と区別されていて、ぬえは<子ども創作能>に出演した子どもたちには、【第二部】が始まったならば楽屋に入ってはいけない、と言いつけてありました。玄人の舞台が始まったならば、楽屋の中で騒がれたりふざけられたりしては困るからで、このとき楽屋に入れる子どもは『船弁慶』の子方を勤めるマリナただ一人。

前述のとおりマリナは無事に、そして立派に『船弁慶』の子方を勤めたわけですが、それが終演したとたん。。楽屋の出口には<子ども創作能>に出演していた子どもたちが集まっていて、マリナを拍手で迎えてあげたのです(!)。もう7年間も ぬえはこの薪能に関わっているわけだけれども、これは今まで見たことがない子どもたちの反応でした。

思えば玄人能の子方を勤めることは、本人にとっては名誉ではあるけれども、実際には半年近くにおよぶ稽古では常に他の子どもたちとは別なメニューで稽古しているし、ほかの子どもたちは自分たちの稽古が終わって帰宅してしまうから、『船弁慶』の稽古が始まるとマリナはいつもひとりぼっち。そして薪能の当日も「開演前に遊んだり騒いだりしてしまうと、長時間の『船弁慶』の舞台で疲れが出て困るから、できる限り当日は他の子どもたちと接触しないように。楽屋入りも他の子どもたちとは別に、装束の着付けに間に合う時刻に一人で楽屋に入ること」と言ってありました。

これでは他の子どもたちから孤立してしまうんじゃないか? という危惧も ぬえの中になかったわけではありません。でも、これは能のお役の成功のためには仕方がないのです。ときにはみんなと一緒に「群れないで」一人で自分の責任を孤高に全うしなければならない事もある。そして。。じつは子どもたちは彼女が一人で懸命に戦っていることを、ちゃあんと理解していたんですね。稽古の時にはそんなそぶりを誰も見せていなかったけれど、彼女がやり遂げたとき、みんなが祝福してあげた。その姿に ぬえは感銘を受けました。この薪能を続けていて、本当によかったと思いますし、間違っていなかった、と思う。

終演後、前シテを勤めたKくんが言いました。「どうも今年は。。とくに中学生が率先して礼儀などを小学生に言っていたようですね」 そういえば稽古の中でもときおり、ふざけ過ぎる小学生を、中学生のハルヒがたしなめている場面を ぬえも見たな。今年ははじめての試みとして「中学生は<子ども能>から卒業して、古典の曲の仕舞に挑戦してもらう」と決めたわけですが、こういう形で彼らの自覚に繋がっていたのかも知れません。

終演後、ぬえも装束を脱いで着替えていると、ふたたび子どもたちが大挙して楽屋にやってきました。そして声を合わせて「ぬえ先生、K先生、アイスクリームをありがとうございました!」。。ぬえは【第一部】の<子ども創作能>が終わると、子どもたちの楽屋にアイスクリームを差し入れるのが、もう7年間の恒例になっていまして、それでもみんな揃ってお礼を言ってもらったのは初めてでした。

あらためまして ぬえにチャンスを下さった大倉正之助さん、狩野川薪能の実行委員会のみなさん、舞台を設営してくださった「明野薪能」の実行委員会のみなさんに感謝を申し上げます。さらに子どもたちの稽古への送迎やスケジュール調整、はては楽屋働きまで手伝ってくださった子どもたちのご両親、そして子どもたち自身に、ぬえから御礼を申し上げます。

大倉さんは薪能の会場に見えた伊豆の国市の市長さんに「年間を通じての稽古ができるように環境を整えて頂けませんか」とご相談してくださっていました。来年からも、ずうっとこの催しが続いていくといいなあ。

今年は8月10日の伊東の花火大会を見物するつもりで、また伊豆に行く機会ができました。またあの子どもたちに会いたいな。

                              【了】

【報告】狩野川薪能(その5)

2006-07-15 21:19:13 | 能楽
さて話は少し遡って「狩野川薪能」前日の7月7日の七夕の日。

ぬえは子どもたちの稽古の最後の仕上げのために伊豆の国市へ参りました。例年ならばこの時にワキ方や囃子方も一堂に会して<子ども創作能>の稽古を(申合を兼ねて)行い、その夜は出演する能楽師一同で翌日の舞台のために団結する意味で。。と理由をつけて飲んで騒ぐのですが、今年は能楽師のスケジュールがなかなか揃わずに、ついに ぬえ一人で現地入りする事になりました。

