ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

続・不思議な能『東岸居士』

2007-09-25 23:56:42 | 能楽
そして上演する側から言わせてもらえば、この曲にはナゾがいっぱいです。

まず有髪で出家もしていない求道者という人間像がよくわからない。『花月』や『自然居士』も同じたぐいの人間なのでしょうが、どうもそれぞれの役の性格はかなり違うようです。『花月』はふだん清水にはいるけれども求道者というよりはまだ幼い少年という風情で、友達(間狂言)と遊ぶ、という場面がいくつも出てくるし、『自然居士』は雲居寺という寺に居を定める住職で、やはり東岸居士のような漂泊の求道者という香りはしません。

東岸居士は、今日はたまたま橋の勧進をしているけれども、その目的が成就してしまったら またふらりとどこかへ旅だってしまいそうな、そんな危うさも感じさせる人で、そうだなあ、シテというよりは ちょうどワキ僧のような感じの人なのではないか、と ぬえは考えています。まさに求道者という言葉がぴったり。故郷を問われて「むつかしの事を問ひ給ふや。もとより来る所もなければ出家と云うべき謂はれもなし。出家にあらねば髪をも剃らず、衣を墨に染めもせで、ただ自づから道に入って、善を見ても進まず智を捨てても愚ならず。。」と答えるところは、花月が自分の名前を問われて「月は常住にして言うに及ばず。さて「くゎ」の字はと問えば、春は花、夏は瓜。秋は果、冬は火。因果の果をば末後まで一句のために残す」と言うのに似ていますが、花月の言葉遊びとは違って東岸居士はすでに自分の存在の意味を自分に問うた果てに獲得した言葉のように聞こえますね。

そして東岸居士は自然居士を「先師」と呼んでいます。東岸居士だけでもわからないのに自然居士の弟子? そしてワキはさきほどの東岸居士の故郷を尋ねるときに、こう問うのです。「さてさて東岸西岸居士の郷里は何処如何なる人の父母を離れし御出家ぞや」 。。ははあ。。西岸居士というのもいるのかあ(やっぱり)。。

そして二つの舞。『東岸居士』のシテは最初に「中之舞」を舞い、クセの後に「鞨鼓」を舞うのですが、やはり二つの舞を舞う『自然居士』とはかなり意味は違っていて、最初の「中之舞」はワキに「またいつもの如く謡うて御聞かせ候へ」と促されて「狂言綺語をもって讃仏転法輪の真の道に入る」と考えて舞う舞。そしてその後に述べられる長大なクセは。。これは一遍上人の言葉ですね。さらにワキに鞨鼓を打つことを所望されて「鞨鼓」を舞いますが、キリに「さざ波は簓、打つ波は鼓。何れも何れも極楽の歌舞の菩薩の御法とは聞きは知らずや」と言っているように、じつはシテの行動は常に説教の意味を持っています。間狂言に「面白きもの」を見ることを求めて東岸居士に会ったワキの、何気ない所望に応えているように見えながら、じつは東岸居士はワキに仏説を説いているのですね。ワキが旅人。。すなわち俗人に設定されているのも、あながち意味がない事ではないようです。

それにしても、この「中之舞」と「鞨鼓」は、どうして同じ「破掛り」で始まるのでしょうかね? 演者はこういうところの方がむしろ気になるのですが、「鞨鼓」の笛の譜は「中之舞」から始まって、途中で「鞨鼓」独特の譜になり、最後はまた「中之舞」に戻るのです。だから「中之舞」と「鞨鼓」は重複している部分があります。同じくこの二つの舞を舞う『自然居士』では重複を避けるためでしょう、「鞨鼓」の最初の「中之舞」の部分を省略して、いきなり「鞨鼓」の譜から演奏しはじめるのです。ところが『東岸居士』では重複はそのままで「中之舞」に始まり「中之舞」に終わる常の「鞨鼓」。これはお囃子方も不思議に思っている方があるようです。能の演出は重複をとっても嫌う傾向にあるのに、これはなぜ? ぬえも今回は結論には達しませんでしたが、『東岸居士』は古来あまり上演頻度も高くなかったようで、昔の「内」「外」と、人気曲と不人気曲を分類していた謡本が刊行されていた時代には案外「外」に分類された曲の中には演出の研究が徹底されていないのかな? と思わせる曲もないわけではないので、『東岸居士』もそのような曲の一つなのかもしれません。

不思議な能『東岸居士』

2007-09-22 01:30:27 | 能楽
先日は師家の月例会「梅若研能会」9月公演で能『東岸居士』の地謡を勤めて参りました。やっぱり地謡はかなり難しい曲だけれど。。まあ何とか間違いはなく謡うことができて、まずひと安心。

それにしても、この『東岸居士』という曲。。不思議な曲です。まず、およそストーリーというものがない。ワキは「遠国方の者」で、ようするに物見遊山に都に来ている人です。この日はたまたま清水寺への参詣を思い立った、という程度で、僧ワキのように京都の社寺を礼拝することを目的にしているわけでもないようです。そのうえこのワキは清水の近所の白河に到着すると門前の人(間狂言)に「何か面白いことはないか」なんて問うている。まさに都を見物しているのです。門前の者は「別に面白いものはないが、ここに自然居士の弟子に東岸居士という人があって、橋の勧進のために面白い説法をする者がある」と言い、ワキが興味を示すとこれを呼び出します。

さて登場した東岸居士とは有髪で出家もせず法衣も着ず、鞨鼓・ささらを打ち囃しながら説教をするという不思議な求道者。ワキに今日の聴聞の内容を問われても「柳は緑、花は紅」と、目前の景色こそが真実相という蘇東坡も採り上げた句を引き合いに出すと「あら面白の春の景色やな」となんだか人を煙に巻いたような答えをします。東岸居士が勧進する橋の謂われを問われると、先師自然居士が建立したと答え、出身地や来歴を問われると「むつかしの事を問ひ給ふや。もとより来る所も無ければ出家と云うべき謂われもなし。出家にあらねば髪をも剃らず、衣を墨に染めもせで、ただ自づから道に入って。。」と、これまた曖昧な返事。。なんだか政治家の会見を聞いているようだ。。

ワキもシラけたのか(?)「いつもの如く謡うて御聞かせ候へ」とさきほど門前の者から聞いた説法の実演を迫り、シテは「げにげにこれも狂言綺語を以て讃仏転法輪の真の道にも入るなれば」と納得して舞を見せます。このときのシテの言葉「面白やこれも胡蝶の夢のうち、遊び戯れ舞うとかや」なぞ、なんだかデカダンスな雰囲気さえ漂います。

ところが舞を終えてシテは本格的な説法を述べ始めます。ここが問題の難解なクセで、この文句がまた超難解。。あれ、よく読むとそうでもないか。。

正像すでに暮れて末法に生を享けたり。かるが故に春過ぎ秋来たれども、進み難きは出離の道。
罪障の山には何時となく煩悩の雲厚うして仏日の光晴れ難く、生死の海には永劫に無明の波荒くして真如の月宿らず。
生死の転変をば夢とや言はん、また現とやせん。これらありと言はんとすれば雲と昇り煙と消えて後その跡を留むべくもなし。
殺生・偸盗・邪淫は身に於いて作る罪なり。妄語綺語・悪口両舌は口にて作る罪なり。貪欲・瞋恚・愚痴はまた心に於いて絶えせず。

。。この直後にどうして「御法の船の水馴棹、みな彼の岸に到らん」という文句に繋がるのだろう。。

ま、ともあれ、ワキはさらに鞨鼓を打つ事を勧め、シテは景色を愛でながら鞨鼓を打ちますが、キリではその遊楽の様も仏法になぞらえて説かれます。

百千鳥さへづる春は物ごとに あらたまれども我は古りゆく (古今集春歌上)
さざ波はささら、打つ波は鼓、いづれもいづれも極楽の歌舞の菩薩の御法とは聞きは知らずや旅人よ、旅人よ、あら面白や。
げに太鼓も鞨鼓も笛篳篥、弦管ともに極楽のお菩薩の遊びと聞くものを。なにとただ雪や氷と隔つらん。萬法みな一如なる実相の門に入らうよ。

