ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

古希記念幸清会(その3)

2006-11-29 01:17:16 | 能楽
このところブログの更新も怠り気味でしたが、いやはや、この会が終わったらどっと疲れが出てきまして。とくに忙しいワケではないのですが、もう、何時間でも眠っていられる。(^^;)

。。でも「ああ~、ブログの続き書かなきゃなあ」と思って、ようやく昨日、幸清会のレポートの続きを書き込んだのですが、このとき久しぶりにアクセス数を見たら。。「331」。。うう。。どうしてこんなにたくさん。。ご愛読ありがとうございます。。でもなんだか ぬえ、怖くなってきまひた~(;_:) 
(でもまあ。。ぬえは書き込みの内容にはこれでもかなり神経を遣っているので、書き込みに対して苦情が来る事はないと確信はしております)

さて、

>Kさんへ

コメントありがとうございます。お返事を書いていたら(またしても)長文になってしまったので新規発言とささせて頂きます。

今回の『檜垣』に対して ぬえの師匠の気持ちについて補足させて頂ければ、前回の書き込みで申し述べたように、当然「失敗は許されない」という気概はあったに違いないのですが、じつは ぬえは今回、こんな大役が近づいてきているのに、なんだか師匠はリラックスしておられるように思いました。

装束の取り合わせを決めるためにも師匠は何度も弟子を集めて、装束蔵からいろいろな装束を出して、それを弟子に着付けて(!)、その色合いを見比べたのですが、これを行っている師匠はなんだか楽しそう。。(*^。^*)「この長絹にこの色の露じゃ、ちょっとキレイすぎないかなあ」なんて、ご次男や ぬえら弟子にまで感想を求めてこられて。いや、師匠は割と重い曲を勤められる時にはよく装束の取り合わせに悩まれて、ぬえらを総動員してたくさんの装束を舞台に並べて「う~~ん」と考え込まれる事がよくあって、ぬえもそういう場で装束の色合いについて勉強したものなのですが、今回の下準備では、師匠は輝いておられました。

また、最近 ぬえは小さな催しを持ったのですが、その日取りをどのようにやり繰りしても、『檜垣』の下申合の前日にするほかなかった。。ぬえはこんな時期に師匠に来演頂くのは迷惑だと思うから、ドキドキしながら師匠にその旨をお伺いしたのですが、師匠は「あ、その日は何も予定を入れていないから(←あたりまえ!)、いいよ」とご快諾頂きました。さすがにこの日の楽屋では『檜垣』の副後見を勤める弟子のひとりを相手に、舞台の手順の指示など『檜垣』の事ばかり話しておられましたが、大曲の前なのに緊張されていることもなく、むしろご機嫌よくご来演頂きました。

これらを見て、なんだか ぬえには師匠が、師匠にとって旧友である清次郎師との信頼関係が、『関寺小町』での共演を経て、そこをクライマックスにして強固に結びついて、なんというか、美しい形で軟着陸したもののように思いました。長い舞台人生の中で、いろんな紆余曲折はあったかも知れませんが、こういう形で手に手を取って老女物を一緒に勤めるなんて、本当に美しいと ぬえは思う。

思えば、2年前の師匠と清次郎師との『関寺小町』は、もちろん ぬえは拝見したのですが(ただし、見所で)、じつはその前日まで ぬえはアメリカにおりました。そのとき ぬえは、もう3度目になる米国での大学での講義と公演を行っていまして、これは『関寺小町』には ぬえはお役を頂かなかったからこそ実現したのです。
で、この渡航は20日間の長きに及んだのですが、ぬえは米国との交渉の中で、師匠の『関寺小町』を拝見するために、この公演の前日に日本へ戻ることを絶対条件として主張しました。結局 ぬえのその主張は認められて、時差ボケの瞼をこすりこすり『関寺小町』を拝見する事ができました。この大曲の直前の師匠を、ぬえは見ていない。あとで、インタビューの聞き手を勤めさせて頂いて、どれほど師匠が心を砕いて舞台に向き合っておられたのかを知ったのです。。

ぬえにはこの(推測するよりほかないわけなのですが)、同門から様子は『関寺小町』と、『檜垣』との、それぞれの直前の師匠を見て、なんだか「仲間」ってものの良さを再認識させられたような気がします。

古希記念幸清会(その2)

2006-11-28 23:07:43 | 能楽
師匠・梅若万三郎の『檜垣・蘭拍子』と長男・梅若紀長の『卒都婆小町』と。いずれにしても、この会は ぬえの師匠家にとって名誉の一日でありましたですね。幸清流としても宗家・清次郎師のご子息・正昭さんが観世宗家をお相手に『姨捨』を、名古屋の後藤嘉津幸さんが金剛宗家の『鸚鵡小町』を、そして東京の国立能楽堂の養成会出身の森澤勇司くんが『卒都婆小町』を、それぞれ披かれました。まさに一門・一流をあげてのこのような大きな催しを統率された清次郎師のバイタリティには驚嘆するばかり。

ところで、それ以上に ぬえが驚いているのは、この古希記念幸清会の前日の11月22日に、まったく同じ名前の会の「古希記念幸清会」という、清次郎師のお弟子さんによる発表会が行われたことです。この日も朝10時から ぬえの師匠・万三郎が『砧・梓之出』を勤めたところから始まって、観世宗家の『三輪・誓納』、浅見真州師の『大原御幸』と、三番の能(それも重い能ばかり!)をはじめ、数多くの舞囃子、一調、独調が、夕方まで掛けて上演されました。

これらの曲の小鼓を打つお弟子さんのサポートのための後見は、主に子息や門人に任されて、清次郎師は楽屋で監督に専念されておられたようでしたが、それにしても2日間、清次郎師は(そしてその門下の方々も)一日中能楽堂にカンヅメ状態で催しの監督をされ、出演者への挨拶に余念なく過ごされておられましたし、それだけでなく清次郎師は気負うこともなく、我々にも冗談を飛ばされたりして、終始リラックスしておられましたね。それでも、この2日間の催しの最後の最後に、清次郎師は2時間20分近くを掛けたクライマックスの大曲『檜垣・蘭拍子』の鼓を打たれたのだから。。この体力はちょっと超人的、と言うべきでした。。

ぬえは初日の素人会はシテ方としては一番に楽屋入りしましたが、清次郎師やそのご門下はすでに楽屋にお出でになっていました。。結局、初番の『砧・梓之出』の地謡を終えてから、ぬえは観世宗家の『三輪・誓納』までは拝見しましたが、そこで翌日の地謡のために大事を取って帰宅しました。そして翌日の玄人会では、ぬえは初番の『卒都婆小町』の地謡はついていなかったけれど、やはり師家の嫡男の披キですので早めに楽屋入りして拝見していましたが、やっぱりトメの大曲『檜垣・蘭拍子』に備えて、その後は少し休息を取らせて頂きました。。(でもこの日、終演後に ぬえは朝まで飲んでいたから、ん~~まだまだ ぬえも体力は大丈夫か? (。_゜☆\ベキバキ(~_~メ))

