あけましておめでとうございます(今さら。。)
このブログも震災10年を受けて、被災地での活動を通じてこの10年間で ぬえが感じたことを綴ってきたわけですけれども、なんせ更新が遅くて申し訳ないことです。そうこうしているうちに11年目の3.11が巡ってくるわけで、ぬえも今その準備を進めているところですが、それまでにこの記事も完結しておかないと。
そういうわけでこれが最後の話題になると思いますが、ぬえが被災地で出会った様々なボランティアさんについてお話ししておこうと思います。
ぬえが初めて被災地を訪れたのは2011年の6月のことで、震災からすでに3カ月が経過していました。当時も大勢の、個人や団体のボランティアさんが集っていて、大きな団体のメンバーはゼッケンをつけて、それこそ蟻がむらがるように被災家屋に取りついて作業をしていました。ぬえがお手伝いをした避難所ではインカムをつけて連絡を取り合いながら若者が忙しそうに支援物資を運んでいました。
ぬえが聞いたところではボランティアさんが集まった最初のピークはこの年のGWだったそうで、ぬえが訪れたときはすでにそのピークは終わっていました。避難所となった小学校のプールには車が突っ込んでいたそうですが、ぬえはそれは見ていません。が、それでも泥掻きやら家屋の片付け、避難所の運営など、ボランティアの仕事は長期間に渡って見ることができました。
それぞれ大変な力作業だと思います(ぬえは体力的な問題で泥掻きはしませんでした)が、泥掻きといえばこんな話も。。被災した魚市場や加工場の片付けでは、泥の中からたまに加工製品が詰められた袋が現れるのだとか。うっかりこれを乱暴に取り扱って袋が破れたら大変なことに。。 すでに中身の加工食品は腐敗していますので。。 こういう現場で作業するボランティアさんたちはその「危険物」の袋を「やさしーヤツ」とか呼んでいました。優しく取り扱わなければならないヤツ、って意味でしょうね(笑)
さて本題は、その年の夏頃でしょうか、こうしたボランティアの多くが役割を終えて撤退していく中で、その後も長く被災地に留まって活動を続けた個人や(小規模の)ボランティア団体がいたことです。ぬえたちは1~2カ月おきに被災地を訪れていましたから、こうした人たちと自然に交流ができあがっていきました。
石巻では避難所に常駐するボランティア団体の活動の手伝いをしながら自動車整備をしていた人が、その後適正な価格で被災者に中古車を販売するようになり、ついに石巻に住みついて自動車販売と整備工場を立ち上げました。ご本人に伺ったところ住民票どころか本籍地も石巻に移したとのこと。本気です。その後市民の女性と結婚されたそうです。
同じく石巻で避難所で自転車の整備をしていた人がいて、この人は子どもの自転車や大人でもちゃんと自転車のメンテナンスをしている人には無償で修理をしていました。面白いのはこの人はイラストを描くのが得意で、その後石巻にとどまらず被災地各地の仮設商店街などで倉庫の壁などでこの人が描いたイラストを見たこと。あ、あの人、ここまで来ていたんだー! いつか東北に自転車トレイルの道路を作るのが夢、と語っていたのが印象的です。
女川町では仮設住宅の運営をしていたボランティアさんの話を聞いて驚きました。もとよりボランティアは衣食住のすべてを自分で賄って、当時自衛隊が被災者に配布していた食料も受け取らない人が多かったのですが、この人はそれが徹底していて、災害発生直後に女川町に入って、なんとその後半年間テントで暮らしていたのだそうです。その後献身的な活動が行政の目に留まり、町の臨時職員として起用されて仮設住宅の運営に携わっているのだとか。
なぜ女川町に? とこの人に聞いたことがあるのですが、震災当時隣町の石巻市には数百人? のボランティアが集っていたのに対して女川町には数名程度しかいなかった由。「大勢がいる所に行ってもあまり意味がないと思って。。」と話されていましたが、その後この方は被災者の女性と結婚して当時その女性が住んでいた仮設住宅に住むことになったそうで、ああ、少し住環境が向上しましたね(笑)。今も女川町に住んでいて、地域振興に尽力しているお話を伝え聞いています。
