ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

研能会初会(その7)

2007-01-31 07:58:54 | 能楽
幽玄堂さま、つきのこさま、コメントありがとうございました。おかげさまで姫も順調にご快癒あそばされ、ぬえもひと安心というところでございます~~ (#^^#)


さて「翁」と「千歳」の装束の着付けは、しばしば装束の間を閉め切って、楽屋の中にも非公開にして行われます。このような措置は『道成寺』から奥の習いの曲ではしばしば行われます。もっともこれらの曲の着付けに特別な仕掛けがあるワケではなくて、曲に敬意を表して、扮装するところを秘するのでしょう。その意味では『葵上』や『善知鳥』の方がよっぽど秘すべきような秘訣が着付けに施されていると思いますけれども。

でも、ぬえの師家では『翁』の時には、胴着(←装束の下に着る厚い綿入れの下着)も「翁用」というものがあって、『翁』のシテを勤められる時にしか使いません。これまた特別な胴着なのではなくて、『翁』以外には使わない、という胴着が別に用意してあるのです。これも『翁』という曲をを尊重して、普段上演する能と別扱いしているのでしょう。

かくして「翁」「千歳」の装束の着付けが終わる頃、ようやく開場時刻となり、お客さまが見所に入られます。まさかもうこの頃には準備万端出来上がっているとは、お客さまはご存じないと思いますですね~。そして開演15分前、楽屋では開演前の最後の儀式が執り行われます。この儀式、私たちは普通に「盃事」と呼んでいますが、本当はなんて言うんだろう。あえて名前はつけられていないのかも知れませんが。

いわく、開演前のあらかじめ決めておいた時刻に(当家では開演15分前)に囃子方・狂言方・地謡は鏡の間に集合します。普段の能のように(もちろん開演よりずっと前の時刻に)囃子方はお調べを奏し、一方その頃シテ方のふたりの後見は、「翁飾り」に切り火を切って、粗塩と洗米が載せられた三宝と錫口を手分けして持って、登場する各役に「盃事」の儀式を開始します。

さてその手順は。。後見の一人は御神酒を入れて「翁飾り」の最上段に飾った錫口から口に飾った奉書を取り除いて持ち、もう一人は三宝を持ちます。もちろん「翁飾り」からこれらの品物をおろす際には切り火を切ってから作業を行います。そして後見はまず翁役の役者の前に行き、「盃事」が始まります。

後見が錫口と三宝を持って近づいてきたなら、役者は後見に会釈して、三宝に載せられている土器(かわらけ=薄い皿状の盃)を取ります。後見の一人が、錫口に入った神酒を土器に注ぎ、役者はこれを三口で飲み干します。空になった土器は三宝に載せられた懐紙の上に伏せて滴を取り、次の役者のために再びもとの位置に戻します。

続いて役者は同じく三宝の上に載せられている粗塩をひとつまみ右手に、洗米を左手に取り、粗塩を自分の身に振りかけて身を清め、洗米を口に入れて、再び後見に会釈をすると後見は次の役者の前へ移って行きます。この「盃事」は翁の役者から始めて、三番叟、千歳、笛、小鼓頭取、脇鼓、大鼓、(太鼓)、狂言方後見、地謡の順番に、まったく同じ作法で進められます。最後にはこの「盃事」の介添えをしていたシテ方後見もお互いに手助けしあって、同じ作法で行います。

こうして「盃事」が終わると三宝と錫口は「翁飾り」に戻され、切り火が切られます。

役者は「盃事」が終わると、役者一同は登場の順番に楽屋の中に並びます。長蛇の列になるので鏡の間には入りきらずに装束の間にまでおよび、最後尾の地謡は装束の間で出番を待つ事になります。もっともこの時に立っているのは「翁」の役者だけで、先頭の「面箱持ち」をはじめ、一同の役者は下に居ます。後見は「翁飾り」の最上段に飾られた面箱を先頭に座る「面箱持ち」に手渡し、このときに中に入れてある面の向きがわかるように環につけられた「こより」を外します。

後見はさらに幕の端を少し開けて、舞台に向かって切り火を切り、続いて役者一同に、さきほどの「盃事」と同じ順番で切り火を切っていき、役者は頭を下げてこれを受けます。

かくして上演の準備はすべて整い、幕をあげて役者が橋掛りに登場することになります。


研能会初会(その6)

2007-01-29 01:08:07 | 能楽
いまだに正月の松飾りの頃、8日に行われた師家の月並能・梅若研能会についてのご報告(および考察も。。)を行っております、気の長い ぬえ。『翁 法会之式』のご紹介もいまだ「翁飾り」のあたりを行ったり来たり、という状況で申し訳なく思っております。m(__)m

さてせっかく飾った「翁飾り」ですが、前述のように「翁」と「千歳」が身につけるもの、たとえば烏帽子や小さ刀などは装束の着付けの際には必要になるのですから、その時には「翁飾り」から取り去るのです。ちなみに『翁』の終演後には再び烏帽子などを「翁飾り」に戻してしばらく飾っておきます。つまり烏帽子や中啓、小さ刀まで設えられて完全な形で「翁飾り」があるのは、装束の着付けの前、および『翁』終演後のしばらくの時間、という、まことに短い運命なのです。

そんなわけで『翁』が上演されるときには、我々も普段より1時間近く早く楽屋入りをして、急いで「翁飾り」の支度をします。これがまた てんやわんや。本日の公演に使う装束や道具類を運び込んで、それを装束棚に並べ、さらに着付けの前の下準備を装束にしておく者あり(ぬえは開演前の楽屋では大概この仕事をしています)、『翁』の地謡・後見が着る侍烏帽子・素袍を並べる者あり、「翁飾り」に使う錫口や三宝や八足台を能楽堂の倉庫から運び込む者あり、その錫口に御神酒を注いだり、三宝に粗塩・洗米・肴を盛る者あり、さらに『翁』のほかの上演曲~今回は『楊貴妃』と『恋重荷』の作物を作る者あり。。

ちなみに師家では元旦の深夜に丹波篠山で行われる『翁神事』への出勤奉仕の際に地元の方から毎年大量の地酒を頂きまして、正月二日の師家での「謡初め」の直来や、この研能会初会の『翁』で使う御神酒には、すべて丹波の地酒を用いております。

あ、そうそう、話は飛びますが、丹波篠山は地酒のほかに牡丹鍋(猪の鍋)や丹波栗を使った「栗羊羹」が有名で、狂言の『栗焼』に出てくるのも丹波の栗ですな。これらを頂くのも丹波篠山での元朝の『翁神事』に出演する演者の楽しみ。装束を車に積み込んで大晦日に東京を出発する時には車の中には装束と紋付きを入れた演者個人のカバンぐらいしか積んでいないのに、帰りには頂いた地酒やら、演者がそれぞれ買った「栗羊羹」やら「猪肉」やら「鹿肉」やら「熊肉」やら、巨大な山芋やら、山椒おかきやら。。で車の中は一杯になります。

さて研能会初会に話を戻して。(^_^;