『檜垣・蘭拍子』は古い記録や伝書をもとにして、演者で何度も研究が重ねられ、ぬえも参加した、囃子方を交えての稽古だけでも2度、さらに下申合と本申合と、2度の申合を経て当日を迎えました。『檜垣・乱拍子』は、それでももう数回各地で上演されていると思いますが、今回は乱拍子のあとで老女之舞の初段になったり、二段ヲロシを笛の一管の演奏にするなど、随所に工夫が凝らされていましたね。ぬえもとっても足が痛かったのだけれど、このような重大な催しの地謡の末席に加えて頂いた幸福を感じます。ホントに足は痛かったですけれど。。(T.T)

かくも盛大で、画期的な催しを企画され、それを貫徹された幸清次郎師の気力と精神力には心からの敬意を表させて頂きたいと思います。

古希記念幸清会(その1)

2006-11-25 17:47:22 | 能楽
もう一昨日になるのですが、今年一番の大きな催し『古希記念幸清会』のお手伝いに行って参りました。「古希」が「古来稀」を語源とするならば、その記念で催された今回の会は、それこそ「前代未聞」というべき内容でした。朝10時の開演から夜7時20分に終了するまでの間に老女物ばかり4番の能が並ぶ、というもの。

演者も大変だったが、ご覧になっているお客さまも大変だったでしょう。しかも入場券は二部制にもなっておらず、こりゃ、一日の催しの長さからみて、朝10時からの『卒都婆小町』はお客さまも体力を温存なさって(笑)、ほとんどお出ましにはならないのではないか、と思っていましたが。。いやいや、どうしてどうして、朝からほぼ満席状態で、それが夜まで続いていた、という。。主催者の幸清次郎先生の体力にも脱帽させられた日でしたが、お客さまの熱意も恐ろしいほど。。

朝10時から始まった(それもまた前代未聞だと思うが)『卒都婆小町』(梅若紀長師)は ぬえの師匠家の長男がおシテを勤めました。トメの『檜垣・蘭拍子』のシテを師匠・梅若万三郎が勤めましたので、清次郎先生からのお招きを受けて、父子揃って大曲を披かせて頂いたことになります。思えば2年前に、師匠・万三郎は同じく清次郎先生からの依頼を受けて、能の最奥の秘曲とされている『関寺小町』を幸清会で勤めた事があります。今回も含めて、こういう大曲を、自分の会ではなく、依頼された形で他人様の催しで上演、しかも披キとして上演する機会は、シテ方としても滅多にある事ではないでしょう。この番組を見て「師匠と清次郎先生とはホントに仲良しなんですね~。。」と感心するのは簡単かも知れないけれど、これほど、一世一代と呼べる大曲のシテを任せて自分の催しをする、というのはよほどの信頼関係だし、依頼されたシテの方でも「絶対に失敗が許されない」重責を担って舞台に立った事でしょう。信頼されて任された舞台だけに、その信頼を裏切るような成果だけは絶対に許されないから。。

実際、師匠は2年前の『関寺小町』が済んだあとで、研能会の機関誌『橘香』(きっこう)の中でインタビューに答えて「もしも失敗するような事になったら。。舞台を引退する覚悟でした」というような事を言っています。じつはこのインタビュー、聞き手は ぬえだったのです。師匠はこの舞台までの経緯や心情を活字にして残す事を勧められたそうで、「僕から話を引き出してくれ」と ぬえにおっしゃられて。。雑誌記事になるわけですから、師匠のその言葉は、読者の事を考えて ぬえがあとで少し手を入れました。もちろんインタビューの中で師匠が申されている内容は、そのニュアンスまでも伝わるように細心の注意を払いながら再構成しましたが、実際には師匠は、弟子である ぬえに向かって話されたわけで、記事よりももっと直裁的なお話しぶりで、心情を吐露、という言葉があてはまるようなインタビューになりました。

「絶対に大過のないように。。失敗のないように。。という事がすごく、こう、大きな重圧となって段々、日々のしかかってきてね。。自分の会であれば、なんか失敗があっても、言葉はおかしいけど自業自得みたいなね。。事でもって終わるけども、お頼まれしてね。。お頼まれして失敗したんじゃ、これは大変な事になるだろうと。これは相当な覚悟がいるな、と。くだけた話になるけれども、もしも何か大きな失敗をしたら、もうそれで、僕は舞台へもう立たないつもりで。これは本当に幸さんにも言った。失敗したらもうシテは舞わない、と。それぐらいの覚悟でやりますよ、と。。」いま、久しぶりにそのインタビューのテープを起こしてみたら、こんなやりとりだった。

ぬえはこの頂いた「聞き手」という役割を、やはり重責と内心はビクビクしながら勤めたのです。やはり見所からは見えない演者の苦労、ということはあります。ましてや大きな大きな舞台である分だけ、その華やかさの陰に隠れた苦闘もある。このインタビューはもう2年も経った以前の事でもあるし、『檜垣』が成功裡に終わったこの時期だから、少しだけ内情を公開しました。今回の舞台でどういう経緯があったのかは ぬえは知りませんが、こういう演者の苦労を知って頂くのも何かの参考にもなれば、と思います。

小学校で能楽デモンストレーション(その3)

2006-11-21 00:02:56 | 能楽

今日は一日スケジュールが空いていて、ゆっくり溜まっていた事務仕事をこなすことができました。メールを出し、研能会の番組の原稿を作り、も一つ原稿を書いて、このブログも書き、そしたら夕方に予定されていた外国人への仕舞の稽古が急にキャンセルになったので、さらにサイトの更新までしちゃった。明日からは幸清次郎師主催の、能楽史上でも画期的な大きな催しがいよいよ本番を迎え、ぬえもお手伝いに参上致します。ああ、長いながい、そして絶対に失敗の許されない3日間の始まり。

さて小学校でのデモンストレーションの最後の番組として、ぬえが仕舞『橋弁慶』を披露しました。いやいや、やっぱり長刀を使う仕舞には子どもたちはビックリしたみたいでしたが。。それでも子方は厳しい稽古にも耐えてがんばってくれました。なんせ子方はこの出番が来るまで、舞台袖で開演前からずうっと身を隠していなければならないんだから大変です。ぬえが能面の解説をしている時も、実演しているときも、そして副校長先生が『鶴亀』のシテを熱演しているときにも、一緒になって参加するどころか、舞台袖からのぞき見る事さえも厳禁なのですから。。

『橋弁慶』の終了後に、さらにアンコール曲が必要とのことだったので、囃子の録音に合わせて「神舞」を披露して催しを終了しました。もう少し予算があればお囃子方に出演をお願いできて、四拍子のアンサンブルの迫力を聞かせる事ができたのですが、なかなかPTAの予算では難しい面もあり。。



それでも ぬえも子どもたちと一緒に楽しむことができました。お招きくださったPTAの方々には厚く御礼申し上げますし、協力してくださった副校長先生はじめ小学校の関係者の方々にも感謝申し上げます。ぬえがこういう活動を行うにあたってのアイデアを出せるようになったのも、伊豆の国市の「狩野川薪能」での経験が大きいと思います。その薪能の責任者に ぬえを指名してくださった大倉正之助さんへの恩義も忘れちゃならないですね~。



ちなみに今回のデモンストレーションに参加してくれたのはこの小学校の2年生ぐらいが中心になっていたと思います。そこで、これをご覧になっておられた校長先生から、年が明けた頃に再度、今度は同じ小学校の高学年を対象にした講義を企画したい、とのお話が ぬえに寄せられました。ありがたや~ m(__)m

