ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

ふたつの影…『二人静』(その15)

2014-08-01 10:28:53 | 能楽
「芸」ということの奥深さを思い知った一日でした。

ぬえの『二人静』、昨日 無事に終了しました。まずはご来場頂きましたお客さまに心より御礼申しあげます。自分としてはノーミスだったので、まあ自分の今のレベルとしては会心の出来だと言えると思います。同門の方々からも「よく合っていたね」とお褒めのお言葉を頂戴しました。

この日、朝からいつもの稽古場で『二人静』の相舞の部分だけ稽古。上演当日の稽古は先代の師匠から固く戒められているのですが、なんせ『二人静』の40分間の相舞は、1日でも稽古を休むと「あれ。。ここはどういうタイミングで出るんだっけ。。」と記憶が薄れるほどの暗記量なのです。楽屋に到着してシテと話をしてみると、やはり彼も今朝『二人静』の稽古をしていたのですって。。ぬえが上演の不出来を心配して、先代の師匠の言いつけを守らずに上演当日に稽古をしたのは『猩々乱』のお披キの時以来ではないかと思います。

そして開演。ツレの位も、それが自分の跡を弔ってほしいと伝言てする里女に出会った驚きと恐怖、ワキの前で子細を話す間に静の霊に憑依されて人格が変わる場面。。どれも思った程度には出来たと思いますし、いくつか加えた工夫も無事にこなせて、先輩からのアドバイスもすべて反映させ、相舞も冷静に型をこなす事ができたと思うのですが。。ちょいと自画自賛ではありますが、稽古を重ねた甲斐はあったと思いますし、終演後師匠にご挨拶したときも「ご苦労さん」と、とくに叱責を受けるでもなく。。

ところが終演後に衝撃的な師匠のお言葉を仄聞したのでした。

これは師匠のご次男の若先生が、そっと ぬえに教えてくれたのですが。。師匠、ぬえの上演の様子は楽屋のモニターテレビ画面を通してご覧になっていまして、そのとき同席していたこのご子息が「よく型が揃ってるね」というような会話を師匠にしたのだそうです。そのときの師匠のお答えが。。

「ああ。。1回目のときはあれで良いんだ。。よく合っている。稽古もよくしていたようだしな」

1回目はあれで良い。。?

。。

どうもこういう事らしいのです。ぬえたちは相舞は動作が揃うのが最低条件だと思うから、細かく細かく動作のタイミングを取り決めて、それを追うことに終始しているが。。そんなところには『二人静』の大切な部分はないのだ、という。。ここまでではよく分からなかったのですが、続けて師匠がご子息に語った事は。。近々、師匠も某所で某高名な他門のご当主の能楽師の方と舞囃子で『二人静』を勤められる予定があるそうなのですが。。「それは(お相手とは)ほとんど何も決めておかないよ」と。。

。。!!

なんと。。お忙しいご当主同士だから相舞の型を合わせる稽古の時間が取れない、という理由ではなく、無理に合わせようとしない、という発想だったのです。そういえば師匠は ぬえたちに稽古をつけてくださった際にも「気持ちが肝心。少しぐらい型がずれていたって」というような事を仰っていましたが。。

う~む。ぬえたちも静の悲しみや業というものがこの能に表現されなければならない事はわかっていたつもりでしたが、やはり最後はタイミングで左に向いて、次は1拍休んでから左足を出して。。という技術論に終始していなかったか。。? これは、やはり相舞は動作が揃ってはじめて内容が問われるものだ、という思い込みがあるからで、それはとんでもない勘違いだったかもしれない、という事です。。ぬえが本当に昨日、静の悲しみを想いながら舞っていたか? と問われれば。。いえ、動作を揃えるタイミングを計りながら舞っていました、と答えるしかないです。。

で、師匠はこう仰ったわけです。「1回目はあれで良いんだ」。。『二人静』をはじめて勤める際には、相舞をいかに同期するか、にしか気持ちが向かない。その奥にあるものに目が行かないから、まずは存分に型の稽古をして、その結果を出せば良い、あの『二人静』で良かったのだろうか。。? という反省は、それが終わってからはじめて役者の脳裏に浮かんでくることなのだ。。そういう意味なのでしょう。

思えば。。『道成寺』について ぬえはそれを考えたことがあります。死にものぐるいで稽古して。。乱拍子で身体がブレることもなく、急之舞では身体能力を尽くしてあの速度で舞うことが出来、正確に鐘の下に走り込んで、体操選手ばりの跳躍力をこの時ばかりは発揮して鐘入りをし。。身体を鍛えた成果は出せたと思っていますが、いま ぬえは、あの『道成寺』じゃダメだということを知っています。あの曲はそういう身体能力を見せる曲ではなく、恋に破れて鬼と化した女性の悲しみを表現する曲のはずです。もう1回。。今度は落ち着いて悲しい『道成寺』を舞うことが出来たら、と ぬえはそれ以来ずっと思っています。