これで終曲(汗)。つまり説法の内容そのもの、それを舞い謡う東岸居士の振る舞いそのものが上演の目的だったりするのです。

続・岐阜に行きました

2007-09-20 10:34:37 | 能楽
ところで、この岐阜での発表会のお手伝いは東京から来た ぬえのほかに、もうおひと方、関西のT師が来演されました。まあ、能楽師4人だけが交代で地謡を勤める、というこぢんまりとした発表会だったわけです。

ぬえはT師とは初対面ですが、どうやらT師は深野師と同じお歳。ははあ、これは両師は書生時代からのお付き合いなんだな、と ぬえは直感しました。書生時代に苦労を分かち合った友達。ぬえにもそういう友達が多くありますが、こういう友人とは一生涯の友達になりますね。

書生時代には師家からのおつかい物を他家にお届けするときに、その家の書生である友人と短い時間話し合ったり、囃子のお稽古を受けるためにお囃子方の先生のお宅に行くとき、そこで同じく稽古に来る友人と顔を合わせて、一人が囃子を稽古するときに もう一方がアシライで謡ったり、あるいはアマチュアのお弟子さんの囃子の稽古のときに二人で一緒に謡ったり。それぞれ書生修行をしているわけですから、なかなか一緒に飲む、というような機会は多くはなかったですけれども、そういう機会には稽古や舞台についての情報交換をしたり、修行の悩みを打ち明けあったり、将来の夢を語り合ったり。いまとなっては遠い思い出。。(´。`)

先日、福岡でそうした友人の一人の結婚式に列席して参りましたが、そのときスピーチに立った同年代の能楽師の一人が新郎を表現するのに「戦友。。」という言葉を使っていましたね。おいおい、何歳なんだよ? と言われてしまいそうですが、修行中というのは本当につらい事もあるものなので、苦労を分かち合い、相談にも乗ってもらったりした友人を表現するのに、最もふさわしい言葉かも知れないなあ、と思いました。

で、その後 内弟子からの独立を経て、一人前の能楽師のような顔をし始めるようになって。自分たちで主催会を催すようになると、それらの友人たちを舞台に招待して、お互いの舞台を手伝い合ったりするようになります。深野師とT師は、もうそういったお付き合いを何十年も続けておられるのでしょうね。T師は楽屋で「ああ、ええ謡や。そちらの師家はみんな美声揃いや」なあんて深野師のことを誉めておられました。舞台人というものはあまり人前で相手のことを誉めたりはしないものですから、これを聞いた ぬえはなんだか微笑ましく思ってしまいました。お互いに気心の知れた長いお付き合いだから、おべんちゃらなどではなく こういう言葉も自然に出てくるのでしょう。いつまでも仲良しでいいなあ、と、ぬえは羨ましくも思ったのでした。

まあ、あとはT師のお人柄もあるでしょうね。初対面の大先輩なので ぬえも楽屋入りは少し緊張しましたが、お会いしてみるとT師はとっても気さくな方で、すぐに ぬえともうち解けてくださり、なんだか楽しくお手伝いをする事ができました。また深野師もT師も舞台の上での技術は ぬえなど遠く足もとにも及ばない大先輩ばかりなので、勉強にもなりました。お弟子さん方も熱演、とくにお母さんのお仕舞の稽古を見ていて自分も舞ってみたくなった、という小学生の女の子の飛び入り参加の仕舞まであって(これがまたよく出来ていました。あとで伺えば番組が出来上がってから出演が決まり、稽古はたった4回だけしかできなかったそうなのに!)。良い催しだったと思いますね~。

こういう催しが ぬえもできるように、友達とは良いお付き合いを続けて行きたい、と思った ぬえでした。

岐阜に行きました

2007-09-18 00:23:48 | 能楽
「ぬえの会」の前後から続く怒濤の催しも折り返し点にたどり着きました。

日曜日には国立能楽堂で師家のお弟子さんの発表会のお手伝いをし、翌日の月曜日には早朝から出かけて岐阜に行きました。「ぬえの会」でお手伝い頂きました京都の深野新次郎師の、これまたお弟子さんの発表会だったのです。

深野師は ぬえから見れば親子ほども歳が離れている大先輩ではありますが、ぬえはこの方とは大の仲良しで、一緒に二人だけでアメリカの大学で講義と公演をしたり、お互いに催しのお手伝いをお願いし合ったり、と、もう長いこと親交を深めさせて頂いております。と言っても ぬえなぞは なかなか自分の催しを開くこともままならないので、数年にいっぺん程度、深野師をお招きできる程度なのに、反対に深野師は毎年 ぬえをご自分のお弟子さんの発表会にお招きくださって、なんだか ぬえは深野師には恩になりっぱなしなのですが。。それでも旅の楽しい思い出もたくさん共有しているせいか、「ぬえの会」で深野師にシテの装束を着けて頂いているとき、ぬえは思わず「。。まるでアメリカに来ているような気分ですね~~」などと軽口を叩いてしまいました。

そんなこんなでお邪魔した岐阜県ですが、じつは ぬえ、2週間前にも「長良川薪能」のお手伝いで岐阜に来ておりました。なんだか今年は岐阜に縁があるのかいな。このたびは東京から一人お邪魔した ぬえは、新幹線を降りると、お迎えに来てくださった師のお弟子さんの車に乗り込み、のんびりと長良川や木曽川を眺めながら会場となったお寺に到着しました。深野師と1週間ぶりの再会を果たし (^◇^;)、お弟子さんとも挨拶を交わしていたら。。あれあれ、師のお弟子さん何人もから「先日は拝見しました。おめでとうございます」なんて挨拶されちゃった。どうやら皆さん、わざわざ東京にお運び頂いて「ぬえの会」にご来場頂いたようで。。1週間後にご自分の発表会を控えておられながら、「ぬえの会」で深野師にお仕舞の披露を願ったことから、それをご覧になりにわざわざお越し頂いたらしいのです。。恐縮。

また今回の発表会では ぬえ、素謡の地頭のお役まで頂戴しておりました。事前に頂いた番組を見てびっくり。大先輩を「横に従える」ような格好で謡う、なんて事はこの世界では考えられないことなので辞退させて頂こうとしたのですが、師は「いえいえ、お気楽な催しとお考えくださればいいんです」なんて仰られて。。ぬえ、バクバクする心臓をなだめながら勤めさせて頂きました。緊張しっぱなしでしたが、こんな所も師のお人柄ですね~~。そういえばアメリカでも師のお人柄と芸は評判で、ぬえがアメリカに再訪するときも現地で受け入れして下さった大学からは「あの。。深野さんも同行されますよね?」と事前に確認が ぬえに入ったほどでした。

師のご子息、貴彦くんもずっと ぬえは懇意にして頂いて、彼はこの8月に長女が誕生されました。も~~、楽屋でチェックしたらやっぱり携帯の待ち受け画面は赤ちゃんの写真だし、おじいちゃん(深野師)もおばあちゃんも、貴彦くんも、もうメロメロだし。発表会のあとにお招き頂いた宴会の会場には貴彦くんのご自宅から「パパ早く帰って来てね(はあと)」みたいなメールが来るし、それをまた嬉しそうに ぬえに見せるし。。はいはい、ご馳走さま。(^^)//””””””パチパチ

サイトの更新。。ああ、しんど。

2007-09-15 23:30:21 | 能楽
「ぬえの会」も終わり、ホッとしているかと思いきや、残務整理と催しに追われている ぬえでございます~~

それでも、合間を縫っては自分のサイトの更新をしようとがんばっています。なんせ6月の建長寺での『隅田川』の画像を載せたところまでしか更新してない。やっと昨日、6月の研能会で舞った『春日龍神』の画像をアップしました。すでに「ぬえの会」の『井筒』の画像も続々と ぬえのもとに届いていますし、8月の「狩野川薪能」の『一角仙人』の画像も載せなきゃ。それに作品研究もまだ途中ながらサイトでも発表していきたいし。師家所蔵のSP盤をデジタル化した作業の報告はどうしよう。そんな事を考えながら、コツコツと進めて行こうと思いましたのです。ところが。。

先日ある方から「ぬえさんのサイトって、画像と文章が重なってしまってない?」とご指摘を頂きました。「ええっ?」と思って指摘を頂いたページを自分のパソコンで見たのですが。。ううむ、そのようには見えないけれど。。ところが、昨日 実家に行って親のパソコンで試しに自分のサイトを見てみたら。 う。。たしかに文章と画像が重なってしまってる。。

