ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

ふたつの影…『二人静』(その4)

2014-06-30 18:28:48 | 能楽
ツレ菜摘女の帰参を見てワキはその遅参の理由を問います。問われたツレはシテと出会った先ほどの事件を説明するのですが、これが『二人静』の最初のクライマックスですね。

ワキ「何とて遅く帰りたるぞ。
ツレ「不思議なる事の候ひて遅く帰りて候。
ワキ「さて如何やうなる事ぞ。
ツレ「菜摘川の辺りにて。何処ともなく女の来り候ひて。あまりに罪業の程かなしく候へば。一日経書いて跡弔ひて賜はれと。三吉野の人。とりわき社家の人々に申せとは候ひつれども。真しからず候程に。申さじとは思へども。なに真しからずとや。
 とツレは正面に向きうたてやなさしも頼みしかひもなく誠しからずとや。

「現実の事とは思えないので申しあげずにおこうと思ったのですっが。。」とツレが言ったとたん、前シテの女が菜摘女に取り憑く場面で、役者としてはガラリと人格を変えることを謡だけで表現するので。まあ難しい演技でもありますが、最高にやりがいのある場面でもあります。これ以後ツレはシテの位を持って謡い、舞うことになります。いわゆる「両シテ」の曲、と言われる所以ですね。ぬえは今回、この場面を演じてみたくて、後輩にシテの役を譲って、あえてツレの役を所望しました。

さてその憑依についてですが、前シテはすでに菜摘女に「もしも疑う人あらば、その時わらはおことに憑きて。委しく名をば名のるべし」と宣言しているのですが、その文言によればツレ菜摘女が前シテと会った事件を勝手宮で正直に話し、また彼女の伝言。。「一日経書いて我が跡弔ひて賜び給へ」を伝えるのが前提で、そのうえで菜摘女の言動を信用しない者があった場合には、自分が菜摘女に取り憑いて名前を明かし、菜摘女の言葉が真実である事を証明しよう、というものでした。

が、結果はメッセンジャーたる菜摘女その人が、前シテと会った事件そのものが夢ででもあったかのように確信が持てない、と言い出したのでした。前シテとしては裏切られた気分だったでありましょう。そうしてこの「なにまことしからずとや」という語は、古語特有の簡潔な言い回しに過ぎないながら、現代ではその簡潔性が怒りを含んだ表現に感じられますし、また役者の演技としてみてもどうしてもこの一語は声の印象を変えて、しかも低い調子に改めて謡うことになるので、どうもこの一語に限っては厳しい憤りの表現になってしまいやすいですね。

が、これに引き続く謡の文言は大変流麗で女性らしい表現だと思います。

ツレ「ただ外にてこそ三吉野の。花をも雲と思ふべけれ。近く来ぬれば雲と見し。桜は花に現はるゝものを。あら怨めしの疑ひやな。 と左手にてシオリ

「吉野山全体にあちらこちらと咲き誇る山桜を遠望すれば、それは遠山にかかる白雲のように見えると古来言われているが、近づいてよくよく見れば、それは はっきりと桜の花だと判るものなのに」と婉曲な表現で、間近に会って伝言を託した私の姿をなお疑うとは、と、菜摘女の疑問を悲しむ言葉や姿は「なに真しからずとや」という強い印象を与える表現とは対極にある感じです。自分の存在を菜摘女に疑われたことに対する一瞬の心のさざめきと、それから死後も成仏できずに影のようにこの世をさまよう亡霊の孤独がにじみ出るような文章で、役者としてはそういう心の起伏を表現する場面なのでしょう。

ところで桜の名所である吉野秋の春の景色を雲と表現するのは『古今和歌集』から続く伝統で、紀貫之が記した「仮名序」にはこのように書かれています。

夕べ竜田川に流るるもみぢをば 帝の御目に錦と見たまひ
春のあした吉野の山のさくらは人麿が心には雲かとのみなむおぼえける


歌聖・柿本人麻呂の歌として貫之が引き合いの出したもので、能『嵐山』のワキの道行にも「三吉野の花は雲かと詠めけるその歌人の名残ぞと」、『桜川』にも「雲と見しは三吉野の」と見えるのですが、じつは人麻呂には吉野山の桜を雲に見立てた歌は存在しません。人麻呂という人についてはほとんど史料が残されていないので、あるいはその歌が伝わっていないだけなのかもしれませんが。。

余談ですが、雲のほかにも桜の花盛りの遠景を「雪」と見立てるのも和歌の世界では広く行われています。紀友則の歌「みよし野の山辺に咲ける桜花雪かとのみぞあやまたれける」(古今集)がおそらくその嚆矢で、能『桜川』にも「波かと見れば上より散る。桜か雪か」「花の雪も貫之も古き名のみ残る世の」などと見えます。

ふたつの影…『二人静』(その3)

2014-06-29 07:37:19 | 能楽
「上歌」の終わりに舞台中央に立ったツレ。彼女が向かった先は菜摘川のほとりですが、様子は広い野原のまっただ中、という感じに見えるかと思います。ツレの到着を幕内で見計らってシテは幕を揚げ、ツレへ向かって呼び掛けます。

シテ「なうなうあれなる人に申すべき事の候。

「呼び掛け」と呼ばれる、囃子を必要としない登場の形式ですが、橋掛リという能舞台特有の装置をたくみに活用したじつに効果的な演出だと思います。このとき、シテの姿は見所からはまだ見えませんで、呼び掛ける声だけが能楽堂に響きます。この形式で登場するのは ほとんどシテだけで、それも多くが幽霊の化身であるのですから、姿を見せず声だけが先に「登場」するこの形式は、いかにも神秘的な雰囲気になります。役者もその「神秘性」を最大限に発揮できるよう、この呼び掛けの「のうのう」には大変苦心しております。

呼び掛けのあと相手との問答の間にやがてシテは姿を現しますが、橋掛リを歩むので必然的に見所には横顔しか見せません。なかなか本性を露わにせず、神秘性を漂わせたまま問答の間に するすると相手に近寄ってくる不思議。考えてみると ちょっとホラーな演出ですが、幽霊の化身という役どころであれば、まさに相応しい登場の方法でもあります。

不意に呼び止められたツレはシテの方に向き直り、応対をすることになります。

ツレ「如何なる人にて候ぞ。
シテ「三吉野へ御帰り候はゞ言伝て申し候はん。
 とシテは橋掛リを歩み行き
ツレ「何事にて候ぞ。
シテ「三吉野にては社家の人。その外の人々にも言伝て申し候。あまりにわらはが罪業の程悲しく候へば。一日経書いて我が跡弔ひて賜び給へと。よくよく仰せ候へ。
 とシテは三之松辺にてツレへ向き

シテは前述のように唐織着流し姿で、右手に鬘扇を持って登場します。シテはツレの応対の文句の間にさらに歩みを進め、

ツレ「あら恐ろしの事を仰せ候や。言伝てをば申すべし。さりながら御名をば誰と申すべきぞ。
シテ「まづまづこの由仰せ候ひて。もしも疑ふ人あらば。その時わらはおことに憑きて。
 とシテは二之松辺りにてツレへ向き委しく名をば名のるべし。かまへてよくよく届け給へと。 とシテはツレへ詰メ足
地謡「夕風迷ふ徒雲の。 とシテは右へ廻りうき水茎の筆の跡かき消すやうに失せにけり とシテは幕際でヒラキかき消すやうに失せにけり。 とシテは幕に引く

地謡の終わりにツレは正面に向きますが、あるいは別の型でシテが幕に入るのをシテ柱のあたりまで行って見送る、という型もあります。いずれにせよツレはあまりに唐突な死者からの伝言に戸惑い、言葉を失ってしまう、という意味です。前者の型であればツレは茫然自失の状態でシテの姿を見失った、という感じでありましょうし、後者の型であれば「え。。? あの。。ちょっと。。」と混乱しながらも2~3歩進んで薄れ行くシテの姿を確かめようとするようで、すこし理性の働いたツレのイメージでしょうか。

前シテの登場は本当に短い間ですね。舞台に入らず橋掛リだけで演技をするのも『草子洗小町』や『善知鳥』などに類例はありますが、珍しい演出で、後の登場に期待感を高める効果があります。

