ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『敦盛』~若き世阿弥の姿(その23)

2010-03-27 00:48:56 | 能楽
ん~、どうも更新がままならない…

明日からもまた、伊豆に1泊してきますので、重ねてのお休みになります~ m(__)m

公演からようやく3日ほどを経て、ようやく自分を許せるところまで立ち直ってきました。ぬえって、いつもこう。公演当日の夜は不出来に七転八倒して苦しみます…そんで翌日は抜け殻になっていまして、1日ボーっとしていることが多いです。3日目くらいからかなあ、もう一度ビデオを見て、良かった点も見えてきて、「まあ…稽古不足だったわけではないから…次、がんばろう」と思えてくるのは。なんでいつも同じパターンかなあ。

さて今回の師家の月例公演には、師家の門下の者のほかに他家からも複数名の応援出演がありました。そういうところから『敦盛』という曲について、楽屋の中でも なんとなくこの曲について情報交換みたいな場面もありましたのですが、なるほどなあ、やっぱり話題の行き着く先は思った通りでした。

「あそこのところ、そちらではどうやってる?」
「たしか、こうだと…でも『敦盛』自体があんまり出ないからなあ…」

そうなんです。『敦盛』という曲は、まずは『平家物語』の「敦盛最期」があまりにも有名なためか、能としても有名な部類に入る曲ではないかと思うのですが、実際にはかなり上演頻度は低い曲と言わざるを得ませんね。それがなぜかというと、とりもなおさず『敦盛』という曲が演者の側にとっては出しにくい曲であるからです。

まず第一に、前シテがツレを三人も伴っていること。流儀の中心的な会の催しならともかく、職分家の主催による門下の催しであれば演者の数も限られていますから、『敦盛』に限らず大人数が出演する曲はどうしても出しにくい、という事情もあります。シテ方としては主役たるシテをサポートするために八人の地謡や二~三名の後見が必要ですし、そのほかにも幕揚げの人員や切戸口の開け閉て、また中入で装束を着替える手伝いなど、楽屋の中にもある程度の人数が残っている必要もありますので… 『敦盛』のツレは初同で楽屋に引いてしまいますので、こういう人数に限りのある会では、ツレは出番が終わると装束を脱いで紋付に着替えて、次の能の地謡に出ることさえしばしばあるのです。

ツレが三人も登場する、という同じ原因で『敦盛』が舞台に掛けにくいもう一つの理由があります。『敦盛』は若手が演じることが多い曲であることは前述しましたが、そうなると、シテよりも格下に当たるツレは、シテよりも目下の立場の能楽師が勤めるのが通例ですから、若手のシテに対して、後輩にあたる演者が三人も揃いにくい、ということもあるのです。よほど大勢の内弟子さんがいらっしゃる会とか、またシテが家の跡継ぎの方などであれば、年上の門人がツレを勤めることもあるでしょうが、いずれも それほど多い例ではないでしょう。こうした理由で『敦盛』は上演しにくいのです。

では、若手に限らず、中堅や長老格の演者が演じれば、少なくともツレの人数を揃えるのは可能ではありますが…これまた問題もありまして。『敦盛』は、ある程度以上の年齢になるとシテを勤めにくくなってくるのです。というのも『敦盛』は前シテが直面だから。

十六歳で死んだ平敦盛の、その化身として現れた前シテの草刈男は、面を掛けずに<=直面(ひためん)と言う>で登場します。『敦盛』の後シテは紅顔の美少年の化身ですから、その化身として「若い男」を登場させるのはお客さまにとっても納得しやすい設定だと思います。しかしながら「直面」の性格上、シテを勤める演者の素の顔、素の髪で演じなければならないわけで、そうなると「若い男」という設定を、面や鬘などの力を借りずに、演者のナマの頭部で表現しなければならないわけで…

こうした理由で『敦盛』はシテを選ぶ曲なのです。若すぎてもツレが揃わないからダメ。年齢が重なり過ぎると、前シテを勤めるのに違和感があるからダメ… だから『敦盛』は上演頻度が少ないのですね。

今回の ぬえは自分で勤めることを希望して得た役でしたが、こういうチャンスを得られて幸運だったと思います。

『敦盛』終わりました~

2010-03-23 08:49:13 | 能楽

ちょっと慌ただしい日が続いておりまして、ご挨拶が遅れてしまいました~

土曜日に師家の公演で『敦盛』を勤めさせて頂きました。
ご来場頂きました皆様には心より御礼申し上げます~ m(__)m

ん~、じつは…今回は ぬえ自身ではあまり納得のいく出来ではありませんでしたが…というのも、当日 公演前にある事情がありまして、どうも舞台に立つコンディションが整いませんで…落ち着いた気持ちで舞台に出ることができなかった、のが一番の敗因かなあ。

あ、いえ、別に何か人との間にトラブルがあったとか、誰が悪いという話ではありませんで、強いて言えば日常的にあり得る障害?だったもんで、最後には自分の心がけ次第で避けられたことかなあ…と思っております。まあ…これでも ぬえは結構長い間シテを勤めておりますが、これまでには困ったこともなかったのですが、これからは もっと当日の行動には慎重であるべきかなあ、とも思いました。教訓でした~

とはいえ舞台にキズはつけなかったのですが、ん~何というか、キズをつけないように気を付けるのに必死というか…コンディションの悪いところを見せないようにするためにばかり神経を使ったと言うか…お客さまに対しては大変申し訳ないことでありました。ごめんなさい…(・_・、)

ところが…頂いた感想では概ね好評を頂きましたようで…(゜_゜;) なんでかな~?? ぬえがとっても信頼している方からも比較的よい感想を送って頂きまして、こりゃ怒られるかなあ…と思っていた ぬえは複雑な心境ながらひと安心。まあ、稽古はしっかりやったつもりですし、ミスもあまりなかったとは思いますが…上記のような条件の悪さによって、「気合いの入りすぎ」(←よく言われる) が少なかったのかなあ。
そういえば ぬえは直面で勤めていて「顔が…こわいよ」と言われることが何度もありまする。(×_×;)
今回の『敦盛』でも前シテについては やや評価が低かったのですが、原因はこれでしょう! 断言。(T.T)

さてあとでビデオを見て思ったのですが、後シテの装束はもう少し赤に傾いた方がよかったかなあ、と思いました。これには縫箔の色が大きく影響していますね。この縫箔、鬱金地…といいますが薄いクリーム色の地色なのですが、ちょっと心配はしていましたが、照明の下では白にしか見えないです。

もともと『敦盛』では着付の縫箔には赤地のものを用いる例が多いように思いますが、なんというか、『敦盛』という曲はそういう装束を着て、若手が演じて、そうして元気溌剌っ という上演が多くて、曲自体がそういう印象をもって見られているような気さえします。でも ぬえはこの曲の稽古をしてみて、『敦盛』という曲は「かわいそう」に見えないといけないな…と考えるようになりまして。そうして装束の印象も赤地の縫箔から受ける、この曲に対しての ある種定まったイメージから のがれたところで演じたい、と考えた結果たどりついたのがこちらの縫箔でした。

…が、白地の模様大口と紺地の長絹と組み合わせてみると、どうもモノトーンになり過ぎたかなあ、という感じも持ちますですね~。ちょっと心配はあったので黄色の腰帯と真っ赤な長絹の露で抵抗は試みたのですが。(^◇^;) それでも どちらかというと無紅に近い印象で、敦盛の若さ、可憐さと少し離れてしまったようにも思いますし、悲劇を強調しすぎる感じも持ちますですね。とはいえ、赤地ではないけれどもこの縫箔より「少しだけ」赤に傾いた地色の縫箔というものはないので、もう少し発想に時間を掛けて装束を考えればよかったかなあ、とも思います。

あとは…拝借した長絹の生地が堅くて扱うのにやや苦労したことと、それから扇を投げるところで、あまりうまく扇を飛ばせなかったのが残念だったことですか。扇は稽古のときにはうまく後見の膝の前に落ちるように研究していたのですが、当日はほとんど足もとに落ちました。(T.T) 稽古では飛びすぎで、一度は後見が飛んできた扇を直接キャッチ! ということもありましたのに。←でもこれはこれで叱られた(__;)