頂いたご指摘では、どうやらブラウザの大きさとかの問題ではなく、ホームページビルダーの仕様の問題でそういう現象が起きるらしい。。これは。。自分のパソコンでは問題なく見えているので、修正もかなり難しいと見た。

とりあえず文章+画像+文章のような構成になっているページをいじってみて、文章の中に画像を埋め込むように修正してみたのですが。。これとても今度はきちんと見えているのか ぬえには皆目見当もつかないし。。しかも明日から怒濤の舞台生活が始まるし。。

どなたか知識のある方、助けて~~ (・_・、)

ところで今回の「ぬえの会」には ぬえが指導する伊豆の小学生が二人わざわざ東京まで見に来てくれたのですが、今日遅ればせながらお礼の電話をしてみたら。。なんと彼女たち、小学生二人だけで、しかも予算の関係から新幹線は使わず、伊豆と東京の間をJR東海道線の鈍行列車で往復したんですって。。絶句。そこまでして見に来て頂いてありがとうございます~~ (×_×;)

そういえば昨日もこのブログにコメントを寄せてくれた、やはり伊豆の小学生の彩花は「能楽師になるのが夢」と書いてくれました。ん~~、これで今年、伊豆の薪能に参加した小学生の中で能楽師志望者が三人目になるな。。能楽師云々はともかく、ぬえが指導した結果として能を愛してくれる子どもたちが生まれたことは素直に喜ぶべきですね。「美しい国」を標榜した人は破綻しちゃったけれど、どっこい巷ではこうしてがんばっている人もいるし応えてくれる人もいる。感謝したいと思います。

忙しいんです~

2007-09-12 23:20:47 | 能楽
「ぬえの会」を終えてやっとひと息、と思ったら、もう翌々日には師家の稽古能があり、ちょっとお休みしていたお弟子さんのお稽古も怒濤のごとく再開され、さらに次の催しの申合と、もう一日も休みがない~~。今週末からは国立能楽堂での素人会、お呼ばれを頂いた会で岐阜に参り、さらに師家の月例会の申合・当日があって、その次には静岡県での催しが続きます。

考えて見れば、今年は6月に鎌倉・建長寺で『隅田川』を勤め、同じ月には月例会で『春日龍神』、さらに8月に狩野川薪能で『一角仙人』、そして9月の「ぬえの会」の『井筒』と、これほど連続してシテを舞った事は過去にありません。おかげさまで夏休みはぜ~~んぜんなくて、今年は海にもプールにも行けませんでした。たぶん夏休みは9月下旬には取れると思いますが。。

そういえば「ぬえの会」の翌々日の稽古能では ぬえ、『東岸居士』という難曲の地謡がついていたのです。『東岸居士』は能としては短い曲ですが、まあそのクセの文句が覚えにくく、さらに拍子当たりの難しいこと! 俗に「三難クセ」と呼ばれて『歌占』『白髭』『花筐』の三曲に至難のクセがあるとされていますが、いやいや ぬえは『東岸居士』も入れてあげたいねえ。これほどの伏兵は、ふだんは「遠い曲」の荒野に潜んでいて、突如月例会などで登場すると、ゲリラのように地謡に容赦なく襲いかかってくるのです。「四難クセ」として『東岸居士』もふだんから白日の下にさらしておいて、監視の眼を怠ってはなりませぬ。

で、ぬえは『東岸居士』が待ち受けている事は承知していたけれども、「ぬえの会」まではロクに稽古もできなかったし、「ぬえの会」の前日には新作能の公演まであったので、どうしても『東岸居士』を覚えることは後回しになってしまいました。「ぬえの会」の翌々日の稽古能。。まあ。。公演日ではないし、「ぬえの会」の直後だから多少うろ覚えでも「ま、彼は今日は仕方がないだろう」と、あまり叱られなかったかも知れないのですが、どっこい、そこは。やっぱり自分の催しをしておいて、その直後とはいえ、それが稽古能だとはいえ、これで うろ覚えで出演しつぃまったらオトコがすたるな! と思って、「ぬえの会」の翌日にはもう一日がかりで『東岸居士』を覚えました。

まあ。。いくら遠い曲であっても、至難なクセがあっても、『東岸居士』は地謡を二度勤めたことがあるし、それなりに思い出しながら。でも何といっても、書生時代に小鼓の稽古でこの『東岸居士』を習ったのが、とっても効いていました。身体で覚えている、というのでしょうか、難しいところほど よく覚えていたりしました。お陰で稽古能では、そうだなあ、98%の出来だったでしょうか。拍子当たりは一度も間違えなかったけれど、「てにをは」を少し間違えただけで済みました。あ~よかった。

よく我々の世界では「30歳までにすべて覚えてしまえ」と言うのです。それを過ぎると暗記するのがとっても難しくなる。だから書生時代にすべて覚えてしまえ、というワケです。たしかに書生時代にみっちり覚えた曲というのは忘れていませんね。何年ぶり、という頻度で上演するのでも、ちょっとおさらいすれば簡単に記憶の引き出しを開けられます。

でもまた、「全部覚えてしまえ」というのはムリでした。やっぱり地謡でもなんでも、お役を頂ければ覚えなければなりませんが、別に上演の予定はない曲だけれど、将来のために今のうちに覚えてく。。これは、ムリでしたね。いや、能楽師の中には本当にそうやって全曲覚えてしまった人もいるのかもしれませんけれども。。

末筆ながら、「ぬえの会」につきまして、終演後に激励のメール等頂きました方には順番にお返事を書いております。。いまだお返事の届かない方には大変失礼ではございますが、いましばらくお待お下さいませ。。

第三回 ぬえの会 終わりました~

2007-09-10 20:06:49 | 能楽

昨日、9月9日の重陽の節句の日、おかげさまを持ちまして「第三回 ぬえの会」を無事に開催させて頂くことができました。台風と今日の雨模様の天気の合間を縫ったような晴天に恵まれ、とってもありがたいことでした。ご来場頂きましたお客さまには厚く御礼申し上げます。

チビぬえ(9歳)と豆ぬえ(4歳)も無事に仕舞を勤めることができました。とくに チビぬえの方は前日に国立能楽堂普及公演で『三井寺』の子方を勤めさせて頂いたので連日の出演となりましたが、どちらのお役も失態なく勤めることができて安心致しました。またご来演の先生方のお仕舞、師匠の舞囃子『邯鄲』、友達の高澤祐介くんにおシテをお願いしての狂言『縄綯』と、盛りだくさんの会にできましたことは、出演者のみなさまのご協力があっての事と思います。とくに梅若会からご来演願った梅若晋矢さんのお仕舞『山姥キリ』は白頭の型で、これは ぬえにサービスしてくださったのでしょう。晋矢さん、カッコ良すぎでした。また京都からご来演の深野新次郎師のお仕舞『弱法師』は、とっても味のある良いお仕舞でした。深野さんからは終演後にこの日お使いになった杖を頂いてしまいました! このお仕舞の選曲は ぬえが考えたのですが、選んで正解の選曲だったと思います。

さて ぬえはこの度の「ぬえの会」で能『井筒』を勤めさせて頂きました。早速に ぬえのもとに感想がいくつか届けられましたが、おおむね好意的なご感想を頂き、これまたホッとしています。「もう少し「色」があっても」といったご指摘や、気持ちが分散してしまったところを目ざとく発見された方もあって、こういう勉強になるご指摘を頂くことは大変ありがたいことです。感想を寄せてくださいました方々にはそれぞれお返事を書くつもりではございますが、とりあえずこのブログの場では失礼とは存じながら、御礼まで申し上げます。



じつの事を言えば。。今回の「ぬえの会」は ぬえは最悪のコンディションで迎えてしまいまして。。前日は昼に国立能楽堂の普及公演に出演してから夕刻より横浜能楽堂で新作能の地謡を勤め、数日前には ぬえが大変お世話になった方が急逝されて、そのご葬儀にずっと携わったり。。公演を間近に控えて最後の稽古の予定が大幅に変更され、当日は疲労もたまっていたところでした。さらに能楽師の宿命として正座する足にできたマメが非常に悪化してしまって、このところの地謡では七転八倒状態で勤めている状態でした(足を組み替える頻度が高くて、お客さまには目障りだったと反省しております。。)。疲労でまともに運ビができないのは覚悟していましたし、長時間座る『井筒』のクセで足の痛みから失態が起きるのではないかと心配し。もちろん舞台人というものは舞台がすべてですし、そこに上がるのに言い訳はできませんから、「ああ。。どうやら今回の公演は ぬえの汚点になってしまうかも。。」と本当に苦しんで迎えた当日ではありました。

