ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第9次支援活動<雄勝町・気仙沼>(その13…石巻雄勝での活動終了)

2012-09-28 08:29:30 | 能楽の心と癒しプロジェクト
花火大会を見届け、雄勝をあとにした能楽師一行は石巻に戻りました。この日は毎度お世話になっているスーパー銭湯「元気の湯」に行こう、と話がまとまっていたので、まずは相澤さんらを石巻まで送り、渡波の宿舎に帰る前にそちらに。。と思ったのですが、雄勝で会った「チーム神戸」の倉持さんから「夕方にはリーダーの金田真須美さんが石巻に到着する」と聞かされていたので、ご挨拶に事務所になっている「ふれあいサロン」に顔を出してみました。

寝てる。。ドアを開けると、金田さんは椅子にもたれたまま眠っていました。やがて我々に気づいた金田さん、「神戸からさっき到着したばかりなので疲れたんや。。」と言い訳。神戸から石巻まで。。どれくらい時間がかかるんですか? と聞いたところ「12時間」と伺ってびっくり! ぬえたちが6時間くらい掛けて石巻に至っているのとはケタが違いました。

あとでチーム神戸のブログを見たところ、金田さんの愛車は軽自動車のワンボックスでした! 軽自動車で12時間の運転! それも支援物資を運ぶためのワンボックス。。ぬえも支援物資を載せるために愛車「レイちゃん2」に買い換えましたが、大きくなった分、むしろ初代目「レイちゃん」よりも乗り心地はよくなりました。金田さんの愛車はおそらく神戸の支援者から贈られたものだろうと思いますが、乗り心地は無視、燃費と交通費を節約して物資を運ぶのが優先なんですね。。

金田さんも「元気の湯」にお誘いしましたが、う~んう~んと考えこまれてから「。。やっぱり。。今日は寝るわ。。」と休息を宣言されたので、「ふれあいサロン」を後にして「元気の湯」に行き入浴。渡波に帰ると、まだ宿舎の家主さん。。住民ボランティアさんが帰っていませんでした。

ははあ、そういえば昨日ボランティアのリーダーさんが「明日はここで夏祭りをやるんですよ!」と息巻いておられました。宿舎のすぐ向かいにある地区の集会所の駐車場にやぐらを建てて(!)盆踊りもできるように準備を整えておられましたから。。なるほどイベントが終了したので、メンバーと飲みにでも行ったのかも。

笛のTさんも、ワキのNさんも「眠いよ~」と言っていましたが、リーダーさんが帰らないことには宿舎には入れず。そこで ぬえはとっとと車から降りて、昨日と同じ近所の居酒屋さんに一人で飲みに行きました~。常連さんも昨日と同じような顔ぶれで揃っておられて、深夜まで楽しく過ごしました。

宿舎に帰るとTさんもNさんもすでに熟睡。。

【8月12日(日)】

翌日は気仙沼への移動と、仮設商店街での公演があります。例によってコンビニ弁当の朝食を摂って、渡波の住民ボランティアさんにお礼を言って石巻を出発しました。。が、この日は気仙沼に行く前にぜひとも寄りたいところがあったのです。

先日 ぬえ宛に丁寧なお礼状をくださった女川町の仮設住宅の住民さんのおばあちゃん。彼女にこちらからもお礼を申し上げるために、まずは女川町を目指しました。

第9次支援活動<雄勝町・気仙沼>(その13…石巻雄勝での活動終了)

2012-09-28 08:28:06 | 能楽の心と癒しプロジェクト
花火大会を見届け、雄勝をあとにした能楽師一行は石巻に戻りました。この日は毎度お世話になっているスーパー銭湯「元気の湯」に行こう、と話がまとまっていたので、まずは相澤さんらを石巻まで送り、渡波の宿舎に帰る前にそちらに。。と思ったのですが、雄勝で会った「チーム神戸」の倉持さんから「夕方にはリーダーの金田真須美さんが石巻に到着する」と聞かされていたので、ご挨拶に事務所になっている「ふれあいサロン」に顔を出してみました。

寝てる。。ドアを開けると、金田さんは椅子にもたれたまま眠っていました。やがて我々に気づいた金田さん、「神戸からさっき到着したばかりなので疲れたんや。。」と言い訳。神戸から石巻まで。。どれくらい時間がかかるんですか? と聞いたところ「12時間」と伺ってびっくり! ぬえたちが6時間くらい掛けて石巻に至っているのとはケタが違いました。

あとでチーム神戸のブログhttp://stnagata.exblog.jp/18456082/を見たところ、金田さんの愛車は軽自動車のワンボックスでした! 軽自動車で12時間の運転! それも支援物資を運ぶためのワンボックス。。ぬえも支援物資を載せるために愛車「レイちゃん2」に買い換えましたが、大きくなった分、むしろ初代目「レイちゃん」よりも乗り心地はよくなりました。金田さんの愛車はおそらく神戸の支援者から贈られたものだろうと思いますが、乗り心地は無視、燃費と交通費を節約して物資を運ぶのが優先なんですね。。

金田さんも「元気の湯」にお誘いしましたが、う~んう~んと考えこまれてから「。。やっぱり。。今日は寝るわ。。」と休息を宣言されたので、「ふれあいサロン」を後にして「元気の湯」に行き入浴。渡波に帰ると、まだ宿舎の家主さん。。住民ボランティアさんが帰っていませんでした。

ははあ、そういえば昨日ボランティアのリーダーさんが「明日はここで夏祭りをやるんですよ!」と息巻いておられました。宿舎のすぐ向かいにある地区の集会所の駐車場にやぐらを建てて(!)盆踊りもできるように準備を整えておられましたから。。なるほどイベントが終了したので、メンバーと飲みにでも行ったのかも。

笛のTさんも、ワキのNさんも「眠いよ~」と言っていましたが、リーダーさんが帰らないことには宿舎には入れず。そこで ぬえはとっとと車から降りて、昨日と同じ近所の居酒屋さんに一人で飲みに行きました~。常連さんも昨日と同じような顔ぶれで揃っておられて、深夜まで楽しく過ごしました。

宿舎に帰るとTさんもNさんもすでに熟睡。。

【8月12日(日)】

翌日は気仙沼への移動と、仮設商店街での公演があります。例によってコンビニ弁当の朝食を摂って、渡波の住民ボランティアさんにお礼を言って石巻を出発しました。。が、この日は気仙沼に行く前にぜひとも寄りたいところがあったのです。

先日 ぬえ宛に丁寧なお礼状をくださった女川町の仮設住宅の住民さんのおばあちゃん。彼女にこちらからもお礼を申し上げるために、まずは女川町を目指しました。

第9次支援活動<雄勝町・気仙沼>(その12…おがつ花火大会)

2012-09-25 03:20:09 | 能楽の心と癒しプロジェクト
雄勝町中心部の視察を終えて、楽屋に戻りました。

楽屋は旧市役所総合支所前に作られた仮設商店街「雄勝店こ屋街(たなこやがい)」の2階の事務所の一角を拝借させて頂きましたが、冷房も利いて、あら快適。事務所も商店街の統括的な事務所のようで、なおかつ花火大会のイベントの実行委員会本部のようでもありましたので、どうもイベント出演者の中では我々だけ破格の待遇のようです。

