ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

陸奥への想い…『融』(その14)

2013-09-30 13:25:38 | 能楽
前シテの名所教え…ロンギにまで続くこの長大なワキとのやりとりが、じつはそのほぼすべてが和歌を下敷きにした、いわば歌枕を目の前にして、お互いの和歌の知識の共有を確かめ合う問答なのですね。

具体的に例を挙げると、

ワキ「ただ今の御物語に落涙仕りて候。さて見え渡りたる山々は。皆名所にてぞ候らん御教へ候へ。
シテ「さん候皆名所にて候。御尋ね候へ教へ申し候べし。
ワキ「まづあれに見えたるは音羽山候か。
シテ「さん候あれこそ音羽山候よ。
ワキ「さては音羽山。音に聞きつゝ逢坂の。関のこなたにと詠みたれば。逢坂山も程近うこそ候らめ。

…音羽山おとに聞きつつ逢坂の関のこなたに年を 経るかな(古今集・在原元方)
シテ「仰せの如く関のこなたにとは詠みたれども。あなたにあたれば逢坂の。山は音羽の峯に隠れて。この辺よりは見えぬなり。
ワキ「さてさて音羽の嶺つゞき。次第々々の山並の。名所々々を語り給へ。
シテ「語りも尽さじ言の葉の。歌の中山清閑寺。今熊野とはあれぞかし。

…和歌そのものではないけれど『平家物語』の高倉天皇と小督の悲恋物語が底流か。
ワキ「さてその末につゞきたる。里一村の森の木立。
シテ「それをしるべに御覧ぜよ。まだき時雨の秋なれば。紅葉も青き稲荷山。

…我が袖にまだき時雨の降りぬるは君が心に秋や来ぬらむ(古今集・読人不知)
…時雨する稲荷の山のもみぢ葉は青かりしより思い初めてき(古今著聞集)
ワキ「風も暮れ行く雲の端の。梢も青き秋の色。
シテ「今こそ秋よ名にしおふ。春は花見し藤の森。
ワキ「緑の空も影青き野山につゞく里は如何に。
シテ「あれこそ夕されば。
ワキ「野辺の秋風
シテ「身にしみて。
ワキ「鶉鳴くなる。
シテ「深草山よ。

…夕されば野辺の秋風身にしみて 鶉鳴くなり深草の里(千載集・藤原俊成)
地謡「木幡山伏見の竹田淀鳥羽も見えたりや。
地謡「眺めやる。其方の空は白雲の。はや暮れ初むる遠山の。嶺も木深く見えたるは。如何なる所なるらん。

…眺めやるそなたの雲も見えぬまで空さへ暮るる頃のわびしさ(源氏物語・浮舟)
シテ「あれこそ大原や。小塩の山も今日こそは。御覧じ初めつらめ。なほなほ問はせ給へや。
…大原や小塩の山もけふこそは神代のことも思い出づらめ(古今集・業平)
地謡「聞くにつけても秋の風。吹く方なれや峰つゞき。西に見ゆるは何処ぞ。
シテ「秋もはや。秋もはや。半ば更け行く松の尾の嵐山も見えたり


…ついつい文章そのままに読んでしまっていたこの名所教え~ロンギが、じつはすでにワキ僧の中に賈島の詩とその心を知る豊かな文学的趣味に、みずからのそれとの合致を見た汐汲みの尉…すなわち源融その人が興に乗ってワキに文学問答を仕掛けているのです。この場面、直前には荒れ果てた河原院の有様を嘆く尉の姿が描かれていて、場面の唐突な変化はよく指摘されるところなのですが、考えようによっては…先に賈島の詩に興味を示した尉に対して、その気持ちを奮い起こさせようと、ワキ僧は歌枕と承知のうえで都の景物をシテに尋ねた。。とも解釈することは可能かもしれません。つまり最初から名所教えとは「お上りさん」であるワキにシテが都の景物をガイドしているだけではない、とも考えられると思います。

いずれにせよ(まんまと?)シテはワキの問いに対して、その土地にまつわる和歌をちりばめながら紹介し、その喜びのような感情は次第に熱を帯びて、ついにワキの袖をつかまえてあちらこちらと引き回すかのような興奮状態へと進んでいきます。であるからこそ、「忘れたり秋の夜の長物語よしなや まずいざや汐を汲まんとて」と興奮からの覚醒する場面が鮮烈なのですし、そこから汐汲みの型の流れるような連続、田子を捨てて。。すなわち突如としてシテの姿が消え失せるような中入、と能の前半のクライマックスに向けて舞台が盛り上がるのです。この中入の場面の構成は、ホント、上手いなあ、と思います。

陸奥への想い…『融』(その13)

2013-09-27 04:35:24 | 能楽
観阿弥が催行した有名な今熊野の勧進猿楽(応安7または永和元年)で将軍・足利義満に見いだされたとき世阿弥は12歳。義満は世阿弥のわずか数歳年上で当時17歳でした。

義満が少年世阿弥を溺愛したのは著名ですが、義満は北山文化の中心人物として名高い文化人であり、『新後拾遺和歌集』を勅撰和歌集として編むよう後円融天皇に奏上するように和歌に関心が高い人物でもありました。じつは後円融天皇は義満より1歳年下で、奏上を受けたとき16歳でしたから、当時の朝廷や室町政権は同年代の天皇と将軍によって作り上げられた文化サロンの様相を呈していたようで、世阿弥は身分は低かったものの、その中で芸能者という特殊な立場で影響を受けたのでしょうし、彼らの文化的な指向に沿うような能を書くことを志したことでしょう。

義満の文化サロンに入った当時の世阿弥の年齢を考えるとき、そして世阿弥の長男・観世十郎元雅が38歳で亡くなっていることから『隅田川』『弱法師』など深い心理描写を描いた能が彼が20~30歳の年代に書かれた可能性があることも考え併せると、世阿弥が多くの能を書いたのは、義満が政治とともに文化的な活動を旺盛に行っていた20歳台の頃からであるでしょう。とすれば世阿弥の作能は10歳台から始まった可能性は強いと考えられます。三条公忠のように義満が世阿弥を寵愛するのを苦々しく思っていた古参の公卿がいる中、三条公忠よりもさらに年上ながら世阿弥を絶賛した二条良基は15歳の世阿弥を自邸での連歌会に呼んでその歌を称賛しましたが、その目的が義満に取り入る目的でもあっただろうとはいえ、すでに形を成した和歌を世阿弥が詠んだのは確実なわけで、世阿弥は寵愛を受けて堕落したのではなく、彼らの文化サロンの中で自らの才能を開花させて行ったのでした。