最後の稽古は夕方から始まり、仕舞を披露する子どもたちの衣裳合わせなども含めて終了したのは夜の8時。子どもたちのお母さんに教えて頂いた「ご近所のおいしいお店」で夕食を取ってから、一人でホテルにいても仕方がないので、今朝から舞台の仕込みをして下さっている茨城県・筑西市の「明野薪能実行委員会」のお宿にご挨拶にお邪魔しました。

聞けば筑西市のみなさんはこの日朝6時から会場で舞台の設営を始めたのだとか(!)。さらにこの前日、筑西市の倉庫から舞台の床材や柱などを運び出してトラックに積み込み、いったん解散してから夜中の2時に再集合、一路 伊豆の国市へ向かったそうで、毎年そんな苦労があったのか。。これはボランティア精神がなければとても毎年勤まることではありません。 ぬえがご挨拶におじゃますると、みなさん気さくにお話して下さって、筑西市の「明野薪能」でも子どもたちが狂言小舞に挑戦している事とか、伊豆の国市の子どもたちの事などを話し合いました。。が。みなさんお疲れがピークに達して、ああ、ここで一人睡魔に襲われてあえなく撃沈。。そこでまた一人 気絶するように意識を失い。。(^◇^;) 明けて薪能の当日となり、筑西市のみなさんは朝からさらに舞台の床高の調整など設営の作業が続いていたそうです。

これを聞いちゃあ。

ぬえは昼頃に楽屋入りをして子ども能や仕舞、そして玄人能の『船弁慶』の装束の仕掛けなどを進めましたが、午後3時、子どもたちが集まると、設営された本番の舞台の上で最後の稽古をする事になっていました。そこで、稽古を始める前に、集まった子どもたちを一度舞台の上に登場させ、筑西市の「明野薪能実行委員会」のみなさん、そしてもちろん「狩野川薪能」の実行委員会、7年前に薪能を始められた大倉正之助氏に向かってみんなで「どうもありがとうございました。(本日は)よろしくお願いします」と声を揃えて挨拶してもらいました。ぬえも「狩野川薪能」では7年間も指導に携わっているのに、こんな当たり前の事を指導していなかった。。客席にいた各実行委員会のみなさんからも「がんばってね」と声が掛かり、舞台に登場する子どもたちと、それを支える大人たちとが初めて繋がったような気がしました。7年間も、何やってたんだ? ぬえ。

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【今日のお題】

えーと、これは。。「下絵」なんですね。じつは現在、ぬえの新兵器が着々と開発されようとしていまして。。配備はいつになるか、まだ分からないんですが。。

【報告】狩野川薪能(その4)

2006-07-13 23:09:50 | 能楽
「狩野川薪能」の当日を迎えるまでに、『船弁慶』の子方のマリナは大変な思いをしてきたわけで、それがとうとう報われる日が訪れました。

装束の着付けの際にもまったく気後れする事なく、ぬえが楽屋で自分が使う「筋怪士」の面を見せてあげるとマリナは「わぁっ、怖―い」なんて言ってる。ようやく舞台を楽しみにするところまでたどり着いた、という感じでしょうか。今回 ぬえは『船弁慶・前後之替』の後シテだけを勤めるのだけれど、楽屋には人手が足りないので、前シテ・子方・後シテが一斉に装束を着付けました。で、いよいよ能が始まると。。ぬえは楽屋でひとりぼっち。(^^;)

そうこうしているうちに舞台で子方が謡う声が楽屋にも響いてきました。ふむふむ。自信を持って謡っているな。。もう ぬえは安心しきって聞いていました。

さて前シテが中之舞を舞いはじめた頃、ぬえも鏡の間に移動しました。やがて前シテが帰って来られて、お互いに挨拶を交わすとようやく面を掛けます。子方が「悪逆無道のその積もり」と謡う少し前に、前後之替なので幕につくように床几に掛かり、地謡「主上をはじめ奉り一門の月卿雲霞の如く、波に浮かみて見えたるぞや」と半幕で姿を現して「そもそもこれは桓武天皇九代の後胤」とシッカリと謡い出します。地謡「声をしるべに出で船の」と静かに幕を下ろし、手掛かり早笛で舞台に飛び出して奮戦となります。