楽屋入りしてすぐに設えられた「翁飾り」ですが、開演の1時間前にはもう「翁」と「千歳」の装束の着付けが始まります。なんとお客さまが能楽堂にお入りになる開場時刻よりもはるか以前に着付けが始まるのです。これは『翁』に限り開演前に演者一同によって「杯事」が行われるため。「翁」と「千歳」の着付けが始まると「翁飾り」に飾ってあった烏帽子・中啓・(千歳の)小さ刀は「装束の間」に移されます。

このとき、「翁飾り」に飾ってある品物をそこから取り去るには、まず火打ち石で「切り火」を切ってから、それからはじめて「翁飾り」から品物を引くことができるのです。


                          ♪ ∩
   ∠∠∠☆ ぬえ&マリカ ☆・・・   γγ(.⌒p ⌒ ⌒

僕(しもべ)。。

2007-01-28 00:44:35 | 雑談
                            ∩∩
「もう。。怖いところに連れて行かない。。?」(ノ_・、)
「うん、うん、もう連れて行かないよ~」w(><;)
                 ∩∩
「お薬も飲まなくていい?」(;へ:)
「え。いや。。でもさ、お医者さんが。。」('◇'*)
      ∩∩
「。。。。」(/_;)
「はいはいっ!もうお薬ナシでも大丈夫!元気になってきたもんね~」( ̄x ̄;)
                  ∩∩
「チョコもいっぱいくれる?」(・_・、)
「チョコやお菓子、好きだもんね~。でもお医者さんが牧草にしなさい、って。。」(-。 -; )
      ∩∩
「。。。。」(;_:)
「。。。。」(00;)ドキドキ
                      ∩∩
「。。世界で一番美しいのは誰?」(’。’)
「あ、それは姫さまですぅ」(*^。^*)/
    ∩∩
「でも」(’。’)
「は?」(゜-゜)/
                          ∩∩
「魔法の鏡が“違います”って言ってるよ」(’。’)
「え」<;O_o>ヨケイナコトヲ
                               ∩∩
「森の中に住む白雪ナントカの方が美しいって」(’。’)
「え?それはグリム童。。」(¨;)
                           ∩∩
「七人の小人たちと暮らしているそうじゃ」(’。’)
「は。いや、たしかにそういうお話ですが。。」(--;)
                       ∩∩
「ええい、わらわより美しいとは。。」(’。’)
「。。。。」(-_-;)
             ∩∩
「何とかしてたも?」(’。’)
「。。。。」(-O-;)

「たも?」



「御意!」(*▼▼) _● ←毒リンゴ

。。というようなワケで (^^;) ご機嫌をとり続けてようやく姫のご機嫌もうるわしく、ほぼご快癒召されて ぬえもホッとひと安心しました。まだおフトンの中にはもぐり込んでこないけど、これはまあ、暖冬のせいだとしておこう。

次回より再びマジメなお話?をしたいと思っております。ああ、考えてみると正月8日の研能会初会の『翁』付き『楊貴妃』の考察がまだ途中だし、その後の愛知県豊田市能楽堂での『二人静』についても書きたいし、無事に完了した師家所蔵SP盤のデジタル化作戦の顛末もまだご報告していないし。。そうこうしているうちにどんどん日は過ぎて、また新しい話題も出てきてしまうし。。


                          ♪ ∩
   ∠∠∠☆ ぬえ&マリカ ☆・・・   γγ(.⌒p ⌒ ⌒


嫌われた。(;_:)

2007-01-26 01:37:26 | 雑談
おうちに帰ってもずうっと ぬえのベッドの下に入り込んで出てこないマリカ姫。何も食べないし何も飲まない。。何をあげても反応してくれないんで心配でした。水だけは、ときどき小さいお皿に入れてあげると飲んでくれるんだけど。。

それでも少しずつ具合が良くなってきたのか、部屋の中へ出てきてコテン、と横たわるようにもなってきました。いや、苦しいから横になる様子ではなくて、元気だった以前のようにリラックスして脚を投げ出している感じになってきて、やっと ぬえも安心してきました。

でも。。病院から渡されたシロップの飲み薬には「一日三回与えること」と書いてある。。やっとリラックスしてきた姫をヾ(^ )ナデナデしながら後ろ手に隠し持ったスポイトを瞬時に姫の口に。

ああぁぁぁ~~っ、姫は脱兎の如く逃げて行かれまする。姫~~ \(◎-◎)ノ
ああぁ、またしても姫は ぬえのベッドの下に。。

そおっと。。ぬえはベッドの下に手を差し伸べます。。ごめんね。。姫。
姫は。。鼻を鳴らして。。ぬえを怖がって。。おそるおそる撫でてみると、おとなしくしています。
。。でも、大きなその目が ぬえを見つめて。。その目が、言いました。。




「キライ。。。」(・_・、)

ああああああぁぁぁぁ~~~~っっっっ。。 へ(o_O)/ (O_o)/WAO!!!








   ‥‥……━☆




いま、姫はまた落ち着きを取り戻しています。ぬえもシロップ薬を姫にあげるのは諦めて。。でもようやく以前のように部屋の中を走り回る姿を見るようになってきました。ずうっと謝っていたら、姫もようやく以前のように ぬえに心を開いてくれるようになってきました。まだ牧草とか固形のペレットは食べないけど、菜っ葉なら喜んで食べてくれます。今日は ぬえが冷蔵庫を開けたとたん、姫はタタタ~~ッ!と ぬえの足もとに駆け寄ってきたし。(;_:)

ぬえは「ここだなっ」と思って、菜っ葉にシロップ薬を薄~~く塗ってみました。その菜っ葉をあげると姫は。。くんくんと匂いをかいで、そして。。プイッとあっちに行ってしまわれました。。


あああああぁぁぁぁ~~~っ (ノ><)ノ



                          ♪ ∩
   ∠∠∠☆ ぬえ&マリカ ☆・・・   γγ(.⌒p ⌒ ⌒

姫がケガ。。(/_;)

2007-01-24 19:11:35 | 雑談

恐れていた事が起きた。。姫がケガをしてしまいました。

この遅い正月休み、ぬえはマリカ姫と二人で海岸ちかくの家に逗留していました。いつもは東京の自宅の中、それも部屋や廊下やベランダだけを生活圏としている姫。だって姫はイヤがってヒモをつけさせてくれないから、公演に散歩に行くこともできません。

ところが、正月休みを過ごしたこの家では、テラスや庭では遊び放題。いまは亡き姫のお姉さんたちは怖がってテラスより外に出ることはなかったのですが…。ところが三代目になるいまの姫は探検家。姫がテラスで遊んでいるなあ、と思いながら ぬえが庭に出ていて、ふと振り返ってみると、いつのまにか姫が後ろについて来てる。(¨;)

そんな感じで物怖じしない姫を、ぬえは野生動物に襲われる心配はしつつ、遊び放題で外出させていたのです。それでも去年 ぬえが姫と二人でここで過ごしたときは、姫は外出したまま9時間も帰って来なくて。でも夕方にはちゃあんと帰宅していました。心配していたケガもなく、なんとなく ぬえもこれで安心してしまった。