ぬえはねえ、『敦盛』は世阿弥がこの頃。。10歳台で書かれた能なのではないか、と考えているのです。世阿弥の能の中でもとりわけ平明な文体の『敦盛』は、世阿弥の中では試作的な位置にあった能であるように ぬえには思えます。そして、『高砂』『融』はそれに続く作品ではないでしょうか。それは構成が似通っている、という以上にこの2つの能には、和歌に対する傾倒という一致した傾向が見られるからです。

『高砂』は真ノ脇能と呼ばれ、武家によって尊ばれた『弓八幡』とともに脇能の中でも別格に大切にされている曲ですけれども、内容は脇能の中では異端で、神仏や寺社の縁起が語られるでもなく、また神威を礼賛するでもなく。。この曲の中で語られるのは、ひたすら和歌の徳の賛美なのです。一方の『融』も、一見すれば和歌はあまり現れていないようにも見えるのですが、じつは観客が和歌への知識を持っていることが大前提になっているかのように、多くの和歌が取り入れられているのでした。

ちょっと見ただけでも『融』の中には次の和歌がちりばめられています。

シテ「陸奥はいづくはあれど塩竃の… (古今集・東歌)
シテ「心も澄める水の面に照る月並みを… (拾遺集・源順)
シテ「君まさで煙絶えにし… (古今集・紀貫之)
ワキ「音羽山音に聞きつつ逢坂の… (古今集・在原元方)
シテ「大原や小塩の山も今日こそは… (古今集・在原業平)
アイ「塩竃にいつか来にけん朝凪に… (伊勢物語)
シテ「さすや桂の枝々に光を花と散らすよそほひ… (古今集・源施)

…が、一見してはそうは見えないものの、前シテの名所教えに続くロンギは、シテはすべて和歌を下敷きにして名所をワキに教えているのでした。

陸奥への想い…『融』(その12)

2013-09-24 22:21:02 | 能楽
先週、無事に『融』を終えることができました。偶然が重なって、公演日が中秋の名月その日に重なり、しかもそれは新暦によるズレもなく満月の日、台風一過も重なって見事な晴天にも恵まれました。この日の暦によれば月の出が17:22、日没が17:43で、公演終了が17:30頃でしたから、能楽堂から外へ出たお客さまは帰り道でちょうど中秋の名月をご覧になったことと思います。

併せて、この2年6ヶ月活動を続けている東北からも…気仙沼からも石巻からもお客さまがお見えになってくださいました。その上さらに、その石巻からのお客さまが、なんとこの公演当日がお誕生日だったという。

こんな偶然が重なった催しとなりましたが、ぬえとしても何年かぶりに楽しい。。と思いながら舞うことができた、収穫の多い出来となりました。微妙にセリフ3~4文字ほど間違えたのと、あとで「ちょっと元気良すぎじゃない~?」というお叱りの言葉を頂いたのですけれども、遊舞の曲ということで見た目の面白さが必要な曲と考え、早舞も「替ノ型」で勤め、汐汲みの例の場面も舞台の先に桶を下ろして汲み上げる替エの型の方にて勤めさせて頂きました。

ところでこの『融』という能を稽古してきて、いろいろ考えるところがあったのですが、とくに感じたのは、この曲は世阿弥の作品のうちでは比較的早く書かれたものではないか、というものです。

どなたか研究者が『融』の後シテの出について「修羅能の特徴を持っている」と書かれたのを読んだことがありますが、能楽師がおそらく全員が『融』の後シテに持っている印象は、修羅能ではなくて同じく世阿弥作が定説となっている『高砂』との相似でしょう。

『融』の後シテの登場場面のシテ謡と地謡のバランスや比率、組み立てられ方は『高砂』そのままですし、それに従って囃子の手組も似た構成になっています。舞の掛かり方こそ違え、これは『融』が遊舞の舞であることを強調するため、脇能である『高砂』とは意識的に違えて作られた作曲と思えますし、舞上げのあとのロンギの形式のキリは、脇能に類例は多いものの、やはり『高砂』との相似は否めますまい。それを以て言うのは傍証としては弱いかもしれませんが、やはり『融』は『高砂』と近い時期に書かれた能、と考えたいと ぬえは思っています。

もうこれ以上は妄想の領域になってしまいますが、文体の平明さ、主人公の心理の追求の深さ、など、世阿弥作とされているそれぞれの作品には少しく特徴があって、仮にその文章の修辞の深さや主人公の心理を描く筆致の深さ、人間観察の鋭さの違いを、そのまま世阿弥という人物が歳とともに書き重ねてきた作品に現れた人間的な成長がそのまま投影されているとしたならば、『融』や『高砂』は比較的早い段階で書かれた曲であり、これより以前に世阿弥作品の中では文章が最も平明な『敦盛』が先行し、これらの能に続いて『井筒』『鵺』(この2曲はもう少し早い時期の作品かも)や『松風』、『忠度』などが続き、もう少し遅れて『西行桜』などが成立し、さらにその後に世阿弥の晩年に近い作と考えられている『砧』があるのではないかという印象を持っているのです。

それでは世阿弥が何歳頃に『融』を作ったか、ですが。。もちろん「何歳のとき」なんて具体的なことはわかるはずもないのですが、ぬえは実は相当若年の時の作品なのではないかと思っています。

サスペンス・ドラマに出演(その4)

2013-09-24 00:53:49 | 雑談
フジテレビ系「金田一耕助vs明智小五郎」見ました~

。。と言っても9時直前まで国立市で稽古をしていて、帰りの車の中でワンセグをチラ見しながら。。

面を外すところは、計算した通りの雰囲気にできたんではないかなあ。あれほどコマ切れになるのなら続けて演じないで、一度撮影止めてもらって天冠着けるんだった。。とか、思うところはありますけれど。

それより、能の場面がちょうど終わったところで帰宅した ぬえ、テレビ画面を指さして開口一番「犯人はコイツだ~~~っ!!」と禁断のネタばらしの暴挙に出させて頂きました~。(^◇^;)

暴挙? いやいや、いつもの ぬえのそのままというか。。

放映中に伊豆からメールが来たので「オマエにも犯人教えてやろうか~~」と返信したら、「ぬえ先生がやっぱり犯人ですね!(笑) アップが二回もでたし重要人物間違いなしです」と。。負けた。

「犯人は。。ちょっとだけ出てた能楽師ですっ」「なるほど!。。なんで?」( ・o・)??