シテが幕に入るとツレは急いで吉野の里。。勝手宮に戻ることになります。

ツレ「かゝる恐ろしき事こそ候はね。急ぎ帰りこの由を申さばやと思ひ候。

と、その場で正面に向いて謡うのですが、ツレが舞台中央に立っている場合はシテが幕に入ったのを見計らって(地謡が止まったら)このように謡ってからシテ柱に行き、ワキの方へ向いてあらためて舞台中央に着座します。またシテのあとを見送ってシテ柱に立っている場合は、その場で正面に向いて謡ってからすぐにワキに向いて、やはり中央まで行って着座します。

前者の型の方がツレが菜摘川のほとりの野辺から吉野の里に移動したことが明瞭ですね。後者の型は菜摘川から吉野へ瞬間移動した感じになります。能では常套手段ではありますが、やや唐突かもしれません。このへんはシテを見送る型を採るか、この吉野の里への移動の型を採るか、その効果を考えて役者が選択することになります。もっとも後者の型であっても、型附には書いてありませんけれども、「この由を申さばやと思ひ候」と二足ツメて、さて謡い切って二足クツロゲ、それからワキへ向けば、多少ではありますがツレが場所を移動したことを表すことはできます。

ツレ「いかに申し候。只今帰りて候。

ツレは謡いながら中央へ行き、着座しながら左手に持っていた手籠を前へ置きます。

着座することでそこは野原ではなく勝手宮になるわけで、またこのときワキは立って応対しますから、ワキとツレとの身分の関係も同時に示されることになります。

ふたつの影…『二人静』(その2)

2014-06-26 11:19:23 | 能楽
「一声」で囃子方が打つ特定の「手」を聞いて幕を揚げたツレは幕内で一旦右にウケ、それから再び向き直って橋掛リを歩み行きます。この右ウケは「一声」に限らず「出端」「早笛」「大ベシ」など多くの登場囃子で役者が登場前に行う、いわば儀式のような動作ですが演出上の効果はそれほどなく、意味も ぬえにはよくわかりません。。しかし演出について言えばこの右ウケがあるために幕を揚げてすぐに歩み出すことができず、お客さまから見て幕揚げから実際に役者が姿を見せるまでに「ほど良い時間差」が生まれるのは事実ではないかと思います。

意味に関して言えば、橋掛リが舞台の正面に対して横向きに取り付けられている、という能舞台の構造と何らかの関連があるのは想像することができます。見所に対して横向きの姿で登場し、長い橋掛リをそのまま歩むのですから、正面に正対して登場する、という心を表しているのかもしれません。

。。が、実際にはそう単純なことでもないようで、たとえば役者が乗り物に乗って登場する、という設定の場面では、役者は右ウケをしないで、幕を揚げるとそのまますぐに歩み出すのです。『小塩』の後シテなどが好例で、この場合は乗り物というのは花見車です。もちろん役者はその乗り物に乗ったまま橋掛リに登場するのではなく、「一声」の演奏が始まると花見車は後見によって舞台に運び出され、その後シテが橋掛リを歩んでこの車の作物の中に立つことになります。『鵺』や『玉鬘』の前シテなどでは舟に乗って登場する、という設定ですが、作物さえ出しません。この場合はシテが手に竹の櫂竿を持って登場することで舟を漕いでいることを表現するのですが、やはり乗り物に乗って登場している設定ですので右ウケの動作はないのです。

能の、このような何気ない動作にはある重要なメッセージが隠されていることも多いですね。たとえば「運ビ」と私たちが呼んでいる、いわゆる「すり足」の歩行法ひとつをもっても神道の歩行法である「反閇」(へんばい)の影響が指摘されるように、この右ウケにも深い意味があるのかもしれません。これは今後の宿題ですね。

さて橋掛リに登場したツレ菜摘女は舞台に入りシテ柱に立って「一セイ」という形式のリズムに合わない謡を謡い出します。「一声」で登場したから「一セイ」なのでしょうが、それに限らずイロエという短い舞の前など、場面のひと区切りとなる箇所にも置かれることがあります。形式としては五・七・五・七・五(または七・五・七・五の場合も)の文字数で、きらびやかな節が付けられているのが大きな特徴です。『弱法師』『葵上』などではこの「一セイ」のあとに「二ノ句」という、七・五・七・五(または五・七・七・五)文字の付け句がある場合もあって、そちらの方が正式と考えられています。

ツレ「見渡せば。松の葉白き吉野山。幾世積りし。雪ならん。 と二足下り

これにて大小鼓は演奏にひと区切りをして、ノリのない、いわゆる「アシライ」と呼ばれる演奏に変わります。ツレは謡い続けますがこれは「サシ」と呼ばれる小段で、「サシ」は「一セイ」と同じくリズムに合わせない謡い方をするのですが、文字数にも句数にも制限はなく、延々と長い独白のようなものもあります。どちらかといえば「一セイ」が叙情的な内容であるのに対して「サシ」は叙事的なことが多く、場面の説明をしたり、独り言を言ったり、という場面に使われます。

囃子方が「一セイ」と「サシ」とで打ち方を変えるのも、その内容と無関係ではないでしょう。おそらく「一セイ」は叙情的な謡の内容に唱和するように気分を盛り上げるのであり、「サシ」では謡が語る内容を見所に明瞭に届けるために、控えめな「アシライ」で雰囲気づくりに徹するように作られているのだと思います。

ツレ(サシ)「深山には松の雪だに消えなくに。都は野辺の若菜摘む。頃にも今や。なりぬらん。思ひやるこそゆかしけれ。

ここにて大小鼓は「打切」という手を打って、ツレもその「打切」の1小節の間だけ謡うのを休んでひと区切りをつけます。次に謡われるのは「上歌」(あげうた)で、これは拍子に合う謡です。能の中では代表的な小段で、1番の能の中でワキもシテも、地謡によっても何度も謡われ、能の台本の骨格をなすと言える小段でしょう。

それだけに内容は千差万別で、「上歌」という名称はその形式を表す呼称に過ぎません。ワキが謡う「道行」。。これから起こる事件の現場に歩を進める紀行文としても、同じくワキが謡う「待謡」。。前シテが中入してから、その正体を知って後を弔う場面など後シテの登場を予感させる場面で謡われるのも形式としては「上歌」の一種。形式としては上音と呼ばれる高音から謡い出し、最初の句はプロローグとして再び大小鼓の「打切」の手を挟んで同じ句を繰り返し、それから本文が始まります。謡本(台本)としては数行の分量で、文章としては途中に小さな区切りがあって、そこにハッキリと区切りをつけるために「打切」がさらに挿入されることもあります。終わりは音が下がって、始まりと同じようにトメの文句を二度繰り返して終止します。

「上歌」では笛の「アシライ」が彩りを添えますが、これがとても効果的ですね。これも最初の「打切」の中、途中の区切りの部分、終わりの繰り返しの部分、の3カ所に吹く定型がありますが、パターンが決められてあるにもかかわらず、どの上歌にとってみてもうまく雰囲気に合う譜だと思いますし、また合わせることに笛の役者さんが心を砕いています。

ツレ(上歌)「木の芽春雨降るとても。木の芽春雨降るとても。なほ消え難きこの野辺の。雪の下なる若葉をば今幾日有りて摘まゝし。春立つと。云ふばかりにや と右ウケ三吉野の山も霞みて白雪の消えし跡こそ。道となれ と中へ行き消えし跡こそ道となれ。 と正面向きトメ

言っておかなければならないのは、『二人静』のこの場面はツレが謡うので、シテのようにならないように台本が万事簡略化されていることです。

たとえば「一セイ」には「二ノ句」はなく(二ノ句がある方が稀ではありますが、ツレの一セイであれば二ノ句まで付けられることはあり得ないでしょう)、「サシ」も短く、そしてメッセージと言うべき内容がほとんどありません。『二人静』のツレが謡う「サシ」は、早春の雪解けの頃の風情を見ながら遠い都の華やかさを萌える春の芽吹きになぞらえて憧れを語っている程度で、この菜摘女がまだ夢見るような可憐な少女であることを印象づけようとしています。