若手が舞う曲なので、勤める時期をのがさないようにという思いもあって自分でリクエストした『敦盛』ではありましたが、曲のイメージが先入観としてこれほどハッキリした曲も珍しいと思うのに、じつはいろいろな解釈を許す曲だな…という発見もありました(このことは引き続きご紹介していこうと思っております)し、意外に勤めるのは難しい曲かもしれない…という思いも持ちました。

お客さまには、お目汚しこそなかったと思いますが、万全の状態でお舞台を勤められなかったことをお詫び申し上げ、これを教訓に 精進を忘れぬように致す所存でございます。

今後ともよろしくご教導くださいますようお願い申し上げます~ m(__)m

今回の画像は渡辺国茂さんのご提供を頂きました。不出来だったことは写真を見てもよくわかります…今回はこの画像しか見られる型がありませんでした…(・_・、)

『敦盛』~若き世阿弥の姿(その22)

2010-03-20 00:03:46 | 能楽
そうこうしているうちに公演は明日に迫りました。
『敦盛』についてブログに書き込みをする日数が足りませんでした…『敦盛』の作品研究については、今後もしばらく続けてゆきたいと思います。

今回の『敦盛』につきまして、上演にあたっては ぬえ自身の種々の工夫も加えられてありまして、とくに型につきましてはこれまでご紹介したものと、一部かなり異なる部分もございますので、明日ご来場下さいます皆様にはあらかじめご承知おきください。

『敦盛』は、じつは ぬえが初めて能と触れ合った曲です。
大学1年生のとき、当時 国文科に在籍していた ぬえは、文学研究に燃えておりました。とくに『平家物語』に傾倒していた ぬえは…現在もそうではありますが…、大学の先生に言われるままに、夏休みを利用して『平家物語』の影響の下に作られた伝統芸能を見に行くことにしたのです。最初は、当時まだインターネットはありませんでしたから、百科事典で「敦盛」を引くところからスタートしたものです。(笑)

そしたら…その項目には「能の曲の一」という説明がありまして、ぬえは「へえ…能に『敦盛』ってものがあるんだ…」と意外に思ったものでした。そうして次に ぬえは「ぴあ」を見まして、その8月のある日に能楽堂で能の『敦盛』が上演されることを知り、さっそくチケットを買い求めたのでした。

『敦盛』は たまたま夏の曲で、ぬえが古典芸能を見に行こうと思い立ったそのときに上演されていたのは偶然の重なりでしたね。忘れもしません、その夏の喜多流の公演で、ぬえは初めて能『敦盛』を見たのです。今となっては当時の番組もなくしてしまって、どなたがシテだったのかもわかりませんのですが…それは、あまりに衝撃的な体験でした。可憐な十六の面の美しさや、肩脱ぎをしている姿が甲冑を表現していることはすぐに首肯できるのに、それが薄ものの優美な長絹であることが、彼が合戦という場にふさわしくない高貴な人物であることを雄弁に語っています。その後 研究者のどなただったか、平家の公達のこの装束について平家の「文学的な弱さ」を表現している、と書かれたことがありましたが、その日 ぬえの前に現れたのは、まさしく『平家物語』に描かれたままの平敦盛の姿そのままだったのです。(!)

その時は、まさか ぬえは能楽師になるのだとは思いも寄りませんでしたが…。その後 大学の能楽研究会に所属して…まあ、いろいろな経緯がありまして、…このあたりはまた後日機会をみてお話してみたいと思います。ただ、人生というのはどういう契機で自分も思ってもみなかった方向に向かうのかは分からないもので、このあたりの ぬえの体験談はちょっと面白いと思います。

ですから、学生さんにお話をする機会があれば、ぬえは自分の体験をお話して、受験や進路に苦しむ彼らを励ましてあげることにしています。もとも ぬえは小学生に稽古をする機会が多いので、ちょっとこの話は早いかなあ…(^_^;

ともあれ、『敦盛』は ぬえのルーツとも言える曲なのです。大学生のときに一度 舞囃子を勤める機会があったときも ぬえは迷わず『敦盛』を選びましたし…今回は良いチャンスを頂くことができました。

…公演の前にお客さまに先入観を与えることは よろしくないので、工夫については書くのを控えますが、今回『敦盛』の稽古を重ねていくうちに、この曲は若手が演じる機会の多い曲であって、元気いっぱいの舞台を多く見るけれど、やはり『平家物語』の世界を背負っている曲で、滅びの沈鬱が見え隠れしないといけないではないか、と考えるようになりました。やっぱり「かわいそう」でなければ『敦盛』にはならないのではないかなあ、と、そんな事を考えております。

明日はお見苦しい点のないよう、心して勤めたいと存じます。ご来場頂ける皆様には、改めまして心より御礼申し上げます。当日が良き日になりますように。

『敦盛』~若き世阿弥の姿(その21)

2010-03-19 01:13:43 | 能楽
この「中之舞」ですが、敦盛が合戦の前夜に「舞を舞った」、その再現とはちょっと考えにくいと思います。前夜に陣中で催された管弦では、敦盛は やはり笛を吹いていたと考えたい。とすれば「中之舞」は管弦を奏する平家一門の気分の表現でありましょう。一時は天下を一手に握る栄華に浴しながら、木曽義仲に追われて都を落ちますが、後白河法皇を同行させる事にも失敗して幼い安徳帝を奉じて九州へ落ち、そこでも緒方維義の変心によって追われる身となり…。その後義仲と頼朝の源氏同士が争うのに乗じて福原まで勢力を盛り返した平家でしたが、すでに九州で入水した清経のように、一門には自らの「運命」が見え始めていたことでしょう。そうた状況の中、平家の公達の多くが討たれることになる一ノ谷合戦の前夜の管弦…

「中之舞」にかかるところ、地謡が「拍子を揃へ声をあげ」と急調に盛り上げて謡うのですが、それでも舞そのものはどこか沈鬱であって、決して明日の合戦を前にした勇壮な気分のものではないと ぬえは思います。嬉しげでも、勇ましくでもない舞。『敦盛』の「中之舞」はそういうイメージではなかろうかと思います。そこで今回は「中之舞」に少し変化をつけ、はじめは静かに、だんだんと位を進めていくようにお囃子方とも相談させて頂きました。クセから引き続く叙情から、合戦が迫ってくる叙事へ。悲しみから、次第に合戦の雄叫びが遠くから響いてくるような喧噪へ。そんな感じの舞ではないか、と思います。

そして舞が終わると、いよいよ合戦の場へと舞台は移っていきます。

シテ「さる程に。御船をはじめてと上扇
地謡「一門皆々船に浮めば
サシて右へ大きく廻り。乗り遅れじと。汀に打ち寄ればと常座より正へ出。御座船も兵船も遥かに延び給ふと左袖を返し雲ノ扇
シテ「せんかた波に駒をひかへ
常座まで下がり。呆れ果てたる有様なりとユウケン扇。かゝりける所にと脇座の方へ出
地謡「後ろより。熊谷の次郎直実
と右へ振り返りヒラキ。逃さじと。追つ懸けたり常座へ行掛り敦盛も。馬引き返しと両手にて手綱を取り左へ廻り扇を後見座の方へ投げ捨て。波の打物抜いてと太刀を抜き持ち正先へ行き。二打ち三打ちは打つぞと見えしがと太刀にて二つ打ちながら六ツ拍子踏み馬の上にて引つ組んでと正へサシ、両手組み付き。波打際に落ち重なつてと左へソリ返り下居。終に。討たれて失せし身のと正へ直し立上り。因果は廻り逢ひたり敵はこれぞと討たんとするにと左へ廻り常座より太刀振り上げてワキへ切り掛かり右足トメ。仇をば恩にて。法事の念仏して弔はるればと大小前へ下り下居、後へグワッシ、正へ向き。終には共に。生まるべきと立上り太刀にてサシ角へ行き同じ蓮の蓮生法師。敵にてはなかりけりと常座へ行き小廻りワキへ太刀を出し跡弔ひて賜び給へと太刀を捨てワキへ合掌跡弔ひて賜び給へと右へウケ左袖を返しトメ拍子