ところが今回、姫は外出していたけれど ぬえも用事があって家を出ていました。姫が心配だから ぬえは早めに帰宅したのだけれど、日が暮れても姫が帰って来ない。。真っ暗になった夕方7時…ついに懐中電灯を片手に姫を探しに出たら…なんと隣の空き地の隅っこの藪の根元に姫がうずくまっていました。(;_;) 驚いて抱き上げてもおとなしくしてる…何か大変な事が起こったのだ、とようやく ぬえも気づきました。

部屋に戻っても、姫はうずくまったまま動こうとしない。よく見ると肩に小さなキズがある…(;_:) 甘かった。動物に襲われたのかも…? すぐに電話帳で探した動物病院へ駆けつけると、浅いキズはあるが、骨折などはない、とのことで、抗生物質と炎症を抑える注射、それに飲み薬を頂きました。それにお小言も…「このへんじゃワシもいるし、ハクビシンやタヌキ、野犬もいるんです。東京の感覚とはちょっと違うかもしれませんが。外に出すのは危険です」

噛みキズではなかったし、本当に動物の襲撃に遭ったのかはわからないのですが、ぬえはずうっと看病していて、早めに東京に連れて帰ってきました。姫はもうだいぶ元気も出てきたけれど、まだ以前のように元気にベッドの上に飛び乗って来たりフトンにもぐりこんでは来ない。。(/_;) 病院で頂いた飲み薬を朝晩あげていますが、これがまた姫はイヤらしく、ぬえはすっかり姫に嫌われてしまいました。。(ノ><)ノ

うう~~ゴメンよ、姫~ (T.T)
ぬえ、ずっと傷心の日々を送っております。。

                          ♪ ∩
   ∠∠∠☆ ぬえ&マリカ ☆・・・   γγ(.⌒p ⌒ ⌒

祝!禁煙31日目!

2007-01-19 19:41:39 | 日本文化

じつは ぬえ、ただいま遅~~い正月休みを頂いている最中でございまして。
昨日から茨城県は鹿嶋市のはずれにある、父が所有する家に滞在しております。ここは海のそば。耳を澄ませば太平洋の潮騒が聞こえてきます。海辺に出てみれば、今日は寒かったけれど波も穏やかで なんだかようやくのんびりした正月気分です。そして夜になると、とても東京じゃ見たことがないような満天の星空!なんだかトリップしてしまいそう。

鹿嶋市といえば鹿島神宮。ぬえは今年の6月に『春日龍神』を勤める予定があるので、昨日丁重にお参り致しました。そういえばこの元旦は丹波篠山で行われた師家の新年の恒例行事『翁神事』に参加しなかったので久しぶりに自宅で過ごしましたが、やはり年が変わったところで近所の神社に初詣に行くことにしました。このときも、『春日龍神』の事を考えて、近くの春日神社に詣でて、舞台の成功を願ったのです。近所の小さな社だし深夜1時だというのに、お参りするまで30分も並んじゃった。さすが初詣。でも「初詣」なんだからお参りは一年にいっぺんだけじゃいけませんぞ~。ま、ぬえだって人のことは言えず、ホントは深夜に神社にお参りしちゃイケナイし、神様には自分の欲望の成就をお願いするものではないんだけど。。

ともあれ ぬえ演じる龍神が守護する奈良の春日大社は、じつはここ、常陸の鹿島神宮を勧請して建立された神社なのですよねえ。日本の歴史の出発点である奈良にあって、しかも1000年以上ずうっと国政に関与し続けた世界的にも希有な藤原家の氏寺が、こんな東国から勧請された社だなんて。ずっと以前から疑問に思っている事なのですが、古代の文化の伝達のスピードはハンパじゃない。かつて長野の善光寺で催しがあった時に、楽屋に宛われた寺の一室に「白鳳時代の瓦」というものが保管されてあるのを見て腰が抜けそうに驚いた。このような近畿地方から遠く離れた山あいの地にそんな時代になぜ。。

ちと話題がズレましたが、今回は鹿島神宮に参拝し、新しいお札も頂戴して、ぬえもようやく新しい年を迎えた気がしています。いろいろな意味で、今年は ぬえにとって発展したり進歩する年であってほしいな。

ところで ぬえ、今日で禁煙を始めて とうとう31日目になりました。年末の研能会の楽屋で体調を崩して、年末年始はほとんど家から出なかった ぬえでしたが、この折に、「なんとなく」禁煙を始めたのです。これまでにも風邪をひいた時などノドが痛んでタバコを吸えない日もなかったワケではありませんが、なに、中学生時代から ン十年タバコを吸い続けた ぬえにとっては 1日/ン十年 など瞬時にしか過ぎないワケでして。ところが今回は、とくにノドが痛かったワケでもなく、いやホント、「なんとなく」禁煙を始めたのです。

世の中には名言があって、ぬえが聞いたのでは「禁煙なんて簡単だ。オレは何度もした事がある」というのは秀逸だと思いますが、それほど禁煙は難しいらしい。この先入観のおかげで、ぬえの場合はこれまでの ン十年間でそもそも禁煙しようと思った事がありませんで。そんなわけで今回「なんとなく」始めた禁煙も、これを続けるとしたらどれほど苦しいだろう、いや、どうせ無理だろうからひと月禁煙を成功させたらまた喫煙を始めよう、とイイカゲンにスタートをしたのです。ところが、これがなんと! ほとんど苦しむこともなく、もうすでに ひと月という禁煙の目標をクリアしてしまいました。なんなんだろう? ぬえの体質。

あ、付言しておきますが、誘惑に勝てたのは意志の力のためじゃないです。医者をしている ぬえの友人が「ナニ!禁煙を始めた?そうかそうか、それじゃこれがプレゼントだっ」と言ってニコチン・パッド(ニコチンを含んだ使い捨てパッドで、肌に貼って禁断症状を軽減する)の処方箋をくれました。3ヶ月かけて量を減らしていく、という趣向らしいのですが、ん~~でも もうすでに ぬえ、貼るのを忘れて一日過ごしちゃったりしてるけど。

研能会初会(その5=翁飾り。ぬえ、間違っていました)

2007-01-18 03:01:58 | 能楽
じつはいろいろと私事についてもご報告がありますのですが、まずは前回の訂正から。

ぬえ、ちょっと記憶違いがありました。
先日の豊田市能楽堂での催しの際に他門のS田氏から伺った話として、『翁』の楽屋に飾る「翁飾り」の家による違いについて ぬえは前回書きました。いわく、ぬえの師家では八足台を三段に組むのに、二段に飾る家もあること、その場合八足台に飾る品物の配置がかなり異なること。そして飾る品物についても「翁」「千歳」が着用する道具類~烏帽子・中啓・小さ刀~や、『翁』の出演直前に出演者一同が行う杯事の際に使う御神酒・洗米・粗塩まで異同がないのに、杯事には使わないもう一つの三宝に載せられている肴(神への供物?)には ぬえの師家のスルメに対してS田氏の師家では生の鯛を用い、梅若会でも同じく鯛であること。

