さて「能楽の心と癒やしプロジェクト」は震災の3カ月後に ぬえが避難所でお手伝いをしたところから活動が始まり、翌月には笛の寺井宏明さんや、当初は狂言の大蔵千太郎(現・彌太郎)さんらとともに能楽師有志団体としての慰問活動を開始することになり、それから10年間に及んで避難所や仮設住宅、仮設商店街、地元の寺社などで能楽の上演を続け、また毎年3.11の震災の日には ありがたいことに10年間1度も欠かすことなく発災を告げるサイレンに合わせた1分間の黙祷のあとのタイミングで奉納上演を続けることができております。
能楽師有志が集まれば能楽の上演は簡単なようにも思えますが、じつは能楽界のしきたりというものもあり、難しい面もあります。震災当時、あの惨状をテレビで見た日本の国民全員が少なからず心に傷を負ったと思います。その後多くの方が義捐金を募金したり、中にはボランティアとして現地に赴いた方も多かったと思いますし、ぬえもその中の一人としていても立ってもおられず被災地に行った一人だったわけですが、今になって冷静に考えてみれば、被災地での能楽の慰問上演は能楽師としては完全にフライングだったと思います。なんせ必要な役者の人数を集めた上演ではなく笛と二人きりでの略式で部分的な上演、それも会場は能舞台ではなく津波が襲って汚れた体育館や、後には仮設商店街などの駐車場のアスファルトの上で上演するのですから。。
このように不完全な形で能楽を上演する場合には、事前に師匠や ぬえが所属する流派。。観世流の宗家の許可を得ることが必要なのです。ところが前述の通り ぬえは個人として避難所のお手伝いとして清掃をしに行き、そこではからずも能楽師として慰問上演という支援方法があると知って、東京に帰ってすぐ仲間の能楽師と相談し、みんなで慰問に行こう、と話がまとまったのです。当時舞台も自粛で師匠とお会いする機会もなく、慰問の計画は仲間の能楽師だけで興奮気味に進めてしまい。。
しかし単発のつもりでいたこの1回目の慰問上演は大変喜んで頂き、現地に常駐するボランティア団体からも次の活動を望まれて、ここでようやく師匠に報告をし、また観世流のご宗家にも不完全な形での上演をする旨の届け出を(おっかなびっくり)提出したのでした。
ところが。忘れもしない、届け出をしたひと月ほど後のことです。
ぬえの師匠家の催しで、渋谷の観世能楽堂(当時)に出勤した折、楽屋に入る前にいつものように能楽堂の事務室に気軽に挨拶に入ったところ。。そこに観世清和宗家がおられました(!!)
清和宗家は、ぬえを見るとすぐにこうおっしゃいました。
「ぬえ君、届け出ありがとう。笛の寺井君も僕に挨拶に見えてね。熱い情熱をもって被災地の事を語ってくれた。被災地の状態はどう? 胸を張って活動を続けなさい! 僕も普段の食事は(風評被害が出ている)福島県の米を取り寄せて食べているんだよ。」
。。この時は ぬえは涙が出そうでした。
寺井さんもすでに ぬえより前に清和宗家にご挨拶されていたのも知りませんでしたが、あとで聞けば寺井さんは父君を伴って、かなり真剣に被災地支援活動のお許しをご相談されたのだそうです。
それにしても。。 ぬえたちのこんな「変な」上演、しかも無許可のフライング上演をお許しになった師匠と、さらには叱られるかも、とまで思った観世清和宗家から、ここまで温かいお言葉を頂けるなんて。。こんな寛容な師匠・こんな心美しい宗家の下にいた事に気づかない ぬえは愚か者で。。幸せ者です。
観世清和宗家ご自身もその後2013年に被災地・石巻で小鼓大倉流宗家の大倉源次郎さん(現・人間国宝)とご一緒に奉納上演しておられます。それどころか、今年の3.11の震災10年目の今年3月 ぬえが被災地支援活動を行って東京に帰った直後、清和宗家が皇居外苑で「日本博」の一環として震災の復興を祈る上演をされたとの新聞記事を見ました(!) あの後清和ご宗家と震災についてお話したことはないけれど、10年を経てまだ ぬえと同じように被災地のことを思い続けてくださっていたとは。。
このような大規模な、というか本来あるべき正式な上演と比べて ぬえは言わば「草の根」の活動しか
できていないわけですが、それでも流儀や師家が被災地を思うお心を知って、そのお手伝いができれば良いな、と考えております。
ところで。。 清和宗家が ぬえに声を掛けてくださったあのとき。。考えすぎかもしれませんが、ご宗家は ぬえの届け出を読んでわざわざ観世能楽堂に ぬえにお言葉を掛けるために出向いてくださったのかも。。? と思っております。
