ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

研能会初会(その25)

2007-03-29 20:57:37 | 能楽
後見座にクツロイで「黒式尉」の面を掛けた「三番叟」は常座に出て「面箱持ち」と問答を交わします。

ここで考えておかなければならないのは、「揉之段」を舞った直面の「三番叟」と、「黒式尉」の面を掛けたこの問答の場面以降の「三番叟」との関係でしょう。

「揉之段」が終わったあと、囃子方はいったん道具を下に置いて「三番叟」が面を掛けるのを待ちます。つまり「揉之段」が終わってから、面を掛けた「三番叟」と「面箱持ち」とが問答を始めるまでは、舞台上はシーンと静まりかえっているのです。このように、能で後見座に役者がクツロいで装束を改める事を「物着」と言い、非常に多くの能の中で見ることができます。そして『羽衣』や『杜若』など女性をシテとする曲目では、シテの「物着」の間は大小鼓と笛によって「物着アシライ」という、非常にゆったりとした演奏が彩りを添えるのに対して、『盛久』や『芦刈』など男性役のシテの「物着」では囃子方は「物着アシライ」を演奏せずに、この「三番叟」のように鼓を下に置いてしまいます(しかし実際には、「物着アシライ」の代わりに、この間に間狂言が語りをするなどして観客の目を「物着」からそらすので、「三番叟」のように観客注視の中で「物着」が行われる事はほとんどありません)。

しかし、ここで注意しなければならないのは、能の「物着」では、それまで「直面だったシテが面を掛ける」という「三番叟」のような例はまったくない、という事です。面を掛ける、または掛け替える、ということは、その登場人物の性格を一変する、つまり別人になる事を意味するのです。

特殊な例では『現在七面』と『大会』で、それまで二重に掛けていた面のうち、外側の面を外す、ということが行われますが、前者は龍女として登場した後シテが、日蓮の法力によって怒りの心を解いて菩薩の姿に変身する、という趣向で、上人の超能力によってシテはまさに「別人」となるのであり、後者はもともと釈迦に化けていた天狗が、帝釈天の怒りに触れてもとの天狗の姿に戻ってしまうわけで、こちらもやはり帝釈の法力によって天狗の神通力が失せて「別人」であった姿が元に戻されるのです。どちらも舞台進行上でハッキリと「別人」になるわけで、面を替える必然性はあり、そしてそれは神通力によって可能となる「変身」なので、どちらの場合もそれを行うシテは超人的な力を持った後シテです。

 【注】付言すれば、上記のうち『現在七面』は太鼓が入った特殊な「物着アシライ」が演奏される中で物着を行い、『大会』の「物着」はツレ帝釈天が登場する「早笛」の囃子の演奏の中で早変わりをします。

また舞台上で面を取り替える例に『道成寺』と『葵上』があります。前者は落とされた鐘の作物の中でシテ自らが着替えるので、これは見所からは見えず、一種の「中入」とも考えられます。『葵上』は唐織を屏風にしてその蔭で面を替えますが、これら2曲に共通するのはどちらも前シテの面を「般若」に替えることで、女性が「怒り」によって蛇身となる、という日本独自の文化通念についても興味が引かれるところですが、とりあえずは、この2曲ともシテは「執心」「生霊」という超人的な性格を持っている事を考えるべきで、その意味では『現在七面』や『大会』と同じようにシテが「変身」する事自体には観客には不自然は感じられないでしょう。

こう考えると、いわゆる複式夢幻能のほとんどの曲の前シテは「化身」であり、それはすでに後シテが超人的な人物である事を意味しています。それは「龍女」や「天狗」「鬼女」といった、人間を遥かに超越した強烈なキャラクターとは少し違うかもしれないけれど、幽霊や草木の精といった個性は、すでにそれだけで超人的。そんな彼らの「中入」は、「化身」である前シテが本性としての後シテに「変身」する(と言うか、本来の姿に戻る)わけで、これまで述べてきた超人的な性格を持ったシテの「物着」と同じような意味を持っていると考えられます。

『盛久』や『芦刈』のように、正装に着替える、という純然たる意味の「物着」もありますが、複式夢幻能の「物着」はそれとは意味が違って、前後のシテが装束を改めるのは「変身」する意味が込められていて、その方法は「中入」であっても「物着」であっても、意味の上で大きな違いがない事が多いように思います。従って、たとえば『井筒』や『胡蝶』のように、本来は中入で装束を改める曲であっても、小書によって「物着」となる曲もあって、この場合はワキが待謡を謡わない事から、「中入」との意味の違いは「化身」から「本性」への変化の時間経過の違い(=「その夜本当の姿で現れた」から「やがて本当の姿で現れた」というように)を表す以上には、戯曲上に大きな意味の差異は起こらないのだと思います。

ちょっと話題がズレてきたようにも思いますが。。(^^;) それでも、能では前述の少数の例外を除いては、「物着」で面を替える事はないのです。「化身」から「本性」への変化であっても、それが同じような役柄、すなわち「里女」から「有常の娘の霊」への変身であれば、装束を替えても面を替える事はほとんど行われません。前後を通して一つの「若女」の面で勤める事で、前後のシテが「別人」ではない事になり、これによってはじめて、前シテが「化身」であった事の意味も生きてくるからです。

まして、前述のように直面から面を掛ける「物着」は能の中には例がありません。「三番叟」の「物着」(?)は、それほど特異な演出だと言えると思います。

研能会初会(その24)

2007-03-28 21:34:35 | 能楽
「打掛り」の小書の来歴が本当に大鼓方の遅刻だったのかどうか真偽はともかく、少なくとも現代に演じられるこの小書の演出は、舞台演出として充分に整備されたものです。

先日テレビ放映されたこの小書では、この演出の出発点として言われるような、大鼓方が遅刻した、という言い伝えとはうらはらに、高度に洗練された演出を見ることができました。『翁』が開演すると大鼓方は常の通り面箱・大夫・千歳・三番叟に続いて出(つまり「遅刻」は再現されない)、「座していたれども」のところの「調べ」もありました。そして「翁帰り」で「翁」「千歳」が幕に入り、小鼓が打ち止めると、おもむろに大鼓方は道具を持って立ち上がり、橋掛り二之松まで行ってそこで正面に向いて下に居、これより小鼓が「揉み出し」を打ち出すと、大鼓方も二之松に居るそのままで打ち出します。やがて立ち上がり、大鼓を左腰に構えて打ちながら橋掛りを歩んで舞台に入り、そのまま正先の方まで出て、まっすぐ後方に下がり、所定の位置(『翁』の時の常の大鼓の着座する位置)にて床几に掛かるのです。

これは。。とてつもなく高度な熟練を要する演出ですね。まず大鼓のあの重量を左手だけで支え、打ちながら歩むだけでも驚異的。それでもまあ、これは体力を充実させることで克服は可能だとしても、あの「揉出し」の複雑な間を小鼓からずっと離れた二之松から打ち始め、打ち続けながら舞台に入り、あまつさえ後ろを振り返って着座位置を確認することもなく、後ろに下がりながら所定の位置にピッタリと止まるとは。しかもシテ方の ぬえからして見ると、これらの離れ技を素袍の両肩を脱いだ不安定な装束で、長袴のまま行っておられる。。驚異的な集中力です。

さて「打掛り」についてはこれぐらいにして、「三番叟」の話題に戻りましょう。
「三番叟」(=和泉流の表記。大蔵流では「三番三」と書きます)は「揉出し」を聞きながら橋掛り一之松で立ち上がり(このところのキッカケは大鼓の手で、これを特に「立ち頭ガシラ」と呼びます)、「おさえおおさえ、おう、喜びありや、喜びありや」と謡いながら舞台に入り、「我がこの処より外へはやらじとぞ思ふ」と大小が止まると、これより「揉之段」と呼ばれる舞となります。