それから「一セイ」「サシ」「上歌」と続く構成。これも本来であれば「上歌」の前に低音を基調とした短い小段「下歌」が挿入されることが多いのですが、『二人静』では省略されています。

続く「上歌」もまた短く作られています。内容としては菜摘川のほとりの野辺に歩み行く行動をやや叙情的に描いていて、ワキの「道行」に似た構成で、動作もこの上歌の中盤から始まり、右ウケてあたりの景色を眺め、やがてツレは舞台の中央に歩み行きますので、これで菜摘川に到着したことが説明されます。この曲にはワキの「道行」はありませんから、あえて叙情的な紀行の場面をツレに受け持たせたのでしょう。

文章を見てみると勝手宮から遠くない菜摘川へのお出かけなので具体的な地名を織り込んではいませんが、やはり「一セイ」や「サシ」と同様に、わざと叙情的な言葉が選ばれている印象を受けます。具体的な地名や自身の思いをハッキリ言わずに、ただ心うれしく春の野に遊び出た少女、という風情なのだと思います。

ふたつの影…『二人静』(その1)

2014-06-25 00:43:15 | 能楽
さて毎度 ぬえがシテを勤めさせて頂く祭に行っております上演曲についての考察ですが、例によって舞台の進行を見ながら進めてゆきたいと考えております。しばしのお付き合いのほど。

お囃子方の「お調べ」が済み、お囃子方と地謡が舞台に登場、所定の位置に着座すると、すぐにワキは幕を揚げて橋掛かりに登場します。幕が開くのを見て笛が吹き出します。ワキの登場の代表的な演出で、「名宣リ」と呼ばれるこの登場の方法はワキの登場に限って用いられる決まりになっています。笛が吹き出すと大小鼓はすぐに床几に腰掛けますが、打ち出すことはなく、あくまでワキの歩みの彩りをするのは笛方の役目。「次第」や同じくワキの登場で用いられる「一声」など登場の囃子にはそれぞれの特徴がありますが、「名宣リ」はその中ではもっとも情緒的な印象を受けますね。

『二人静』のワキは勝手宮の神主で、風折烏帽子、長絹、白大口の姿です。神主の出で立ちとしては翁烏帽子、白の縷狩衣、白大口の方が一般的ではありますが、ときにこのような貴人の扮装になることがあります。

またワキのあとに続いて間狂言が登場します。神主の従者または下人の役で、狂言肩衣の姿で右手に太刀を提げています。太刀持ちの役どころで、これによっても神主の身分が高いことが象徴されています。なおこの間狂言の役は能の冒頭で神主に命じられてツレの菜摘女を呼び出すセリフを言うだけなので、省略して出さない場合もあります。

シテ柱に立ったワキは「名宣」を謡います。

ワキ「これは三吉野 勝手の御前に仕へ申す者にて候。さても当社に於き御神事さまざま御座候中にも。正月七日は菜摘川より若菜を摘ませ。神前に供へ申し候。今日に相当りて候程に。女どもに申しつけ。菜摘川へ遣はさばやと存じ候。

ワキは舞台の中の方へ歩み出しながら間を呼び出し、以下問答となります。

ワキ「いかに誰かある
間「御前に候
ワキ「菜摘みの女に疾う疾う帰れと申し候へ。
間「畏まって候。


シテ柱にて下居し左手をついてワキの用件を聞いた間は幕に向き、菜摘女に早く帰参するよう呼び掛けます。
間狂言を省略する場合はこの問答と次の呼び掛けの場面がなくなり、すぐにツレの登場になります。

間「いかに菜摘みの女。今日は何とて遅く候ぞ。とうとう罷り帰り候へや。

この間にワキは脇座に着き、間はツレの登場音楽「一声」の間に切戸口より退場します。

「一声」は大小鼓がリズミカルに演奏し、笛は拍子に合わないアシライ吹きで彩りを添える登場音楽です。ワキに用いる例はそれほど多くありませんが、シテ方にとってはおなじみでシテにもツレにも、さらに子方にも広く登場の場面で用いられます。

ツレの菜摘女の装束は唐織着流しの姿で、面はツレ用の小面、摺箔、唐織、鬘帯という取り合わせで、左手に手籠を持っています。じつは前シテも唐織着流しで、ツレと同じ装束なのですね。本来こういう場合、ツレはシテよりも品位を落とした装束の選択をします。たとえば摺箔はシテが金箔のものを、ツレは銀箔のものを着たり、唐織もシテが地紋が段になっているものを使えばツレは赤地一色のものを用いるなど。

ところが『二人静』の場合、それでは困ることもあります。後に相舞を舞うときに、まったくの同装である方が似つかわしく、摺箔もシテと同じ金箔のものを用いるのは普通に行われますね。先ほども言いました通り『二人静』は両シテの曲なので、ツレの装束の品位を落としてしまうと相舞の映りが悪くなってしまうのですね。

もっとも唐織に関してはそういう心配は無用です。後にツレが舞の装束を着る「物着」の段になったとき、ツレはこの唐織を脱いでしまうのです。そのために唐織の中にもう1枚、縫箔を着込んでおりまして、これは後シテとまったく同じ文様の縫箔です。物着で唐織を脱いでしまって、その下に着込んでいた縫箔と、それからワキから渡された長絹を羽織った、それまでとはまったく違った姿になり、そうして楽屋ではシテがツレと同じ文様の縫箔と長絹を着て、さて登場するとまったく同じ扮装の二人が舞台に並ぶことになります。

。。ここまで書いて、お気づきになった方もあると思いますが、師家には『二人静』専用の、同じ文様の長絹・摺箔・縫箔の1セットの装束があります。これは『二人静』のときにしか使用しません。

話は戻りますが、ツレの装束と前シテの装束は同じ唐織着流しであるのですが、近来それを嫌ってツレの装束を替えることがしばしば行われています。

すなわちツレの装束を縫箔を腰巻きに着けて、その上に白水衣を羽織る、というものですが、『求塚』の例に倣ったものでしょう。この装束にはいくつかメリットがあって、まずは物着の手順が簡略になり着替えの時間が短くて済むこと。それからもちろん前シテとの同装を避けることで、これにより後に長絹を着た後シテが登場したときに初めてシテとツレがまったく同じ装束になり、お客さまの印象が深くなる事を意図していると思います。

もっともデメリットもありまして、水衣を着た場合、下半身に着けている縫箔は最初から丸見えになるので、後の物着で初めてシテと同装になる、という事と矛盾を来します。菜摘女は前シテと出会う前からこの縫箔を着ているのですから、これと同じ縫箔を着た後シテ。。静の霊が登場するのはおかしなことです。言うなれば菜摘女の縫箔を模倣した縫箔を後シテが着て登場することになってしまうので。。

とはいえ、それは理屈でして、実際には膝から下しか露出していないツレの縫箔が前シテとの問答の間にお客様に特別な印象を残すことはないでしょう。それよりも前シテとツレが違う扮装をしていることが、仕事をしているツレ菜摘女と、得体の知れない里女たる前シテとの性格の違いを際だたせますし、後の装束のシンクロを引き立たせることにもなり、これらのメリットが舞台効果として断然有利なので、ツレが水衣を着る工夫は半ば公式に近い演出になっていると思います。

梅若研能会7月公演

2014-06-24 22:17:01 | 能楽
もう来月ですが…来る7月31日、師家の月例会「梅若研能会7月公演」にて ぬえは能『二人静(ふたりしずか)』のツレを勤めさせて頂きます。すでにこの世を去った人物が現実の人間に憑依して昔の物語をする、というのは能では常套手段ではありますが、この『二人静』だけは憑依された人物(菜摘女)が舞いながら物語を始めると、その憑依した本人(静御前)が現れ、二人は寄り添うように同じ動作の舞(相舞)を見せる、という趣向がいかにも特異です。

相舞がある曲はほかに『小袖曽我』や『三笑』『東方朔』などがありますが、憑依された人物とした側の本人の二人が登場するという発想は『二人静』だけにしかありません。視界がほとんど奪われた状態での相舞はかなり高度な技術を要求を役者に課しますが、あらかじめそれを計算に入れて作られた能ではないかと ぬえは考えております。