この中では扇を「投げる」型が目を引きますね。シテにとって不要になった道具は、普通は「捨てる」…そっと静かに置く、のが基本なのですが、「投げる」とはずいぶん乱暴で思い切った型だと思います。その後にある型が激しく動く場合などは、捨てた道具を踏みつける危険もあるわけで、そういう理由から『敦盛』では後見座に向かって扇を投げるのでしょう。類例では『葵上』で中入の直前にやはりシテが扇を後見座に向かって投げますが、これはその直後に両手をつかって唐織を引き抜く、という、面を着けて視界が利かない中ではかなり難易度の高い型があって、しかもその準備に両手で唐織の襟をつかむのに時間的な余裕がまったくないためで、「捨てる」なんていう悠長なことができないためだと思います。

ところが『敦盛』では、どうも扇を投げ捨てる意味が もう一つ判然としません。扇を捨ててすぐにシテは太刀を抜くわけですが(このへんは型が忙しいので、扇を捨てるならば、たしかに投げ捨てるしか方法はないようには思いますが…)、その後の型は修羅能としては定型で、あえて言えばワキに向かって切りかかろうとするのが『敦盛』に独自の型でしょう。しかしこれらの型はほかの修羅能ではすべて左手に扇を持ったまま行うのです。それに照らしてみると『敦盛』も扇を片手に持ったまま太刀を扱うことは決して不可能ではありません。その場合はグワッシのあとに太刀を捨てるのが定型のはずで、『敦盛』の場合にもそれでも不都合はないのです。

なぜ『敦盛』では早々に扇を捨ててしまうのか…考えてみたのですが、これは最後の場面で「敵にてはなかりけり」とワキに対して闘争心を捨てて回向を頼む、その意志を明瞭に示すために、ワキの目の前で太刀をカラリと捨てて合掌するから、なのでしょうね。先ほどはワキに切りかろうとした同じ太刀を、今度はワキの目の前で捨てる…ここに意義があるのだろうと思います。グワッシですでに太刀を捨ててしまっていてはこの型ができませんし、またこの時点までずっと扇を左手に持っていては、その扇を右手に持ち直し、さらにその扇を閉じて、それから合掌の型をする手順になってしまい、動作が煩雑だし、太刀を捨てる→合掌という動作が一連のものとして感じられないでしょう。良く考えられた型だと思います。ここまで考えられた合掌の型、それならばできるだけ長く合掌をしていたいところです。

そうして最後は能の終わりの定型として、左袖を返してトメ拍子を踏みます。囃子と地謡が終わってから袖を払い、扇を閉じてシテは幕に引くのですが、『敦盛』ではこんなわけでこのとき何も持っていないのですよね~。何も持たずに退場するのは能では稀で、これまた『葵上』に類例があります。ちょっとした事なのだけれど、また曲趣はまったく違う曲だけれど、ぬえは『敦盛』に『葵上』の影響があるのかなあ、とも感じています。

で、扇を持っていないのですけれども、定型のトメ拍子に慣れてしまって居る ぬえは、やっぱりそのあと袖を払ってから、持っていないのに扇を閉じたくなってしまうのでした…(汗)

『敦盛』~若き世阿弥の姿(その20)

2010-03-18 01:07:47 | 能楽
よく言われることではありますが、クセの内容がシテの個人の心情ではなくて、平家一門の没落を描いていること、叙事よりも叙情に重点が置かれていることなど、『敦盛』の構成は修羅能の類型からは著しく逸脱しています。そうしてその破格の構成の白眉が、『敦盛』では修羅能のシテでありながら、クセに続いて「舞(謡を伴わず器楽演奏に合わせて舞う狭義の舞)」を舞うということです。血なまぐさい合戦の様子や、殺生の罪により死後も修羅道に墜ちて苦しみ、その救済を(多くは僧である)ワキに求める、というのが、ほぼすべての修羅能に共通するプロットですから、『敦盛』はまさに異質の修羅能です。(ちなみに『生田敦盛』も同じく敦盛がシテで、やはり舞を舞うのですが、これは後世の作で、『敦盛』の影響の下に同巧に作られた曲でしょう)

『敦盛』のシテが舞う舞…「中之舞」という舞なのですが、女性の役が幽玄に静かに舞う、有名な「序之舞」よりも少々アップテンポで、とはいえ貴公子の役が颯爽と舞う「早舞」や、直面の武士が強く舞う「男舞」よりはずっと ゆったりとした優美な舞です。いうなれば中庸の位で舞うから「中之舞」であるわけで、天女の役の『吉野天人』や『西王母』から、遂げられぬ愛に苦しむ女性が舞う『松風』『班女』、それから悲しみを隠して舞う『熊野』まで、じつに幅広い能に取り入れられていまして、そのテンポも曲趣に合わせてかなり広い位取りで囃される舞です。

『敦盛』の中でこの「中之舞」はどのような意味で舞われるのかを解釈すると…これは一ノ谷合戦の前夜に、平家一門が砦の中で管弦を奏した、その再現であるようで、それはクセに続く以下の問答から読みとれます。

シテ「さても二月六日の夜にもなりしかば。親にて候経盛我等を集め。今様を謡ひ舞ひ遊びしに。
ワキ「さてはその夜の御遊びなりけり城の内に。さも面白き笛の音の。寄手の陣まで聞えしは。
シテ「それこそさしも敦盛が。最期まで持ちし笛竹の。
ワキ「音も一節をうたひ遊び。
シテ「今様朗詠。ワキ「声々に。
地謡「拍子を揃へ声をあげ。   中之舞


いろいろな曲で広く使われる「中之舞」ですが、その中で『敦盛』では他の曲よりも速めに演奏する、とされています。それは、そもそもシテが舞を舞う例がない修羅能という曲趣によるものであろうと思います。「中之舞」という舞は事実上ほとんど女性のシテが舞う舞で、男性が舞う例が希有、そのうえ笛の森田流では『敦盛』は本来「中之舞」ではなく「黄鐘早舞」という、「中之舞」と「早舞」の中間的な位の舞の譜を吹くことを建前としています。

実際「中之舞」の笛の譜は、どちらかと言えば「早舞」「男舞」よりも、静かでたおやかな「序之舞」に近いように傾いて作られていまして、一方「黄鐘早舞」はどちらかといえば「男舞」に近い譜なのです。お笛のお流儀によって『敦盛』という曲の解釈が異なるためにこのような差異が生まれたものでしょうが、さらに言えばシテ方でもお流儀によっては『敦盛』のシテは「中之舞」ではなくて、前述の通り武士が舞う舞たる「男舞」を舞うことになっています。このような不統一があることは演者の中でも『敦盛』に「中之舞」が導入してあることに歴史的に とまどいのようなものもあったのかも知れませんですね。

ところが今回 ぬえは、稽古している中で、『敦盛』には「中之舞」…それも、静か、というのではないですが、「男舞」のような颯爽とした舞よりも、演奏のテンポはともあれ、シテの心情としてはやや「序之舞」に近いような、叙情的な舞い方の方が似合うのではないかと思うようになりました。

もう公演まで時間がないので詳述は後日にしたいと思いますが、先日稽古能ではじめて囃子方もお招きして『敦盛』を舞った際に、お囃子方と話し合った際にも、ぬえと同じではないまでも「速い舞」という意識はそれほど強くないのだということが確認できました。

このあたり…クセから「中之舞」にかけては、師匠から頂いたアドバイスや、この稽古能でのお囃子方の意見から、実際に舞ってみないとわからない『敦盛』という能についての演者の「気持ち」のようなものがうっすらと見えてきたような気がします。

『敦盛』~若き世阿弥の姿(その19)

2010-03-17 01:27:49 | 能楽
ここよりクセになります。クリ・サシ・クセと三つの小段が連続して並ぶのも定型なのですが、下懸リのお流儀の詞章でクリを欠いているというのは不思議なことですね。何か理由があるのでしょうか。