「揉之段」の特色は、まず直面であること、「ヤ、ハン、ハ」と囃子方に通ずる掛け声を掛けながら(大蔵流では「イヨーー、ハ」)、両袖を返し、また巻き上げながら勇壮に舞うことにあります。よく農耕の籾蒔きの姿を写したと言われる事がりますが、実際の意味としてはどうなんでしょうか。笛はずっと定められた譜を吹き返しているように聞こえますが、実際にはいくつかの「手」と呼ばれる譜を間にはさんで吹いておられます。また小鼓にも「手」があって、ぬえが習ったお流儀の場合は、この「手」を、定められた笛の譜のところで三人の小鼓が頭取から順番に打っていく事になっています。

前述のように ぬえにはあまり「三番叟」の舞について技術論を語るほどの知識はありませんが、「揉之段」で最も目立つのは「烏飛び(からすとび)」と呼ばれる型でしょう。左袖をかついだ「三番叟」が笛座から目付柱の方へ向かって「エイ!エイ!エイ!」と声を掛けながら両足で三度飛ぶ型で、この型を見てシテ方の後見は面箱より「黒式尉」の面と鈴を取り出し、面は後見座に座る狂言方の後見のもとへ行って渡し、鈴は「面箱持ち」の袖の下に差し入れておきます。「烏飛び」が終わると「揉之段」もトメに近づいたことになります。

「三番叟」が大小前で膝をついて「揉之段」は終わり、「三番叟」は静かに立ち上がって後見座にクツロギ、ここで「黒式尉」の面を掛けます。

研能会初会(その23)

2007-03-27 01:37:00 | 能楽
「翁帰り」が済むと、小鼓はいったん休んで鼓を膝に置き、改めて肩の上に構えて「揉み出し」を打ち始めます。これより「三番叟」となるわけです。。が。ぬえはあまり「三番叟」の技術論について書く知識がない。。とりとめもない解説になるかも知れませんが、どうぞご容赦ください。。

「揉み出し」を打ち始めると大鼓は床几に掛かります。大鼓も小鼓と同じく素袍の両肩を脱いでいないと打てないので、床几に掛かる前にその準備をしておかねばなりませんが、さすがに「揉み出し」を聞いてから準備を始めるのでは打ち出しに遅れてしまうからか、大鼓方は目立たぬように事前に素袍の肩を脱ぎ、床几も片手に控えて「揉み出し」の打ち出しを待っておられるようですね。ですから小鼓が打ち出すと間髪を入れずに大鼓は床几に掛け、すぐに打ち出す体勢を取ります。小鼓の手は、「翁帰り」と同じ粒から始まり、それから「千歳」の二度目の舞に似た手を打ち行き、ここに大鼓が打ち出します。

この大鼓の手は複雑怪奇で、コンスタントにリズムを刻む小鼓に対して、大鼓はその半間、半間に打ち込む、といった感じ。普段の能では、どちらかと言えば大鼓がリズムの中心に君臨して演奏の位を作り、小鼓はその間にいろいろな音色で細かい装飾を加えながら表情をつけていく、というような場面が多いので、「三番叟」ではその立場が逆転しているように思えます。

『翁』の大鼓といえば、今年の正月にはNHKテレビで『翁』が放映され、このときには「打掛り」という大鼓の小書が付けられて演じられました。この小書については話には聞いたことがあるけれど、実演されているところを見るのは ぬえにとっても初めての経験でした。この小書について、伝承では以下のように伝えています。

曰く、かつて貴人を主賓とする能の催しがあり、初番は礼式通り『翁』が演じられました。ところがその晴れの催しの『翁』に、こともあろうに大鼓方が遅刻してしまいました。ほうほうの体で大鼓方は遅刻して楽屋入りしますが、会場ではすでに『翁』が上演中。大夫が舞っている「翁」の上演中では、その中途に大鼓方が舞台に登場する事は不可能で、大鼓方は「翁帰り」まで楽屋で待機しました。その後小鼓が「揉み出し」を打ち始めたところで大鼓を打ちながら舞台に登場し、かくして「三番叟」を無事に演奏する事ができました。

ところが終演後に、なぜあのような登場になったのか、と見物の貴人から疑問が出されます。大鼓方は、まさか遅刻して舞台に登場した、とも言えず、「当流に伝わる“打ち掛かり”という演出」とデタラメな答えをして急場をしのぎます。これ以後、「打ち掛かり」は大鼓方の流儀の重い習いの小書として現代にまで伝わる事となりました。

ん~~ ぬえが思うのは、さぞや楽屋はてんやわんやだったろうという事ですね~、やっぱり。お気の毒。そしてその混乱した楽屋ではこんな会話があったでしょう。

貴人の御前での演能であり、役者の遅刻が理由で開演時間を遅らせる事は不可能。一方 大鼓方は「翁」が舞っているあいだは出番がなく、「揉み出し」までに舞台上に到着してくれれば舞台は成立する。よろしい、では時間通りに開演しよう。。

研能会初会(その22)

2007-03-22 01:07:33 | 能楽
さて「人之拍子」を踏んだ「翁」はすぐに両腕を拡げて「千秋万歳の悦びの舞なれば、ひと舞 舞おう万歳楽」と謡い出し、地謡も「万歳楽」と付け、大夫「万歳楽」地謡「万歳楽」と、「万歳楽」の文句を合計4度繰り返し、その最後で「翁」は両手を面の前に組んで扇で面を隠すように仕、そのまま大きく後ろへ反ります。これも『翁』に独特の型でしょう。4度目の「万歳楽」いっぱいに小鼓もトメ、あと小鼓は気を変えて静かに「翁帰リ」の手を打ち続けます。

「翁」は謡が止まると再び両袖を拡げて正面に向き、それより左へ向いて面箱の前に行きながら扇を畳みます。面箱の前で下居、左手で翁面を控えて右手のみで面紐を解き、面を顔から外すと、その面を自分に向けて両手で持って戴き、それより面箱に納めます。これにて「翁」は再び「大夫」の位に戻った事になります。「大夫」は正中の方へ向き直って立ち上がり(この時後見が狩衣の袖や指貫の裾が見苦しくならぬよう、乱れに注意を払って整えます)、やがて正先に出た「大夫」は、最初と同じように正面に向いて両袖をあしらい、下居て両手をついて深く拝をし、やがて起き直ると右へ、橋掛りの方へ向き直り立ち上がります。同時に「千歳」も立ち上がり、「大夫」が歩み出す最初の三足に合わせて足をつかい、後について静かに橋掛りに向かって歩み始めます。

小鼓はこの間、二人が幕へ引くまでずっと「翁帰リ」の手を打ち続けるのですが、この手そのものは小鼓のお流儀に拘わらずほぼ一定の手組のようです。ところが聞いた印象はお流儀によって大きく違って聞こえるかも。すなわち、この「翁帰リ」という手は、ごくごく短い手を掛け声ナシに繰り返して打って行くものなのですが、はじめはとっても静かに打ち始め、「大夫」と「千歳」が橋掛りにかかってからは次第に位を速めて打ち行き、二人が幕に入る頃にはかなりの速度で打っておられます。その最初の部分、静かに打っておられるところは、それこそ 大きな大きな静寂の中に、鼓の音がときに挟み込まれる、という感じ。これを三挺の鼓が呼吸だけで合わせていくのは大変な事なのです。そこで頭取が「コミ」を小さく息の音で出して脇鼓に知らせたり、また「ツ」という、響かない打ち方で三人が「コミ」を打つ(小さく鼓を鳴らす)ことによって呼吸を知らせ合う、など、お流儀によりそれぞれ独自の方法でアンサンブルを保つ工夫が施されています。それでもまあ、拝聴している限りでは、あんなに微妙な「知セ」だけで、よくもあれほど見事に音が揃うものだなあ。。と ぬえは毎度 感心していますけれども。