大和国三吉野の勝手神社では正月に若菜を神前に供える神事のため、神主(ワキ)が女(ツレ)を菜摘川に派遣します。早春の野に出た菜摘女を不意に呼び止める声。いつのまにか現れた女(前シテ)は自分の罪業の悲しさに、吉野の里人、わけても勝手神社の人々に弔いを頼むと伝言を託します。あえて名乗らず、不審を表す人がいれば菜摘女に取り憑くと言い残して。。恐ろしさに逃げ帰った菜摘女は神主に子細を話しますが、「まことの事とは思えない」と口走った途端、その態度が急変します。女の霊が菜摘女に取り憑き、自分が静御前の霊であると明かします。神主は弔いの代わりに有名な静の舞を所望し、菜摘女に取り憑いた静は自分の舞の衣裳を勝手宮に納めたと言います。はたして宝蔵からは舞の衣裳が発見され、それを着た静は舞を舞い始めます。と。。そこに、まったく同じ衣裳を着たもう一人の女。。静の霊が現れ二人は寄り添うように吉野を落ちて行った義経のこと、捕らわれて鎌倉に送られた静が頼朝の所望で心ならず舞を舞ったことを物語り、重ねて弔いを願うのでした。

古来「両シテ」と言われる能で、この曲のツレはシテと同格とされています。それどころかツレはシテよりもずっと舞台に登場している時間が長く、そのうえ静の憑依により人格が変わる演技など、難しくも演じがいのある役で、今回は ぬえ自身がツレ役を所望して勤めさせて頂くことになりました。平日の公演ではありますが、どうぞお誘い合わせの上ご来場賜りますよう、お願い申し上げます~

梅若研能会 7月公演

【日時】 2014年7月31日(木・午後5時開演)
【会場】 観世能楽堂 <東京・渋谷>

    仕舞 柏 崎     梅若万三郎
        羽 衣キリ   梅若 志長
        葵 上     梅若久紀

 能  二人静(ふたりしずか)
     前シテ(里女)/後シテ(静御前) 梅若泰志
     ツ レ(菜摘女) ぬ え
     ワ キ(勝手宮神主)福王和幸/間狂言(下人)善竹富太郎
     笛 藤田貴寛/小鼓 幸正昭/大鼓 佃良太郎
     後見 梅若万佐晴ほか/地謡 梅若紀長ほか