ところで、ツイッターで。。(ときどきしか見ていないのですけれども)。。なんとこのドラマの原作者さんと知り合ってしまいました! ぬえのアカウントに気づいてる方は見てみてください~

陸奥への想い…『融』(その11)

2013-09-18 07:04:01 | 能楽
いよいよ『融』の上演が明日に迫りました。。が、なんと明日は中秋の名月の日なのですね~!

中秋の名月は旧暦8月15日のことを言うのですが、今年は新暦でも満月に重なる偶然の一致。じつは2011年からこの偶然は3年間重なっているのですが、今年の中秋の名月を最後に、その日と満月が一致するのは8年後の2021年になるそうです。ぬえの師家の毎月の能の催しの中で、まさか中秋の名月のその日に月の能『融』を演じることになるとは、今日まで気づいていませんでした。。

早舞は正式五段、略して三段で舞われますが、早舞のようにテンポの速い舞は上演にさほど時間が掛からないためか最近は五段で舞われることが多いと思います。

舞上げはシテ柱で、シテは左右打込をして袖を払い、大小の謡頭(うたいがしら)という手を聞きながら一旦後ろを向いて型の区切りを見せ、地謡が謡い出すと正面に向き直ります。いよいよ終曲の部分になります。仕舞にもなっていますが、このところは見どころでもあり聞き所でもありますね~

地謡「あら面白の遊楽や。そも明月のその中に。まだ初月の宵々に。影も姿も少なきは。如何なる謂はれなるらん。
シテ「それは西岫に。入日のいまだ近ければ
とサシ込ヒラキ。その影に隠さるゝと七ツ拍子踏みながら正へノリ。たとへば月のある夜は星の薄きが如くなりと上を見ながらヒラキ
地謡「青陽の春の初めには。
と角へ行き
シテ「霞む夕の遠山。
と右上を見
地謡「黛の色に三日月の。
と脇座へ廻り
シテ「影を舟にも譬へたり。
とサシ廻シ
地謡「又水中の遊魚は。
と七ツ拍子正へノリ
シテ「釣針と疑ふ。
ヒラキ扇を高く上げ倒し
地謡「雲上の飛鳥は。
と扇を左手に取り角の方を見上げながらヒラキ
シテ「弓の影とも驚く。
扇を大きく返し下を見込み拍子踏み
地謡「一輪も降らず。
と扇を右に持ち直し大小前へ行き
シテ「万水も昇らず。
と小廻り
地謡「鳥は。地辺の樹に宿し。
と上を胸ザシ、正へ出、先にてノリ込み拍子
シテ「魚は月下の波に伏す。
と左袖を巻き上げ下居しながら枕扇
地謡「聞くとも飽かじ秋の夜の。
と袖を下ろし角へ行き
シテ「鳥も鳴き。
と脇座へ行き
地謡「鐘も聞えて
シテ「月も早。
とシテ柱の方へ少し出雲之扇
地謡「影傾きて明け方の。雲となり雨となる
とシテ柱へ行き脇座の方を見上げ七つ拍子踏み。この光陰に誘はれてと正へサシ。月の都に。入り給ふ粧ひと左袖を巻き上げシテ柱の方へ向き。あら名残惜しの面影や名残惜しの面影。とシテ柱にて小廻り、ヒラキ、右ウケ二足出、左袖を掛けて留拍子踏み、静かに幕へ引く

それにしても。。終曲に向かって全く勢いの衰えないこの文章は何なのでしょう。謡曲も様々にありながら、『融』のキリはその中でもかなり魅力的で上手な美文でしょう。

『融』という能では「月」が重要なモチーフとなっていますが、このキリはその『融』の中でも月づくしの部分です。月の満ち欠けの諸相について、新月の頃の月の細いことの疑問から始まり、春の霞む遠山を眉墨に喩えるように、三日月の形を舟にたとえるという話から話題は三日月に移り、その三日月が、水底の魚は自分の命を失う釣り針ではないかと疑い、鳥は自分を狙う弓なのでは、と驚くと。しかしながら日輪も月輪もついに地に落ちることはなく、同じように水だって、重力に逆らって天上することはない。だからこそ鳥は安心して月下の樹木の枝に休み、魚も波の下で眠りにつくことができる。。なんと上手な文章でしょう。ちなみにこの文章、「又水中の遊魚は釣針と疑ふ。」には本説があるようですが、その前後の分は作者=世阿弥の創作のようです。

そうして文章は「この光陰に誘はれて月の都に。入り給ふ粧ひあら名残惜しの面影や名残惜しの面影」と、融の大臣が月世界に帰って行くかのような有様を表現して終曲します。型としても切能の常套の型として正先で左袖を巻き上げながら幕の方へ向き、後ろ姿を見せながらシテ柱に赴いてそこで終曲になるのですが、地謡が謡う文句の長さにも余裕があって、丁寧にシテ柱に行くことができます。中秋の名月のその日に演じる『融』の終曲で、月世界に帰ってゆく源融の面影が彷彿とされるように舞えればよいのですが~

陸奥への想い…『融』(その10)

2013-09-16 11:16:18 | 能楽
能の囃子。。とくに笛の調子が陰陽五行説に則って性格づけられていることは前述しましたが、実際には能の笛の調子には黄鐘調と盤渉調の二つしかなく(双調、平調もあるけれど、例外と言ってよい扱い)、しかも能には旋律楽器の合奏は行われず、そのためか唯一の旋律楽器である笛も合奏に向くように均一に精巧に、というよりはむしろ反対の、1管1管の個性を重視して作られているように思えます。。すなわち能の音楽の中での「調子」というものは多分に観念的なものだと言うことができます。

これは何も能に限ったことではありませんで、先行芸能である雅楽の六調子も、中国から伝来した割には楽典よりもむしろ観念の輸入を重視したかのように中国のそれとは独立したものらしい。

しかし能に現れるこの二つの調子が、観念的に正反対の性格を持つものである事は注意したいと思います。

前述のように能の二つの調子のうち、多数派である「黄鐘」が表すものは「火、夏、南、赤」なのであり、少数派の「盤渉」は「水、冬、北、黒」。まさに正反対であって、また「黄鐘」に比べて「盤渉」には どことなくネガティブなイメージがつきまとっています。ところが実演に接すると、むしろその印象は逆で、舞の「黄鐘」のかっちりとして、ややフォーマルな感じと比べると、「盤渉」には浮きやか・華やかで ちょっとくだけたイメージがあるように思います。