それと、いま「掛け声ナシに」と書きましたが、お流儀によっては「翁帰リ」の中で独特の掛け声をかけます(「翁帰リ」に掛け声を一切掛けないお流儀も もちろんありますが)。すなわち、「大夫」が翁面を面箱の中に納めてから舞台の中央の方へ向き直るとき、正先に着座して拝をするとき、拝を終えて橋掛りの方へ向き直るとき。この三箇所に「ヤアーーーーー、ハアーーーーー、ヤアーーーーー」と頭取だけが掛け声をかけ、また「大夫」が橋掛りに赴き一之松あたりを通過する時に、同じ声をもう一度、今度はごく低く掛ける(これを“シラコエ”と言い、「素声」または「白声」などと表記します)、などです。もちろん頭取は三人の小鼓のリーダーとして「翁帰リ」を指揮しながら この掛け声をかけ、またその掛け声は大夫の動作に合わせて行わなければならないのですから、これまた大変に難しい。。

ついでに言えば、鼓を打ちながら、なお掛け声を長く引くのはかなりの重労働です。ぬえも小鼓の稽古で『翁』を習ったときは、ここで気が遠くなりそうでした。。

「大夫」と「千歳」も橋掛りにかかったところで小鼓の「翁帰リ」が急速になってゆくのにつれて次第に歩速をはやめて行き、幕の中に入る頃は やや小走り気味になり、サラリと幕へ入ります。

【鎌倉建長寺 巨福能のご案内】

2007-03-20 00:06:09 | 能楽

来る6月3日(日)、鎌倉・建長寺で毎年恒例の能楽公演「巨福能(こふくのう)」が開かれ、このたび
                                      私儀
本公演への出演の依頼を頂き、能『隅田川』を勤めさせて頂く運びとなりました。

建長寺は鎌倉五山の筆頭の格式を誇る名刹で、鎌倉時代の5代執権・北条時頼の創建となる歴史を持ちます。山号を「巨福山」と言い、この公演はここを由来としています。主催は建長寺ながら、企画制作には能楽金春流に所属する方が携わり、今回はその方から ぬえにとくに出演のご依頼を頂きました。もとより建長寺のような名刹で公演できる事はぬえ個人としても大きな喜びでありますが、能楽の他流派の方から わざわざご指名を頂いて出演させて頂けるのは演者として大変な名誉でございます。ご期待に背く事のないよう、謹んで、大切に勤めさせて頂く所存です。どうぞお誘い合わせのうえお申込頂きますよう、お待ち申し上げております。

今回の建長寺・巨福能では、主催者の要望により大曲『隅田川』を勤めさせて頂くこととなりました。世阿弥の嫡男・観世十郎元雅の作になる能楽屈指の名曲です。

  『隅田川』あらすじ

 昔、京都に二人きりで暮らしていた母子がいました。ところが子どもの梅若丸は人商人にさらわれてしまいます。子どもを失った母は狂ったように我が子を尋ねて旅に出、今日は武蔵の国(=いまの東京)の隅田川に着きました。川を渡る渡し船に乗せてもらった母は、向かいの岸に人が集まって念仏を唱えているのに気がつき、船頭はその人だかりについて物語をします。 ~一年前、人商人に連れられて、一人の子どもがこの土地までやって来た。しかし長旅に疲れた子は病伏せってしまい、人商人は足手まといになったこの子を捨てて下ってしまい、子どもは母親の名を呼ぶと、ついに力つきてしまった。子どもを憐れんだ村人たちはこの子の墓として塚をつくり、一年が経った今日、こうして跡を弔っている。~それは恐ろしい物語でした。その子どもこそ、この母親が探し求めていた我が子の梅若丸だったのです。驚いた船頭は母を梅若丸の墓に案内します。その夜、涙ながらにお弔いをする母の前に、まぼろしのように梅若丸が現れます。。

<催し詳細>



※お席料はお一人7,500円ですが、お二人でお申込されると合計で14,000円に割り引きとなり、お得に
 お求め頂けます。

※公演は全自由席です。4月23日(月)より一般の電話予約受付が始まり、当日はその受付番号順に
 会場に入場して座席を取ることになっています。

※ただし出演者の関係者は一般の予約受付日よりも優先して予約できるそうです。観覧ご希望の方は
 お早めに ぬえ宛てお申込み頂ければ、優先予約を承ります。

※上記一般予約開始日の前に、4月上旬より関係者の先行予約が始まるようです。演者を通しての
 優先受付はそれより前になりますので、ぬえにお申込頂きます際は3月末日までにお申込み頂け
 れば、最優先にて受付番号が割り当てられるようです。お申込はお早めにお願い申し上げます。

 E-mail QYJ13065@nifty.com       ぬ  え

研能会初会(その21)

2007-03-19 17:04:28 | 能楽
前回の訂正です。「翁之舞」の前、地謡「あれはなぞの翁ども」と「翁」は大小前へ戻り、ここは扇を顔の前に組むのではなくて、正面に向き、「そよや」と謡いながら両袖をあしらって、少し上体を前へカケます。正面からはちょうど会釈しているように見えると思います。

小鼓の手組いっぱいに「翁」は「そよや」と謡い、それより両腕を再び拡げて、これより「翁之舞」となります。ここまでのところ、割と小鼓の手組が決まっているところなので、「翁」も手組に合うように気を遣いながら謡っておられます。もちろん地謡も配りよくシテに渡す必要があって、なかなか難しいところですね。

「翁之舞」は両腕を拡げた「翁」が大小前から舞い始め、角、脇座、そして正中の三箇所に行って、それぞれの場所で足拍子を踏む、というのが大略です。そして舞そのものの本義も足拍子にあるように思います。ちなみにそれぞれの場所での足拍子には名前が付けられていて、角で踏む拍子を「天之拍子」、脇座を「地之拍子」、そして正中を「人之拍子」と呼び、合わせて「天地人・三才之拍子」とも称えます。

最初、大小前から角に向かって「翁」がゆっくりと歩み出します。このところ、ただ静かに歩を進めているだけのように見えますが、注意してご覧になっておられる方は気づいておられるかも。じつは小鼓の粒に合わせて歩いているのです。この小鼓の間はかなりシッカリしたものですし、また歩みと合わせるには少々不規則な間なので、「翁」は運びが難しいでしょうね。やがて角に到着すると「翁」は両腕を下ろし、これを見て小鼓は「天之拍子」の手を打ち、これに合わせて「翁」は足拍子を踏みます。次いで「翁」は角より左に向き両腕を拡げて、また以前のように小鼓の粒に合わせて脇座の方まで歩み行きます。脇座の前、ちょうど「千歳」が控えている前あたりで「翁」は正面の方へウケ、ここで両腕を下ろして、さきほどと同じ要領で「地之拍子」。

ところが、このあとから小鼓は急に位を早めて打ち、「翁」も脇座の方へ一度キメるとすぐに左へ廻り大小前に至り、正面へ向いて正中まで出ると、左袖を頭の上にカヅキ、右手の扇で顔を隠す『翁』独特の型を仕、すぐに両手を下ろしながら今度は右に廻り、再び大小前から正面へ出、正先の方まで出て左袖を巻き上げ、そのまま二足ツメます。これにて小鼓も打つ位を緩め、「翁」は袖を払って左右に袖をアシライ正面に向き、これにて小鼓の粒に合わせて「人之拍子」を踏みます。