ところが。いざ装束を着けて橋掛りに出てみると。あれ? 足がスラスラと動く。。なんでだろう? 身体もグラつかないし、声も出るし。。クセで座るのもまったく苦痛を感じない。。理由はわからないままに手応えはしっかりと感じてしまって、なんだか途中で舞っているのが楽しくなってきました。これだから舞台はわからないものです。魔物も住んでいるし、神様もいらっしゃる。ぬえは本当にそれを実感しますね。

今回の『井筒』で残念だったのは、面を掛ける位置が少し低かったのか、珍しく声が面の内側に当たってしまって、ややくぐもってしまった(上演中ずっと、声というか息を出す方向をあちこち変えて試していました)ことと、前シテで木葉を床に置いたときに木葉がクルリと裏返ってしまったことでしょうか。それからなぜか今回は袖をうまくさばく事ができず、返した袖が落ちてしまったり、頭に返した袖が顔を隠してしまったり。。フワリとうまく袖を返せたのは二度ぐらいなものでした。。自分の装束なのに稽古が足りない。



でもまあ、そのほかの点はおおよそ自分の出せる力は出せたのではないかと思います。年齢的にも技術的にもまだまだ『井筒』を上演するには不足でしょうし、課題はたくさんあるのですが、いまの段階の ぬえとしては、珍しく終演後にガッカリと後悔するまでには到りませんでした。

自分の主宰会を開くのは本当に大変で、ぬえなどの立場ではチラシの手配、宣伝、チケット印刷、お申込の受付から発送まですべて一人でこなさなければならず、トラブルにも対処し(今回も招待券がオークションで転売される、というトラブルがありました。。こういう事が起こると悲しいですね。同時に能楽師のセキュリティ意識も甘いのかな、とも思いました)。当日も楽屋弁当を配り、出演料を一人ひとりにお渡しし。。ヘトヘトの状態で自分の出番を迎えることになるのです。そのうえ ぬえのような無名の能楽師の主宰する催しは経営としてはかなり厳しいので、今回の公演をもって「ぬえの会」を一時 休止しようかとも思っていたのですが。。今回の『井筒』のような「成果」?を得てしまうと。。またやってみようかなあ。。なんて思い直したりしています。

次回はまた何年後になるかわかりませんが、「ぬえの会」をいつかまた開催してみたいな、という希望だけは持つことが出来ました。

改めましてご来場頂きましたみなさまには心より御礼申し上げます。今後ともよろしくご指導ご鞭撻頂ければ幸甚に存じます。m(__)m

『井筒』~その美しさの後ろに(その20)

2007-09-08 00:34:23 | 能楽
舞台常座に登場した後シテは拍子に合わないサシと呼ばれる謡を謡います。

シテ「徒なりと名にこそ立てれ桜花。年に稀なる人も待ちけり。かやうに詠みしも我なれば。人待つ女とも云はれしなり。我筒井筒の昔より。真弓槻弓年を経て。今は亡き世に業平の。形見の直衣。身に触れて。恥かしや。昔男に移り舞
地謡「雪を廻らす。花の袖  〈序ノ舞〉

後シテの扮装は 面=若女または深井、小面(前シテと同じ面を掛けます)、鬘、胴箔紅入鬘帯、初冠(巻纓、追懸付)、襟=白二枚、摺箔、紅入縫箔腰巻 胴箔紅入腰帯、長絹、鬘扇 という出で立ちです。いかにも華やかな姿ですが、じつはこれ、男装なんですよね。と言っても本文には「業平の形見の直衣、身に触れて」とか「昔男の冠直衣は女とも見えず男なりけり」とあるにも関わらず、実際には直衣は着ずに、紫地の長絹を着ているのですが。男装をする曲というのは『井筒』のほかにも『杜若』や『卒都婆小町』、『鸚鵡小町』など割と多くあって、ときには本当に直衣をまとって演じたシテもあるようですが、姿としてはやはりやや奇怪で、長絹を直衣に見立てて、男性の用である初冠だけを使う現行のやり方の方が優れていると思います。なお初冠の纓には巻纓(けんえい)、垂纓(すいえい)、立纓(りゅうえい)の違いが有職にはあって、巻纓は武官、垂纓は文官、そして立纓は江戸期の天皇専用です。また武官は巻纓のほかに両頬に「追懸(おいかけ)」という馬の尾でできた扇状の飾りを付けます。業平は武官だったので、巻纓と追懸をつけた初冠をかぶるのです。

今回使う面は前後とも同じ「若女」ですが、ぬえはずっと師家所蔵の名物面の「浅黄」という面を拝借したかったのです。とても可愛らしい、う~ん言葉は悪いかもしれないがロリコン顔の面で、でも小面のようにハッキリした顔立ちではない、どこか茫洋とした面立ちの面です。拝借できるか、確率は五分五分、というところだったのですが、今日師匠に伺ったところ、「ああ。。あれはダメだ。僕が12月に使う予定なんだよ」というお返事でした。。そうか!12月の研能会の月例会で師匠が『松風』を演じられる事を忘れてた。。師匠は『松風』で好んでこの「浅黄」を使われるのです。

ところが、師匠は「それなら、この面はどうだ?」と装束蔵から出してくださったのは、「顔長(かおなが)」という不思議な銘を持つ、出目友水作の「若女」でした。ぬえは「これだ!」と思いましたね。これまた「浅黄」によく似た面で、また茫洋さが「浅黄」よりもさらに。。『井筒』には良いでしょう。今回はこの「顔長」を使います。

『松風』と同じストーリーを持つ『井筒』のシテ。ワキさえ彼女に問いかけをしなかったら、彼女は「待つ」という行為を永遠に続ける事で、いつか再び訪れる幸せを信じることができた。彼女にはかなく過ぎ去った昔をリアルに思い出させてしまうのはワキの僧なのですよね。過去と向き合う事を余儀なくされたシテは、男の形見の衣裳を身にまとうことで男と一体化しようとする。。この2曲はどちらもそんなストーリーなのだと ぬえは捉えているのですが、『松風』のシテのように、狂う事で(一時的にしか過ぎないにせよ)、男との一体感を、幸福を覚えることさえ、『井筒』のシテにはできないのです。「形見の直衣 身に触れて。恥ずかしや、昔男に移り舞」。。『松風』のシテのような激情はここにはなく、自分は形見の直衣を着ているだけ、男は再生していない事を、彼女は冷静に見つめます。そして男の幻影に自分を重ねる移り舞を舞うことを、彼女はこう言うのです「恥ずかしや。。」。。。ああ。いっそ狂ってしまった方がどれだけラクか。でも彼女には狂う勇気さえない。。この子は。。弱い子なんだな。。と ぬえは思います。これが「ぬえが使いたいのは「小面」に近くはあってほしいけれども、「小面」そのものじゃ困る。」と、この『井筒』の考察の16回目に ぬえが書いた理由なのです。「浅黄」と「顔長」はまさにそういう面だと。。ぬえは信じるのですが。。

さて今回使う装束はほぼすべて ぬえ所蔵のもので、前シテの唐織は紅白段色紙短冊文様の、これは国立博物館をはじめ、能楽師の家ならばどこでも所蔵している、どちらかと言えば文様としては平凡な唐織ですが「色紙短冊文様」が『井筒』の歌の贈答に通じるので選びました。これは「第一回 ぬえの会」で上演した『道成寺』のために新調したものです。その下に着る摺箔は、先日の鎌倉・建長寺での『隅田川』のために新調した、香色地金銀露芝文様の摺箔。そして後シテの下半身に着る腰巻は、ぬえが内弟子から独立するときに記念に作った紅白段金銀霞雪輪花包文様の縫箔です。これは古い装束の写真集から2領の縫箔を選んで、その文様を合体させて新しい装束を作り出した、ぬえのオリジナルデザインの装束です。ぬえはこの縫箔が大好きで、鬘物の能のシテの役ではほとんどこの縫箔ばかり着ています。長絹は、今回の「ぬえの会」のチラシ番組の写真でシテが着ている『井筒』専用の紫地の業平菱文様の長絹を師家から拝借して使うかどうか迷ったのですが、あえてそこには拘泥せず、ぬえ所蔵の古い紫地花籠露芝文様の長絹を使うことにしました。この長絹はとあるところから譲って頂いたものです。結局、このブログのタイトル画像にある、「第二回 ぬえの会」の時の『松風』とほとんど同じ姿で、同じ長絹、同じ縫箔を着ることになるのですが、まあ、写真を比べれば同じになってしまうけれども、舞台の絵づらとしては最高の取り合わせではないかと思っています。