いや、考えすぎかな。 たまたまご用事があって ぬえの師家の公演日に事務所にいらしただけかも。でも。。後にも先にも、ぬえの師家の公演の日に能楽堂の事務所にご宗家がいらしたことは、この30年間であの1日きりだったのです。少なくともご用事があっていらしたとしても、ぬえたちが楽屋入りする時間まで、もしわざわざお待ちになって下さったのだとしたら。。 ぬえ、泣いちゃいますよ。。
能楽師有志が集まれば能楽の上演は簡単なようにも思えますが、じつは能楽界のしきたりというものもあり、難しい面もあります。震災当時、あの惨状をテレビで見た日本の国民全員が少なからず心に傷を負ったと思います。その後多くの方が義捐金を募金したり、中にはボランティアとして現地に赴いた方も多かったと思いますし、ぬえもその中の一人としていても立ってもおられず被災地に行った一人だったわけですが、今になって冷静に考えてみれば、被災地での能楽の慰問上演は能楽師としては完全にフライングだったと思います。なんせ必要な役者の人数を集めた上演ではなく笛と二人きりでの略式で部分的な上演、それも会場は能舞台ではなく津波が襲って汚れた体育館や、後には仮設商店街などの駐車場のアスファルトの上で上演するのですから。。
このように不完全な形で能楽を上演する場合には、事前に師匠や ぬえが所属する流派。。観世流の宗家の許可を得ることが必要なのです。ところが前述の通り ぬえは個人として避難所のお手伝いとして清掃をしに行き、そこではからずも能楽師として慰問上演という支援方法があると知って、東京に帰ってすぐ仲間の能楽師と相談し、みんなで慰問に行こう、と話がまとまったのです。当時舞台も自粛で師匠とお会いする機会もなく、慰問の計画は仲間の能楽師だけで興奮気味に進めてしまい。。
しかし単発のつもりでいたこの1回目の慰問上演は大変喜んで頂き、現地に常駐するボランティア団体からも次の活動を望まれて、ここでようやく師匠に報告をし、また観世流のご宗家にも不完全な形での上演をする旨の届け出を(おっかなびっくり)提出したのでした。
ところが。忘れもしない、届け出をしたひと月ほど後のことです。
ぬえの師匠家の催しで、渋谷の観世能楽堂(当時)に出勤した折、楽屋に入る前にいつものように能楽堂の事務室に気軽に挨拶に入ったところ。。そこに観世清和宗家がおられました(!!)
清和宗家は、ぬえを見るとすぐにこうおっしゃいました。
「ぬえ君、届け出ありがとう。笛の寺井君も僕に挨拶に見えてね。熱い情熱をもって被災地の事を語ってくれた。被災地の状態はどう? 胸を張って活動を続けなさい! 僕も普段の食事は(風評被害が出ている)福島県の米を取り寄せて食べているんだよ。」
。。この時は ぬえは涙が出そうでした。
寺井さんもすでに ぬえより前に清和宗家にご挨拶されていたのも知りませんでしたが、あとで聞けば寺井さんは父君を伴って、かなり真剣に被災地支援活動のお許しをご相談されたのだそうです。
それにしても。。 ぬえたちのこんな「変な」上演、しかも無許可のフライング上演をお許しになった師匠と、さらには叱られるかも、とまで思った観世清和宗家から、ここまで温かいお言葉を頂けるなんて。。こんな寛容な師匠・こんな心美しい宗家の下にいた事に気づかない ぬえは愚か者で。。幸せ者です。
観世清和宗家ご自身もその後2013年に被災地・石巻で小鼓大倉流宗家の大倉源次郎さん(現・人間国宝)とご一緒に奉納上演しておられます。それどころか、今年の3.11の震災10年目の今年3月 ぬえが被災地支援活動を行って東京に帰った直後、清和宗家が皇居外苑で「日本博」の一環として震災の復興を祈る上演をされたとの新聞記事を見ました(!) あの後清和ご宗家と震災についてお話したことはないけれど、10年を経てまだ ぬえと同じように被災地のことを思い続けてくださっていたとは。。
このような大規模な、というか本来あるべき正式な上演と比べて ぬえは言わば「草の根」の活動しか
できていないわけですが、それでも流儀や師家が被災地を思うお心を知って、そのお手伝いができれば良いな、と考えております。
ところで。。 清和宗家が ぬえに声を掛けてくださったあのとき。。考えすぎかもしれませんが、ご宗家は ぬえの届け出を読んでわざわざ観世能楽堂に ぬえにお言葉を掛けるために出向いてくださったのかも。。? と思っております。
いや、考えすぎかな。 たまたまご用事があって ぬえの師家の公演日に事務所にいらしただけかも。でも。。後にも先にも、ぬえの師家の公演の日に能楽堂の事務所にご宗家がいらしたことは、この30年間であの1日きりだったのです。少なくともご用事があっていらしたとしても、ぬえたちが楽屋入りする時間まで、もしわざわざお待ちになって下さったのだとしたら。。 ぬえ、泣いちゃいますよ。。