お昼ご飯は商店街の中の食堂でご当地ものの「ホタテ刺定食」を頂きました~。いつも思うけど、こと海産物に関しては三陸のみなさんは贅沢すぎ~~。そういえば5月に気仙沼大島で住民さんと それぞれの季節のおいしい食べ物の話題になったときは、ゼイタクな話ばっかりで ぬえ、卒倒しそうでした。住民さん、にっこり笑顔で「そう言われれば私たち、贅沢してましたよねえ」…そんなにおいしいものがあるなら支援なんて必要ないじゃん! …そしたら住民さんが最後にひと言。「…以前までは、ですけれどねぇ。。」 。。(・_・、)ゴモットモ

ここで意外な人物と遭遇しました。石巻の湊地区で「チーム神戸」の活動にずっと参加されている倉持さんが、なぜか雄勝に登場。なんでも「チーム神戸」の活動の手伝いでやって来たのだけれど、リーダーの金田真須美さんが神戸から到着する前にちょっと出かけて来られたのだそう。倉持さんは湊小学校避難所時代からずっと活動を拝見していましたので、石巻に住んでおられる住民ボランティアさんなのかと思っていました。。が、じつは東京近郊の方で、お仕事の合間に石巻に来ては「チーム神戸」の活動に参加されているのでした。

さてプレハブの仮設商店街の2階で『羽衣』の装束の着付け。ということは、プレハブの建物の、ひと一人がやっと通れるあの外階段を通って地上に下り、イベント会場までの。。100mくらいは徒歩で移動しなければならない、ということです。いえ、何でもないような事と思われるでしょうが、装束を着てからの移動ですから。。

人によっては怒り出しちゃうかもしれませんが、ぬえはもう、この程度の不都合には慣れてしまいました。もちろん面は掛けずに、ですが、装束を汚さないように細心の注意を払いながら、そろそろと階段を下りて、地上でも泥の跳ね返りなんかが起きないように気を付けて歩みます。面や扇などは笛のTさんなどが運んでくださり、また ぬえが歩く順路に気を付けてくださったりします。。が、紋付袴のTさんが何気なく ひょいと飛び越えた溝も、装束を着ている ぬえはそこまで歩幅を拡げられずに遠回りしたり。こんな感じですから、着付けも移動も開演時間を見計らってすべて前倒し、早め早めに行っておきます。

で、会場に着いたのですが、なんとイベント会場はステージ・トラックの上でした。あららららら~

さすがに舞台としては条件が整わず、また会場に到着してから ぬえたちの出演の持ち時間は15分、と聞かされたので、おワキのNくんは出ないで ぬえと笛のTさんの二人だけで出演することとしましたが、あのステージまでどうやってよじ登るか。。ここも頑張って、小さな踏み台。。といってもビールのケースのようなものですが、を用意して頂いて、よいしょ!とステージに上ります。

ステージ上で面を掛け、その間の時間つなぎに相澤さんと司会の方とで ぬえらのプロジェクトの活動や上演曲『羽衣』の解説をして頂きました。



比較的早い時間での出演でしたので、あまりお客さまは多くなかったと思いますが、本部テント?の周囲のお客さまは熱心にご覧になって頂き、大変ありがたいことでした。またステージの上から眺める雄勝湾の深い色、山が迫って、ちょっとした深山幽谷の趣はとても印象的でした。







上演を終えて、またまた よいしょ!とステージを下りて楽屋に戻ります。片づけを終えて車に荷物を積み込んで。。それでも花火の打上までにはまだ時間があるようです。今度はステージのまわりに出ていた露店で それぞれが焼き鳥を買い込んできたり。石巻までの帰りの運転があるからビールは飲めないけれど、楽屋でちょっとした宴会となりました。あれ? 実行委員会から差し入れのお弁当まで頂きましたよ?

やがて花火大会の開催時刻となりました。「Light up NIPPON」のプロジェクトは やはり大掛かりで、坂本龍一さんが加わっておられるようです。坂本龍一さんの名前は被災地ではよく耳にしますね。仮設住宅に集会所や子どもたちの遊び場になるテントを造ったり。「Light up NIPPON」の花火大会のプロジェクトでは、坂本龍一さんが弾くピアノが10カ所の花火大会会場に流され、各地で同時にカウントダウンをして打ち上げになる、というものでした。

このプロジェクトでは気仙沼が主会場となっていたようですから坂本龍一さんは気仙沼でピアノを弾いたのでしょうか。忙しいから東京での演奏の中継? ともあれ、こういう場合は巨大なモニターでピアノを弾く坂本さんの姿が映し出され。。というのは震災被害のない、それも大都会での発想ですね。こちらではコミュニティFM局などを介して、坂本さんが演奏したピアノの音だけが会場に流されました。

そうしてカウントダウンのあといよいよ花火の打上です! ぬえも雄勝湾を見通せる場所に席を確保。。といっても半分崩れたブロック塀に腰を下ろす程度ですが。。あれ? 花火はイベント会場からはかなり離れた。。ちょうど公民館があるあたりの雄勝町中心部から打ち上げられました。ぬえのいる場所からはちょっと遠いかな~、という感じでしたが、それでも、1年以上被災地の支援活動に携わってきた ぬえとしては、住民さんがイベントを楽しみ、また夏の風物詩である花火大会を愛でている様子を見られるところまで漕ぎつけたのだなあ、と、感慨深く花火を眺めたのでした。



第9次支援活動<雄勝町・気仙沼>(その11…雄勝町の中心部へ)

2012-09-24 00:08:48 | 能楽の心と癒しプロジェクト
大須小学校での公演を終えてさて会場から移動しようとしたとき。。小学校の校庭の向こうに仮設住宅が建てられていることに気がつきました。被害は少なかったとはいえ、やはり海に突き出した雄勝半島は無傷ではありませんでした。。または激甚被災地だった雄勝町中心部の住民さんたちが高台である大須の仮設住宅に住まわれておられるものか。。いずれにせよ山がちな雄勝町で仮設住宅を建設できる土地は限られていると思います。こういう立地の問題もあって石巻市では仮設住宅は抽選で、震災前に住んでいた町から遠く離れた仮設住宅に引っ越すことになった事例も数多くあるそうで、避難所で団結していた住民さんも、震災から7ヶ月を経て避難所が閉鎖になったとき、慣れぬ地区の仮設住宅で新たなご近所づきあいを始めなければならいこともあって、それが住民さんの孤独や孤立を招くこともあり。。なんとも難しい問題です。

さてこの日の次の公演会場は雄勝町の中心部。。旧市役所支所の前に作られた特設ステージ、とのことでした。なんとこれは夏祭りの花火大会の関連イベントなのです。

昨年の夏。。震災からわずか5ヶ月目の段階では、被災地では夏祭りどころではありませんでした。それでも石巻市中心部の「川開き」は関係者の努力で実現したのですが、これはむしろ特例といってよかったと思います。犠牲者の収容は一段落して不明者の捜索がはじまり、いまだ瓦礫の撤去は端緒についたばかり。避難所ではパンと飲み物ばかりの食事が支給され、ぬえが見たかぎりでは大量のハエの発生に悩まされていました。夏祭りを楽しむ、という雰囲気でもなかったし、多くは中止になったか、あるいは気仙沼市のように時期をずらして追悼集会のようなものが開催されたようです。石巻市の「川開き」は復興のシンボルとして住民さんに元気を与えるために開催されたのでしょうが、小さな集落では望むべくもなかった状態だったと思います。