   ~~~休憩 15分~~~

狂言 清 水(しみず)
     シテ(太郎冠者) 善竹十郎
     アド(主 人)   善竹富太郎

能  鉄 輪(かなわ)
     前シテ(女)/後シテ(女ノ生霊) 長谷川晴彦
     ワキ(安倍清明)村瀬慧/ワキツレ(男)矢野昌平/間狂言(社人)善竹大二郎
     笛 栗林祐輔/小鼓 鳥山直也/大鼓 大倉栄太郎/太鼓 梶谷英樹
     後見 中村裕ほか/地謡 梅若万佐晴ほか
                     (終演予定午後8時25分頃)


【入場料】 指定席6,500円 自由席5,000円 学生2,500円 学生団体1,800円
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

例によってこちらのブログで作品研究。。というか、上演曲目の考察を行いたいと考えております。併せてよろしくお願い申し上げます~~m(__)m

決算報告書(2014.05.18~19)

2014-06-22 00:10:10 | 能楽の心と癒しプロジェクト
能楽の心と癒しプロジェクト
第22次被災地支援活動
(2014年05月18日~19日)


 〔決算報告〕

 【収入の部】
     前回活動繰越金       82,101円
     募金収入              5,000円
     活動時募金収入          97,500円         収入計  184,601円

 【支出の部】
  〈活動費〉 32,900円
    ◎交通費        31,640円
     (高速道路通行料         14,010円)
     (ガソリン代            8,430円)
     (ガソリン代            9,200円)
    ◎印刷費        1,260円
     (チラシ印刷費           1,260円)        支出計    32,900円

 【収支差引残額】                          残額    151,701円

※注※
・今回の活動までに直接頂戴した募金1件5,000円(クラチさま)、現地活動中に頂いた募金5件(茶道裏千家気仙沼地区会さまより40,000円、北野神社菅原秀紘さまより5,000円、煙雲館ワークショップご参加のみなさまより15,000円、柳津虚空蔵尊ワークショップご参加のみなさまより37,500円)がある。大変ありがたい事で各位に御礼申しあげる。なおワークショップのご来場者さまから頂いた参加費はプロジェクトの活動への応援と捉え、入場料・参加料ではなく募金として取り扱うこととした。
・プロジェクトの活動にかかる支出については節約を旨とし、おおよそ次のような基準を設けている。①高速道路の利用については体力や公演スケジュールも鑑みるが、休日・深夜割引を利用するなど工夫する。②宿泊はボランティア団体や個人宅に泊めて頂くなど節約するが、継続して活動を続けるボランティア団体が減少し、また市民生活も通常の落ち着きを取り戻しつつあることから、現状では旅館等の宿泊施設を利用する機会が増えた。その場合の宿泊費の基準としては、素泊まりとし、おおよそ5,000円程度までに収める。③食費については旅行がなくても掛かる費用であること、酒食の区別がつきにくいため参加者の自費負担とする。
・収支差額は今後の活動費用として活用し、支出明細を明らかにする。
・今回は煙雲館や裏千家気仙沼地区会、柳津虚空蔵尊さまの献身的なご協力を頂いて2度の有料ワークショップを行うことができた。その結果プロジェクトの活動資金も少々余裕が出る結果となった。昨年10月第16次活動の頃の30万円ほどの資金には遠く及ばないものの、本年の活動を継続できる見通しが立ったことは大変喜ばしいことである。今後も被災地でイベントやワークショップに限り有料の上演を行う予定であるが、会場の条件により募金を募る場合もある。また被災地以外の場所でも活動報告会を開いたり、引き続き企業スポンサーなどを探す努力を重ねたいと考えている。銀行口座への募金も引き続き呼び掛けさせて頂く。
・消費増税、また高速道路利用料の割引縮小という厳しい状況であるが今回は往路は東京~仙台、帰路も松島~東京間と高速道路の利用距離が少なかったことと、往路は休日割引の適用があったために多少節約になった。またチラシ印刷も格安の業者プランを新たに開拓し、大幅に印刷費の節約をすることができた。今後も変わらぬご助力をお願い申し上げる次第である。

 【振込先】三菱東京UFJ銀行 練馬光が丘支店(店番622)普通預金 口座番号 0056264
名義 ノウガクプロジエクト ハツタタツヤ

                                           以上
  平成26年5月28日

                           「能楽の心と癒しプロジェクト」
                               代表   八田 達弥
                               (住所)
                               (電話)
                               E-mail: QYJ13065@nifty.com
↓領収証は次頁以下に添付


活動報告書(2014.05.18~19)

2014-06-21 00:05:53 | 能楽の心と癒しプロジェクト
能楽の心と癒やしプロジェクト
第22次被災地支援活動
(2014年05月18日~19日)


 〔活動報告書〕

【趣旨と活動の概要】

 東日本大震災被災地支援を目指す在京能楽師有志「能楽の心と癒やしプロジェクト」では、能楽の持つ邪気退散、寿福招来の精神を被災地に伝えるべく、2011年6月よりすでに21度に渡り岩手県釜石市、陸前高田市、宮城県石巻市、気仙沼市、南三陸町、女川町、東松島市、仙台市、大崎市、登米市および福島県双葉町の住民が避難していた旧埼玉県立騎西高校避難所にて能楽を上演することによって被災者を支援する活動を行って参りましたが、このたびプロジェクトメンバーのうち能楽チームの八田、寺井は、去る05月18日~19日の2日間に渡り宮城県・気仙沼市および登米市にて能楽ワークショップを行いました(※注2)。

今回の活動は2つの有料ワークショップというところが、これまでのプロジェクトの活動とは一線を画すものです。それというのも震災から3年を経てプロジェクトの活動資金の原資としての募金がほとんど頂けなくなり、活動について現実的な困難に直面したことによります。我々プロジェクトのような活動を続ける団体の中ではかなり長い期間、心ある方々から募金を頂戴し続けてきたのもまた事実で、プロジェクトの活動にご賛同ご協力頂きました方々には改めまして御礼申しあげます。

しかしながら現実には4月からの消費増税、高速道路の通行料金の割引制度の撤廃および縮小が活動にかかる基本的な支出を圧迫している事情もあります。また一方プロジェクトでは仮設住宅や仮設商店街への慰問活動のほかに、「文化の復興」の目標を持って、音楽家等とのコラボレーションによる「星と能楽の夕べ」「能とピアノの夕べ」などのイベントを展開して参りました。これらの共演者の交通費等につきましても、同じボランティアだからといって全額の負担を求めるばかりでは活動の将来性の展望は開けず、その一部をプロジェクトから支出しており、これまた活動費を圧迫する原因となっております。

団体として活動を継続するため、また被災地の復興の現状から考えて、活動を有料にすべき というご意見は、1年くらい以前からでしょうか、他ボランティア団体からも何度か助言を頂いておりますが、プロジェクトとしてはあの震災のあまりにも深刻な被害を見て、被災地に寄り添いたい、という気持ちの原点を考えるとなかなか踏み出せないでおりました。

そこで、実際の活動の継続が困難になる現実を見据えて、プロジェクトの活動を大きく2種類に考え、一部の公演を有料化することに致しました。すなわち「文化の復興」のための「公演」を広く被災地の市民を対象に行い、ワンコインか千円程度の入場料を頂戴すること。仮設住宅の慰問や仮設商店街の振興のお手伝いとしての活動はこれまでどおり無償奉仕とし、「公演」で得た資金をもとに活動を継続する、ということです。前述の他ボランティア団体からは「仮設住宅での活動であっても有料で良いのではないか」とご意見を頂いてはおりますが、プロジェクトとしては当面、それは無償での活動として続けてゆきたいと考えております。「公演」については有料である以上、ある程度以上の内容の質を確保すること、宣伝に力を入れなければならないこと、などこれから考えていかなければならない点は多いと思いますが、とりあえず方針を上記のように定めることに致しました。

今回の活動は実質的なその最初のもので、2つのワークショップはいずれも「公演」です。それであればプロジェクトの「支援活動」には当たらないのではないか、とも考えましたが、「文化の復興」も復興を目指すのは支援活動の一環でありますし、また実際のところ、どちらの公演にも仮設住宅にお住まいの住民さんが参加してくださいましたことを考え、「支援活動」と考えることに致しました。
会場となった気仙沼の煙雲館は現ご当主の鮎貝文子さまのご厚意を頂き、茶道裏千家気仙沼支部会さまの会員さまが多数参加くださり、また気仙沼市民でプロジェクトの協力者である村上緑さんの活躍により事前の宣伝活動が周知された結果、一般のお客さまも多くご参集くださいました。また今回はじめて活動させて頂く登米市の柳津虚空蔵尊さまは、石巻の湊小学校避難所時代に活動をご一緒させて頂いた古川の神戸さんのご紹介でした。副住職さまの奥様である杉田史さんは「お寺カフェ」「お寺マルシェ」を開催したり、また独自に被災地の支援活動を行っておられる活発な方で、こちらもご厚意により宣伝の労に努力頂いたほか、宿泊・食事までおもてなし頂きました。まことにありがたく、改めまして御礼申しあげます。