型としては「かやうに詠みしも我なれば」とワキへ一度向くほかは、この後シテは一切ワキに語りかけませんね。そして「形見の直衣」と左袖を見、このときお笛は「呂ノ吹上」というとっても印象的な譜を吹いてくださいます。「恥ずかしや昔男に移り舞」とヒラキをし(ナシにも)、地謡の「雪を廻らす舞の袖」と後ろを向いて一旦クツロギ、笛が吹き出す頃に正面に向き直り、<序之舞>となります。

約10分かかる長い「序之舞」が終わると、ようやくエンディングです。

シテ「此処に来て。昔ぞ返すありはらの 地謡「寺井に澄める。月ぞさやけき。月ぞさやけき シテ「月やあらぬ。春や昔と詠めしも。何時の頃ぞや。筒井筒 地謡「つゝゐづつ。井筒にかけし シテ「まろがたけ 地謡「生ひしにけらしな シテ「老いにけるぞや 地謡「さながら見みえし昔男の。冠直衣は女とも見えず。男なりけり。業平の面影

「筒井筒、井筒にかけし」と大小前から正面に出ながら左袖を掛けるのは、井戸に袖を掛けて遊んだ二人のイメージだと ぬえは解釈しています。「生ひにけらしな」と地謡が謡ったところで、シテが「老いにけるぞや」と言うのは、ものすごい表現ですね。ただ、ぬえは「老い」ではないと思っています。やはりここは「生ひにけるぞや」と読んで、大人になっただけではなく、その時間さえもが過ぎ去った、と捉えておきたいです。「昔男の冠直衣」と角に出て扇をかざして頭の上の初冠を示し、左に廻って大小前に到り、「男なりけり、業平の面影」と井戸に走り寄るようにして薄を分け、井戸の中を深く見込みます。『井筒』という曲のクライマックスでしょう。

この際にシテから見て右側に付けた薄を扇で分けるか、それとも左袖を返して左側の薄を分けるか、という選択がシテに任されていて、こういう極端な型の違いが演者の選択に任されているのは かなり珍しいというべきでしょう。ぬえは今回は扇で薄を分ける事にしました。そそて。。ここで囃子と地謡がピタリと止み、静寂となります。よくできた演出だなあ。。

シテ「見ればなつかしや 地謡「我ながら懐かしや。亡婦魄霊の姿はしぼめる花の。色なうて匂ほひ。残りて 在原の寺の鐘もほのぼのと。明くれば古寺の松風や芭蕉葉の夢も。破れて覚めにけり 夢は破れ明けにけり。

「見れば懐かしや」と井戸の中を見込んでいたシテは「我ながら懐かしや」と少し下がって。。そしてシオリをします。三番目物の能でシオリがこの一度きり、というのも珍しいですが、どうも観世流の演者でこのシオリの型をされたのを ぬえは見たことがない。。あるいは ぬえの師家独特の型なのか。。でも、ぬえの師匠もよくこのシオリの型を省略される事があります。シオリというのは時間が掛かる型なので、次の型が忙しくなってしまうから、どの家にもある型だけれど、誰もやらないのかなあ。ぬえは初役なので、このシオリは省かずに演じることにしました。

「しぼめる花の色なうて匂ひ残りて」のところは常座のあたりで顔の前で両手を組み、扇で顔を隠すようにして下居して、花がしおれるような風情を狙います。ぬえの師家では、ここで右足の爪先を伸ばしてしまって、本当に小さくなるように演じる事になっています。また替エとして左袖を巻き上げてから両手を組む型もあって、ぬえは今回この型で演じてみる事にしました。ちょっと男っぽい型で、中性的な姿の『井筒』のシテには似合うと思います。

「夢も破れて」と常座でノリ込み拍子を踏み(これがまた良く効く拍子で。)、正面にヒラキをしてから定型の通り右ウケして左袖を返してトメ拍子を踏み、『井筒』の能が終わります。上演時間は平均1時間50分ほどとなっていますが、うまく謡を処理して、ダラダラとしないように勤めたいと思っています。。

なんだか最後は駆け足になってしまいましたが、これにて『井筒』の解説を一旦 了とさせて頂きます。このシテの性格について ぬえはさらに思うところがあるのですが、それを書く時間が許さないことと、上演前に書くことは「そのように見てください」とお客さまに無言の先入観を抱かせることになってしまいますので。。これはまた次の機会とさせて頂きたく存じます。

ぬえにとって『井筒』は背伸びに過ぎる能かも知れませんが、精一杯勤めたいと存じます。ご来場頂ける皆様にはこの場で改めまして御礼申し上げ、当日のご来場を心よりお待ち申し上げます。m(__)m

「第三回 ぬえの会」のご案内

『井筒』~その美しさの後ろに(その19)

2007-09-07 00:24:33 | 能楽
間狂言の「語リ」によって、さきほどの女が紀有常の娘の霊であることを悟ったワキは、在原寺に一夜を過ごして重ねての奇特を待ちます。

ワキ「更け行くや。在原寺の夜の月。在原寺の夜の月。昔を返す衣手に。夢待ち添へて仮枕。苔の莚に。臥しにけり 苔のむしろに臥しにけり

この謡の直後に登場音楽が演奏されて後シテが現れるので、後シテを待ち受ける謡、という意味で「待謡」と言われるものです。でもこのワキ、読経をしていませんね。

これは ぬえの師家の跡取りの梅若紀長氏が今年『融』を上演するときに気がついたらしく、師家の機関誌『橘香』に寄稿していたことなのですが、これまた ぬえも気がつかない事でした。ワキが「読経」をしない待謡。なるほど『融』はまさにその通りなのですが、そしてまた『井筒』も同じ。どうやらワキ僧が読経をしない「待謡」を持つ一群の曲があるらしいのです。

ワキが「読経」をしない、というのはシテの跡を弔ってあげない、というよりも、むしろ前シテの望みがそこになかったから、ストーリーの流れとしてワキは後シテの出現を純粋に待ち受ける、ということになっているのでしょう。なるほど、そう考えると「読経」をしないワキがここで何を言っているのか、ここにも意味があるようです。『融』では「なほも奇特を見るやとて。夢待ち顔の旅寝かな」。そして『井筒』では「夢待ち添へて仮枕。苔の莚に臥しにけり」。。どちらのワキも待っているのは「夢」なのですね。他の例もあるとは思いますが、今回は未調査ですが、でも、少なくともこの「夢を待つ」というワキの行為が、『井筒』のシテの性格を物語っているように思います。

ともあれ「待謡」の直後に囃子方が「一声(いっせい)」という登場音楽を演奏して、いよいよ後シテが登場することになります。前シテの登場音楽の一つ「次第」では、登場人物が一人のときはその役は舞台に入って(あるいは橋掛り一之松で)斜め後ろを向いて謡い出す約束事があることは以前に書きました。「一声」にも、それとはちょっと違った約束事があります。

それは「一声」のときは(と、もう一つ「出端」という登場音楽のときは)、登場する役者が幕が上がるとすぐに「右ウケ」といって一度右に向いて(つまり客席の方へ斜めに向いて)、それから改めて橋掛りへ向き直して、橋掛りへ歩み出るのです。これも理由はハッキリしない作法ですが、面白いことにはこの作法、例外があるのです。

その役が舟や車などの乗り物に乗る、という場面であれば、この「右ウケ」は行わないのです。『小塩』や『江口』など、作物の車や舟が出されるときはもちろんのこと、『鵺』や『玉鬘』など、作物は出さないけれど、シテが棹を持つことによって、舟に乗って登場した事を表す場合でさえ「右ウケ」はありません。「右ウケ」があるのは、あくまで「歩いて」または「天から下って」登場するなど、自分の体を使って登場した場合に限られるのです。