この観念と実演とのギャップが「早舞」が、能『当麻』『海士』といった重厚、あるいは浄化をテーマとする能で使われる一方、『融』『須磨源氏』『玄象』のような遊舞の曲で舞われる理由のひとつなのでしょう。こうして冬や北。。要するに「死」のイメージ。。というよりはそこから昇華して現世から浄土へ移行して浄化される魂の表現としての「早舞」と、それとは別に遊舞のために舞われる「早舞」に大別されているのだと思います。そうして遊舞としての「早舞」には小書や替エとして様々なバリエーションも用意されていますし、現実には現在では小書と同様の扱いにはなっていますが、シテの裁量で型を変化させることによって囃子も舞も大きく変わる「クツロギ」という大変面白い舞のバリエーションがあるのもこの「早舞」だけです。

『融』もまた遊舞の「早舞」の曲であって、いや、邸宅に塩竃の景物を移して楽しんだ風流人描くこの曲はまさに遊舞の「早舞」が最もふさわしい曲なのであって、そのため観世流の小書にも「十三段之舞」「舞返」「酌之舞」。。と多くのバリエーションがあり、実演ではお客さまに楽しんで頂ける舞だと思います。シテが僧の読経や回向さえも願わず、ワキも弔いを行わない『融』であってみれば、まさにこれは遊舞のための曲なのであって、小書ではないけれども「替エノ型」など面白い型の上演が似合うと思います。

そういえば『融』の「早舞」は、冒頭にこの曲独特の譜が吹かれて始まりますね。「融掛カリ」と呼ばれる「ヒヤウラウラウラ。。」という譜で始まるのがそれ。『海士』の「早舞」もまた独特の「イロエ掛カリ」という始まり方をするのですが、こちらが子方に経巻を渡す型の必要上を考慮されて作曲された印象であるのとは対照的に『融』の掛カリは、特に型の上でその譜である必要がないので、これは演出上の聴覚的な効果か、あるいは前述のような「早舞」にまつわる観念的な意味を考慮したのではないかと ぬえは考えています。

すなわち、常の「早舞」。。『融』『海士』以外の曲の「早舞」は「ヲヒャ、ヲヒャーーラ、」と始まる譜で、笛方森田流では「破掛カリ」とも称されているようで、この譜からすぐに呂中甲の四クサリを吹き返す、「神舞」や「中之舞」などと同じ構成になっています。ところが一噌流では上記の譜のあとに「ヲヒャ、ヲヒヤリ、ヒウヤラリ」という譜が挿入されて、それより繰り返しの譜となっていて、この構成は俗に「段掛カリ」と呼ばれることがあります。

「段掛カリ」という名称は、この2クサリの譜が、舞の中の区切り。。「段」の冒頭に多用される譜であることから名付けられたものだと思います。これは ぬえの憶測でしかありませんけれども、この「段掛カリ」が「早舞」の「格式」のようなものを表わしているのではないか、と思っています。

総じて重厚で長大な舞。。たとえば「真ノ序之舞」「序之舞」「楽」「神楽」には「序」という、やや儀式的なプロローグのような譜が冒頭に付与されていて、「段掛カリ」はこれに次ぐ位置に置かれているのではないか。。すなわち「段」の冒頭の譜を吹き初めの「掛カリ」から吹くことで、いわばフォーマルな舞であることを表現しているのではないか、ということです。「神舞」は「段掛カリ」ではありませんが、急調な舞であることで、略された「段掛カリ」なのではないかと考えています。

このフォーマルな舞、という意識が『当麻』『海士』のような、菩薩や神をイメージさせる舞にも、また『融』『玄象』『須磨源氏』のような貴人の遊舞の舞にも使われる理由なのではないか。そうして遊舞の舞のまさに典型たる『融』の「早舞」には、このフォーマルさを少し崩して遊舞の雰囲気を強調するために専用の掛カリが用意された。。ぬえはこのように考えています。

陸奥への想い…『融』(その9)

2013-09-13 02:29:02 | 能楽
早舞はいわゆる「呂中甲」形式、と呼ばれる、笛が四小節の譜を繰り返して吹き続けるのを基本とする一連の舞~神舞、男舞、中之舞、序之舞。。などの中では異彩を放っている舞ですね。

これらの舞の中では唯一笛の調子が「盤渉」と呼ばれる、ひとつ調律が高い音色で演奏されること、しかも最初は盤渉ではなく、他の舞と同じく「黄鐘」調で演奏が始まり、最初の区切り。。「段」から盤渉に調子が上がる、という不思議さ。他の舞でも、たとえば序之舞や楽などでも盤渉調で演奏する「盤渉序之舞」「盤渉楽」というものがありますが、それらがあくまで常の黄鐘からの替エとか小書の扱いであるのに対して、早舞だけは常に盤渉での演奏です。面白いことに「盤渉序之舞」も「盤渉楽」も、やはり最初の段までは笛は黄鐘で吹いていて、そこから盤渉に替わるのです(盤渉楽には特例もありますが。。)。そうであれば「早舞」が初段から盤渉に調子が上がるのも、何らかの意味があるのかもしれません。

殊に黄鐘から盤渉への調律の変化は、常の演奏としての黄鐘からスタートしておいて、そこから別の調律の移行。。いうなればバリエーションへの変貌を印象づけますから、上記の盤渉序之舞や盤渉楽の場合は替エ・小書としての特殊な上演、という意味合いが強調されるのだと思います。ところが早舞だけは常に盤渉で演奏されるのに、やはり最初は黄鐘調で吹き出されて、その後調子を上げることには、やはり作曲された際に作為が込められている、と考える方が自然でしょう。

盤渉調の舞を吹く曲でも笛はその舞だけを吹くのではなく、当然冒頭のワキの登場から前シテの演技の部分もずっと能の進行に合わせて彩りを添えているのですから、あるいは能の笛は黄鐘が基準であって、それを盤渉に替える際も舞の冒頭からではなく、それまでの能の進行に付随して黄鐘から吹き始めることによって盤渉の舞だけを上演の中で突出させない配慮があるとか。。このあたり研究の余地があるのかもしれません。ただし現代の能の囃子は緻密・精巧に作られていますが、伝書類を遡るとその記録は必ずしも実演を再現できるような精緻な記録とばかりは言えず、往時の演奏の実態に迫るのは非常に困難な作業なのだと思いますが。。