この「翁之舞」ですが、「千歳之舞」と同じく、舞、すなわちダンスとはちょっと趣が異なりますね。あくまで小鼓に合わせて歩を進め、小鼓に合わせて拍子を踏む。『高砂』や『養老』の後シテが舞う「神舞」は祝福の意味は込められているにしても、どこまでいっても、あれは舞踏(舞)。でも「翁之舞」はむしろ儀式としての意味合いが強い感じです。ここで思い出されるのが、「翁之舞」の前に舞われた「千歳之舞」で、「千歳之舞」が舞台から邪気を払う露払いの若者の舞だとしたら、「翁の舞」はそうして清められた舞台に降臨した神がその清浄な状態を舞台に固着させるために足拍子を踏むのでしょう。ちょうど『道成寺』で前シテが登場する直前に狂言方が静かに舞台を一巡する「鐘楼固め」とあい通ずるものかも。

『道成寺』といえば、「翁之舞」と同じく小鼓に合わせて足づかいをする「乱拍子」がありますが、じつはこの「乱拍子」の間に、一噌流のお笛はこの「翁之舞」を吹いておられます。ぬえがこの事実を初めて知ったのは、ぬえが『道成寺』を披く際。事前に作品を研究していた時でした。この時は本当に驚いた。なんせ、能の中に現れる登場人物のうち、最も邪悪な魂の一つであろう『道成寺』の前シテの舞? の伴奏として、囃子方は能の中で最も神聖なもの~「翁」の舞を吹いているのだから!

研能会初会(その20)

2007-03-17 18:06:32 | 能楽
大小前で正面に向いた「翁」は両腕を拡げ謡い出します。常は「ちはやぶる。。」と謡うところ、今回は「法会之式」の小書が付いたため「松や先、翁や先に生まれけん。いざ姫小松、齢くらべせん」と謡います。もっとも前にも書いた通り、「常は」と言う呼び方は正確とは言えません。観世流の場合、常に上演する演式が「四日之式」であって、その場合の詞章が「ちはやぶる。。」なのです。「初日」「二日」「三日」とも「法会」と同じく「松や先、翁や先に。。」の文句なのだから、「ちはやぶる。。」は少数派。。というより「四日之式」独特の詞章なのです。とは言っても実演上はいつも「四日之式」ばかりを上演しているのだから「常は」という言い方で間違いとも言い切れませんが。

続いて地謡が「そよやりちやンや」と受けます。この直前の「翁」の謡の最後から、地謡いっぱいまで小鼓の頭取だけが独奏します。これを「頭取調べ」と言います。ありゃ、また「調べ」だ。先に書いた通り大鼓も『翁』に限って舞台上で「調べ」を打つわけで、このへん「調べ」という言葉には何か意味があるんでしょう。普段「お調べ」と言えば、もっぱら舞台に登場する前に囃子方が楽器の最終調整をするもの、とばかり考えがちですが、どうもそう括ってしまうのはあまりに単純な考え方なのではないか? と、じつは ぬえは以前から思っていました。楽器の調整ならば、「お調べ」を待つまでもなくお囃子方は楽屋入りされてから、ずうっと行っておられます。大体、音色が湿気や温度に大きく左右される邦楽器は、すでに季節の変わり目から みなさん自宅で散々 苦心して調子を作っておられています。革と胴の相性とかね。「ああでもない。。こうでもない。。」

ところで ぬえは囃子オタクで、とりわけ小鼓は17年間も故・穂高光晴師に教えて頂きました。ぬえは師から『翁』の小鼓の稽古も受けたので、その手付け類を参考にしながら、今回は『翁』について解説させて頂いております。その意味では ぬえは「オタク」の面目躍如で、割と詳しい解説をする事ができるかも。しかし反面、ぬえが習った流儀に偏ってしか語れない弊害もある事をご承知おきください。上記「頭取調べ」という語も、幸流小鼓以外ではまた呼び方も違う可能性もあります。

その「囃子オタク」ぬえが、いま『翁』の小鼓の手付けを見てみると、この「頭取調べ」の部分にはすごい分量の書き込みがありました。 ↓こんな感じ。ああ、内弟子時代に一所懸命勉強していたあの頃がよみがえる。。



これほどに師匠にも厳しく稽古を受けたわけで、それだけ「頭取調べ」には小鼓方にも思い入れがあるのでしょう。この間の脇鼓について、ぬえ所蔵の手付け(ぬえが書写した手付け)には「此ノ間 脇鼓ハ謹ミ居ル事」と書いてありますね。「謹ミ居ル」と、その態度についてわざわざ書き添えてあるのも珍しいかも。

「頭取調べ」のあと、「翁」は再び両腕を拡げて「およそ千年の鶴は。。」と祝祷の謡を謡います。この詞章は「初日」~「四日」、さらに「法会」までも共通の詞章です。「ご祈祷なり」より小鼓が打ち出し、「在原や」より「翁」は右へ廻って幕の方を見込み、「なぞの翁ども」の終わりに小鼓は位を早めて打ち、地謡「あれはなぞの翁ども」とカカッて謡い、「翁」は大小前に戻って再び扇を顔の前に組んで、これより「翁之舞」になります。

研能会初会(その19)

2007-03-16 16:42:26 | 能楽
「翁」がはじめて立ち上がるこの場面で、以前にも書きましたが大鼓が「調べ」を打ちます。大鼓方は横を向いて「△、△…」といくつか粒を打つもの。これ、いろいろな意味でナゾが多い動作だと思います。

大鼓がここで行う事を「調べ」と称する事が、まず疑問。毎度、能の開演直前に鏡の間で囃子方が短く演奏する「お調べ」との関係はどうなっているんだろうか。。

たしかに舞台上で「お調べ」をする例は ほかにももう1曲だけあって、それは『朝長』の重い小書「懺法」です。これは太鼓に特殊な調子を作ってあって、それを上演まで秘するために、開演前の「お調べ」には太鼓だけは参加しないのです。そして後シテが登場する場面になって、「出端」の囃子(「懺法の出端」と呼ばれる特殊なもの)が打たれ、その特異な音色が見所に。。どころか共演しているすべての能楽師にまで初めて披露されます。そうして終演を迎えて囃子方が幕に入るとき、太鼓方だけは橋掛り三之松に着座して、もう一度、太鼓を打ちます。これが「後のお調べ」とか「青響の調べ」とか言われるもので、このときはグッと太鼓を締め上げて、「懺法の出端」を打った調子とはまるで違って、いつもの明るい調子が聞かれます。ここで太鼓方が「お調べ」をする理由は、締め上げた太鼓の調子を聞かせることで、先ほどの「懺法の出端」で使った太鼓が特殊な太鼓ではなく、普通の道具を使って作り上げた音色だという事を証明するため(でも、やはり選ばれた道具でなけりゃ あのお調子は出ないので、やはり「特殊な太鼓」だとも言えるのですけれどね)と、もう一つの理由は、開演前にお囃子方が行う「お調べ」に太鼓方だけは参加しなかったため、ここで一人で打つことで「お調べ」という作業を完結するのです。