ところが、これまた面白いことに、師家の型附では『井筒』の後シテの登場の場面は「物着の心にて右ウケはナシ」と書いてあります。「物着」とは前シテが中入りせずに舞台の後方、後見座などで装束を着替えて後シテ、というか別人格の役に変身することで、「その場で」「いつの間にか」変身て本性を現した、という演出です。『井筒』には小書として「物着」になる演出が伝えられています。

いつの間にか変身したのならば、間狂言とワキが問答するのは矛盾するのではありますが、つまり「物着」の演出が『井筒』本来の姿で、中入する場合でもその心で勤めよ、その心を持って舞台に出るために、あえて「右ウケ」はするな、という意味なのでしょう。もっとも型附には「右ウケをしてもよい」というように並記されていて、実演上「物着」でない場合は、矛盾を生じた気持ちで舞台に出るのもまた演者の気持ちが整わないですから、「あえて物着の心に拘泥しないやり方で演じたい場合は、その選択も認める」という事が書かれているのでしょう。

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『井筒』~その美しさの後ろに(その18)

2007-09-06 01:38:08 | 能楽
「語り部」としての前シテ。それを無紅で演じることについては、可能性は可能性として今後の課題と致します。今回の ぬえは初役でもありますし、常の通り紅入の若い女の姿で上演しますので。。

しかし、ぬえはこの前シテが発する言葉には興味が尽きないです。塚に手向けをする姿をワキに不審されて答える言葉が「わらはも委しくは知らず候へども。花水を手向け御跡を弔ひ参らせ候」。。「よくわからない」と言うのです。ワキ僧の不審は解けず、業平にゆかりの者かと問われても「ましてや今は遠き世に。 故も所縁もあるべからず」と完全に否定。しかし地謡の上歌となって「これこそそれよ亡き跡」と、前言を翻すかのような口ぶりで旧跡を教え、その跡を懐かしむかのような風情を漂わせたかと思うと「まことなるかな古への。跡なつかしき気色かな」。。彼女は「古へ」の事実を知っているのでしょうか? 知らないのでしょうか。。?

ワキの問いをはぐらかすような前シテの言葉は、ただ夢の中に漂って、自分が存在する意義さえ見失っているかのよう。ところが、彼女の言葉は次第に現実味を帯びてくるのです。それは、クリの前のワキの問い「なほなほ業平、紀有常の息女の御事。委しく御物語り候へ」をキッカケにしています。

すなわち、この前シテはワキ僧が自分を弔ってくれる事を望んでこの場に現れたのではなく、業平の塚を守り、おそらくはその再生を願って「待っている」のでしょう。そんな彼女にとってワキ僧の出現は、神聖な再生の祈りの儀式としての塚への回向という、彼女の無限連鎖的な「存在意義」としての作業を遂行する上では邪魔な事件であったはず。それだから彼女はワキ僧に対して好意的とは言いにくい問答を交わしているのでしょう。ところが、僧に問われるままに語るシテは、次第に自分自身が過去の思い出の中に還ってしまう。。この能はそういう物語なのではないか、と ぬえは読みました。ワキの問いかけが引き金となって、過去に立ち戻ってしまうシテ。サシ~クセで『伊勢物語』と逆の順序で物語が展開するのも、次第に過去に逆行してゆくシテの姿です。立ち戻ったところで現実の時間は逆行はせず、幸せな時間は取り戻せず、苦しむばかりだというのに。。あ~あ、ワキも罪作りな。。

。。と、ここまで考えたところで、ぬえは「どこかで聞いたような物語の展開だな。。」と思い始めて、そして気がついた。これは『松風』とあまりに似たストーリーではなかろうか。永遠に繰り返される作業に埋没している「待つ女」。ワキの出現とその拒絶。問われるままに答えるうちに自分の過去に立ち戻ってしまうシテ。そのあまりに恋する男の装束を身にまとって懐旧の舞を見せる。。同じだ。。ぬえは世阿弥自身が否定しているけれども『松風』は世阿弥作に間違いないと確信していますが、この2曲がこれほど似通った展開を持っている事からもその可能性の補強になるかもしれません。それにしても、これほど似たストーリーで、これほど違う性格のシテが描き分けられるなんて。。作者が同じ世阿弥であるのが事実であるとすれば、これはまた、恐ろしいほどの才能と言うべきだと思います。

クセが終わるとシテは自分の本性をワキに告げます。

地謡「げにや古りにし物語。聞けば妙なる有様の。あやしや名のりおはしませ
シテ「真は我は恋衣。紀有常が娘とも。いさ白波の龍田山、夜半に紛れて来りたり
地謡「不思議やさては龍田山。色にぞ出づるもみぢ葉の シテ「紀有常が娘とも 地謡「または井筒の女とも
シテ「恥かしながら我なりと 地謡「言ふや注連縄の長き夜を。契りし年は筒井筒、井筒の陰に隠れけり 井筒の陰に隠れけり  〈中入〉

ワキに向かって「恥かしながら我なりと」と名乗ったシテは正面に向いてから立ち上がり、常座に行くと正面を向き、ヒラキ、または三足ツメてタラタラと下がり、面を伏せて消え失せた体となり、最後の「井筒の陰に隠れけり」と右へトリ、橋掛りへ向かいます。あと静かに歩んで幕に入るのですが、今回のお笛の一噌流では「送り笛」というアシライ笛を、シテが橋掛りを歩む間しみじみと聞かせてくれます。今回 ぬえが出演をお願いした一噌仙幸先生は、それはそれは美しい調子のお笛を聞かせてくださいます。ここはぜひお笛の演奏に耳を傾けて頂きたいと思います。聞いている ぬえも泣きそうになるもんなあ。。

そしてシテが中入すると、間狂言の里人が登場し、ワキに問われて業平と紀有常の娘との仲むつまじい昔物語を語ります。今回の間狂言も、あえて ぬえが大好きな三宅右近先生にお願いしました。三宅先生は「僕、井筒の語リって好きなんだよ」と言ってくださり、喜んでお引き受けくださいました。考えてみれば今回の「ぬえの会」は囃子方に ぬえが尊敬する大鼓の安福建雄先生(人間国宝)、小鼓にはいつも ぬえと気さくにお付き合いしてくださるけれども、関西では重鎮の域に達しられた久田舜一郎さん、そしてお笛の一噌仙幸先生、おワキには明晰で美声の森常好さん、さらに地頭には梅若会のエース、梅若晋矢さんと、それぞれ最強の布陣でお手伝い頂けることとなりました。あ~~ぬえ、いまから緊張しっぱなしなんですけど。。

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『井筒』~その美しさの後ろに(その17)

2007-09-05 00:33:32 | 能楽
クリ~クセ、とくにサシとクセの文章は『伊勢物語』の二十三段そのままの物語ですが、ここで注意しなければならないのは、同じ『伊勢』二十三段の二つの挿話~「筒井筒」の話と「風吹けば」の話~が、この能では順序が逆になっている点でしょう。井戸の筒で背比べをした幼い恋心の物語と、晴れて夫婦となったあとに、夫の異心が原因で夫婦の仲が崩壊の危機を迎えたとき、夫を「待つ」女の心によって夫が改心し、危機を乗り越えた、というお話。『伊勢』が時系列で二人の関係を描くのに対して、シテは現在の時点から過去に回想を巡らしているのです。

ぬえはね、最初ワキに問われて答えるシテの言葉に、とってもクールな印象を受けました。というか、この能全体を貫いて、シテの態度はとっても「孤高」。これはまだ ぬえが学生時代にはじめて『井筒』の本文を読んだときからずっと抱いていた印象で、これはなぜかな? とずっと考えてはいたのです。

今回、『井筒』の稽古を重ねているうちに。。とうとう そういう印象をこのシテから受ける理由を発見しました。

この曲のシテには、感情を表すセリフがほとんど無いのです。感嘆詞の中でも感情が露骨に表れる「あら」(あら恋しや、など)はまったく現れないし、わずかに感嘆詞と言える「ぞ」はキリの「何時の頃ぞや」と「老いにけるぞや」程度。感情が表れる言葉としてはロンギの中の「恥ずかしながら我なりと」と、序之舞の前の「恥ずかしや、昔男に移り舞」の2箇所の「恥ずかし」くらいなものなのです。それだけではなく、ワキとの問答の中でも丁寧語である「候」はわずかに「わらはも委しくは知らず候へども。花水を手向け御跡を弔ひ参らせ候」の2度だけ。あとは淡々と過去の物語や目の前の情景を描写するばかりのシテ。これが『井筒』の前シテを「孤高」に感じさせる理由だったのです。これは気がつかなかった。。そして。。感情の爆発たるセリフがたった1度だけあるわけです。