でも、どういう風にやろうかな? 「狩野川薪能」の出演者は小学校4~6年生を対象にしているのですが、そちらは半年以上も稽古を積んで、しかも薪能への出演、という大舞台の目標があります。いきおい、稽古の中では礼儀態度のような事も指導する場面があるし、出演者の個性を見ながら、だんだんと一つの目標にみんなを導いてゆく事も難しいことではないでしょう。しかし今回のような単発のデモンストレーションでは、子どもに遊んでもらうのを主眼に据える方がよろしいワケで。小学校低学年ならば今回のように『鶴亀』を課題曲に選んでも、みんな喜んで ぬえの“誘い”にノッてくれるけれど、高学年で同じ事が通用するかなあ。

「さあ! みんなで王様を呼ぼうっ! せ~の! 王様ぁぁぁ~~ (*^。^*) 。。あ? (゜_゜;)
「。。マジキモ」(-_-)

。。なんて言われたら ぬえ、どうすんねん? (T.T)

小学校で能楽デモンストレーション(その2)

2006-11-20 11:18:48 | 能楽

さてこの画像。。能の実演には違いないのですが。。曲目は『鶴亀』。そしてシテとして鎮座ましましているのはこの小学校の副校長先生(!)。じつはこれも ぬえが持っている子ども相手のデモンストレーション公演のワザのひとつです(ところで最近はどこもそうなのか、この学校では教頭先生、とは言わないらしい)。

小学校でデモンストレーションを行う事が決まってすぐ、ぬえは学校にお願いして、校長先生かそれに準ずる立場の先生。。つまり朝礼や全校集会でふだんお話をしていて、子どもたちにも馴染みの深い先生に、この『鶴亀』という出し物の一つに主役としてご出演をお願いし、そのスケジュールの都合に合わせてデモンストレーションの実施日を決めました。なんせこのデモンストレーションはPTA主催なので、どの学年の子どもたちも参加できるのです。やっぱりここは、参加する子どもたちみんなになじみ深いお顔の先生が主役を勤める番組がないと。

そして、あらかじめ『鶴亀』のシテの型付け(もちろん型は常よりもぐっと簡略にしてある)と型の説明書を作っておいて、さらにシテが舞う部分のテープも作って、これらを副校長先生に渡しておきます。そしてある日、一日だけ学校にお邪魔して先生にシテのお役のお稽古をつけておく、と。このシテの型も、たとえば「山河草木国土豊かに」とサシ分ケをするところを、見守る子どもたちの顔を右から左へ指し示し、また左から右へ慈しむように見廻すように改めるなど、随所に ぬえの工夫が入っているのです。

それにしてもやはり教育者は違うものですね。事前のお稽古で感じた事ですが、いくらあらかじめテープや詳細な解説書を渡しておいたといっても、そこはそれ、能の実技の説明など ちんぷんかんぷんだったはず。しかもシテには、かなり省略して譜を詰めたものとはいえ、「楽」まで舞ってもらう事になっていました。(^◇^;) ところが稽古が始まると、あれよあれよと納得して型をマスターしてゆきます。責任感があるからできる事でしょう。感心、感心。

もちろん当日も開演前に一回だけ副校長先生に稽古をしておくのですが、この時はもうすでに先生は問題なく型をこなしておられました。事前の稽古で手応えを感じていた ぬえは、この当日の開演前の稽古の先生の出来ばえに気をよくして、着物で舞う予定だった先生に、急遽 袷狩衣を着けてあげる事にしました。(^^;)

そして開演、子どもたちには『鶴亀』の中で「鶴」と「亀」を演じて? もらいます。ま、どのように子どもたちを能の役に巻き込むか、は企業秘密ということにしておきますが、まず子どもたちに『鶴亀』の物語をしてあげて、そこはそれ、唐代の玄宗皇帝では分からないでしょうから「王様がお正月に儀式をとり行います」というように教えて、それから「鶴」「亀」のお稽古? を簡単につけて、「はいっ!それじゃあみんなで王様を呼びましょう。せーのっ、王様~~~~~~!!」。。で王様登場。(^◇^;) ふだん見慣れない副校長先生の姿には、参観の保護者のみなさんもウケてましたな~。

ぬえは子どもたちの演技の指揮、ってな役割でして、鶴も亀も庭上で舞い遊び、王様に「へへ~~っ」とお辞儀をすると、王様も満足げに立ち上がって舞い始めます。緊張している王様の顔はちょっとこわかったけれど、無事に舞い納めて、正月の節会は滞りなく、めでたくお開きとなりましたっ (^^)v





先生方にもご協力願って、子どもたちも楽しめたと思います。やっぱり子どもたち相手では説明だけでは飽きられてしまって、実演して見せたって、「見ているだけ」ではどうしても限界があります。子どもたちにも参加してもらって一緒に遊びながら、ふだんテレビなどで触れているドラマや歌とは違った世界を垣間見るのはよい経験だったと思います。ここで休憩を取って、ぬえが実演する最後の番組となりまし

小学校で能楽デモンストレーション(その1)

2006-11-19 02:08:56 | 能楽

研能会での『海士』のための作品研究や、また師家所蔵SP盤のデジタル化作戦など、ここのところ長い連載が続いていましたもので、その間にあったいろいろな出来事を書くチャンスを失していました。ぬえもちょっと驚くような出来事もあったのですが、それらも含めて順次ご報告させて頂きたいと存じます。

去る10月21日(土)、近所の小学校である 東京都練馬区立光が丘第八小学校で、子どもたちを対象としたデモンストレーションを行ってきました。

これは同校のPTAが主催する「時計塔の音楽会」という、年に1度だけ開かれる催しへの出演でした。「音楽会」と言うからには音楽の演奏会からスタートしたのでしょうが、ん~、ま、能も実演だし音楽演奏も含まれるってことで。。

で、今回は主に小学校の低学年の児童とその保護者が集まってくださるという事でしたので、こちらとしても動きやすい広い会場を用意してくださるようお願いしまして、「音楽会」と銘打っておきながら会場は体育館。(^◇^;) でも大勢の参加者が集まってくださって、とっても楽しい会になりました。

能面を見せたり、それを ぬえが実際に顔に掛けて実演したり。でもその説明では“面に神様が宿っていて、それを敬う事によって神様が力をくださるんだよ”、とか“だからみんなも鉛筆やノートを大切にしようね。そうすれば神様がみんなが勉強ができるように力を貸してくださるよ”などと、日本人が持っている文化を伝えることには心を砕きました。子どもたちも面には興味を持ってくれたようで、恐い顔をした「小飛出」が神様の面なんだ、という説明も伝わったのではないかと思います。なんと言っても「すご~い」って言ってくれる面の造形が、ほかならぬ日本人たる彼らのご先祖さまが人間というものを深く洞察した結果 発明したものなんだ、ということは知ってもらわなければならないのです。

ぬえは、その時はそうは思わなかったけれど、今考えればまるっきり西洋人のように子ども時代を過ごしてきました。洋服を着、聞いている音楽もすべて洋楽。そんな ぬえが能の世界に飛び込んで、はじめて日本人になれた、と思う。そしていま ぬえは、日本人に生まれて本当に良かったな~、と心から思っています。この国の文化は世界一だから(断言)。だからこそ、ここに子どものうちから気づいてほしい、と思う。それほど現代では日本の文化の大きさに触れる機会は少ないのです。ぬえはこういうデモンストレーションの場で子どもたちと遊ぶことも好きなのだけれど、それを通して、ああ、私たちって日本人なんだ、と、自信を持って自覚してほしい、と思いますね、いや実際。