ところがその後S田氏のブログを見ると、「翁飾り」の画像が載せられていて、そこには三宝に載せられた肴として「鰹節」が登場している。。ああ、そうだそうだ! ぬえが豊田市でS田氏から聞いたところでは、「うちでは鰹節を載せるんだ」と、たしかに聞いておりました。スルメがキマリだと思っていた ぬえは大いに驚いたのですが、そのときS田氏は追い打ちを掛けるように「他の会(おそらく観世会、という記憶が…)では鯛なんだよ」と。その刹那、混乱を深める ぬえにトドメを刺すように後輩が「梅若会でも鯛でした」と ぬえに言った、と。。これが真相。

ふうむ、それにしても「翁飾り」にはこんなに違いがあるのか~。しかし、ぬえの師家とS田氏の師家は姻戚関係。どうしてこんなに違いが? おそらく親戚として公私ともにごく近しい間柄にある時代には共通の認識であったものが、時代につれ実際の演能の場を異にする間に、次第に認識も離れていったものなのでしょう。「翁飾り」に飾る品物のうち、役者が身につける道具や、出演者一同が杯事に使う品物は変化しにくいとしても、「肴」の品物や八足台の段数などは時代により簡単に変わってしまうものなのでしょう。なるほど鯛や鰹節、寿留女はどれも縁起物。ここだけを押さえておけば、実際に使うわけではない「肴」に何が供えられていても諸役に不都合はないワケで、たかだか数十年の間に、これを用意するシテ方の都合によって変化してしまったものなのか。。

誰か、同年輩の能楽師がずっと以前に、修行中の ぬえに言った。「伝承なんて、所詮は“伝言ゲーム”みたいなものじゃないだろうか…」。。これは難しい問題です。その当時は彼も同じく修行中の身で、何か悩んでいたのかもしれないが、でも当時の ぬえはこれを認めたくなくて、この友人をその時には憎んでケンカになったものです。しかし『翁』という、最も神聖視される能であっても「翁飾り」の中で実演上には関係のない部分~八足台の段数、肴について、数十年の間にこうまで変化してしまうものだとすれば。。「翁飾り」だけを証拠にして論じたくはないのだが、いま ぬえは彼が言った事が正しかった、と認めるのにヤブサカではない。

しかしその後 ぬえは発見してしまったのです。伝承は長い歴史と共に崩れていってしまうものだ、ということなど、能楽を伝えてきた先人はとっくに承知しておられて、これをくい止めるための手段を(おそらく苦労のあげくに)用意されていたことを。これに ぬえが気づいたのは、『道成寺』を披いたときでした。(これについてはいずれお話する機会もあろかと。。)


研能会初会(その4=翁飾り、再び)

2007-01-15 07:42:37 | 能楽
ぬえです~。いま名古屋に逗留しております。

昨日は愛知県・豊田市能楽堂で師匠が『二人静』を勤められまして、ぬえはその地謡としてお手伝いさせて頂きました。その後 ぬえは何度かこのブログでも紹介させて頂いております師家所蔵のSP盤のデジタル化作業の総仕上げのために名古屋に残って、これが完了したいま、この画期的な計画の立案者である当地の能楽研究者・鮒さんと、業績の成果を見つつあることに祝杯を挙げておりました。本当に鮒さんの仕事は後世に残る業績だと思いますよ。いますぐには評価する人はなくてもね。

さてこのところこのブログでは『翁』についての話題を続けておりますが、昨日の豊田能楽堂での催しの際に楽屋で「翁飾り」について他門の能楽師と話す機会を得、そこで思いも寄らぬ発見がありましたので、今回はそのご報告をさせて頂く事と致します。

ぬえは先日のブログの記事で以下のように書きました。

さて楽屋ではまず鏡の間に「翁飾り」を設えるのですが、八足台と呼ばれる神社にあるのと同じ台を三段に組み、そのうえに真菰を掛けて…さてその上に『翁』に使う道具類を並べます。…最上段の面箱の左右には錫口(しゃっこう)と呼ばれる、御神酒を入れた大きなとっくりのような酒器を置き、その口には奉書を巻いて飾ります。中段には火打ち石、「千歳」が着ける小さ刀(ちいさがたな)、同じく「千歳」の侍烏帽子、翁烏帽子、翁扇、「千歳」が使う神扇を並べて置き、下段には二つの三宝を置きます。三宝にはそれぞれ半紙を敷き、ひとつの三宝にはスルメ、もう一つには土器(かわらけ)を三つ置きます。土器は一つは演者が開演直前に御神酒を頂くときにそれを飲むために使い、あとの二つには洗米と粗塩が盛られています。どちらもやはり御神酒を頂くときに演者が身体を清めるために使うのです。

ぬえは師匠や先輩に教えて頂いて、ずうっとこの祭式に則って「翁飾り」を楽屋に設えてきたのです。それももう20年近く…。ところが今日豊田市での催しの楽屋で他門の能楽師、やはりブログを書かれているS田氏と話していて、たまたま「翁飾り」の話題となったのですが。。これが ぬえの師家のやり方とまったく違う。。

いわく「翁飾り」の八足台は二段に組み、上段には中央に面箱、その向かって右に翁烏帽子、さらにその右の外側に中啓が飾られます。面箱の左側には「千歳」の侍烏帽子、小さ刀、そして火打ち石が配置されるそうです。下段には左右に錫口が置かれ、中央に二つの三宝が置かれる、とのこと。ぬえの師家のやり方とは、もうすでに八足台の段の数から違うわけですが、配置される品物の位置もまるで違う。。すると、この方の師家の「翁飾り」では上段に面箱と「翁」「千歳」が着る装束類、下段には開演直前に『翁』に出演する演者一同が御神酒を頂く儀式のための酒肴が置かれている、ということになります。

さらに驚かされたのは、この方の師家では下段に飾られる三宝に載せられる品物が ぬえの師家とは違うのです。この三宝の片方には上記のように土器・洗米・粗塩が置かれていて、これらは出演前に演者が御神酒を頂くときに使われます。問題はもう片方の三宝に載せられている品物=肴で、これは「翁飾り」に飾られるのみで演者が食するわけではないのですが、ぬえの師家ではスルメを置くのに対して、S田氏の師家では、なんとナマの鯛を飾るのだそうです(!)

そこまでの話を聞いてずうっとビックリしっぱなしだった ぬえでしたが、ここである後輩が口を挟みました。「梅若会でも翁飾りに鯛が飾られているのを私、見ました。。」ええっ!? するとS田氏「観世会でも鯛だよ」。。するとスルメ派である ぬえの師家は少数派。。?

ちなみに「翁飾り」に飾られた鯛は、終演後に演者が食べるのだそうです。ほえぇぇ~~。

でもさ、するってえと、能楽師の中には「よおしっ!年末にオレがでっかい鯛を釣り上げて、正月の『翁』にはそれを飾ってやるから。鯛は買うんじゃね~ぞっ」と言い出す方が絶対に出てくるな。。そんでもって、多くの場合、このような方は正月の初会には すごすごと元気なく出勤して、紋付きが入ったカバンからパック入りの鯛を出すんだろうな。。

ちなみにS氏は「年末に熱海で“狙った”んだけどさあ。。ボウズだった。。」という事でした。(あ、言っちゃいけなかった?)