地謡「然るに平家。世を取つて二十余年。誠に一昔のと床几より立上り。過ぐるは夢の中なれやと左足拍子。寿永の秋の葉の。四方の嵐に誘はれと正へ出行掛り散々になる一葉のとサシ廻シ、ヒラキ。舟に浮き波に臥して夢にだにも帰らずと左右打込ヒラキ。籠鳥の雲を恋ひ。帰雁列を乱るなると角へ行き小さく廻り正へ直し。空定めなき旅衣右上を見上げ。日も重なりて年月の左へ廻り中へ行き。立ち帰る春の頃この一の谷に籠りてとサシ込、ヒラキしばしはこゝに須磨の浦と左右打込、扇開キ
シテ「うしろの山風吹き落ちて
と上扇
地謡「野もさえかへる海ぎはに
と大左右、左足拍子。舟の夜となく昼となきと正先へ打込ヒラキ。千鳥の声も我が袖もと左袖を巻上げ。波にしをるゝ磯枕と右へウケ下居。海人の苫屋に共寝してと立上り角へ行き扇を左手に取り須磨人にのみ磯馴松のと左へ廻り常座にて扇を右肩に掛け。立つるや夕煙と正先へハネ扇柴と云ふもの折り敷きてと正へ向き扇を折返し。思ひを須磨の山里の扇を右手に逆手に持ちながら角へ行き小さく廻り。かゝる処に住居して扇の要にて右の向こうをサシ。須磨人になりはつると左へ廻り大小前へ行きながら扇を右手に持ち直し一門の果ぞかなしきと左右、ワキへ向きトメ。

クセは仕舞としてもおなじみだと思いますが、仕舞とはちょっと型が違うところがあります。それが仕舞では枕扇になっている「波にしをるゝ磯枕」のところで、能では扇ではなく左袖を巻き上げて、それを枕にして眠るように、右にウケて下居します。

「海人の苫屋に共寝して須磨人にのみ磯馴松」とか「立つるや夕煙、柴と云ふもの折り敷きて」など、このクセの文句は 一時は栄華を極めた平家が没落してゆく有様をはかなく描いて余情あふれる詞章ですね。ぬえも大好きな文章です。ところがこれ、『平家物語』にはまったく現れない表現なのですよね。「軍体の能姿、仮令源平の名将の人体の本説ならば、ことにことに平家の物がたりのままにかくべし」と書いた世阿弥のはずなのですが…近来、この文章の典拠として『源氏物語』の注釈書である「源氏寄合」の存在が指摘されました。

「寄合」は連歌を詠む際に必須の教養である、和歌でいう「縁語」のようなもので、連歌を詠む際に古典文学を下敷きとして寄合を駆使するための参考書として、文学作品の梗概書や注釈書として多くの「寄合書」が書かれました。能と寄合書について最初の論考は『敦盛』について論じられたそれだと思います(「『敦盛』のクセと源氏寄合」和田エイ子 『能研究と評論6』1976)が、ここではすでに二条良基を通じて世阿弥が「源氏寄合」を知った可能性も指摘されていて興味深いです。「源氏寄合」についてはその後『忠度』『知章』『箙』など一ノ谷合戦を題材とするほかの修羅能の中にもその影響が指摘されるようになりましたが、平家が都落ちをして須磨の近辺に陣を敷いたことは、現代人にはそれだけのことであっても、往時は須磨に流された在原行平や光源氏とオーバーラップして感じられたことなのでしょう。

このクセ、敦盛自身のことではなくて、平家一門の凋落という大きなイメージを描くことによって、叙事性を廃して叙情性を高めようと考えられて書かれていますね。ぬえは、じつは『敦盛』という能を作品全体としては あまり高く評価はしていないのだけれども、このクセ以降の構成はホントに上手いなあ、と思います。

「ことにことに平家の物がたりのままにかくべし」と世阿弥が書いたことにしても、当時の人々にとって「平家の物がたりとはとは『平家物語』のことではなくて『源平盛衰記』である、という指摘があって、現に能『敦盛』も内容としては『源平盛衰記』に近いと思います。意外や、世阿弥作でもあり人気曲でもある『敦盛』について、目が覚めるような鮮烈な教示があった論文は少ないように思いますが、それでも ぬえにとって今回読んだ論文は大きな啓示ではありました。世阿弥にとって、おそらく若い頃の作品だと ぬえは考えている『敦盛』について、研究が進むことを期待したいと思います~。

『敦盛』~若き世阿弥の姿(その18)

2010-03-16 01:24:50 | 能楽
さて後シテとワキとの問答から、地謡による上歌へと舞台は盛り上がってゆきます。

地謡「これかや悪人の友を振り捨ててと正面へ向き出、ヒラキ。善人の敵を招けとはと右へウケて左手を出し。御身の事かありがたやとワキの前へ行き左袖を返してワキを見込み。有難し有難しと角へ行き正へ直し。とても懺悔の物語と左へ廻り常座へ行き、夜すがらいざや。申さん夜すがらいざや申さん。と小廻リワキへ向きヒラキ

この地謡の上歌の中でシテが行う型ですが、ここにも一つの類型化が見られます。「善人の敵を招けとは御身の事かありがたや」のところ、シテは右へウケて少し出ながら左袖を前へ出し、そのままワキへ向いてワキの前まで行き、止まりながら左袖を返すと、左足を引きながら右手にてワキの方へ向いて決める…この型は 観世流の場合、修羅能であれば必ずある型なのです。『経正』にも『田村』にも、『屋島』にも『忠度』にもこの型はあります。それも軍装で現れる…後シテになってから行われる型です。…ただし、後シテが作物から出て、すぐにクセを舞う『生田敦盛』だけは例外で、構成上この型は無理なので、なかったように記憶しますが…

この型はワキ…や、『清経』『俊成忠度』ではツレなど、脇座にいる シテに対応する登場人物に向けて決める型で、言うなればその対象者に対して主張するような場面で行われる型で、こういう場合 通常はサシ込・ヒラキとか 胸ザシ・ヒラキなどの型で表現することが通例です。なぜ修羅能に限って判で押したようにこの型が演じられるのか…理由は不明ですし、むしろ「類型化」そのものが目的なのではないか…? とぬえは考えますが、現に他流の『敦盛』のこの場面ではこの型は「ヒラキ」で表現されているようで、左袖を返して決める型は観世流独特のもののようです。

上歌が終わると「クリ」となり、シテは常座から大小前へ行き、正面へ向いて左袖を返しながら中まで出、両手で大口をたくし上げて止まり、このとき後見は床几を後ろからそえてシテは床几に掛かります。

<クリ>地謡「それ春の花の樹頭に上るは。上求菩提の機をすゝめ。秋の月の水底に沈むは。下化衆生の。形を見す。

この両手で大口をたくしあげる型ですが、これは型というよりは便宜上必要な動作で、お尻の部分が盛り上がった大口の両脇を手で引っ張り上げて、床几にかかり易くしているのです…が、あまり姿の良い型ではありませんし、現実にそこまで大口を引っ張らなくても床几には不都合なく腰掛けることはできますので、ぬえの師家ではこの型は形ばかりにしておいて、実際には大口を引っ張り上げないことになっています。

クリの文句の大意は「そもそも春になると花が木の高い梢に咲くのは、如来が衆生に対して向上心を持って菩提に再誕することを勧めているのであり、秋の名月のとき月影が水面に映るのは、如来が下界に下りて衆生とともに居ることの現れである」という意味。続いての「サシ」で、「それなのに平家の一門はそれにさえ気づかず…」と続くので、なかなか含蓄のある文句だと思います。

ところが面白いことに、この「クリ」は観世流と宝生流にはありますが、下懸リの金春・金剛・喜多流には本文がありませんね。その場合は上懸リではこの「クリ」のあとにある「サシ」の文句でシテは床几にかかります。

<サシ>シテ「然るに一門門を並べ。累葉枝を連ねしよそほひ。
地謡「まことに槿花一日の栄に同じ。善きを勧むる教へには。逢ふ事かたき石の火の。光の間ぞと思はざりし身の習はしこそはかなけれ。
シテ「上にあつては。下を悩まし。
地謡「富んでは驕りを。知らざるなり。


「槿花(きんか)」はムクゲという解説書もあるようですが、ここはアサガオと解しておきたいです。その方が一門が全滅する運命にある平家のはかない運命がよく伝わると思う。「石の火の光の間」とは「火打ち石から発せられる火花が見えている間のような瞬時」で、極楽往生に導く如来の教えに巡り会うことは、それほどに少ない機会なのだから、常に注意をもって慎んだ生活をすべきなのに、の意。「上にあつては下を悩まし、富んでは驕りを知らざるなり」とは「地位を得ては民衆に迷惑を及ぼし、富を得ては自分がおごった振る舞いをしている事についに気づかない」という意味です。このサシの最後にシテはワキに向きます。…これも定型ではありますが。