さて雄勝町の花火大会は とてつもなく大きなプロジェクトによって開催されるものでした。「Light up NIPPON」というこのプロジェクトは、復興や哀悼の祈りをこめて東北の太平洋沿岸でいっせいに花火大会を開催する、というもの。なんでも今年で2回目ということですから、去年のあの夏の状態の中でも花火を打ち上げた被災地はあったのですね。

今年のこのプロジェクトの花火大会は、8月11日に。。つまり震災の月命日にあたる日に、岩手県の野田村・山田町・宮古市田老地区・大槌町・釜石市・大船渡越喜来・陸前高田、宮城県の気仙沼・石巻雄勝・塩竃、福島県の相馬/南相馬・いわき市・広野町・会津美里町の計10カ所で同時に行われるのだそうです。ぬえたちは今回の活動のスケジュールにたまたまこの8月11日が含まれていまして、雄勝町出身の石巻市民で ぬえらプロジェクトの活動に協力頂いている相澤さんが関連イベントにエントリーしてくださって公演が実現したのでした。

会場には到着しましたが、花火大会への出演時刻までは間があったので、これまでほんの少ししか見ていなかった雄勝町の中心部の被害状況を視察に出ました。



だいぶ更地になっている。。のでしょうけれども、ぬえにとってはこの日はじめて見た場所です。それでもまだまだ被害を受けた建物はそのまま残されているようでした。公演会場のある旧市役所支所は無人のまま放置され、入院患者さんが全滅する被害があった雄勝病院も建物だけが無機的な質感で残されています。





。。と思ったら、例の観光バスが屋上に乗り上げた雄勝公民館がありました。この2月にここを訪れた際には気がつかなかったのですが、雄勝町の中心部に近い場所にそれは建っていたのでした。よく見ると。。



屋上に乗り上げていた観光バスは下に下ろされた。。のですが、それは修理されるでもなく撤去されるでもなく、そのまま公民館の建物の隣りに置き去りにされていました。。

気仙沼のサンマが来たっ!

2012-09-21 12:09:52 | 能楽の心と癒しプロジェクト
昨日までの暑さがようやく わずかにやわらいで、はああ、秋になるかなあ、と思っていたところに!

なんと気仙沼から獲れたての旬のサンマが届けられました!
届けてくださったのは気仙沼の児童劇団「うを座」さん!

うを座さんサイト

去年の6月からずっと見続けていた気仙沼の被害とそこからの復興。。能楽でもなにか力になって差し上げられないか、とずっと考えてはおりましたが、たまたま ぬえが個人的にレッスンをすることになった東京の劇団「演劇倶楽部 座」の主宰者・壌晴彦さんが、こちらの「うを座」の子どもたちの指導をしておられたところから話をまとめてくださいまして、昨年の年末に はじめて気仙沼で活動をすることができました。活動の実現にたどり着くのに半年かかりました。。

演劇倶楽部「座」サイト

以来、「座」のみなさんとも「うを座」のみなさんとも懇意にして頂いておりまして、気仙沼での活動はそこから広がりを見せ、プロジェクトの活動は障害者の社会活動支援団体「NPO法人 ネットワークオレンジ」さんや気仙沼大島のみなさんのご協力を得て一連の活動につながっていきました。昨年末から気仙沼での活動は5回を数えて、今は「文化の復興」を見据えて新しい活動を気仙沼で展開しようと考えております。

ネットワークオレンジさんサイト

それにしても。。気仙沼にはおいしいものがいっぱいあるね~。。

思い起こせば ぬえの支援活動も、3年ほど前に石巻と気仙沼で行われた師家の学校公演で出会った子どもたちのすばらしい印象から始まりました。で、このとき気仙沼では ちょうど10月の戻りガツオの季節で、それを初めて食べた能楽師一行はもう、びっくり仰天。世の中にこんなおいしいカツオがあるのか。。

そんなこともあって、もちろんプロジェクトの活動は住民さんに元気をお届けする事に尽きるのですけれども、気仙沼に滞在中 ぬえはずうっと「カツオ~~、カツオ~~!!」と叫んで周囲を困らせておりました。(^◇^;)

ところがあいにく ぬえらのプロジェクトの活動はいつも不思議と戻りガツオの時期をはずれ。。先日8月の活動でもあいかわらず ぬえは「カツオ~~、カツオ~~!!」と叫び続けてをりました。もうここまで来ると さまよえる亡者。。

で、「うるせえなぁ。。」と思われたのか、まずは冷凍の戻りガツオ。。これは去年獲れたものですね。今年のカツオの時期はもう少しだけ先だから。これを気仙沼の関係者さまに送って頂きました。

ところが「うを座」さんの方から「今はサンマが旬ですよ。送ってあげましょうか?」と、オドロキのお申し出を頂きました。そして今日到着したのがトップ画像のサンマ~~~!!

気仙沼で獲れたてのサンマが、氷も溶けないままで東京に到着するとは。。すごい時代になったものです。そしてお礼のメールを差し上げたらすぐに返事を頂きまして、「三枚におろして冷凍するといいですよ。新鮮だからそれでお刺身もおいしく頂けます」とアドバイスが。数100kmも離れているふたつの町同士でこんなやりとりが出来るなんて。。と驚く ぬえはおじいさんかっ

改めましてサンマ、ありがとうございました~~

サンマ~~

喰うぞ~

サンマ~~

第9次支援活動<雄勝町・気仙沼>(その10…大須小学校で自主公演)

2012-09-20 02:00:20 | 能楽の心と癒しプロジェクト
公演会場の大須小学校は雄勝町の中心部よりもずっと奥、雄勝半島の先端に近い東側に面した大須地区にあります。

最初に相澤さんからこの大須地区での公演の話を聞いたとき、まずはその地理的な関係を考えて、公演ができるほど復興が進んでいるのか不安に思いました。ぬえはもう1年以上 石巻に通い続けていますが、じつは雄勝町にはほとんど。。いえ、たった1回しか足を向けたことがありませんでした。それほど石巻市内からは遠い場所なのです。その1回というのが、公民館の屋上に津波で運ばれた観光バスが乗っているありさまを視察しただけで。その時も周囲は壊滅的な被害を受けていました。

このように土地勘のない雄勝町なのに、大須地区はさらにそこよりも岬の先端にある集落、と聞いて、これは尋常ではない状態であろうと ぬえは考えたのでした。なにせどの町でも津波被害の復興は市街地から始まり、郊外になるほど その手は届かない。。場所によっては復興を諦めたかのような、見捨てられたような状態だったのです。石巻の中でも中心部からは遠い雄勝町で、ましてその中でも またはずれに当たるような大須地区、そうしてそれが海に面した岬の先端に位置する、となれば、経験上、つい悲観的になってしまう ぬえなのでした。

ところが意外や、大須地区は津波被害はそれほど深刻ではなかったとのこと。これは本当に意外な答えでしたが、どうやら山が迫った土地で、集落は比較的高台に建てられてあったために津波が到達した地域は限られていたようなのです。