それと同じことが『二人静』にもあって、『道成寺』の経験を積んだ ぬえでさえそれに気づかなかった、ということか。

。。が、しかし、師匠の境地に至るには ぬえはまだまだ未熟だと思いました。師匠はすでに古稀を過ぎ、今度舞囃子を勤められるお相手の先生も同じ年代。子どもの頃から舞台に立って、このキャリアがあってはじめて気づくことなのかもしれません。現に、ぬえがツレを勤めた今回の『二人静』のお相手のシテの役者さんは10年ほど以前にすでにこの曲を勤めていましたが、今回の稽古の際に師匠が仰ったような会話は ぬえとの間には出ませんでした。今回のシテは ぬえより年下の後輩ですから、2度目でもまだ師匠の仰る境地に達していない、ということです。ぬえたちはそれが分かる年齢に達していないのかも。

『二人静』の根元的な問いに立ち戻って考えると、なぜこの曲では静の悲しみを表すのに二人の役者が登場するのか。通常の能であれば、霊そのものが登場して自分の思いを吐露するか、憑依された人間ひとりが登場して本人の気持ちを代弁するか。。役者は一人しか登場しません。なぜ『二人静』は。。その理由そのものよりも、それを能として演じる時に二人の役者がその個性というものを殺して型をシンクロさせる事にどれほどの意味があるののでしょう。そもそも個性を殺して役者というものが成立するのか。。?

師匠のお言葉は『二人静』という曲を上演する事に対する、こういう役者としての問いだったのだろうと思います。ぬえだって自分を殺しながら型を合わせる相舞に疑問を持たないわけではなかったのですが、やはり『二人静』を台本として読む限り、菜摘女は自分の意志とは関係なく静の霊によってつき動かされているのですから、型は合っていなければならないはず。

しかし、師匠のお言葉の意味を考えれば、二人の役者がそれぞれの静像を描く方法でも『二人静』という曲は成り立つ、という可能性を知ったのでした。もちろんそれには、二人の役者がお互いの動作をまったく無視して合わせない、ということでもないでしょう。お客さまを不快に感じさせない合わなさ、というものがあるのかも知れないし、いうなれば二人役者が個々の『二人静』を同時に上演しても、熟練があれば違和感のない能が出来上がる、ということです。それは一人の役者が登場する『二人静』を2番同時に見れるご馳走なのかも。

ぬえにはその境地はまだまだ理解し難いです。。今回の『二人静』の稽古に当たっては、師匠からご自身が最初にこの曲を勤められた際の型のタイミングの合わせ方についての手控えを頂戴しました。これって。。最初は「型を合わせるのは難しいので、俺が演じたときの手控えを参考にしろ」という意味かと思って。。なんてありがたい配慮かとも思い、ご自身が苦労して作られた手控えを弟子に開陳するなんてお心の広い、と感激もしたのですが。。要するに今の師匠にとって厳密に型を合わせるための手控えは『二人静』の上演に際してはすでに不要だったのですね。そうして、型を合わせる事なぞに『二人静』の大切な部分はない、ということが初演の未熟な役者たちにとっては理解できないだろうから、せいぜいお前たちの間違った目標を達成するために参考にしなさい、という意味でもある。。この手控え、昭和40年代の上演の際の手控えと記載がありましたから、師匠はまだ30歳台。師匠も ぬえと同じ道を通って来られたのです。。


こうして ぬえの『二人静』は終わりました。舞台成果としてはまずまずだったと思うけれど、終わってから楽屋で師匠のお言葉をご子息から教えて頂いて、ぬえたちの目標がまるっきり浅薄なものだと気づかされたのでした。そしてその境地には ぬえは到底達することはできないです。芸の深さ、ということを思い知らされた経験でありました。

しかし。。この師匠のお言葉、ご子息から ぬえに伝えられたわけですが、役者の親子の間だからこそ交わされた言葉だと思います。ぬえに対して師匠が直接は言ってくださらない類いのお言葉ですね。しかしこんな衝撃的で、核心を突いたお言葉によって ぬえは能を上演する、ということの捉え方を少しだけ深めることができました。そっと師匠のお言葉を ぬえに伝えてくださったご子息の若先生に本当に感謝しております。

師匠のお言葉は公開することを前提にしておりませんから、ぬえがこの記事で公開してしまうのは師匠に対して大変無礼なことかとも思い、昨晩ずっと考えていたのですが、これは能に対しての理解を深め、ぬえの役者としてのあり方を根底から覆されるようなお言葉でした。師匠への感謝と自分への反省を込めてここにご紹介させて頂く事と致しました。

「命には終りあり, 能には果てあるべからず」 世阿弥『花鏡』

                                   【この項 了】