2度の公演により、おかげさまをもちまして活動資金を頂戴することができ、プロジェクトの今年の活動の継続についても見通しが立てられる状態になりました。これらは決算報告書で明細を明らかに致しますが、関係各位のご協力によって達成できたもので、重ね重ね御礼申しあげます。

【出演者】
八田達弥、寺井宏明(能楽の心と癒やしプロジェクト)
【協力者】(敬称略)
 村上緑/鮎貝文子(煙雲館)/茶道裏千家気仙沼支部会/佐々木優子/柳津虚空蔵尊/杉田史/浅野ゆか
【主催】
 能楽の心と癒やしプロジェクト

【活動記録】(敬称略)
 5月17日(土)
八田のみ昼に東京出発、今回 煙雲館で上演する能『松風』の後見を勤める村上緑さんの稽古を仙台で行う。ご友人の浅野ゆかさんが稽古の会場として自宅を提供くださり、また食事・宿泊もお世話になりました。

 5月18日(日)

寺井が夜行バスで仙台に到着、3人で気仙沼に向かう。途中南三陸町の田束山の つつじを見、「しろうおまつり」で賑わう歌津復幸商店街にご挨拶、今後の活動の相談をする。

◎「能楽の心と癒やしをあなたに」
14:30~ 能『松風』 出演(八田・寺井、後見=村上緑、佐々木優子)
煙雲館ご当主・鮎貝文子さまのご挨拶、寺井による解説に続き能『松風』の上演。終了後に能楽ワークショップを行う。茶道裏千家気仙沼支部会さまのご厚意により大勢の会員さまがお見えになり盛況だったほか、終了後には会食もご用意頂き、大変ありがたいことでした。後見の大役を果たされた村上緑さんはじめ関係各位に御礼申しあげます。

終演後、緑さんを気仙沼市内にお送りして、南三陸町のホテル観洋にて入浴、それより登米市の柳津虚空蔵さまに到着。杉田史さんに食事と宿泊のご用意を頂き、翌日のワークショップのことや今後の計画などを話し合う。

 5月19日(月)

◎「能楽の心と癒やしをあなたに」
14:00~ 能『羽衣』 出演(八田・寺井)
副住職さまの奥様である杉田史さんが宣伝に尽力くださり、40名ほどのお客さまがお見えになった。
史さんのご挨拶、寺井の解説、能『羽衣』の上演、能楽ワークショップという構成は前日と同じ。
仮設住宅の住民さんもお見えになる。

これにて今回の活動は終了、深夜にならずに東京に到着しました。

【収入・支出】

震災から3年が経ち、ほとんど募金が集まらなくなり、プロジェクトの活動資金は大変厳しい状況に陥りました。これにより「文化の復興」活動の一部を有料化することとし、今回は試みとしての上演となりました。結果的には大成功で、本年の活動全体について見通しが立つ状態にまで資金状況が改善されました。詳しくは決算報告書を参照ください。

プロジェクトの活動資金としては、前回活動の繰越金が82,101円あるほか、前回活動でご一緒した寺井の笛の生徒さんから募金を頂戴し、これによって繰越金を含めた活動開始時点での資金の総額は87,101円となります。また今回の活動中に茶道裏千家気仙沼支部会さまより40,000円、煙雲館にお出ましになった一般のお客さまからの入場料15,000円、気仙沼北野神社の菅原宮司さまより募金5,000円、柳津虚空蔵さまでのワークショップの入場料37,500円を頂戴し、収入の合計は184,601円にのぼりました。

一方支出は、増税によるガソリン価格の高騰も現在までのところ影響は見られず、また東北までの往路は東京~仙台間と短かったのに加え、土曜であったため高速道路利用料は休日割引の対象となりました。さらに宿泊は柳津虚空蔵さまのご厚意によってご用意頂きました。またチラシ印刷費も寺井が安価な業者を開拓してくれ、これらの要因によって支出はかなり切りつめられ、ガソリン代、高速道路利用料、チラシ印刷費の総額で32,900円に抑えることができました。次回活動の繰り越し金は差し引き151,701円となります。

プロジェクトの訪問公演の支出につきましては節約を旨としております。交通費節約のため、できるだけ深夜割引の制度を利用して終夜運転をして早朝に現地に到着するなど工夫はしておりますが、体力や公演スケジュールによって、必ずしも深夜走行ができない場合もあります。宿泊につきましては、従来は住民ボランティアさま等のご厚意により無料、または安価での宿泊ができましたが、街が落ち着きを取り戻しつつある昨今では旅館などに宿泊する機会も増えてきました。この場合にも宿泊費はおおよそ5,000円まで、素泊まりを旨としており、食費については酒食の区別がつきにくいため、すべて自己負担としております。

【成果と感想・今後の展望】
今回は歴史建築と寺院での2回のワークショップのみの活動となりました。まずはプロジェクトの活動資金を捻出するために始めた計画ではありましたが、結果としてお客さまにもお喜び頂くことができ、またプロジェクトの活動資金も良好な状態に改善されました。今後も有料公演は随時開催してゆく予定ですが、無償奉仕の仮設住宅への慰問、仮設商店街の振興のお手伝いなどの活動も継続して行ってゆく予定です。また今回も気仙沼市民の村上緑さんの活躍はめざましく、煙雲館との交渉、宣伝チラシの配布などに尽力頂きました。改めまして御礼申しあげます。

震災3年目を迎え、仮設住宅や仮設商店街もいずれは解消されて、いずれは次の段階へと進んでいくことになりますが、我々の活動もその時々の状況に応じて形を変えていく事になります。息長い支援のために皆さまの変わらぬご支援をお願い申し上げる次第です。

平成26年6月20日
                             「能楽の心と癒やしプロジェクト」



                               代表   八田 達弥

                                   (住所)
                                   (電話)
                                    E-mail: QYJ13065@nifty.com

第22次支援活動<気仙沼市・登米市>(その7)~柳津虚空蔵尊さまで能楽ワークショップ

2014-06-20 11:34:59 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【5月19日(月)】

さてこの日ワークショップを行わせて頂く予定になっている柳津虚空蔵尊さまですが、まず触れておかねばならないのは、お寺のシンボルとなっている大鳥居でしょう。同じ登米市の横山不動尊さまにも鳥居がありましたが、つい200年前までは普通だった神仏混淆の名残を色濃くとどめているのがお寺にある鳥居です。しかも柳津虚空蔵尊さまの大鳥居はあまりに巨大で一度見たら忘れられないほどです。あ~画像がない~

ご本尊であり、お寺の通称になっている(寺号は「宝性院」さま)伝行基作の虚空蔵菩薩像は秘仏で、なんと33年毎に開帳となるのだそうで、次回は再来年の平成28年だそうです。をを、再来年か。





虚空蔵菩薩像がご本尊というお寺は珍しいと思いますが、寺伝では大伴家持の言として同じく行基作と伝わる虚空蔵像はほかに福島と山口の2体があり、これらをして我が国の三大虚空蔵尊とした、とされています。

実際には福島の圓蔵寺の「福満虚空蔵尊」は寺伝で空海作と伝えられ、山口の湘江庵のそれはよくわかりませんでした。面白いのはこれらの三大虚空蔵尊を擁するお寺がある地名がそろって宮城県登米市津山町柳津、福島県柳津町、山口県柳井市にあることで、虚空蔵菩薩像が有名なお寺は茨城県東海村や三重県伊勢にもあり、また行基作の伝を持つ虚空蔵菩薩像は鎌倉や京都、新潟にもあるので、この家持が指摘したとされる三大虚空蔵尊への注目点は、むしろ「柳」という語にあるかもしれません。これは面白い発見があるのではないかと思いますね~。

さてこの日のワークショップは午後からで、お昼ご飯を「お寺cafe 夢想庵」で お蕎麦をご馳走になり(美味!)、さて準備に取りかかりました。

展示の装束は玄関前に飾り、床の間のあたりに面や楽器、扇などを並べます。今回も有料のワークショップなのでわざわざ衣桁を車に積んできましたが、やはり装束の展示は良いですね~





やがて開演。およそ40名ほどのお客さまが集まってくださいました。地元の登米市津山の方が多かったのですが石巻からも松島町、東松島市からもお客さまがお見えになった模様。またあとで聞けば仮設にお住まいの住民さんも何人か顔を見せてくださったそうです。

史さんのご挨拶に続いて笛のTさんの解説、能『羽衣』ダイジェスト版の上演、そうして能楽体験コーナーと続くのは仮設住宅でいつも行う方式です。











でもこの日は持参した面、装束、楽器の分量がかなり多めで、能を身近に感じて頂けたことと思います。





いつの間にか史さん、今日は笛に挑戦してました~



ちょっと時間は押し気味でしたが、最後にお客さまおひとりにモデルになって頂き、装束の着付け体験。仮設住宅での活動では、能の上演よりもむしろ体験コーナーに時間をとって、住民さんに1日遊んで頂くのですが、これまでいろいろな事を試してきましたが、ぬえの印象では装束の着付け体験が一番喜ばれますね。とくに仮設では震災で着物を流されてしまって、その後一度も着物に袖を通していない、という住民さんも多いですから。。





こうして今回も無事に活動を終えることができました。ミッション・コンプリート! 柳津虚空蔵尊さまでは秋頃にロマンチックな公演を行う計画が進行中です!