実際に大須地区を訪ねてみて、なるほど本当に山がちな地形です。まずは雄勝町の中心部を通って。。ここは以前にもちょっとだけ見た通り壊滅的な状態でしたが、そこから大須地区まではぐるっと海岸線を通って行く道もあるのですが、それはかなり遠回りで、到着時刻を心配していた ぬえらプロジェクト一行に同行してくれた相澤さんのアドバイスで選んだのは山を越えるルートでした。細くて険難な山道を、それでも30分も走ると ようやく大須地区に到着。それでも海からはずっと高い位置にある道を会場の大須小学校に向かいました。この間ほとんど海を見ていませんから、なるほど津波はここを通り過ぎて、低地にある雄勝町の中心部を直撃したように思われました。

大須小学校はちょうど夏休み期間中で、事前に学校にお願いして体育館の使用許可を取りつけ、この日は地区の消防団さまから鍵をお預かりして公演準備に取りかかりました。今回は「能楽の心と癒やしをあなたに」と題する、プロジェクトとして2回目の自主公演で、それならば、と ぬえは公演以外の部分で、住民さんに楽しんで頂ける企画を考えていました。一番よいのは炊き出しボランティアさんと連携して、ちょっとしたお食事を提供することでしたが、これは実現せず、代わりに静岡県・伊豆の国市で ぬえが指導を続ける「子ども創作能」のお母さん方からの支援物資が今回も大量に寄せられましたので、そのバザーを行うことにしました。

バザー、というとフリーマーケットのような格安の露店販売を思い浮かべますが、被災地でバザーといえば、支援物資の無償での提供のための集会を言うことが多いです。今回のバザーもそれで、提供品としてはまずは「子ども創作能」の保護者らしく子ども用の大量の玩具とか衣類など、そうしてこれは ぬえの考えで、扇風機も4台提供することができました。



扇風機は真夏の時期でしたので必需品。しかし去年のこの時期は扇風機がなくて被災地ではかなり困ったのです。原発事故の影響で計画停電が実施され、節電が声高に叫ばれた去年の夏。日本中で扇風機が買い占められてこちらでは避難所は扇風機不足でした。そのうえ津波によって運ばれたヘドロに寄生したハエが大量発生して、まあちょっと今では考えられないような劣悪な環境でした。

あれから1年が経って状況はまた変わり、避難所は閉鎖となって住民さんは仮設住宅に移られたため、扇風機は家族単位でより多くの需要があるはず、と考えた ぬえはあちこちに扇風機の提供を呼び掛けて、そうして新品の扇風機を少々、ですが集めることができました。これを上演中は会場でまわして住民さんに涼をとって頂き、また別に伊豆の国市の観光協会さんらのご協力で団扇も大量に用意して、これらはみんな終演後にお持ち帰り頂くこととしました。

公演はワキのNさんと笛のTさんと3人で上演した『松風』。この曲の被災地での上演についてはいろいろ考えるところもありますが、人を愛する切実な美しさが込められているこの能を上演することは ぬえにとって重要な事でもあったのです。これまでも何度か短く切り詰めて、上演場所を慎重に選んで上演したことはありましたが、今回は短縮版とはいえ1時間近くの上演時間が掛かりました。結果的には熱心に見てくれる方も多かったのですが、やはり能を初めてご覧になる方には難解でもあったかなあ、とも思いますね。そりゃ、『船弁慶』や『土蜘蛛』のような派手な曲が上演できれば誰にでも喜んで頂けるのだけれども、プロジェクトの人数ではそれは難しく。。これから長い時間を掛けて能に親しんで頂けるように、こちらも努力を重ねていきたいと思います。







終演後はプロジェクトメンバーから住民さんを激励してもらい、バザーの物資もすべてお持ち帰り頂いて、無事に公演を終了。急いで後片づけをし、体育館を原状に戻して退出。



ところがここで思いがけないことが起こりまして、ぬえの車も、ワキのNさんの車もほとんどガソリンの残量が不安な状態になっていました。前日に石巻に到着し、この日は早朝に石巻を出発して赴いた雄勝町。ところが大須地区へ向かうその距離と急な山道が燃料を予想外に消耗して、ガソリンの補給を無理しても前日にしておかなかった事が悔やまれました。

ここでは連絡を受けた相澤さんのお友達が備蓄しているガソリンを提供してくれまして。。ああ、住民さんにご迷惑を掛けてしまいました。何度もお礼を言って、次の公演地である雄勝町中心部のイベント会場へ急ぎました。

ふじのくに子ども芸術大学

2012-09-17 16:16:14 | 能楽
土曜日、日曜日と伊豆に行っておりました~

日曜日に子ども創作能の稽古があったのですが、土曜日は「子どものための能楽講座」というものの講師を勤めて参りました。これは静岡県が主催して子どもに芸術文化を体験させることで創造性を養う「ふじのくに子ども芸術大学」の講座で、応募により県内各地で講座が開かれます。

ぬえの場合は「子ども創作能」の主催団体が ぬえに「やってみない?」とお勧め頂いて応募したのですが、主催団体は県の事務局との交渉や会場の確保、事務手続きから当日の受付まで引き受けてくださって、とてもありがたい事でした。

考えてみれば「子ども創作能」の指導も ぬえはすでに13年間続けているわけですが、いまの参加者の子どもたちは能をちゃんと見ていないのですよね。もともと子ども能は、どちらかといえば能を子どもたちが演じる、というよりは「能の形式を用いた創作舞台」で、ましてや子どもたちが演じるのは地元の歴史的事件や民話を題材にした新作の台本です。ちょっと能とは別のものなので、この講座はとても良いチャンスでした。子ども能の参加者には、自分たちが携わる「能」の伝統的に受け継がれてきた古典の作品に触れ、また子ども創作能では用いない本物の能面や能装束を体験するのです。これらを知ってはじめて「子ども創作能」というものの存在価値が生まれる、と言えるわけですからね。

講座では、まず古典の能の作品を実際に見てもらう、ということで、ぬえが紋付の上に長絹や鬘帯、天冠を着け、また面を掛けて、簡易な形ながらも実際の能に近い条件で『羽衣』を演じました。『羽衣』は 言うまでもなく静岡県が舞台の作品。伊豆から見たら三保の松原は駿河湾をはさんで対岸という感じの場所ですし、なんと言っても富士山は伊豆からは本当に大きく見えるので親近感もあるのですよね。

ついで面の解説なども行って、さていよいよ 子どもたちにも動いてもらいます。お手伝いに来てもらった ぬえの師家の同門UさんとKさんと手分けして、ぬえは『羽衣』、UさんとKさんには『熊野』の仕舞の稽古。実際にはどちらも 子どもたちがすぐに覚えられるように型を簡略にしたのですが、子どもたちはやっぱり すぐに覚えた模様。まあ、相変わらず子どもたちの記憶力は底なしですわ。(^◇^;)

『熊野』も これまた静岡県にゆかりのある曲ですね。もうひとつ、この曲を選んだ理由は、『羽衣』とはまた違った装束を身につけるためです。このあと実際に装束を着せて、その違いも見て欲しかったのです。『羽衣』も『熊野』も、ちょっと小学生には難解な曲かもしれませんが、今回はあえて飛んだり跳ねたり、派手な曲は避けて、ゆったりとした舞を見せる曲を選びました。派手で面白い曲の方が子どもたちも喜ぶだろうけれど、繊細な面の表情とか動作の優美さとか、そういうところを感じ取ってもらいたいと考えたのです。