『敦盛』~若き世阿弥の姿(その17)

2010-03-15 02:03:53 | 能楽


そして面。「童子」や「中将」も選択肢には入っていますが、これはよほどのことがない限り選びにくい面です。「敦盛」という名の面があって、それが面の選択の基準になているようですが、多くの場合「十六」を使う方が普通でしょう。「十六」も十六歳で死んだ敦盛を想定して作られた面で「敦盛」面と使途はまったく重なるのですが、印象はずいぶん変わります。

タイトル画像が「十六」です。その中ではちょっと変わり型ですが…。「十六」は見るからに若い公家の相貌で、描き眉のうえにお歯黒までしています。面の白さもお化粧なのでしょう。『平家物語』には「練貫に鶴縫たる直垂に、萌黄匂ひの鎧着て、鍬形打つたる甲の緒を締め、黄金作りの太刀を佩き、廿四差いたる切斑の矢負ひ、滋藤の弓持ち連銭葦毛なる馬に、金覆輪の鞍置いて乗たりける武者一騎…薄化粧して鉄漿黒なり」とありますから、まさにその相貌を再現した面です。一方、「敦盛」面は、これも「十六」とほとんど同じ細工なのですが、「十六」よりも少し強い感じ…公家よりも武者としての印象を優先したような面です。作にもよりますが、描き眉でない面も多いようですね。「敦盛」の面よりも「十六」が好まれているのも、「可憐」という印象のうえで「十六」の方が勝っているからでしょう。

がしかし…残念ながら「十六」「敦盛」とも、あまり名品の面は多くないように思います。「美少年」と言うべき「十六」って、なかなかないものですね…。そのうえ総じて「十六」という面は薄く作られているものが多くて、まあこれは支障というほどでもないですが、常の面と比べても掛けるときの違和感のようなものがつきまとう…そんな面です。そういえば『敦盛』の面の選択肢の中に「童子」が入っていますが、「童子」の方がよっぽど名品があり、柔らかい相貌が『敦盛』の人間像にマッチしていると古来考えられてきたのでしょう。…とはいえ「童子」は毛描きが白鉢巻・梨打烏帽子に合わないのですよね…難しいところです。

ところが ぬえが大好きな「十六」があります。これは出目満永(古元休)という人の作品で、兵庫県・篠山市にある「能楽資料館」に収蔵されています。画像は…探したのですが なかなか見つからなくて…PDFファイルですが、以下のサイトに画像が載っています。13ページ目にちょっとだけ。

十六画像

この「十六」は、ぬえのルーツのような面ですね…能面の名品の美しさに触れた最初がこの面でした。この画像ではこの「十六」の良さが半分ぐらいしか伝わらないと思うけど…ちなみに書籍では、もう絶版かもしれませんが保育社のカラーブックスの「能面」に画像が載っているほか、「能楽資料館」から刊行された所蔵品を紹介するいくつかの本の中にもこの「十六」は必ず載せられています。

そしてタイトル画像の「十六」。これは ぬえの所蔵品で、今回の『敦盛』でもこの面を使います。前回画像をご紹介した『朝長』でも、まったく同じ面を使っております。

この「十六」は現代の作ですが、とってもユニークな女流能面師・中村光江さんの手によるものです。さきほど「変わり型」と書きましたが、まさに中村さんの打つ能面は「変わり型」の面ばかり。その中でこの「十六」は出色の作品だと思います。

「十六」という面を使う場合は白鉢巻をしているので、それがないこの画像では、やはり「良さ」が出ませんね。白鉢巻をつけると、この面もかなり大きく印象が変わります。

『敦盛』~若き世阿弥の姿(その16)

2010-03-15 00:42:01 | 能楽


おっと、後シテの装束付けを書き落としていました!

面=敦盛(又ハ童子、十六、中将ノ類)、黒垂、梨打烏帽子、白鉢巻、襟=白・赤(又ハ白・浅黄)、着付=紅入縫箔(厚板唐織ニモ)、白大口(色大口、模様大口ニモ)、長絹又ハ単法被、縫紋腰帯、太刀、修羅扇

…という出で立ちになっています。じつは意外に『敦盛』『経正』という曲は装束を選ぶのが難しい曲だと思います。可憐でもあり、凛々しくもあり…という感じをめざし、さらに品がよくないとならないので… 装束の色合いは着付けの縫箔と長絹で決まると思いますが、あんまりハッキリした色の長絹では強すぎ、また淡すぎても女々しくなってしまって。ぬえも以前から鮮やかなブルーの長絹が欲しいな、と思っているのですが、まだ果たせておりません。そこで今回は師家所蔵の紺地の長絹を拝借させて頂くことにしました。紺地はかなりハッキリした強い色合いなのですが、中に着る着付けや、それになんと言っても腰帯の色でずいぶん印象を和らげることはできます。

そんなわけで着付けは ぬえ所蔵の雪輪の文様が刺繍された美しい縫箔を着ようと思ったのですが、なんと師匠のお見立てで、この日『敦盛』のあとに上演される『羽衣』の着付けに、その縫箔が使われることに決まり、あれれ~、ぬえは計算をし直すことに。…あ、いえ、ぬえ所蔵の縫箔が『羽衣』で使われるのではなくて、これは師家所蔵のものです。ぬえ所蔵の縫箔は、ぬえが書生から卒業したときに、その記念に新調したもので、このときは各地の博物館に所蔵されている縫箔の写真を集めて装束屋さんと何度も打ち合わせをして、そのいろいろの縫箔の良いところを集めて作ったのです。ですから意匠は ぬえと装束屋さんの共同作業で新しく作り上げたものなのですね。師家所蔵のこの縫箔は、師匠がそれを写されたものです。また少し ぬえの所蔵品とは異なった師匠のオリジナルの意匠が付け加えられてはおりましたが。考えてみると師家の所蔵品の装束を ぬえが写させて頂いて復元新調させて頂いたことはあるのですが、ぬえの装束を師家で写された、というのは珍しいことですね~。それくらい、ぬえの、ではなくて、装束屋さんの技量が良かったのでしょう。

ということで ぬえは今回の着付けは、これまた師家所蔵の鬱金地=淡いクリーム色の地に雅楽の楽器を刺繍で散りばめた縫箔を借用させて頂きます。楽器の文様は『敦盛』には映えるでしょう! …ただし、残念ながら笛の刺繍は大口に隠れてしまって見えなくなってしまうようですが… この淡い色の縫箔に、薄い茶地に蝶の紋を刺繍した腰帯を取り合わせれば、紺地の長絹の「強さ」が半減されると計算しています。

さらに大口も白無地のものではなくて、千鳥を刺繍し、さらに摺箔で青海波の文様が施された模様大口です。普通には白大口であるところ、全体にゴージャスな感じだと思いますが、白大口というのは意外に「強い」印象を受けてしまうものなので、『敦盛』には模様大口の方が似合うようにも思います。

ついでながら太刀は ぬえ所蔵のもので、これは若気の至りで鞘に家紋を入れてしまい、今は後悔…。それを入れるだけで15年ぐらい前でしたが、7~8万円だったかな、掛かってしまいました。柄糸が白(じつは薄~~い浅黄なのですが…白にしか見えない)なのは品があって良いとは思うのですが、値段がねえ。

タイトル画像は、ぬえが2006年に勤めた『朝長』の写真ですが、今回の『敦盛』もイメージとしては大体同じ感じの装束の取り合わせになります。このときも上着は紺地の…しかも長絹よりもさらに強いイメージの単法被でしたが、着付けに「金春縞」…と言いますが、なんというかパステルカラー調の、小模様の入った縞でできた文様の厚板唐織を着て、大口も紅葉の文様の模様大口を着たことで、全体的に強くなりすぎず、少年のイメージを出せたかなあ、と思っております。

『敦盛』~若き世阿弥の姿(その15)

2010-03-14 02:34:09 | 能楽
『敦盛』~若き世阿弥の姿(その15)