ところが『翁』での大鼓のこの「調べ」は、「懺法」のそれとはずいぶん意味が違うと思います。まず、開演前に大鼓方は「お調べ」を打っています(。。と思うんだが。あえて注意して聞いた事がないけれど、舞台上で「調べ」を打つために、開演前に大鼓方だけが「お調べ」に参加していない、という事はないと思うし、そんな話題が出たこともない。。)。そして、『翁』は大鼓だけが作り上げられた特殊な調子を聞かせるような曲ではありません。第一、特殊な調子を聞かせるのが目的なのだとしたら、床几にも掛からず、横を向いて演奏するはずがなく、もっと見所の注目を集めるような演出が用意されているはず。

こうなると、ここで大鼓だけがいくつかの粒を打つことを「調べ」と称している以上、『翁』に限って大鼓は二度「お調べ」を打つ、という事になるでしょうか。なんとも不思議な演出です。

しかし、そうならば、こういう考え方もできるでしょう。「翁」の上演中には一切音をたてず、「三番叟」となって初めて演奏を開始する大鼓方は、この「調べ」では何か別の役割を担って打っておられるはず。そして、これが打たれる場面とは、「翁」が初めて立ち上がって舞台の中央に出てくる場面、まさしく役者としての大夫が「翁面」を掛けて「翁」という神に変身し、舞台の場に降臨する場面なのです。ほかの囃子方(=小鼓)のアンサンブルに加わるわけではなく、それとは特に無関係に行われる演奏ですから、実演上は呼称には困るわけで、これを「調べ」と称しているのは、便宜的なものなのではないかしらん。むしろ、神の降臨に華を添える役割の方が意味合いとしては大きいのだと思います。

こう考えてくると、大鼓のお流儀によっては、真横ではなく左斜めに向いて「調べ」を打たれているようですね。その姿を、ぬえは地謡として後方から眺めていて、「ははあ、お流儀によっていろいろなやり方があるもんだな。。」程度にしか考えていなかったのですが、この姿勢は、まさに「翁」に向けて打っている姿なのかも知れません。

第8回狩野川薪能(その4~笛の稽古=上達の驚異)

2007-03-13 01:56:28 | 能楽
ふうむ、やはり人には得手・不得手というもの、あるいは特殊な才能というものはあるもので。

伊豆の国市での子どもへの稽古では ぬえは 子ども創作能『江間の小四郎』の各役の稽古やら、地謡の稽古、それから中学生になる子への仕舞の稽古、さらに玄人能『一角仙人』の子方の稽古、と目まぐるしく立ち働いていまして、それでも時間が足りずにヒイヒイ言いながら稽古を続けていました。

その終了時間に近い頃、笛のT氏が東京の舞台を終えてようやく到着。挨拶もそこそこに、笛の希望者を集めて別室で稽古を始めます。ぬえは残った稽古のメニューをこなして、ようやくこの日の稽古を終了しました。ところが。

汗を拭きふき ぬえが ふと気づくと。。遠くから笛の譜が聞こえてきます。「ヲヒャ、ヲヒャーーーラー。。」あれ? どうもこれはT氏の音色ではないようだが。そこで薪能実行委員会のE氏が ぬえに告げました。「いやいや ぬえさん、ご苦労さん。笛の稽古もだいぶ出来ているようだよ」 ええっ?

そこで ぬえら子どもたちの稽古の講師の控え室になっている和室=臨時に笛の稽古教室にもなっている その部屋に戻ってみると、もうすでに遠くから子どもたちの大騒ぎの笑い声は聞こえるわ、それに交じってキチンとした譜も聞こえてくる。「まさか。。」部屋に入ってみると、もう子どもたちは立派に笛を吹いています。指づかいや、鼓にどのように合わせて吹くのか、こそ これから詳しく習うのだろうけれども、少なくとも子どもたちが吹く笛は、ちゃあんと鳴っている。。 これは驚いた。

まあ、どんな楽器にせよ、楽器は鳴らなくては上達のしようもないし、何より習っている方も面白くない。上達の意欲も湧かない、というものです。この点、日本の楽器はかなり不利な条件を持っていると言ってよいでしょう。以前、「本当に優れた楽器とは、誰にでも鳴らせる楽器」という言葉を聞いたことがあり、なるほどなあ、と ぬえも感心したものです。その意味じゃ、少なくとも初心者にとって親近感がわきやすいのはギターよりもむしろピアノが上(楽器そのものの優劣ではないですよ?)。なんたってニャンコが鍵盤の上を歩いても音は鳴るんだから。そして、鳴らすことができてから、初めて楽器は習得のための練習が始まるのです。音が鳴らなきゃ自宅で自習のしようもない。この点、能楽の囃子は大変に鳴らすのが難しいです。ぬえが得意とする鼓だって、「ポンッ!」と良い調子で鳴らせるのは、楽器の個性も非常に大きいけれど、それ以上にコツが要るのです。「囃子オタク」を自認する ぬえがそう思う。

ところが…さすが本職は違うですね。。T氏は笛を「どうやったら鳴らすことができるか」を教える事ができるのねえ。これは囃子オタクであっても、結局は楽器を「習う」ことに終始していた ぬえにはできないでしょう。

で、実際のところ、部屋に入った ぬえが見た光景は、単純な譜だけを習った子どもが「ヲヒャ、ヲヒャーラーー」と繰り返して吹いていて、自分の順番を待つ子はそれに合わせて唱歌を歌いながら大はしゃぎ。どうやら「ヲヒャーー」という笛の譜が奇妙に聞こえて喜んでいるらしい。ん~、こんなに笛方を侮辱した喜び方もないもんだなあ、とも思ったけれど、当のT氏は「面白いだろう? ほら、吹いていない子は手拍子をたたきながら歌って」なんて盛り立ててる。

どの道であってもプロってのはすごいですね。そういえば某小鼓方の先生は、「あの。。小鼓を打ってみたいんですけど。。」と恐るおそる入門したお弟子さんに、一回の稽古で鼓を鳴らすワザを持っている、と聞いたこともあります。小鼓だって鳴らすのは相当に難しいのに、この日はT氏のプロのワザを見て、非常に感心したのでした。プロはかくありたい。

(本当はこのときに大喜びして稽古している子どもたちを ぬえが撮影した画像をここで紹介したいのだけれど。。T氏の了解を得ていないので今回は断念。。)

第8回狩野川薪能(その3~お稽古始め)

2007-03-12 00:13:02 | 能楽

一昨日の3月10日、いよいよ伊豆の国市で、夏の『狩野川薪能』のためのお稽古が本格的に始まりました。ついに始まったねえ! 楽しいお稽古の日々が!

今回はお稽古始めということで、最初に子ども創作能『江間の小四郎』の台本を配り、その読み込みから始めました。う~ん、やっぱり最初からは声が出ないか。。とくに役のある子はよほど大きな声を出さないと、野外の薪能では声は通りません。ま、薪能の当日には毎度、問題なく声が出るようにはなっているので、今から心配する必要もないのかも知れませんが。

面白いことには、最初っから大きな声が出る子もいるんですよね~。そして声を出す様子から ぬえは子どもたちの観察もしています。ははあ、この子は恥ずかしがり屋だな。ふむ、この子は磨けば自信を持ってできる子か。あれ?声は大きいけれど、この子は はしゃいでしまって稽古が難しいかな? おやおや、この子は勝ち気。ケンカが起きなきゃいいけど。。 こういう観察をした子どもたちが、稽古が進んで行く中で、だんだんと変わっていく。。成長していくところを見るのもこの薪能の大きな楽しみです。

さて今年の「子ども創作能」は、去年のバージョンよりも少しだけ内容を改訂していて、詞章はほとんど ぬえが作ることになりました。ただしワキ方の領分になる箇所は、ワキ方のY氏の作になります。この方はとっても文才があって、良い詞章ができました。