そういえば、この度の『船弁慶』の後シテはとっても演りやすい役でした。去年『鞍馬天狗』の後シテを舞った時にも思い、また『女郎花』のツレのような役や、後だけに出る天女や龍神のツレのお役を頂いた時に毎度感じるのですが、やはり能の後半だけに登場するのは難しいものです。それまで装束を着けたままずっと楽屋で待機していて、ずうっと進行している前場にはまったく関わりがなくて、それなのに突然後場だけに出ていくのは。。勇気が要ります。中盤まで差しかかった能は、すでに舞台上にも見所にも、何というか熱気が高まっていて、その空気にスッと馴染んでいく、というのは ぬえはあまり上手な方ではありません。

ところが『船弁慶』は、前シテと後シテではまったく人物が異なりますし、それだけでなく場面も、舞台の空気も前後ではハッキリと隔絶して作ってあって、こういう構造の曲で後シテだけを勤めるのがこれほど気分的に楽なものとは知りませんでした。普段、前後のシテを引き続いて勤める場合には、前シテは後シテの造形の虚像のようなものを段々と舞台の上に作り上げていって、後シテへの期待感を高めて中入する、と考えているのですが、そうなると前シテを他の人が勤める場合には、後シテはその前シテが舞台に「作り上げてきたもの」の上に乗って、その範囲内で舞わなければならない、という事になってしまう。考えすぎかも知れないけれど、やはり難しい事だと思います。

今回はこうして舞台の上に違和感なく登場することができました。終わって楽屋に引き上げてきたマリナは満足そうで、装束を脱いであらためて挨拶を交わすときに ぬえにひと言、こう言いました。「ぬえ先生。。怖かった」。ごめんよ~~

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【今日のお題】

ああ~~、やめよう、やめようと思っているのに、この手が、この手が勝手に~~


【報告】狩野川薪能(その3)

2006-07-12 00:34:50 | 能楽
こうして『船弁慶』の子方に抜擢されたマリナは、薪能の番組では<子ども創作能>や仕舞といった、子どもたちが出演するほかのすべての演目には参加せず、玄人能の子方のお役に専念してもらうことになりました。月に二回 ぬえら指導の能楽師が交代で当地に来て稽古をする際にも、マリナだけはほかの子どもたちが<創作能>の稽古を終えて帰ってから、ひとりだけで稽古を受ける事になります。子方の役が決まったその時点から、地元の子どもたちとは没交渉となり孤独な稽古となるのは、ぬえから見てもかわいそうだけれど。。これは仕方がないのです。『船弁慶』の能の中では、子どもとはいえ、彼女は「プロとして」出演してもらわなければならないのですから。

そうして、彼女は一生懸命稽古に喰らいついてきました。いまだ習った事のない謡を節回しから口移しで覚え、型。。どころか構エ運ビや扇の持ち方から教わり。ぬえらが彼女に渡した何種類かの『船弁慶』のDVDを家庭で見ては、公演の実際の様子をシミュレートし。。実際、大変な作業だったと思うし、よくついて来たと思いますね。

薪能の2週間前、実行委員会のはからいで「中間発表会」というものが催されました。正しくは「古典芸能教室」という名称で、伊豆の国市の全小学校の5・6年生の児童が韮山高校の講堂に集まって、ぬえら能楽師による実演を見たり、囃子のレクチャーを受けたりする、という課外授業のような催しで、その中で薪能で上演する<子ども創作能>『江間の小四郎』全曲と、この『船弁慶』のダイジェスト版も上演するのです。出演の子どもたちにとってはまさに「中間発表会」で、この日はじめて彼らはお客さんの前で稽古の成果を披露するのです。そしてその観客の数たるや。。小学生が1000人。。