面の説明のあとで、それを掛けて実演をしたのですが、ここでは『松風』を例にとって、「人が気が狂うところ」を実演しました。要するに「三瀬川、絶えぬ涙の憂き瀬にも」から「松風と召されさむらふぞや、いで参らう」までを演じたので、死してなお恋人の行平を待ち続ける松風が、絶望の淵から松の木に恋人が来訪する姿を幻のように見てしまう、この曲の中での一つのクライマックスの場面です。しかし型としては安座した状態でシオリしながら謡い、ついで手を下ろして松の作物に目を留めて立ち上がり、三足ほど出るだけ。もっぱら謡で人が狂気に走るさまを描く、いかにも能らしい表現です。そして ぬえは、この場面を舞台で演じてみたかった、という理由で二年前の『第二回 ぬえの会』で『松風』を勤めました。ぬえの実演の出来はともかく、若女という面がこれほど豹変する曲も場面も、現行曲ではほかに例を見ないと ぬえは考えていて、それが出せればよかったのですが。ともあれ、この実演は子どもたちよりも、むしろ参観のPTAの方々にはうまく伝わったようで、まずはひと安心でした。

師家蔵・古いSP盤のデジタル化作戦(その5)

2006-11-17 01:25:49 | 能楽
【その4】材質(。。えっ!?)

みなさんもご存じかも知れませんが、SP盤のレコードって、とってももろくて割れやすいのです。うん、まあ ぬえもそう聞いた事はあったけれど、ぬえも所蔵している戦中の有名な時局能『忠霊』のSP盤を見たかぎり、また今回名古屋に運んだ師家所蔵の盤について言えば、それほど もろいという印象は持ちませんでした。でも師家の所蔵品の中にも割れている盤があったり。。やはり取り扱いに注意するに越したことはなさそう。

鮒さんいわく、やはり古い時代のSP盤ほど割れやすいのだそうです。時代を経るに従って盤の製作技術も進歩して、割れにくい盤ができるようになったのでしょう。名古屋ではSP盤の状態を1枚一枚確認しながら業者に引き渡したのですが、鮒さんは盤に触ろうともしない。そして「あ、それはマーキュリーレコードの盤だから丈夫です。保存も良好じゃないかな」「あ!また出た。。ニッポノホン。。それは気を付けて扱ってね」なんて言う。あとで聞いてみたら、すでにSP盤のコレクションを1千枚も所有する鮒さんの経験から、古い時代の盤は重く、そして割れやすいのだそうです。「重い盤ほど気を付けて扱う」のが鉄則なようで、いや実際驚くほどSP盤ってのは重いものですが、後世には軽くて丈夫な盤に改良されたようです。

そのうえ鮒さんは「ニッポノホン。。私も何枚割ったことか。。」なんて言ってる。事のついでに ぬえ、鮒さんに、古くてもろい盤とはどれほどの耐久性があるのか聞いてみました。答えは驚くべきもので、「ターンテーブルに載せたとたんに割れた」「手に持っただけで割れた」。。ですって。。

さて師家の所蔵品のSP盤は、だいたい3種類の方法で保管されていました。まずは『梅若万三郎名盤集』のような企画ものの盤で、これは一番を通して謡う素謡を数枚のSP盤に収録したもので、それらがセットで立派な函に納められています。そして一枚ずつ薄い紙ジャケットにくるまれているもの。これは小謡のような部分謡ばかりですが、本来どのような姿で販売されていたのか。。薄い紙ジャケだけじゃ破損の危険も大きいと思うのですが、先代の師匠の手による題箋が付けられて厚紙でくるまれ、丁寧に紐でくるんだものもあるので、それらは函を散逸したものか、あるいは元々簡素な包装で売られたのでしょうか。

そして最後に分類されるのが「アルバム」に納められて保管されていた一群の盤。「アルバム」とは、ホントに昔の写真アルバムのようなもので、革表紙の分厚いものですが、明らかにSP盤を納めるために作られたものです。内容は素謡が納められた数枚の盤があったり、1枚だけの小謡があったりと内容がバラバラですし、アルバム本体には納められた盤の内容を記すスペースもなく、これはどう見てもアルバムは盤の所蔵者が保管のために別に買い求めたもの。

。。で、ちょっと調べたら面白い事がわかりました。アナログレコードの時代にシングル盤と区別してLP盤を指して使った言葉。。今日でもフルCDを呼ぶ名称。。「アルバム」とは、この時代、SP盤を専用のアルバムに保管していたところから起こった名称なんですって! へ~~っ! 「アーティストのニューアルバム」「コンセプト・アルバム」と名称は現代的でも、その中にはSP盤時代の名残が残っているんですね~。

もひとつ。ここが本題。今回SP盤に携わる機会を得た ぬえですが、前述の通り ぬえ自身も『忠霊』を所蔵していて、あながちSP盤との縁がないわけではないんです。。で、以前から気になっていた事がありました。戦後に登場し、CDに取って代わられるまで約半世紀の間 音源として不動の地位にあったLP盤は、この材質は ぬえの世代ならみんな知っている「塩化ビニール」です。でも、早く明治時代(1910年代)からあったSP盤の材質はそのような化学製品であるはずがない。。この真っ黒で重い、そしてあまつさえ壊れやすいときているこの円盤は、いったい何からできているのか。。? 今回のこのデジタル化作戦のついでに、ぬえも長年の疑問を調べてみました。

結果は。。驚いた。。

答えは。。この発言のコメントとして書いておきます。。

師家蔵・古いSP盤のデジタル化作戦(その4)

2006-11-16 02:59:03 | 能楽
【その2】「電気録音」「アコースティック録音」ということ

これは前回、師家蔵・古いSP盤のデジタル化作戦(その2)でも触れたのですが、現代のようにマイクロフォンを使った録音が「電気録音」で、日本ではこの技術による収録は大正時代の終わりにようやく始まりました。それ以前までは蓄音機の原理の逆で、録音機器のラッパに向かって演奏をして、その空気振動を針で直接レコードの原盤に刻んでいたのだそうです。もちろん音質はよくなく、謡など声楽の場合は怒鳴るような音量で録音しなければならなかったのだとか。つまり前述の「出張録音」などはマイクを使っていない「アコースティック録音」なのですね。

【その3】聞き込み、と針のおはなし

今回もっとも感心したのは、ぬえが名古屋に持参したSP盤を音響関係の業者に持ち込んで引き渡したとき。このときは当然 ぬえと業者の担当者、そして研究者の鮒さんが立ち会って、60枚以上あるSP盤の状態を1枚いち枚確認しながら引き渡すのです。その時 鮒さんの目がキラリと光りましたね~。「あ、これは状態が良いな。ほとんど聞き込まれていない。。さすが演者のお宅にあるものだ」「うん。。?これは。。?ここに針を落とした痕がある。。これは聞き込んでいるな。。これは素人のお弟子さんなどから先生に寄贈されたものかもしれませんね。。」