ワキ「これに付けても弔ひの。これに付けても弔ひの。法事をなして夜もすがら。念仏申し敦盛の。菩提をなほも弔はん 菩提をなほも弔はん

この「待謡」の終わりに笛が再び「ヒシギ」を吹き、これよりノリの良い登場音楽である「一声」が奏され、そうして いよいよ後シテが登場します。

後シテ「淡路潟かよふ千鳥の声聞けば。寝覚めも須磨の。関守は誰そ。如何に蓮生。敦盛こそ参りて候へ。


淡路潟に通う千鳥の声で浅い眠りが覚めてしまう…そんな関守の番人のように須磨に夜を明かしているのは何者だ。…金葉集の歌を下敷きにした非常に詩的な表現で、直実がいまだ逗留しているのを確かめる敦盛の霊。

このところ、節付けもとっても落ち着いていて、ちょっと若い敦盛には似合わない感じもするのですが、そこを若々しく聞こえるように謡うのが演者に要求される技量というものでしょうね。そうして敦盛は本性を現し、直実に対して名乗ります。

この名宣リも、果たしてどうやって謡うべきなのか…彼は怒っているのか、復讐のために現れたのか、それとも別の意味なのか… 稽古を積んでいくうちに、ぬえはこの曲のシテは意外に広い解釈を許す曲なのだな、と感じ始めました。

ワキ「不思議やな鳧鐘を鳴らし法事を勧め。まどろむ隙もなき内に。敦盛の来り給ふぞや。これは夢にてあるやらん。
シテ「何しに夢にてあるべきぞ。現の因果を晴らさん為に。これまで現れ来りたり。
ワキ「一念弥陀仏即滅無量の。罪障を晴らす称名の。法事を絶やさず弔ふ功力に。何の因果は荒磯海の。
シテ「深き罪をも弔ひ浮め。
ワキ「身は成仏の得脱の縁。
シテ「これまた他生の功力なれば。
ワキ「日頃は敵。シテ「今はまた。ワキ「まことに法の。シテ「友なりけり。


ここで敦盛は直実の前に現れた理由を語りますが、それがまた抽象的。「現の因果を晴らす」とはどういう意味なのでしょう? 小学館の『全集』に所収の現代語訳では「現世の罪によって死後に報いを受けているのを晴らそうがために」という解釈ですね。これまた不分明な現代語訳ではありますが、おそらく「現世で殺生戒を破ったために死後に畜生道に墜ちて苦しんでいるのを、僧となった蓮生の回向によって助かることを期待して」という意味で思います。

でもまた、単純に「現世であなたに討ち取られた」その怨みを晴らし、直実に復讐するために現れたとも考えられます。「因果」を法語ではなく俗語として使って作詞されたのかも。まったく考えられないことではありません。

このように、享受者それぞれによっていろいろな解釈を許す能なのかもしれません。

『敦盛』~若き世阿弥の姿(その14)

2010-03-12 02:37:23 | 能楽
間狂言の言葉はどの曲であってもお流儀や家によって小異がありますが、『敦盛』の場合 ぬえが知る限りでは ほぼどのお家でも同じ内容です。小異があるのは 波打ち際で熊谷が敦盛を組み敷いたとき、敦盛が自分の名を名乗ったか、あるいは名乗らずに後の首実検の際に敦盛と判明したか、という違いでしょうか。前者は『源平盛衰記』に見えるもので、後者は『平家物語』に描かれる内容です。典拠が違うところが面白いですね。

さらに間狂言で面白いのは、敦盛が兵船に乗り遅れた理由です。これはお狂言のどのお家でも一致しているようで、源氏の攻略に耐えかねて平家が船に乗り沖へ逃げるとき、敦盛は陣中に愛蔵の笛を置き忘れたことに気づき、これを残して源氏の手に落ちては一門の恥辱と、陣に取って返して笛を取ったけれども、さて再び渚に打ち出でてみれば平家の船はすでにことごとく沖に出てしまった後であった、というもの。じつはこれは古典文学作品には現れない物語で、なんと幸若舞で語られるものなのです。

ご存じの通り『敦盛』といえば織田信長が桶狭間の合戦の前に陣中で舞った「人間五十年…」というのが有名で、能楽に親しい方であれば、これが能の『敦盛』ではなく幸若舞のそれだ、ということは周知であると思います。その幸若舞の詞章に、能の間狂言が語る内容…敦盛が陣に笛を忘れた ということが出てくるのです。間狂言の詞章が幸若舞から取材したもの、と考えるよりは散逸した文学作品や巷間に流布していた物語の影響を考えるべきかもしれませんが、興味深いことではあります。

ちょっと話は脱線しますが、幸若舞の『敦盛』は『平家物語』などに劣らぬ美文ですね。幸若舞の草創期は室町時代といわれているようですが、『敦盛』を読むかぎり幸若舞が戦国武将に好まれた、というのも頷けるような気がします。ここでは馬を海に打ち入れた敦盛は、熊谷に呼び戻されて歌を詠んで答え、熊谷も返歌をしたりしています。さらに敦盛を討ったいたわしさに熊谷は敦盛の死骸を使者に託し、屋島に逃げ延びた平家一門の陣に送り、ついに敦盛の父・経盛に送り届けています(これは『盛衰記』にも記述あり)。経盛は熊谷の志に感じて手紙を返し、これを読んだ熊谷は…「人間五十年…」と観じて、そうして都に上ると法然のもとに身を寄せて出家した…このように描かれています。有名な「人間五十年…」は、こんな場面に出てくる、熊谷の詠嘆の言葉なのですね。

さらについでながら、『敦盛』の間狂言でこんな事が語られることがあります。…熊谷は組み敷いた敦盛に刃を立てることができず、彼を助けようと引き立てて馬に乗せたところ、これを見た源氏の勢が熊谷が平家方に寝返ったと見て、二人ともに討ち取ろうとしたため、熊谷は泣く泣く再び敦盛を馬から引き落として首を取った…この間狂言は ぬえが拝見した経験では これまでにたった1回しかなかったのですが、これは またしても文学作品ではなくて幸若舞の『敦盛』に見える内容なのです。

能の詞章に影響を与えるのは常に能の先行文学だとばかり思いこんでいた ぬえには、今回の幸若舞との関連は意外なものでした。幸若舞は能とはほぼ同時代に発展した芸能なので、いわばライバル関係にあって互いに没交渉なのだとばかり思っていましたが、意外や、間狂言と関係が深いとは… 能と狂言とは本文の確定までに時間的な差があるとされていますし、ましてや間狂言の詞章が固定化されるのは能よりも後世と考えられているので一概に答えは出ないとはいえ、興味深いことではあります。

さらについでながら、能の『敦盛』のキリに「ふた打ち三打ちは打つぞと見えしが」とありますが、これは『盛衰記』または幸若舞に見えることで、『平家物語』では取って返す敦盛を待ち受けた熊谷はたちまちに敦盛を組み敷いています。こればかりでなく、どうも能『敦盛』には『平家物語』の影響は薄いようで、典拠は別にあるようで、じつはこれは早くから指摘されていることでもあるのです。

ともあれ、間狂言が退くとワキは「待謡」を謡って、いよいよ後シテの登場となります。

『敦盛』~若き世阿弥の姿(その13)

2010-03-11 01:33:10 | 能楽
前シテが中入すると、間狂言が登場してワキと問答を交わします。このように中入の間に物語をする(=居語リ)場合、間狂言は初同の間に幕をカーテンのように裏欄干に近い部分を半分だけ開けて(=片幕)目立たぬように登場し、橋掛リ一之松の裏欄干の前(=狂言座)に正座して自分の出番を待ちます。

そして前シテが中入して幕が下りると おもむろに立ち上がって(または曲によりワキに呼び出されて)舞台に入り、ワキに所望されて舞台の正中(中央)に正座して当地に伝わる物語を語ることになります。「居語リ」をする間狂言の場合は大概は段熨斗目に長裃という出で立ちですが、能の曲によって装束にも様々な決マリがある由。また、ぬえが以前ワキ方にだったか? から聞いたところでは、語リの内容にもいろいろと類型化された決マリがあって、たとえば本三番目能では必ず語リの中に和歌が二首紹介される、という事でしたが…それを聞いて「へ~~!」と関心を持った ぬえがその後舞台で注意して聞いてみると…ん~、必ずしも二首の和歌が語リの中に登場しているかというと…微妙なような…