さらに能の舞の研究には、こういった実技面だけでなく、陰陽五行説に則って演奏される調子に付された精神論的な意味合いも考慮されなければならないので、事情はさらに複雑です。ぬえの師家にも伝わる理論がありますが、この種の解説として最も手に入りやすい笛の森田流の『森田流奥義録』によれば盤渉調の舞が表すのは五行では「水」、季節では「冬」、方位では「北」、色では「黒」で、これは黄鐘調が意味する火、夏、南、赤と正反対の調子として捉えられています。これは単なる精神理論だけではなく実際の上演にも反映されていて、たとえば神能では盤渉は忌むものとされている、ということもありますし、常に盤渉で演奏される早舞は切能の曲でしか演奏されません。

ともあれ盤渉調で吹かれる現在の早舞を見る限り、それはほかのどの舞とも印象が違って軽快で生き生きとした舞ですね。『海士』『当麻』という成仏した女性の舞としても使われる(それはそれで精神的な理論としてはかなり高度で難解なのですが)早舞ですが、やはり本義は男性の舞で、『融』のほかに早舞が演奏される曲。。『須磨源氏』『玄象』など、高貴な人物が舞うものと能では規定されているようです。

『融』でもそういう印象ですが、この早舞で舞う衣冠姿の貴人の舞は、優雅でいて颯爽、典雅にして躍動、よく作られた舞だと思います。

サスペンス・ドラマに出演(その3)

2013-09-10 02:00:14 | 能楽
ええと、今年の2月に撮影させて頂いたテレビドラマ『金田一耕助VS明智小五郎』ですが、ようやく放映が決まったようです!

『金田一耕助VS明智小五郎』(フジテレビ系列)

放送予定 9月23日(月)21:00~23:08

キャスト
金田一耕助:山下智久
善池初恵:武井咲

<本家>
善池喜一郎:遠藤要
善池芙佐子:朝加真由美
音吉:柄本時生

<元祖>
丸部長彦:忍成修吾
丸部トモ:草村礼子
福助:マギー

小林少年:羽生田拳武(ジャニーズJr.)

浅原警部:益岡徹

明智小五郎:伊藤英明

スタッフ

原作 芦辺拓
プロデュース 牧野正 後藤博幸
ラインプロデュース 椿宣和(角川映画) 千綿英久(角川映画)
演出 澤田鎌作
脚本 池上純哉
制作 フジテレビ

。。某能楽師さんからご紹介頂いたお仕事ですが、最初は『金田一耕助VS明智小五郎』というタイトルからして、どうもうさんくさい感じを持っていたのですが、ところが台本を見たら、よくまあこれほど緻密に推理を積み上げるものだと感心してしまいました。元祖・本家の争いのうちに起こった殺人事件について依頼された新人探偵の金田一耕助(山Pさん)の推理に、すでに高名な明智小五郎(伊藤英明さん)が興味を持ち、変装して陰に日なたに助力しながら真相を突き止めてゆく、というもの。

撮影は都内の神社で、今年の2月の寒い中、早朝から行われました。主演の山Pさんと伊藤英明さんとは親しく話をさせて頂いて楽しいひと時でしたが、撮影内容は人間の二面性を表す意図らしく、面を重ねて、それを正面に向いて外すということで、ずいぶん悩んみましたが『現在七面』をアレンジして演じることにしました。

当日の撮影の様子はこちら~~

サスペンス・ドラマに出演(その1)
サスペンス・ドラマに出演(その2)

放映情報のソースはこちら

番組・イベント最新情報「とれたてフジテレビ」

能が映るのは3~4分だそうですが、よろしかったらぜひ~~

陸奥への想い…『融』(その8)

2013-09-09 13:51:11 | 能楽
後シテの登場囃子の「出端」は太鼓が入る登場音楽としてはもっとも一般的なもので、急テンポの勇ましい役にも通用するし、反対に荘重にも、静かな登場場面にも用いられ、表現の幅はかなり広い囃子ですね。『融』の後シテは貴公子然として、テンポとしては中間的なものからやや速く、そして上品に打たれます。

後シテ源融の装束は初冠、面=中将または今若、襟=白二、着付=紅入縫箔、指貫、単狩衣または直衣にも、縫入腰帯または白腰帯、融扇または童扇にも、というもの。襟を白二枚というのが本三番目の曲に準じる高貴な役柄を表しています。

面は中将が決マリ…なのですが、じつは中将という面はなかなか名品がない面なのですよね。妙にヤニ下がったような面が多くて…選択は難しいところです。同じようなことは「十六」や「泥眼」にも言えることだと思います。

直衣は狩衣の腰の部分の左右が欄と呼ばれる布でつながった有職装束で、『融』では普通は狩衣を用い、小書がついた場合に直衣を着る事になっています。。とはいえ実際には有職の直衣には袖に括り紐はないようで、袖に露紐のついた能装束の直衣は有職では「小直衣」と呼ばれるもののようです。着付の縫箔は赤地のものを着るのが普通ですが、これは直衣の場合の有職の着付けにも合っているようですね。

狩衣、直衣とも『融』には白地を選ぶことが多いですが、それに合わせて腰帯は赤地を選ぶのが普通です。「曲水の宴」が連想される舞なので、腰帯にも菊の文様や菊水を縫ったものを選ぶことも多いです。

扇はこの曲専用の「融扇」というものがあって、それは妻紅に秋草を描いた扇なのですが、略して秋草のみの扇にも、またこれも「曲水の宴」の連想なのでしょうが、菊水を描いた童扇を使ってもよいことになっています。実際には童扇は童子の役の持つ扇という印象が強いので、あまり好まれませんで、かえって妻紅の扇がもともと三番目能と同じ、女性的な性格を表しているので、鬘扇のうち花の丸など中性的な扇を選ぶこともあります。