つまり、SP盤というものは、LP盤以上にレコード針による損傷を受けやすいものなのだそうです。これも前述したように、昔 テープレコーダーなどない時代には、SP盤は謡を稽古しているお弟子さんが自宅で稽古の参考にするためなどにテープ代わりに使われたのです。そうなると難しい節回しがあったり名曲では、おのずからその盤は相当に聴き込まれている場合がある。これは盤面を見るとすぐにわかるのだそうです。不用意に針を盤面に落っことしたキズがあったり、ひどいときには何度も聴き込まれて、針が何回も盤面の溝をなぞったおかげで盤面が削れて真っ白。。という事さえあるそう。こういう盤は、もちろんノイズも多いだろうことを覚悟しなければなりません。

ところが、SP盤に限らずこのように実演を録音・録画した場合には、出来上がった製品は当然演奏者自身にも贈られることになります。そしてこれまた当然というか、演奏者自身は自分の演奏の記録など、せいぜい一度か二度ばかりは試しに聴くことはあっても、それ以上に聴き込むなどという事はなく、そのまま死蔵されている場合が多いのです。今回 鮒さんの依頼によって ぬえが師匠家に掛け合って師家所蔵のSP盤をまとめてデジタル化することになりました。師家の所蔵品を拝借するのは、演者のところに所蔵されている盤がもっとも散逸せずに、まとまった形で保存されている可能性が高い、という理由だろう、と ぬえは思っていたのですが、じつは鮒さんの考えでは、上記のような理由で演者の所蔵品は保存状態がよいのではないか?という期待があったのだそうです。ふうむ、読みが深いな、鮒さん。

ところで、SP盤を再生する蓄音機のレコード針の材質は「鉄」と「竹」とがあったのだそうですね。ぬえなぞはこの分野はまったくの素人なので、これを聞いて単純に、固い鉄針よりも、やわらかい竹針を使って聴かれた盤の方がダメージは少ないのだろうと思ったのですが、さにあらず。竹針を使って聴き込まれたレコード盤の保存状態は鉄針のそれよりもはるかに悪いのだそう。理由は聞かなかったのだけれど、なんだか面白い話です。

師家蔵・古いSP盤のデジタル化作戦(その3)

2006-11-15 23:52:50 | 能楽
先日お伝えしましたように、ぬえは先日師家所蔵の古いSP盤を携えて名古屋へ行って参りました。研究者の鮒さんとお会いして、一緒にSP盤を業者に持ち込み、これらをデジタル化してCDを作るのが目的です。

師家の所蔵のSP盤というのは大正~昭和期にかけて、先代・先々代の師匠が吹き込まれたもので、今回所蔵の盤のリストを作ったところ、曲目にしてのべ25番、重複分を除けば計18番分のSP盤が残されていました。ただ、素謡または番囃子として全曲が収録されていると思われるのはわずか6番程度で、多くは一部分だけが謡われた小謡の収録であると思われます。しかしながら戦時下に作られた有名な新作能『忠霊(ちゅうれい)』や『皇軍艦(みいくさぶね)』があったり、乱曲『定家一字題』や先々代の師匠が得意とした『安宅・勧進帳』があったり、内容はかなり興味深いものです。

で、なぜ素謡か部分謡かがわかるか、というと、それはその曲に宛てられたSP盤の枚数で判断できるのです。SP盤というものは、ちょっと前まで流通していたLP盤と同じぐらいのサイズでありながら、ターンテーブル上で分速78回転という高速度で回転して再生するため、片面に4分程度しか録音できません。両面でようやく8分。だから素謡の収録でも盤は5~7枚も必要なのです。たとえばある曲について2枚が宛てられていたならば、これはやや長い分量はあるけれど、素謡1番はとうてい収録できない。これは小謡のような一部分だけが収録されているはずです。4分ごとに盤をひっくり返したり、次の盤に取り替えたり。。昔の人は大変な思いをして謡や音楽を楽しんだのですね~。

さて師家蔵のSP盤の内容について詳しくは、鮒さんの研究を待つとして、SP盤というものについて今回はいろいろ知ることが出来ました。これまたいろいろ興味深いことがあります。(鮒さんから聞いたことを記憶をもとに書いているので、多少間違いもあるかも。。)

【その1】「出張録音」ということ。
師家蔵のSP盤の中から、たいへん貴重なものも発見されました。それがこれ、「出張録音」というものです。このSP盤はアメリカ製。現在残っているSP盤はほとんどが大正~昭和のもので、SP盤からLP盤へと役割が交代する戦後すぐまでのものです。そしてそのほとんどが、ニッポノホン、日本コロムビア、日本マーキュリーレコード、日本ビクター、能楽名盤会、ポリドール、ヒコーキ(GODO PHONOGRAPH CO.LTD.)、スタークトンレコード、キングレコード、といった日本のレコード会社の製作になるもの。それ以前の時代、つまり明治時代にはまだ日本にはレコード会社がありませんでした。

ところがこの時代に作られたSP盤もいくつか残っているのです。それが「出張録音」というもので、要するに米国から技術者が世界各国に出張して、その国の代表的な音源を収集したのだそうです。日本でも伝統芸能などいくつかの録音がこの時期になされ、能楽からは観世清廉(23世宗家)や ぬえの師匠の先々代・初世梅若万三郎、宝生九郎などの肉声が記録されました(当時はホテルの一室をスタジオ代わりにして、音源たる演奏者を缶詰にして録音したらしい)。明治後期ぐらいから始まったこの出張録音では蝋管レコード(円筒形のレコード)からSP盤への過渡期にあたり、米国のレコードメーカーは技術者と機材を日本に持ち込んで、出来上がった原盤を米国に持ち帰って製品化し、あらためて日本へ輸出したのだそうです。

このたび師家の所蔵品の中に、その明治時代の出張録音によるSP盤が発見されました。やはり21世紀のこの時代にまで残っていたのは大変貴重なのだそうです。そういえば ぬえの師家には蝋管レコードに吹き込まれた録音も所蔵されているのだ、と聞いたことがあります。これもデジタル化できないかなあ。

能『海士』について(その16)

2006-11-14 00:35:01 | 能楽
一昨日 名古屋を訪れた際に徳川美術館の見学に参りました。そこで なんと龍が宝珠をつかんでいる文様の腰帯が展示されているのを見てビックリ! 『海士』を勤めたあとでこのようなものが展示されているのを発見するなんて。。

これは「花色地玉取爪文様腰帯」というもので、花色(=紺色)の地に同じ文様が三つ刺繍されています。その文様こそ龍が三本の指の爪で宝珠をガッシリとつかんだところを正面から見た図。なんだか目玉のように見える白い宝珠を、金の指に浅黄の爪がグワッシと握っています。遠目では何の文様かわかりにくいけれど、近くで見ると、ちと、こりゃホラーだね。。画像をご覧になりたい方は、同美術館が発行しているカタログ『徳川美術館蔵品抄9 能面・能装束』P110に掲載されていますので、そちらをご覧頂きたいと存じます(この場への無断転載は控えることと致します。ところで前回にお話しした ぬえの縫箔の本歌の同美術館蔵の縫箔の文様は、この本の表紙になっているんですよ)。