まあ、ニューバージョンではあるけれども、去年の薪能に出演した子もいるし、お稽古は去年よりもラクになるかな? と考えていたのですが。。甘かった。登場人物を増やしたこと、今年はなぜか10名以上の「新人」が参加していること。そのうえ薪能の出し物は「子ども創作能」だけではなく、中学生には仕舞を勤めてもらい、さらに ぬえがシテを勤める玄人の能の子方もこの子たちから選抜していて、その稽古もしなければなりません。この日はやっぱり目の回る忙しさの稽古となりました。

去年の薪能の主役である6年生の子は、4月からは中学生。この子たちには「子ども創作能」では地謡のお手伝いをしてもらい、そのほかに能の古典の曲に挑戦してもらうことにしていて、今年も仕舞を舞ってもらいます。上演時間の制約もあって、4人ひと組で一番の仕舞を舞うことにしたのですが、曲目を決めたのはこの稽古の前日。ちょっと面白い趣向がひらめいて、仕舞『東方朔』を教える事にしました。子どもが舞う仕舞としてはちょっと渋い曲目選択ですが、稽古を始めてみたら、やはり思った通り 子どもが舞うからこそ出来る趣向が、この曲だからこそ実現可能。これはちょっとお客さまには面白く思って頂けるかもしれません。

そして玄人能『一角仙人』の子方のお稽古。この能の子方は龍神二人で、これは過去にこの薪能でも例がないほど難しいお役でしょう。ぬえの方もまだ型を決めかねていて(この曲、龍神との戦いの場面の型はほとんど決められていません。一応の型、というのはあるのですが、それはとっても簡単に書かれていて、型付けにも「工夫あるべし」なんて書かれています。能はがんじがらめに型が決められているように思われがちで、現にそのような曲も少なくないのですが、このように演者が創作する?事を許す例は多いのです)、今回は基本的な切り組みの型の稽古だけに終始しました。

ところで、今日はこの薪能の創始者・大倉正之助氏もご多忙のところ参加してくださって、子どもたちにお話しをしてくださいました(タイトル画像参照)。さらに笛方のT氏も東京の舞台から直行してくれて、薪能では子どもたちによる囃子(つまり大鼓と笛)の発表もできる事に。この日は囃子の体験から、演奏希望者を募って、本格的な稽古にまで進むことができました。いや、この囃子の稽古がまた。ぬえにはビックリするような上達ぶりで驚きました。(これについてはまた次回)

研能会初会(その18)

2007-03-08 18:58:09 | 能楽
二度目の「千歳之舞」の終わり、「千歳」は大鼓前あたりで扇を左手に取り、大きく前にかざすのを囃子方に見せて「千歳之舞」のトメの「知セ」とします。それより「千歳」は小廻りして正面に向きながら右袖を巻き上げ、ヒラキながら開いたままの扇を前へ大きく出します。このところで小鼓は打ち止め、笛がヒシギを吹いて、その「ヒシギ」の間隙に「千歳」は左拍子を踏み込み、これで「千歳之舞」は終わりになります。

この直後、再び小鼓が大夫の位で打ち出しますので、「翁」が「揚巻やとんどや」と謡い出す前に、「千歳」は手回しに右袖を払い、扇をたたんで脇座へ行き(もちろん脇座に到着するときも右足でトメます)、はじめのように下居して平伏しています。

「翁」は小鼓の手を聞いて「揚巻やとんどや」と静かに謡い出し、地謡も「いろばかりやとんどや」と受けます。このあたり、シテも地謡も謡の節に細かい技法が多く取り入れられているところですね。「座していたれども」と「翁」は右へトリ、扇を広げ、両手を拡げて立ち上がり、大小前の方へ行きます。「翁」は舞台に登場して正先に拝をしてからこの座に安座して以降、ずうっと姿勢を崩さずに安座しているのですから、この時に立ち上がるのは舞台の条件によっては大変つらいでしょうね。ぬえの師家では毎年の元旦、兵庫県の丹波篠山で『翁』を奉納しますが、このときは深夜0時半から、最近重文に指定された春日神社の古いお舞台で上演されるのです。お舞台はもちろん野外で、最近こそ暖冬の影響であまりしんしんと冷える事も少なくなってきましたが、ぬえが「千歳」を披いた10数年前にはお舞台の上に雪が降り込んできた事も、よくありました。こういうところでは大夫も大変です。

さて「翁」が立ち上がると、それまで常座に平伏していた「三番叟」も立ち上がります。ちょうど地謡が「参らうれんげりや、とんどや」と謡う頃に、「三番叟」は「翁」の方へ向いて少し出、ちょうど大小前へ向かう「翁」と向き合う格好になり、「翁」はそのまますぐに正面に向き、扇で面を隠すように両手を面の前で組み、ヒラキながら再び両手を拡げます。ところでよく『翁』の写真で、この両手を拡げて正面に向き、祝祷の謡を謡う型を見かけますが、じつはシテ方のお流儀によっては両手ではなく扇を持った右手だけを拡げる型をされる場合もあります。

さて「三番叟」は「翁」が正面を向くと、すぐに後見座へ退きます。ふだんはシテ方の後見が座っている後見座ですが、『翁』の時には狂言方の後見が二人座っていて、このとき「三番叟」がのちに舞うための「物着」をします。すなわちそれまで頭に載せていた侍烏帽子を剣先烏帽子に替え、直垂の後ろを放すのです。烏帽子を替える事で、祭祀儀礼に参列している「正装の武士」の姿から、「三番叟」という、「翁」とはまた少し替わった意味合いを持つ「神」への変化を意味するのでしょう。「翁」とは違って、舞台に登場した当初は神官としての意味合いを持たず、「翁帰り」のあとで「神格」を得る「三番叟」は、言うなればその存在に二重の意味があるのであり、直垂の後ろを放すのも、「翁」のように神官の姿をしていない「三番叟」が、神格を得たときに ほかの登場人物とハッキリと姿を分けるシンボルなのだと思います。

物着を終えた「三番叟」は再び立ち上がって橋掛りに向かい、一之松の裏欄干、すなわち常の狂言の居座にて正面を向いて着座します。このとき「三番叟」が平伏しないのも、すでに物着を終えた神=「三番叟」が、祭祀の場である『翁』の舞台とはまた別の異空間にいるのであって、祝祷のために こちら=現世=舞台に影向するため、静かに歩を進めている、と考えることもできそうです。

インターナショナル邦楽の集い

2007-03-06 03:52:38 | 能楽

恒例の催し、代田インターナショナル長唄会の主催による『インターナショナル邦楽の集い』が昨日催され、ぬえもお手伝いに行って参りました。以前にもご報告したとおり、ぬえはまさか長唄に参加したわけではなく、三味線を習っている外国人のうちの何人か、稽古に余裕がある人にボランティアで仕舞を教えておりまして、この日はその外国人の発表会、というわけです。

さすがに出演者である ぬえが演奏中に写真撮影をするわけにもいかず、今回は当日配られたプログラムの画像をお目に掛けることしかできませんが。。いやいや、今年は前回よりもさらにパワーアップして、充実したコンサートになったと思います。

今回のコンサートは、当初 主催者(代田インターナショナル長唄会の主宰者)である西村真琴さんが、その生徒さんが少なくなってきた関係で今年はコンサートを開かない意向だったものが、その後あれよれよと生徒さんが増えて、急遽開催を決断されたもの。当然ながら三味線のお稽古を始めてわずか半年、という程度の生徒さんも多くいて、開催はしたものの、上演される演奏のほどはどうかなあ。。と危ぶまれる観測もありました。が。いやこれは。なかなか聴けるものじゃないか。ぬえは長唄にはほとんど無知なのですが、そして、もちろんプロの助演者が大勢さんお出でになって彼ら外国人の生徒さんの演奏のフォローをしたのだけれども、ぬえが聴いていたかぎりでは、ほとんど全く瑕瑾のない、まとまったアンサンブルだったと思います。