シテ「見ればなつかしや 地謡「我ながら懐かしや

感情の爆発と言ってもこの程度。やっぱりこのシテ。。老成しちゃっている、というか、「待つ」こと自体が生きる意味になってしまっているというか。。でもこの能の中では彼女はすでに死んじゃっているんですけどね。。沈鬱。懐旧。孤独。彼女にはそんな言葉が似合う。。というか、そんな言葉でしか彼女を表現できない、というところが何とも悲しい。

こんな前シテの姿からも、ぬえは無紅での上演もあり得るかな、と思います。ところが。。

以前、ぬえは梅若六郎師が『井筒』を上演されたのを拝見しに出かけて、驚くべき演出を見ました。クリで大小前から正中に出た前シテが、そこで床几に掛かったのです。床几に腰掛ける。。まあ、このクリ~中入まではシテも座りっぱなしで足がつらい場面でもありますので、体調によって床几に掛けられたのかもしれませんが、床几の演出をされた理由がそれだけではないことは明白でした。なんとシテはクセの冒頭「昔この国に。住む人のありけるが。。」と独吟されたのです。独吟はほんの2~3句だけだったかと記憶していますが、ぬえは水を浴びせられたように凍りつきました。

「あ。。『語り部』か。。!!」

前シテを「語り部」と捉える解釈。。それは衝撃的でした。語り部には若い女よりも老婆が似合う。。この時は常の通り紅入の若い女の姿で演じられましたが、六郎師は先日テレビで放映された「能狂言入門」でも『井筒』の後シテを「姥」の面で演じる可能性について言及されておられましたから、師の中では、この ぬえが拝見した公演が一種の実験であったのは間違いないでしょう。「姥」の面の是非、それを後シテで使う是非は ぬえにはよくわかりませんが、前シテを無紅の装束で「深井」で演じる可能性は、たしかにあると確信しました。

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『井筒』~その美しさの後ろに(その16)

2007-09-04 21:19:34 | 能楽
やはり『井筒』には「待つ女」というイメージが濃厚に漂っています。「待つ」という事は純粋な感情であるけれども、無邪気、とはちょっと違う。もっと陰影の濃い感情だと思います。小面という選択は、そこを見失いやすくなる傾きを持つんじゃないか、と ぬえは考えてしまって。ただ ぬえが師家所蔵の憧れの面は、限りなく小面に近い面であることもまた事実なんですが。。このへん、とっても微妙で説明が難しいのですが、ぬえが使いたいのは「小面」に近くはあってほしいけれども、「小面」そのものじゃ困る。。っていうような。。わかります? 結局、若女にしておくのが一番良いのかなあ、とも思っていますけれど。。

また『井筒』に「増」を使う方もおられますね。おそらく観世寿夫師が『野宮』あたりで「増」を使う試みをなさったのが三番目物に「増」が使われるようになった嚆矢だと思いますが、『野宮』ではよいかも知れないけれど、『井筒』ではちょっと怜悧すぎるような気もしますが。。「小面」「若女」「増」。。そして「深井」まで。これほど面の選択肢の広い曲もちょっと珍しいのではないかと思います。

地謡の上歌が終わるとワキがさらに問いかけをします。

ワキ「なほなほ業平、紀有常の息女の御事。委しく御物語り候へ

ここで地謡が「クリ」を謡いますが、本三番目と脇能の時に限って、囃子方が「打掛け」という手を打つまで地謡は待って、それから謡い始めます。三番目と脇能がほかの能よりも尊重されているため、クリの前に短いプロローグの演奏がされるのですね。実際には三番目では二クサリ(二小節)の「打掛け」を聞き、脇能では三クサリとなっていますから、神様が主人公の脇能の方がさらに荘重な感じにはなります。また三番目や脇能以外の曲でも、小書がついた場合に「打掛け」を聞いてから地謡がクリを謡う場合もあります。

「打掛け」の間にシテは大小前に行き、正面に向いて中ほどまで出て着座します。型としてはここから中入までほとんど動作はなく、要所要所でワキと向き合う程度。お客さまにとっては最も退屈な場面かも知れませんが、能が持つ「語リ」の要素がここで存分に発揮されるので、文意を活かして謡う地謡を聞いて頂きたいところです。

地謡「昔在原の中将。年経て此処に石の上。古りにし里も花の春。月の秋とて住み給ひしに。
シテ「その頃は紀有常が娘と契り。妹背の心浅からざりしに
地謡「また河内の国高安の里に。知る人ありて二道に。忍びて通ひ給ひしに シテ「風ふけば沖つ龍田山
地謡「夜半には君がひとり行くらんとおぼつなみの夜の道。行方を思ふ心遂げてよその契りはかれがれなり
シテ「げに情け知る。うたかたの 地謡「あはれを抒べしも理なり
「昔この国に。住む人のありけるが。宿を並べて門の前。井筒に寄りてうなゐ子の。友達かたらひて。互ひに 影を水鏡。面をならべ袖をかけ。心の水も底ひなく。うつる月日も重なりて。おとなしく恥ぢがはしく。互ひに今はなりにけり。その後かのまめ男。言葉の露の玉章の。心の花も色添ひて
シテ「筒井筒。井筒にかけしまろがたけ 地謡「生ひしにけらしな。妹見ざる間にと詠みて贈りける程に。その時女も比べ来し振分け髪も肩過ぎぬ。君ならずして。誰かあぐべきと互ひに詠みし故なれや。筒井筒の女とも。聞こえしは有常が。娘の古き名なるべし

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『井筒』~その美しさの後ろに(その15)

2007-09-03 01:29:06 | 能楽
それにしても、「草茫々として」と周囲を見渡す型は本当に良い型ですね。こういう型は面の善し悪しもすぐにわかってしまいますけれど。。ぬえも面は割と所蔵している方だと思いますが、女面はほとんど使い物になりません。それほど女面というのは難しいのです。たとえて言うなら、1mmの何分の一か肉を削るのが違ってもまったく違った面になってしまうのです。その点 ぬえの師家には、よくまあ、これほど良い面が集まったものだと思います。先日の虫干しの際にも所蔵面を一堂に出しましたが、まあ。。ため息が出るばかりでした。

そして ぬえは現代の能面作家とも何人か交友を持っていますが、やはりつくずく女面は難しいと思ったりします。師家で見る、そうだな。。江戸初期頃までの面、女面に限らずこの頃までの面が持つ力というのは、本当にすごいものです。これは なぜ現代ではできないんだろう。。? と ぬえがいつも思う事でもあります。ぬえは能は日本文化の中で咲いた大輪の花だとは思うけれども、これは毒を持った花なのだと思うのです。権力の中枢にいて生活が保証されていたからこそ能は洗練することができた、というのも一面の真実でありましょう。この文化を享受する人の蔭でバタバタと飢えて死んでいった人もいたはず。。この時代の能面の持つ力も、そういう怨念のようなものに裏打ちされているからに他ならない。そして能面作家も、良い面を打てなければ即、権力者の庇護を失って飢える身になることだってあったでしょう。そういう必死さがこの時代の面の力の蔭にある、と ぬえは感じます。民主主義の中からじゃ生まれないモノもある。それもまた事実なのです。。

そんなわけで、今回 ぬえは、装束はほとんど自分の所蔵のものを使うけれど、面は師家から拝借させて頂きます。じつは師家の所蔵面の中で、今回使いたいなあ。。と狙っている面もあるのですけれども、これはお許しが得られるかどうかは、現時点ではまったくわかりません。お許しが出なかった場合の事も考えて、第二希望、第三希望も ぬえの中で策略は持っておりますが。。

ところで『井筒』に使う面について、「深井」を使う場合もある、という記述が装束附にある、というお話を先日このブログでご紹介しました。これは ぬえも実見した事がないですし、現代では実際にそういう上演の例はほとんど、いやあるいは全くないのではないかと思います。観世流では三番目物の曲には「若女」を使うのが建前となっているので、実際にはこの面を使う例が最も多いのだと思います。