もっとも間狂言の語リというものは、本来の語リ全体が語られるのではなく、往々にして少し略されたりしていますので、それで ぬえが二首を聞くことができなかっただけかも。略すると言っても、これは決して間狂言の役者が手を抜いたりしているわけではなくて、シテが楽屋の中で装束の着替えが出来上がったことを舞台上で機敏に察知して、そのあとに語るはずの内容をうまくまとめて、出番に向けて気持ちを高めた後シテをあんまり待たせないようにしているのです。それにしても舞台の上で語りながら、楽屋の動向にも、おそらく楽屋からかすかに響く物音を敏感に注意を向けて、語リの分量を調整する、というのであれば…驚異というべきでしょう。

以下に掲出したのはワキと間狂言の問答の「一例」です。流儀により、また家により、居語リの内容は異なりますけれども…

間「かやうに候者は。須磨の浦に住居する者にて候。この間は久しくいづかたへも出で申さず候間。今日は須磨寺の辺りへ参り。心を慰まばやと存ずる。や。これに見慣れ申さぬお僧の御座候が。いずくよりいず方へ御通りなされ候ひてて。この所には休らひて御座候ぞ。
ワキ「これは都方より出でたる僧にて候。御身はこの辺りの人にて渡り候か。
間「なかなかこの辺りの者にて候
ワキ「さやうに候はば。まず近う御入り候へ。尋ねたき事の候。
間「心得申して候。さてお尋ねありたきとは。いかやうなる御用にて候ぞ。
ワキ「思ひも寄らぬ申し事にて候へども。この所は源平両家の合戦の巷と承り及びて候。中にも平家の公達。敦盛の果て給ひたる様態。ご存じにおいては語って御聞かせ候へ。
間「これは思ひも寄らぬ事をお尋ね候ものかな。我等この所には住み候へども。左様の事詳しくは存ぜず候さりながら。およそ承り及びたる通り。物語申さうずるにて候。
ワキ「近頃にて候。
間「頃は寿永二年の秋の頃。木曽義仲に都を落とされ。この所に御座を構へ。生田の森と一ノ谷の間を。多勢をもって固められ候へども。平家はすべて歌、連歌などに戯れ。尋常なることを事となされ候に。東国の源氏は。狩・漁・弓馬にのみもまれたる屈強なる兵。六万余騎をふたつに分け。大手搦手より押し寄せ。左右なう打ち破り。御一門の人々も。数多討ち死になされ。あるいは御船に召され。我先にと落ち給ふ。然るに経盛の末子無官の大夫敦盛も。同じ船に召されんとて。渚に打って御出で候が。小枝と申す笛を。御本陣に置かせられ候間。末世までの恥辱と思し召し。引き返し笛を取り。また渚に打って御出で候へば。はやその間に御座船をはじめ御船ども。ことごとく沖へ出で申し候間。御料簡に及ばず。御馬を海さと打ち入れ。泳がせらるる所に。武蔵国の住人。熊谷次郎直実。良き敵と目を付け。追っ懸け申し。まさなうも敵に後ろを見せ給ふものかな。御返しあれと。扇を開き招かれければ。さすが平家の公達にて候ぞ。招かれて取って返し。波打ち際にて引っ組んで。馬より下にどうと落ち。取っておさへ。熊谷は古き大剛の者。初乗りはいまだ十五六歳なれば。やすやすと御頭を打ち落とし。御骸を見れば。錦の袋に入れたる笛を挿されたり。さてその笛を大将の見参に入れければ。見る人涙を流したると申す。まことや熊谷は発心をして。敦盛の御跡を弔ふと申すが。左様にてはあるまじく候。それほど発心をするならば。そのとき助け申すべきに。助けぬほどの者にて候間。発心は致すまじひとの申し事にて候。まず我等の承りたるは。かくの如くにて候が。ただ今のお尋ね不審に存じ候。
ワキ「懇ろに御物語候ものかな。今は何をか包み申すべき。これは熊谷の次郎直実出家し。蓮生と申す法師にて候。
間「これは言語道断。さては熊谷殿にて候か。ただ今申したる事は。所の者の戯れ事に申したるをふと申し出で候。まっぴら御免あらうずるにて候。
ワキ「いやいや苦しからず候。敦盛を手に掛け申し。あまりに痛はしく存じ。かやうの姿ととまかりなりて候。御身以前に草刈数多来られ候程に。すなはち言葉を交わして候へば。愚僧に十念を乞はれ候程に。すなはち授け申して候。その後いかなる人ぞと尋ねて候へば。敦盛のゆかりなる由申され。何とやらん由ありげにて。そのまま姿を無失ふて候よ。
間「これは不思議なる事を仰せ候ものかな。それは疑ふところもなく。敦盛の御亡心にて御座あらうずると存じ候。左様に思し召さば。暫くこの所に御逗留なされ。ありがたき御経をも御読俑あって。かの御跡を。懇ろに御弔ひあれかしと存じ候。
ワキ「この所へ参り候も。敦盛の御跡弔ひ申さんためにて候間。いよいよありがたき御経を読俑し。かの御跡を懇ろに弔ひ申さうずるにて候。
間「御逗留にて候はば。これより東に宿を持ちて候間。お宿を参らせうずるにて候。
ワキ「頼み候べし。。
間「心得申し候


『敦盛』~若き世阿弥の姿(その12)

2010-03-10 01:17:38 | 能楽
地謡「捨てさせ給ふなよ。一声だにも足りぬべきに。毎日毎夜の御弔ひ。あら有難や我が名をば。申さずとても明暮に。向ひて回向し給へる。その名は我と言ひ捨てゝ姿も見えず。失せにけり姿も見えず失せにけり。

地謡となってシテは合掌をほどき、「あら有難や」と面を伏せて謝意を表し、正面に向いて立ち上がり、常座に行きますが途中で振り返って再度ワキへ向き「その名は我」と初めて自分が敦盛であることを明かすと、右に廻って常座で正面にヒラキ、返シに橋掛リへ向かい幕へ引きます。この時、一噌流と藤田流のお笛では「送り笛」という笛の独奏で橋掛リを歩むシテを叙情的に修飾してくださいますね。これは美しくて、何度聞いても うっとりと聞き惚れてしまいます。

一方、森田流のお笛の場合にはここは何も吹いてくださいません。静寂の中を、消えてゆくように歩むのは シテにとって難しいことです。今回の ぬえの『敦盛』は一噌流にお相手を願っておりますが、森田流のお笛のお相手の舞台では、ここはとっても緊張しちゃいます。運ビの姿は言うに及ばず、衣擦れの音にさえ神経を使いますから…

森田流ではこの「送り笛」を吹かないのですが、その代わり、中入後、つまりシテが舞台にいない間にとっても素晴らしいアシライ笛を聞くことができます。それは間狂言とワキとの問答の中で吹かれるのです。

シテが中入すると、現地の民の役の間狂言が登場してワキと問答をします。『敦盛』に限らず、いわゆる「複式夢幻能」と呼ばれる形式の能ではパターン化された演出でもあるのですが、だいたい以下のような段取りで舞台が進行してゆきます。

所の者(間狂言)が登場。見慣れぬ人がいる、とワキを見とがめて声を掛ける。→ワキはこれを呼び寄せ、前シテがほのめかした人物について問う。→間狂言は不審に思いながらもその人物と当地との関係について語る→語り終えた間狂言は質問された理由を問う→ワキは前シテと出会った体験について語る。→間狂言はそれこそ物語の当人の霊が現れたのであろう、と述べ、重ねての奇特を待つよう勧める→ワキはしばらくこの場に残って本性を見定めよう、と心に決める。

だいたいこのようなパターンが「複式夢幻能」の類型化された演出です。先に ぬえは、能は「つく」と言って重複を嫌う、と言いましたが、一方で「型」という形で類型化を希求する…面白い文化だと思いますね。

そしてこのワキと間狂言との問答の中で、前シテがどうやら物語の当人の化身の姿だ、ということが判明したところで、森田流のお笛方はアシライ笛を吹かれます。これはまた、とっても効果的なのですよね。今までワキが人間だと思って応対した人物が、じつは人間ではなかった、という事がわかる戦慄。そういった感覚を笛で表現する、というのは 実に洗練された演出だと思います。森田流ではここでアシライを吹くため、おそらく前シテを送る「送り笛」を「重複」として吹かない方向に定まったのではないかと推察致します。ちなみに藤田流のお笛ではこの二つのアシライ笛を両方とも吹くように定めておられるようです。