そして、ぬえが指導した仕舞は。これもまた大変に良い出来でした。彼らに稽古をつけている間はいろいろな事がありました。ぬえはボランティアで稽古をしているのでズケズケ言うのですが、「ふうむ。。悪いけれど前回より進歩がないね」まで言った事もある。当人、ぬえが居ないところで泣いてしまったそうです。でも、それはその当人に必要な言葉だと ぬえは信じて言ったので、まあ、それでイヤになって稽古を辞めてしまったら、それまでなんだけど。。それでもその生徒さんは次回の稽古も ぬえについてきてくれました。そして当日はついに間違いなく勤めることができた。ぬえはその生徒さんを誇りに思うし、終了後のパーティーでは、成果だけでなく、苦難を乗り越えて勝利した努力を誉めてあげました。

それから、こんな生徒さんもいました。日本滞在中にずっと仕舞のお稽古を続けていたのだけれど、だんだん雲行きが怪しくなってきた。。いや、稽古の事ではなくて、コンサート前に彼の日本滞在のビザが切れてしまい、その延長申請をしたのだけれど、日本の入国管理局はいつまで経っても彼の申請を認めるかどうかの決断を出さないのです。本人は服飾デザインの勉強に来日していて、ファッションショーにまで参加して自分がデザインした服を発表するほどだったのに。そんなこんな、不安定な状態で稽古を続けているうちに、ついに彼のビザは切れてしまった。延長申請中なので、すぐに日本を退去しなければいけない、という事はないのだけれど、いつ申請が不許可になるかわからない。そして。。今年のはじめに ようやく結論が出たのだけれども。。その結果は「延長申請は受理しない。今月末までに退去せよ」というものでした。(!!)

彼は稽古半ばでいったん帰国し、このコンサートのために観光ビザで再度来日して出演はできました。。が、仕舞の発表はできなかった。最後の追い込みの稽古にすべて参加できなかったからです。ぬえは日本国民として、このような仕打ちを受けた彼に恥ずかしい気持ちでいっぱい。

それでも、かつてこのコンサートに出演して、いまは母国にいる生徒さんも、この日のコンサートを聞きつけて、わざわざ来日して、出演したり、お手伝いをした人も大勢おられます。ぬえはこのコンサートに参加できる事を誇りに思うし、本当に良い一日を過ごせました。

翌日は二日酔いで大変だったけどね~ (~~;)

研能会初会(その17)

2007-03-04 01:43:39 | 能楽
はじめの「千歳之舞」を終えた「千歳」は、左手に提げ持った扇を前へ出した姿で「君の千歳を経ん事も」と謡い、「天つ乙女の羽衣よ」と右袖を巻き上げます。このとき小鼓は打つ手を変えて「ヤ△、○、ハ△、○…」と、はじめの「千歳之舞」よりもさらに粒のこみ入った、そして急調な手を打ち行きます。「千歳」は「鳴るは瀧の水、日は照るとも」と右袖を払い、扇を右手に持ち直しながら右へ小さく廻り、大小前から正先まで出てトメ、地「絶えずとうたりありうとうとうとう」と大小前の方まで下がり、左、右と細かく二つずつ拍子を踏み、二足に飛び上がりながら両袖を巻き上げて、さらに右拍子をひとつ踏み、これより二度目の「千歳之舞」となります。

二度の「千歳之舞」は基本的な型はほとんど同一で、主な違いとしては、はじめの舞は扇を閉じたまま舞い、二度目の舞は扇を広げて舞うことでしょうか。ただし二度目の舞は最初の舞よりも速く舞う事になっていて、小鼓の手もそのように付けられていますね。この「千歳之舞」の型は舞台の四隅に気を掛けるように作られているように見え、舞の本義としては「翁」が舞う前に舞台の邪気を払うためにあるのでしょう。

ところで「千歳」はツレなので、この「千歳之舞」に限らず、「千歳」の動作はことごとく「翁」とは反対の足を使うように決められています。これは意外に知られていない事かもしれませんが、シテ方では「シテ」は左足から運歩を始め、左足でトメるのが原則で、ツレはその逆、右足から動作を始めて右足で終えるように定められています。シテを尊重するためにツレが動作に遠慮をするのでしょうね。ただ、たとえば「サシ」という動作のあとには必ず右足から歩を進める、というように動作そのものが規定を持っている場合もあって、その場合はシテであってもツレであっても、その動作が持つ規定を優先する事になっています。簡単に言えば、型の規定がない、「どちらの足から出てもよい場合」には、シテは左足を使い、ツレは右足を使う、という事になるでしょう。

さて、この二度目の「千歳之舞」の間に、大夫は翁の面を掛けます。静かに面を取り上げ、心をこめて恭しく戴いて、そして顔に当てたところで後見が面紐を縛るのですが、この面紐の縛り方は常の面紐を縛るよりも少し特殊で、「翁」が舞い終えて翁面を面箱に再び納めるときに、大夫が片手ですぐにほどけるように縛るのです。

すなわち、常の能の場合はシテが面を外すのは鏡の間において、なのであり、その時はシテは両手で面を支えて、後見が面紐をほどくのです。ところが『翁』の場合は舞い終えた「翁」は面箱の前に着座して、そこで自分で面紐をほどきます。後見は手を出さない。ですから大夫は左手で面を支え(我々は「支える」と言わずに「控える」と言いますが)、右手だけで面紐をほどく事になるのです。その仕草が見苦しくならないように、『翁』の時だけは、大夫が右手で面紐を引くと、スルリとほどけるように結びます。

いや、これは後見にとっては大変に神経を遣う作業です。短い「千歳之舞」の間に、大夫の面紐を結び、それも「翁」が舞っている間には決して緩んでこないように、かつ、舞のあとで面を外すときは、片手で簡単にほどけるように結ぶのですから。「翁之舞」の間に面紐が緩んだら大夫は舞えなくなるし、ましてや面が落ちるなんて事が起きたならば。。(ノ><)ノ

ぬえもこの後見を一度だけ勤めた事がありますが、もう大変な心労でした。大夫である師匠は「結ぶのが難しかったら、常のように駒結びをしても良いぞ」と仰って頂いたのですが、そこはそれ、後見のコケンというものがありますので。。この時は無事に勤められて本当に良かったと思っています。この大夫が翁面を掛ける場面、お客さまは気づかない事も多いですね。「千歳」が颯爽と舞っているので、その蔭に隠れて、あまり面を掛けるところは目立ちません。しかし、大夫が翁面を掛けるという事は、とりもなおさず大夫が「神」となる瞬間ですし、また、このように後見が最も緊張する瞬間でもあるのです。「神」が降臨するその瞬間を、ぜひ注目して頂きたいと思います。

研能会初会(その16)

2007-03-02 00:53:48 | 能楽
『翁』の解説も、ようやく囃子方が打ち出すところまでこぎ着けた(~~;) もう上演から2ヶ月が経とうとしているのに。。ちょっとピッチを上げて参りましょう。

笛の「座付き」「ヒシギ」を聞いてすぐに小鼓が打ち出します。頭取がひとクサリの手を打ってから、脇鼓も加わっての三調となり、おなじみの「イヤ△ イヤ△ ハ○ ○○」という手を打ち行きます。この手は元気良く、かなり急調に打たれるのですが、そのいくつ目かの時(小鼓の流儀により変動があるようです)に、頭取が知セの手を打って小さな段落を作ります。

