湊小学校でしばしば見かけた看板やちょっとしたサインボードなどに描かれた ちょっとかわいいイラスト…これ、女の子のボランティアさんが描いているのかと ずっと思いこんでいたのですが、なんと、この自転車屋さんのちゅんさんが描いたものらしい(!) …はああ、才能ですね~
こちらは 先日湊小学校で盛大に行われたという夏祭りの看板。ついません、ちょっと暗くて見づらいですが…
最近では湊小学校を出て仮設住宅に入居された方のために、仮設住宅の看板を描かれたらしい。→こちらは ちゅんさんのブログからご紹介させて頂きました。避難所の生活というものが垣間見れる、という意味でもこのブログは面白いし、なんと言っても 書かれている内容がとても面白い。お勧めブログですんで、ぜひご覧になってください!
そのうえ、湊小学校で自転車修理や看板にイラストを描いているだけじゃなくて、近隣で被災した焼き鳥屋さんの復旧活動を手伝っておられて、折々に立ち寄って津波の被害を受けたお店の清掃をしたりされています。
その支援の方法がまた面白い。なんと自転車の荷台に焼き鳥を作るコンロを取り付けて、移動焼き鳥屋なんてお手伝いまでしたらしい。ん~文武両道、すごいバイタリティです。面白いなあ、若いボランティアさんの熱意や発想。こちらは ちゅんさんを支援する京都のご友人の報告です。
→ちゅんさんを支援する人の報告
おっと →ちゅんさんのブログ で ぬえらの能楽ワークショップのことが書かれてありました。
すんまへ~ん、やっぱり異様でした?(・_・、)
こういう、長い期間を避難所で生活しながら支援活動を続ける、という 辛抱強い活動にも頭が下がりますが、いろいろ検索していたら、津波の被害を受けた湊小学校のインフラ(この場合は水道)の整備を、震災直後に解決した業者さんボランティアがありました。
→ニッポー設備株式会社 社長ブログ
本当にいろいろな人が、いろいろな形で、いろいろな時期に支援して、湊小学校の避難所の現在があるのだということがよく分かりました。石巻市だけでも震災当初は100カ所以上あった避難所に、多かれ少なかれこういう多方面の支援があった、そうしてそれは石巻市にとどまらず、また宮城県にもとどまらず、東北地方の東半分の全域に及んでいるのだと思うと、被害の大きさも、支援の力も、どちらも気が遠くなるほど膨大なものだと思います。
その避難所も8~9月までにほぼ解消されるとのこと。食料支援がない仮設住宅へは それでもまだまだ支援は必要で、今後のそれは ますます民間の支援団体の活動の重要性が高まることを意味します。地域の産業が壊滅した状態の中で、ましてや高齢者がいかに仮設住宅から自立していくことができるのか…簡単には結論の出ない、先の見えない戦いはずっと続いていくのでありましょう。
明友館の千葉さんから「支援は数年は必要」というお言葉を伺って、ぬえも非力ながら長い支援を続けていければ、と考えております…
とりあえず能楽師のOくんとTさんとは、三たび被災地に行く計画を立てつつあります。避難所が解消された…つまり小学校の体育館のような広い会場がなくなった被災地で能楽師としてどのような活動をしてお力になることができるのか…ちょっとずつ、模索を続けている段階でしかありませんのですが…
こちらは 先日湊小学校で盛大に行われたという夏祭りの看板。ついません、ちょっと暗くて見づらいですが…
最近では湊小学校を出て仮設住宅に入居された方のために、仮設住宅の看板を描かれたらしい。→こちらは ちゅんさんのブログからご紹介させて頂きました。避難所の生活というものが垣間見れる、という意味でもこのブログは面白いし、なんと言っても 書かれている内容がとても面白い。お勧めブログですんで、ぜひご覧になってください!
そのうえ、湊小学校で自転車修理や看板にイラストを描いているだけじゃなくて、近隣で被災した焼き鳥屋さんの復旧活動を手伝っておられて、折々に立ち寄って津波の被害を受けたお店の清掃をしたりされています。
その支援の方法がまた面白い。なんと自転車の荷台に焼き鳥を作るコンロを取り付けて、移動焼き鳥屋なんてお手伝いまでしたらしい。ん~文武両道、すごいバイタリティです。面白いなあ、若いボランティアさんの熱意や発想。こちらは ちゅんさんを支援する京都のご友人の報告です。
→ちゅんさんを支援する人の報告
おっと →ちゅんさんのブログ で ぬえらの能楽ワークショップのことが書かれてありました。
すんまへ~ん、やっぱり異様でした?(・_・、)
こういう、長い期間を避難所で生活しながら支援活動を続ける、という 辛抱強い活動にも頭が下がりますが、いろいろ検索していたら、津波の被害を受けた湊小学校のインフラ(この場合は水道)の整備を、震災直後に解決した業者さんボランティアがありました。
→ニッポー設備株式会社 社長ブログ
本当にいろいろな人が、いろいろな形で、いろいろな時期に支援して、湊小学校の避難所の現在があるのだということがよく分かりました。石巻市だけでも震災当初は100カ所以上あった避難所に、多かれ少なかれこういう多方面の支援があった、そうしてそれは石巻市にとどまらず、また宮城県にもとどまらず、東北地方の東半分の全域に及んでいるのだと思うと、被害の大きさも、支援の力も、どちらも気が遠くなるほど膨大なものだと思います。
その避難所も8~9月までにほぼ解消されるとのこと。食料支援がない仮設住宅へは それでもまだまだ支援は必要で、今後のそれは ますます民間の支援団体の活動の重要性が高まることを意味します。地域の産業が壊滅した状態の中で、ましてや高齢者がいかに仮設住宅から自立していくことができるのか…簡単には結論の出ない、先の見えない戦いはずっと続いていくのでありましょう。
明友館の千葉さんから「支援は数年は必要」というお言葉を伺って、ぬえも非力ながら長い支援を続けていければ、と考えております…
とりあえず能楽師のOくんとTさんとは、三たび被災地に行く計画を立てつつあります。避難所が解消された…つまり小学校の体育館のような広い会場がなくなった被災地で能楽師としてどのような活動をしてお力になることができるのか…ちょっとずつ、模索を続けている段階でしかありませんのですが…