研能会初会(その3=「法会之式」の詞章)

2007-01-14 00:23:50 | 能楽
前回「法会之式」の詞章と常の『翁』とそれとでは小異がある、という事をお話したのですが、じつはその小異のある詞章というのは「法会之式」に独特のものではありませんで、それどころか、むしろ“常の『翁』の詞章の方が独特”という不思議な言いかたの方が実態には合っているかもしれません。

観世流では『翁』にはたくさんの小書があります。いわく「初日之式」「二日之式」「三日之式」「四日之式」「十二月往来(じゅうにつきおうらい)」「法会之式」「父尉延命冠者」「弓矢之立合」「船之立合」…と、まあなんと9種類の『翁』があるのです。

現在、普通に『翁』を上演するときは、観世流ではこのうち「四日之式」で演じることになっていますが、これには理由があります。かつて江戸時代には勧進能や将軍宣下能など大規模な催しが行われて、その興業は数日~十数日も続くことがありました。それぞれの日には冒頭に必ず『翁』が演じられるワケですが、そのとき興業の初日には「初日之式」、二日目には「二日之式」というように毎日『翁』の演式を変えて演じたのです。そして「四日之式」を演じた翌日以降も催しが続く場合は、以後「四日之式」を繰り返して演じました。そうなると演者としては「四日之式」の演式で演じる機会が最も多くなる事になります。現在普通に演じられるのが「四日之式」で、それ以外は小書のような扱いになっているワケですが、言ってみれば「四日之式」は「初日之式」のバリエーションとも考えられるわけで、もともとは異式であったはずの演式が、演者に最も身近であったために、長い歴史の中でスタンダードの座を占めるようになったのかもしれません。

そして、前述した「法会之式」の場合の「翁」の文句「松や先、翁や先に生れけん」は「初日」「二日」「三日」の何れの演式の場合でも「翁」が謡う文句で、むしろ“常の”「四日之式」だけが例外となっています(「千歳」の文句「所千代までおはしませ…」の前後は、「初日」~「四日」まで少しずつそれぞれ変化を持たせた詞章となっています)。だから、「法会之式」に独特の詞章、という点を厳密に考えれば、それは「翁之舞」のあとに翁が謡う文句「萬歳の亀これにあり…」だけ、ということになってしまいます。そして、その“独特の詞章”と言うべきものが、仏教とはまったく関係がない詞章だ、という点にも注意するべきでしょう。

つまり「法会之式」とは“仏式に則った演式による『翁』”とは言えないのです。そして「法会之式」は現在では追善能の性格を持つ催しで稀に演じられるのですが、その詞章を見る限り、「法会之式」を含めた『翁』のすべての演式の場合が共通して「祝福」をテーマに持っているのは疑いようがなく、どうやら現代の演者が『翁・法会之式』に抱く“仏式に則った追善の『翁』”というイメージは正しいとは言いにくいようです。

タネを明かせば、じつはこの「法会之式」という演式は、主に奈良の多武峰(とうのみね)で行われた独特の演式が今日にまで伝えられて来たもの、と考えられているのです。多武峰といえば談山神社(たんざんじんじゃ)が有名で、ここが藤原鎌足を祀る神社であることはこのブログの『海士』の考察でも触れましたが、明治時代の廃仏毀釈までは妙楽寺という古い歴史を持つ寺と一体で、ここで行われた「八講猿楽」は興福寺・春日神社での祭礼能と同じく古くから猿楽(大和猿楽四座)の庇護者でもありました(『申楽談儀』は、結崎座(観世流の古名)に、近畿近辺に居ながら多武峰での催しに欠勤した者は座を追放する、という規定があったことを伝えていて、現在も「法会之式」を伝える観世流と多武峰との深い関係が想像できます)。

また多武峰は能の独特の演出が古くから発展した場所でもありました。それは本物の馬や実物の甲冑を舞台に登場させる、という驚くべきもので、その独特の演出は「多武峰様(よう)」と呼ばれていました(「多武峰様」での演能は京都の御所や、なんと宮中でも催され、元雅や音阿弥が舞った可能性が高いうえ、足利義教、義政のほか105代目の後奈良天皇も見物した公算が大きく、さらに上演曲の中には現行曲である『夜討曽我』も含まれています)。

このような特殊な環境の中で生まれた『翁』の異式「法会之式」が、関係の深かった観世流の中に今でも生き残っている事は、それがどこまで古式を伝えているかわからないにしても感慨深いものがありますね。多武峰に限らず神仏混淆の歴史が長い日本の文化の中で『翁』は、興福寺をはじめ寺での催しでもごく自然に上演されてきました。『翁』を“神道式”と括ってしまう事こそ、案外、現代人である我々の誤解なのかもしれませんね。

>みみこさん
研能会にご来場頂きましたうえにコメント頂きましてありがとうございます。
すみません、今回はちょっと難解なお話になってしまったかも。。m(__)m

研能会初会(その2=三番叟の錫杖)

2007-01-13 16:54:15 | 能楽
開場よりもずっと前に楽屋に設えられる「翁飾り」ですが、言うに及ばず、これはどう見ても神道式の祭壇ですよねえ。ところが今回の『翁』には小書が付けられていて、その名も「法会之式」。「法会」と言う以上仏教と何らかの関わりがあるのかと思いきや、普段の『翁』とこの「法会之式」との間には、この「翁飾り」を飾り付ける作法にも、また上演の際の演出の違いもほとんどないのです。

敢えて普段の『翁』との違いを考えてみると、最も大きな相違点はやはり「詞章」でしょうね。
千歳が二度ある「千歳之舞」の最初の舞を終えたところ、常には
千歳「君の千歳を経る事も、天つ少女の羽衣よ鳴るは瀧の水日は照るとも」
地謡「絶えずとうたりありうとうとうとう」…と謡うところ、「法会之式」の場合には
千歳「所千代までおはしませ」地謡「我等も千秋さむらはん」
千歳「鶴と亀との齢にて、所は久しく栄え給ふべしや鶴は千代経る君は如何経る」
地謡「絶えずとうたりありうとうとうとう」

…となり、また翁が謡う文句も少し変わってきます。常には
翁「ちはやぶる、神のひこさの昔より、久しかれとぞ祝ひ」地謡「そよやりちやンや」のところが、
翁「松や先、翁や先に生れけん、いざ姫小松齢くらべせん」地謡「そよやりちやンや」

…となり、「翁之舞」のあとにも普段にはない
翁「萬歳の亀これにあり、千年の松庭にあり、実にめでたき例には、石をぞ引くべかりける」
地謡「君が代は」…となり、これより小異ながら普段とほぼ詞章
翁「千秋萬歳の祝いの舞なれば…」

…に続きます。しかしながら型は「翁」も「千歳」も、これといって普段と大きな違いで演じておられるわけではないようでした。

ぬえはシテ方なので、このような違いはシテ方の領分しかわかりかねますが…。しかし舞台上で他のお役の方が演じておられる事をよく注意していたところ、諸役とも、やはり普段の『翁』とは微妙に違う点があるようです。小鼓の打出しの手が少し長くなったり…。しかし、大きな違いもないわけではありませんでした。それは「三番叟」が「鈴之段」で、鈴ではなく「錫杖」を持って舞ったのです。