お土産買う時間が今回はなかったなー、というわけで、帰り道に石巻市の道の駅「上品の郷」(じょうぼんのさと)に立ち寄りました。ここは三陸道の「河北I.C」にほど近くて便利ですねー。農産物直売所やレストラン、コンビニのほか日帰り温泉や足湯まであるのです。石巻立町の仮設商店街に立ち寄れなかったのは残念でしたが、ここでお土産を買い込んで、夜あまり遅くならずに東京に帰り着くことができました~

                                  (この項 了)

第22次支援活動<気仙沼市・登米市>(その6)~柳津虚空蔵尊さまに到着~

2014-06-16 16:39:52 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さて気仙沼から登米市の柳津に向けて走り出し、途中 南三陸町のホテル観洋さんの日帰り温泉を利用して入浴しました。ここにはこの日初めて館内に入ってみたのですが、震災3か月半目の2011年6月末に ぬえが初めて被災地を訪れたときにもどうもお風呂の営業をしていたようで不思議に思い、そのときは高台にあるホテルだから大丈夫だったのかなあ? と単純に考えていました。

が、実際には津波の直撃を受け、道路網も寸断されて(震災直後は 南三陸町は陸の孤島と化して近づける方法がほとんどなかった)、志津川の住民さんの避難所となっていたのですね。当時の記録がホテルによって公開されていますが、ぬえが訪れた頃は海水を淡水化する機械が導入されてようやく毎日お風呂に入れるようになり「ようやく普通の日常生活を送れる様になりました」という頃だったようです。

南三陸ホテル観洋「3.11からの記憶」

この日はとっても広いロビーに驚きましたが、かつてここも避難者の生活スペースだったのですね。ロビーの一角には震災の被害を伝える写真も展示されていました。

入浴を済ませて柳津虚空蔵尊さまに到着。副住職さまの奥様である杉田史さんが待ちかねて、ご馳走を用意してくださいました!! すんごい豪勢なんですけど。。今回は仙台、気仙沼、柳津とおいしいものばっかり頂戴しております。ご存じの通り活動中はいつもほとんどコンビニ弁当ばかり食べているから、こんなおいしいものばっかり頂くのは初めてかも。。

で、史さんにちょっと鼓の体験をしてもらいました! 楽しそう。



この夜は秋に予定している虚空蔵尊さまでの能の上演のことについてなど、いろいろな話をして更けてゆきました。史さんにはいろんなアイデアがあって、聞いていても興味が尽きないです。お寺のお嫁さんとして積極的なアイデアを発信して、お寺cafe「夢想庵」を開いたり(おそばを前回の打ち合わせとこの翌日に頂戴しましたが びっくりするほど美味! あとケーキも激旨ですっ)、「お寺マルシェ」を催したり。ぬえたちの上演も「お寺サロン」という形になるらしい。

それと特筆しておかなければならないのは、史さんが行っている支援活動でしょうね。この夜 ぬえたちが泊めて頂いた部屋には、史さん「ごめんなさいねえ、ちょうどいま支援物資が到着していて。。」とおっしゃるように段ボール箱が積み上げられていました。

聞けば気仙沼・階上の「波路上保育所」の支援などもしておられるということで、意外なところで ぬえと繋がりました。もっとも ぬえがこの保育所の支援をしたのは ひょんな事からで、しかも伊豆の子ども創作能の出演児童のママさんから使わなくなった遊具を少々持参した程度なのですが、史さんの支援はもっと大きなもので、たとえば会社の支援を受けてその遊具をしまっておくプレハブ小屋を寄贈したり。保育所のほかにも子供服や寝具の寄贈などから、大きなものだと南三陸町の漁師さんに船を寄贈する橋渡しをしたりしておられます。ちょっと ぬえとはスケールが違った。

この日は夜に虚空蔵尊さまに到着したので画像があまりありませんが、お寺のことやワークショップについては次回触れるとして、翌日に撮った「お寺cafe 夢想庵」の画像を少しアップしておきますねー










第22次支援活動<気仙沼市・登米市>(その5)~お世話になった方々。Thank You!

2014-06-15 03:08:25 | 能楽の心と癒しプロジェクト
前回の気仙沼・煙雲館でのワークショップの記事について、さらっと書いたつもりだったのですが意外な反響がありました。。うん、どうも ぬえ、自分で思っている以上に気仙沼ネットワークに組み込まれているのかも。そういう、人脈が次々に広がっていく躍動感が あの街にはありますね。文化程度も相当に高い街だし、都会だな、って思うもの。。そういえば緑さんが前に言っていたな。

「若い人はキライなんですよ。出て行きたいってみんな思う。私もそうだった。。でも震災があってこの街に目を向けざるを得なくなって、そのとき思ったんです。私、やっぱり気仙沼が好きなんだなあ。。と」

その気持ち、なんかわかる。。大きな節目があって、初めて今まで顧みることのなかった普通の物事の本質が見える、ということはあると思います。その節目は気仙沼の場合、あまりに傷みを伴いましたが。。でも、この街を愛する人を ぬえはたくさん見てきました。それは心強く ぬえの心を打つものです。ぬえなんかよそ者で支援活動なんて言っても何をすることもできない身だけれども、前進する彼らはそんな ぬえを暖かく迎え、そうして応援してくれます。いろんな事を得た3年間でした。そうそう。今月末で ぬえの活動も3年目を迎えるんです。

さて話題は戻って、思わぬ反響があったから、前回の記事でついつい書き損じてしまった協力者のこともきちんと書かねばね! すみませんでした、スキップしたわけではなく、後見に貢献してくれた、コーディネートはこうでねえと! という活躍を見せた緑さんのことを書いていたら紙幅が尽きたのどした。

能『松風』の副後見をしてくださった佐々木優子さん! 緑さんの後見の仕事は前もってメモを郵送して、それでもあまりの心労のため ぬえは宮城県入りを急遽1日早めて仙台で緑さんに後見の稽古をつけたのですが、こちら副後見は主後見のアシスタントとはいえ、やはり物着を手伝うので大変な役目でした。緑さんを通じてメモは事前にお渡しして頂きましたが、稽古は上演当日、開演前の1回だけでした(!)。主後見と比べれば仕事の分量は少ないとはいえ、なんせ身近とは言い難い能の後見。。しかも物着までやらされて。。 ところが実際の舞台ではソツなくこなした貴女は偉い!

ちなみに緑さん、例の ぬえが書いたメモを見て『松風』の後見があまりの大役だと気づき、優子さんにメモを渡すタイミングを すっごく考え抜いたんだそうです。ヘタなタイミングで渡したら、せっかく引き受けてくれた副後見なのに、びっくりして逃げられちゃうかも、ですって。なるほど~~!(←他人事)

いや、優子さんは緑さんより度胸が据わっている方とお見受けしましたよ~

それから『松風』上演後のミニ・ワークショップでは装束の着付けを行ったのですが、そのモデルになってくださったのは宮川さゆりさんでした。

こちらは着付けをしている画像がなくて記事ではひと言しか触れなかったのですが、じつは活動の後facebookでつながりまして。さゆりさんのページでご自分が着付け体験をしている画像をアップされました。それがこちらの画像。すみません拝借します~



じつは大鼓の体験をしたのも さゆりさんのご子息だったんですね~



もうひとつ。緑さんの後見の稽古のために前倒しで仙台に入った ぬえでしたが、その日緑さんが泊めて頂く予定だったお友達のお宅に結局 ぬえもお邪魔してそこで稽古をさせて頂いたのですが、夕食をご馳走になったばかりか、ご厚意を頂いて、宿も決めていなかった ぬえまで快く泊めてくださいました。

この方。。ゆかさんは料理研究家さんで、ぬえは思わぬご馳走にありついてしまったのでした! あ~ありがたい。。と思っていたら、なんと今日、その ゆかさんが、8月に予定している気仙沼での催しをご覧にお出でになり、それどころかその夜に宿泊する自炊式の宿にまでご一緒してくださり、またしてもて・て・て・手料理をふるまってくださるかも~、ですって。Wow!

第22次支援活動<気仙沼市・登米市>(その4)~煙雲館で能楽ワークショップ

2014-06-11 15:02:10 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さてやがて車を走らせて、気仙沼・松岩の煙雲館に到着しました。この3月にもお邪魔させて頂いたここは、歌人・落合直文の生家であり、伊達藩の家老職にあった鮎貝家の邸宅であり、そして市指定の文化財である庭園を持った、気仙沼有数の名家です。ご当主の文子さんのご厚意によってこの日、能楽ワークショップを開かせて頂くことになりました。



この日はご当主・文子さんのお計らいにより、わざわざ ぬえたちプロジェクトの活動の日にあわせて定例の茶道の集会を開いてくださり、その会員の方に大勢お見え頂きました。そのほか緑さんの活躍により市内のあちこちにポスターを貼って頂いたおかげで多くの市民の方もお出まし頂いたようです。

この日の上演曲は『松風』。被災地では久しぶりの上演曲ですが、なんといっても大変なのは後見で、舞台上での物着(シテの装束を替える)の作業があるのです。このときの活動に先立つ4月の活動で、緑さんに後見の打診をしたところ快諾頂きまして、ぬえから物着の手順を記したメモを郵送したのですが。。

やはり、これほどの大役とは思っていなかったらしい(笑)。いや、事前に説明はしたんですけどもね。

手元にメモが到着したら緑さんから連絡きまして。。「吐きそう。。」ですって。そうかもー(^o^)

とはいえ以前には石巻の雄勝で同じ『松風』を上演したことがありまして、そのときも市民の協力者の方に後見をお願いし、まあ無事に上演することができました。それに気をよくしての今回の上演ですが、「吐きそう」に思うのは、まあ責任感が強いからですよね。おかげさまでミスもなく立派に後見の大役を果たしてくれました。