少々失敗した子がいたり、人前に出る緊張で怖い思いをしたり、出演した感想はそれぞれあっただろうと思うけれど、ひとまずこれで「舞台」というものについての実感は備わったはず。そしてマリナも頑張りました。こちらが心配するほど緊張したようには見えなかったけれど、終了してみたら ぐったりとお疲れのご様子で。。そりゃそうでしょう。お疲れさまでした。

。。ところが、事件はそのあとに起きたのです。

薪能の4日前、東京の ぬえの師家のお舞台で薪能に参加する能楽師が一堂に会して『船弁慶』の申合が行われました。この日ばかりは子方のマリナも伊豆からわざわざ東京に来て申合に参加しなければなりません。そして本番さながらの最終稽古となるこの申合で、子方だけは初めての体験なので本番同様に装束を着けて稽古をします。後見が彼女に装束を着付けてあげると。。彼女はだんだんと目が真っ赤に潤んできて。。とうとう泣き出してしまった。後見や周囲にいた能楽師はあわてて、「あ、着付けの紐がきつ過ぎた?ごめんね、ちょっと緩めてあげるから」「大丈夫だよー。お稽古と同じようにすればいいんだよー」となだめたり すかしたり。。

でも ぬえには分かっていました。彼女が装束を着付けられながら、すがるような、助けを求めるような目で ぬえを見たときに。。ぬえは「やっぱり。。」と思ったのです。装束がきつかったのではない、自分が舞台の上では孤立無援であることに、彼女はようやく気づいたのです。もちろん稽古の時にも ぬえは8人分の地謡の声量を再現しようと努めたり、舞台の様子を感じさせるために上演を記録したDVDを渡してあったりと、舞台の実際が実感できるように支援はしてきたつもりなのですが。。舞台の前には見も知らぬ観客が自分を凝視している。。これは「中間発表会」で経験済みのはずだが、舞台の上では彼女を取り巻いて能楽師が真剣な面もちで大声を張り上げて舞台を進行させている。これはやっぱり怖いでしょう。よほどの心構えが出来ていなければ。。

でも、これも ぬえは計算済みだった。一度はこういう日が彼女に訪れる事は、最初からわかっていました。そして、そうでなければならない。この経験がなければ、彼女は薪能の当日にもっと恐ろしい思いをしなければならなかったでしょう。「中間発表会」といい、わざわざ東京まで招かれた申合といい、経験の機会に恵まれた事は幸せな事だと ぬえは思います。

そして、彼女は涙をこらえながら、それこそ「やっと」という状態で舞台に登場して、苦しみながら。。それでも次第に自分が果たさなければならない責任を自覚したのでしょう。落ち着きを取り戻して、逃げも隠れもせず、そして間違えさえなく、立派に舞台を勤め終わりました。

あの、すがるような目で彼女が ぬえに助けを求めたときには何も言わなかった ぬえは、申合が終わって彼女にひと言。。「ね? 舞台って怖いものだろう?」「。。はい」
ぬえはこれで薪能当日の成功を確信することができました。



※この稿を書くにあたっては、子どもとはいえ子方の彼女の名誉もあり、どこまで公表するかは ぬえもずいぶん考えを重ねました。少なくとも薪能の当日が無事に終了し、彼女が舞台で成功を収めるまでは書くことはできない。しかし、彼女が立派に当日の能を成功に導いたいま、彼女が葛藤しながら成長して行った事実はかけがえがなく、その上でこそ能に真剣に取り組んだ彼女の成功は賞賛されるべきでしょう。そして同じく能を愛する読者の方にも示唆するところが大きいと思い、成功したという甘い報告だけではなく敢えて彼女が辿った苦しみも記しておく事にしました。ご意見等あれば謙虚に承りたく存じます。

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【報告】狩野川薪能(その2)

2006-07-11 00:02:16 | 能楽
さて<子ども創作能>『江間の小四郎』、中学生による仕舞と、ここまでが狩野川薪能の上演番組の中では「第一部」という位置づけになっています。まあ、アマチュアとしての子どもたちの発表会で、このあとの「第二部」からがプロの演者による能狂言の上演になります。