さて2つのグループに分かれてしばし稽古をしてから、ちょっとした仕舞の発表会になだれ込みました。(^_^; 『羽衣』、『熊野』、それぞれの装束を着けて実際に舞ってもらったのです。ぬえの所蔵の装束にも限りがあり、また着付けの時間もそれほど取れないので発表する子は数人でしたが、これはなかなか面白いものになりました。トップ画像がその『熊野』の発表。大人の装束なのであちこちダボダボなのは仕方ないにしても、なんかヨチヨチ、かわゆい熊野御前になりました~(^^)V



こちらは『羽衣』。紫の長絹はこの曲には使いませんけれども。。こういう装束は子どもに着せるのには少々無理がありますが、生地を縫い込んだり、即席に工夫をしてなんとか着付け成功。。でもなんか重たそうですね~~。ホントに飛べるのかいな。



が、予想に反して子どもたちは軽々と舞ってみせてくれました。



今回の参加者は子ども創作能の出演者が多かったですけれども、そうでない一般の子どもたちも何人か参加してくれました。『熊野』ではそんな、初めて能に触れる子も装束を着てみたのですが、こちらも ずっと以前から子ども能に携わっているような余裕もあったのですよ。やはり子どもたちに日本の伝統文化を伝えるのは必要。あの吸収力ならば、ちゃんと学校で教えれば、いま周囲にあふれる外国の文化と同じように自然に日本の文化も身近なものになるでしょう。

最後に、これは ぬえはどこででも講座があればやるのだけれども、古い扇と現代の扇の職人さんの仕事の違いを見てもらいました。こういうこと、長い長い歴史を持った日本のような国でなければできない事なのですよね。今、それと気づかないうちに外国の文化にばかり慣れ親しんでしまっている我々。「日本くらい、自分たちの文化を捨ててしまった国はほかにないのですよね。。」何年か前に、小田原で聞いた児童教育の専門家の講演が ぬえの耳をよぎります。そうして、ぬえは日本の文化のすごさを。。世界で一番の奥深さを持った文化と確信しているから、これを子どもたちに理解してほしいのですよね。

ぬえ、キミたちに期待してます!

第9次支援活動<雄勝町・気仙沼>(その9…雄勝町への道)

2012-09-11 01:05:39 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さて朝食はコンビニ弁当(いつもこればっか)で簡単に済ませて、今日の公演地である石巻市の雄勝町に向かいます。

市立大須小学校の体育館を拝借するプロジェクトの自主公演で、午前10時開演と決めてあったので、楽屋入りの時間を逆算して、朝7時に石巻を出発することになりました。今回のプロジェクトに同行してお手伝いをしてくれる能楽写真家のYさんと、同じくお手伝いに同行してくれたKさんをホテルにお迎えに行き、つぎに開北にて昨日もお世話になった相澤さんを拾って、雄勝町に急ぎました。

雄勝町。。じつは これほど長く石巻で活動しているのに、ぬえはここにはほとんど来たことがありません。ようやく今年の2月に石巻で活動をしている時、たまたま笛のTさんが「津波で雄勝公民館の上に乗り上げた観光バスが撤去されることになったらしい」という情報を得て ぬえに伝えてくださったので、撤去される前に見に行った程度。この雄勝公民館も震災の爪痕を伝える場所としてかなり有名になりましたが、ぬえは撤去が決まるまで見たことはありませんでした。それほど雄勝町は石巻市内からは遠く離れた場所にあるのです。

現在の石巻市は、平成の大合併で石巻市・雄勝(おがつ)町・河北(かほく)町・川北町・桃生(ものう)町・河南(かなん)町・牡鹿町が合併したもので、巨大な面積を持っています。ぬえも震災当初の昨年6月にここに来たとき、「石巻市は端から端まで車で1時間半も掛かる」と地元ボランティアさんに聞いてびっくりした記憶が。

そんなわけで急いで雄勝町に向かったのですが、目指す大須地区は雄勝の中心地域よりもさらに遠い場所でした。いや、それは事前に調べておいたのですが、やはり地図の縮尺にうまく自分の距離感覚がマッチングできず。。上演準備の時間を考えると楽屋入りの時間は重要なので、正直、移動中はかなり焦ったのですが、さすが市民の相澤さんが近道をちゃんと教えてくださって、時間通りに到着。

。。じつは今回の雄勝町での活動は、この相澤さんがセッティングしてくださって実現することになりました。というのも、雄勝町の大須地区は相澤さんの出身地。ご実家があるのです。相澤さんは現在石巻の中心地区にお住まいで、ぬえたちが年末に市役所で公演をした際に、たまたまお客さまとしてお出でになったのでした。そこからプロジェクトとの関係が始まり、次回の活動の案内状をこちらから郵送したり、それをご覧になって相澤さんは公演にお出ましになり。。いつのまにか石巻でのプロジェクトの活動では全面的に同行されるようになりました。いや、珍しい話かもしれませんけれども、いつの間にか、自然に、ですね。「今日はありがとうございました~。明日の公演もいらっしゃる?」「はい、参ります」ってな感じで。どういう経緯でかなのは記憶にありませんが、そうこうしているうちに楽屋入りからご一緒するようになって、石巻の近郊の東松島市や女川町での活動にも同行頂いて、そうなるとこちらも申し訳ないからご自宅まで送り届けたり。そんなうちに「ちょっとここ、手伝ってください」「せっかくだから舞台上で後見やってくれません?」なんて図々しくもお願いするようになって。もうs ぬえたちは相澤さんのことを「事務局長」と呼んでおります(笑)。そうして「私の実家の雄勝にも行ってあげてくれませんか?」「喜んで~」という展開になって、これが今回の公演でついに実現になったのでした。

雄勝町での公演は仮設住宅を廻るのではなく小学校の体育館を拝借する自主公演でしたから、会場拝借の交渉から現地での宣伝まで、相澤さんには本当に大変なご苦労を頂いたと思います。車の運転をされないからなおさら。。鉄道が通っていない雄勝町には公共交通機関としてはバスしかなく、それも石巻駅からの直行便はなし。。それでもご実家ですから乗り換えには慣れたもので(多分。。)少ない本数のコミュニティ・バスを駆使して雄勝町に行かれて、会場の確保からチラシの配布まで、何度も活動をされたのです。ぬえは東京に送られてきた大須小学校の「使用許可願い」の書類を作ったり、教頭先生と電話で拝借についての打合せをした程度でした。

こうして何とか準備も整い、雄勝町・大須小学校での公演が始まりました。

第9次支援活動<雄勝町・気仙沼>(その8…石巻のいま)

2012-09-09 01:43:37 | 能楽の心と癒しプロジェクト


8月現在の石巻。まずは名物になっていた「木の屋」さんの「鯨缶」跡地。水産加工工場の巨大タンクに製品の鯨肉缶詰の絵柄が描かれたもので、もとは水産加工会社のシンボルとして愛されていた このタンクが津波で流されて国道の中央分離帯に取り残されてしまったものです。以前の姿はこちら!