「揉之段」のあと「面箱持ち」が「三番叟」に向かって「さあらば錫杖を参らせ候」とおっしゃったので、地謡に出ていた ぬえは聞き違いかと思ったのですが、「三番叟」に手渡されたのは、なんと錫杖の頭部の金具の部分でした。わかります? 錫杖の頭部に取り付けられている、金属の輪がいくつか付けられた金具で、ちょうど「三番叟」が普段使う鈴と同じような長さ。普通の錫杖の頭部の材質はその名の通り錫製だと思いますが、今回は金色で、遠目で見れば普段の鈴と見まごうもの。「三番叟」がこれを振ればやはり鈴と同じように鳴るのですが、その音色は錫杖らしく「シャラン!シャラン!」と、普段の「三番叟」では聞き慣れない音。

これが「法会之式」の際のキマリなのかどうか、「三番叟」役の野村萬斎氏に聞く機会はありませんでしたが、『翁・法会之式』で“仏式らしさ”を感じたのは、唯一この錫杖だけだったと思います。

研能会初会(その1=翁飾り)

2007-01-10 23:41:37 | 能楽

正月にもいろいろ催しがあって、ご報告が遅れ遅れになっております。どうぞご容赦ください~

さてこの正月9日の成人の日に研能会の初会がありました。番組は『翁』『楊貴妃』、狂言『鍋八撥』、能『恋重荷』でした。『翁』『楊貴妃』は休憩ナシに引き続いて上演されましたので、この2曲だけで上演時間は2時間50分、という驚異的に長大な上演となりました。演者も大変だったけれど、お客さんも根比べみたいなものではなかったでしょうか。。

この初会は研能会としては新年のめでたい催しなのですけれども、じつは今年は先代の師匠の「十七回忌」の年に当たっておりまして、研能会としましては、今年一年は「追善供養の年」と位置づけられております。この研能会新年の初会も、先代師匠の追善の催しでもあるのです。そんなわけで、普段の催しでは我々への出演料は祝儀袋に入った形で頂戴するのですが、この日の出演料は不祝儀袋に入れられて配られました。

この日の開演時刻は午前11時で、また『翁』がある時は楽屋の準備も大変なので、ぬえはこの日午前6時半に起床して、早めに楽屋入りをしました。正月の間は舞台にも鏡の間にも注連縄が張り巡らされていて、いつも清々しい気分になりますね。さて楽屋ではまず鏡の間に「翁飾り」を設えるのですが、八足台と呼ばれる神社にあるのと同じ台を三段に組み、そのうえに真菰を掛けて、さてその上に『翁』に使う道具類を並べます。最上段の中央に面箱を置きますが、この中にはすでに「翁」用の白式尉の面、「三番叟」の黒式尉の面、それに同じく「三番叟」が使う鈴(今回は鈴ではありませんでした!)が入れられています。このとき面箱の乳(面箱を封じる紐をつける環)の一方に紙のコヨリを結びつけておきます。これはすでに蓋を閉じてしまった面箱の外から見ても、中に入れられている面の上下がわかるように目印をつけておくので、面の鬚のある方、と楽屋では言い習わしていますが、つまりアゴの方に紙のコヨリを結びつけておくのです。

『翁』の開演の直前に後見が「面箱持ち(この役は「面箱」と呼ぶのが普通ですが、箱そのものと役名を混同しないように、ここでは便宜上こう呼んでおきます)」に面箱をお渡しするのですが、このとき「面箱持ち」が面箱を捧げ持ったときに、その中にある面の「鬚」の方を先にして登場するように、後見はよく注意して「面箱持ち」に渡し、このときに紙のコヨリは取り去ってしまいます。舞台上に持ち出された面箱は「面箱持ち」の手によって舞台笛座前に安座した「翁」役の前に据えられますが、このときシテの「翁」が面箱の中の翁面と正対するように、後見は楽屋に面箱がある時点から、その向きによくよく注意を払っているのです。

さて「翁飾り」に話を戻して、最上段の面箱の左右には錫口(しゃっこう)と呼ばれる、御神酒を入れた大きなとっくりのような酒器を置き、その口には奉書を巻いて飾ります。中段には火打ち石、「千歳」が着ける小さ刀(ちいさがたな)、同じく「千歳」の侍烏帽子、翁烏帽子、翁扇、「千歳」が使う神扇を並べて置き、下段には二つの三宝を置きます。三宝にはそれぞれ半紙を敷き、ひとつの三宝にはスルメ、もう一つには土器(かわらけ)を三つ置きます。土器は一つは演者が開演直前に御神酒を頂くときにそれを飲むために使い、あとの二つには洗米と粗塩が盛られています。どちらもやはり御神酒を頂くときに演者が身体を清めるために使うのです。

こうして「翁飾り」ができあがると、いよいよ「翁」と「千歳」の装束の着付けが始まります。こういう重い能の場合、装束の着付けは楽屋内でも秘する事があります。すなわち装束の間のふすまを閉め切ってしまって、後見と少数の楽屋働きの者以外は装束の間への出入りを禁止するのです。

(画像は「翁飾り」。画質が悪くて申し訳ありません。。)

謡初め

2007-01-08 23:06:58 | 能楽
今日は師家の定例公演「梅若研能会」の正月初会でした。今年初めての公式な演能会だったのですが、公式=フォーマルと考えるにしても、それにしてもフォーマルすぎた。。

『翁・法会之式』に引き続いて演じられた『楊貴妃』という超豪華? 演目の所要時間は。。なんと2時間50分でした。地謡に出ていた ぬえは。。いやはや。。年のはじめから いい夢見させて頂きました。。ヒザも笑ってめでたいお正月となりました~。。゛(ノ><)ノ ヒィ

なお『翁』と『楊貴妃』は引き続いて上演され、囃子方も地謡も侍烏帽子/素袍という姿だったのですが、『楊貴妃』は脇能ではないので『翁付』というワケでもない。いろいろと思ったことの多い演目だったのですが、それはまた次回に考察してみたいと思っています。

さて正月の恒例行事のレポート、今回は「謡初め」です。と言っても師家では毎年正月二日に行われるので、もう旧聞に属してしまいますけれど。。

世の中に「書き初め」「縫い初め」「笑い初め(初笑い)」「売り初め(初売り)」「仕初め(仕事始め)」「出初め式」があるように、能の世界にも「謡初め」があります。ぬえの師家では毎年元日に行っていたのですが、前述の丹波篠山での「翁神事」が始まり、それが恒例になってからは二日を謡初めの日と定めるようになりました。

それにしても「翁神事」の出演者は大晦日の早朝に東京を車で発ち、交代で運転をして午後遅くに現地に到着、準備を済ませてからひと休みをして、夕食後、午後10時に楽屋入り、深夜0時半より『翁』を上演、片づけのあと休憩をとってから深夜に現地を出発して、元日の朝に東京に帰って来るのです。丹波から東京への帰り道では、毎年ちょうど浜名湖に車が差しかかった頃に初日の出が見れるのですよねえ。もうこの強行スケジュールにも慣れてしまいました。