ぬえも親しくおつき合いさせて頂いていて、狩野川薪能では常連の三宅右近師の狂言『棒縛り』に続いて、いよいよ最後の演目、能『船弁慶・前後之替』となります。

今回の子方は地元・小学生のマリナでした。彼女は去年、そのときが初演だった<子ども創作能>『江間の小四郎』の稽古の際に、クラスメイトを何人も誘って参加者を増やしてくれたり、配役を決める際に、どうしても子どもたちには派手な役に人気が集中してしまったところ、ぬえを気遣って、彼女は敢えて人手が手薄な地謡の役を自ら進んで希望したり。。ぬえは彼女には「恩」がありました。今年の演目を『船弁慶』にしたのも、ひとつには玄人能の子方の選抜対象である小学六年生に今年なった彼女を相手にこの曲を舞ってみたいと思ったからでもあります。もちろん、玄人能の子方の選抜ですから、そこは厳正に、もしも彼女よりも優れていたり、意欲が勝っている六年生が現れたら、実演の成果を挙げられる子をシビアに選ぶ事にも決めてはいましたし、実際のところ彼女に決めるかどうかは少しく悩んだところでもありましたが、結果的に彼女に決めて良かったのだと、今は自信を持って言う事ができます。

それから4ヶ月。今年は薪能の開催期日が例年よりもかなり早まったため、能の子方の稽古としては異例に短い稽古期間ではありましたが、マリナは頑張って稽古に精進していました。。まあ、時には ぬえもかなり厳しい言葉を使った事もあって、稽古を見学していたお母さんがビックリしてしまったような事もあったけれど。。それは仕方がない事です。前にも書いたと思いますが、玄人能の子方はその日はプロとして舞台に上がってもらわなければならないのですから。誤解を恐れずに言えば、<子ども創作能>とか中学生の仕舞が上演される「第一部」までは、どこまで行っても子どもたちが能にチャレンジする事、それ自体が「売り物」なのであって、失敗などがあったとしても、ある程度まではお客さまにも微笑ましく思って頂けるでしょうが、「第二部」の玄人による能狂言はそうはいかない。プロの舞台では成果そのものが問われるので、大きな失敗や、ましてや稽古不足などが目に付けば、場合によってはお客さまから「カネ返せ!」と言われても仕方がないのです。。ぬえは。。実際にそういう現場を目撃したことがあります。それは演者の落ち度によるものではなく主催者の責任に帰するような事件だったので、ぬえらが責任を問われる事はなかったけれども。。その場の空気は。。怖かった。

そこでマリナには最初からこうハッキリと言い含めてありました。催しの当日には、たとえ40度の熱が出ていようとも、よしんば怪我をしてどこかを骨折していたとしても、這ってでも舞台に出てもらう。だから催しの当日にそうならないために、体調を管理したり、期日が迫った時期に怪我をしないように生活にも気を付ける。それも稽古のうち。かなり厳しい要求ではありますが、要は心構えの問題でしょう。実際のところ、東京での舞台ならば子方に事故があっても代役はなんとか都合がつく可能性はあるが、能楽師の参加人数が限られるこのような地方での催しではそれも不可能でしょう。このような事情があるから、地方での催しで子方が必要な場合も、その子方は能楽師の子弟を東京から連れて行く事が普通なのです。子方に舞台人としての意識があるかどうかは、能一番そのものが成立の可否に関わる重要な問題だからです。狩野川薪能ではそこを敢えて地元の子どもを起用していますが、それは我々にとっても大きな冒険でもあるし、そうであるからこそ意味があると考えています。

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【報告】狩野川薪能(その1)

2006-07-09 18:58:49 | 能楽
「狩野川薪能」、ようやく終わりましたー。雨天会場に変更されたのは残念だったけど。。
ああシアワセ。。ぬえ、こんなに幸せでよいのだろうか。

子どもたちはみな、本当に一生懸命に舞台に取り組みました。そしてこれまでで一番良い出来でしたね。薪能の本番に向けて集中していけるように稽古はしたつもりだけれど、まだ夏休みにならないこの時期に薪能が決定してしまって、みんな学校の行事や部活のスケジュールに追われながら、薪能の稽古とうまくバランスを取って両立させる事ができました。大変だったと思うけれど、催しの当日に最上のコンディションを持って来れたのは彼らが成長した証拠。