この後、今度は「翁」大夫の位でゆったりと、上記と似た手を打ち、大夫が「とうとうたらり。。」と謡い出します。シテの謡は強く、しかれどもシッカリ。地謡は、これも強く、そしてサラリと謡います。この時小鼓の頭取はシテが謡うところと地謡が謡うところでは少し手を変えて打ちます。流儀によっては「一つ頭」「二つ頭」などと称する手で、謡が拍子に合っていないのにうまく見計らって打っておられますね。ぬえが『翁』の小鼓をアシラウと、どうも見計らいがまずくて、なかなかシテ謡と地謡のそれぞれの配分の中にこの小鼓の手がうまく嵌りませんが。。

さて地謡が二度目に「ちりやたらり、たらりら。。」と謡うとき、頭取は知セの手を打って、一瞬の小休止。間髪を入れずに笛が「ヒシギ」を吹いて、これより「千歳」が舞い始める場面になります。

笛の「ヒシギ」のあと頭取が「イヤ△ハ○」と打ち出し、すぐに脇鼓も呼応するように打ち出し、以後「ヤ●ハ○」と打ち続けます。いくつ目かの手を聞いて「千歳」は床につけていた手を上げ「鳴るは瀧の水」と謡いながら左・右と袖の露を取り、立ち上がって大小前へ行き正面に向きます。このところで地謡が「絶えずとうたりありうとうとうとう」と謡い、この地謡いっぱいに「千歳」は正先へ出、「絶えずとうたり、常にとうたり」と謡いながら右にウケ、三ツユリの終わりをうまく小鼓の手に合わせて止め、それよりひとつ目の「千歳之舞」となります。

「千歳」はもとより「翁」が舞う前に舞台を清め、邪気を払う「露払い」の役とされ、若者が勤めるのが本義です。考えてみれば、役者は公演の前に精進潔斎をし、楽屋では「盃事」をし、さらに演者だけではなく幕の隙間から後見が手を出して舞台にも切り火を切るのですから、そのうえに邪気を払う「千歳」の役がわざわざ立てられているのは、まことに念の入った事ですね。

「千歳之舞」の型は次の通り。まず両袖の露を放し、大小前に下がりながら両袖を巻き上げ、小鼓の粒に合わせて右足拍子ひとつ踏み、両袖を払い、すぐに両袖を外側より返し、脇座に向き出、脇座にて左の袖を払いながら常座に向き出、常座にて幕の方へキメ、正へ向き出、目付柱にて正の方へキメ、脇座へ向き出、脇座より大小前へ行き、扇を左手に取り大きく前へ出し、正面へ向き右袖を巻き上げて右拍子ひとつ踏み、右へ小さく廻りながら右袖を払い、太鼓座前の通りにて幕の方へ右袖を出し、すぐに正面へノリ込ながら右袖を返し、右・左と拍子を踏み(このところに小鼓頭取は手を打つ)、右袖を払いながら右拍子ひとつ踏み左手の扇を前へ出し「君の千歳を経ん事も」と謡い出す。

【重要】上記「千歳之舞」の型は、「型付」(それぞれの家に伝わる型の“振り付け”を記した伝書)を写したものではなく、実際の型を大まかに記したものです。師家に伝わり、ぬえが拝見させて頂いた「型付」を開陳する事はもちろん斯道のルール違反。しかし、近来はテレビで『翁』を含む「重習」の曲が放映され、それが録画できて何度も再生できる状況ですので、鑑賞の参考までに、師伝など重要な点を除いたうえで、型の大略を記しておきました。小鼓の手についても ぬえが小鼓の師伝を受けた内容までの開陳は控え、あくまで知っていれば鑑賞の参考になりそうな事柄を、要点のみ記しておいたまでの事です。ぬえがこのブログ等で舞の型や囃子の手組を書き込む場合、常にこのようなスタンスである事をご承知おき下さいまし。。

保育園でデモンストレーション

2007-03-01 22:42:57 | 能楽

昨日は先月だけで3度の学校関係のデモンストレーションを行いました。今回の会場は。。保育園。(^_^;

「りんご組さん」やら「もも組さん」やらのクラスの、(^◇^;) 2歳~5歳の子どもたちが対象です。面を見せたり、また今回も先生が王様役(今回は女王様)に扮した『鶴亀』では子どもたちにも出演してもらったり。子どもたち相手の能楽デモンストレーションも何度かを経て、段々と手順も定まってきました。ところが。。

今回もちょっとしたハプニング(?)がありました。

ひとつ目は、能面の「若女」と「増」を並べて見せて感想を求めたとき。「この二つの面はどこが違う?」という質問をすると、まあ、たいていは「目~」とか「口~」という答えが返ってきます。どうしてもディテールを見てしまうのは仕方のないところで、そこで「そうだね。それじゃ、もっと大きく見てみよう。表情はどう? 怒ってる? 笑ってる?」と聞いてみるのです。そこでようやく「若女」の方が優しい表情で、「増」の方が厳しい表情をしている事に気づいてもらえる。ここで「じつはね~。この二つの面はまったく違う役に使うんだよ。こっちの面(若女)は人間の女の人なんだけど、こっち(増)は。。これは人間じゃないの。神様なんだよ」「ええぇぇ~~っ!?」こうして日本古来の「神様」について少しお話をします。

ところが今回は、表情の違いを答えさせていると、一人の女の子が「増」を指さしてこう言いました「こっちの面。。泣いているみたい」

怜悧な「増」の表情を見て「泣いている」という感想は初めて聞きました。なるほど、そう見えなくもない。これだから子どもは面白い。凝り固まった大人の発想からは考えられないほどに、本当に発想が自由。ちょっと内容は失念したんだけど、ほかの場面でも同じ女の子が鋭い感想をボソッと言って、ぬえが「!」と感心したところがあったんですが。。いろいろと子どもたちに体験をさせている中のほんの一瞬のコメントだったので、いまは正確には覚えていなくて。。ともかく、彼女の親御さんを ぬえは誉めてあげたい。そしてこの鋭い感性をぜひ伸ばしてあげて欲しいと思います。


   <ただいま『鶴亀』の子方=鶴=の稽古中>

もう一つは、これこそハプニングなのですが、デモンストレーションの最後にはいつも ぬえがテープに合わせて「神舞」を舞ってみせて、それで終了にするのです。このとき。。なんと子どもたちの間から手拍子が起きた! これには驚きました。そして舞いながら ぬえの顔も自然にほころんできます。(^◇^;)

ところが残念ながら、この時は保育園の先生方がこの手拍子を見て驚いて、子どもたちに注意して止めさせてしまった。「あ。。止めなくてもいいのに。。」と ぬえは心の中で思っていましたが、まあ、これも先生方にしてみれば、講師である ぬえに失礼だと思ったのでしょう。止めるのも仕方のないところですね。ぬえもマジメな顔をして舞っているものだから、喜んで手を叩く子どもたちが「無礼」に見えたのかも、です。ただ、自然発生的に起きたこういう行動は、彼らが本当に楽しんでくれた事を如実に ぬえに知らせてくれました。

ぬえもこのような事が起きるとは思っていなかったから、あらかじめ先生と打合せしておりませんで、次回からは「以前にはこういう事もあった。自発的に子どもたちの心に芽生えて始まった事は止めないようにお願いします」とお願いしておく事にしましょう。


  <今回の功労者=王様。。いや女王様ですな。事前のお稽古がんばりました>