そんなわけで、師家での謡初めは、忙しく「翁神事」に出演した者の身体を気遣って、二日のちょっと遅め、午後2時から開始するのが恒例となっています。

年末に大掃除を済ませ、注連縄を張り巡らせたた師家のお舞台は、当然この謡初めの儀式が済むまで一切使用禁止となっています。そして定刻になると、まず師匠が『高砂』の仕舞を舞い、ついでその弟の師匠が『羽衣』の仕舞を勤めます。それが終わると門下の番で、先輩から順番に一番ずつ仕舞を舞っていくのです。師匠→弟子、先輩→後輩の順になるわけで、なんだか順序が逆のように感じられると思いますが、清められた舞台のうえで年の初めに芸をするわけですから、上位の方ほど先に舞台に立つことになるのです。能楽師がひと通り仕舞を終えると、最後に師範の方々が連吟を勤めて、これで無事に謡初めが終わります。所用時間はほんの1時間弱でしょうか。そのあとに一同盃を頂いて、今年一年の無事と公演の成功を祈念します。この上演の形態からすると、今はどちらかと言えば「謡初め」というより「舞初め」という方が似つかわしいとは思いますけれど。

ちなみに かつて、先代の師匠がおられた頃には、最初に師匠親子三人によって仕舞『弓矢立合』が演じられ、そのあと全員で『老松』を連吟しました。この頃の謡初めは15分もすれば終わってしまったな~

江戸期の将軍家でも謡初めは毎年正月二日に行われていたんですよね(のちに将軍家の忌日を重なったため三日に変更)。こちらは各流大夫による独吟・舞囃子のほか舞囃子『弓矢立合』が演じられていましたが、近年 東京・上野東照宮で観世・宝生・喜多の各流宗家の出演により復活されたのは記憶に新しいところ。何年間か続いたのですが、残念なことに今では再び廃絶してしまっておりますが。。

丹波篠山翁神事(その2)

2007-01-06 17:01:23 | 能楽
この篠山には「能楽資料館」があります。どういう経緯でそうなったのか、ぬえは知りませんが、ぬえの師匠は ぬえが入門するずっと以前から「能楽資料館」の館長の中西通氏と懇意でして、この関係から翁神事も始まったのでしょう。氏は古い面、装束や道具を収集されて「能楽資料館」に展示されておられるだけでなく、能面に非常に深い造詣をお持ちで、また面打ちを志して展示されている面を見学に訪れた人には能面を打つためのアドバイスをしたり、援助をしておられたようです。併設された「丹波古陶館」の館長も兼ねておられ、当地の焼き物・丹波焼にもお詳しかったようです。

ぬえの先輩には焼き物に詳しい方がおられて、まだ入門前の学生時代には師匠を通じて中西氏を訪ね、登り窯の見学にも行っておられました。う~~ん、こっちの世界はどうも。。ぬえって、焼き物だけは ちっとも分からない馬鹿者なんですよねぇ。。

さて、ぬえも師家に入門する前の学生時代の夏休み、師匠のお勧めでこの篠山を訪れて 有名な「デカンショ祭」を見物に行ったことがあります。「デカンショ祭」は、ようするに盆踊りのひとつなのですが、その規模と参加者の熱さがハンパではありませんでした。東京で言ったら「三社祭」のようなものだと思いますが、町の人々の思い入れはそれ以上かも。祭の前から地区ごと? に「あんどん」を作って、それを竿の先に飾り、篠山城趾の三の丸広場に組まれた やぐらの上で、これまた地区ごとに「デカンショ節」に合わせて「あんどん」を振りかざしてにぎやかに踊ります。どうやら「あんどん」の出来と踊りが審査されるコンテストでもあったらしいが真偽は不明。

ところが驚かされたのは「デカンショ節」の歌詞で、なんとその内容は「デカンショ、デカンショで半年暮らし~。あとの半年ゃ寝て暮らす~。ヨーイヨーイ デッカンショ!」という、まあなんともデカダンな。しかもこれが1番の歌詞だという。。ちなみに ぬえがその時に聞いた2番の歌詞は「いろは いろはと 習ったけれど~。はの字を忘れて 色ばかり~。ヨーイヨーイ デッカンショ!」というものでした。ああ、もうどうにでもなれ。

ところが実際にはこの歌詞は統一されていなかったらしく、近年「全国に知られる民謡デカンショ節の歌詞を統一しようと、1998年「デカンショ節100年記念事業実行委員会」(西尾昭委員長)は、数多くある歌詞の中から代表的な10ならびに20を選びました。」ということになったそうです(『篠山町ホームページ』より)。はあ、そうなんですか。勉強になりました。。(←ちなみにこのホームページも地方自治体のサイトとはとても思えないノリの良さ!)現在ではライブカメラを駆使して祭の様子をウェブ配信しているらしい。あいかわらず熱いデカンショ祭。。

あれ? 新年の話題のはずがいつの間にか夏のお盆の時期の話に。。おそるべし、デカンショの吸引力。。

丹波篠山翁神事

2007-01-03 17:05:13 | 能楽

ぬえは今回は欠席させて頂きました~。久しぶりに東京で迎えたお正月。

兵庫県丹波地方の篠山市は宝塚より少し北に位置する城下町で、デカンショ節と牡丹鍋で有名な小さな街です。JR福知山線の沿線なのですが、最寄り駅の「篠山口」からはバスを利用しないと行けない少々不便な立地のため、昔のものがよく残っていて、篠山城趾の周囲には馬隠しやら茅葺き屋根の武家屋敷群などが昔ながらの風情を今にとどめている静かな街でもあります。

ぬえの師家・梅若家は桃山時代まではこの地方を拠点にして活動していました。現代に残る能楽シテ方のうち喜多流を除く四流は「大和猿楽」と呼ばれて当初は奈良を基盤に、その後都に進出した流儀なのですが、ぬえの師家はそれとは系統を別にする「丹波猿楽」の伝統を今に伝えながら、現在は観世流の一員として活動しています。

このブログの開設当初にも書きましたが、ぬえの師家ではそんなご先祖様へ新年のご挨拶をし、今年一年の無事を祈念するために、毎年元朝にこの篠山市で『翁』を奉納しています。もうかれこれ20年以上になりますかね~。毎年大晦日の早朝に東京を車で出発して(経費もかかる事ですし、装束を運ばなければならないから、我々が交代で車を運転するのです)夕方に現地に到着、舞台の清掃をして夕食は名物の牡丹鍋をごちそうになって。そして夜10時頃に楽屋入りをします。そのうちにお囃子方も到着して、上演の準備をすすめているうちに日付が変わり、楽屋で「あけましておめでとうございます」。こんな事がず~~っと毎年続いています。現在では出演する師家の門下は輪番制になって、ぬえは昨年は久しぶりの「千歳」を勤めさせて頂きましたが、今年はお休みでした。しかし、シテを勤められる師匠や、小鼓の頭取を毎年勤められる大倉源次郎さんは、もう20年以上正月はこの楽屋で迎えている、という計算になります。