<子ども創作能>『江間の小四郎』は大蛇(シテに相当する役)のヒロノブくんも、小四郎(ワキに相当)のハルナちゃんも、そして武士の役のみんなも ぬえがビックリするほどの大きな声が出て、じゃ、ぬえの半年間の稽古は何だったんだよ~~。とくに小四郎のハルナちゃんは、肝心の矢を射る型のところで、つがえた矢が左手から外れてしまう事故が起こったが、地謡の文句にはすで遅れながらも慌てずに慎重に矢をつがえ直して見事にビューン!と矢を射る事ができました。この型は ぬえのアイデアで作ったのだけれど、お客さまも喜ばれたでしょう。

それに地謡! こちらはもう当日は ぬえは助吟をしませんでした。地謡の後ろに座って、難しい間で謡い出す箇所だけを小声でキッカケを知らせる程度でしたね。ぬえら能楽師が付けた節付けは、平ノリあり大ノリあり、拍不合あり、いろいろ凝り過ぎてしまった感があるのに、彼らは囃子方が打つ拍子に外れることなくシッカリ謡えました。この地謡の成果は、後列で小学生の地謡をリードする役を勤めた中学生の功績が大きかったようでした。

小学生だった去年まで<子ども創作能>に立ち方として参加していた新中学生は、今年からは<創作能>からは卒業して、その地謡をリードする助演者として参加させる事にし、彼らの本当のお役は、狩野川薪能では初挑戦の仕舞の発表でした。仕舞には割合に短い曲を選んだのだけれど、中には短いけれど難しい曲もあえて挑戦させたりもしています。『高砂』を舞ったユキノ、『玄象』のエリカ、『小袖曽我』のハルヒとノゾミ、そして『猩々』のヨシミチ。いずれも稽古の時にはどこかしら毎回間違えていたのに、本番だけは見事に舞っていました。

もとより中学生に<創作能>からの卒業を宣言したのも、仕舞を彼らに課したのも、すべて ぬえが勝手に決めた事で、それは、ややもすればチャンバラを楽しむのに終始してしまう<創作能>から飛翔して、古典の曲に触れてほしい、という能楽師なればこそ思う願いがあったからなのですが、実際には新中学生となって生活環境も変わり、しかも学校の部活などでは最下級生。仕舞の稽古にさく時間を確保するのにも苦労が多かったようです。そして何より、彼らにとって仕舞は、自分たちから希望したお役ではない。。ぬえも稽古の課程ではずいぶん葛藤もありました。彼らが稽古している様子を見ていると、楽しそうでないように思えたり。。

結果論でしかないのかも知れませんが、彼らに仕舞に挑戦させたのは正解だったと、いまは思っています。彼らは与えられた課題だったかもしれないけれど、立派にその役目を勤める事ができました。彼らにこの成果が達成感を生み出した事は間違いないでしょう。

『高砂』を舞ったユキノが、ある日、稽古を終えて帰ろうとしていた ぬえに向けて言った言葉が忘れられない。「先生、もうちょっと優しく教えてください」 正直言って ぬえは愕然としました。。軽口のつもりだったのかもしれないけれど、子どもの啓蒙のために教えているのに、この言葉を言われたら能楽師はおしまいだな。。と。

でも、薪能を直前にして現地での最後の日、彼女は ぬえにこう言ってきました。「学校で弁論会(だったかな)があって、私は自分が稽古している仕舞について話そうと思っています。話の中で少し舞って見せたいので扇を貸して頂けませんか?」ぬえは彼女が仕舞に興味を持ってくれた事にまだ半信半疑でもあったのですが、もちろん扇を貸してあげて、弁論の持ち時間の中で短く舞うためのアドバイスもしてあげました。

そのあと、彼女が母親のところで言った言葉。。「あんた、部活のブラスバンドの事を話すんじゃなかったの?」「うん、でも今はこっちの方が面白いんだ」。。 全米が泣いた。

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【今日のお題】

催しの朝に買い物で立ち寄った大仁の巨大ショッピングモール「アピタ」の前で目についた「うさぎ薬局」。

。。いえ、それ以上の意味はないんですけどね。。
薪能の会場では大忙しで、とてもデジカメを構える余裕もありませんでしたので。。