↑2011年7月


↑2012年1月


↑2012年6月

つい先日(6月30日)に ついに解体されてしまったのですが、震災以来1年3ヶ月に渡ってこの地にずっとありました。こういう被災した建造物を「震災モニュメント」として残そう、という動きは各地で巻き起こり、また一方住民から「震災の記憶を呼び起こすものは残して欲しくない」という意見も起こり、なかなか解決は難しい問題だと思います。ぬえはどちらかといえば住民さんの気持ちに近いものがあるのですが、この「鯨缶」だけは、まず人的被害がなかったし、なにより津波の凄まじい破壊力は伝えながら、見る者に悲愴感よりも、むしろユーモラスな感じを与えていたので、こいつは残しておいても良かったかな、と思います。

しかし「木の屋」さんの「今は保存にかける費用よりも工場の再建の方が急務」(大意)という判断で撤去が決まりました。なるほど、こういうものを公費で保存するなんて、まだまだ今の段階では無理だし、そんなことにお金を掛けるべきでもないでしょう。津波の被害の記憶をどう風化させずに後世に伝えるか。。このデジタル化社会の中で津波被害の映像などは鮮明に残るわけですが、やはり現地に来て肌で感じるものは残しておくべきだ、とも思います。それが更地に残された建物の残骸である必要があるのか、というと ぬえにはちょっと疑問なのですが、そうでなければ、明治の三陸津波の被害を伝える石碑と同じようなものになってしまう。現実に、今回の大震災の被害を伝える石碑はすでにいくつも建てられているのです。
こちらは岩手県釜石市の鵜住居地区に建てられた石碑(昨年末撮影)



こちらは宮城県気仙沼市の小泉地区に建てられた石碑(この8月に撮影)



過去、度重なる津波被害の度に建てられてきたこのような石碑。それでも今回も甚大な被害が同じ場所で起きました。。それでは一体何を残せば、それを見る人に次の災害に対する備えを怠らせない警鐘になるのか?? それが重大な人的被害を出した建物の残骸である必要はあるのか? それではあまりに当地の住民さんにとって重い負担になりはしないか? 。。ぬえには簡単に答えの出せない問題です。被災地の市民は誰も、自分たちの故郷をいつまでも「被災地」と呼ばれたくはないでしょう。ぬえたちプロジェクトも、現地での活動で住民さんと話すときは「被災地」という言葉は決して使わないです。

閑話休題。。石巻の現状に戻りまして。。

こちらは北上川の河口、日和大橋の下あたりの石巻港です。何度も何度も渡っている日和大橋ですが、はじめてその下側に入り込んでみました。これは灯台のようにサインを船舶に送るブイでしょうか。崩れかけたままの堤防に突き刺さったまま。。



こちらは石巻市内で最も大きな被害を出した区域である門脇・南浜。ほとんど更地になってしまいましたが、まだいくつかの建物が被害を受けた状態のまま残されています。





遠くに甚大な人的被害を出した門脇小学校が見えます。



先日聞いたところでは、この地域の再開発計画がまとまり、なんでも門脇小学校は取り壊しとなり、その校門の前の道を境に、そこより海に近い地域は建築禁止の区域となるのだそうです。日和山との境目の断崖からほんの数十メートルが住宅街、そこから海側1kmほど? は建築禁止ということは、巨大な公園。。震災のメモリアル公園のようなものになるのでしょうか。

変化はとめどもなく。石巻も進歩を続けていっているのでしょう。もちろんそうでなくてはなりませんですね。ぬえたちの活動が少しでも元気を与えられればよいのですけれども。。

第9次支援活動<雄勝町・気仙沼>(その7…渡波)

2012-09-07 20:10:15 | 能楽の心と癒しプロジェクト
今回の石巻での宿泊は渡波(わたのは)という地域にあります。渡波は石巻市街からは東にあたり、牡鹿半島の付け根にあります。石巻湾の東端から巨大な万石浦(まんごくうら)という湖。。ではなくて陸地に深く入り込んだ内海が石巻湾とつながる細い水路の周辺までに広がる町です。石巻から、やはり牡鹿半島の付け根の女川に行くにはこの渡波を通って万石浦に沿って西に向かうことになります。

ぬえは去年の秋頃から渡波を見ていましたが、あまりにひどい被害に言葉がありませんでした。そうして、年末頃に見たときも、ほとんど瓦礫の片づけは進んでいないようでした。雄勝や河北町でも思ったことですが、市の中心部から離れるに従って復興の遅れは目につきます。

渡波。。ぬえとこの町との関係ができたのはこの日が初めでしたが、思いはずっと持っていました。年末に開成仮設住宅で出会って、ぬえの前で「津波ごっこ」をかいま見せた小学生の女の子たち。彼女たちは渡波の住民でした。東京の ぬえの友人の「WAHAHA本舗」の芸人さんと話したときも、彼は渡波にボランティア活動に行ったそうでした。

この日、ラジ石への出演と、観光協会さまでの出演を終えて、住民ボランティアさんのご自宅。。こちらも被災住宅に戻って、シャワーをあびて。さてワキのNくんと笛のTさんはすでに ぐったりと睡眠モードだったようですが、ぬえはそのままご近所で営業している居酒屋さんへ。

。。と言っても、付近は損壊した家とかあちこち空き地が目立ち、淋しい町になってしまっています。居酒屋さんの ちょうちんの明かりがまぶしい。お店ではカウンターに何人かの常連さん。。若い人が多かったですが、いらっしゃったので ちょっと遠慮してこちらのテーブルで一人でビールを飲んでいました。。が、ほどなく「こちらにどうぞ~」と常連さんに声を掛けられてカウンター席に移らせて頂きました。

ここで聞いた震災当時の渡波の有様。。ぬえが泊まったこのあたりは牧山が背後に迫った渡波でも比較的平地があるところなのですが、津波は山まで迫ったのだそうです。居酒屋さんのご主人は、大地震で隣家の庭に飛び込んだ自分のトラックに飛び乗り、急いで山の方まで逃げて助かったそう。常連さんのお話もそれはそれは凄まじいものでした。。「津波を生き延びた飼い犬が それ以来海を怖がるんだよ」「うちの犬は屋根の上に上って うんちをするんだよ」。。これは無防備になる瞬間には不安で地上にいる事ができないらしいのですって。。

震災当時の話はもっと凄まじく、まず食料がなかった。。「自衛隊がやっとやって来て支援を受けるまでの数日間、言葉は悪いけれど、ここの人たちは みんな『略奪』をやったよ。そうしないと生きていけなかった」。。もちろん強盗のようなものではなく、被災した食料品店から食料を調達しなければ食べるものさえなかったのだそうです。このへんにも市の中心部から外れた地域ならではの「格差」があったようで、支援にも時間がかかり、生活。。というか生きてゆくことが難しい時期が本当にあったのです。支援が始まってからも水は飲料水だけが配給されたので、入浴したのは それよりもずっとずっと後のことだったそう。

やがてお店を出るとき、居酒屋さんのご主人が「活動、ありがとな。夜道が暗いからこれ持って」と言って、小さなLEDライトの付けられた使い捨てライターを渡してくれました。

宿舎に帰ると、NくんもTさんもすでに熟睡していましたが、住民ボランティアさんは深夜まで作業中。なんと翌日、目の前の地域集会所の駐車場で「盆踊り」を企画しているんですって! 「まあ。。住民さんもあまりいないから、それだけ集まるかわかんないですけどね。でも子どもたちが楽しみにしてるから」と言って作業を続けられ、ボランティア仲間の人たちもずっと出入りが続いていました。