さて上演する能舞台は、昔ながらの屋外の舞台。それも当地の春日神社の境内に建つ舞台で、これは幕末の文久元年に建てられたものですから、150年ほどの歴史があることになります。このように保存状態のよい屋外の舞台は珍しく、先般 重要文化財の認定を受けました。もう師家もここでの上演も長いので、境内には師匠が『翁』を舞う姿の銅像まで建っているのですよね~。そして0時半に『翁』が演じられます。神社の境内は参拝客でごった返していて、能をご覧になっておられる人もあれば、ガランガランと鈴を鳴らして初詣をする人もあり、知り合いと出会って新年の挨拶を交わす人もあり。もうごっちゃごちゃで、それがまた能の原初の姿を見るようで、かえって厳粛な気持ちになります。舞台に出ている方は身体の芯まで凍ってしましそうですけどね。。



もうずっと以前になりますが、「ゆく年くる年」で生放送された事もありました。これは面白い体験でした。当日は早くから舞台で何度もリハーサルをするのですが、それはこの番組の中では日本中のあちこちの新年の風景を中継するので、そのうち我々の『翁』の順番がまわってくる時間がキッチリと、それこそ「0時3分46秒から4分54秒まで」というように定められているのです。演じる方も、やはりその時刻に『翁』らしい場面を放送して頂きたいから、リハーサルでタイムキーパーさんが細かく上演の様子を記録していて、その計測をもとにして、放映時刻にちょうど良い場面になるように開演時刻を調整したのです。

ところが。。やはり実演というものはリハーサルとまったく同じタイミングで進行させるなんて不可能に近く。とくにこの曲に特有の翁が舞台に登場する「翁渡り」や舞台正先での拝礼などは、どうしてもリハーサルより長短してしまいやすいところで、じつは本番では舞台の正面にくだんのタイムキーパーさんが陣取っていて、「もうすこし早く」「少しゆっくりめに」と書いた大きな紙を演者に見せていました。演者はそれを見ながら演奏を調整する、という、神ワザのような上演でしたが、本番では無事にシテが両袖を拡げて「君の千歳を経んことも…」の場面がちょうど放映されました。
(余談ですが、演者がホッとしたのもつかのま…舞台の正面の下にはお客さまの中からなぜか老夫婦が進み出て、うやうやしくシテにお辞儀をしたかと思うと、お供え物が載った三宝を舞台の先に乗せるではありませんか! あとで録画を見てみたらしっかりアップで写っていて、どうやらテレビ局の「演出」だったらしい。。)

ぬえの師家に入門した門下は、みなこのお舞台ではじめて「千歳」の役を披きます。みんなにとって思い出深い舞台なのです。ぬえが「千歳」を披いたときは、舞台に雪が降り込んできたものだが。。暖冬の影響で、いまではほとんど雪が降ることもなく、気温も高くて舞台に出るのもつらくなくなってきました。そして現在では高速道路が篠山市のすぐそばまで開通したので便利になりましたが、以前は三田で高速を下りてからずうっと山道を走って行ったのです。で、年に一度の上演だから、毎年必ず道に迷うという。(--;) 楽になったのは結構だけど、なんだかなあ、とも思います。

(画像はいずれも昨年の「翁神事」の様子。だって~ ぬえは今年は非番ですからあ)

新年あけましておめでとうございます

2007-01-02 21:45:03 | 能楽
あ、新年のご挨拶が遅れてしまいました。
今日は1月2日。謡初めを無事に済ませ、師家でも新年がスタート致しました。

このブログもようやく1年を迎えようとしています。昨年ご愛読頂きましてまことにありがとうございます。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。m(__)m

去年は ぬえにとっていろいろと転機の年だったと思います。
舞台では1月に丹波篠山(師家では元旦の深夜に祖先の故郷である兵庫県丹波地方の篠山市の春日神社で『翁』を奉納上演するのが恒例となっています)、および研能会の初会(その年はじめの例会)で『翁』のツレ、千歳のお役を頂きました。若者が勤める露払いの舞である「千歳」のお役を頂いたのは、じつに13年ぶり。しかも研能会では『翁付 賀茂・素働』という重い扱いの上演となり、ぬえは千歳と『賀茂』の後ツレ・天女の大役を勤めさせて頂きました。能だけで2時間50分の長大な上演でした(そのあとに脇狂言も付随したので、全体で3時間超。。)。

この丹波篠山での「翁神事」と研能会での『翁付 賀茂』のレポートとしてこのブログを開設したのが1月7日でした。あと5日でこのブログも1周年! もともとものを書くのは好きな方ですが、我ながらよく続いていると思っています。

ついで2月には同じく研能会で『鵜飼』を勤めましたが、これは久しぶりに自分でも納得の出来た能となりました。う~ん、やっぱり ぬえは切能が好き。その翌日には伊豆の国市に行き、夏の薪能で上演する「子ども創作能」の打合せをしました。これまた毎年恒例の 子どもたちとの楽しい交流が始まりました。

そしてその後、6月に師家の別会で大曲『朝長』を勤めさせて頂きました。年齢に似合わない大曲を勤める機会を頂き、師匠にも複数回の稽古をつけて頂きましたが、これは『道成寺』を披いた時以来のこと。猛烈に稽古も研究もしましたし、舞台ではなんとか大きなキズがなく終えられてホッとしました。自分でも思った通りの事はできたと思いますし、それほど酷評も聞こえてこないから、まあ、無事でよかった。。というところでしょうか。このブログで『朝長』という曲について考察を試みましたが、合計36回という長大な連載になりました。ぬえがおシテを勤めたのは、このほか11月に研能会で『海士』のお役を頂いた計4回となりました。

7月に伊豆の国市で恒例の「狩野川薪能」があり、ぬえらが作った「子ども創作能」『江間の小四郎』と、そのあとに玄人による能『船弁慶・前後之替』が上演され、ぬえは子ども能の地謡の後見と、『船弁慶』の後シテを勤めました。『船弁慶』の子方も地元の小学生・マリナに勤めてもらったのですが、これまた毎年のことながら、小学生がプロの舞台に立つまでには いろんなドラマがありました。もう今年の薪能の計画も進行していますが、毎年この催しは ぬえに本当に力をつけてくれます。

同じく7月に「ぬえの会」サイトを立ち上げました。もう、苦節何年。。という悲願のサイト開設でしたが、あんまり更新していにゃい。。すみません。m(__)m

また ぬえの周囲でも大きなイベントが多かった年で、なんと言っても師匠が11月に『檜垣・蘭拍子』を披かれた事が最も大きなものだったと思います。そのほかにも ぬえも千葉県や近所の小学校など、能楽ワークショップの機会も多かった。結婚式も、8月に福岡、10月に広島と、遠方にお招き頂いた機会が多かった珍しい年です。あ、そうそう、10月に素人会にお邪魔した京都ではじめて「え~~、アナタが ぬえさんなんですか~~!?」と言われたのもビックリ。

今年もすでにあちこちの催しや計画が動き出しています。とくに今年は自分の主宰会「ぬえの会」を催させて頂き、『井筒』を勤める予定でおります。また、他流からご指名を頂いて鎌倉で『隅田川』を勤めさせて頂くなど、晴れがましいお舞台もあって、少々緊張気味のスタートを切った年となりました。

今後ともどうぞ末永くお引き立て頂きますよう、お願い申し上げますとともに、みなさまにとって良い一年でありますように祈念申し上げます~ m(__)m