。。本当は『海士』については まだまだ考察したい問題もあります。たとえば『続日本紀』には、藤原氏が海人族の海部直の娘と縁を結び、海人一族の援けを得て海洋の支配権を獲得したことが記されていて、一方 不比等は2人の娘を文武天皇、聖武天皇に入内させて皇室の外戚となって権勢を振るい、大宝律令の制定に関わり、平城京遷都を推進するにまで到ったこと。すなわち天孫たる皇室と姻戚関係を結んだ藤原氏が、一方では海の民としての海人族とも縁を結んだ。。この事実が『志度寺縁起』を経て能『海士』の中で房前の母が龍女(海の神)と変形されて、海神との姻戚関係として位置づけられたのだとしたら。。人臣である藤原は、天=地=海、すなわち「全世界」を統一した存在になるのです。そこまで藤原氏におもねる意図が能の作者にあったのかどうか。。

ここまでで、とりあえず ぬえの『海士』の考察を終わりにします。それにしても今回のの考察には本当に頭を悩ませました。深い歴史的な事実も隠されてあり、また一方では藤原氏という特定の鑑賞者を想定して作曲された可能性もある。そしてそれらをすべて包み込むようにある法華経への絶対的な帰依の精神。。これらを調べるうちに、どんどん舞台から離れていく ぬえを感じてしまう。ぬえがこのブログに書いている上演曲目の考察は、あくまで自分が勤める作品の理解のためであり、また あるいは ぬえの舞台をご覧頂くお客さまへの理解の一助になれば、と思って書いていることなのですが、常に「頭でっかち」で舞台が希薄な役者、と ぬえが呼ばれる事だけは避けられるよう気を遣いながら書いています。

ところが今回は、この曲の中に隠された、別な言い方をすれば、説明し切れていない背景への考察を進めるにつれて、どんどん舞台からは離れて「頭でっかち」になってしまう。稽古を通じて舞台を構築していくための補強でなければならないはずの考察の作業が、いつのまにか作品が背負っている成立事情の推定に傾いていってしまうのです。

今回の考察のスタートが遅れたのも、そういう、研究が自分の舞台にマイナスになる可能性を危惧したからで、曲目の考察にあたってこういう経験をしたことはこれまでないなあ。。それほど『海士』という曲がその成立にあたって複雑な事情を秘めているのでしょうし、それが目に見える形で作品の中で説明しきれていない、とも思う(あるいはわざと説明しなかったのかもしれませんが。。)。それがまた、演者にとっては作品に対していろいろな角度でアプローチできる要因にもなるのだろうし、そのために様々な小書も歴史の中で生まれ、面・装束の選択肢をも広めた結果につながったのでしょう。ところがまた、単純に舞台での演技の面白さだけでも成立してしまい、その結果、現行曲の中でも人気曲のランキングに顔を出す『海士』という曲。。考えようによっては「不完全」ともいえるほど整合性を欠きながら、こんなに自由な発想を演者にも観客にも与える曲はほかにあるだろうか。

今後、あらためて『海士』を勤める機会があれば、もう少し焦点を定めた考察をしてみたいと思います。今回はこれにて、とりあえず了とさせて頂きたいと存じます。

能『海士』について(その15)

2006-11-13 02:58:49 | 能楽
このたび、ぬえがいま最も信頼している ぬえの舞台の批評をしてくださる方(前にも書いたと思いますが、ぬえからチケットをお送りした事はあるので住所もお名前も存じているのですが、実際にお会いしたことはないナゾの方。しかし鑑賞歴は相当なものと感じますし、その的確な批評は ぬえにとって自分が勤めた舞台で狙った効果がきちんと現れたかどうかを計るのに最も信頼できる指標)からメールを頂きました。

前回に書いた ぬえ自身による『海士』の総括も、この方からのメールを頂いてから、とは思ったのですが、今回はお出まし頂いたのか ぬえは知らず、やむなく自分だけで短くまとめる事と致しました。やっぱりお出ででしたのね。。

でも、ぬえが「やり過ぎ」「荒い」とビデオを見て思った「玉之段」について、また「まあまあの出来」と思った後シテについて、この方は ぬえと同じ印象を持たれたようです。なるほど。でも ぬえはビデオを見なくても自分の舞台の成果ぐらい「離見」の心で見えなくては、ですね。

さて『海士』の解釈の続きとして、金剛流にある小書をもうひとつ。同流には前回ご紹介した「変成男子」のほかに「八講」という特徴的な小書があります。これは後場の詞章で早舞になるところ、すなわち「天人所戴仰、龍神咸恭敬、あら有難の御経やな」のところで舞にならず、続けて常の場合では早舞のあとのキリの文句「いまこの経の徳用にて」となり、常の終曲の文句「仏法繁昌の霊地となるも、この孝養と承る」のあとで黄鐘の早舞となり、舞のあとで さらにこの小書独特の、次のような文句が挿入されます。

シテ「御法の夜声 時過ぎて 地謡「御法の夜声 時過ぎて、歌舞音曲も時移れば、はや東雲の鳥の声、名残もいつか月も傾く西の海、南の岸に到り給ふ、北の藤波栄ゆくことも、この八講の功徳とかや

これはまた。。藤原氏を意識した文章なのでしょう。流儀を越えてこのように藤原氏への賛美が演出に取り込まれているという点から見ても、やはりこの曲と藤原とは切り離せない深い関係があるのですね。

さて、『海士』についての考察もそろそろ最後になりますが、ぬえはずっと疑問に持っていた事があります。『海士』の後場、具体的には早舞の前からキリにかけては、能の作詞法や囃子の手組から言ってかなり無理のある文言で、とくにキリの文句は太鼓の手組を見ても他の曲では類例を見ないような変則的な手が付けられています。これはどうしたことなのか? ぬえは、囃子の手組の法則性を無視したこの文章にずっと疑問を持っていまして、今回この曲を勤めるまで、漠然と、この部分は『海士』という曲に先行する本説に取材したものなのだろうとは考えていました。

シテ「なほなほ轉読し給ふべし 地謡「深達罪福相。遍照於十方 シテ「微妙浄法身。具相三十二 地謡「以八十種好 シテ「用荘厳法身 地謡「天人所戴仰。龍神咸恭敬あら有難の御経やな(舞)シテ「今この経の徳用にて 地謡「今この経の徳用にて。天龍八部人與。皆遙見彼、龍女成仏さてこそ讃州志度寺と号し。。」

今回の調査で、はじめは『讃州志度寺縁起』からの移植なのか、と思ったのですが、じつはこれは法華経の文句そのままを能に導入したものだったのでした。

「深く罪福の相を達して あまねく十方を照したもう 微妙の浄き法身 相を具せること三十二 八十種好を以て 用って法身を荘厳せり 天・人の戴仰する所 龍神も咸く恭敬す 一切衆生の類 宗奉せざる者なし 又聞いて菩提を成ずること 唯仏のみ当に證知したもうべし 我大乗の教を闡いて 苦の衆生を度脱せん」

早舞の前に置かれる詞章は、この法華経の「提婆達多品第十二」の音読みで、まさに龍女が釈迦の前でその威徳を讃える言葉。またキリの詞章は、同じ部分で龍女が成仏したところの場面の描写です。そして龍女が成仏を遂げるところを目の当たりにして、次の文言が続くのでした。