また近来は森田流のお笛の場合でも、シテの頼みがあれば「送り笛」を吹いてくださることもあるようですが、その場合でも頼みがあれば必ず吹いてくださるわけではなくて、本三番目物など、情緒を大切にする能に限って例外として扱われているようです。

『敦盛』~若き世阿弥の姿(その11)

2010-03-09 23:57:21 | 能楽
今日は師匠に『敦盛』の稽古をつけて頂きました。う~ん、とっても蘊蓄のあるアドバイスを頂いて、ちょっと感激!の ぬえです。それは ぬえがこの曲について考えた工夫に関してのお言葉だったので、その工夫をお話する機会にお知らせしてみたいな、と思っております。

さて初同の中でツレが退場すると、シテ一人が舞台に残ります。これを見たワキが不審して理由を尋ねると、「声を力に来りたり。十念授けおはしませ」との返答。「声を力に来た」とは、舞台では表現されないものの、ワキはこの一ノ谷に来て敦盛のために念仏を唱えたので、シテはその声に引かれて現れた、というのです。

十念は念仏(南無阿弥陀仏)を十回唱える修行法で、この直後に「掌を合はせて南無阿弥陀仏」という言葉が見えています。これを見てもわかるように、直実が出家した蓮生は浄土宗の僧なのですね。げに、直実は法然の弟子として出家したのでした。源平の争乱の時代に生きた法然という人は、本当に能には縁が深いです。『千手』で死刑囚となった平重衡が、死を目前にして出家を願い出たが後白河院に拒否される話が出てきますが、このとき重衡のために「ただこの教へを深く信じて、行住坐臥時処諸縁を嫌はず、三業四威儀に於て、心念口称を忘れ給はずは、畢命を期として、この苦域の界を出でて、かの極楽浄土の不退の土に往生し給はんこと、何の疑ひかあらんや」と諭したのも、やはり師弟関係にあった法然です。そのほか『生田敦盛』は法然が拾った子が敦盛の遺児だった、という御伽草子の『小敦盛』に似た話ですし、近年は『定家』のシテ・式子内親王と交流があったことが言われているようですね。

ともあれ、シテはここで初めて「群像」としての草刈男から抜け出して、ひとつの個性となるわけで、役者は謡の調子をそれまでと変えるなど、工夫の要るところです。それでもシテは最後まで「敦盛」だとは名乗らず、この場面でも「ゆかりの者」と言うばかり。しかし敦盛の名を聞いたワキは思わず合掌するのでした。

シテは「ゆかりの者にて候なり」とワキへツメ、ワキの言葉「ゆかりと聞けば懐かしやと」と舞台の中央まで進んで下居、ワキとともに合掌します。このあたり、見ず知らずの他人だと思っていた二人の心が急速にふれあうようで美しい場面です。ま、果たして敦盛は直実に復讐するために現れたのか、それとも回向してくれる彼に感謝を示したいのか、割と不分明ではありますし、その感覚はこの曲を通してずうっと底流している問題ではあろうと思いますが…

シテとワキは互いに合掌したまま「若我成仏十方世界。念仏衆生摂取不捨」と謡います。このようにシテとワキが連吟する場合、通常はシテが謡う節にワキが合わせて謡う、つまり主導権はシテが持っているのですが、『敦盛』だけはワキが主導して、シテがそれに唱和する形を取ることがあります。

というのも、この場面ではシテはワキから十念を授けて頂く立場だからで、授けて頂く人は「従」の立場になるので、ワキが主導した方が場面の意味には合っているのです。もっともシテ方の流儀や家によっては、やはりシテが主導して謡うことも多いのですけれども。

それにしても、このようにシテとワキとの連吟は『敦盛』に限らずよくある事なのですが、おワキ方はその場合、五流のシテの節に合わせて唱和することが多いので、その節扱いの違いや呼吸の違いに合わせて謡われるのは大変だと思います。


『敦盛』~若き世阿弥の姿(その10)

2010-03-08 02:03:14 | 能楽
とすれば、ツレは前シテと一緒に山を下ってきた同僚なのではなく、ましてやシテと考えを共有してワキに主張したのでもない。彼らは山から下りてきた草刈男の群像なのであって、現実のそれらは、ワキの目には あちらの峠道やこちらの沢づたいを通る個人の姿として映っている、その総合体なのでしょう…それら実在の草刈男たちの中には、ある者はワキに目をとめる事もあるかもしれないけれども、彼は直実を見て「ん…?なんだ?こんな所にお坊さんが…」と その姿を見とがめたかもしれないけれど、それ以上には関心を持たずに家路を急ぐために言葉も交わさずに去ってしまっていたでしょう。

また前シテがワキと出会う前に謡う一連の謡が 卑しい身分の侘びた生活を嘆く内容であるのも、平家の公達の化身が嘆いているのではなくて、これら群像としての草刈たちの詠嘆であって、これをシテが同吟するのは、こういった場面の中に混じり込んでいては異質であるべき公達の化身が、あたかも彼らに同化しているように存在している、という表現でしょう。

こうしているうちにワキの目の前に一人の草刈男が足を止めます。ワキはチャンスを得て、今しがた聞いた笛について、この「一人の」草刈男に質問をしたのです。前シテはツレと一緒に山を下ってきたのではないのですが、ここはそれ、やはり笛を吹いていたのは化身としての前シテ本人でしょう。とすれば ぬえは、その笛の音は現実には響いていなかったのではないか? と思います。ワキ一人の耳に響いた笛の音。それこそ化身である敦盛が直実の耳にだけ聞かせ、そうしてそれによって直実に不審を抱かせて前シテを呼び止めさせる…そんな意図があったものではないか? と考えています。

ともあれ、初同のうちにツレは退場してシテのみが居残り、それをワキが不審します。このあたりまでの『敦盛』の情景は、能『求塚』に構想がよく似ていますね。『求塚』は観阿弥が作ったとされる古曲なので、観阿弥の子である世阿弥がその作例を手本にした、とも考えられるわけですが…ところが『求塚』は観阿弥が作詞作曲した謡物を基にして世阿弥が書き上げた、という説もあるのです。ぬえはこの説に賛成しているのですが、もう少し突っ込んで考えて、世阿弥の作であることが確実視されている『敦盛』は、彼の若い頃の作品だと ぬえは思っているので、それから類推すれば『求塚』は『敦盛』と同じような時期、少なくとも『敦盛』のすぐあとに世阿弥によって書かれた作品なのではないか、という感触を持っています。『求塚』は『敦盛』よりも ずうっと凄惨な内容を持った暗い曲ではありますが、どうも『砧』(世阿弥の後期か晩年の作)と比べれば人間洞察の力に、少し「若さ」を感じるのですよね… 観世流では「重習」という大切に扱われる曲なのではありますが、世阿弥の作であるならば、割と彼の若い頃の作品の一つなのではないかなあ? と ぬえは考えています。

でもまた そう考えると、『敦盛』に見える作の「若さ」というものが決して世阿弥の未熟を意味しない、という事も見えてきます。『敦盛』の後ろには『求塚』の「運命」の物語が投影されていることになるわけですから… 十六歳という、まだ人生も半ばどころではない時に唐突な死を迎えた平敦盛を描く能『敦盛』に、世阿弥は意図的に、曲に「軽さ」を加味するように作ったのかも。そうであるならば、世阿弥は ぬえが考える以上に恐ろしいほどの才能を持った人物、ということになるのですが…

ワキ「いかに申し候。ただ今の草刈達は皆々帰り候に。御身一人残り給ふ事。何の故にてあるやらん。
シテ「何の故とか夕波の。声を力に来りたり。十念授けおはしませ。
ワキ「十念をば授け申すべし。それにつけてもおことは誰そ。
シテ「まことは我は敦盛の。ゆかりの者にて候なり。
ワキ「ゆかりと聞けば懐かしやと。掌を合はせて南無阿弥陀仏。
シテ・ワキ「若我成仏十方世界。念仏衆生摂取不捨。