「出端」に乗って登場した後シテは舞台に入りシテ柱先でヒラキをして謡い出します。

後シテ「忘れて年を経しものを。又いにしへに帰る波の。満つ塩釜の浦人の。今宵の月を陸奥の。千賀の浦わも遠き世に。その名を残すまうちきみとワキへ向き。融の大臣とは我が事なりとヒラキ。我塩釜の浦に心を寄せと正へ直し。あの籬が島の松蔭にと右ウケ遠くを見。明月に舟を浮べと二足出て拍子踏み。月宮殿の白衣の袖もと正へノリ込拍子。三五夜中の新月の色。千重ふるやと行掛リ。雪を廻らす雲の袖と角へ行き左袖を頭へ返し
地謡「さすや桂の枝々に
と袖を払いながら左へ廻り
シテ「光を花と。散らす粧ひ
大小前にて片左右、正へ出
地謡「ここにも名に立つ白河の波の
とサシ廻シ
シテ「あら面白や曲水の盃
と脇座の方へ出ながら扇開き、シテ柱へ行き左膝ついて水を掬いあげ
地謡「受けたり受けたり遊舞の袖
と両手で扇を持ち正へ出右へノリ、下がりながら扇をたたみ立拝。

これにて『融』の眼目の「早舞」となります。

陸奥への想い…『融』(その7)

2013-09-07 17:25:59 | 能楽
シテが幕に中入りすると、後見が田子を引き、囃子方がクツロギ(大小鼓は床几から下りて正座し、4人の囃子方が向き合うように横を向いてしまうこと)、そしてそれまで狂言座(橋掛リ一之松の裏欄干)に控えていた都の者(間狂言)が立ち上がって舞台に入り、謡い出します。

間狂言「これはこの六条辺に住まひする者にて候。今日は東山へ罷り出で、心をも慰まばやと存ずる。
いや、これなるお僧は。このあたりにては見慣れ申さぬお僧なるが、何処より御出であって、この所には休らひ給ふぞ。
ワキ「これは諸国一見の僧にて候。御身はこの辺りの人にて渡り候か。
間狂言「なかなかこの六条辺に住まひする者にて候。
ワキ「さように候はば、まず近う御入り候へ。尋ねたき事の候。
間狂言「心得申し候。さてお尋ねありたきとは、。如何やうなる御事にて候ぞ。
ワキ「思ひも寄らぬ申し事にて候へども、古融の大臣、陸奥の千賀の塩竃を。この所に移されたる様態。ご存知に於ては語って御聞かせ候へ。
間狂言「我等もこの辺りには住まひ申せども、詳しき子細は存知も致さぬさりながら。初めて御上りあってお尋ねあるを、何をも存ぜぬと申すも如何なれば。大方承り及びたる通り。御物語申さうずるにて候。
ワキ「近頃にて候。

間狂言「さる程に融の大臣と申したる御方は。人皇五十二代嵯峨天皇の末の御子にて御座ありたると申す。人皇五十六代清和天皇の御宇。貞観十四年八月に左大臣に任ぜられ。仁和三年には従一位に昇り。寛平元年には御年六十七にて輦車の宣旨を蒙り給ひ。誠に官位俸禄までも類ひ少く。優にやさしき御方にて御座あると申す。又大臣は世に優れたる御物好みにて。色々の御遊数を尽し給ふが。御前にてある人の申し候は。陸奥の千賀の塩釜の眺望面白き由。御物語聞し召し。御下向あつて御覧ありたく思し召せども。余り遠国の事なれば。都の内へ移し御覧あるべきとて。絵図を以てこの所へ塩釜を移し。賀茂川の水を引下し。遣水泉水築山の様体を夥しくなされ。潮は難波津敷津高津この三つの浦より潮を汲ませ。三千人の人足を以て営む故。潮屋の烟などの気色。御歌に詠み給ふに少しも違はず。これほど面白き事はあるまじきとて。一生の御遊の便りとなされ。あれに見えたるを籬が島と申して。あの島へ御出であつて。御遊さまざまありし折節。音羽の山の峯よりも出でたる月の。籬が島の森の梢に映り輝く有様。見事なる様体。貴賎群集をなし見物仕り候頃は神無月晦日がたに。菊紅葉の色づき。千種に見えて面白き折節は。この所へ親王上達部などおはしまし。心ばへの御歌などあまた遊ばし候。中にも在原の業平は。皆人々に詠ませ果てて。塩釜にいつか来にけん朝なぎに。釣する舟はこゝに寄らなんと。かやうに詠ぜられたる御歌。誠に殊勝なる由承り候。されば年月の過ぐるは程もなく。大臣薨じ給ひて後は。御跡を相続して翫ぶ人もなければ。浦はそのまゝ干汐となり。名のみばかりにて御座候。又かやうに荒れ果てたる所を。貫之の御歌に詠ぜられたると承り候。

間狂言「最前申す如く、融の大臣の御事、塩竃を移されたる謂れ、詳しくは存ぜねども、我等の承り及びたる通り御物語申して候が、さてお尋ねは、如何やうなる御事にて候ぞ。
ワキ「懇ろに御物語候ものかな。尋ね申すも余の儀にあらず御身以前に、老人一人汐汲みの体にて来たられ候ほどに、すなわち言葉を交して候はば、塩竃の子細懇ろに語り、所の名所などを教え何とやらん由ありげにて、汐曇りにて姿を見失いて候よ
間狂言「これは奇特なる事を仰せ候ものかな。さては融公の現れ出で給ひたると存じ候。それをいかにと申すに。今にも月の明々たる折節は古塩を焼かせられたる様体。御沙汰ある由申し候が。御僧貴くましますにより。汐を汲む様体にて現れ給ひ。御言葉をかはされたると存じ候間。暫く御逗留ありて。重ねて奇特を御覧あれかしと存じ候。
ワキ「近頃不審なる事にて候程に。暫く逗留申し、ありがたき御経を読誦し、重ねて奇特を見やうずるにて候。
間狂言「ご逗留の間は御用も承り候べし
ワキ「頼み候べし
間狂言「心得申して候


間狂言の長大な語りが済み、再びワキとの問答となると、大小鼓は床几に腰掛け、囃子方は正面に向き直ります。間狂言とワキとの問答の中で先ほどの老人が融の霊であろう、と思い至るあたりは常套なのではありますが、面白いことにはその霊を弔おう、という文言が『融』には出てきませんね。大概、能に登場する幽霊(シテ)は現世に思いを残していて、その執心のために成仏できずにいる事が多く、能の後半では霊が本性を現し、ワキの弔いによって救済を得る、という形が多いのです。さればこそワキは多くの場合、僧の役なのですね。