翌朝、早く起きて、周辺を見て回りました。トップ画像は市立渡波中学校で、女川に続く国道に面し、背後100mほどで海に至るこの学校ももちろん被災して、いまは瓦礫置き場になっていました。中学校のお隣はやはり市立の女子商業高校。

こちらも体育館がひどい損害を受けていましたが、そのままになっていました。

そのまま石巻市街に車を走らせて様子を見に行きました。2ヶ月前にも来たばかりですが、刻々と変わっていく街並みの変化を確認だけはしたいと思いまして。

第9次支援活動<雄勝町・気仙沼>(その6…石巻観光協会さんで『松風』)

2012-09-06 01:42:14 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さてラジ石でも宣伝したので、観光協会さんに戻って早速『松風』の上演準備。

この上演は今回後見を勤めてくださる石巻市民の相澤さんのリハーサルを兼ねての上演です。。というのも、翌日に予定されている石巻の雄勝町の小学校で『松風』を上演する予定になっていまして、このときに相澤さんに後見を勤めて頂くことになっていました。資料やビデオもあらかじめ送っておいて、そうしてラジ石出演の前に物着の稽古も済ませていましたので、この公演が総仕上げ。

そういえば観光協会さん。。観光物産の総合センターである「ロマン海遊21」さんでの上演も、もう何度目になるでしょうか。思い出すなあ、最初、去年の9月に突然乗り込んで、「ここで能を上演させてくださいっ」なんて言って、か~な~り怪訝な顔をされて。。それこそドン引き状態ながらムリヤリ認めて頂いて。いまではプロジェクトの石巻での最大のご協力を頂いているお相手のひとつです。本当にお世話になっていますね~~

今回の『松風』はちゃあんと物着もある本格的な上演です。この日はかなり省略したけれども、それでも上演時間は30分近くかかったのではないでしょうか。お客さまは通りすがりの石巻市民のみなさん。長い能だけれども、かなりキチンとご覧頂いたようでした。





この公演の前に、いつもプロジェクトの活動を撮影してくださる東京の能楽写真家のYさんや、今回ご希望があってプロジェクトの活動に全面的に同行されたKさん、さらに松島町在住で笛のTさんのお友達。。こちらも何度もプロジェクトの活動におつきあい頂いているMさんも駆けつけてくださり、なんだか初日から賑やかな控室。そうして公演の終了後に控室に戻ると、東松島市の能面作家・木村さんと、石巻で同じく面を打っておられる梶原さんが顔を見せにいらっしゃいました。



木村さんは東松島で震災前から般若面ばかりを趣味で打っておられる方。しかし…震災でお嬢さんとお孫さん3人を同時に失ってしまわれたのです。一時はなにをする気力もなくなってしまわれたそうですが、その後、仕事途中で置きっぱなしになって投げ出されていた面を見ているうちに、これを続けることがひとつの供養とお考えになって、面打ちを再開されたのでした。このお話に驚いた ぬえは、その後東松島で木村さんの能面展との共催という形で仮設住宅を廻って公演をしたこともありました。いまちょっと東松島での活動は停滞気味ですが、いずれは木村さんの打った面で舞うことができればいいな、と思っております。

梶原さんは、つい先日、6月の第8次活動の際に地元紙「石巻かほく」に掲載されたプロジェクトの活動をご覧になって ぬえにコンタクトを取られた方です。その際は公演にも駆けつけて来られたので、控室で ぬえ所蔵の面をお目に掛けたところ、かなり細部まで面についての知識がおありでしたので、次に ぬえたちが石巻に来るときには、自作の面をご持参頂くようご助言申し上げました。このたびはその約束を違えずにお出でになったもので、自作の面を何面かご持参されました。

そうですね。。どちらの方も、基本的な才能はお持ちだけれど、もう少し丁寧に打たれるといいかな、と思います。とくに裏。それと面の厚さとか、彩色の濃淡のつけかたとか、やや違和感もあるのが残念。やはりお手本となる面を身近に置いておいて、常に見ている事は難しいでしょうから、その辺りが課題でしょうか。それでも才能はどちらの方にもあると思います。

…というか、面を打とうと考え、これが長期間続いている方に才能がないわけがないです。基本的なデッサン力というか絵心、みたいなものがなければ、能面のような繊細な彫刻は まったくモノにならないわけで。。それでも趣味であってもずっと能面に向き合う方は、絶対的にそういう絵心の才能がなければ続けられるものではないでしょう。。ぬえですか? もちろん ぬえ自身は面を打とうなどと考えた事は一度もありません! ましてや面を打つことが如何に大変な作業の連続かがわかった現在では。。面を打つなんて、あり得ない。。それほど絵心がない ぬえのような者にとっては、面を打つというのは大変なことで、面打ちをされる。。ぬえも今回の一連の東北地方の支援活動では、ある面打ちさんに絶大なご支援を頂いたのですが、このような面打ちさんの努力や才能というものは羨望と尊敬の思いで見るよりほかありませんね~~

こうしてこの日の催しは終わりました。今回の活動ではこの翌日から本格的な活動が始まる予定になっていたのですが、その前日に現地入りした ぬえと笛のTさんは、これも予め決まっていたラジ石への出演のほか、それじゃ、っていうので、急遽、石巻観光協会さまにお願いして、またまたこちらで上演させて頂いたのでした。まずは初日の活動としては上出来ではないでしょうか。

片づけをして観光協会さまを辞して、夕食は地元ローカルでは有名なお店で名物の釜飯と「陶板焼きハンバーグ」を賞味。こうしているところにワキのNくんもそろそろ到着、と連絡が入りました。ぬえは店から商店街の道路まで出て待ち受け、Nくんの到着とちょうど出会い、駐車場に誘導して、さてNくんも交えて夕食の続き。

こうして長い1日は終わりました。ぬえたち能楽師の宿所の住民ボランティアさん。。石巻の渡波(わたのは)という地区の激甚被災地のただ中のご自宅に戻り、津波で壊れた浴室の代わりに屋外にプレハブで建てられたシャワールームで汗を流して、疲れ果てて就寝。。

。。と言いたいところですが、ぬえだけは一人で夜の渡波。。津波の被害で人家もあまり残っていない中で、なぜか開いていた近所の居酒屋さんに飲みに行きました~

第9次支援活動<雄勝町・気仙沼>(その5…ラジオ石巻に出演②)

2012-09-05 09:14:17 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ラジ石への出演が決定になって、ぬえにお電話でその旨が伝えられ、また出演時間の打合せなどもその頂いたお電話でしたのですが、このお電話をくださったのが、アナウンサーの高橋幸枝さんでした。

で、よくお話を伺ってみると、昨年 ぬえたちの公演の宣伝原稿を読み上げてくださったのも、また ぬえたちのイオンモールでの公演の司会をしてくださったのも、この高橋さんだったのでした。いえ、ラジ石に女子アナが高橋さん一人しかいない、というわけではないんでしょうけれども、なんとも偶然な、そしてまたそれならお話も合いやすいかも、と期待をこめて打合せをしました。