しかし三番目の能には「小面」を使う場合もあって、とくに『井筒』の場合はそれを選ぶ演者も比較的多いのではないかと思います。おそらくこの曲が「筒井筒、井筒にかけしまろがたけ」という幼なじみの恋物語をモチーフにしているから、というのが小面が選ばれる大きな理由だと思いますが。。ぬえはそれは ちょっと納得しかねる解釈です。幼い頃からの恋心が成就して男に添うことができたシテの女ではありますが、その後男は浮気をして河内の国高安の郡の女のもとに通った、と、『伊勢物語』の「井筒」の段である二十三段には続けられてあります。そして、そこに通う男の不実を知らないのか、彼女は出かける男を気持ちよく送り出して、「風吹けば沖つ白波龍田山」の歌をひとり詠んでその安否を気遣う。前栽の蔭でそれを聞いた男はこの女を愛おしく思って河内には通わなくなった、という結末が二十三段にはあって、これまた貞淑な女のイメージを語るエピソードではありますが。。

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『井筒』~その美しさの後ろに(その14)

2007-09-02 00:31:12 | 能楽
地謡「名ばかりは。在原寺の跡古りて。在原寺の跡古りて。松も老いたる塚の草。これこそそれよ亡き跡の。一叢ずすきの穂に出づるはいつの名残なるらん。草茫々として露深々と古塚の。まことなるかな古への。跡なつかしき気色かな。跡なつかしき気色かな

とても淋しい、それでいて趣のある名文ですね~。この在原寺は、いまは廃墟となっている廃寺ですが、じつは作品の本文中にはその事ははっきりとは書かれていません。ワキの言葉にも「これなる寺を人に問へば」とか「我この寺に旅居して」と具体的な表現はなく、キリにも「在原の寺の鐘もほのぼのと」とありますから、そこに住まいする僧がいる現役の寺(?)のようにさえ読めるのですが、ここは廃寺でないと能が生きてこないでしょう。この上歌の中に「在原寺の跡古りて」と「跡」という言葉があるし、シテの上歌の中で「人目稀なる古寺」とか「月も傾く軒端の草」」と、人気がなく雑草の生えた有様が描かれていること、そして分けても生活の必需品である井戸の作物に薄が付けられていることで生活臭のなさ、人がこの井戸で水を汲む作業を長いこと行っていない事が暗示されている、と考えるべきでしょうね。

そういえば。。「暁ごと」に「閼伽の水」を運ぶこの前シテ。。それなのに井戸は薄が生える放題になっているんですね。「人」が毎日通って水を汲んでいるならば薄がはびこることもないはず。。ひょっとすると、こんなところにも作者の「仕掛け」というか暗喩が隠されているのかもしれない。。

この上歌で前シテはいよいよ動き始めますが、これまたひたすら静かな動作です。

「名ばかりは。在原寺の跡古りて」この打切で後見はシテが先に舞台の床に置いた木葉(あるいは水桶)を取り入れます。シテは「松も老いたる塚の草」より正面に出、「これこそそれよ亡き跡の」と先を見込みます。ワキとの問答の中で「さればその跡のしるしもこれなる塚の陰やらん」と正面を向いたときに見る場所と同じところで、業平の墓である塚は角柱の先の方、お客さまから見ると井筒の作物の左の方に塚がある、ということになります。「一叢ずすきの穂に出づるはいつの名残なるらん」と今度は作物の薄の方へ向いて少し近づき、ヒラキ。「草茫々として」と右へ斜に向いて右・左と荒れた庭を見、「露深々と古塚の」と正面の塚を見ます。それから「まことなるかな古への。跡なつかしき気色かな」と左へ小さく廻って常座へ戻り、「跡なつかしき気色かな」いっぱいに正面に向きトメます。

このあたりの型は何通りかあって、「松も老いたる塚の草」と右へウケる定型の型をしてもよいことになっていますが、これはあとで正面に出るところが忙しくなってしまうためか、あまり行っている演者を見ません。また「これこそそれよ亡き跡の」と正面へ出てヒラキをする型もあり、その場合は「一叢ずすきの穂に出づるはいつの名残なるらん」は作物に向いてそばに寄るだけにします。どちらが型が効くかを演者が選択するわけですが、ぬえはやはり作物にヒラキをする方が自然なように思います。

「草茫々として」ここで右へウケて見回す型が『朝長』ととっても似た風情が出るところですが、ぬえ、去年その『朝長』を演じたせいか、紅入唐織で若女を掛けた姿でこの型をするのは難しいな、と感じました。yはり人生の陰影を色濃く表した表情を持つ深井でならば効くところです。どうもこのへんから、ぬえは『井筒』の前シテを深井を掛けた中年女性で演じるやり方も有効なんじゃないかと思い始めました。

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『井筒』~その美しさの後ろに(その13)

2007-09-01 01:40:10 | 能楽
サシ~下歌~上歌の間のシテの型は、下歌の中では「導き給へ法の声」と正へ二足ツメル程度。上歌の中は少々型がありまして、「松の声のみ聞ゆれども」と右ウケて見やる型があって(ぬえの師匠はその一句前、「眺めは四方の秋の空」からいつも右にウケておられます。文意に沿うように工夫されたのでしょう。今回も ぬえは師匠からその型にて勤めるよう稽古を受けました)、「嵐はいづくとも」と正面に直して少し出て下居、左手に持った木葉(あるいは水桶)を前に置いて両手を合わせて合掌し、やがて立ち上がって後ろに向いて少し戻り(立ち位置を直し)、「何の音にか覚めてまし」と上歌の止まり一杯に正面に向きます。木葉を下に置いて合掌するのはじつは意外に忙しい型です。水桶にすればあまり背中を丸くしないで床に置けるし、少しだけ手間もはぶけるのですが。。今回の ぬえはあえて木葉を持つことにしました。

シテの上歌が終わると、ワキの問いかけがあって、問答となります。

ワキ「我この寺に旅居して。心を澄ます折節に。女性一人来たり給ひ。これなる板井をむすび花を清め香を焚き。あれなる塚に回向なし給ふこと不審にこそ候へ
シテ「これは此のあたりに住む者なり(とワキへ向き)。この寺の本願 在原の業平は。世に名を留めし人なり。されば(と正面に向き)その跡のしるしもこれなる塚の陰やらん。わらはも委しくは知らず候へども。花水を手向け御跡を弔ひ参らせ候(とワキへ向きツメ)
ワキ「げにげに在原の業平は。世に名を留めし人なりさりながら。今はあまりに遠き世の。昔語りの跡なるを。かやうに弔ひ給ふ事。その在原の業平に。いかさま故ある御身やらん
シテ「故ある身かと問はせ給ふ(とワキへ向き)。その業平はその時だにも(正へ直し)。昔男と云はれし身の。ましてや今は遠き世に。故も所縁もあるべからず(とワキへ向き)
ワキ「もつとも仰せはさる事なれども。此処は昔の旧跡にて 
シテ「主こそ遠く業平の ワキ「跡は残りてさすがにいまだ 
シテ「聞えは朽ちぬ世語りを(とワキへ向き) ワキ「語れば今も シテ「昔男の(とツメ)

最初のシテの答えの部分「花水を手向け御跡を弔ひ参らせ候」と型附ではワキへツメる事になっていますが、そこではツメずに、二度目の答えの最後「ましてや今は遠き世に。故も所縁もあるべからず」とツメる演者が多いように思います。ツメ足はシテの言葉の強調なので、「このように弔っているのです」と、シテとは縁もゆかりもないワキに言う言葉を強調するよりもワキの「ゆかりがあるのでしょう?」という問いに対して「はるかな昔の人の事。ゆかりのあろうはずがありません」と言うときにツメる方が効くのは確かですね。ぬえとしては、こういう曲の、とくに前シテではできるだけ型附に忠実に演じたい、という気持ちもあるのですが、ここはどちらにしようかまだ迷っているところです。。

ついで地謡の上歌となり、ようやくシテは動き出すのですが、これまたとっても静かな型が続きます。でもこの上歌、詞章も美しいし、型も上手につけられています。そして。。ぬえはこの上歌の型には『朝長』の前シテがどうしても重なってしまうのです。型も共通している部分があるし。。これに気づいたところから、この『井筒』の前シテの性格について ぬえはいろいろと想像を巡らせるようにもなりました。

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