『融』でも、言ってみれば融の霊は生前の遊楽の生活を懐旧し、荒れ果てた河原院の有様を悲しんでいるのだから、現世への執着があるはずなのですが、この場面の次に登場する後シテの様子を見ると、どうも彼は僧の弔いを彼は必要としていないようです。それほどまでに明るく、爽やかに。。は言い過ぎか。どうもデカダンスな雰囲気も漂わすシテではありますが、前シテでもワキが僧であることにも関心を向けず、むしろワキが賈島の詩や和歌に造詣を持っている、という点に心引かれるのでした。その契機となった、ワキが賈島の詩を口ずさむ場面でもシテは「何と唯今の面前の景色が。御僧の御身に知らるゝとは」と言いますが、「坊さんなんて辛気くさい仕事をしているのに風流心を持っているなんて…意外」という印象があって、どこか「遊び」を知らない人間をつまらない、と思っている風情も。

これもよく言われる事ですが、そういう曲だからか、ワキは待謡でも読経をしていませんね。間狂言との問答の中でわずかに「暫く逗留申し、ありがたき御経を読誦し」と経を読み霊を供養する文言が入っていますが、このあたりは後世に類型化された可能性がありますし、またおワキの流儀によってはこの場面でも「ありがたき御経を読誦し」と言わない場合もあるようです。

間狂言が再び狂言座に戻って着座するとワキは待謡を謡い、それにつけて登場囃子の「出端」の演奏が始まって、後シテが姿を現します。

ワキ「磯枕。苔の衣を片敷きて。苔の衣を片敷きて。岩根の床に夜もすがら。猶も奇特を見るやとて。夢待ちがほの。旅寐かな。夢待ちがほの旅寐かな。

陸奥への想い…『融』(その6)

2013-09-05 09:41:20 | 能楽
ロンギの真ん中で両断するようになってしまいましたが、名所教エがその内容のままで問答からロンギに形を変え、今度はロンギの中でシテは汐汲としての仕事を忘れていた、と僧との長話をいきなり中断して、田子(担い桶)を持って汐を汲む作業に移ります。

地謡「嵐更け行く秋の夜の。空澄み上る月影に。
シテ「さす汐時もはや過ぎて。
地謡「暇もおし照る月にめで。
シテ「興に乗じて。
とノッて正へ出
地謡「身をばげに。忘れたり秋の夜の
と右へ外し打合せ。長物語よしなやとワキへ向き辞儀まづいざや汐を汲まんとてとシテ柱に戻り下居、田子の担い竹を首にかけ立ち上り。持つや田子の浦。東からげの汐衣と汐を汲み。汲めば月をも袖にもち汐のと両袖を見。汀に帰る波の夜のと脇座の方へ出。老人と見えつるが汐曇りにかきまぎれてとシテ柱へ向き出、田子を後ろに捨て跡も見えずなりにけりと両手を下ろしシテ柱にてトメ。跡をも見せずなりにけり。と右へトリ橋掛リへ行き幕へ中入

『融』前半の山場の場面ですね。ロンギの中で名所教エが突然打ち切られ、シテは田子の担い竹を首に掛けると汐を汲む型をし、これが終わるとこれまた突然に中入となります。急展開が続くことで生まれる緊張感がうまく計算されているのだと思いますが、それだけに演者にはそれぞれの型にうまく区切りをつけて、手回しよく、鮮やかに型を決めなければならない場面でもあります。

さて汐を汲む型なのですが、シテ柱に戻って田子に向かい下居、担い竹を首に掛け両手を水平に伸ばして竹の両端…田子を吊す紐の結び目のあたりを持つと、通常はクルリと左に向いて大小前に至り、そこから正へ出ながら両手で田子を揺らしてはずみをつけ、前へ投げ出して、下がりながら横たわった田子を手前へ引く、という型なのですが…替エの型として担い竹を首にかけたまま正面の舞台先まで出て、田子を片方ずつ舞台の外に出して下から汲む…ちょうど井戸から水を汲むような型をすることがあります。

同じく田子を使う能『玄象』でもこの型はあって、こちらでも両様の型で演じられますが、どちらの型もシテは田子がまったく見えないのでうまく型をこなすのは難しいと思います。前者の田子を投げ出す型は、田子を前後に振るところが自分のどうも役者の「素」が出てしまいやすく、また田子を投げ出すときに大きな音を立ててしまうとか、それからこれは役者の都合だけの話ですが、投げ出すことで田子が傷つく、ということもありますね。後者の舞台の外に田子を出して汲む型は、型をこなすのに時間がかかるのと、舞台の本当に先まで出ないと型ができないので、シテは舞台から落下する恐怖と戦いながら演じることになります。

汐を汲んだシテは、両袖を見まあすが、これは二つの桶に汲んだ水に満月が映り込むのを見る心。『松風』と同じような趣向で風流で結構なのですが、汐を汲む型に手間が掛かると、ここで時間を掛けることができずに興趣をそぐ結果に。。やがてシテは再び田子を持ち上げて脇座の方へ出、振り返って幕の方へ向くと歩み出し、途中で田子の担い竹を首からはずして後ろに捨て、手を下ろしてシテ柱へサラサラと行きしっかりトメ、それから静かに中入します。

このところ、だんだんとシテの姿が透明になってゆく、というよりは、突然フッと姿が消え失せる、という感じなのだと思います。同じような例は意外に多くあって、面白いのは『蟻通』の終曲ですかね。これはシテは神官の姿で現れた神で、能の最後にようやく本性を明かすと忽然と姿を消すのですが、地謡が謡う中、シテは手に幣を持ったまま舞台から幕に退場します。このときシテは幣を持った手を高くあげて、舞台から橋掛リに抜けるときにわざとその幣をシテ柱に当てて、ポトリと下に落とします。シテはかまわずそのまま幕に引くのですが、いかにも姿だけが消えて持ち物の幣だけが持ち主を失って舞台に残された、というような効果を出します。

ほかにも『鵺』の中入ではシテ柱でヒラキながら舟の櫂竿を捨てます。もとより舟に乗って登場した、という設定の前シテで、登場場面ではこの櫂竿を持って舞台に現れるのではありますが、舞台が進行するとシテは舞台の中央に下居し、このとき後見が一度竿を引きます。陸上に上がってワキと対面した場面なので、通常ならばこれで竿は不要になり、登場の時と同じく舟に乗って消え去る場面では竿がなくても演技は成立すると思いますが、わざわざ中入の少し前に後見は再び竿をシテの傍らに出し、シテはそれを持って立ち上がると、前述のようにシテ柱で竿を捨てて中入します。明らかに「捨てる」ために竿を出すのであって、ぬえがこの曲を勤めた際も師匠からガシャンと音を立てて竿を捨ててよい、ヒラキも強く演じるように、と稽古を受けました。『鵺』の前シテは鵺の化身の舟人なので、その本性を明かして中入する場面では、得体の知れない化け物の性格を描き出すのに、化身の姿は忽然と消え失せて竿だけが無遠慮に打ち捨てられた、という効果を出すのでしょう。