さて出演の詳細が決まったので、笛のTさんと石巻市民の相澤さんにそれぞれ連絡を廻しましたが、ここでまた。。

これを聞いた相澤さんは「あら、幸枝ちゃんですか!」と意外なお返事。よく聞いてみると、なんとアナウンサーの高橋幸枝さんは相澤さんのご近所さんで、幼い頃からよく知っておられた、とのこと。「小さいときは、幸枝ちゃん、幸枝ちゃん、って呼んでいたんですって。いや~、こんな偶然ってあるんですね。世間は狭い。いえ、石巻に若い女の子が高橋さん一人しかいないわけではありませぬ。

そんなこんなで昼食後に紋付に着替えてラジ石のスタジオに参りました。すでに番組は放送中でしたが、音楽をかけている間に細かい打合せもできて、意外に時間に追われる感じではなくのんびりムードでスタジオに入りました。もちろんこのときに相澤さんと高橋幸枝さんは「あら~~!!」「どうしてここに~~??」というやり取りはあったとして。(笑)

さてスタジオ内に入ってみると、パーソナリティの鈴木元気さんと一緒に囲む形のテーブルの上にはヘッドフォンが。。

ぬえたちはあらかじめ、せっかくラジオに出演するなら少し演奏をしようか、という相談がまとまっていたのですが、 ヘッドフォンを着けて演奏するのは想定外でした。でも、それは ぬえだけだったようで、Tさんも相澤さんも そそくさとヘッドフォンを着けてます。ん~、まあ、NHK―FMの謡曲の録音の際にはヘッドフォン着けて謡うので、経験がないわけではないんだけど。。なんだかやりにくいかなあ、と思って 一度はヘッドフォンなしで放送に臨もうかと思った ぬえでしたが、みんながヘッドフォンを着けるので付和雷同。

そしたら、ヘッドフォンには今放送中のそのままの音声が流れていました。ちょうど音楽がかかっていて、その間に ぬえたちはスタジオ内の席についたわけですけれども、この音楽が終わったら ぬえたちの出番と。。進行がよくわかるので、こりゃヘッドフォンを着けるのは必須でした。

かくして放送は始まり、鈴木元気さんも上手に能の魅力や 我々プロジェクトの活動の意味を引き出してくれて、とてもありがたいことでした。



ぬえとTさんは能『松風』の一節を謡い、また笛を吹き、ぬえはこれから石巻で「文化の復興」を視野に入れて活動を続けようと思っていることなど話し、相澤さんは翌日の雄勝での公演のことを話し。。鈴木元気さんは黒沢明の映画に出てくるような雰囲気で。。と話すと、Tさんは「ああ、その映画には祖父が出演していました」なんて答えて驚かせたり。。さらにこれから夕方に石巻駅前でライブをやりますよ~、という宣伝もしっかり。打合せでは15分ほど、ということでしたが、出演は優に30分を超えていました。



最後には先日の「星と能楽の夕べ」の終了時にとっさに出たフレーズ「石巻大好き! 石巻最高~!」を、今回は ぬえとTさん、相澤さんで大声で叫んで終了。



スタジオの外に出ましたが、音楽をかけている間に鈴木元気さんもスタジオの外に出て しばし ぬえたちと懇談。まだまだ心に傷を負った人も多いので、そっと、優しく心をケアしてあげてください、と激励を受けて、またその間に高橋幸枝さんはたった今の放送を録音した音声をすぐにCDに焼いて、ぬえらに渡してくださいました。こうしてプロジェクト初のラジオ出演が無事に終了しました。ラジ石のみなさんにはいつもお世話になり、また親切にして頂いております。これからもよろしくお願い申し上げます~~

第9次支援活動<雄勝町・気仙沼>(その4…ラジオ石巻に出演①)

2012-09-04 11:03:18 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ラジオ石巻は地域コミュニティ局で、正式な名称は「石巻コミュニティ放送」といいます。。が、震災後に臨時災害FM放送局「いしのまきさいがいエフエム」として放送を続けています。

震災当時、備品が散乱しパソコンの通信が途絶する中、唯一生き残った無線LANを備えたPCをスタジオに持ち込んで放送を続けたそうです。インターネットを通じて情報を流すかたわら、リスナーに向けてメールでの情報提供を呼び掛けたところ、次々と救助を求めるメールが。。時間が経つにつれてメールは安否確認を求める内容に変化していき、やがて日が傾くと、自家発電の電源は放送機器のみに使うことにして、スタッフは懐中電灯やらPCの画面の明かりを頼りに放送を続けました。。しかし、やがて放送が中断されてしまいます。

技術担当者が送信所のある日和山に向かうが、津波の被害で道路は寸断され、また冠水のため進むことができず断念。。放送が再開されたのは2日後の3月13日だったそうです。このあたり、ぬえは今年の3月に石巻に行った際に「ラジオ石巻」が震災1年を契機にその当時を振り返る特番を1日中流しているのをずっと聴いていました。現実は相当に大変だったらしく、通行止めの道路のために日和山に近づけないところ、スタッフの一人が自衛隊員に放送再開の必要性を説得して特殊な車両に乗せてもらい日和山に到達することができた事、局舎から見えた門脇地区の火災の様子。。(これは毎回プロジェクトに同行してお手伝いを頂いている石巻市民の相澤さんからも伺いました。なんでも河南の石巻赤十字病院から真っ赤に染まった空が見えて、大火災を予感したとのこと)

その後4月には当時の管首相も石巻を視察した際に放送に生出演したり、国内外からの援助の橋渡しをしたり。。八面六臂の大活躍を続けています。とはいえ放送局舎も被災したため、現在は石巻駅前のビルの3階にスタジオを移転して放送中。

ぬえたちは、昨年の夏頃からラジオ石巻。。略して「ラジ石」さんには度々足を運んでいまして、能楽の上演活動の宣伝を放送して頂いていました。お願いに上がった笛のTさんは、担当の方にいきなり「公演の宣伝。。わかりました。それじゃここに原稿を書いて」と言われて放送原稿まで書き上げたそうです(笑)。

その後、河南のイオンモールのイベントスペースで公演している時に、司会者の女の子が声を掛けられて、なんとその子はラジ石のアナウンサーでもあって、ぬえたちプロジェクトの上演情報の原稿を読み上げた、その人だったりしました。なんて奇遇。

そんな事もあってなんだかラジ石にはぐっと親近感も湧いてきて。今年6月にはじめて石巻でプロジェクトの自主公演「星と能楽の夕べ」を上演した際に、いつものようにその宣伝のお願いにスタジオに伺った際に、出演のお願いをしてみたのです。ま急なお願いではその日では無理なのですが、やがて東京に帰ってから活動の主旨などを伝えて交渉を続け、ようやく今回は石巻に到着してすぐ、活動の前に放送に出演させて頂けることになりました。

前述の石巻市民・相澤さんにもご一緒に出演をお願いして、こちらも快諾。やはり市民の立場から呼び掛けて頂くのは大切です。

出演が決まった番組は「復興へ1・2・3はつらつラジ石ワイド」というもので、午後1時~6時まで続く生放送番組。パーソナリティは鈴木元気さんと高橋幸枝さん、とのこと。この番組の中で3時頃から約15分間出演させて頂ける、ということでした。

で、よくよくお話を伺うと、あり得ない偶然がある事がわかって びっくり!