「爾の時に娑婆世界の菩薩・声聞・天・龍・八部・人とと皆遥かに彼の龍女の成仏して、普く時の会の人・天の為に法を説くを見て、心大に歓喜して悉く遥かに敬礼す。」

能の中には法華経は色濃く投影されていますが、さすがに ぬえも法華経をしっかりと読んだ事はなかったのでした。お恥ずかしい。

名古屋より。。ただいま帰還致しました~

2006-11-12 23:55:49 | 能楽

例のSP盤のデジタル化・復活作戦がついに実現し、昨日は ぬえが師家所蔵のSP盤を名古屋まで持参してきました。名古屋の ぬえの友人の研究者・鮒さん(←ハンドルです)の研究の一環として師家所蔵品をデジタル化するわけですが、夕方に名古屋に到着して、一枚いち枚の状態を確認しながらデジタル処理をする会社に引き渡すのに大変な時間が掛かり、それを終えてホテルにチェックインしたときにはすでに夜9時をまわっている、というありさま。

さてようやく遅い夕食・兼・鮒さんと飲みに行ったのですが、そうだった! 名古屋は夜が早いのを忘れていた。。10時近くになると駅前のほとんどの飲食店は閉まってしまって、また鮒さんが自宅に帰るための終電の時刻も迫って、走り回って開いているお店を探すハメになってしまいました。いやはやとんだ目に遭った。

それでも一夜明けて、徳川美術館に行って駆け足で見学し、厚板唐織の図柄の便箋と、鬘帯の図の入った一筆箋、さらに縫箔の文様の入ったハンカチを買いました。ほくほく。いえ、ハンカチはちょっと男性には使いづらい図柄なのですが、これが ぬえが内弟子から卒業したときにはじめて自分で作った縫箔のデザインを、この美術館所蔵の縫箔を参考にして作ったのです。徳川美術館にはこれでもう4度か5度ほど来ているのですが、今日はじめてこのハンカチを発見して、それが ぬえ所蔵の縫箔の本歌たる縫箔の文様を写したものだったものですから。。なんだか嬉しくて買ってしまいました。

それから急いで新幹線に飛び乗って東京に帰り、国立能楽堂で申合に参加。なんだか忙しい一日でしたが、充実はしていました。

それにしても、これだけこの美術館には足を運んでいるのに、一度も『源氏物語絵巻』の展観の時期に来たことがない。。毎年11月だと思うのですが、今回も1週間後から展示が行われるそうです。。

SP盤のデジタル化についてはいろいろと面白い話題があり、また昨日は鮒さんからも話題を提供して頂きました。これはまた次回にでもお知らせ致しましょう。

能『海士』について(その14)

2006-11-10 15:59:05 | 能楽

そうこうしているうちに、昨日、無事に『海士』を勤める事ができました。なんだか子方の稽古との配分を間違えて最後は苦しい思いをしながら、バタバタと追い立てられるように仕上げた感はありましたが、不思議や当日は、何というか、ナマイキかも知れないが、舞台を楽しんで勤めることができました。ただ、あとでビデオを見てみると。。後はまあまあの出来だったと思いますが、玉之段は。。こりゃちょっとやり過ぎでした。少々荒くなってしまった。気持ちの持ちすぎが原因で、もうひとつ冷静に自分を見つめる眼が、まだ ぬえにはできていないのですね。ここが最も大きな発見だったかもしれません。

稽古のやり方について反省する点も多い今回の『海士』ではありましたが、発見もいろいろとあった舞台だったと思います。これで ぬえの今年のシテはすべて終了しましたが、正月の『翁付キ賀茂』の千歳と天女、二月の『鵜飼』、六月の『朝長』、七月の狩野川薪能での『船弁慶・前後之替』の後シテ、そしてこの『海士』と、悔いが残る舞台がない年でした。まずはめでたい。



もう終わってしまった舞台ですが、『海士』についてもう少々、書き残したところだけ記しておきたいと思います。

前回、『海士』の後シテ像について、小書によって母が亡霊~供養による龍女への変身~成仏を遂げて菩薩へと生まれ変わった姿、という段階がそれぞれに強調されていると考えられることを考察しました。本当は小書についてももっと考えたいのですが、調べるほどにこの曲がいかに幅広い解釈を許す能なのか、と感嘆せずにはいられないし、またそれゆえに長い上演の歴史の中にも、解釈が未消化なところを残す曲という印象を持ちました。この曲には演じ方にいくつも可能性を秘めているでしょう。

実際、ぬえも何度か驚くような演出の『海士』を拝見したことがあります。中には前シテが鬘を結わずに登場した(!)演者もありました。しかも椿油を普段よりもさらに多めにしっとりと含ませた鬘を てらてらと光らせながら、それを結わずに髪の流れるままに肩や背に垂らした姿。。そう、いましがた海から上がってきたばかりの生々しい海女の姿で、それはエロチックにさえ見えるほど。。衝撃的でした。もちろんこれは何度もこの曲を手がけてきた巧者の演者の工夫に相違なく、この曲を初演する ぬえには考えもおよばない事なのですが、こういう、何というか、能には本来そぐわないであろうはずのリアリズムの工夫が、すんなりと舞台に溶け込むのを見るのも不思議な気分。『海士』という曲がそれを許すのでしょうか。

さらにさらに、この曲の特異な解釈としての小書、金剛流の「変成男子」をご紹介させて頂きましょう。

これは後シテが文字通り、「男」の姿で登場する小書で、大龍戴を戴いた白頭の下に悪尉の面を掛け、装束は狩衣に半切、そして鹿背杖を突きながら登場する姿は『玉井』の龍王のよう。舞は早舞を舞う(初段までは杖で舞う)のですが、位はきわめて重いものになります。なぜ母の海女が白髪の老龍に変身するのか、という疑問は残るものの、「龍女」の姿である現行の『海士』の後シテの姿と比べると、この「変成男子」の龍王の姿は、むしろ法華経に描かれる女人成仏の有様を実像として舞台に現した姿として理屈には合っています。

能『海士』について(その13)

2006-11-08 01:11:19 | 能楽
昨日、『海士』の申合が終わり、あとは当日を残すのみとなりました。自分としての感触は。。もう一つ、かなあ。。子方の稽古と自分の稽古が ややごっちゃになってしまった反省もあります。謡は研究したのだけれど、型は。あと少しの時間しかないけれどもう少し練って当日を迎えたいと思っています。

ともあれ、この『海士』という曲、ぬえはこれまで考察してきた結果から、後シテを菩薩と捉えることにしました。

変成男子という難解な仏教哲理は、この曲を勤める演者によって、長い歴史の中で複雑で多用な解釈を生んできたと思います。前述した後シテが使用する面の流動性~泥眼か龍女か~もその一つでしょうし、この曲の小書が極端に多いことも解釈の多様性を物語っています。演者もこの曲には振り回されてきた事でしょう。。

観世流に限って言えば、よく目にする小書としては「懐中之舞」があります。これは前シテが裳着胴の姿になったり、玉之段を扇ではなく鎌で舞ったりする変化はありますが、小書の名称の由来としては、常の演出では後シテは早舞を舞う前に子方に経巻を渡してしまうのに、この小書ではシテが経巻を懐中して、舞の終わりに子方に渡す事によるのでしょう。しかしその作業が舞の前後に移動したからといって、曲の解釈に決定的な影響を及ぼすものではありません。