『融』の本性は神でも化け物でもありませんが、まあ颯爽とした若い男性としての潔さを、この田子を捨てる場面で表現しているのかもしれません。

陸奥への想い…『融』(その5)

2013-09-02 09:08:29 | 能楽
シテ柱に戻りワキと対したシテは、問われるままに都の景物を教えてゆく、いわゆる「名所教エ」の段になってゆきます。

これまで舞台は河原院にいる二人がそのまま陸奥の塩釜に飛んで移動したように、塩釜の景物を愛でていたものが、ここで舞台は都の中に引き戻されると同時に、河原院から外へと一挙に世界を拡げてゆきます。河原院は塩釜であっただけではなく、じつは近景は千賀の浦の景物を模しながら、遠景は都のおちこちの名所を望遠する、二重構造で造られた邸宅だったのでした。

シテ「さん候皆名所にて候。御尋ね候へ教へ申し候べし。
ワキ「まづあれに見えたるは音羽山候か。
シテ「さん候あれこそ音羽山候よ。
ワキ「さては音羽山。音に聞きつゝ逢坂の。関のこなたにと詠みたれば。逢坂山も程近うこそ候らめ。
シテ「仰せの如く関のこなたにとは詠みたれども。あなたにあたれば逢坂の。山は音羽の峯に隠れて。この辺よりは見えぬなり。
ワキ「さてさて音羽の嶺つゞき。次第々々の山並の。名所々々を語り給へ。
シテ「語りも尽さじ言の葉の。歌の中山清閑寺。今熊野とはあれぞかし。
ワキ「さてその末につゞきたる。里一村の森の木立。
シテ「それをしるべに御覧ぜよ。まだき時雨の秋なれば。紅葉も青き稲荷山。
ワキ「風も暮れ行く雲の端の。梢も青き秋の色。
シテ「今こそ秋よ名にしおふ。春は花見し藤の森。
ワキ「緑の空も影青き野山につゞく里は如何に。
シテ「あれこそ夕されば。
ワキ「野辺の秋風
シテ「身にしみて。
ワキ「鶉鳴くなる。
シテ「深草山よ。


これでまだ半分。それにしても分量の多い名所教エです。ほかにも能『田村』など名所教エがある能はいくつかありますが、『融』はその中では突出して登場する地名が多いです。

シテとワキの問答の形式を取って進行する名所教エの中で、シテは次第に興に乗って、問われる前に自分から名所をワキに紹介する体。ワキに駆け寄るように近づいてその袖を取り、右手で名所を指し示して教えます。『田村』にもある型で、高調したシテの言葉を地謡が引き取って代弁し、さらにワキの言葉を地謡が受け持って会話が表される「ロンギ」となります。

地謡「木幡山伏見の竹田と右までサシ、ワキの袖を離して少し出て見淀鳥羽も見えたりや。とワキへ向き
地謡「眺めやる。其方の空は白雲の。はや暮れ初むる遠山の。嶺も木深く見えたるは。如何なる所なるらん。
シテ「あれこそ大原や。
と右の方を見小塩の山も今日こそは。御覧じ初めつらめ。なほなほ問はせ給へや。とワキへ向き
地謡「聞くにつけても秋の風。吹く方なれや峰つゞき。西に見ゆるは何処ぞ。
シテ「秋もはや。秋もはや。半ば更け行く松の尾の嵐山も見えたり
と幕の方まで見て二足出

ロンギの途中のここまでで名所教エは完了するのですが、数えてみたところ、ここで登場する地名は合計16箇所にも及びました。ちょっと地図で表してみるとこのような感じ。



現在八条にある京都駅の近くに六条があり、駅からもほど近い「枳殻邸」。。正式には東本願寺に属する「渉成園」が河原院の旧跡といわれていますが、『融』の名所教エはそこから見て東山の方向から南に話題が進み、時計回りにぐるっと西の嵐山にまで及んでいることがわかります。

面白いのは、流儀によってそれぞれの場所を見る方向が違うこと。観世流の場合はワキ柱を東に、幕の方を西に取る決マリになっていますが、型もこれに従って東に見えるはずの音羽山を脇座の方。。シテから見て正面よりやや左の方に見、そこからだんだんと南。。角柱の方へ、シテからは右の方向に見てゆくことになります。ちょうどロンギになってからの大原・小塩山を教えるところで角柱を超えて右の方に目を転じ、ロンギの最後に出てくる地名の嵐山はぐっと深く右に見込んで、幕の方へ向く事になります。

こうして地図に乗せて地名を見てみると、北山の方はまったく見ないことになりますね。作者・世阿弥の時代には現在のような能舞台はまだ確立しておらず、鏡板(松を描いた、能舞台の背にある板壁)はなかっただろうし、それどころかあまり厳格な舞台の規格そのものがなく、催しをする会場の条件によって様々な形の舞台が造られただろうと考えられていまして、現に橋掛リが舞台の後方に架けられた絵図も現存しています。また都が舞台で、その名所を教える場面がある『融』のような能では、都で演じる場合は当然その名所が本当に存在する方向を意識して演じていたでしょう。それでも『融』の名所教エの詞章を見ると、舞台の一方が塞がれて、そちらには演技の方向が向けられなかった。。いまの能舞台のように鏡板に代わる何物かが建てられていた舞台を想定しているのかもしれない、と思いました(もっとも下掛かりのお流儀の『融』を拝見したときには「木幡山伏見の竹田」とシテはワキの袖を取るとお客さまに背を向けて後方。。笛座の方角を見たのを実見したことがありますので、実際にはそこに鏡板のような障壁があっても、それはないものとして、それを透かして遠方を見る演技をすることは不可能ではないのですが)。

さて実際の『融』の上演では、前述のようにシテ方の流儀により東西南北の取り方が違うので、地名を教えながら見る方角はあらかじめワキとよく打合せをしておく必要があります。