このブログも震災10年を受けて、被災地での活動を通じてこの10年間で ぬえが感じたことを綴ってきたわけですけれども、なんせ更新が遅くて申し訳ないことです。そうこうしているうちに11年目の3.11が巡ってくるわけで、ぬえも今その準備を進めているところですが、それまでにこの記事も完結しておかないと。
そういうわけでこれが最後の話題になると思いますが、ぬえが被災地で出会った様々なボランティアさんについてお話ししておこうと思います。
ぬえが初めて被災地を訪れたのは2011年の6月のことで、震災からすでに3カ月が経過していました。当時も大勢の、個人や団体のボランティアさんが集っていて、大きな団体のメンバーはゼッケンをつけて、それこそ蟻がむらがるように被災家屋に取りついて作業をしていました。ぬえがお手伝いをした避難所ではインカムをつけて連絡を取り合いながら若者が忙しそうに支援物資を運んでいました。
ぬえが聞いたところではボランティアさんが集まった最初のピークはこの年のGWだったそうで、ぬえが訪れたときはすでにそのピークは終わっていました。避難所となった小学校のプールには車が突っ込んでいたそうですが、ぬえはそれは見ていません。が、それでも泥掻きやら家屋の片付け、避難所の運営など、ボランティアの仕事は長期間に渡って見ることができました。
それぞれ大変な力作業だと思います(ぬえは体力的な問題で泥掻きはしませんでした)が、泥掻きといえばこんな話も。。被災した魚市場や加工場の片付けでは、泥の中からたまに加工製品が詰められた袋が現れるのだとか。うっかりこれを乱暴に取り扱って袋が破れたら大変なことに。。 すでに中身の加工食品は腐敗していますので。。 こういう現場で作業するボランティアさんたちはその「危険物」の袋を「やさしーヤツ」とか呼んでいました。優しく取り扱わなければならないヤツ、って意味でしょうね(笑)
さて本題は、その年の夏頃でしょうか、こうしたボランティアの多くが役割を終えて撤退していく中で、その後も長く被災地に留まって活動を続けた個人や(小規模の)ボランティア団体がいたことです。ぬえたちは1~2カ月おきに被災地を訪れていましたから、こうした人たちと自然に交流ができあがっていきました。
石巻では避難所に常駐するボランティア団体の活動の手伝いをしながら自動車整備をしていた人が、その後適正な価格で被災者に中古車を販売するようになり、ついに石巻に住みついて自動車販売と整備工場を立ち上げました。ご本人に伺ったところ住民票どころか本籍地も石巻に移したとのこと。本気です。その後市民の女性と結婚されたそうです。
同じく石巻で避難所で自転車の整備をしていた人がいて、この人は子どもの自転車や大人でもちゃんと自転車のメンテナンスをしている人には無償で修理をしていました。面白いのはこの人はイラストを描くのが得意で、その後石巻にとどまらず被災地各地の仮設商店街などで倉庫の壁などでこの人が描いたイラストを見たこと。あ、あの人、ここまで来ていたんだー! いつか東北に自転車トレイルの道路を作るのが夢、と語っていたのが印象的です。
女川町では仮設住宅の運営をしていたボランティアさんの話を聞いて驚きました。もとよりボランティアは衣食住のすべてを自分で賄って、当時自衛隊が被災者に配布していた食料も受け取らない人が多かったのですが、この人はそれが徹底していて、災害発生直後に女川町に入って、なんとその後半年間テントで暮らしていたのだそうです。その後献身的な活動が行政の目に留まり、町の臨時職員として起用されて仮設住宅の運営に携わっているのだとか。
なぜ女川町に? とこの人に聞いたことがあるのですが、震災当時隣町の石巻市には数百人? のボランティアが集っていたのに対して女川町には数名程度しかいなかった由。「大勢がいる所に行ってもあまり意味がないと思って。。」と話されていましたが、その後この方は被災者の女性と結婚して当時その女性が住んでいた仮設住宅に住むことになったそうで、ああ、少し住環境が向上しましたね(笑)。今も女川町に住んでいて、地域振興に尽力しているお話を伝え聞いています。