ところが「赤頭三段之舞」となると、後シテが掛ける面は「橋姫」(。。つまり「龍女」)に限定されますし、それに伴って装束も舞衣から厚板の壺折りに変わります。舞は三段で、「懐中之舞」と同じくクツロギが入ります。しかしなんと言っても特筆すべきは、この小書の時はこの曲を「脇能」として扱うのです。

また「解脱之伝」の時には、「赤頭」のときとは反対に、面は増を掛け、天冠に白蓮を戴きます。こちらは完全に天女=菩薩の姿。そして早舞は舞わずに、子方に経巻を渡してから「イロエ」になります。

これらの小書の成立時期はともあれ、ここには早舞は龍女の舞であって、菩薩となった母親の霊は舞を舞うべきでない、という先人の能楽師の共通認識があるように思います。そしてこれらの小書の演出の相違は、浮かばれずに現世をさまよう母の亡霊~供養による龍女への変身~成仏を遂げて菩薩へと生まれ変わった姿、という、母の変化のそれぞれの段階が強調されていると考えることができるのではないでしょうか。それほどまでに『海士』の後シテの解釈が多様である事の、これはひとつの証左でしょう。

さらに言えば、子方にも小書の時の替の型として、後シテから渡された経巻を開いて、後シテが早舞を舞う間、シテを無視してずうっと経巻を読む型も伝わっています。こうなるとシテが舞う早舞の意味は、子方が自分に対して行ってくれた供養への感謝のようなものではなくて、子方へ渡した経巻=法華経=そのものを礼賛し、その威光によって成仏できることに歓喜しているのだと解するべきでしょう。

そのうえに ぬえが注目するのは、「赤頭」のみならず「懐中之舞」にも入るクツロギが、この場合は五段で舞ってもよいのに、クツロギだけは二段目に入れる、という囃子方のキマリがある事です。『融』や『玄象』で五段の早舞を舞うとき、これにクツロギを入れた場合は三段目に入れる約束であるのに、なぜ『海士』だけが? ぬえは、やはり『海士』の早舞は、演者にとってもあまりノリたくないからだと考えています。長大で、それゆえに終盤にはかなりの速度で演奏する事になるクツロギ。これを五段の舞で演じるときは、三段目に入れる事によってすぐその後に続く最終段の四段目は快調で颯爽とした舞の印象になります。ところがクツロギを二段目に配置することで、そのあとにもまだまだ早舞は続く事になり、このクツロギでノリを作りすぎると、あとはとんでもない速度の舞になってしまうので、自然と演奏にも抑制が加わる。『融』や『玄象』など、そもそも遊楽の舞たる早舞が『海士』に導入されるとき、遊舞とは一線を画したい、という欲求がこのキマリに読みとれると思います。

考えてみれば早舞の中でも『海士』は『当麻』に次いでシッカリ目に演奏するキマリになっていまして、これまたこの二つの曲は後シテが女性の姿。そして『当麻』は中将姫がやはり菩薩と変じた姿です。すると早舞には遊舞のための舞、というほかに「菩薩の舞」という解釈があったのでしょうか。このあたりはまだまだ調査の必要がありますが、ともあれ ぬえは今回の『海士』を、小書はないけれども早舞を三段で舞う事にしました。この曲の舞はノリをもって舞う舞ではない、と考えたからです。

能『海士』について(その12)

2006-11-07 01:46:31 | 能楽
余談ですが、室町時代に大和四座が出勤を義務づけられていたのは、興福寺・春日大社若宮のほかにもう一箇所ありました。それが奈良・多武峰(現在の談山神社)で行われた八講猿楽です。そしてじつはこの多武峰は、それこそ藤原鎌足を祭神として祀る神社なのです。ここでは円満井座(金春座)ではなく結崎座(観世座)との繋がりが最も深く、結崎座は八講猿楽へ出勤する義務を果たしていたばかりではなく、この地での催しを重視。欠勤者を座から追放する規定を設けたりしていて、一説には結崎座そのものが多武峰へ参勤するために結成された座である、との見解もあるほどですが、大和猿楽の他の三座~外山座(宝生座)、円満井座、坂戸座も出勤するようになり、のちには四座のうち二座が交代で出勤する定めとなったようです。いずれにせよ今日ある能楽の各流儀の役者は、ここでも藤原氏によって活躍の場を与えられていた形になります。藤原氏が能楽にあたえた影響は多大だったし、少なくとも能役者が藤原氏に対して持つ思いは深いものだった、と言えるでしょう。

。。もっとも、疑問もないわけではなく、たとえば多武峰は鎌足を祀っていながら、藤原氏の氏寺で奈良一帯に圧倒的な勢力を持っていた興福寺とは非常に険悪な関係にあって、平安時代の中頃からは興福寺の衆徒がたびたび多武峰を襲い、社殿はおろか近在の村落まで焼き払ったりしています。このような険悪な関係の二つの寺社に四座がそろって参勤できたのはどういうわけだったのでしょう。

このあたり、多武峰の八講猿楽が室町時代のうちに衰退しはじめて、その末期には断絶してしまったことや、多武峰自身がたび重なる戦災で焼失・再建を重ねて資料を失っていることなどから、現在でもなかなか真相に迫るのは困難なようですが。。考えてみれば興福寺も明治の廃仏毀釈でかなりの痛手を被り、多くの堂塔を失ったばかりか、現在でも寺域を区切る築地は取り壊され、奈良公園の一角にあってどこからでも入り込める状態。。長い歴史というものは、伝統を育みながら、その原初の姿に迫るのは難しいこともあるのですね。。

注:「八講」とは法華経8巻を読誦・供養することで、多武峰でもかつては寺社が共存していたために法会も行われていました。明治の廃仏毀釈以後は神社のみが残り、現在の談山神社となっています。

『海士』に戻って、こういった藤原氏への敬愛のひとつの形として能『海士』が書かれたことは想像に難くないと思います。世阿弥時代にはすでに原型だけでも完成されて上演されていた『海士』は、興福寺での上演にもっとも効果を発揮したでしょうし、能楽の上演の場としても興福寺は大きなウエイトを占めていました。

すると、『海士』に描かれたテーマは、藤原氏と、その氏寺である興福寺に捧げられたものであって、寺社での上演にあたっては、単なる藤原房前の神秘の出生譚の物語の上演である以上に、真相を知って母の霊と邂逅した房前の追善供養によって、いかなる形で母が成仏したか、という仏教理念の体現であることがふさわしい。房前の母親が能の中核である以上、女性が成仏する姿を舞台上に破綻なく体現する事が必要で、この必要から法華経の変成男子の物語を活用した後シテの龍女像が形成されたのでしょうね。

そしてまさしく房前の出生の物語には龍女の変成男子の物語の必要不可欠な小道具、宝珠が登場しているのです。龍宮に飛び入って宝珠を取り返した海女は龍神とは敵対している関係であるはずなのに、彼女が後シテで龍女となって現れるのも、宝珠が仏の教えの具体的な姿なのであり、成仏を約束する証拠である事を考えれば、結局は宝珠の所有を願う龍神も、海女その人や藤原氏、そして興福寺の衆徒も含めた人間も、等しく仏に帰依した仏弟子なのであり、それによって命を落とし、手厚い追善供養を受けた海女が菩薩として房前=あまねき衆生=を祝福する存在として登場しているのでしょう。