『松風』上演後はお待ちかね! の体験講座。今回は四拍子のすべてを持参し、面も装束もたくさん持参したのですが、あまり時間がなく、簡単な囃子の体験のほか装束をお一人に着て頂きました。











終了後、例によってお食事のおもてなしを頂きました。文子さんのお孫さんかな、今年の3.11の黙祷のとき、無邪気にはしゃぎ廻っていて、その歓声が ぬえが撮影したビデオにも残されていますが、その子たちとお母さんともしばし歓談。このブログでも紹介しましたが、あの黙祷のときの子どもの歓声は、変なことを言うようですが、とっても良かった。犠牲も大きかったけれど、ちゃんとこの街で子どもたちは明るく育っているのです。その暗澹たる「死」への思いと、現実に「生」を謳歌する子どもたちの歓声は、3年目を迎えるこの時期だからこそ思う、不思議な協調を感じました。

それから能の間に最前列でずっと正座して見ていた小学生~中学生とおぼしき女の子たち。多少足がしびれていた、とはあとで聞いたけれど、彼女たちは茶道を習っているのですって。きちんと端座して舞台に注目している姿はとっても清々しかったです。

この日はプロジェクトとして初めての有料の催しで、おかげさまを持ちまして次回の活動の資金面の問題はクリアできそうです。またお食事会では毎度ながらご馳走を頂きまして。。すいません ぬえ、いつも遠慮がなくて。。

こうしてみなさんにお礼を申しあげ、緑さんを気仙沼市内にお届けしてから次の公演地である登米市の柳津に向けて走り出しました。

なおこちらは気仙沼市に入ってすぐの小泉の海岸です。煙雲館に向かう途中で立ち寄ったのですが、ここには海の中に建つように被災建物がずっと残されたままです。

この日はちょっと近くまで行ってみようという気になり、国道からはずれて海辺まで行ってみると。。





津谷川の護岸を兼ねて海まで突き出した堤防は破壊されたままで、建物は海の中で波に洗われています。小泉海水浴場があった青い海と青い空。本当に気持ちの良い日だったのですが、それだけにこの被災建物が異様です。



何枚か写真を撮って車に戻ると緑さんが「ここには昔、遊園地があったんだよ~」と言います(!)

あとで調べてみれば、「南三陸シーサイドパレス」というレジャー施設だったのですね。ホテルやボウリング場も備えた遊園地として70年代に建てられたのですが、わずか3年でオーナーが代わり、その後経営難のため80年代には閉鎖された、10年あまりの短命の遊園地だったようです。

閉鎖後 遊具は撤去されましたが建物のいくつかは放置され、一部のいわゆる「廃墟探検マニア」には知られていたようです。いま海の中に残っているのはホテルの部分で、その手前に土台だけが残るのはボウリング場のようですね。この建物の周囲には駐車場もあったし、また海との間には松林があったのを古い画像で確認しましたが、津波による破壊と地盤沈下でこのような形になってしまったようです。

第22次支援活動<気仙沼市・登米市>(その3)~歌津復幸商店街「しろうおまつり」

2014-06-02 02:02:36 | 能楽の心と癒しプロジェクト
田束山を後にして一路気仙沼に向かう。。はずのところ、山を下りてすぐの「伊里前復幸商店街」に立ち寄りました。笛のTさんが最近懇意にしているそうで、能の上演の話も出ているとか。それはありがたいことです。

歌津地区の伊里前(いさとまえ)に仮設商店街が建てられたのは、ぬえも震災後の早い時期から見て知っていました。ここにはJR気仙沼線の歌津駅があり、駅舎は現在でも残されています。標高15mあった歌津駅は津波の被害がなかったように ぬえはずっと思っていましたが、じつは海側からは見えない反対側。。下り線ホームは途中からレールごとなくなっているのだそうです。震災後JR気仙沼線がBRTに代わるに従って、この駅舎は使われないことになり、「歌津駅」のBRTバス停は地上面に下ろされました。高台にあった旧駅舎は海沿いの集落からは長い階段を上らなくては到着できず、少々不便だったと思いますが、ようやくその不便も解消。。とはいえ集落がなくなった今ではそのありがたみもないか。。しかしながら新しい歌津の駅舎はこの伊里前復幸商店街の間近になりました。

とはいえ ぬえも何度もここで買い物をしたことはありますが、もともと山に囲まれて小さな地区だった歌津でもあり、復幸商店街もそれほど賑わっているようには見えなかったのもまた事実でした。同じ南三陸町の志津川に建てられた「さんさん商店街」と好対照かな。。とも思っていたのですが。。

ところがこの日復幸商店街は大変な賑わいでした。これまで見てきたどの仮設商店街よりも。。いや、ちょっと比較にならないほどの人出。たくさんのこいのぼりも青空に泳いでいました。





この日、商店街では「しろうおまつり」というイベントを開催していて、それにお客さまが集まった模様。小学生限定で金魚すくいならぬ「しろうおすくい」があったり。





無料の「しろうお おどり食い」もあり。これは ぬえも頂戴しました。こういうの、はじめて。ポン酢? のようなタレを入れたコップにスタッフさんが 今そこで掬った しろうおを入れて渡してくださり、それを ぐぐっとひと息に食べる、というもので、一時は残酷の代名詞のように言われた時期もありますが。。おいしいだから野暮なこと言わないの。





会場には南三陸町の ゆるキャラ「オクトパス君」も来ていました。笛のTさんもうれしそうです。



なおこの伊里前復幸商店街には、例の、当地のコンビニ前に設置されていながら津波によって2400キロ流されて沖縄・西表島に流れ着いた郵便ポストが震災時の画像とともにテントの中で展示されています。ポストは一時 東京・新宿に短期間 展示されたこともあって、それは ぬえも拝見しているのですが、その後このポストは「ポストくん」と名づけられて。。志津川のオクトパス君に対抗する歌津の ゆるキャラを目指しているのかしら。この日はテントは中に入れないようになっていました。

ステージイベントもありましたが、こちらのステージは常設なのですって。この日は地元のバンドが出演していましたが、ぬえたちも いつか出演させて頂きたいなあ。



商店街の責任者の方にご挨拶をさせて頂きましたが、この日は大賑わいだが、やはり平日ほとんど客足がないとのこと。震災の記憶の風化とともに各地の仮設商店街は苦戦を強いられていると聞きますが、やはりここも同じ苦労があるようです。

がんばっぺ歌津・伊里前復幸商店街!

第22次支援活動<気仙沼市・登米市>(その2)~田束山、上りました

2014-06-01 23:17:02 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【5月18日(日)】

翌朝、泊めて頂いただけでなく朝食までご馳走になって、緑さんに再度後見の稽古をつけてから、泊めて頂いたお宅を辞しました。夜行バスでこの日仙台に到着した笛のTさんには昨夜のうちに連絡をとってこの朝最寄り駅まで来て頂いて、さてこの日の上演地である気仙沼に向けて走り出しました。

本来気仙沼までは東北道で一関まで行ってから延々と一般道を通って行くのが普通ですが、念のためカーナビで調べたところ、仙台から国道45号線を通って沿岸を通って行っても所要時間は極端には変わらないことがわかりました。それならば、と ぬえは即座に一般道を選択。ひとつには高速道路の通行料金を節約するためでもあり、また沿岸の被災地区を見続けてきたため、定点観測的に変化を感じたかったため。そうしてさらにもう一つの理由は、ツツジの季節だから、です。

。。実際のところ、ぬえたちプロジェクトが支援活動を続ける宮城県の沿岸地域というのはツツジの名所が多いですよねえ。気仙沼の徳仙丈山、石巻にも。。これは季節に上ったことはないのですが、牧山の頂上付近にはツツジの群生があったと思います。どうもいずれも野生というよりは意図して植えられたツツジ苑のような感じかな、とは思うのですが、規模は「苑」なんてものじゃないです。もう、山の頂が一面のツツジ。それも麓からは窺い知れず、その山に上った者のみが見れる壮観です。いずれも車道が整備されているので車で10分かそこら上ればそれは眼前に繰り広げられる。。

。。とは言うものの、ぬえはあまりツツジの盛りには当たったことがありませんで。石巻・牧山に上ったのはまったくの季節はずれ。去年上った気仙沼の徳仙丈山も少し時期が早かったようです。

今度こそは、ということで、今回は南三陸町の歌津から上る田束山(たつかねさん)に行ってみることにしました。

。。驚いた。これをパラダイスと呼ばずして何と表現しよう。山道のいくつかのカーブを過ぎると、突然真っ赤に染まった山頂が見えてきました。すごい! すごい!





山頂には駐車場が整備された展望台もあって、ここに車を停めてみると、まさに壮観。。ツツジがあり、山の新緑があり、そして入り組んだリアス式の面白い海岸線と。。そして真っ青な海。壮観、なんて言葉じゃ形容できない強烈な自然と生命の力を感じる風景です。この地形は「美しい!」と人に驚嘆させようとわざわざ神様が用意したとしか考えられない。。じつは東京で見る、なんだか毒々しいトゲを感じるツツジの色が好になれない ぬえ。。でも京都・詩仙堂の入口脇に立つキリシマツツジを見てからツツジが好きになりました。だからツツジの季節にはいつも複雑な思いもあったのですが。。この日の田束山は ぬえを圧倒してしまいました。

聞けばツツジの満開はもう数日先だろう、とか、濃霧がかかって海が見えない事も多いんですよ、とか。不運なのか幸運なのかよくわからない。でもこのツツジの花の色に誘われた ぬえは、Tさんと緑さんが展望台にいる間、ぬえはどんどん遊歩道に迷い込んで行くのでした。







ほどなく、というかほとんど起伏もなくたどりついた頂上には経塚の跡が保存されていました。この山は古来霊場で、数多くの塔頭が建ち並ぶ荘厳な地だったのです。ああ、そうだよね。ぬえも神の創造を感じたもの。